Libo

十八、地理章

明 · 姚际隆 · 第15巻 / 31

作盤ガイド: 六爻納甲の立卦, 大衍筮法

殺生身莫將吉斷,用克世勿作凶看。蓋生中有刑害之兩防,而合處有克傷之一慮。夫世身二爻,莫不喜生合,而惡傷克。若執定是法推之,則所謂膠柱調瑟,而不能達其變矣。豈所謂變易之道耶?且如日辰、動爻來生合世、身,而日辰動爻繫是主象之忌神,則雖生合於我,亦何益哉。況生合之中,有刑、有克、有害,故見殺生身者,不以為吉。又如主事爻動來克世克身,乃是事來趕我,必然易成易就,我雖見克,亦何傷哉?故云:克世者不以為凶。此乃卜易之活法,通變之妙理,學者所宜潛玩也。

凶煞が身を生じに来るは、便ち吉と断ずべからず。用神が世を剋しに来るは、凶として看るべからず。生のうちに刑と害の両様の防ぐべきあり、合のうちにも剣傷の一層の慮るべきあればこそ。世爻・身爻は生合を喜び傷剣を悪まざるなし。しかしこの条の法則に死執して推せば、瑟柱を膠住して瑟を調ずるが如く、変化に通じず、何ぞ変易の道ならんや。たとえば日辰・動爻が世身を生合するに来るが、この日辰動爻は恰も用神の忌神なれば、それは我に生合すと雖も、また何の益処かあらん。いわんや生合のうちに刑を夾み、剋を夾み、害を夾むをや。ゆえに凶煞の身を生じに来るを見て、これを吉と為さず。また主事の爻が発動して世を剋し身を剋しに来るは、それは事情が自ずから我を求めて来り、必然に成り易し。我は剣されると雖も、また何の妨げかあらん。ゆえに世を剋るを凶と為さずと言う。これ卜易の活法、通変の妙理で、学者は潜心玩味すべきである。

刑害不宜臨用,凡遇刑爻為主象,必主不利。占事事不成,占物物不好,占病病必死,占人人有疾,占婦人必不貞潔,占文書必有破綻,占訟利必有罪責。害爻為主象,必壞事。大概與刑爻相類。化入者亦然。然又須以衰旺分其輕重詳之。死絕豈可持身;死絕二爻,臨持世身主象者,必不利。占人有難,占病無救,占醫無效,占事不濟。變動化入者亦然。

刑爻・害爻は用神の上に臨むを宜とせず。およそ刑を帯びた爻をもって用神と為せば、必ず不利を主る。事を占えば事成らず、物を占えば物好からず、病を占えば病必ず死し、人を占えば人に疾あり、婦人を占えば必ず貞潔ならず、文書を占えば必ず破綻あり、官司の勝負を占えば必ず罪責あり。害爻をもって用神と為すも必ず事を壞し、大致刑爻と相類す。用神が刑害の爻を化出するも同じ。ただしさらに衰旺に就いて軽重を分かちて細看すべし。「死」「絶」の二位は何ぞ身世に持臨せんや。死・絶の両爻が世爻・身爻あるいは用神に臨持すれば、必ず不利で、人を占えば人に難あり、病を占えば救なく、医を占えば薬に効なく、事を占えば済まず。用神が変動して死絶に化入するも同じ。

動逢沖而事散,沖之一字,不可一例推之。如空爻逢沖則實,動爻逢沖則散,又謂沖脫。靜逢沖則動,又謂沖起。故凡動爻逢沖,吉不成吉,凶不成凶也。絕逢生而事成。大凡世身主象,臨乎死絕之地,而臨遇生扶者,乃為凶中有救,大吉之兆也。《天玄賦》有絕處逢生一篇,苟能沉潛玩味,玄妙自能採取。然所謂生者,不可執定日辰斷之,動爻月建皆是也。且如寅日酉用,而有辰戌丑未爻動,是為絕處逢生也。午日寅用,而有亥子水爻動,是死處逢生也。餘以類推之。

動爻が冲に遇えば、事情は便ち散ず。「冲」のこの一字は一概に論ずべからず。空爻が冲に逢えば虚より実に転じ、動爻が冲に逢えば涣散してまた「冲脱」と言い、静爻が冲に逢えば動きてまた「冲起」と言う。ゆえにおおよそ動爻が冲に逢えば、吉もその吉を成さず、凶もその凶を成さず。爻が絶地にあって生に逢えば、事情はかえって成り得る。およそ世爻・身爻あるいは用神が死絶の地に落ちて、また生扶に遇うは、凶の中に救ある大吉の兆である。《天玄賦》に《絶処逢生》の一篇あり、もし沈潜して玩味せば、その中の玄妙は自ずから領会し得る。ただし「生」と言う所は、死して日辰と認むべからず。動爻と月建も皆算に入る。たとえば寅日にして酉金をもって用神と為すに、卦中に辰・戌・丑・未の土爻が発動して酉を生ぜば、これが絶処逢生である。午日にして寅木をもって用神と為すに、卦中に亥・子の水爻が発動して寅を生ぜば、これが死処逢生である。残りは類に照らして推す。

如逢合住,須沖破以成功;卦中用爻,遇日辰合住,或兩爻自相合住者,不拘喜忌,皆不見效。須待沖破,或克破合爻,然後吉者吉,凶者凶。此下兼言期日之法。且如用爻動來生合世身,凡事易成。若遇合住,則又阻滯。必待沖、克、破合之日,事始有成。

用神がもし合住されば、冲破の後を待ってこそ成功し得る。卦中に用神が日辰に合住されるか、両爻が彼此相合して絆されれば、所喜所忌を論わず効を見ず。必ずそれを冲破するか、それを合住する爻を剋破するを待って、然る後に吉はこそ吉、凶はこそ凶。以下は連帯して応期を定める法を講ず。たとえば用神が発動して世身を生合せば、凡事はもと成り易し。一旦合住されれば、また阻滞を生じ、必ず冲開・剋破・破合の日を待って、事情こそ着落ある。

若遇休囚,必生旺而成事。期日之法。不可執一,當圓變活法推之,庶無差誤。如用爻合住,則以沖破之日斷之矣;若或用爻休囚者,則非生旺不能成其謀。故無氣當以旺相月日斷之。若用爻旺相不動,則以沖動月日斷之;若用爻有氣發動,則以合日斷之,或以本日斷之;若用爻受制,則以制殺月日斷之;若用爻得時旺動,又遇生扶者,此為太旺,當以墓庫月日斷之;若用爻無氣發動,而遇生扶者,即以生扶日斷之;若用爻入墓,則以破墓月日斷之;若用爻空亡,則以沖動月日斷之;若用爻旺空,或空而逢沖、逢並、逢動者,則以過旬斷之;若占散事,又當以用爻死墓絕日斷之。

用神がもし休囚に遇えば、必ずそれが生旺の時を待ってこそ事は成る。応期を定める法は一条に死守すべからず。円活に変通して推してこそ、差誤に至らず。用神が合住されれば、合を冲破する日をもって断ず。もし用神が休囚なれば、生旺に至るに非ざれば事を成さず。ゆえに気なき爻はそれが旺相の月份日子をもって断ずべし。用神が旺相にして動かざれば、それを冲动する月日をもって断ず。用神に気ありて已に発動せば、それと相合する日をもって断ずるか、あるいは占卦の当日をもって断ず。用神が制伏を受くれば、その忌煞を制する月日をもって断ず。用神が時を得て旺相にしてまた発動し、さらに生扶に遇うは、これ太旺で、その墓庫に入る月日をもって断ずべし。用神が気なくして発動しまた生扶に遇えば、それを生扶する日子をもって断ず。用神が墓に入れば、墓庫を冲破する月日をもって断ず。用神が空亡なれば、それを冲动する月日をもって断ず。用神が旺にして空、あるいは空に落ちてまた冲に逢い併に逢い動に逢うは、この一旬を出ずるをもって断ず。もし占う所が事の散せんとするならば、また用神の死・墓・絶の日をもって断ずべし。

以上數節,乃撮其大要,以提醒後人。其中更玄妙之理,學者自當融通活變,分其輕重強弱定之,不可一途而取也。速則動而克世,緩則靜而生身。此亦言日辰之法也。以用爻動靜生合,定遲速緩急。且如占行人,若用爻發動,或應爻發動,可言其人身已起程矣。然來生世,則遲緩,克世即速到。餘仿此。更當以衰旺論之也。

以上のこの几節は過ぎず大要を撮挙して、後人を提醒するに用いる。その中のさらに玄妙の道理は、学者は自ずから融會貫通し、靈活に変化して、爻神の軽重強弱を分かちて定断すべく、ただ死の一条路を認むべからず。事の来ること速きは、用神が発動して世を剋るなり。来ること遲きは、用神が安静にして身を生ずるなり。これも日辰応期の法を講ずるで、用神の動静生合を凭って遲速緩急を定む。たとえば行人を占うに、用神が発動するか応爻が発動すれば、その人はすでに起程したと言い得る。ただそれが世を生じに来れば、行程は遲緩し、それが世を剋しに来れば、到ること速し。残りはこれに倣い、さらに衰旺と併せて論ずべし。

父亡而事無頭緒,福隱而事不稱情。占法曰:“卦無父母事無頭,卦無子孫不喜悅,”蓋父母主事,子孫則喜慶之神也。故無父,則事無頭緒;無褔德,則事不稱情也。鬼雖禍災,伏猶無氣;官鬼雖為禍害,然六爻亦不可無。但宜靜,而不宜動耳。若無官爻,則諸事無氣。故《通玄妙論》有無鬼無氣之論。宜細玩之。子雖福德,多反無功。子孫雖為福德,然不可重迭太多。多則雜,雜則亂而不專一。故曰無功。蓋過猶不及之意也。

卦中に「父母」なければ、事情に頭緒なし。「子孫」が隠伏して現れざれば、事情は称心ならず。占法に曰く、卦に父母なければ、事に頭緒なく、卦に子孫なければ、人は喜悅せず。父母は事情の體統本末を主管し、子孫は喜慶の神なればこそ。ゆえに父母なければ事に頭緒なく、福德なければ事は称心ならず。「官鬼」は禍災を主ると雖も、それが伏蔵して現れざるも同じく気なきが如く見ゆ。官鬼は禍害と為ると雖も、六爻の中にそれなくしてはならず。ただ静を宜として動を宜とせざるのみ。もし卦中に全く官爻なければ、諸事は皆生気なきが如く見ゆ。ゆえに《通玄妙論》に「鬼なく氣なし」の議論あり。細かに玩味すべきである。「子孫」は福德の神なりと雖も、多ければかえって功なし。子孫は福德と為ると雖も、重畳して多くすべからず。多ければ雜、雜なれば乱れて專一ならず。ゆえに功なしと言い、すなわち過ぎたるは猶及ばざるの意なり。

究父母,推為體統;論官鬼,斷作禍殃。財乃祿神,子為福德。兄弟交重,必主謀為多阻滯;此概言五類神之大略也,後卷分明,自有斷法,不及細論。卦身重迭,須知事體兩交關。卦身一爻,為萬事本體。若六爻中有兩爻出現,必是鴛鴦求事,或事於兩處。若帶兄弟,必是與人同謀。兄弟克世,或帶官鬼發動,必有人爭謀其事也。

「父母」を推究するは、事情の體統本末を看る。「官鬼」を論ずるは、禍殃災咎を断ずる。「妻財」は祿食の神、「子孫」は福德の神で、「兄弟」がもし重畳発動せば、謀る所の事は必然に阻滯多し。この数句は五類六親の大略を概説するに過ぎず。後の各巻は分門別類して、自ずから各々の断法ありて、ここに細論に及ばず。卦身が重畳して現れれば、事体の両頭に牽るを知るべし。卦身のこの一爻は万事の本体で、もし六爻の中に両爻ともに卦身を現せば、それは必ず一頭にして両桩の事を為すか、あるいは事情が両処に牽れり。卦身がもし「兄弟」を帯びれば、必ず人と合伙同謀せり。兄弟がまた世を剋しに来るか、「官鬼」を帯びて発動せば、必ず人のこの一桩の事を争奪しに来る。

卦身不出現,事未有定向;出現持世、合世、生世,其事已定。宜出現,不宜變動,動則須防有變。若係喜神,不以此論。遇吉神而化忌爻,主先成後敗;遇凶殺而化吉神,主先難後易。若六爻無卦身,而動爻有化出者,即是此人來言其事也。如子孫為僧道類。卦身持世,或臨本主人,或在本宮內卦,切己之事;臨應爻,他人之事。六爻飛伏,皆無卦身,其事根由未的。卦身空亡,諸事難成;休囚死絕,諸事無氣。大抵卦身,宜作事體看,不可作人身看。若占人,則是其人之身,非來占者之身也。

卦身が現れざれば、事情は未だ定向なし。卦身が現れて世を持ち世に合し世を生ずれば、事情はすでに定まれる。卦身は現るるを宜とし変動を宜とせず。一動すれば変故を生ずるを防ぐべし。もしそれがもと喜神ならば、この条に照らさず。卦身が吉神に遇いて忌神を化出せば、先に成り後に敗るを主る。凶煞に遇いて吉神を化出せば、先に難あり後に易しを主る。もし六爻の中に卦身なくして、動爻の変化のうちに卦身を現ぜば、それはこの変出の爻の代表する人に就いてこの事を言う。たとえば「子孫」を変出せば、僧道の一流の人なり。卦身が世を持つか、当事本人に臨むか、本宮内卦に落ちれば、皆切身の事である。卦身が応爻に臨めば、それは別人の事である。六爻の飛神伏神のうちに卦身を尋ね得ざれば、この事の根由はなお明確ならず。卦身が空亡に落ちれば、諸事成り難し。卦身が休囚死絶すれば、諸事に氣なし。大抵卦身は事体と看るべく、人身と看るべからず。もし人を占うならば、それも占う所の其人の身で、占卦に来る者の自己の身にあらず。

今人莫不以世與身爻同論,則誤矣。但世身,喜生合,忌傷克。則無不同也。凡遇身克世,則吉;世克身,則凶。身若生世、合世,諸事易成;世生合身,難成。虎興而遇吉神,不害其為吉;龍動而逢凶曜,難掩其為凶。玄武主盜賊之事,亦必官爻;朱雀本口舌之神,然須兄弟。疾病大宜天喜,若臨凶殺必生悲;出行最怕往亡,如係吉神終獲利。是故:吉凶神殺之多端,何如生剋制化之一理。

今の人は世爻と身爻を一つの事として論ぜざるなし。それは誤りである。ただ世爻と身爻がともに生合を喜び傷剣を忌むは、この一点において異なりなし。およそ身爻が世爻を剋れば吉、世爻が身爻を剋れば凶に遇う。身爻がもし世を生じ世に合せば、諸事は成り易し。世爻が反対に身爻を生合せば、事は成り難し。賦文に続けて曰く、「白虎」が興動して吉神に遇うは、それが吉と為るを妨げず。「青竜」が発動して凶曜に逢うも、それが実に凶なるを掩う能わず。「玄武」は盗賊の事を主ると雖も、また「官鬼」の相配するを要してこそ算えり。「朱雀」はもと口舌の神なれども、「兄弟」の相配するを要す。疾病を占うに「天喜」を見るを大いに宜とするも、それが凶煞に臨めば照樣に悲を生ず。出行に「往亡」に遇うを最も怕るも、それが吉神に繋がればついに利を得る。ゆえに曰く、吉凶の神煞は名目多しと雖も、何ぞ生剋制化のこの一つの道理の実在するに及ばんや。

大抵卜易,當執定五行六親,不可雜以神殺亂斷。蓋古神殺,至京房先生作易,亂留吉凶星曜,以迷惑後學。如天喜貴人,往亡大殺之類皆是。今人宗之,無不敬信。雖《天玄賦》亦甚用之,其他不足論也。而其不用者,其惟《海底眼》、《卜易玄機》、《金鎖玄關》之三家乎。

大抵卜易は五行と六親を牢牢と把住すべく、神煞を攙雑して断を乱るべからず。古時の神煞は、京房先生が易を作した時に、胡乱に多くの吉凶星曜を留めて、後学を皆迷惑せしめた。「天喜」「貴人」「往亡」「大煞」の類がそれである。今の人はこれを宗として奉じ、敬信せざるなし。《天玄賦》に至っても用いる所多く、他の書はなおさら言うを俟たない。真に神煞を用いざるは、おそらく《海底眼》《卜易玄機》《金鎖玄關》のこの三家のみであろう。

然神殺太多,豈能悉辨。合以六神言之,其法莫不以青龍為吉,白虎為凶,見朱雀以為口舌,見玄武即為盜賊。不分臨持喜忌,概以所性斷之。吾謂其大失先天之妙旨。何則?白虎動,固凶也;若臨其所喜之爻,生扶拱合於世身,則何損於吾。故雖凶,不害其為吉。青龍發動,固吉也;若臨所忌之爻,刑沖剋害乎主象,則何益於事。故雖吉而難掩其為凶。朱雀雖主口舌,然非兄弟則不能;玄武雖主盜賊,若非官鬼則不是。蓋六神之權,依於五行六親故也。

しかるに神煞これほど多ければ、何ぞ辨じ尽くさんや。「六神」を取りて言えば、通行の法は過ぎず青竜を吉とし白虎を凶とし、「朱雀」を見れば便ち口舌と言い、「玄武」を見れば便ち盗賊と言い、それが臨む所が所喜の爻か所忌の爻かを分かたず、一律にその本性に照らして断ずる。私はこれを大いに先天の妙旨を失うと思う。何となれば、白虎が発動すれば固より凶なれども、それがもし我が喜ぶその一爻に臨んで、我が世身を生扶拱合すれば、我に何の損害かあらん。ゆえにそれは凶なりと雖も、結果の吉と為るを妨げない。青竜が発動すれば固より吉なれども、それがもし我が忌むその一爻に臨んで、用神を刑冲剋害せば、事に何の益処かあらん。ゆえにそれは吉なりと雖も、結果の凶を掩う能わず。朱雀は口舌を主ると雖も、「兄弟」を配さざれば闘い起きず。玄武は盗賊を主ると雖も、「官鬼」を配さざれば賊に非ず。見るべし、六神の権力は五行六親の上に依附するを。

又如天喜,吉星也。占病遇之,雖大象凶惡,不以死斷,喜神故也。若臨於所忌之爻動,吾必以為悲,而不以為喜。往亡,凶殺也。出行遇之,雖大象吉利,必阻其行,死亡故也。若臨於所喜之爻動,吾必以為利,而不以為害。蓋神殺之權輕,而五行之權重故也。由是觀之:遇吉則吉,逢凶亦凶。繫於此,而不繫於彼;有驗於理,而無驗於殺。何必徒取幻妄之說哉。不然吾見其紛然繁據,適足以害其理而亂吾心,豈能一一中節耶?

また「天喜」は吉星で、病を占ってこれに遇えば、たとえ卦の大象が凶悪でも人の死を断ぜず。喜神なればこそ。しかしそれが所忌の爻に臨んで発動すれば、私は必ず悲事と断じて喜事と断ぜず。「往亡」は凶煞で、出行にこれに遇えば、たとえ卦の大象が吉利でも必ず行程を阻む。死亡を主ればこそ。しかしそれが所喜の爻に臨んで発動すれば、私は必ず有利と断じて有害と断ぜず。これは神煞の分量が軽く、五行の分量が重きが故である。これより見れば、吉に遇えば吉、凶に逢えば凶、関鍵は五行六親のこの辺に繋がり、神煞のその辺に繋がらず。応験は道理の上にあり、神煞の上に応じず。何ぞ空しくあの虚幻妄誕の説法を取らんや。さもなくば、私はただそれらが紛紛雑雑として一処に堆積して、恰好正理を害し人心を乱すを見るのみで、何ぞ条条皆中たるを得んや。

蓋神殺無憑,徒為斷易之多歧,而不若生剋制化之一理為要。能明其理,則圓神活變,自有條理而不惑矣。六親,本也;六神,末也。至於吉凶神殺,又末中之末也。必欲用之,則當急於本而緩其末,惟六神可也。然六神但可推決事情,至於休咎得失,又當專以六親為主。如此,則本末兼該,斯不失其妙矣。學者詳之。

要するに神煞は凭るべきなく、空しく断易に多くの岐路を増出す。むしろ生剋制化のこの一つの道理の緊要なるに如かず。能くこの道理を明白にせば、便ち圓通靈活にして自ずから条理ありて困惑に至らず。六親は本、六神は末、吉凶神煞に至ってはさらに末中の末である。もし必ず用いんとせば、その本に急にしてその末に緩とすべく、六神を用いるに止まれば足りる。しかも六神はただ事情の情状を推測するに用い得べきのみで、吉凶得失に至っては、なお専ら六親を主とすべし。このように本末兼顧してこそ、卜筮の妙を失わざるなり。学者は細かに体会すべきである。

嗚呼!卜易者知前則易,世人卜筮,皆泥古法,不知通變,達其道者,鮮也。故有龍虎推其悲喜,水火斷其雨晴,空亡執作凶吉,身位定為人論。凡此之類,難以枚舉。予作是書,取理之長,舍義之短,闡古之幽,正今之失。凡庸占俗卜之執迷古法者,亦莫不為之條解。有志是術者,苟能究明前說,自知通變之道矣。其於易也何有,故曰卜易者知前則易。

ああ、卜易の人はまず前のこれらの道理を明白にすれば容易である。世人の卜筮は皆古法に拘泥して通変を知らず、能くその道に通達するは極めて少なし。ここにおいてある人はただ青竜白虎に凭って悲喜を推し、ただ水火に凭って晴雨を断じ、空亡に死抓住して吉凶を定め、強いて卦身を人身と為して論ずる。この類の毛病は数え尽くせぬ。私がこの書を作すは、その義理の長を取りその義理の短を捨て、古人の幽微なる処を闡発し今人の失誤なる処を糾正せんがため。およそ庸師俗卜が古法に執迷する処も、皆一々として彼らのために條分縷析する。志あってこの術に従う者は、ただ前のこれらの説法を明白にせば、自ずから通変の道を識り、然れば《易》に対して何の難しかあらん。ゆえに卜易の人はまずこれらを知れば容易と言う。

求占者鑑後而則靈。推占者,固當通變。而求占者,亦不可不知求卜之道也。後即誠心是也。筮必誠心,聖人作易,幽贊神明,以其道合乾坤故也。故凡卜筮,必須真誠敬謹,專心求之;則吉凶禍福,自無不驗。今人求卜,多有科頭跣足,短衫露身,甚至有不焚香,不盥手者。嗚呼!忽略如此,而欲求神明之感格者,未之有也。神明不格,而欲求吉凶之應者,亦未之有也。可不慎歟。

占いを求める人もまた後のこれらの道理を明白にせねば、卦は靈驗ならず。推占の人は固より通変すべきなれど、占いを求める人もまた求卜の道を知らざるべからず。ここに言う「後」とは、誠心を指す。占筮は必ず誠心を要す。聖人の《易》を作すは、幽然として神明を贊助す。正にその道理が乾坤に合すればこそ。ゆえにおおよそ卜筮は必ず真誠恭敬にして専心して求めねばならず、吉凶禍福は自ずから応験せざるなし。今の人の求卜は、多くは頭を光らせ脚を裸にして、短衫を著て身を露す者有り、甚だしきは香を焚かず手を洗わざる者さえある。ああ、輕忽ここに至らば、さらに神明の感應を求めんとは、未だ嘗て有らざることなり。神明すでに感應せざれば、さらに吉凶の応験を求めんとは、これも未だ嘗て有らざることなり。能く慎重ならざらんや。

何仿子日。陰陽曆書中,有子不問卜之說。故今人多忌此日。愚謂:吉凶之應,皆感於神明,神明無往不在,無日不可格,能格其神,自無不驗矣。故凡卜筮,在人之誠不誠,不在日之子與非子也。且其說,又有辰不哭泣之忌。若辰日臨喪,亦可以笑對吊者耶?此不足信也,明矣。

何ぞまた子日は卜せざるを忌むや。陰陽暦書のうちに「子は卜を問わざる」の説ありて、ゆえに今の人は多くこの日を忌む。私は思うに、吉凶の応験は皆神明に感通し、神明は處ならずとして在らず日として感格すべからざるなく、能く神明を感格せば、自ずから応験せざるなし。ゆえにおおよそ卜筮は、人の誠なるかならざるかに關わり、日の子日なるかならざるかに在らず。いわんやあの一套の説法のうちにはさらに「辰は哭泣せざる」の忌諱あり。辰日に喪事に遇えば、また笑顔をもって弔唁に来る人に対し得べきか。これをもってこの話は信ずるに足らざること、甚だ明白なり。

且如丙子日,袁柳莊卜脫役事,得姤卦安靜。鬼臨應爻,卻被日辰沖動,世受六害,果應難脫。又談朝輔卜訴訟,得蒙之未濟卦。官鬼空亡,果應不成。又戊子日周焚松卜官訟,得離之賁卦。日辰扶起官鬼,沖剋世爻,財爻又動,此必助鬼傷身,果被婦人執罪。又丙子日卜倭寇,得噬嗑卦。鬼爻衰靜,果應不來;但被日帶父爻六害,乃受風雨淋漓之苦也。

試みに几つかの子日の卦例を挙ぐ。丙子日、袁柳莊が差役を脱免するの事を占うに、《姤》卦を得て六爻安静、「官鬼」は応爻に臨みたれど日辰の子水に冲动され、世爻また六害を受く。後に果して役の脱がれざるに応えり。また談朝輔が訴訟を占うに、《蒙》が《未濟》に変じ、「官鬼」は空亡に落ち、後に果して官司の打ち成さざるに応えり。また戊子日、周焚松が官司を占うに、《離》が《賁》に変じ、日辰が「官鬼」を扶起して世爻を冲剋せしめ、「妻財」また発動す。これは必ず財が鬼を助けて身を傷るなり。後に果して一人の婦人に告発されて罪を定められたり。また丙子日に倭寇の来るかを占うに、《噬嗑》卦を得て、鬼爻は衰弱にして安静す。後に果して倭寇の来らざるに応えり。ただ日辰が「父母」爻を帯びて六害を構成せば、ゆえに空しく一場の風雨淋灕の苦を受けたり。

以上數占,皆係子日,未嘗少誤。果如歷家言,何其事乃俱應耶?故凡占卜,貴乎秉誠,不貴擇日。以上全篇,總說斷易之法,乃通章之大旨。不知此,則諸事難決。有志於是者,當先觀此篇。若能沉潛、反覆,熟讀詳味,此理即明,則事至物來,固將迎刃而解矣。其於易也何有。

以上のこの几卦は皆子日に占いたるに、一卦として半点の差錯なし。もし真に暦家の言う如く子日は卜を問うべからざれば、なんぞこれらの事が偏偏として応験せしか。ゆえにおおよそ占卜は、誠心を秉持するを貴び、日子を挑選するを貴ばず。以上全篇は總じて断易の法を説き、通章の大旨なり。これらを明白にせざれば、諸事は断決し難し。志ある人は、まずこの一篇を看るべし。もしその中に沈潛し、反復熟讀し、細かに體味せば、この道理一たび通ぜば、事一たび来り物象一たび現れれば、自ずから刃迎えて解くが如く、《易》に対して何の難しかあらん。

一、天時

天道杳冥,豈可度思夫旱澇?易爻微妙,自能驗彼之陰晴,當究父財,勿憑水火。天時一占,自《卜筮元龜》而下,皆以水火為晴雨之主,而不究六親制化,蓋執一不通之論也。惟《海底眼》有:“天相陰晴父母推”之說,深為得旨。然又引而不發。所以學者多泥古法,而不求其理,良可嘆也。且如古人以水爻為雨,其言旺動驟雨,休囚微雨。然水居冬旺,則雨豈獨驟於秋冬,而輕微於春夏耶?知乎此,不攻自破矣。故凡占天時,當看父財,勿論水火也。

天道は幽深にして測り難し。人は何ぞ空しく旱澇を揣度せんや。幸いに《易》の爻象は精微にして、自ずから陰晴を驗し得る。ただ「父母」と「妻財」を推究すべく、水火の二爻に死守すべからず。天時を占うこの一門は、《卜筮元龜》以下皆水火をもって晴雨の主と為すに、六親の間の制化を推究せず。これ一に執りて通通ぜざるの論である。ただ《海底眼》に「天相の陰晴は父母に推す」の一句あって、深く要旨を得たり。惜しむらくはそれが引きて發せず。ゆえに学者は多く古法に拘泥してその理を求めず。実に嘆くべし。たとえば古人は水爻をもって雨と為し、水の旺相にして動くは驟雨、休囚は微雨と言う。しかるに水は冬季に當旺なれば、何ぞ雨はただ秋冬に急にして春夏に至れば輕しとせんや。この一層を想い通ぜば、あの套の説法は攻めずして自ずから破る。ゆえにおおよそ天時を占うには、「父母」と「妻財」を看るべく、水火を論ずべからず。

妻財發動,八方咸仰晴光;父母興隆,四海盡沾雨澤。占天不以水為雨,而以父為雨者,父母為天,天變則雨。故也。妻財則父母忌爻,動則剋制雨神,所以主晴。卦中父動,主雨;財動,主晴。卦無父母,財爻又空,必然無雨;卦無妻財,父爻又空,必然不晴。應乃太虛,逢空而雨晴難擬;占天時與占人事一般。人事應空則難成,天時應空則難望。如久晴占雨則無雨,久雨占晴則不晴。若卦中雨爻動,其應空,亦主遲緩,世空則來速也。世應俱空,雨晴難擬,須詳父母妻財,及日辰斷之。

「妻財」が發動せば、八方は皆晴光を盼望し得る。「父母」が興旺せば、四海は皆雨澤に沾うことを得る。天を占うに水をもって雨とせず父母をもって雨と為すは、父母は天を為し、天一たび變すれば雨下るが故である。妻財は父母の忌神で、一動すれば雨神を剋制す。ゆえに晴を主る。卦中に父母が發動すれば雨を主り、妻財が發動すれば晴を主る。卦中に父母なければ妻財がまた空に落ちれば、必ず雨なし。妻財なければ父母がまた空に落ちれば、必ず晴れず。應爻は太虛蒼天を代表し、それが一たび空に落ちれば、雨晴は皆擬定し難し。天時を占うと人事を占うとは一つの道理で、人事は應が空なれば事は成り難く、天時は應が空なれば天は望み難し。たとえば久しく晴れて雨を占うに、應が空なれば便ち雨なし。久しく雨して晴を占うに、應が空なれば便ち晴れず。もし卦中に雨を主る爻が發動して應爻が空に落ちれば、また雨の來ること遲緩を主る。世爻が空に落ちれば、來ること速し。世應兩爻ともに空なれば、雨晴は擬定し難く、「父母」「妻財」を詳看して、さらに日辰を合せて斷ずるを要す。

世為大塊,受克則天變非常。應為天,萬物之體也。世為地,萬物之主也。如世受動爻刑剋,必有非常之變。如雨爻刑剋,必是惡雨;風爻刑剋,必遭惡風之類。又如財化火鬼,刑剋世爻,若夏月卜卦,必是酷暑。卦無子孫及父母動者,則是迅雷驚電。餘仿此。日辰主一日之陰晴,日辰乃一日陰晴之主。不可依《金鎖玄關》作太陽論之。若日辰兄弟,其日必有風雲;子孫,其日必有霞彩;官鬼,其日必然陰晦。餘仿此。若動爻刑剋日辰者亦然。如財爻動克則晴,父爻動克則雨類。卦中動爻,被日辰剋制者,其象必不變。倘父母動,日辰生扶之,則大雨。妻財動,日辰生扶之,則烈日。

世爻は大地で、それが一たび剋を受ければ、天は非常の變を為す。應爻は天を為して萬物の依る本體、世爻は地を為して萬物の托する主人である。世爻が動爻に刑剋されれば、必ず反常の天變あり。雨を主る爻に刑剋されれば、必ず惡雨なり。風を主る爻に刑剋されれば、必ず惡風に遭う。この類の如し。また「妻財」が火の「官鬼」を化出して世爻を刑剋すれば、もし夏月に卦を卜せば、必ず酷暑なり。卦中に「子孫」なければ「父母」が發動して、それは迅雷驚電なり。殘りはこれに倣う。日辰はこの一日の陰晴を主管す。日辰は一日の陰晴の主で、《金鎖玄關》の如くこれを太陽と為して論ずべからず。日辰がもし「兄弟」なれば、この日は必ず風雲あり。「子孫」なれば、必ず霞彩あり。「官鬼」なれば、必然に陰晦なり。殘りはこれに倣う。もし動爻が日辰を刑剋すれば、またこの道理に照らす。「妻財」が動きて日辰を剋せば晴、「父母」が動きて日辰を剋せば雨。卦中の動爻がもし日辰に剋制されれば、それが主る氣象は變出し得ず。もし「父母」が發動して日辰がまたこれを生扶せば、それは大雨なり。「妻財」が發動して日辰がこれを生扶せば、それは烈日なり。

子孫管九天之日月。陽宮子孫為日,陰宮子孫為月。旺則皎潔,衰則暗淡;空伏,則雖晴而被蒙蔽。子化子,日照霞明;屬陰則月明星燦。化出墓絕,始雖明朗,終成暗晦也。若論風雲,全憑兄弟;風雲,以兄弟爻論之。旺動,則風高雲密;死絕,則云淡風輕。化出子孫,則清風彩雲;化出官鬼,則頑雲惡風也。要知雷電,但看官爻。官鬼主雷電,動則必有雷聲。旺相,霹靂驚雷;衰弱,雲中虛閃。卦有兩鬼皆動,主雷電交作;鬼化鬼,亦然。鬼化財,或卦無父母,雖雷不雨。

「子孫」は九天の上の日月を管す。陽宮の子孫は太陽、陰宮の子孫は月亮である。旺なれば光明皎潔、衰なれば昏暗無光、空に落つるか伏藏すれば、晴なりと雖も日月は遮蔽される。子孫が子孫を化出するは、日が晚霞を照りて天光明麗なり。陰に屬せば月明星燦なり。子孫が墓・絶の爻を化出すれば、初めは明朗なれども、ついに昏暗に轉ず。もし風と雲を論ずれば、全く「兄弟」爻に憑る。風雲は兄弟爻をもって論ず。旺相發動すれば、風大きく雲密なり。死絶無氣なれば、雲淡く風輕し。兄弟が「子孫」を化出すれば、清風彩雲なり。「官鬼」を化出せば、頑雲惡風なり。雷電を知らんには、ただ「官鬼」爻を看る。官鬼は雷電を主り、一動すれば必ず雷聲あり。旺相は霹靂驚雷、衰弱は雲中の虛閃なり。卦中に兩つの鬼爻ともに動けば、雷電の交作を主る。鬼が鬼を化出するも同じ。鬼が「妻財」を化するか、卦中に「父母」なければ、それはただ雷を打ちて雨下らず。

更隨四季推詳,父母主雨,妻財主晴,四時不易。其子孫、官鬼、兄弟,當隨時推究,不可執一。詳見於後。須配五行參決。凡占天時,固不可以水火為主;若五類所臨,亦憑參究。父母爻,四時主雨。若臨金水,雨乃未止;臨火土,雖雨不久;但臨土,則雨雖止,而云不散;臨木,則有風有雨之象也。

天時を斷ずるはさらに四季に隨って推詳すべし。「父母」は雨を主り「妻財」は晴を主る。この兩樣は四季變わらず。「子孫」「官鬼」「兄弟」に至っては、季節に隨って推究すべく、一説に死執すべからず。詳しくは下文に見える。さらに五行に配して併せて參決すべし。およそ天時を占うに、固より專ら水火を主とすべからざるなれど、五類六親の臨む五行も、なお參究すべし。「父母」爻は四季ともに雨を主る。それが金・水に臨めば、雨は未だ停まらず。火・土に臨めば、雨下ると雖も久しからず。單に土に臨めば、雨は止むと雖も雲は散ぜず。木に臨めば、すなわちまた風あり雨あるの象なり。

妻財爻,四時主晴。臨金,必有煙霧;臨水,必有朝露,或雖晴不久;化出父爻,反主有雨;臨木,晴而有風;臨土,晴而有云;臨火,日麗中天。兄弟爻臨木,四時主風;臨土,四時主雲;臨火,風雲皆有;兄化兄亦然;臨金,主有風沙;臨水,則濃雲也。又夏月新秋,遇火兄,主大熱;冬月初春,遇水兄,主大寒。

「妻財」爻は四季ともに晴を主る。金に臨めば、必ず煙霧あり。水に臨めば、必ず清晨の露水あり、あるいは晴なりと雖も久しからず。もし「父母」爻を化出せば、かえって雨ありを主る。木に臨めば、晴にして風あり。土に臨めば、晴にして雲あり。火に臨めば、麗日の空に當たるなり。「兄弟」爻が木に臨めば、四季ともに風を主る。土に臨めば、四季ともに雲を主る。火に臨めば、風雲ともにあり、兄弟が兄弟を化出するも同じ。金に臨めば、風沙あるを主る。水に臨めば、濃雲なり。このほか、夏月と初秋に火の「兄弟」に遇えば、大熱を主る。冬月と初春に水の「兄弟」に遇えば、大寒を主る。

子孫爻臨金,四時皆為星月;屬陽,則冬與正月為冰霜,夏秋為白雲;臨木,二三月為游絲,餘月皆為日晷日色;臨水,正月與冬季為冰雹雪霜,夏秋與二三月為朝露;臨火,四時皆為日;臨土,夏秋為巧云,二三月為霞,冬月為日。

「子孫」爻が金に臨めば、四季ともに星月を主る。子孫が陽に屬して金に臨めば、冬月と正月は冰霜を主り、夏秋は白雲を主る。子孫が木に臨めば、二三月は空中に飄蕩する游絲を主り、殘りの月份は皆日影日色と看る。水に臨めば、正月と冬季は冰雹雪霜を主り、夏秋と二三月は清晨の露水を主る。火に臨めば、四季ともに太陽を主る。土に臨めば、夏秋は奇巧の雲彩を主り、二三月は彩霞を主り、冬月は太陽を主る。

官鬼爻臨火,及未戌二土,為電;餘皆作雷斷。正月鬼動化父,或與父爻同發,主有春雪;蓋春雪乃殺物之雪,非瑞,故也。若二月春分後,八月秋分前見之,皆以雷斷。春分前,雷聲未發,則溼雲帶雨之象,非雷也;秋分後,雷聲即收,鬼如動,必有狂風拔木,林間震響之惡勢。雷聲即收後,與未發前,若鬼帶三刑六害,乘旺動來克世,雷應非常之變,雖冬月,亦有震驚百里之象。

「官鬼」爻が火に臨み、および未・戌の兩土支に臨むは、閃電と斷ず。殘りは皆雷と斷ず。正月のうちに鬼爻が發動して「父母」を化するか、父母爻と同時に發動すれば、春雪あるを主る。春雪は生物を殺傷する雪で、祥瑞と算えざればこそ。もし二月春分の後・八月秋分の前に鬼動に遇えば、皆雷と斷ず。春分の前は雷聲未だ發せざれば、それは濕雲帶雨の象で、雷に非ず。秋分の後は雷聲すでに收めたれば、鬼爻がもし動けば、必ず狂風が木を拔き林間轟響の惡勢あり。雷聲すでに收めた後と未發の前のこの兩段の時節のうちに、鬼爻がもし「三刑」「六害」を帶び、旺に乘って發動して世を剋しに來れば、その雷は非常の變異に應じ、たとえ冬月に在りとも百里を震驚する聲勢あり。

晴或逢官,為煙為霧;卦得晴兆,鬼亦動者,必有濃煙重霧;或惡風,或陰晦,冬或大寒,夏或大熱;或有日月薄蝕之變。必非風和日麗,天晴月皎之候。雨而遇福;為電為虹。卦得雨兆,子孫亦動者,非有閃電,則有彩虹。蓋子孫主彩色。虹與電,亦有其象,故以類而推之。若執定日月霞彩,則膠柱而調瑟也。

晴卦のうちにまた「官鬼」に遇えば、天上は煙を生じ霧を生ず。卦はすでに晴兆を顯して鬼爻もまた動けば、必ず濃煙重霧あり、あるいは惡風を起し、あるいは陰晦に轉じ、冬はあるいは大寒、夏はあるいは大熱、あるいは日食月食の類の變異あり。要するに風和日麗・天晴月皎の時にはあらず。雨卦のうちに「子孫」に遇えば、天上は電あり虹あり。卦はすでに雨兆を顯して子孫もまた動けば、閃電あるに非ざれば、彩虹あるなり。子孫は彩色を主り、虹と電もまた彩色の象なればこそ。ゆえに類に按って推す。もし子孫はただ日月霞彩を主ると死認定すれば、それは瑟柱を膠住して瑟を調ずるに成る。

應值子孫,碧落無瑕疵之半點;凡遇晴卦,應臨子孫動者,其日必然皎潔。或財臨應動,化出子孫亦然。蓋應為天,子孫為清光皎潔之神。故也。世臨土鬼,黃沙多散漫於千村。晴卦中,世臨土鬼發動,或土鬼動來沖剋世身者,乃是沙落天也;兄弟化出土鬼亦然。秋冬見之,多主陰晦。或從子孫化出,當有云奔鐵騎之象。

應爻が「子孫」に値すれば、碧空の上は半點の瑕疵もなし。およそ晴卦に遇うに、應爻が「子孫」に臨んで發動せば、この日は必然に天色皎潔なり。あるいは「妻財」が應爻に臨んで發動して子孫を化出するも同じ。應爻は天を為し、子孫は清光皎潔の神なればこそ。世爻が土の「官鬼」に臨めば、黃沙は散漫として千村に落ち滿つ。晴卦の中、世爻が土鬼に臨んで發動するか、土鬼が動きて世爻身爻を冲剋するに來れば、それは所謂沙の天に落つるなり。「兄弟」が土鬼を化出するも同じ。秋冬にこれを見れば、多くは陰晦を主る。もし「子孫」より化出したるなれば、鐵騎の奔馳するが如き雲あるを看るべし。

三合成財,問雨那堪入卦;卦有三合成局,依五類推之。如成財局,有霞彩;成鬼局,有雷電類。如久晴占雨,卦遇三合財局,必然無雨。久雨占晴,卦遇三合父局,亦主不晴。如五月甲申日占晴,得隨之咸卦。辰子兩爻俱動,與日辰申字,正合成父局,雨果不止。五鄉連父、求晴怪殺臨空。五鄉:財官父兄子也。五類中,唯父母為雨。此爻空亡,或休囚不動,雨未可望。若遇動爻,化出父母,則主有雨;化出財爻,則主晴也。

三合が會して財局を成せば、雨を問うに它の卦に入るを見るに堪えぬ。卦中にもし三爻の合成して局を成すあれば、五類六親に就いて推す。財局を成せば、霞彩あるを主る。鬼局を成せば、雷電あるを主る。この類の如し。ゆえに久しく晴れて雨を占うに卦が三合の財局に遇えば、必ず雨なし。久しく雨して晴を占うに卦が三合の父母局に遇えば、また晴れざるを主る。一つの卦例を挙ぐ。五月甲申日に晴を占うに、《隨》が《咸》に變じ、辰・子の兩爻ともに發動して、日辰の申字と正に合して父母の水局を成す。後に雨は果して止まざるを下したり。五類の中にもし「父母」に連なれば、晴を求むにまたあの忌煞の空に落ちたるを怪しむ。五鄕とは、妻財・官鬼・父母・兄弟・子孫の五類で、五類の中に父母のみが雨を主る。父母のこの一爻がもし空亡に落ちるか、休囚にして動かざれば、雨は指望なし。もし動爻あって父母を化出せば、雨あるを主り、妻財を化出せば、晴を主る。

財化鬼,陰晴未定;財主晴明,鬼主陰晦。故遇財化鬼,或鬼化財,或鬼財皆動,必主陰晴未定。或先陰後晴,先晴後陰之象。卦無子孫,財反助鬼,必不晴也。父化兄,風雨靡常。父主雨,兄主風。兩爻相化,或俱發動,皆主風雨交作。凡論先後,當以動者為先,變者為後。俱動,則以旺者為先,衰者為後。或曰:旺多衰少。

「妻財」が「官鬼」を化出せば、陰晴は定まり得ず。財は晴明を主り、鬼は陰晦を主る。ゆえに財が鬼を化するか、鬼が財を化するか、財鬼が一齊に發動するに遇えば、必ず陰晴不定を主る。あるいは先に陰にして後に晴、あるいは先に晴にして後に陰。卦中に「子孫」の鬼を制するなければ、財はかえって官鬼を生助して、それは必ず晴れず。「父母」が「兄弟」を化出せば、風雨は變化無常なり。父は雨を主り、兄は風を主る。この兩爻が互いに化出するか、あるいは一齊に發動するは、皆風雨交加を主る。およそ先後を論ずるは、發動するその一爻を先と為し、變出のその一爻を後と為すべし。もし兩爻ともに動けば、旺なるを先と為し衰なるを後と為す。また一説あり、旺は分量多く、衰は分量少なしと。

母化子孫,雨後長虹垂螮蝀;弟連福德,雲中明月出蟾蜍。日月虹霓,皆屬子孫。若遇父爻化出,必然雨後虹見;兄爻化出,則云中漏日。冬月兄化子,是雪片隨風;夏秋,是風捲晴雲。屬陰,則風清月朗;三春屬陽,則風和日暖也。父旺財衰,而兄動化子,當推雲中閃電。更宜細究。

「父母」が「子孫」を化出せば、雨後に便ち長虹の螮蝀の如く天に垂れん。「兄弟」が福德子孫に連なれば、雲縫より便ち蟾蜍の如き明月を露さん。日・月・虹・霓は皆「子孫」に屬す。もし「父母」爻より化出せば、必然に雨後に虹を見る。「兄弟」爻より化出せば、雲中より日を漏らすなり。冬月に兄弟が子孫を化するは、雪片の風に隨って飄飛するなり。夏秋は風が晴雲を卷くなり。子孫が陰に屬せば、風清月朗なり。三春は陽に屬して、風和日暖なり。もし「父母」旺にして「妻財」衰、兄弟また動きて子孫を化出せば、それは雲中の閃電と推すべし。これらはさらに細かに推究すべし。

父持月建,必然陰雨連旬;卦中六親。皆不宜臨月建,唯子孫一爻遇之為吉。其他如父臨之,必主久雨;財臨之,必主久晴。臨父化水則潦,臨財化火則旱。非水火而刑剋世爻亦然。兄坐長生,擬定狂風累日。長生之神,凡事從發萌之始,直至帝旺,然後衰死。故遇長生,卒難止息。如父逢之,雨必連朝;兄逢之,風必累日;官逢之,陰雲不散;財逢之,雨未可望;須至墓絕日,然後雨可止、風可息、雲可開、陰可霽也。化出亦然。

「父母」爻が月建を持てば、必然に連旬の陰雨なり。卦中の六親は皆月建に臨むを宜とせず、「子孫」の一爻のみがこれに遇えば吉。他は父母が月建に臨めば、必ず久雨を主る。妻財が月建に臨めば、必ず久晴を主る。父母に臨んで水爻を化出せば澇と成り、妻財に臨んで火爻を化出せば旱と成る。水火を化せざるとも、ただそれが世爻を刑剋せば、これも同じ。「兄弟」が長生の位に坐すれば、数日の狂風を刮らんと斷じ得る。長生のこの神は、凡事皆萌芽の初めより起算して、帝旺に長ずるまで、然る後に衰え死する。ゆえに爻が長生に遇えば、一時に止息し難し。父母がこれに逢えば、雨は必ず朝を連ね、兄弟がこれに逢えば、風は必ず日を連ね、官鬼がこれに逢えば、陰雲は散ぜず、妻財がこれに逢えば、雨は指望なし。墓・絶の日を待って、然る後に雨は止み風は息み雲は開け陰は晴に轉ず。變化の中より長生を化出するも同じ。

父財無助,旱潦有常;官鬼空伏,父母無氣,而財爻旺動者,必旱;子孫空伏,妻財無氣,而父爻旺動者,必潦。凡遇此象,最怕日月動爻,又來生扶合併,則潦必至浸沒;旱必至枯槁。如父財二爻,雖或旺動,卻有制伏,或居死墓絕地,又無扶助者,雖旱有日,雖潦有時,必不為害。福德帶刑,日月必蝕。子孫帶刑,動化鬼;或官鬼動來刑害,或父帶螣蛇來克,皆主日月有蝕。陽爻日,陰爻月。如八月庚申日,予卜中秋月,得家人之觀卦,果應大雨。

「父母」と「妻財」がともに外助なければ、旱澇に常度あり。「官鬼」が空に落つるか伏藏して「父母」また氣なく、「妻財」が旺相發動するは、必ず旱なり。「子孫」が空に落つるか伏藏して「妻財」また氣なく、「父母」が旺相發動するは、必ず澇なり。およそこの種の卦象に遇うに、最も怕れるは日建・月建と動爻がまた來りて生扶合併すること。然れば澇は必ず田廬を淹沒するに至り、旱は必ず草木の枯槁するに至る。もし父母・妻財の二爻は旺動すと雖も、別にそれらを制伏するあり、あるいは死・墓・絶の地に落ちてまた扶助なければ、旱も旱なること有限、澇も澇なること時ありて、必ず災を成さず。福德の神が刑を帶びれば、日月に必ず食あり。「子孫」が刑を帶びて發動して「官鬼」を化出するか、官鬼が動きて子孫を刑害するか、「父母」が「螣蛇」を帶びて子孫を剋しに來れば、皆日食月食を主る。子孫が陽爻なれば日食を主り、陰爻なれば月食を主る。たとえば八月庚申日、私は中秋の夜の月色を卜して、《家人》が《觀》に變ずるを得、後に果して大雨の下るに應えり。

雨嫌妻位之逢沖,占雨要財爻靜。若被日辰沖動,父母暗傷,雨未可望。父或發動,雨亦不多;不然當日必無雨。至財爻墓絕日,方可有雨也。若父爻安靜,逢沖則有雨。晴利父爻之入墓。墓主晦滯。父爻動入,即是雨意,終不沾濡。財爻動入,亦是陰晴氣候,入墓亦然。如五月丁丑日,占晴,得屯之無妄卦。父母雖動,然坐在墓爻,果應晴而陰滯也。

雨を占うに、「妻財」の位の冲に逢うを嫌う。雨を占うには財爻の安静を要す。もし財爻が日辰に冲動されれば、雨を主る「父母」は暗のうちに傷を受け、雨は指望なし。たとえ父母が發動すとも、雨は多からず、さもなくば當日は必ず雨なく、財爻の墓・絶の日を待ってこそ雨あるを得る。反對に、もし父母爻がもとより安静なれば、冲に逢うかえって雨あり。晴を占うには、「父母」爻の墓に入るを利とす。墓は晦暗停滯を主る。父母爻が動きて墓に入れば、ただ些かの雨意あるのみで、ついに下りて地面を沾濕せず。財爻が動きて墓に入れば、また陰陰晴晴の氣候のみで、同じく爽利ならず。たとえば五月丁丑日に晴を占うに、《屯》が《无妄》に變ずるを得た。父母は發動すと雖も、墓爻の上に坐す。後に果して天は晴に放たると雖も陰氣の滯塞するに應えり。

子伏財飛,簷下曝夫猶抑鬱;大抵占晴,以財為主。若徒有財而無子孫,或居空地而又變弱,此日有陰晴之象。蓋財爻但主晴,不主日。得子孫出現不空,或發動,或旺相,或遇生扶,或逢沖並,然後有日。況無子孫,則財絕生意。官鬼專權,必非久晴之兆也。父衰官旺,門前行客尚趑趄。占雨以父為主。休囚死絕,便不可望。若得官爻當權旺動,生扶父母,亦主有雨。但忌父居空地,或在日辰制伏之鄉,仍為無雨。然亦必有溼雲載雨,凝滯不散之象。

「子孫」が伏藏して「妻財」現れれば、檐下に物を晒すを待つ人はなお悶悶として樂しまず。大抵晴を占うに財爻を主と為す。もし財爻あるのみで子孫なければ、あるいは子孫が空の地に落ちてまた變弱せば、この日は半陰半晴の象のみ。財爻はただ晴を管して、太陽の出づるを管せざればこそ。必ず子孫が現れて空に落ちず、あるいは發動、あるいは旺相、あるいは生扶に遇い、あるいは冲併に逢って、然る後に日頭あり。いわんや子孫なければ、財爻は生意を斷たれ、官鬼は獨り專權して、それは必ず久晴の兆にあらず。「父母」が衰えて「官鬼」旺なれば、門前の行客はなお遲疑して身を起すを敢えてせず。雨を占うに父母を主と為す。父母が休囚死絶すれば、指望するを要せず。もし官爻が權に當たり旺動して父母を生扶しに來れば、なお雨あるを主る。ただ父母が空の地に落ちるか、日辰に制伏せらるるの處に落ちるを忌む。それは依りて雨なし。ただし必ず濕雲が雨を載せて凝滯散ぜざるの象あり。

福合應爻木動交,而游絲漫野;子孫乃曠達之神。若臨木動合應,或在應上生合世身,必是風和日暖、游絲蕩颺之天也。夏月薰風解慍,秋月風清月朗,冬月玉屑呈祥。屬水,可言露珠。鬼沖身位金星會,而陰霧迷空。卦晴。而鬼臨金水爻,動來沖剋世身,或臨卦身沖剋應爻,或就臨應上發動,皆主有濃煙重霧,蔽塞郊野之象。父母動則主雷鳴,非煙霧也。

「子孫」が應爻に合して木爻が交動せば、天上は游絲の野に滿つるが如し。子孫は曠達の神で、それがもし木爻に臨んで發動して應爻と相合するか、應爻の上にて世身を生合せば、必ず風和日暖・游絲飄蕩の好天なり。夏月は熏風の慍を解き、秋月は風清月朗、冬月は玉屑の如き雪花の祥を呈す。子孫が水に屬せば、露珠と言うべし。「官鬼」が身位に冲して金星が會合せば、天上は陰霧の空に迷えるが如し。卦はもと晴を主るに、鬼爻が金爻水爻に臨んで發動して世身を冲剋するか、卦身に臨んで應爻を冲剋するか、あるいは應爻の上にて發動すれば、皆濃煙重霧が郊野を遮塞するの象を主る。もし「父母」が發動すれば、それは雷鳴と斷ずべく、煙霧にあらず。

卦值暗沖,雖空有望;占雨,怕父空;占晴,怕財空。二者皆無成望。若日辰沖之,則沖空不空,過此一日,自有成望。欲定日期,亦以沖日、沖時斷之。爻逢合住,縱動無功。父動有雨,財動須晴,理固然也。若被日辰動爻合之,名合住;雖動,亦依靜看。合住財爻,不晴;合住父爻,不雨。大概是密雲不雨之象。辛丑秋,予寓江東欲返,值颶風大作,丁亥日,卜得困之震卦。兄弟父母俱動,合住應爻,果當日辰時止息。

卦中にもし暗冲に逢えば、用神は空なりと雖もなお望みあり。雨を占うに「父母」の空に落つるを怕れ、晴を占うに「妻財」の空に落つるを怕る。この兩樣が空に落ちれば、成望なし。ただし日辰の來りてこれを冲するあれば、それは空を冲して空ならず、この一日を過ぎて自ずから望みあり。日期を定むるは、またこれを冲する日子・これを冲する時辰をもって斷ず。爻がもし合住されば、たとえ發動すとも功用なし。父母が發動して雨あり、妻財が發動して晴に放たるは、もと常理なれど、もし日辰あるいは動爻に合住されれば、これを合住と言い、動なりと雖も靜爻と看る。財爻を合住せば晴れず、父爻を合住せば雨ならず。大抵密雲して雨ならざるの象なり。辛丑年の秋、私は江東に客居して歸らんと欲するに、正に颶風の大作に遭う。丁亥日に卜して《困》が《震》に變ずるを得た。「兄弟」「父母」ともに發動すれど、應爻を合住す。後に果して當日の辰時に風は停まりぬ。

合父鬼沖開,有雷則雨;父母合住,本主不雨。若遇鬼動,沖破合住,當主將雨未雨,必待雷震,而後有雨也。沖爻是弟,發風則雨;沖爻是子,閃電則雨。日辰沖剋同斷也。合財兄克破,無風不晴。財爻合住,本不晴明。若得卦有兄動克破合爻,或日辰是兄,沖剋破之,則必待風起,然後晴;無風則不晴也。如辛未日占晴,得損之小畜卦。財被合住,喜得日辰帶兄,沖破合爻,果應發風而晴也。

合住されたる「父母」が鬼爻に冲開されれば、雷あれば雨あり。父母が合住せられれば、もと雨下らざるを主る。もし鬼爻の發動してその合を冲破するに遇えば、將に雨ならんとして未だ雨ならざるを主る。必ず雷の一たび震うを待って、然る後に雨下る。それを冲開するが「兄弟」爻なれば、風を起して然る後に雨下る。それを冲開するが「子孫」爻なれば、電を閃して然る後に雨下る。日辰の來りて冲し來りて剋するも、これに照らして斷ず。合住されたる「妻財」が兄爻に剋破されれば、風なければ晴れず。財爻が合住せられれば、もと晴に放たれず。もし卦中に「兄弟」の發動してその合爻を剋破するか、日辰が正に兄弟にして冲剋してこれを破れば、必ず風の起るを待って、然る後に晴れ、風なければ便ち晴れず。たとえば辛未日に晴を占うに、《損》が《小畜》に變ずるを得た。財爻は合住せられたれど、幸いに日辰が兄弟を帶びて合爻を冲破す。後に果して風を起して然る後に晴に放たるに應えり。

坎巽互交,此日雪花飛六出;八卦屬象:乾為天,為晴;坤為地,為陰;坎為水,為雨雪冰雹;離為太陽,霞電;艮為雲;震為雷;巽為風;兌則星月、霧露類也。若冬月卜卦,遇坎化巽,或巽變坎,必有風雪飄揚之象。若父兄交變,而子孫兼動者,亦然。若父動而子化子,則是雪月交輝之象也。

坎卦と巽卦が交互に變化せば、この日は六出の雪花の飛舞あり。八卦は各々屬する象あり。乾は天・晴と為し、坤は地・陰と為し、坎は水・雨雪冰雹と為し、離は太陽・霞・電と為し、艮は雲と為し、震は雷と為し、巽は風と為し、兌は星月霧露の類と為す。もし冬月に卦を卜して、坎の巽に化するか巽の坎に變ずるに遇えば、必ず風雪飄揚の象あり。もし「父母」と「兄弟」が交互に變化して「子孫」また同時に發動するも同じ。もし父母が發動して子孫が子孫を化出せば、それは雪月交輝の象なり。

陰陽各半,今朝霖雨慰三農。雨乃陰陽之象,鬱結而成。故古人有“陰陽和,而後雨澤降”之說。凡占天時,得陰陽相半之卦,必然有雨。然亦必須將財父兼看。純陽卦安靜,占雨不雨,占晴必晴,動則主雨。純陰卦安靜,占晴不晴,占雨必雨,動則主晴。蓋陽動則變陰,陰動則變陽。故也。純陰卦,動出父爻,終有雨;純陽卦,動出財爻,終晴。

陰爻陽爻が各々半を占めれば、今日のこの場の好雨は農家を慰藉す。雨は陰陽の二二氣の鬱結して成る象で、ゆえに古人に「陰陽和して、然る後に雨澤降る」の説あり。およそ天時を占うに、陰陽各半の卦を得れば、必然に雨あり。ただしなお「妻財」「父母」を合せて看るを要す。純陽の卦が安静なれば、雨を占うに雨ならず、晴を占うに必ず晴れ、一動すればかえって雨あるを主る。純陰の卦が安静なれば、晴を占うに晴れず、雨を占うに必ず雨、一動すればかえって晴に放たるを主る。これ陽動すれば陰に變じ陰動すれば陽に變ずるの故なり。純陰の卦がもし「父母」爻を動出せば、ついに雨あり。純陽の卦がもし「妻財」爻を動出せば、ついに晴に放たる。

兄弟木興繫巽風,而馮夷何其肆惡;占天,遇兄弟屬木在巽宮,乘旺動來刑剋世爻,當有颶風之患。更與父爻同發,必成風雨。若化官,定然傷物。化出水,風雨兼作。化出火土,惟云耳。妻財火動屬乾陽,而旱魃胡爾行凶。財臨火動,或從火化,或化火爻,或變入乾卦;而又遇月建、日辰、動爻生扶合助者,必主大旱。若六爻無水,父母死絕,或父與水爻在空,而財福當權旺動亦是。

「兄弟」が木に属して興動し、また巽風の宮に係るときは、河伯・馮夷はなんと酷く暴れることか。天時を占って「兄弟」が木に属し巽宮にあり、旺に乗って発動して世爻を刑克しに来れば、飓風の患があるはずである。再び「父母」爻と同時に発動すれば必ず風雨となる。兄弟が「官鬼」を化出すれば風は必ず物件を傷損し、水爻を化出すれば風雨が揃って来、火爻・土爻を化出せばそれはただ起雲するのみである。「妻財」が火に属して発動し、また乾陽の象に属するときは、旱魃はなぜこのように凶悪をなすのか。財爻が火に臨み発動し、あるいは火爻から化され、あるいは火爻を化出し、あるいは乾卦に変入し、しかも「月建」「日辰」と動爻の生扶合助に遇えば、必ず大旱を主す。もし六爻の中に水爻がなく、「父母」が死絶し、あるいは父母と水爻がともに空に落ち、「妻財」「子孫」が権に当たり旺動すれば、これも大旱の象である。

六龍御天,只為蛇興震卦;震卦又為龍象。若有青龍鰧蛇,在此宮動者,必有龍現。雖非龍蛇,而在辰巳爻上旺動者,亦主有龍。從父化出,先雨後龍現;化出父爻,先龍後雨;父爻安靜,或空伏,龍雖現而無雨。化財亦然。若蛇龍辰巳等爻,臨鬼動者,非龍,乃電掣金蛇也。

六龍が天空を駕御するのは、ただ「螣蛇」が震卦に興動するがゆえである。震卦はまた龍の象である。もし「青竜」「螣蛇」が震宮で発動すれば必ず龍の現れることがある。たとえ青竜螣蛇でなくとも、辰・巳の両爻上で旺相発動すれば、同じく龍有りを主す。それが「父母」爻から化出せば先に雨が降って後に龍が現れ、それが「父母」爻を化出せば先に龍現れて後に雨が降る。もし父母爻が安静であるか、あるいは空に落ち伏蔵すれば、それは龍現るるも雨なしである。化出して「妻財」となるも同じである。もし螣蛇・青竜あるいは辰巳等の爻が「官鬼」に臨んで発動するならば、それは龍ではなく、電光が金蛇の如く乱れ掣くのである。

五雷驅電,蓋緣鬼發離宮。電,雷之光也。有聲曰雷,無聲曰電。若鬼在離宮動,當以五雷驅電斷之。蓋離有彩色之象。故也。火鬼亦然。金化火,火化金,雷電交作。凡鬼爻旺相,雷聲必烈;休囚,其雷稍輕;克世臨金,或帶自刑,雖不旺相,聲亦驚駭。屬土無氣,隱隱輕雷也。《金鎖玄關》及《卜易玄機》,以鬼臨金火,皆作電斷。愚謂:金乃有聲之象,火則然矣,金何理乎?故不敢取。

五方の雷神が電光を駆り立てるのは、みな「官鬼」が離宮で発動するがゆえである。電は雷の光である。声あるを雷と呼び、声なきを電と呼ぶ。もし鬼爻が離宮で発動すれば、五雷駆電をもって断ずべきである。離に彩色の象あるがゆえである。火爻の鬼も同じである。金が火に化し、火が金に化すれば則ち雷電交作す。およそ鬼爻が旺相ならば雷の声は必ず烈しく、休囚ならば雷の声はやや軽い。もしそれが世を克して金に属し、あるいは自刑を帯びれば、たとえ旺相ならずとも声は人を驚かす。土に属して気なければ、それは隠隠たる軽雷である。『金鎖玄関』と『卜易玄機』はともに鬼の金に臨み火に臨むを一概に電と断じているが、私は金は声あるの象であり、火を電とするはまだ通じるも、金は何をもって電とするか。ゆえに敢えて採用しない。

土星依父,雲行雨施之天;木德扶身,日暖風和之景。土主云,父主雨。故土臨父動,有云行雨施之象。木主風,財主晴。故木臨財動,有日暖風和之景。變化者亦然。多霧多煙,爻上財官皆動。財動本晴。若鬼爻亦動,或日辰帶鬼,持克世爻,必先有煙霧而後開晴也。官旺財衰,大霧重如細雨;鬼衰財旺,煙迷少頃開晴。

土星が「父母」に依れば、すなわち雲行雨施の天であり、木徳が身爻を扶ければ、すなわち日暖かく風和やかなる景である。土は雲を主り父は雨を主る。ゆえに土爻が父母に臨み発動すれば雲行雨施の象があり、木は風を主り財は晴を主る。ゆえに木爻が妻財に臨み発動すれば日暖風和の景があり、変化の中から化出するも同じである。霧多く煙多きは、爻上の「妻財」「官鬼」がともに発動するのである。財動はもとより晴を主るも、もし鬼爻も動き、あるいは日辰が鬼を帯びて世爻を持克しに来れば、必ず先に煙霧がありて後に放晴す。官旺にして財衰なれば大霧濃重にして細雨の如く、鬼衰にして財旺なれば煙気迷蒙してしばらくして散開放晴す。

身值同人,雖晴而日輪含耀;世持福德,縱雨而雷鼓藏聲。凡卜天時,被世爻所克者,必無此象。如兄弟持世,則克財爻;財若旺相,亦非皎潔天氣。子孫持世,則克官鬼;官若發動,雖雨必無雷聲。他仿此。世若安靜,或落空亡,皆勿斷。被日辰剋制者,其象必然。

身爻が同類相克の象に値すれば、晴るるといえども日輪の光輝は含みて露われず、世爻が福徳「子孫」を持せば、雨降るといえども雷鼓もその声を蔵す。およそ天時を卜するに、およそ世爻に克たれるその一象は必ず顕れない。たとえば「兄弟」持世ならば、兄弟はすなわち「妻財」を克す。財たとえ旺相なりとも皎潔の好天気ではない。「子孫」持世ならば子孫はすなわち「官鬼」を克す。官鬼たとえ発動すとも雨降るとも雷の声なし。その余はこれに倣う。世爻もし安静なり、あるいは空亡に落ちれば、みなこの条に照らして断じない。世爻もし日辰に克制せられれば、その一象は必然的に顕れない。

父空財伏,須究輔爻;占雨:父為主,鬼為輔;占晴:財為主,子為輔。若財父皆空,或俱不出現,或一空一伏,則雨晴難定;須究輔爻衰旺動靜,庶可推決。如鬼爻旺動,日月動爻又來生合,亦主有雨。子孫旺動,鬼爻墓絕,亦主晴。或官與子俱靜,則有日辰生合沖並者為急。如五月甲戌日,久晴占雨,得屯卦。財不出現,父爻衰空,同是雨晴難定之象。喜得日辰沖並,卦中土鬼暗動,果應有雨。但鬼臨土爻克水,所以雨亦不多矣。

「父母」が空に落ち「妻財」が伏蔵すれば、すなわち補佐の爻を推究しなければならない。雨を占うに「父母」を主とし「官鬼」を輔とし、晴を占うに「妻財」を主とし「子孫」を輔とする。もし財・父がともに空に落ち、あるいはともに現れず、あるいは一つは空に落ち一つは伏蔵すれば、雨晴定め難く、輔爻の衰旺動静を推究して、始めて断決すべきである。鬼爻が旺相発動し、日建月建と動爻とがまた来たり生合せば、これも雨有りを主す。子孫が旺相発動して鬼爻が墓・絶の地にあれば、これも放晴を主す。もし官鬼と子孫とがともに安静ならば、すなわち日辰有りて来り生し来り合し来り沖し来り併するその一つをもって急とする。たとえば五月甲戌日に久晴の後に雨を占い、《屯》卦を得た。財爻現れず、父爻また衰えまた空なり。正に雨晴定め難きの象である。幸いに日辰がまた沖しまた併して、卦中の土「官鬼」が暗動し、後に果して雨有りに応じた。ただ鬼の土爻に臨むは水を克するを要するをもって、ゆえに雨も下ること多からず。

剋日取期,當明占法。占雨,看父爻;占晴,看財爻;占風,看兄爻。久晴占雨:父爻衰弱,生旺日有;父爻安靜,沖動日有;父若發動,合值日有;月建是財,出月斷之;卦無父母,財爻墓絕日有。久雨占晴:財爻衰弱,生旺日止;日辰是財,當日即止;卦無財爻,父母墓絕日止;月建是父,出月止;日辰是父,財雖有氣,當日必不能止也。若衰爻遇有扶起者,即以扶爻斷之。如占一日陰晴,當以時刻取期也。

克応の日に按じて応期を推取するに、当に占法を明かにすべし。雨を占うに「父母」爻を看、晴を占うに「妻財」爻を看、風を占うに「兄弟」爻を看。久晴に雨を占うに、父爻衰弱なればその生旺の日に至りて雨有り、父爻安静なればそれを沖動するの日に至りて雨有り、父爻もし已に発動せば、それと相合するの値日に至りて雨有り。月建もし財爻ならばこの月を出ずれば乃ち雨有りを断ず。卦中もし父母なければ、財爻の墓・絶の日に至りて雨有り。久雨に晴を占うに、財爻衰弱なればその生旺の日に至りて雨止み、日辰もし財爻ならば当日に即ち止む。卦中もし財爻なければ、父母の墓・絶の日に至りて止む。月建もし父爻ならばこの月を出ずれば乃ち止む。日辰もし父爻ならば、財爻たとえ気有りとも当日は必ず止まず。もし衰弱の爻に別にそれを扶起する者あれば、すなわちそのそれを扶ける爻をもって日期を断ず。もしただ一日の内の陰晴を占わば、すなわち当に時辰を以て応期を取るべし。

要盡其詳,別陰陽而分晝夜;陰陽之分,當以卦宮取,勿以爻象論。陽以晝言,陰以夜言。或曰:外卦陽爻,以上午斷;內卦陽爻,以下午斷;外卦陰爻,以上半夜斷;內卦陰爻,以下半夜斷。又陽化陰,晝興夜作;陰化陽,夜興晝作。又曰:陽宮陽爻,午前推之;陽宮陰爻,午後推之。陰宮仿此。欲推其細,明衰旺以定重輕。衰旺以四時言,旺則重,衰則輕也。有氣而又臨生旺之地者愈甚,無氣而又臨墓絕之地者尤微。旺變衰,先重後輕;衰變旺,先輕後重也。能窮易道之精微,自與天機而吻合。

それを推して詳ならんと欲せば、則ち卦の陰陽を分ちて昼夜を定む。陰陽の分は当に卦宮に按じて取るべし。ただ爻象に按じて論ずべからず。陽は白昼を主り、陰は夜間を主る。一説あり、外卦の陽爻は上午に断じ、内卦の陽爻は下午に断じ、外卦の陰爻は上半夜に断じ、内卦の陰爻は下半夜に断ず。また陽が陰に化するは昼に起りて夜に作り、陰が陽に化するは夜に起りて昼に作ると曰う。また一説あり、陽宮の陽爻は午前に推し、陽宮の陰爻は午後に推し、陰宮はこれに類推す。それを推して精ならんと欲せば、則ち衰旺を明辨して軽重を定む。衰旺は四時に按じて言う。旺なれば応じること重く、衰なれば応じること軽し。気有りてしかも生旺の地に落つるは更に重く、気無くしてしかも墓絶の地に落つるは更に軽し。旺が衰に変ずるは先ず重くして後に軽く、衰が旺に変ずるは先ず軽くして後に重し。《易》道の精微を窮究する能くば、自然に天機と吻合して間なし。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.

Hexagrams in this volume