繋辞上・第三章 彖者言乎象
彖者,言乎象者也。
経文に曰く:彖辞とは、一卦の整体の形象に就いて言を立てたものである。
義曰:疏以為自此至死生之說為一章,則非也。今觀其文辭,當從辭也者各指其所之為一段;自易與天地凖而下,至盛徳大業為一章,是也。彖者言乎象者也,自此以下至辭也者各指其所之為一章。
胡瑗の解釈:旧有の疏解はここより「死生之説」に至るまでを一章に划成したが、正しくない。いまこの段の文字の脈絡を看れば、當に「辞也者各指其所之」に断ちて一節と為すべし。「易与天地准」以下より、「盛徳大業」に至るまで、別に一章を立て、これが初めて妥当である。故に「彖者言乎象者也」以下より、「辞也者各指其所之」に至るまでを、合して一章と為す。
上章既言吉凶悔吝、聖人設卦繋辭之義,細意未盡,此復言文王作彖,分於諸卦之下,以釋一卦之義。雖然有周公爻辭散於諸爻之下,然文王之彖其義淵深,孔子復作彖辭以解之。彖者,總論一卦之象,如乾之彖元亨利貞曰大哉乾元,坤元亨曰至哉坤元,屯元亨曰屯剛柔始交而難生,蒙亨曰蒙山下有險,是皆解一卦之辭也,故曰象者言乎其象也。
上一章は既に吉凶悔吝および聖人が卦を設け辞を繋げた用意を講じたるも、細処はまだ説き尽くしていない。此処に再び文王が彖辞を作り各卦の下に分繋して、以て一卦の大義を闡釈することを講ず。別に周公の爻辞が各爻の下に分列するといえども、文王の彖辞は義理深邃。故に孔子はまた《彖伝》を作って以てそれを解説す。彖辞は一卦の象を総論する:譬如《乾》卦の彖辞に元亨利貞を講ずれば、《彖伝》は便ち大いなるかな乾の元始の徳と言い、《坤》卦に元亨を講ずれば、便ち至極なるかな坤の元始の徳と言い、《屯》卦に元亨を講ずれば、便ち屯は剛柔が初めて交合して以て艱難を生出すと言い、《蒙》卦に亨を講ずれば、便ち蒙は山下に険阻あると言う。これらは皆一卦整体を解釈する文辞である。故に彖は一卦の象に就いて言を立てたものと言う。
爻者,言乎變者也。
経文に曰く:爻辞とは、爻位の変動に就いて言を立てたものである。
義曰:夫六爻之設,內外二體,有變有動,有凶有吉,各隨時而變改之。然文王之作彖辭以釋一卦之象,然其義亦有未盡,周公復作爻辭散於諸爻之下,總人事之要道,明萬事之吉凶,隨其爻而通變之,各順其用。
胡瑗の解釈:六爻の設立は内卦・外卦の両体に分かれ、その間に変あり動あり、凶あり吉あり、各自時勢に随って改変す。文王が彖辞を写したは以て一卦の整体の象を解釈するに用いたるも、意思はなお尽くさざる処あり。故に周公はまた爻辞を作り、各爻の下に分列し、人事の要領を総括し、万事の吉凶を指明し、毎一爻に順ってその変化を講じ通し、各爻をして皆各々その用を得せしむ。
吉凶者,言乎其失得也。
経文に曰く:吉と凶とは、事の失と得に就いて言を立てたものである。
義曰:夫爻象之設,有凶有吉,有剛有柔。若陽居陰位則不得其正,或陰居陽位則或失其常,或近而不相得,或逺而有所比。合於道者則吉,乖於道者則凶,故吉凶之端、失得之義盡在於爻辭之間矣,上文吉凶者失得之象也。
胡瑗の解釈:爻象の設立に、凶あり吉あり、剛あり柔あり。陽爻が陰位に居れば便ちその正を得ず、陰爻が陽位に居れば便ちその常度を失い得。あるは両爻が相隣するも彼此投合せず、あるは相隔たること較遠きも却って親附の誼あり。およそ正道に合するは便ち吉、正道に違背するは便ち凶。故に吉凶の端倪・得失の義理は、全て爻辞の中に体現せらる。これがまさに上文の説く所の吉凶は得失の象なるの意思である。
悔吝者,言乎其小疵也。
経文に曰く:悔と吝とは、人事上のあの細小の毛病に就いて言を立てたものである。
義曰:疵者,病也。夫人禍發於細,奸生於隱暗。事有至小而可以追悔者,行有至微而可以鄙吝者,故當憂慮而戒慎之。夫小惡不改,以至於大惡;小善不積,以至於大凶,至乎鄙吝之道,皆由微小而生也。故君子之人觀此爻象之辭,則知動靜之理:積其小善以成於大善,積其小惡以至於大惡,舍其失而處其得,悖其凶而從其吉,故悔吝之來皆由微小而至矣。
胡瑗の解釈:「疵」とはすなわち毛病。人の禍患は細微の処より萌発し、奸邪は隠蔽の処に滋生す。ある事は極めて細小なれども、すでに人をして追悔せしむるに足り、ある挙動は極めて軽微なれども、すでに人をして羞慙せしむるに足る。故に必ず心に憂慮を存し時時戒慎せねばならず。小さな過悪は改正せざれば、大悪を積成し、小さな善行は積累せざれば、終竟大凶を招致す。およそ羞慚難看の地步に落到するは、皆細微の処より生出したものである。故に君子はこれらの爻辞象辞を看到すれば、便ち挙動と静守の道理を懂得す:小善を積累して以て大善を成就し、小悪を警惕して以て大悪を醸成するを免れ、失うべき一面を舎開いて得る能くする一面に立ち、凶険を背離して吉祥に趨向す。見れば悔と吝の到来は、皆微小の処より一点一点累積して成ったものである。
無咎者,善補過也。
経文に曰く:所謂過咎なしとは、人が善く自己の過失を弥補することを指す。
義曰:夫人所以有咎者,蓋由操心積慮,過為其事,小惡不改以成乎大惡,小過不防以至乎大過,所以有咎,如噬嗑上九屨校滅趾之類是也。此言無咎者,蓋言人之有失者善能自改之,故六爻之中有能改過而無咎者,若豫之上六曰冥豫成,有渝無咎;隨之初九曰官有渝,貞吉,從正則吉也。
胡瑗の解釈:人が咎害を招来する所以は、用心が度を過ごし行事が失当で、小悪は改めるを肯んぜずして大悪を積み、小過は防ぐを去らずして大過を醸成するが故に、これに因って初めて災禍あり。噬嗑卦の講ずる足枷を戴きて脚趾を傷つくるが如きは、便ちこの一類に属す。此処に過咎なしと言うは、人に過失あって善く自己改正するを講ず。故に六爻の当中に便ち能く過を改めて災禍を免れる例あり:豫卦の上六に逸楽に沉溺して已成事実と為るも、能く変改すれば禍を招くに至らざると言い、随卦の初九に事を主る人に変更する所有り、正を守れば吉と言う。意思は正道に順従すれば吉利なり。
是故列貴賤者存乎位。
経文に曰く:故に尊貴と卑賎とを排列し出さんには、關鍵は爻の処する位次に在る。
義曰:位者,即六爻之位。夫一卦之中凡有六爻,分其上下,有尊有卑,有小有大。若九五則言君位,九三則言臣位,是尊卑大小各有其分,則貴賤之位從而定矣。
胡瑗の解釈:此処の位とは、すなわち六爻各自の処する位次である。一卦に共有六爻あり、上下を分出し、尊あり卑あり、小あり大あり。六爻は下より上に自って依次に初・二・三・四・五・上と叫ばれ、位次は愈上に靠るほど愈尊貴なり。譬如九五の講ずるは君主の位、九三の講ずるは臣下の位。尊卑大小は各々名分あり、貴賎の等級も便ちこれに随って確定し下る。
齊小大者存乎卦。
経文に曰く:事の小と大を衡量せんには、關鍵は値する所が哪一卦かに在る。
義曰:夫陽主剛明而有生成之徳,故其徳大;陰主柔順而有消剝之行,故其徳小。故六十四卦皆本陰陽剛柔之理以定其位也,故有大有小,君子必當明辨之。至如乾之與坤,泰之與否,損之與益,小過與大過,既濟與未濟,是皆所用不同,有小有大,各隨時而用之也。
胡瑗の解釈:陽は剛健明察を主と為し、生養成物の徳性を具有す。故にその徳は大と算す。陰は柔順を主と為し、消損剥落の作用を帯びる。故にその徳は小と算す。六十四卦は皆陰陽剛柔の道理に依拠して以て爻位を確定す。因って卦に大あり小あり、君子は必ず分別清楚せねばならず。譬如《乾》と《坤》、《泰》と《否》、《損》と《益》、《小過》と《大過》、《既済》と《未済》、それら各自の用処は併せ相同じからず、小あり大あり、時勢に随って取用せんことを要す。
辨吉凶者存乎辭。
経文に曰く:吉凶を辨明せんには、關鍵は卦爻の下に繋ぐ所の文辞に在る。
義曰:辭者,卦爻之下所繋之言辭也。夫六十四卦,有陽居陽位、陰居陰位,有以陽居陰位者,有以陰居陽位者,有以臣居君位者,有以君居臣位者,如此之爻位多矣。聖人若不繋之辭,則凶吉無由見矣。
胡瑗の解釈:所謂辞とは、すなわち卦爻の下に繋げた解説の文字である。六十四卦の裏に、陽爻が陽位に居り陰爻が陰位に居るあり、陽爻が陰位に居るあり、陰爻が陽位に居るあり、臣下の才を以て君位を占拠するあり、また君主の尊を以て臣位に屈処するあり、この一類の爻位の情形は非常に多し。聖人はもしそれらに文辞を繋げざれば、吉凶は従って顕現するなし。
至如比之六二居得其正,則其辭曰比之自內,貞吉;小畜之初九以陽居陽,則其辭曰復自道,何其咎,吉;隨之九四以陽居陰,則其辭曰隨有獲,貞凶;觀之初六以陰居陽,則其辭曰童觀,小人無咎,君子吝;噬嗑之上九以陽居陰,曰何校滅耳,凶。是吉凶之文皆在於所繋之辭也,君子之人若明辨吉凶之事,觀其辭則可知矣。
譬如比卦の六二は位に居りて正を得れば、爻辞は便ち内部より人に親附し正を守りて吉と言う。小畜卦の初九は陽爻を以て陽位に居れば、爻辞は便ち自己本来の正路に返回すれば、何ぞ過咎あらん、吉と言う。随卦の九四は陽爻を以て陰位に居れば、爻辞は便ち人に随従して獲る所有るも、一味に常を守ればかえって凶ありと言う。観卦の初六は陰爻を以て陽位に居れば、爻辞は便ち孩童の如く浅近に観看すれば、小人に在りては過咎と算せず君子に在りては却って羞慚と言う。噬嗑卦の上九は陽爻を以て陰位に居れば、爻辞は便ち重枷を肩負して以て耳部に傷及ぶ、凶と言う。見れば吉凶の説明は皆繋ぐ所の文辞の裏に落ちる。君子はもし吉凶の事を辨明せんと欲せば、爻辞を看れば便ち知る能し。
憂悔吝者存乎介。
経文に曰く:悔と吝の形成する前に於いて心に憂懼を懐かんには、關鍵は事の剛く頭を露すあの一糸の苗头の上に在る。
義曰:介者,纎介也;悔吝者,小疵病也。夫人小惡不改以成於大惡,小疵不補以成於大疵。勿謂小善無益而不為,勿謂小惡無傷而弗去,及夫惡積而不可揜,罪大而不可觧,以至何校滅耳,喪身夷族,然後悔之,亦其晚矣。故聖人凡小疵病鄙吝之事必先憂虞之,所以獲其無咎也。然則萬事之理皆始自纖芥,故聖人豫防之,故坤卦曰履霜堅氷者,則聖人教人防微杜漸之深戒也。
胡瑗の解釈:「介」とは極めて細微の一点の苗头で、悔と吝とは則ち細小の毛病である。人はもし小悪を改めざれば、便ち大悪を積成し、小さな瑕疵は補わざれば、便ち大きな瑕疵と変成す。小小の善事は益なしと以て做すを肯んぜず、また小小の悪行は大体を傷なしと以て去除せざるべからず。罪悪が堆積して掩蓋し住めず、罪過が重大にして従って開脱する処なき、重枷を肩負し耳部に傷及び身死に族滅する地步に落到するに及べば、あの時再び后悔するも便ち已に晚し。故に聖人は如何なる細小の毛病と難看の挙動にも対して、皆予め憂慮防範を加え、こうして初めて差錯を出さざるを保住し得る。見れば万事の道理は皆毫末より起こる。故に聖人は予め防備せんことを要す。坤卦の初六に薄霜を踏めば便ち堅氷の将に至らんを想到すべしと言うは、まさに聖人が人に微を防ぎ漸を杜ぐるを教える深切の告誡である。
震無咎者存乎悔。
経文に曰く:一挙一動皆過錯を出さざる能しとは、關鍵は及時に悔改するを懂得するに在る。
義曰:震者,動也;悔者,過也。夫人所以舉動而無咎者,蓋有剛明之才,有至正之徳,知其吉凶之道,明其得失之跡,事之小疵者預憂虞之,事之將失者心改悔之,所以舉動而無咎者,蓋存乎悔也。
胡瑗の解釈:「震」は挙動、「悔」は過失を察覚して改めんを思う。人が挙動し起りて過咎に致らざる所以は、彼が剛強明達の才干と極めて端正の徳行を具備し、吉凶の道理を懂得し、得失の迹象を看清するが故である:事に細小の毛病あれば便ち予め憂慮防範し、事が偏差を出さんとする時は便ち心裏に於いて及時に改悔す。故に挙動に差錯を出さざるは、關鍵はまさに一個の悔の字の上に落ちる。
是故卦有小大,辭有險易。
経文に曰く:故に卦に小あり大あり、卦爻の辞にもまた険艱の有り平易の有り。
義曰:其道光明則謂之大,其道消散謂之小。夫六十四卦之設,有大有小,有通有塞,故六爻之中有變有動,有險有易。若履得其正,居得其中,行事無過,則卦爻之下亦有和易之辭;若履非其正,居非其位,行事失其中,則卦爻之下亦有險難之文。至如居之時則言君子道長,居否之時則言君子道消,明夷之時則言明有所傷,大壯之時則言大者壯也。以至吉凶悔吝,善與不善,惡與不惡,卦爻之下各繋其辭以明之,故上文所謂齊小大者存乎卦者是也。
胡瑗の解釈:一卦の道が光明暢達すれば便ち大と称し、一卦の道が消損渙散すれば便ち小と称す。六十四卦の設立に、大あり小あり、通暢あり閉塞あり。故に六爻の中に変あり動あり、険艱あり平易あり。もし立身端正・位に居りて中を得・行事に過差なければ、卦爻の下に繋ぐ所は便ち和順平易の話である。もし立身正ならず・居る所位に非ず・行事は中道に偏離せば、卦爻の下に繋ぐ所は便ち艱難険阻の話である。譬如通泰の時に処すれば、便ち君子の道は日漸に生長すと言い、否閉の時に処すれば、便ち君子の道は逐步に消退すと言い、明夷の時に処すれば、便ち光明は損傷を受くと言い、大壮の時に処すれば、便ち陽剛の一方は正に壮盛に当たると言う。吉と凶・悔と吝・善と不善・悪与不悪に至るまで、卦爻の下に皆各々文辞を繋げて以て説明す。これがまさに上文の説く所の小大を衡量するは卦を看るの意思である。
辭也者,各指其所之。
経文に曰く:卦爻の辞は、各自それの帰趨する所のあの事を指向す。
義曰:言六十四卦所繋之辭,各指事而言也。至如適於泰卦,則其辭和易;適於蹇卦,則其辭艱險;適於謙卦,則其辭巽順;適於離卦,則其辭文明。是各指其事之所變而言也。
胡瑗の解釈:六十四卦の繋ぐ所の文辞は、皆各自の具体の事に針対して講ずる。譬如《泰》卦に帰すれば、それは天地交通の象を取り、辞気は便ち和順平易である。《蹇》卦に帰すれば、それは路を行きて険に遇うの象を取り、辞気は便ち艱難阻澁である。《謙》卦に帰すれば、それは高山が地下に蔵るの象を取り、辞気は便ち謙遜柔順である。《離》卦に帰すれば、それは火光附麗の象を取り、辞気は便ち文采煥発である。これがすなわち各自変ずる所の事を指して以て言を立てる。
繋辞上・第四章 易与天地凖
易與天地凖。
経文に曰く:《周易》の道理は天地と相当し、以て天地と彼此比照し得べし。
義曰:自此已下至鼔萬物而不與聖人同憂、盛徳大業至矣哉為一章。上既言卦爻辭理之義,此又廣明易道深逺,可以與天地相叅凖也。夫天地之道,福善禍滛,善者則佑助之,惡者則傾覆之,以至生成萬品之物,皆以簡易之道自然而然也。
胡瑗の解釈:ここより以下、「鼓万物而不与聖人同憂」と「盛徳大業至矣哉」に至るまで、合して一章と為す。上文は既に卦爻文辞義理の種種を講じたれば、此処に再び広く《周易》の道の深遠博大を闡明し、以て天地と互相参照比擬し得べし。天地運行の道理は、福を善良に賜い禍を淫邪に降らす:善に向かうは便ち彼を佑助し、悪を為すは便ち彼を傾覆す。乃至生養成就する万類の物も、皆平易簡約の方式を用い、自然而然に完成す。
夫易之道本始於天地,故六十四卦、三百八十四爻,所以統三才而妙萬物也。故爻之善者則其辭善,爻之惡者則其辭惡,得其正者則其辭吉,失其正者則其辭凶,以至總包萬事之理,皆以簡易之道自然而然也。是大易之道之可以凖擬於天地也,至乾以健而法天,坤以順而法地之類是也。
《周易》の道は本来天地より発源す。故に六十四卦・三百八十四爻は初めて天地人三才を統攝し、万物の精微を窮尽し得る。故に爻位の良善なるは、その文辞は便ち善であり、爻位の不善なるは、その文辞は便ち悪であり、位に居りて正を得るは、文辞は便ち吉であり、その正位を失うは、文辞は便ち凶である。乃至万事の道理を皆包挙して遺すなく、同様に平易簡約の道に憑って自然に成る。これがすなわち《周易》の道の天地と比擬し得べき処である。譬如乾は剛健を以て天に取法し坤は柔順を以て地に取法するは、皆この一類に属す。
故能彌綸天地之道。
経文に曰く:故に《周易》は能く縫合補斉し経理貫串して天地間の一切の道理を尽くす。
義曰:彌者,縫也;綸者,經也。言易道妙包含萬象,知鬼神之情狀,明人事之終始,上可以彌縫補合於天道,下可以經綸牽合於地理,無所不載,無所不備者也。
胡瑗の解釈:「弥」は縫合、「綸」は経理編織。意思は《周易》の道は精妙にして、万般の物象を包含し、能く鬼神の種種の情形を知り、能く人事の始末を明らかにす。上に往きては天道を縫合補足し、下に往きては地理を経理貫串し、承載せざるなく完備せざるなし。
仰以觀於天文,俯以察於地理。
経文に曰く:頭を抬げて天上の文彩を観察し、頭を低くして地上の紋理を考察す。
義曰:天文者,則是日月星辰佈設懸象成文章,故稱文也;地理者,則謂山川原隰高卑上下各有條理,繁盛於地,故稱理也。夫易之本始,始於天地,聖人仰以觀於天文,俯以察於地理,揆萬物之情,盡人事之理,以至纎至悉,無所不包,無所不備,是易之道也。
胡瑗の解釈:所謂天文とは、日月星辰が羅布懸挂し、交錯して文彩ある図様と成る。故に文と称す。所謂地理とは、山嶺河川・高原と低湿の地が各々高下上下の条貫あり、繁密に地面上に鋪展す。故に理と称す。《周易》の根源は便ち天地に在る。聖人は頭を抬げて天上の文彩を観察し、頭を低くして地上の条理を考察し、万物の情状を推求し、人事の道理を窮尽し、細は極処に至り詳は極処に至り、包まざるなく備わらざるなし。これがすなわち《周易》の道である。
是故知幽明之故,原始反終,故知死生之說。
経文に曰く:故に能く幽隠と顕明の縁由を通暁す。事物の開端を推究し、再び回頭してその終結を考察せば、故に能く生と死の道理を通暁す。
義曰:幽者,無形之謂也;明者,有形之義也。明則為晝為陽,幽則為夜為陰。夫聖人之作易,本凖擬於天地,下總括於事物,鬼神之情狀、吉凶之萌兆、陰陽之運動、幽明之義理,莫不統包於其間矣。原始反終,故知死生之說者,夫易道深逺,知幽明之故,以原究事物之終始,反覆天人之本末、萬物之榮枯、四時之變化、吉凶之兆、動靜之理,以至死生之說,莫不知之。
胡瑗の解釈:所謂幽とは、形迹なくして見るべき一面を指す。所謂明とは、形ありて睹るべき一面を指す。明の一面は白昼に属し陽に属し、幽の一面は黑夜に属し陰に属す。聖人が《周易》を作るは、上に向かって天地に比擬し、下に向かって萬事萬物を総括す:鬼神の情状・吉凶の萌芽征兆・陰陽の運行・幽明の義理、一様としてその中に統攝されざるなし。開端を推原し終結を回顧して故に生死を通暁すと言うに至っては、《周易》の道の深遠にして、能く幽明の縁由を通暁し、これに拠って事物の始末を推究し、反復して天と人の本末・万物の栄枯・四季の変化・吉凶の先兆・動静の道理を考察し、一直に生死の説法に至るまで、能く心に了然せざるなきを講ず。
精氣為物,逰魂為變。
経文に曰く:陰陽精霊の気が聚合して起れば便ち有形の物を形成し、魂気が游散して形体を離れれば便ち変化を生ず。
義曰:精氣者,則為陰陽精靈之氣也,氤氳積聚而為萬物也。游魂者,伸為物之積聚,歸為分散之時,則謂游魂。夫天地之道,陰陽之精氣萃聚而生萬物;於萬物之間,受陰陽之精氣而靈者則為人。人受陰陽之精氣,萃之於身,則有耳目口鼻、心知髮膚而為之體魄也;合於人身則謂之魂,故口能言,目能視,耳能聽,心能思慮,則謂之神;故用思慮心知才能,則謂之變。得精氣之多者則為神,得精氣之少者則為魄。
胡瑗の解釈:所謂精気とは、すなわち陰陽の当中の精霊のあの部分の気で、氤氳交融し積聚し起って以て万物を形成す。所謂游魂とは、気が伸展し開けば便ち凝りて事物と成り、収斂して回去すれば便ち消散の時に到り、あの時に便ち游魂と称す。天地の道は、陰陽の精気が聚合して以て万物を生出す。万物の中に在りて、陰陽精気を禀受して霊性を具有するは、便ち人である。人は陰陽精気を禀受し、身上に汇聚して、ここに耳目口鼻・心思知覚・毛髪肌膚あり、形体魄質を構成す。この股の気が人の身に合すれば便ちこれを魂と叫び、故に口は能く説話し眼は能く看見し耳は能く聴聞し心は能く思慮す。この一層は便ち神と称し、能く思慮・心知と才能を運用すれば、便ち変と称す。精気を禀受すること多きは神と成り、精気を禀受すること少なきは魄と成る。
及夫思慮既久,精神已倦,心知已勞,髮膚漸衰,用之太過,及其死也,體魄降於地,骨肉斃於下,精神散之於天則為神,體魄散之於下則為鬼,是天地之精氣萃聚於人身則為精神體魄矣。故左氏載子產之言曰:心之精爽,是謂魂魄,魂魄去之,何以能久?是言凡人得精氣之多者為神,受精氣之少者為魄。神魄萃之於身,久而必去,則精氣歸於天則為神,骨肉斃於下,散而無所之則為鬼。
思慮を用いること久しきに及べば、精神はすでに疲倦し、心思はすでに労損し、須髪肌膚は漸漸衰敗し、耗用は度を過ごす。人の死する時に到れば、形骸魄質は地下に降落し、骨肉は土中に朽壞し、しかして精神の気は飘散して天に帰し、便ち神と成る。形魄は地下に散落すれば、便ち鬼と成る。見れば天地の精気は人の身に汇聚して、便ち精神と形魄とに表現す。故に《左伝》に鄭国の子産の話を記載して曰く:心の霊明の気を魂魄と叫び、魂魄は一旦離去せば、人は何ぞ還って長久に活着し得んや。これはすなわち、およそ人は精気を禀受すること多きは神と成り、精気を禀受すること少なきは魄と成るを言う。神と魄とが身に聚れば、日子久しければ必然に離散す:精気は上天に回帰すれば便ち神、骨肉は地下に朽壞し消散して帰する所なければ便ち鬼。
又禮記祭義曰:氣也者,神之盛也;魄也者,鬼之盛也;合鬼與神,教之至也。眾生必死,死必歸土,此之謂鬼;骨肉斃於下,陰於野土,其氣發揚於上為昭明、焄蒿、悽愴,此百物之精也,神之著也。是言人之生則精氣聚而為神,死則骨肉散而為鬼,而精魂改變,去形離體,則為變化之道也。
《礼記・祭義》にまた曰く:気とは、神の盛大の表現である。魄とは、鬼の盛大の表現である。鬼と神とを合わせて致祭するは、教化の極致である。衆生は皆一死を免れず、死の後は必定土中に帰入す。これを便ち鬼と言う。骨肉は地下に朽壞し、郊野の泥土の裏に隠没すれども、その気は却って上に向かって発散し、光明昭著の状・蒸騰の気息と人をして肃然凄惻せしむる感受を顯為す。これは万物精華の所在で、もまた神の顕現である。これらの話の説くは:人は活着する時は精気が聚合して以て神と為り、死の後は骨肉が消散して以て鬼と為る。精魂はここに改易変換し形骸を脱出す。これがすなわち所謂「変」の道理である。
是故知鬼神之情狀。
経文に曰く:故に能く鬼神の実情と状貌を知る。
義曰:鬼神者,不疾而行,不言而信,視之弗見,聽之弗聞者,鬼神之道也。夫鬼神之道,本諸精氣體魄聚之而生,亦由骨肉體魄散之而有,冥冥然不知其所在。聖人以其為無則曰不仁,以其為有則曰不知,其有形狀可覩哉?然此言知其形狀者,蓋言易道至大,通於天地,達於幽明,不惟幽隠章顯之間而易道可以見矣。
胡瑗の解釈:鬼神は疾行せずして自然に速至し、発話せずして自然に応験し、それを看れば見えず、それを聴けば聞こえず。これがすなわち鬼神の道である。鬼神の道は、精気と形魄の聚合に本として生じ、もまた骨肉形魄の消散に随って存在す。幽冥恍惚にして、誰もそれが究竟何処に在るかを説き清め得ない。聖人はもしそれが無いと断定せば、便ち不仁厚に流れ、もしそれが有ると断定せば、あれはまた不明智と顯れ、それは何処に真に形状ありて見え得べきか。此処に却ってその情状を知る能しと言うは、《周易》の道が極めて宏大にして、上は天地に通じ、下は幽明に達し、ただ幽隠と彰顯の間に在るのみならず、およそ見るべき処あるは、《周易》の道は皆能く照見するが故である。
與天地相似,故不違。
経文に曰く:《周易》の道は天地と相似たり。故に天地と相違背せず。
義曰:此已下言易道廣大,盡生死之理、幽明之故也。夫天地之道,春生夏長,秋殺冬藏,包含萬彚,無小無大,高者下者,飛者走者,莫不生育之,故不可以一言而盡也。夫大易之道,陽剛陰柔,窮幽極逺,總括萬事,從無入有,至纎至悉,莫不總明之,故不可一言而盡也。
胡瑗の解釈:ここより以下、《周易》の道の広大にして、能く生死の道理と幽明の縁由を窮尽することを講ず。天地の道は、春天に生発し夏天に長養し秋天に粛殺し冬天に収蔵し、万類を包容す:大小を論わず、居高居下を論わず、飛ぶ能くするか走る能くするかを論わず、一様としてその生育を受けざるなし。故に一句の話に講じ完る能わざるなり。《周易》の道も同様である:陽剛陰柔を以て綱と為し、幽微を窮究し遠処に推及し、万事を総括し、無形より有形に推向し、細密周詳にして極点に至り、一様としてその照明を受けざるなし。故に同様に一句の話に講じ完る能わざるなり。
推其本原,大易之道皆聖人窮神盡性而作也。上則凖擬於天地,下則包言於人物,前乎天地則其道不過,後乎天地則其道不異,中於天地之間則其道若合符契而無違越,是易之道與天地相似者也。
その本源を追溯すれば、《周易》の道は皆聖人が神妙を窮究し物性を洞尽した後に写成したものである。上に往きては天地に比擬し、下に往きては人と万物を包挙す。天地の先に置けば、その道理は頭を過ごさず。天地の後に置けば、その道理も走様せず。天地の間に放てば、その道理は便ち符節の两半の相合するが如く厳糸合縫にして、毫も違逆なし。これがすなわち《周易》の道の天地と相似たるの意思である。
知周乎萬物而道濟天下,故不過。
経文に曰く:聖人の智慧は万物に遍及し、彼の道は天下を救助するに足る。故に過差せざるなり。
義曰:聖人無物不知,是知周也;天下皆養,是道濟天下也;萬事皆得其宜,是不過也。夫聖人以仁知之徳,才能思慮周及萬物,至於纎介之類皆蒙被之;又以仁義施及天下,使萬品之物、天下之人皆得其所,皆獲其濟,而又所行之事合於大中,無過無不及之事。
胡瑗の解釈:聖人は一様の事物として知暁せざるなし。これがすなわち智慧の周遍。天下人は皆養育を得る。これがすなわち彼の道の天下を救済したる。万事は皆各々その宜しきを得る。これがすなわち過差を出さざるなり。聖人は仁と智の徳性に憑り、才力と思慮とが万物に遍及し、細きこと毫芒の如きものに連れても皆その覆被を受く。また仁義を天下に推行し、万類の物・天下の人をして各々その所を得各々救助を獲せしむ。しかして彼の行う所の事は皆不偏不倚の中道に合乎し、既に過分ならず、亦た不及なし。
旁行而不流。
経文に曰く:聖人の道は四面八方に推行すれども、偏邪放荡に流れざるなり。
義曰:夫聖人中天下而立,正南面而居,拂其己之私邪,去其已之阿黨,所行之事中立而不倚,正行而不邪,以天下為一家,以萬民為一情,凡所動作莫不會合大中之道而行之。此言旁行而不流者,蓋言聖人非善於一身,以至正之徳上符於天,下合於地,中合於人,無私無枉,無所不契,雖旁行於天下之間,亦無私邪淫過流蕩之事,所以然者,蓋至公至正而致然也。
胡瑗の解釈:聖人は天下の中央に立身し、端正して面南して治め、自己の私心邪念を拂除し、自己の偏袒結党を去掉す。為す所の事は中正独立にして一方に偏倚せず、行為は端正にして邪路に趨らず。天下を看て一家と為し、万民を視て一体と為す。およそ挙動有れば、中正の道に合乎せざるなくして後に施行す。此処に旁行して放荡せずと言うは、聖人の善は自身に止まらざるを講ず:彼は極端正の徳行を以て、上に向かって天道に符合し、下に向かって地理に契合し、中に居りて人心に合し、偏私なく枉曲なく、処として相契合せざるなし。たとい教化が天下各处に旁及するも、偏私邪僻・縦逸放荡の事あらざるなり。能くこの如くなる所以は、まさに彼が極めて公正無私なるが故である。
樂天知命,故不憂。
経文に曰く:天道に順従するを楽しみ自身の命分を通暁すれば、故に内心は憂愁せず。
義曰:順天施化是樂天,識物始終是知命。夫聖人順天施化,識物始終,以其不可改者天命也,由是推測天道以知己命,至於富貴壽考、貧賤夭折皆繋於天,是以心無憂恤。雖在貧賤亦不為險詖之行,雖在富貴不為奢侈之心。
胡瑗の解釈:上天に順応して教化を推行するは、便ち「楽天」である。万物の始終を洞悉するは、便ち「知命」である。聖人は天道に順応して教化を推行し、万物の始終を洞悉す。彼が其中の更改すべからざるあの一部分がまさに天命なるを明白にするが故に、ここに天道より自己の命分を推測し出す:富貴長寿なりとも、貧賎早夭なりとも、皆天に繋がる。故に心裏に憂懼を生ぜず。たとい貧賎に身を処するも、険悪偏邪の事を做さず。たとい富貴に身を居するも、奢侈放縦の念頭を起こさず。
故孟子曰:莫之為而為者天也,莫之致而至者命也。是言人之性命之理、死生之道皆本於天,固無可奈何。然則富貴稟於天,死生繋乎命,既無可奈何,則宜順從於天道,樂天而知命,原始而思終,安靜而居,則無憂恤也。
故に《孟子》に曰く:之を為す者なくして自然に成し為るは、それは天である。之を招致する者なくして自然に到来するは、それは命である。これは人の性命の理・生死の道は皆上天に本とし、本来奈何し得べからざるを講ず。既に富貴は天より禀受し生死は命数に繋がり、人力は従って更改するなく、さらば便ち當に天道に順従し、天意を承受するを楽しみて命分を通暁し、事情の開端を推究してその結局を思慮し、安静自守して日子を過ごさば、こうすれば便ち憂愁あらざるなり。
安土敦乎仁,故能愛。
経文に曰く:自己の処する境地に安んじ、敦厚に仁徳を践行すれば、故に能く他人他物を愛護す。
義曰:安者,靜也;愛者,養也。夫聖人稟天地之全性,五常之道皆出於中,天下有一物不被其賜者,若已內於溝壑。由是推己之性以觀天下之性,推己之仁以安天下之物,使天下之人、萬品之物皆安土而定居矣。人能安土,物既遂性,則父母兄弟親疎上下逓相親睦,而敦仁愛之心矣。
胡瑗の解釈:「安」は安静自守、「愛」は養育。聖人は天地の完整の本性を禀受し、仁義礼智信の五常の道は皆彼の内心より発す。天下にただ一様のものあって未だその恩惠を蒙受せざれば、彼は便ち像是自己が人を沟壑の裏に推し進めたると覚える。故に彼は自己の本性を推拡して以て天下人の本性を体察し、自己の仁心を推拡して以て天下の万物を安頓し、天下の人と万類の物とを皆能く処する所の土地に安居せしむ。人は能く土に安んじ、物は能く性を遂ぐれば、さらば父母兄弟・親近疏遠・上上下下は便ち彼此和睦して相処し、仁愛の心も亦たこれに随って敦厚に起る。
範圍天地之化而不過。
経文に曰く:聖人は天地の化育を一定の法度模範の中に納め、而も逾越失当に至らざるなり。
義曰:範謂模也,圍謂周也,過者違也。夫聖人粹天地之靈,中天地而立,觀天地之性然後正己之性,觀天地之情然後正己之情,凡所行事皆模範於天地陰陽之端。至如樹木以時伐,禽獸以時殺,春夏則生育之,秋冬則肅殺之,使物遂其性,民安其所,是範圍天地之化而無過越也。
胡瑗の解釈:「範」は模型、「囲」は周匝籠罩、「過」は違逆越軌。聖人は天地の霊秀を汇聚し、天地の間に立身す:天地の性質を観察し、然る後に自己の性を端正し、天地の情状を観察し、然る後に自己の情を端正す。およそ行う所の事は、皆天地陰陽の端緒を以て模範と為す。譬如樹木を砍伐するは時節に按り、禽獣を捕殺するは時令に合し、春夏は便ちその生育に順い、秋冬は便ちその粛殺に順い、万物を各々本性を遂げ百姓を各々その所に安んぜしむ。これがすなわち天地の化育を法度に納めて越軌に致らざるなり。
曲成萬物而不遺。
経文に曰く:聖人は委曲周至に万物を成就し、一様として遺漏せざるなし。
義曰:曲者,曲屈委細而成就萬物也;遺者,棄也。夫聖人宅天下之廣居,司萬物之性命,模範天地以施化,輔相天地以保民,雖事物之微、昆蟲之細,亦皆以仁信屈曲而成就之。至如綱罟以時,不麛不卵,是皆物之微細而不遺棄也。
胡瑗の解釈:「曲」は委曲周詳にして入微に体贴して万物を成全す。「遺」は遺棄。聖人は天下最も広寛の位置上に安居し、万物の性命を掌管し、天地を以て模範と為して以て教化を施行し、天地を輔助して以て百姓を保全す。たとい極細微の事物・極弱小の昆虫なるも、彼も皆仁厚誠信の心を以て委曲周到にそれらを成全す。譬如網を撒きて捕捞するは時令に合乎し、幼獣を猟取せず鳥卵を掏取せざるが如きは、これらは皆極細微の物で、聖人もまた遺棄を肯んぜざるなり。
通乎晝夜之道而知。
経文に曰く:昼夜幽明交替の道理を通暁し、因って知らざる所なし。
義曰:通者,無所不通之謂也。書則為明為陽也,夜則為幽為陰也。夫聖人得天之正性,秀出於人,上與天地合其徳,與日月合其明,通曉陰陽之宜,黙運鬼神之奧,雖晝夜之道、幽明之理,無所不知,無所不曉。至如寒暑之代謝、星晷之相旋、陰陽之晦明、風雨之悽暴,未有不先知之矣。自此已上皆言神之所為、精氣為物逰魂為變之事,聖人能極神盡慮,推幽測隠,無所不知也。
胡瑗の解釈:「通」は通ぜざる所なきの意思。白天は明に属し陽に属し、夜里は幽に属し陰に属す。聖人は上天の純正の性を禀得し、才徳は常人を超出し、上に向かっては天地の徳性と相合し、日月の光明と相合し、陰陽の間のあるべき分寸を通暁し、黙黙に鬼神幽深の道理を運用す。たとい昼夜交替の道・幽明変化の理なるも、知らざる一様なく明らかならざる一様なし。譬如寒暑の更替・星辰日影の旋転・陰陽の晦暗と晴明・風雨の凄清と暴烈、能く予め知暁せざる一様なし。以上のこれらが講ずるは皆神妙の力の作為、および精気が聚りて万物を成し魂気が游散して変化を生ずるこの一類の事である。聖人は能く神明を窮尽し思慮を竭尽し、幽微を推求し隠晦を測度し、因って知らざる所なし。
故神無方而易無體。
経文に曰く:故に神妙の力に固定の方所なく、《周易》の道にも固定の形体なし。
