蹇 艮下坎上
蹇:利西南,不利東北;利見大人,貞吉。
《蹇》卦は下卦を艮と為し・上卦を坎と為し、「蹇」は行走艱難・時局多難の意なり。卦辞にいう。西南方に往くは利有り、東北方に往くは不利なり。大德大才の人に見ゆるに宜しく、正道を守持すれば即ち吉祥なり。西南は坤に属し、平曠にして養育するの地なり。東北は艮に属し、山高くして路険なるの地なり。
義曰:按《序卦》云「乖必有難」,故受之以《蹇》。蹇者,難也,言睽乖之時,上下離異,人心不同,必有蹇難,此《蹇》之所以次於《睽》也。利西南者,西南坤位也,坤者致養之地,廣大寛平,生育之所也。夫當蹇難之世,生靈不得其安,民物不遂其所,人人思治之時也;若聖賢之人治天下之蹇,則置民於寛廣生育之域,然後得其安而至於太平也。
《序卦伝》に言う。乖離の後に必ず患難有り、だから《睽》の後に《蹇》を接ぐ。「蹇」は即ち艱難。乖違の時は上下彼此に背離し・人心は各々相同ならず、必然に険艱困厄を生出す、これ即ち《蹇》卦の《睽》卦の後面に排列せらるるの縁故なり。いわゆる「利西南」は、西南は後天八卦の中に於いて坤位に属し、坤は化育長養の地・広大平坦にして、万物生長の所在なればなり。艱難の世に当たりて、百姓は安寧を得ず、人と物は皆各々其の所に安んずる能わず、人人は皆人の来たりて局面を收拾せんを盼望す。若し聖賢の人有りて来たりて天下の艱難を治理せば、即ち応に百姓を寛広にして能く生養するの地方に安置して去り、後に乃ち彼らをして安頓し下り・進んで太平に走向せしむべきなり。
不利東北者,東北艮位也,艮為山,山者險阻不通之地也。若聖賢之人出民於險阻而置之安平,則是治蹇之道也;若復納諸險阻之地,則其民愈困而其道愈窮,故利西南而不利東北也。利見大人者,言蹇之時欲治天下之險、釋天下之難,必利見其大才大徳之人也。貞吉者,蹇難之作,由上下人心乖異不正而然,今濟天下於無事,則必本諸大正之道,然後乃吉也。
いわゆる「不利東北」は、東北は艮位に属し、艮は山を象徴し、山は険阻にして行くこと難く・道路は通ぜざるの処なればなり。聖賢は百姓を険阻の中より帯出し、平坦安穏の地方に安置し、これ乃ち艱難を解救するの弁法なり。若し返ってまた彼らを険阻の地に塞回せば、百姓は只だ更に困頓し、出路も亦愈々窮絶せん、だから西南に利して東北に利ならずと言うなり。いわゆる「利見大人」は、艱難の時に於いて天下の険阻を平治し・天下の困厄を解き開かんと欲すれば、必ず大才大德の人の出来せば乃ち可なりを言うなり。いわゆる「貞吉」は、艱難の産生は本より上下の人心の乖離不正に源するがゆえなり。今、天下を拯救して平安無事に到らしめんと欲すれば、必ず大中至正の道を以て根本と為して、これで乃ち吉を得べきなり。
彖曰:蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉!蹇利西南,往得中也;不利東北,其道窮也。利見大人,往有功也;當位貞吉,以正邦也。蹇之時用大矣哉!
《彖伝》の解釈にいう。《蹇》は即ち艱難、坎険は前面に横たわる。険阻を見て能く停まりて進まざる、これ乃ち明智なりや。「蹇利西南」は、あそこに前往すれば中道に合乎を得べきがゆえなり。「不利東北」は、あの路は尽頭に走れば即ち窮尽するがゆえなり。「利見大人」は、前往して投奔すれば便ち功業を建立し得べきがゆえなり。「当位貞吉」は、各爻は各々其の位に安んじ・正道を守持して、足りて邦国を端正するがゆえなり。艱難の時の功用は、真に大いなること甚だしきなりや。
義曰:此因二體以釋其義也。坎為險在上,故曰險在前也。見險而能止,知矣哉者,坎為險,艮為止,見險在前,止而不進,是其知也。蹇利西南往得中者,西南寛廣生育之地,民在蹇難,置之此則得其安居而各遂其所,是往而得其中道者也。不利東北其道窮也者,東北險阻之地,民在蹇難,復置之此則其民愈蹇,是其道之窮也。
この一段は上下両体に就きて卦義を解釈す。坎は険陥を象徴して上体に居る、だから険阻は前面に横たわると言うなり。「見険而能止、知矣哉」は、坎を険と為し・艮を止と為すがゆえなり。険阻の当前を見て能く停住して冒進せざる、これ即ち明智なり。「蹇利西南、往得中也」は、西南は寛広にして能く生養するの地方、百姓はまさに艱難の中に陥れり、彼らをあそこに安置せば、即ち能く安居して各々其の願いを遂げ、これ便ち前往して中道に合乎するなりと言うなり。「不利東北、其道窮也」は、東北は険阻の地、百姓はまさに艱難の中に陥れり、再び彼らをあそこに放れば、只だ愈々困蹇するのみ、この路は即ち走絶したるなりと言うなり。
利見大人往有功也者,夫大人與天地合徳,日月共明,有仁義之心,經綸之志,民被塗炭,往而見之,共以解其蹇難,致其安平,則是往而有功也。當位貞吉以正邦也者,謂五得其君之正,二得其臣之正,各當位而守正,故能正邦也。蹇之時用大矣哉者,蓋蹇之時必得大才大徳之人,然後可以解天下之蹇,故先聖於此重嘆美之也。
「利見大人、往有功也」は、大人の徳行は天地と相合し、光明は日月と並び明るく、仁義の心と天下を経緯するの志向を懐抱す。百姓はまさに水深火熱に陥れり、前去して彼に投奔し、共同にこの場の艱難を解き開き、天下を安寧太平に帰せしむれば、これ即ち前往して能く功を建つるなり。「当位貞吉、以正邦也」は、九五は君主を為るの正位を得、六二は臣子を為るの正位を得、各自位に当たりて正道を守持すれば、だから能く邦国を端正すを言うなり。「蹇之時用大矣哉」は、艱難の時は必ず大才大德の人を得て、後に乃ち天下の困局を解き開く可能あれば、だから先聖は此処に於いて再三これを讃嘆す。
象曰:山上有水,蹇。君子以反身修徳。
《大象伝》にいう。山の上にまた水有り、山高くして水険しく・層層に阻隔す、これ即ち《蹇》卦の取象なり。君子は此に取法し、困厄に遇いて外に向かって埋怨せず、而も回頭して来たりて自身を省察し・自らの徳行を修養す。
義曰:山者,險阻之物,水流於險阻之上,其勢必不能通,是蹇之象也。君子以反身修徳者,言君子罹此蹇難,不怨天,不尤人,但反己之身,修飭其徳而已。《孟子》曰「愛人不親反其仁,治人不治反其智,禮人不答反其敬」,此之謂也。
山は本來即ち険阻の物、水はまたこの険阻の上に流れれば、水勢は必然に暢通する法なし、これまさに艱難の象徴なり。君子の「反身修徳」と言うは、君子がこのようの困厄に遭遇して、すでに上天を埋怨せず、亦別人を責怪せず、只だ反躬自省して自らの徳行を整飭するのみなりと講ずるなり。《孟子・離婁上》に「人を愛護するも人は親近せざれば、即ち自らの仁を反省し、人を治理するも治理して好くならざれば、即ち自らの智を反省し、礼を以て人に待するも人は回応せざれば、即ち自らの敬を反省す」と言う、講ずる所はまさにこの意思なり。
初六:往蹇來譽。象曰:往蹇來譽,宜待也。
初六の爻辞にいう。前往すれば則ち艱難に遇い、退き戻れば則ち美誉を得る。《小象伝》の解釈。前往して艱難にして退き戻りて誉を得るは、此の時は応に時機を等待すべければなり。「来」は此処では返回・退守して本位に在るの意なり。
義曰:夫蹇難之世,坎險在前,君子居之,必量時度勢而進,以自保其明。今初六居卦之始,在險難之初,若不顧其危,沖冒而進,則蹇難愈甚;若翻然知幾,觀時可否,可退則退,復其所處,不陷躁失,則保全其道,得其嘉美之譽,故往蹇來譽。象曰往蹇來譽宜待也者,言君子當蹇難之初,險阻在前,未可以進,宜退而自處,以待其時也。
艱難の世に於いては、坎険は前面に横たわり、君子は身は其中に処し、一定に時勢を衡量して再び進退を決定し、以て自らの明智を保全せねばならず。初六は全卦の起頭に処し、まさに険難は剛く起るの時に当たる。若し危険を顧みず貿然として衝上せば、困厄は只だ更に深からん。若し能く猛然として苗头を察覚し、時機の可行不可を看清し、退くべきに退きて、自ら本来の位置に帰到り、躁進して拠を失うの過失に落入せざれば、ならば正道を保全し、美好の声譽を贏得す、だから「往蹇来誉」と言うなり。《小象伝》の「宜待也」は、君子は艱難の初起・険阻の当前に当たるの際に前進すべからず、応に退守して自ら処り、静候して為すべきの時を俟つを講ずるなり。
六二:王臣蹇蹇,匪躬之故。象曰:王臣蹇蹇,終無尤也。
六二の爻辞にいう。君王の臣子は艱難の中に一再に難を犯して行く、並びに自ら一身の故のためならず。《小象伝》の解釈。王臣は難を冒して進みて、終に過失有ることなからん。「匪」は即ち非、「躬」は自身なり。
義曰:蹇難之時,人人皆有所患而不可動,故初則往蹇來譽,三則往蹇來反,四則往蹇來連,獨此六二云王臣蹇蹇者,蓋以其處人臣之位,履中居正,上應於九五之君,而君在蹇難之中,必盡忠竭力,奮死不顧,雖重險在前,亦沖冒而往也。
艱難の世は人人皆顧慮を有して敢えて軽動せず、だから初六は「往蹇来誉」と言い、九三は「往蹇来反」と言い、六四は「往蹇来連」と言い、皆退守なり。唯だ六二は「王臣蹇蹇」と言い、一味に前に向かう、これは六二が身は臣子の位に処し、すでに下卦の中位に居りてまた陰爻が陰位に居り、中正を兼備し、上に向かってまた九五の君と相応ずるがゆえなり。君主はまさに艱難の中に陥れり、臣子を為る者は必ず忠を尽くし力を竭し、身を奮い顧みず、縦に重重の険阻が前面に横たわるも、亦険を冒して前往せねばならず。
匪躬之故者,六二所以冒犯險難而進者,非其一身之故,蓋上以為君,下以為民,救天下之蹇也。象曰王臣蹇蹇終無尤也者,凡為人臣,苟不盡忠竭節,見危授命,則有不忠之罪;今六二既能盡忠竭節,不恤其身以救天下之蹇,故終無尤也。
「匪躬之故」と言うは、六二の険難を冒して前進する所以は、並びに自らのために打算するにあらず、而も上は君主のため・下は百姓のため、天下の困厄を解救せんと欲するなりと講ずるなり。《小象伝》の「終无尤也」は、凡そ臣子を為る者は、若し忠を尽くし節を守り・危難の関頭に於いて性命を献出する能わざれば、即ち不忠の罪名を担ぐと講ずるなり。六二はすでに能く忠節を竭尽し、自身の安危を顧惜せず去りて天下の難を解救すれば、だから終に責怪を招来せざるなり。
九三:往蹇來反。象曰:往蹇來反,內喜之也。
九三の爻辞にいう。前往すれば則ち艱難に遇い、本位に返回せば便ち安頓を得る。《小象伝》の解釈。往けば艱難・返れば安頓、下面の両爻は皆その回帰のために歓喜するがゆえなり。「内」は下卦の初六と六二を指す。
義曰:九三以陽剛之徳居下卦之上,為初六六二之所恃也。然而險難在前,往則愈蹇,若君子之人能知時之不可行、度勢之不可用,反而自處以守其正,則得其所安,故曰往蹇來反也。象曰往蹇來反內喜之也者,既退而反居其本位,則不惟己獲其安,兼下之二爻皆得其所恃,安止而不犯於難,是內有喜恱之事也。
九三は陽剛の品德を以て下卦の最上の一爻に居り、初六・六二の両箇の陰爻の依靠する所の対象なり。しかし険難は即ち前頭に在り、前進は只だ更に困ならん。若し君子が能く時機の行くべからざるを明白にし・形勢の用うべからざるを估量し、身を返して退守して其の正を固持せば、即ち安頓を得べし、だから「往蹇来反」と言うなり。爻辞裏の「反」は即ち本位に返回す、「往」と相対して、並びに退缩して難を畏るるにあらざるなり。《小象伝》の「内喜之也」は、九三すでに自ら本来の位置に退回せば、但だ自身が安を得るのみならず、下面の両爻にも連なりて皆依靠を保住し、安然として止步して去りて険難を触犯せざれば、だから「内」――亦すなわち下卦の初六と六二――には皆可喜可悦の事有るを講ずるなり。
六四:往蹇來連。象曰:往蹇來連,當位實也。
六四の爻辞にいう。前往すれば則ち艱難に遇い、退き戻れば則ち下面の諸爻と牽連して相守る。《小象伝》の解釈。往けば難・来れば連、六四の処する所の位は恰当にして、また能く陽剛の実に親附するがゆえなり。「連」は牽連・結伴の義なり。
義曰:連者,牽連之謂也。六四以陰居陰,得正者也,然而蹇難之世,坎險在前,冒昧而進,愈必有難而入於深險;若能知時之不可行,退而牽連下之三爻,止而自守,則得其安也。註疏讀連字從上聲,言四往來進退之間皆有蹇難而不利。夫蹇之時,其險在前,故君子止而不往,若退而守,不務其進,則復何蹇難之有?此註疏之失也。象曰往蹇來連當位實也者,言四以陰居陰,得正當位者也。陽為實,今四連下之陽,是當位而附得其實也。
「連」は牽連して結伴するの意なり。六四は陰爻が陰位に居りて、得正に属す。但し艱難の世に於いては、坎険は前面に横たわり、冒失に前進は只だ陥ること更に深からん。若し能く時機の行くべからざるを明白にし、退き戻りて下面の三爻と聯結して一処に成り、止步して自守せば、即ち安穏を得べし。旧有の《周易正義》は「連」の字を上声と読作し、六四が来々往々・進退の間に皆艱難有りて利を得ざると解成せり。其の実、艱難の時は険阻は前に在りて、君子は本より応に止まりて往かざるべし。すでに退守して前進を謀らざれば、また何処に何の艱難あらんや。これは《正義》の解錯せるなり。《小象伝》の「当位実也」は、六四は陰爻を以て陰位に居り、正を得て位に当たるを講ずるなり。陽は充実を為し、六四は下に向かって九三の陽に聯結す、まさに位に当たりて充実可靠の一方に依附し到れり。
九五:大蹇朋來。象曰:大蹇朋來,以中節也。
九五の爻辞にいう。身は大難の中に処して、同心の朋友は前来して相助す。《小象伝》の解釈。大難にして朋来たるは、君臣の双方は皆中道の節操を守住する能くするがゆえなり。「朋」は九五と相応ずるの六二を指す。
義曰:五居蹇難之世而處坎險之中,是蹇之大者也,有若天下未安、人民未治之時也。而九五居中履正,能任六二之臣,二又得人臣之正,故盡心竭力以輔於己,是其朋來也,如湯之救夏而得伊尹、武王救商而得呂望之類也。象曰大蹇朋來以中節也者,言五以剛中得人君之節,二以柔中得人臣之節,是君臣之間皆能以中節也。
九五は艱難の世に生れ、また正に坎険の中央に処し、困厄の最も深重なるの一爻、譬えば天下は未だ安定せず・百姓は未だ治理せられざるの時のごとし。但し九五は上卦中位に居りて立身は端正にして、能く六二この位の臣子を信任す。六二もまた人臣たるの正道を守住し、だから心を尽くし力を竭して来たりて君王を輔佐す、これ即ち「朋来」なり。商湯が夏末の乱を解救して伊尹を得、周武王が商紂を討伐して呂望を得たるがごとし。《小象伝》の「以中節也」は、九五は陽剛を以て中に居りて、人君の応有の節操に合し、六二は柔順を以て中に居りて、人臣の応有の節操に合し、君臣の双方は皆中道の分寸を守住する能くするを講ずるなり。
上六:往蹇來碩,吉,利見大人。象曰:往蹇來碩,志在內也;利見大人,以從貴也。
上六の爻辞にいう。前往すれば則ち艱難に遇い、退き戻れば則ち碩大の収穫有り、吉祥、大德大才の人に見ゆるに宜しからん。《小象伝》の解釈。往けば難・来れば碩、それの心志は内卦に係るがゆえなり。大人に見ゆるに利するは、それの追随する所は尊貴の人なればなり。「碩」は大にして豊厚なり。
義曰:上六處蹇之極,居一卦之外,難將終者也。夫險極必平,難極必安,當此之時不可復有所往,若往則益蹇,反而退居其位,下應九三以守碩大之徳,則得其吉道,故曰往蹇來碩吉也。利見大人者,言險難將終,但能附麗賢明大才大徳之人,則可以逺出險難而持久於治,不須復有所往也。象曰往蹇來碩志在內也者,言上所以來則有碩大之徳者,蓋志應在內卦之九三也。利見大人以從貴也者,陽爻至尊貴者也,今上六能利見大才大徳之人以終其難,是從者貴也。
上六は《蹇》卦の最上位に処し、一卦の外に居り、艱難は將に過去せんとするの時なり。険は極処に到れば必ず転じて平坦と為り、難は極処に到れば必ず転じて安寧と為る。此の時は応に再び前往する所有るべからず、前往は只だ更に困ならん。退き戻りて本位に安居し、下に向かって九三と相応じ、碩大豊厚の徳行を守住せば、即ち吉祥の路上に走上するに如かず、だから「往蹇来碩、吉」と言うなり。いわゆる「利見大人」は、険難將に尽きんとするの際に、只だ能く賢明にして大才大德の人に依附せば、即ち険難を遠離し・長久に治世を維持して、必ずしも再び別に往く所有るに及ばざるを講ずるなり。《小象伝》の「志在内也」は、上六が退き戻れば便ち碩大の徳有るの縁故は、其の心志が内卦の九三に係るに在るを講ずるなり。「以从貴也」と言うは、陽爻は最も尊貴なればなり。上六は能く大才大德の人に親近してこの場の艱難を結束すれば、だからそれの追随する所はまさに尊貴の一方なり。
解 坎下震上
解:利西南,無所往,其來復吉;有攸往,夙吉。
《解》卦は下卦を坎と為し・上卦を震と為し、「解」は患難の消散・緊張の緩解の意なり。卦辞にいう。西南方に往くは利有り。若し去るべからざらざるの地方なければ、原処に帰到りて安守すれば即ち吉祥なり。若し確実に去りて処置すべきの事有れば、早めに去りて弁ずれば即ち吉祥なり。「夙」は及早く・快を趁るなり。
義曰:按《序卦》云「物不可以終難」,故受之以《解》。解者,緩也,言天下之民不可使終受其難,必有聖賢之人往以濟之,故《解》之所以次於《蹇》也。利西南者,西南寛廣生成之地也。夫聖賢之人解天下之患難,除生民之疚疾,必須發仁義之道,躋之寛平之所,使皆遂其生成,然後利也。不言不利東北者,東北險阻之地,解之時聖人止務散釋天下之難,不復更有險阻,故不言東北也。
《序卦伝》に言う。事物は永遠に艱難の裏に困る能わず、だから《蹇》の後に《解》を接ぐ。「解」は即ち舒緩。天下の百姓は彼らをして一直に難を受けしむる能わず、必然に聖賢の出来して救助有るを要す、これ即ち《解》卦の《蹇》卦の後面に排列せらるるの縁故なり。いわゆる「利西南」は、西南は坤に属し、寛広にして能く万物を長養するの地方なればなり。聖賢は天下の禍患を解き開き・百姓の病痛を除去せんと欲すれば、必ず仁義の道を推行し、彼らを寛平の処に提携して去り、人人をして皆生長安頓し得せしむ、これで乃ち利有ると算すべきなり。卦辞は再び「不利東北」と言わざるは、東北は険阻の地なればなり。難を解くの時に到りては、聖人は一心に只だ天下の困厄を化解するに在り、眼前にすでに再び言うべきの険阻なし、だから必ずしも再び東北を提せずなり。
無所往其來復吉者,夫聖賢所以有所往者,蓋以天下之民在於患難,故欲拯而濟之也。今天下之患難既解,若復有所往,則是煩擾其民而事愈瀆亂,自取其弊敗之道,若《屯》之彖言「勿用有攸往」是也,但來而復其所,有獲其吉也。有攸往夙吉者,言聖賢積心處慮,恥一物之失所,今難解之時,天下之民雖已權安,然其間有所未濟,亦當趨往而解之,以速為尚,則可得而吉也。
「无所往、其来復吉」と言うは、聖賢の奔走有為を要する所以は、本より天下の百姓が患難の中に陥れるに由りて、去りて彼らを拯救せんと欲すればなり。今、患難はすでに化解せられ、若しなお不断に挙動有らんと要すれば、則ち百姓を攪擾するに成り、事情は返って愈々乱れを弄し、自ら敗壞を招来す、まさに《屯》卦の彖辞の言う所の「前往する所有る勿れ」のごとし。此の時は只だ原処に退回して安守せば、即ち吉を得べきなり。「有攸往、夙吉」と言うは、聖賢は心を存し意を用いて、一人一物の其の所を得ざる有るを以て恥と為すがゆえなり。今、難はすでに解けりと雖も、天下の百姓は暫時安定すと雖も、其中に仍として未だ救済に至らざるの地方有れば、亦応に赶て行きて化解し、迅速を以て上と為して、これで乃ち吉を得べきなり。
彖曰:解,險以動,動而免乎險,解。解利西南,往得眾也;其來復吉,乃得中也;有攸往夙吉,往有功也。天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲拆。解之時大矣哉!
《彖伝》の解釈にいう。《解》卦は下坎は険を為し・上震は動を為し、険境に処して能く奮動し、一動すれば便ち険陥を脱出す、これ即ち「解」なり。「解利西南」は、あそこに前往すれば衆人の帰心を得べきがゆえなり。「其来復吉」は、退回して安守して乃ち中道に合乎するがゆえなり。「有攸往夙吉」は、及早に前往すれば便ち功效を建立し得べきがゆえなり。天地の気は舒解し開けば、雷声と雨水は随って発す。雷雨は一たび作れば、百果草木は皆殻を破りて芽を抽す。難を解くの時の意義は、真に大いなること甚だしきなりや。
義曰:坎為險,震為動,動於險之外,是聖賢之人動而能拯天下之險,使皆出於難也,故曰解險以動,動而免乎險,解也。解利西南往得眾也者,言聖賢既以仁義之道除釋民之患難,而置之於寛廣生育之地,使各得其所,以此而行,則必得天下之眾心也。
坎は険陥を象徴し、震は奮動を象徴し、坎険の外に於いて震動す、まさに聖賢が挺身して動き、能く天下を険境の中より拯救し出して、人人をして苦難を脱離せしむる能くするを表示す、だから「険以動、動而免乎険、解」と言うなり。《蹇》卦は艮止は坎険の下に在りて、険を見て止まる。《解》卦は却って震動は坎険の上に在りて、動きて険を出ず、両卦の分別は即ち此処に在り。「解利西南、往得衆也」は、聖賢はすでに仁義の道を用いて百姓の患難を解除し、また彼らを寛広にして能く生養するの地方に安置し、各々其の所を得せしむれば、このように施行せば、必然に天下衆人の心を贏得せんと言うなり。
其來復吉乃得中也者,夫天下之難既解,若復有所往,則瀆亂已甚之道也,若不往而煩擾其民,守其止靜,則得中也。有攸往夙吉往有功也者,言患難既解之後,或天下之民有未得其所者,聖賢之人不可遲緩,必汲汲而拯之,言速則有功也。
「其来復吉、乃得中也」は、天下の困難はすでに解き開けり、若し再び一味に挙動有らば、即ち事情を混乱不堪に攪じるなりと言うなり。若し出でて行きて百姓を騒擾せず、静定を守住せば、乃ち中道に合乎すると算すべきなり。「有攸往夙吉、往有功也」は、患難解除の後に、もしなお百姓の安頓し好くせられざる者有らば、聖賢は即ち遅疑拖延すべからず、必ず急切に前去して拯救せねばならずと言うなり。爻辞裏の「夙」はまさに早を趁るの義。愈々快く手を動かせば、愈々能く実効を収むる能くす。これは前の一句の「无所往」と矛盾せず――事なき時は静を守り、事有る時は早を赶る、分寸は皆一箇の「時」の字上に在るなり。
天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲拆者,夫天在上,地在下,氣不交則雷雨不作而萬物不生,故天以陽氣降於下,地以陰氣升於上,陰陽相蒸,剛柔始交,則必有屯難。屯難既解,故鼓之為雷,蒸之為雨,雷雨盈滿,則百果草木皆敷甲而拆,以至句者、萌者、動者、植者,皆乘時而獲其亨通矣。
「天地解而雷雨作、雷雨作而百果草木皆甲拆」と言うは、天は上に在り・地は下に在り、二気は相交ぜざれば雷雨は興らず・万物は生は生ぜざればなり。だから天は陽気を降下せしめ、地は陰気を昇上せしめ、陰陽は互相に蒸騰し、剛柔は始めて交合し、其の間は必然に一段の鬱結して通じ難きの階段を経歴す。この段の鬱結が一旦舒解すれば、鼓蕩して出ずるは即ち雷と為り、蒸騰して出ずるは即ち雨と為る。雷雨は充沛すれば、百果草木は便ち皆外殻を撑開し・芽を抽して綻裂す。以て蜷曲する者・初萌する者・能動する者・根を扎るるの各類の生物に至るまで、皆この時節に乗じて通暢の生長を獲得す。
解之時大矣哉者,按諸卦或言時義,或言時用,而此止言時者,蓋難解之時無不釋,故止言時耳。若《蹇》之時用,是天下在於蹇而始將治之,故必有所用,是以言用也。又《遯》卦言時義之類,是皆義有所存之時,故言義也。此卦於義、用並無所取,故不言也。
「解之時大矣哉」この句の讃嘆に至っては、胡瑗は指出す。《周易》の各卦の讃語は、有るは「時義」と言い・有るは「時用」と言う、此処は却って只だ「時」と言うのみ。難を解くの時は天下に釈せざるなければ、単に一箇の「時」の字を説くに足れればなり。《蹇》卦の「時用」と言うがごときは、あれは天下がまさに艱難に陥れり・才に治理に着手せんと欲し、必ず施用する所有るを要すれば、だから「用」の字を標出す。《遯》卦の一類の「時義」と言うは、あれは其中に別に辨明を要するの義理有れば、だから「義」の字を標出す。《解》卦は「義」と「用」の両方面に於いて皆別に取意を立てず、それによって皆提せざるなり。
象曰:雷雨作,解。君子以赦過宥罪。
《大象伝》にいう。雷は動き雨は降り、鬱結は舒解す、これ即ち《解》卦の取象なり。君子は此に取法し、人の過失を赦免し・人の罪愆を寛宥す。「宥」は寛に従りて処置するなり。
義曰:雷雨既作,則蟄蟲昭蘇,草木甲拆,解之義也。天下之民方此難解之時,始出於塗炭,其有過惡,遷善逺罪,蓋舊染汙俗,化上薄惡之政而然也,故君子之人當此之時,有過者赦之,有罪者宥之,使之改過自新,遷善逺罪,蓋難解之道也。
雷雨は一たび発せば、蛰伏の虫豸は蘇醒し、草木は殻を破りて芽を抽す、これまさに「解」の意義なり。天下の百姓はこの患難の初めて解けたるの際に、才に水深火熱の中より走出し来れるなり。彼らの此の前の過錯惡行は、本は旧日の敗壞風気に沾染し・上面の刻薄暴虐の政令に濡化せられて乃ち造成せられたるなり。だから君子はこの時に於いて、過失有るの人に対しては赦免を予以し・罪愆有るの人に対しては寛宥を予以し、彼らをして改過自新し・善に向かい罪を遠くせしむ、これまさに苦難を化解するの応有の弁法なり。
初六:無咎。象曰:剛柔之際,義無咎也。
初六の爻辞は只だ言う。過咎なし。《小象伝》の解釈。剛爻と柔爻は交接して相配す、義理に按ずれば自然に過咎なきなり。「際」は交接会合なり。
義曰:夫民在患難,非聖賢則不能濟,然濟民之難務在於速,不可使之久困也,故卦言有攸往夙吉,彖曰往有功也,是濟難在於速也。今初六居卦之下,當解之初,天下之難盡已解釋,而無有所咎矣。象曰剛柔之際義無咎也者,九四剛也,初六柔也,剛柔交際,同心以解天下之難,其義自然無咎矣。以時言之,則患難初解,亨通將至,其義必無咎悔也。
百姓は患難の裏に陥り、聖賢なくんば救済する法なし。而も百姓を救済するの関鍵は快に在り、彼らをして長久に困頓せしむる能わず。だから卦辞は「有攸往、夙吉」と言い、《彖伝》は「往有功也」と言う、皆難を解くは迅速を貴ぶを講解するなり。初六は全卦の最下に処し、まさに難を解くの初めに当たり、天下の困厄はすでに全部化開せり、それによって何の過咎有ることなからん。《小象伝》の「剛柔之際、義无咎也」。九四は剛爻・初六は柔爻、両者は交接して相配し・同心協力して去りて天下の難を解き開けば、理に按ずれば自然に過咎なきなり。時勢に就きて言えば、患難は剛く解除せられ・亨通は將に到来せんとす、道理の上より講ずるも亦必定に咎悔有ることなからん。
九二:田獲三狐,得黃矢,貞吉。象曰:九二貞吉,得中道也。
九二の爻辞にいう。打猟して三隻の狐狸を捕獲し、また黄色の箭矢を得、正を守れば即ち吉祥なり。《小象伝》の解釈。九二は正を守りて吉なるは、それは中道を得たるがゆえなり。「田」は田猟、黄は中央の色、矢は其の正直を取るなり。
義曰:田,獵也。狐者,隠伏多疑之獸也。三者,言其象也。蹇難初解,民心尚疑,猶恐未脫於難而又入於蹇,故君子當行其教化,革其殘暴之政,易服色,改正朔,以新天下之耳目,使民心無所疑矣,如以田獵而獲三狐,猶言群疑亡也。黃,中也;矢,直也。言九二又得大中之道、剛直之徳,行天下之正道而得其吉也。
「田」は即ち田猟なり。狐狸は躲々蔵々して疑心の極めて重き野獣なり。「三」と言うは只だ象に就きて数を取るのみ、其の多きを形容す。艱難の剛く解けたる時に、百姓の心裏はなお満たるに疑慮を以てし、唯だ恐れるは未だ苦難を脱離せずしてまた重ねて困境に陥らんを。だから君子は応に教化を推行し・残暴の政令を革除し、服色を更換し・暦法を改定して、天下の人をして耳目を一新せしめ・民心をして再び猜疑せざらしむべし。これは打猟して三隻の狐狸を捕獲するに猶ほし、亦すなわち《睽》卦の上九の言う所の「羣疑亡也」なり。「黄」は中央の色、中に居るを代表す。「矢」は箭、正直を代表す。これは九二がまた大中の道と剛直の徳を具備し、天下の正道を推行し、それによって吉を得るを言うなり。
六三:負且乘,致冦至,貞吝。象曰:負且乘,亦可醜也;自我致戎,又誰咎也。
六三の爻辞にいう。行囊を背負うの人は却って大車に坐上す、強盗を招来す、たとい正を守るも羞吝を免れ難し。《小象伝》の解釈。背負する者にして車に乗るは、本身即ち可恥なり。禍乱は自ら招来せる、また誰を怪すべきや。背負は僕役の事、乗車は貴人の器、二者は相称せざるなり。
義曰:負者,小人之事;乘者,君子之器。陽至貴,君子也;陰至賤,小人也。今六三陰居陽,是小人而乘君子之器也。夫昏亂之朝,庸主在上,則賢不肖混淆,故君子之位而為小人所乘。今蹇難既解,君臣上下各從其正,而六三乃以不正之質居至貴之地,是小人在君子之位也,則天下之所不容,斯人之所眾棄也,故致冦盜之至,為害於已而奪取之也。然而小人得在髙位者,蓋在上之人慢其名器,不辨賢否而與之,以至為眾人所奪,而致寇戎之所害也。
東西を背負するは僕役小人の差事、車輿に乗坐するは貴人君子の器用なり。陽爻は最も尊貴、君子を象徴す。陰爻は最も卑賤、小人を象徴す。六三は陰爻なるも却って陽位に居り、まさに小人が君子の車に坐上せるなり。昏乱の朝廷の裏においては、庸碌の主は上に在り、賢と不肖は混雑して分別せられず、だから君子の位子は小人に占去せらる。今、艱難はすでに化解せられ、君臣上下は各々其の正に帰せり、六三は却って不端正の資質を以て尊貴の位を占踞す、これ即ち小人が君子の位を窃踞し、天下の容るる所と為さず・衆人の共に棄つる所と為り、それによって強盗を招来し、己に加害して併せて彼の占むる所の物を奪去せん。小人が何を以て高位に爬到し得るに至っては、則ち在上者が名分器物を軽慢するがゆえなり――いわゆる「名器」は、即ち爵位名号と車服礼器、朝廷の以て尊卑を標示するの憑据なり――賢愚を辨せずして随に人に授与し、以て衆人に奪去せられ・兵戎の禍を招来するに至る。見るべし、禍根は但だ六三自身に在るのみならず、亦位を授くる者の失察に在るなり。
象曰負且乘亦可醜也者,言小人在位,是可醜惡之也,故《孟子》曰「不仁而在髙位,是播其惡於眾」也。自我致戎又誰咎也者,言小人不度已徳,不量已勢,而竊居君子之位,所以致戎冦之來也。若以一郡一邑言之,則為致冦;若以天下言之,則為致戎。且冦戎皆自已招,又何咎於人哉。故《繫辭》曰「負也者,小人之事也;乘也者,君子之器也。小人而乘君子之器,盜思奪之矣;上慢下暴,盜思伐之矣。慢藏誨盜,冶容誨淫。《易》曰『負且乘,致冦至』,盜之招也」。
《小象伝》の「亦可醜也」は、小人は高位を窃踞す、本身即ち醜惡可鄙の事と講ずるなり。だから《孟子・離婁上》に「不仁の人が身は高位に居るは、其の惡行を衆人に播散するに等しきなり」と言う。「自我致戎、又誰咎也」と言うは、小人は自らの徳行を衡量せず・自らの勢位を估量せず、却って君子の位を窃居す、それによって兵戎盗賊を招来すと講ずるなり。一郡一邑に就きて言えば、招来する所は盗匪なり。天下に就きて言えば、招来する所は即ち兵禍なり。而も盗匪ならんと兵禍ならんとを問わず、皆自ら招惹せる、また誰を責怪するを得べきや。だから《繋辞伝》に言う。背負は小人の差事、車輿は君子の器用なり。小人は君子の車に坐せば、盗賊は即ち来たりて奪搶せんと想う。上に在る者は軽慢にして、下に在る者は暴横なれば、盗賊は即ち来たりて討伐せんと想う。財物を收藏するに马虎なれば、人に偷を教えるに等しきなり。妖冶に打扮せば、人に淫を招くに等しきなり。《易経》に「負且乗、致冦至」と言うは、まさに自ら盗賊を招来せるなり。
九四:解而拇,朋至斯孚。象曰:解而拇,未當位也。
九四の爻辞にいう。なたの脚趾上に黏附するの物を解脱し掉せば、朋友は前来して相与し、彼此に誠信を以て相待せん。《小象伝》の解釈。脚趾の累を解き去るを要するは、九四の処する所の位置は本は当ならざるがゆえなり。「而」は此処では「なた」、「拇」は脚の大趾、黏附して去らざるの六三を比喻す。
義曰:拇者,足指之大者也,謂六三居四之下,上無應而附於四,有足指之象也。九四正應在初,是其朋也,既繫於六三,必忘於初,則初亦忘之矣。今既解去六三而專應於初六,則至而信矣,故解而拇,朋至斯孚。象曰解而拇未當位也者,夫以至尊而為天下之主,則可包含荒穢而容天下之民物也,今九四不當至尊之位,故不可繫於他類,而必解去之,則其朋黨至而信矣。
「拇」は脚上の大趾なり。此処に指すは六三が九四の下に処し、自身に相応ずるの爻なくして九四に攀附す、まさに脚上に貼り付くの大趾のごとし。九四の真の正応は初六に在り、初六は乃ち其の同伴なり。一旦六三に纏住せられれば、必然に初六を疏忘し、初六も亦即ちそれを撇下す。今、六三を解脱し開き、専心に初六と相応ずれば、初六は自然に到来して誠信を以て相与す、だから「解而拇、朋至斯孚」と言うなり。《小象伝》の「未当位也」は、若し身は至尊に居りて天下の主と為れば、倒れても駁雑を包容し・兼ねて天下の人物を容納すべしと講ずるなり。九四は至尊の位に在らざれば、即ち相干ならざるの一類に牽繋すべからず、必ず解脱し開きて、これで同道の朋は乃ち到来して彼此に信を取るべきなり。
六五:君子維有解,吉,有孚于小人。象曰:君子有解,小人退也。
六五の爻辞にいう。君子は終に解脱有る能くし、吉祥、而且に能く小人に於いて信を取る。《小象伝》の解釈。君子は解脱有れば、小人は便ち自ら退去せん。「維」は語助の詞、「孚」は此処では人をして信服せしむるを指す。
義曰:六五以大中之道位上卦之中,下應九二剛明之君子,以君子之道既行,是能解天下之難而得其吉也。孚于小人者,夫君子當解難之時,必能進用賢者,黜退小人,以成其治,治道既行,則小人自然望風而信服,退藏竄伏,以避君子之誅也。象曰君子有解小人退也者,君子之道既行於上,以解天下之難,則豈患小人哉,必自然信之使退也。
六五は陰爻なりと雖も、却って大中の道を以て上卦の中位に居り、下に向かって九二この位の剛健明察の君子と相応ず。君子の道はすでに推行せられれば、便ち能く天下の困難を解き開きて吉祥を獲得す。いわゆる「大中」は、即ち過ならず不及ならず・恰当合宜の処事の分寸なり。いわゆる「有孚于小人」は、君子は難を解くの時に当たりて、必ず賢才を進用し・小人を罷退して、以て治世の功を成就せんと言うなり。治道は一旦通行せば、小人は自然に風を望みて服し、退蔵して躲避し、以て君子の懲処を免れん。《小象伝》の「小人退也」は、君子の道はすでに上位に於いて推行せられ、以て天下の難を解き開けば、なお何の小人を怕れるあらんや。彼らは必然に自ら信服して退走せんと講ずるなり。
上六:公用射隼于髙墉之上,獲之,無不利。象曰:公用射隼,以解悖也。
上六の爻辞にいう。王公は高墻の上に於いてあの隻の鷲鳥を射る、一挙に射中す、不利なきことなし。《小象伝》の解釈。王公が隼を射るは、悖乱を解除せんがためなり。「隼」は凶猛の鷲鳥、「墉」は高墻なり。
義曰:隼者,擊搏貪殘之禽也;髙墉,非隼之所居也。六三以柔懦不正之體居下卦之上,是竊國家之名器,當君子之大位,猶貪殘之隼而居髙墉之上也。今上六處解之時,居動之極,是君子之人藏器於身而不妄動者也,故能射去此不正之小人,使不得居髙位而竊名器,如射隼于髙墉之上也。
隼は獲物を搏撃し・貪婪凶残の鷲鳥なり。高墻は本は隼の棲息すべきの地方にあらず。六三は柔弱不正の資質を以て下卦の上位を占住し、国家の名分と器物を窃取し・君子の高位を占むるに等しく、まさに一隻の貪残の鷲鳥が高墻の上に蹲るがごとし。上六は難を解くの時に処し、また震動の体の頂端に居り、まさにあの種の才器を身上に蔵して軽挙妄動せざるの君子なり。だから能く一挙にこの不正の小人を射掉して、彼をして再び高位を占踞し・名器を窃据する能わざらしむれば、即ち高墻上に於いてあの隻の隼を射下すに等しきなり。
獲之無不利者,以小人而當君子之位,以此而獲之,何不利之有。故《繫辭》曰「隼者,禽也;弓矢者,器也;射之者,人也。君子藏器於身,待時而動,何不利之有?動而不括,是以出而有獲,語成器而動者也」。
「獲之、无不利」と言うは、小人を以て君子の位を窃据せば、このようの手段を用いて彼を拿下するに、また何の不利と言うべきあらんや。だから《繋辞伝》に言う。隼は鳥禽、弓矢は器具、それを射るは人なり。君子は才器を自身に蔵して、時機を待って後に行動すれば、何処に何の不利有るかせんや。行動し起れば毫も阻滞なく、それによって一たび手を出せば即ち獲る所有り、説く所はまさに器具がすでに完備して後に乃ち行動するの道理なり。
