Libo

謙 艮下坤上

宋 · 胡瑗 · 第10巻 / 51

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

謙:亨。君子有終。

《謙》卦の卦辞は言います。謙退は人事を事事通達せしめ得て、君子が謙を行えば、終身守持して改変せざるを得ます。

義曰:按《序卦》云:有大者不可以盈,故受之以謙。謙者,卑退而不自驕盈之謂也。以二體言之,則艮下剛而止也,坤上柔而順也。大凡內剛止而外不柔順則失於亢,外柔順而內不剛止則近於佞。剛也柔也,內外相稱,此盡其所以為謙之道也。旣盡其謙,則是無不濟而亨通也。

胡瑗の解説:《序卦伝》は言います。盛大の物を擁有する人は自満し得なし。故に《大有》の後は《謙》に接ぐ。いわゆる謙とは、自ら卑下に処し退譲して驕矜自満しないことです。上下二つの卦体から見れば、下卦は艮で、剛強にして止まり得ます。上卦は坤で、柔和にして順い得ます。「剛柔」は《周易》の最も基本的な一対の性質で、陽は剛・陰は柔です。大凡内心が剛強にして止まり得て外表が柔順でない人は、高亢にして人を逼るに失し、外表が柔順で内里が剛強にして守る有らざる人は、また諂媚に近いです。剛と柔・内と外が両々相匹配して、これが謙の道理を講じ尽くします。謙の功夫がすでに做足すれば、何の事を為しても成さないことなく、自然と処処通達します。

君子有終者,終謂終身踐履而不變也。夫用謙之道,貴在久而行之。若夫小人亦有時而用謙,但不能終久由之,故朝行而夕或改矣。唯君子則能先明其性,平其心,發之於外則皆恭敬之道,故有庸言之信、庸行之謹,終身而行之無有改也。

君子が終を有り得ると言うに至って、この終は終身奉行して改変しないことを指します。謙徳を運用するに、貴ぶべきは長久に堅持し得ることです。小人にも偶に謙譲する時があるけれど、ずっと照らして行うこと能わず、往々にして朝はなお謙恭で夕には様を変えます。ただ君子のみが、先ず自分の心性を照察明らかにし、心気を平和に放って、言語挙止に発すれば恭敬せぬなく、ですから《周易・乾卦・文言》の言うようなことを為し得ます。平常の言語は必ず信実を求め、平常の行事は必ず謹慎を求めて、一生このようで始終改めず。

彖曰:謙,亨。天道下濟而光明,地道卑而上行。天道虧盈而益謙,地道變盈而流謙,鬼神害盈而福謙,人道惡盈而好謙。謙尊而光,卑而不可踰,君子之終也。

《彖伝》は言います。謙が通達し得る所以は、天の規律が陽気を降して万物に交済し、因ってその道は益々光明となり、地の規律が自ら卑下に処して、因って地気が上昇し得るからです。天道は盈満を虧損して謙退を增益し、地道は盈満を改変して謙下に流注し、鬼神は盈満に禍害を加えて謙遜に福を降し、人情は盈満を悪みて謙譲を好みます。謙は、尊位に在れば徳行が更に光顕し、卑位に在っても越えられる人なく、これがまさに君子が始終守持する徳行です。

義曰:謙亨,天道下濟而光明,地道卑而上行者,此釋所以得謙亨之道也。夫天體雖髙,以其能降下其氣而生萬物,是得其謙而道益光明也;地以其卑,故其氣得以上升,相濟以成萬物。夫天氣下降,地氣上升,二氣相交而能生成萬物,是得謙亨之義也。以天地至大,尚以謙而後亨,況於人乎?

胡瑗の解説:《彖伝》は先ず謙が亨通する所以を講じ、天道が下済して光明・地道が卑下して上行するに在り、これは謙がなぜ通達し得るかを解釈しています。天の形体は極めて高いけれど、陽気を降して万物を生養するを肯ずる、まさにそれが謙なので、その道はかえって愈々光明になります。地は本来卑下に居るので、地気が上昇し得て、天気と相配合して万物を成就します。天気が下降し地気が上昇して、両気が交感し、万物が生成を得る、これが謙が亨通し得る道理です。天地は何と広大なことか、なお謙下に靠ってはじめて通達するのに、況んや人においてをや。

天道虧盈而益謙者,此以下廣言謙之義也。虧,損也;益,增也。夫天之為道,盈滿者虧損之,謙順者増益之,至如日中則昃、月盈則蝕,皆其類也。地道變盈而流謙者,變,變易也;流,流佈也。至如水旣盈滿則必決洩而虧散之,其卑下者則流佈而增盈之,此其類也。

天道が盈満を減損し謙退を增益するという一句以下は、推し広げて謙の意義を申説します。虧は減損、益は增添です。上天の運行の法則は、満盈するを減損を加え、謙順するを增益を加える、譬えて言えば太陽が正中に升れば西に斜し始め、月が円満した後は虧欠し始める、皆この類に属します。地道が盈満を改変して謙下に流注するに至っては、変は改易、流は流布です。譬えて言えば水が積満すれば必然に決口して泄れ出て散じ、地勢が低下の処には水が流注して来てそれを填め満たす、またこの類に属します。

鬼神害盈而福謙者,害謂禍害之也,福謂福慶之也。鬼神者,天地之用也,有盈滿者則從而禍害之,有謙損者則從而福慶之。人道惡盈而好謙者,人之為道,有驕淫者眾共惡之,有謙退者眾共好之。以天地鬼神之為道,或虧變禍害其盈者,而益流福慶其謙者,其在於人者可知矣。

鬼神が盈満に禍害を加えて謙遜に福を降すと言うのは、害は禍患を降し、福は福慶を賜うことです。鬼神は天地造化の作用で、満盈自大のに遇えば随って災を降し、謙退自損のに遇えば随って福を賜います。人情が盈満を悪み謙譲を好むと言うのは、人情に就いて言えば、驕横放縦の人は衆人が一斉に彼を悪み、謙遜退譲の人は衆人が一斉に彼を好みます。天地鬼神の法則がなおこのようである――盈満の者には或いは減損し或いは改易し或いは禍を降し、謙退の者には或いは增益し或いは流注し或いは福を賜う――それではこの道理が人の身に落ちればどうかは、また想いが及びます。

謙尊而光者,以尊上而言之,若天子諸侯及為人父、為人兄,凡在人上者,苟能好謙,則其德愈尊而光大矣。卑而不可踰者,卑者以爵言之士也,以人言之庶民也,及為子、為弟,凡在人下者,若能益尚謙退,則雖在卑下,亦眾人所不能踰越也。君子之終也者,言上之所行終身由之而不變者,唯君子為能然也,此聖人舉之以結上文耳。

謙の者が尊に居って更に光大を顕すと言うのは、上位に居る人に就いて講じたので、天子・諸侯、および父たる者・兄たる者のごとき、凡そ位が人の上に在る者は、ただ謙徳を好み得れば、彼の威望は愈々尊崇にして光大になります。謙の者が卑しといえども越え得る人なしと言うのは、下位に居る人に就いて講じたので、爵位の上から言えば士人・身分の上から言えば百姓、および子たる者・弟たる者のごとき、凡そ位が人の下に在る者は、もし更に謙退を崇尚し得れば、縦使卑微に身を処しても、彼を超越し軽慢する人はありません。末句が君子の終を点出するに至っては、上に講じたこれらを、終身奉行して改変せざるを得るのは、ただ君子のみが為し得るということです。これは聖人がこの句を拈出して上文を収束したのです。

象曰:地中有山,謙。君子以裒多益寡,稱物平施。

《大象伝》は言います。高大の山がかえって地の下に隠蔵する、これが《謙》の卦象です。君子はこれに取り法って、多き頭を減らして下し、少き頭を補いて上げ、事物の多寡を衡量して、施予を均平に趨かせます。

義曰:山體本髙,地體本卑,今山居地之中,是抑髙舉下之義而得謙之象也。君子假借其象,言物有多者減而裒聚之,少者增益之,稱其物之多少而均平其施與,是亦抑髙舉下之義也。

胡瑗の解説:山は本来高聳し地は本来低平なのに、今、山は地の中間に蔵れて、これは高き者を圧抑し下き者を抬挙する意を含有し、まさに謙の卦象に合します。君子はこの景象を借取して教を立てます。財物の多き頭は削減し聚めて来て、少き頭は添補して上げて、各々の多寡を衡量して施予を均平に趨かせる、これは同じく高きを抑え下きを挙げる道理です。

初六:謙謙君子,用渉大川,吉。象曰:謙謙君子,卑以自牧也。

初六の爻辞は言います。謙にしてまた謙の君子は、この徳行に凭って大河巨険を渡渉しても、吉を得られます。《小象伝》は言います。謙にしてまた謙の君子は、卑下を以て自処して自身を涵養します。

義曰:初六以謙巽而居一卦之下,是其謙而又謙者也。夫謙謙之道,小人所不能為,唯君子則能行之,故曰謙謙君子。用渉大川吉者,夫君子持身卑退,恭敬之心發於內,則謙謙之道形於外,故眾心皆歸而萬民皆服。民眾旣歸,則雖有大險大難,用是而渉之無有不濟,況於平易常處之時,獲其吉也可知矣。象曰謙謙君子卑以自牧也者,牧,養也,守也。言大人君子所以謙而又謙者,蓋內明其性,外篤其敬,以卑而自守故也。

胡瑗の解説:初六は謙遜卑順の質を以て全卦の最下位に居り、謙が極処に至り謙にしてまた謙の人です。謙にしてまた謙のこの路は、小人には歩けず、ただ君子のみが為し得るので、爻辞は彼を謙謙君子と称します。これに凭って大河を渡渉して吉を得ると言うのは、君子が自身の謙卑退譲を持守して、恭敬の心が内里から発して、謙謙の徳が外に顕現して、こうして人心は皆来て帰附し万民は皆順服を肯ずるからです。民衆がすでに帰心すれば、縦使天大の凶険艱難があっても、この人心に凭って渡れば成らないなく、況んや平常無事の時において、吉を得るは自然と言うを待ちません。《小象伝》が卑下を以て自ら涵養すると言うのは、あの「牧」の字は涵養でありまた守持です。これは大人君子が謙の上に謙を加え得る所以は、内里に心性を照察分明にし、外に恭敬を篤実に為して、終始卑下を以て自守するからだということです。

六二:鳴謙,貞吉。象曰:鳴謙貞吉,中心得也。

六二の爻辞は言います。謙徳の名声が外に伝揚して、正道を守持して吉を得ます。《小象伝》は言います。名声が外に伝わり貞正に吉を得るのは、この謙徳がもとより心中から得たからです。

義曰:鳴者,聲聞流傳於外也。夫六二居卦之中,以陰居陰,是君子履中居正,積柔順而行其謙,故聲聞流於人也。貞吉者,言六二以謙退之聲聞於人,是得正道之吉也。象曰鳴謙貞吉中心得也者,此言君子所作所為皆得諸心,然後發之於外,則無不中於道也。故此謙謙皆由中心得之,以至於聲聞流傳於人而獲至正之吉也。

胡瑗の解説:鳴は名声が外に流伝することです。六二は下卦の中位に居り、また陰爻を以て陰位に居って、まさに君子が中正の上に踏み、柔順の徳を積蓄して謙道を行うので、声誉は自然と衆人に伝揚します。正を守って吉を得ると言うのは、六二が謙退の名声を以て人に知られるのは、これは正道を守住して得た吉祥を指します。《小象伝》がこの謙徳は内心から獲得したと講じるのは、君子の一言一行が皆先ず内心の真実から得て、然る後に外に発露するので、正道に合せぬなく、ですからここの謙にしてまた謙は、全て内心から自然と生出して、進んで名声を人に伝えて極めて純正の吉祥を獲得したのです。

九三:勞謙君子,有終,吉。象曰:勞謙君子,萬民服也。

九三の爻辞は言います。勤労して謙徳を失わない君子は、善く始め善く終り得て、因って吉祥です。《小象伝》は言います。勤労して謙を行う君子には、天下万民が帰心順服します。

義曰:勞謙者,言勤勞于謙也。九三以陽居陽,為下卦之長,眾陰所歸而其位至重,故上則謙以奉於君,下則謙以治於民,勤勤不已,無有厭斁之心,是謂勞謙者也。君子有終者,言君子唯以行道為己樂,不以用謙為己勞,故終身行之而不變,所以得其吉也。象曰勞謙君子萬民服也者,言君子之人勤勞而行謙,則為萬民之所服而眾心之所歸。且凡人能謙者,天地鬼神尚且佑助而福慶之,則民之服従也可知矣。

胡瑗の解説:いわゆる労謙とは、謙のこの事の上に苦功を下るを肯ずるを言います。九三は陽爻を以て陽位に居り、下卦の首領で、衆多の陰爻が皆それに帰向し、位置は極めて吃重です。それゆえ上に対しては謙恭を以て君主に奉事し、下に対しては謙和を以て百姓を治理し、勤勤懇懇として歇まるを肯んじず、半分の厭倦懈怠の心なく、これを労謙と呼びます。君子が終を有り得ると言うのは、君子がただ道を行うを己の快楽と為して、謙を守るを負担と為さないので、終身奉行して改変せず、因って吉を得ます。《小象伝》が万民が順服すると言うのは、君子が勤労して謙を行えば、万民に信服され衆心に帰向され得るということです。況んや凡そ謙し得る人は、天地鬼神でさえ彼を佑助し彼に福を賜うのに、百姓の順服は自然と更に言うを待ちません。

六四:無不利,撝謙。象曰:無不利撝謙,不違則也。

六四の爻辞は言います。処処利ならざるなく、それが一挙一動・号令発施の間に皆謙道に合するからです。《小象伝》は言います。処処利ある所以は、六四が守るべき法度に違背しなかったからです。

義曰:撝謂指揮之間皆謙也。夫大有之四處君臣之間,故聖人戒之言匪其彭,然後得無咎,以其以陽而居陰也;此謙之四亦在君臣之間,乃言無不利撝謙者,以其以陰居陰,履得其正故也。何則?凡朝廷之間,必得正人端士以贊佐其君,則為治於天下無所不利也。

胡瑗の解説:撝は、手を挙げ足を投じ号令を発施する際に処処謙徳を失わないことを言います。《大有》卦の九四もまた君臣の間に夾んでいましたが、聖人はそれに必ず九三を攀附せざるべしと告戒して、はじめて過錯を免れ得るとしました。あれはそれが陽爻を以て陰位に居り処する所が正でなかったからです。《謙》卦の六四は同じく君臣の間に夾んでいますが、爻辞は往くも利ならざるなく挙措が皆謙だと言います。あれはそれが陰爻を以て陰位に居り爻位が端正適当だからです。なぜ位が正しければ利があるかというと、朝廷の上には必ず正派端方の士があって君主を輔佐してはじめて、天下を治理するに往くも利ならざるなしとなります。

今六四以至柔之質而居柔位,是至正之人也。以至正之人而上近於六五之君,下比於九三之臣,而盡謙巽之道以承接之,故進退俯仰以至指揮之間,皆得用謙之道而無有不利也。象曰無不利撝謙不違則也者,言六四所以然者,由履於正位,不違逆其法則也。

今、六四は極めて柔順の資質を以て柔位に居り、まさにこのような端方守正の人です。このような端正の人を以て、上には六五の君に親近し、下には九三の臣と相「比」し――「比」は相隣る二爻が彼此親近相辅することを指します――而して謙遜卑順の道を尽くして承事し接納するので、進退俯仰は言うに及ばず号令を発施しても、件件が皆謙道に合し、因って利ならざるなしです。《小象伝》がそれが法度に違背しないと言うのは、六四がこのようである所以は、まさにそれが端正の位置に立って、守るべき規矩に違逆しなかったからだということです。

六五:不富以其鄰,利用侵伐,無不利。象曰:利用侵伐,征不服也。

六五の爻辞は言います。財富の豊厚に靠らずとも左右隣邦を役使し得て、兵を出して討伐するに适宜で、利ならざるなしです。《小象伝》は言います。征討に适宜な所以は、あの帰服を肯んじない人を討伐するためです。

義曰:以,用也。六五以柔順居至尊之位,是能執柔以治人,居謙以遇物,故不待富盛而能用其鄰也。以天子言之,則能用其四夷與天下諸侯;以諸侯言之,則能用其鄰國也。利用侵伐無不利者,言六五以柔德化治天下而能用其鄰,當此之時,苟有不庭不軌之人,則是不率仁人之教而天下共棄之。人乘天下共棄之心而伐之,無所不利。

胡瑗の解説:爻辞の裏の「以」の字は「用」と講じます。六五は柔順の徳を以て至尊の位に居り、柔道を握持して衆人を治理し謙徳を守って人に対し物を接し得るので、財力の富足に靠らずとも四隣の効力を得ます。天子に就いて言えば、四方の部族と天下の諸侯を役使し得て、諸侯に就いて言えば、相隣る邦国を借重し得ます。征討に适宜して利ならざる所なしと言うのは、六五が柔徳を以て天下を教化しまた四隣を調動し得て、この種のときにもし朝覲を肯んじず法度を守らない人があれば、それは仁君の教化に服せずして天下に共に棄てられる者です。天下の共棄の心に順って彼を討伐すれば、自然と順利でないものがありません。

夫堯舜以至仁率天下,然尚有三苗之徵,則其它可知矣。但聖人在上,有叛逆之人則眾所共怒也,以至仁而侵伐之,無有不利也。然先聖於此特言侵伐者,蓋有意於勸耳。何則?夫人君之治天下,必恩威兼用然後可濟,今當謙之時,不可純用於謙,其有不庭不軌,必以侵伐而克之也。

堯・舜は最高の仁徳を以て天下を統率しても、なお三苗を征討する挙動があり、其余の情形もまた想いが及びます。ただ聖人が上に在れば、叛逆の人が出るは衆怒の帰する所で、至仁の師を以て彼を討伐すれば、順利でないものがありません。ただ先聖が《謙》卦の裏で特に征伐の二字を提出したのは、別に一番の勧誡の用意があります。なぜかというと、君主が天下を治理するに、必ず恩徳と威刑を併用してはじめて成し得、今は正に謙を尚ぶ時に当たっても、一味に謙譲のみを用い得ず、朝覲を肯んじず法度を守らないに遇えば、終に征討を以て彼を制服せねばなりません。

上六:鳴謙,利用行師,征邑國。象曰:鳴謙,志未得也,可用行師征邑國也。

上六の爻辞は言います。謙徳の名が外に伝揚して、軍隊を出動して、自分の封邑の内の叛乱を征討するに适宜です。《小象伝》は言います。名声はすでに伝わり開けたけれど、志向はまだ真に実現していないので、ただ兵を出して自分の属邑を整治するのみです。

義曰:上六居上卦之極,謙道已得而處於無位,然本以其行謙,故亦有聲名流傳於外,故曰鳴謙。利用行師征邑國者,言上六雖行謙而聲名既著矣,然而居無位之地,無功實之效,故但可行師徵己之邑國而已,是其功未能及遠,不若六五之用侵伐而無所不利也。

胡瑗の解説:上六は上卦の頂端に居り、謙の功夫はすでに修足したけれど、居る所は職位のない地で、ただそれはもとより謙を行っているので、名声は照样外に伝揚し、それゆえ爻辞はそれの謙名が遠く播れていると言います。兵を出して自分の属邑を征討するに适宜だと言うのは、上六が謙を行って声名はすでに顕赫であるけれど、身に無位の地に居り、実際の事功の凭藉が缺少して、ただ兵を出して自分の封邑の内の事を整治するに過ぎず、その功業はまだ遠方に推及できず、六五のように兵を出して討伐して往くも利ならざるなしには及びません。

象曰鳴謙志未得也者,按六二亦言鳴謙,而象曰中心得也,此言志未得者,蓋六二當人臣之位,居中履正,以此而行謙,故得吉也。今上六雖有謙巽之聲聞於外,然居無位之地,雖欲立功立事於天下,其志未有所得也。

《小象伝》がそれの心志がまだ実現していないと言うのは、六二もまた謙名の遠播を講じていて《小象》はあれは内心の真実に得たと言うのに、ここではなぜ心志が未遂だと言うのでしょうか。六二は人臣の位置に正しく当たり、中に居り正を守って、この位置に凭って謙を行うので、吉を得られました。而して上六は謙遜の名が外に遠く播れていると雖も、処する所は無職無位の地で、縦使天下に功業を建立せんと欲しても、心志はなお実処に落ち得ないのです。

豫 坤下震上

豫:利建侯行師。

《豫》卦の卦辞は言います。和楽の局面の下で、諸侯を分封し軍旅を出動するに宜しいです。

義曰:豫,樂也,悅也。按《序卦》云:有大而能謙必豫,故受之以豫。言聖人在上,大有天下之眾,而又能持謙巽之德以臨於下,則天下之人皆悅豫而従之。以二體言之,則雷出於地上而蟄蟲昭蘇,勾萌皆達,萬物無不得其豫悅也,故曰豫。

胡瑗の解説:豫とは、歓楽・喜悅です。《序卦伝》は言います。すでに盛大でかつ謙退し得れば、必ず和楽をもたらす。故に《謙》卦の後は《豫》卦に接ぐ。これは聖人が上に在り、すでに天下万民を擁有して、また謙遜卑順の徳を持守して下の人に対すれば、天下人は皆歓欣鼓舞して彼に従うということです。上下二つの卦体から見れば、震の雷は地面から奮発して出て、蛰伏の虫豸は醒め蘇り、屈曲の芽と初生の苗は皆土を破って伸展し、万物は各々その楽を得ないなく、ですから卦名を豫とします。

利建侯行師者,天下之人既已悅豫,則當建立諸侯而分治天下,出兵行師以討其叛逆。何則?夫民苟不順,何為而可哉?民心既已悅順,雖驅之死地而亦従之,故豫而建侯行師無所不利矣。若武王之伐紂,以其順天應人,是以一怒而安天下,天下之民無不悅豫而順従也。

諸侯を分封し軍旅を出動するに宜しいと言うのは、天下人がすでに歓悦した以上、諸侯を分封して分区治理させ、軍隊を出動して叛逆を討伐せしめるべきだからです。なぜかというと、百姓がもし順従を肯んじなければ、何の事を為しても成せましょうか。民心がすでに歓悦順服すれば、たとえ彼らを湯火に赴かせても従うを肯ずるので、和楽の時に諸侯を封建し兵を興して征討すれば、順利でないものがありません。周武王が商紂を討伐したがごときは、上に天意に順い下に人心に応えたので、奮然と一怒して天下を安定し、天下の百姓は歓欣順服せぬものがありませんでした。

彖曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎?天地以順動,故日月不過而四時不忒;聖人以順動,則刑罰清而民服。豫之時義大矣哉!

《彖伝》は言います。《豫》卦が豫たる所以は、九四という陽剛の爻が陰爻の応和を有り、心志が施行を得るからで、下卦の坤は順・上卦の震は動で、情理に順って行動する、これが豫です。すでに理に順って動けば、天地でさえそれと相合するのに、況んやただ諸侯を分封し兵を出して征討するような事においてをや。天地はまさに理に順って動くので、日月の運行に差錯なく四時の更替に失序なく、聖人は民心に順って動くので、刑罰は清簡にして百姓は帰服します。《豫》卦の処する時機と義理は、実に重大です。

義曰:剛應而志行者,此以二體明其義。剛謂九四也,應謂初也。九四以剛陽居大臣之位,又處震動之下,下與初六為應,是上下之志皆得通行也。順以動豫者,震上動也,坤下順也,言聖人所動皆順於民心,則民無有不順而悅豫也。

胡瑗の解説:陽剛に応があって心志が行を得ると言うのは、上下両体に就いて卦義を説明します。剛は九四を指し、応は初六を指します。九四は陽剛の質を以て大臣の位に居り、また震体の最下に居って、下に初六と相応するので、上下の心志が皆暢通して施行し得ます。理に順って動けばすなわち豫だと言うのは、上卦の震が動を主り下卦の坤が順を主ることを指し、聖人の一切の挙動が皆民心に順えば、百姓は順服歓悦せぬものがありません。

豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎者,此釋建侯行師之義。言聖人能以豫順民心,又合乎時,雖天地之至髙至厚尚亦不違,況建侯以治民、行師以戡難乎?其利可知也。天地以順動,故日月不過而四時不忒者,言天地之大,一晝一夜凡行數十餘萬里而無毫釐之過與不及,是能以至順而動,故日月代明而無薄蝕之差,四時迭行而無盭繆之愆也。

和楽して理に順り以て動けば、天地でさえそれと相合するのに、況んや諸侯を分封し兵を出して征討するにおいてをやというのは、これは封建と用兵の道理を解釈します。聖人が能く和楽を以て民心に順応しまた時宜に合すれば、至高の天・至厚の地でさえ彼に違逆しないのに、況んや諸侯を分封して百姓を治理し軍隊を出動して禍乱を平定するにおいてをや、その中の利益は言うまでもありません。天地が理に順って動くので日月に差なく四時に乱れないと言うのは、天地がこのように広大で、一昼一夜に数十万里を運行するのに、一糸一毫の過頭も不足もなく、まさに最も順なる方式を以て運動するので、日月は輪番に照り耀いて虧蝕の差錯なく、四季は順次更替して顛倒錯乱の失誤がないということです。

聖人以順動,則刑罰清而民服者,聖人以天地為心而有所動作,則天下之人悅豫而従,故刑罰清而民服従之。然此指刑罰而言者,葢聖人用之所以禁暴止奸,萬民之所深畏者也。當刑者刑之,當罰者罰之,懲一而勸百,故刑罰可措而清矣,是天下之民服従而不犯也。豫之時義大矣哉者,聖人嘆美之辭也,言豫之時其義至大,意使後人所動所為當順於心而已。

聖人が理に順って動けば刑罰は清簡にして百姓が帰服すると言うのは、聖人が天地の生養の心を以て心として挙措する所有れば、天下人は歓悦して従うので、刑罰は清簡にして百姓は服従するということです。ここに単に刑罰を挙げて言う所以は、刑罰はもとより聖人が暴行を禁絶し奸邪を遏止するのに用いる手段で、また万民が最も畏懼する物だからです。刑を用いべきは刑を用い、処罰すべきは処罰して、一人を懲治して百人を警戒するので、刑罰は擱置して用いず清簡に帰し得て、天下の百姓は自然と服従して法を犯しません。末句が《豫》卦の時義の大を讃嘆するのは、聖人が称美する話で、和楽の時の含む義理が極めて重大で、その用意は後人に凡そ挙動作為ある毎に、必ず人心に順わねばならぬと欲するにあります。

象曰:雷出地奮,豫。先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。

《大象伝》は言います。震雷が地の下から奮発して出て、声勢が昂揚する、これが《豫》の卦象です。先王はこれに取り法って、音楽を制作して徳業を推崇し、盛大の礼儀を以て楽章を上帝に献享し、かつ祖先を以て配享しました。

義曰:雷者,陰陽奮擊成聲也。殷,盛也。言雷聲奮出於地上,則震動萬物,使勾者盡出,萌者盡達,萬物起而滋植,悅豫之象也。先王觀此之象,則必順時而動,使天下之人皆従服而和樂也。

胡瑗の解説:雷は、陰陽二気が相激し相搏して発出する声響です。殷は、盛大です。これは雷の声が地面から轟然として出て、万物を震動させ、蜷曲の芽を尽くして土を破らせ、初萌の苗を尽くして舒展せしめ、万物が勃然として生長する、まさに歓悦和楽の景象だということです。先王はこの景象を観察して、時令に順って行動し、天下人を皆心の服悦・安和快楽せしめました。

民旣和樂,於是採其和聲,作樂以通天下之和,使天下之人聞之而無不悅樂,則其德從而崇髙也。故若武王伐紂之後,天下之民旣出於塗炭而得其和樂,於是象其成功而作大武之樂,是由順民心而動者也。且聖人作樂,不惟民得其和,又且薦之上天,配以祖考,所以通人神之和而告其成功也。

百姓がすでに和楽したので、こうしてあの和平の声を采集して、音楽を製成して天下の和気を貫通し、天下人に聞かせて歓喜せぬなくして、君主の徳業もまた随って崇高になりました。ですから周武王が商を滅ぼした後、天下の百姓は水深火熱を脱離して安楽を重獲したので、武王は自分の功業に依照して《大武》の楽を創制した、これがまさに民心に順って行動した結果です。況んや聖人が音楽を制作するは、ただ百姓にその和平を得せしめるのみならず、またそれを上天に献享し祖先を以て配祭して、以て人と神の間の和気を溝通し、かつ上天に功業の成就を報告するのです。

初六:鳴豫,凶。象曰:初六鳴豫,志窮凶也。

初六の爻辞は言います。得意して形を忘れて歓楽を張揚し出せば、凶険があります。《小象伝》は言います。初六が歓楽を外に張揚するのは、心志が逸楽に沈溺して尽頭に走ったので、凶です。

義曰:鳴謂聲名流傳於外也。初六居豫之初,繫應於四,四為悅豫之主,有盍簪之朋而已應之,是得志於四也。夫以小人得志,則悅豫過甚,驕奢放恣,無所不為,以至聲傳於外而致其凶咎也。象曰鳴豫志窮凶也者,大凡樂不可極,志不可滿,人理之常也,今初六致其凶咎者,志窮於悅樂故也。

胡瑗の解説:鳴は名声が外に張揚することです。初六は《豫》卦の初に居り、九四と相応します。九四は歓楽を掌握する主爻で、衆人は髪簪が頭髪を聚攏するように彼に帰附し、而して初六は恰好彼と相応して、九四の所で志を得たに等しいです。小人が一旦志を得れば、歓楽は頭を過し、驕縦奢侈・放肆妄為して、為せないことなく、以致って張揚して遠近に皆聞こえて、凶禍を招来します。《小象伝》が彼の心志が尽頭に走って凶だと言うのは、大凡快楽は極処まで享けず、心愿は十分まで填めてはならず、これは人事の常理で、初六が凶咎を招来したのは、まさに心志が一味に享楽の裏に沈溺して、更に回旋の余地がなかったからです。

六二:介于石,不終日,貞吉。象曰:不終日貞吉,以中正也。

六二の爻辞は言います。節操が磐石の如く堅定で、一日が過ぎるを待たずして苗头を看清みて身を抽き、正を守って吉を得ます。《小象伝》は言います。終日を待たずして正を守って吉を得るのは、六二が中に居りかつ位に当たるからです。

義曰:介于石者,言介然如石之堅勁也。六二處悅豫之時,居中履正,是中正知之君子也。初六有鳴豫之凶,已下交之而無褻瀆之心;九四為悅豫之主,有盍簪之朋,已上交之而無諂媚之行。是君子之人介然守其節操,堅勁如石,守其正道,故不終日之間所以獲其吉也。先聖繫辭釋此爻曰:君子見幾而作,不俟終日,介如石焉,寧用終日。是言六二中正而獲吉也。

胡瑗の解説:節操が石の如く堅定だと言うのは、操守が卓然として独立し石のように堅硬であることを形容します。六二は衆人が逸楽に耽る時に居りながら、下卦の中に居りかつ陰爻を以て陰位に居って、すなわち中にしてかつ正で智慧ある君子です。初六には張揚して凶を取る患があり、六二は下に向かってそれと交往しても軽慢褻狎の心を帯びず、九四は歓楽の主爻で身辺に大批の依附者を聚めているのに、六二は上に向かって彼と交往しても一糸の諂媚の態を帯びません。これがまさに君子が卓然として自分の節操を守住し、石の如く堅硬にして正道を堅守するので、一日が過ぎるを待たずして吉祥を獲得し得ます。先聖は《繫辞》の裏でこの一爻を解釈して言います。君子は事の細微の徵兆を見れば直ちに行動し、一日が過ぎるまで待つ必要なく、操守が磐石の如く堅ければ、どうして終日拖延するを用いようか。言う所はまさに六二が中に居り正を守って吉を得るのです。

六三:盱豫,悔,遲有悔。象曰:盱豫有悔,位不當也。

六三の爻辞は言います。眼を開いて上を仰いで諂媚して歓楽を求めれば、悔恨があります。遅疑して進まなくても、同じく悔恨があります。《小象伝》は言います。諂媚して楽を求めて悔に至るのは、六三の処する位置が恰当でないからです。

義曰:盱者,盱睢諂媚之謂也;遲,緩也。以不中不正之質而上近於九四操權之臣,若盱睢諂媚以求悅於四,則必有悔也;若遲緩而不求於四,亦必有悔也。然則六三何以進退遲速之間皆有悔?蓋悅豫之時,以正而從之則可也,三旣以不正而所求者又不正,則宜其速悔矣。

胡瑗の解説:盱は目を張り仰ぎ視して逢迎諂媚する様子、遅は遅緩です。六三はすでに中に居らずまた位に当たらず、上に権柄を手握る九四に緊挨します。もし大眼を睜いて九四に討好巴結しに行けば、必然に悔恨を招来し、もし遅疑观望して九四に親附しに行かなくても、照様悔恨があります。それでは六三はなぜ進んでも悔い退いても悔い、速くても悔い慢くても悔いるのでしょうか。和楽の時に、ただ正道を以て追随してはじめて行き通るからです。六三は本身が正でなく、追随せんとする九四もまた正応ではないので、速やかに後悔するも怪しむに足りません。

九四:由豫,大有得,勿疑,朋盍簪。象曰:由豫大有得,志大行也。

九四の爻辞は言います。天下の歓楽が皆彼に由って来るので、大いに得る所有ります。ただ属下を猜忌しなければ、同道の人が髪簪が髪を束ねるように聚攏して来ます。《小象伝》は言います。歓楽が彼に由って生じ大いに得る所有るのは、彼の心志が充分に施展を得たことを言います。

義曰:此卦上下群爻皆陰柔,而四獨以剛陽之德為豫之主,然非至尊之位,乃專權之臣也。權既已專,是以上下皆附從之,必由於已而後得豫也,故曰由豫也。大有得者,四既得眾爻從之以取其悅樂,是已之大有所得也。

胡瑗の解説:この卦は上下の各爻が皆陰柔で、ただ九四のみが陽剛の徳を以て歓楽の主宰となりましたが、しかしそれの居る所は至尊の位ではなく、ただ一位の大権を独攬する臣子です。権柄がすでに一身に集まれば、上下は皆来て依附し順従して、天下の歓楽は皆彼を経由してはじめて獲得するので、爻辞は歓楽が彼に由って来ると言います。大いに得る所有ると言うのは、九四がすでに衆爻の追随を得てこの歓楽を享有するので、自身の収穫が甚だ大きいからです。

勿疑朋盍簪者,朋,類也;盍,合集也;簪,冠之笄也。言四秉悅豫之權,眾來附已,然而必藉天下群才共成天下之事業。群材既已從己,己必盡誠以信任之,不有疑貳之心,則彼將引其朋類、合其簪纓而來也。

猜疑せず同類が聚合して来ると言う、その中の朋は同類、盍は聚合、簪は冠を束ねる髪笄です。これは九四が和楽の権を握有して、衆人が来て依附するけれど、天下の事業を成就するには終に天下の衆多の人才に倚仗せねばならないということです。衆才がすでに自分に帰附した以上、自分は必ず十足の誠意を出して彼らを信任し、半点の猜疑二心を存せず、さすれば彼らは各々の同類を招引し衣冠を整肅して群を成して来るでしょう。

象曰由豫大有得志大行也者,九四以剛陽之才為豫之主,上下群陰悅附於已,而又能信任天下之士,天下之士皆合其簪纓而來,是得其位而有權,故其志大得行也。

《小象伝》が彼の心志が大いに施行したと言うのは、九四が陽剛の才に凭って和楽の主宰となり、上下の各陰爻が皆歓喜して彼に帰附し、彼はまた天下の士を信任し得て、天下の士は冠を整え伴を結んで来る、これはすでに合適の位置を得かつ実権を握ったので、抱負が大いに展開し得たのだということです。

六五:貞疾,恆不死。象曰:六五貞疾,乘剛也;恆不死,中未亡也。

六五の爻辞は言います。正を守るこの事の上で毛病が出たけれど、長く拖延しても覆亡に至りません。《小象伝》は言います。六五がこの病症を有する所以は、それが陽剛の九四の上に凌乗しているからです。久しく病んで死なない所以は、それがなお中位に占めて、根基がまだ喪尽していないからです。

義曰:疾謂疾病也,恆者綿綿之貌。六五以柔弱之質居至尊之位而履失其正,又下乘九四剛陽之權臣,是於正道有所疾也。恆不死者,言六五以柔弱之質而履失其正,是有疾病者也,然而得常不死者,以其居中處尊,猶且綿綿不絶而未至於亡也。

胡瑗の解説:疾はすなわち病、恒は息が綿長にして絶えない様子を形容します。六五は柔弱の質を以て至尊の位に居り、処する所はもとよりすでに正を失い、下にまた九四という陽剛の権臣に凌乗し――承乗の関係の裏で、柔を以て剛に乗るは最も不利です――ですから正道上において病が出ました。長く死なないと言うのは、六五は資質が柔弱で処する所が正を失い、確かに一つの病人です。しかし長く死なずにいられるのは、それが畢竟上卦の中に居りて尊位を拠し、一息がなお存して綿延して絶えず、まだ滅亡に至らないからです。

然所存者但位號而已。故若周平東遷之後,天下之權盡屬強臣,而天王所存者位與號爾。此六五所以然者,蓋一卦之中最正者六二一爻而已,其執節堅勁,所交不諂不瀆,是至正之臣也,今五乃不能委任之,而又且乘陵於四,此所以得不死之疾也。

ただ保住した所はただ一つの名位称号に過ぎません。ちょうど周平王が東に洛邑に遷って後、天下の大権が全て強臣の手中に落ちて、周天子の残った所はただ一つの王位と一つの王号のみでした。六五がこの地步に落ちたのは、全卦の中で最も端正なのがただ六二の一爻であるのに因ります。それは節操が堅定で、上と下と相交わるに諂媚せず軽慢せず、最も純正の臣子なのに、六五は偏に彼を委任することを肯んじず、かえって身を九四の頭上に壓したので、これにおいて久しく拖えて愈えない病症に落ちたのです。

上六:冥豫成,有渝,無咎。象曰:冥豫在上,何可長也。

上六の爻辞は言います。逸楽に昏昧して積習がすでに成ったけれど、もし翻然として改変し得れば、災禍がありません。《小象伝》は言います。逸楽に昏昧してかつ上位に高居すれば、この種の情形はどうして長久であり得ましょうか。

義曰:冥謂冥昧也。上六居豫之極,悅樂過甚而不知止節,以至智性昏迷,冥冥而無所知識,以至於凶咎也。大凡禮樂之道,必相須而成,然後制節和平皆得其所也。若禮勝而樂不至,則民散而不和也;樂勝而禮不至,則民蕩而不反也。是樂必有禮以為節,禮必得樂而後和,二者兼備則不至悔咎也。

胡瑗の解説:冥は昏暗蒙昧です。上六は《豫》卦の頂点に居り、享楽が頭を過して節制を知らず、以致って心智が昏迷し、糊裏糊塗として何も明白せず、終に凶禍を招来します。大凡礼と楽のこの両様は、必ず互相配合してはじめて成就し得て、然る後に節制と和悦が各々その宜を得ます。もし礼の一面が過重で楽が追いつかなければ、百姓は離散して和睦せず、もし楽の一面が過重で礼が追いつかなければ、百姓は放蕩して収め戻せません。ですから楽は必ず礼があって節制し、礼は必ず楽があってはじめて和融を顕し、両者を兼備してはじめて悔恨と災禍を招来しないに至ります。

今上六悅樂過甚,是不知所節,以至冥暗也。古之太康內作色荒、外作禽荒而貽邦國之患,商紂作長夜之樂以至傾圯社稷,是皆智性昏迷,恃樂過極以至亡也。非獨人君則然,至於公卿大夫而下莫不若是。故《伊訓》曰:惟茲三風十愆,卿士有一於身,家必喪;邦君有一於身,國必亡。故知自天子至於士庶人,凡酣樂過甚必有凶咎也。

今、上六は享楽に度がなく、すなわち節制を解さず、はじめて昏暗糊塗の地步に落ちました。古の夏代の太康は、内は女色に沈溺し外は田猟に沈溺して、国家に大禍を遺し、商紂王は通暁達旦に作楽して、終に社稷を傾覆しました。これは皆心智が昏迷して享楽を仗って極端に走って滅亡した例です。君主のみならず、公卿大夫以下も例外がありません。ですから《尚書・伊訓》は言います。この三種の悪風・十項の過失は、卿士の身に一条沾えば家は必ず敗落し、封国の君の身に一条沾えば国は必ず滅亡する。見れば分かるように、上は天子より下は士人百姓に至るまで、凡そ酒を縱し楽を為して分寸を過ぎる者は、必ず凶禍を招来します。

有渝無咎者,渝,變也。言苟能因其逸樂之過而反思悔咎,自省於已,變前之為而節之以禮,則庶幾免於悔咎也。象曰冥豫在上何可長也者,此聖人深戒之意也,言其悅豫過甚,至於情蕩性冥而不知所止,是何可長如此乎?言能渝變則可以無咎也。

改変し得れば災禍がないと言う、その中の渝は改変です。これはもし逸楽が過度に因って回頭して反省し追悔自責し、自身を検点し、従前の做法を改めて礼を以て節制を加え得れば、それならばほぼ悔恨と災禍を免れ得るということです。《小象伝》が楽に昏昧して上位に居るはどうして長久であり得ようと言うのは、これは聖人が深切に告戒する用意です。享楽が頭を過して、性情を放蕩し心神を昏昧にして収束を知らぬに至れば、このように下去してどうして長久であり得ましょうか。言外の意は、ただ翻然として改過するを肯えば、差錯を出さずに済むということです。

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