坎 坎下坎上
習坎:有孚,維心亨,行有尚。
《習坎》卦の卦辞にいう。内心に誠信を懐き、それゆえ心志が亨通します。このようにして行動すれば、崇尚を受けます。
義曰:按《序卦》云「物不可以終過,故受之以坎」,言君子之人所行必貴得其中,不可大過,大過則必有坎陷,故坎次於大過也。然此卦是伏羲所畫之卦,在八純之數,其七卦皆一字而名,獨此加「習」字者何也?蓋乾主於健,坤主於順,若是之類率皆一字可以盡其義,而此卦上下皆險,以是為險難重迭之際,君子之人當此重險之世,欲行事於天下,必當預積習之,然後可以濟其險阻;若不能預習之,則才小力薄,致滅其身,故聖人加「習」字者此也。
胡瑗が解釈します。《序卦伝》によれば、事物はずっと超過し続けることはできません。だから《大過》の後に《坎》が続きます。意は君子の行事は中道に合することを貴び、一味に過度であってはならず、過度ならば必ず坑陷に跌け込むということです。だから《坎》は《大過》の後に列します。この一卦は伏羲の画いた八つの純卦の一で、其余の七卦は皆一つの字を用いて命名するのに、唯この一卦は一つの「習」の字を加えます。なぜでしょうか。乾は剛健を主り、坤は柔順を主り、この類は皆一つの字を用いて卦義を説き尽くします。而もこの一卦は上下とも坎険で、険難が重々畳畳たる時を代表します。君子がこのような双重険境の時代に身を処して天下に作為しようと欲すれば、必ず事先に反復演練熟習して、後に険阻を渡ることができます。若し預め熟習することができず、才薄力弱ならば、返って性命を送り失います。聖人が「習」の字を加えたのは、用意がまさに此処に在ります。
「有孚」者,孚,由中之信也。夫水之性,決之則流,防之則止,此水之信也。如君子之人知幾達理,行於險難,有至誠無不通者,以至誠無不通,若水流而坎險皆可以平之也。「維心亨」者,坎卦上下之中皆有剛明之德,是水之性至明而無所不通,如君子中有剛明之德,曉察險阻之事而便習之,所行不違於中,思慮不逾其志,如此則事無不獲其濟。
卦辞の「有孚」の「孚」は、心の底より発する誠信です。水の本性は、缺口を掘開けばそれは流れ、堤防を築けばそれは停まる、これが水の信実です。君子が事機を明察し事理を通達し、険難の中を行き、一片の至誠を凭りに打通できない所がないがごとし。至誠ありて通じない所なければ、水が一路流れ過ぎて、凡そ坑坎険阻は皆それに填平されるがごとし。「維心亨」と言うのは、坎卦の上下二つの単卦の中位が皆陽爻で、剛強明達の徳性を具備し、まさに水性が極めて清明で通じない所なきがごとし。君子の内心がこのような剛明の徳性を具備し、険阻の実情を看清し且つ平日より演練純熟し、行う所は中道に違背せず、思う所は本志を越出せず、このように事をなせば成功しないことはありません。
「行有尚」者,夫水之性,凡坎險之處無不流而至之,故能平其險難而潤澤萬物,為時之所尚也。若君子之人當險難之時,力能扶持之,蓋由以仁義之道、才智之美,上而朝廷有其德,下而萬物被其澤,亦如水之無不潤而為時所尊尚也。
「行有尚」と言うのは、「尚」は崇尚推重の意です。水の本性は凡そ坑坎険阻ある所は流れ過ぎないことなく、だから険難を填平し万物を滋潤でき、それゆえ当世に推崇されます。君子もまたこのようです。険難の時に挺身して大局を扶持でき、凭る所は仁義の道と才智の美で、上に向かっては朝廷に彼の德行を蒙受せしめ、下に向かっては万物に彼の恩沢を承受せしめ、まさに水のように滋潤しない所なし。だからまた当世に尊崇されます。
彖曰:習坎,重險也。水流而不盈,行險而不失其信。維心亨,乃以剛中也。行有尚,往有功也。天險不可升也,地險山川丘陵也,王公設險以守其國,險之時用大矣哉!
《彖伝》にいう。《習坎》とは、重々畳畳の険阻です。水は停まらず流れて未だ一処に積満せず、険処を行きても自らの信実を失いません。「維心亨」は、陽剛が上下卦の中位に居るからです。「行有尚」は、往けば功を建てるからです。天の険は高く攀じ難いに在り、地の険は山川丘陵に在り、王公は則ち険阻を設置して自らの国家を守衛します。険というものは、時に因りて用い、その作用は実に大です。
義曰:夫坎,險也,陷也。此卦上下皆坎,是重險之象也,亦言聖賢之人慾致天下之事業,惟坎險之事最難,則必素習之,然後可以拯濟其事也,故曰「習坎,重險也」。「水流而不盈,行險而不失其信」者,夫水之流者,盈於一坎而又之一坎,無有盈滿而不流者,若險峻之處則決然而往,無所凝滯,是其信也。猶君子之人當險難之世,奮然不顧其身,竭力盡誠往而拯其難,無有凝滯,是猶水之流而不失其信也。
胡瑗が解釈します。坎の意は険であり、陷です。この一卦は上下とも坎なので、重険の象です。聖賢の人が天下の事業を成就しようとするに、最も対付し難いは険難の事より過ぐるなく、必ず平日より演練熟習して後に事を救い得る。だから《彖伝》に「習坎、重険也」と言います。「水流而不盈、行険而不失其信」は、水流は常に一つの坑坎を灌満すれば便ちまた次の坑坎に向かって流れ、積満して停まり行かないことはなく、陡峻の所に遇えばさらに决然として奔瀉し、毫も遅疑しません。これがその信実です。これは君子が険難の世道に処し、奮然として自らの安危を顧みず、全力を竭くし全副の誠意を拿出して危難を拯救し、毫も遅疑しないがごとく、水が一路奔流してその信実を失わないがごとしです。
「維心亨,乃以剛中」者,此卦以陽居中,是有剛明之德而行於險難之中,故無有不通也。「行有尚,往有功」者,言水之性流於下而潤澤萬物,是有生育之功,為時之尚;君子之人素能習其坎難之事,是以往則有其成功也。
「維心亨、乃以剛中」は、この一卦の上下二つの単卦が皆陽爻を以て中位に居り、剛強明達の徳性を懐いて険難の中を行くを代表し、だから打通できないことがありません。「行有尚、往有功」は、水の本性は低き処に向かって流れて万物を滋潤し、生養化育の功有りて、それゆえ当世に推崇されるということです。君子は平日より険難に応ずるの本事を演練熟習したので、一旦往いて行動すれば便ち成功できます。
「天險不可升」者,此以下廣明險之義。言天之崇髙極遠,不可階梯而升,其神明之道不可測度,故能保其崇髙。「地險山川丘陵」者,言地有髙山大川、髙丘峻陵,以包藏萬物而不可踰越,故物得其保全也。「王公設險以守其國」者,言王公法天地之險,而扼衝要之地,據形勢之以建其國,髙城池外為之固,堅甲利兵內為之戒,嚴刑法以除奸,飭教化以厲俗,如此所以保國家之大而固其基業之久也。「險之時用大矣哉」者,言預能習坎險之事,及是時用其道以濟之也。
「天険不可升」以下は、さらに進んで「険」の意義を申明します。天は崇高遼遠で、梯子を架けて爬り上ることができず、その神妙の運行の道も測度できず、だから自らの崇高を保つことができます。「地険山川丘陵」は、大地上に高山大河・高丘峻嶺があって、万物をその中に包蔵して随意に跨越されないので、万物は保全を得ます。「王公設険以守其国」は、王公が天地の険を設ける道理に效法し、交通の要衝を扼守し、地形に憑藉して都邑を建立し、外には高城深池を以て屏障とし、内には堅甲利兵を以て戒備とし、厳明の刑法を用いて奸邪を鏟除し、整飭の教化を用いて風俗を砥礪し――こうしてはじめて国家の宏大な規模を保ち、基業の長久を穏固にできます。「険之時用大矣哉」は、平日に能く険難に応付するの本領を演練熟習して、時に到りてこの套の弁法を用いて難関を渡ることを言います。
象曰:水洊至,習坎。君子以常德行,習教事。
《大象伝》にいう。水は一波接一波として涌き来る、これが《習坎》の象です。君子はこれに取法し、自らの德行を恒久に変らざらしめ、且つ反復して民衆を教化するの事を演練します。
初六:習坎,入于坎窞,凶。象曰:習坎入坎,失道凶也。
初六の爻辞にいう。重々の険陷の中に身を処し、返って坑中の坑に落ち込む、凶です。《小象伝》の解釈にいう。重険の中に処してまた坑に掉込むは、正道を迷失して凶を招いたからです。
義曰:窞者,坎中之坎也。大凡居險難之世,必有剛明之德而素習其事,然後其道可行於天下。今初六以陰柔居坎險之始,而上又無其應援,是其卑而不能自奮,柔而不能自立,位卑身弱,又不能素習其坎險之事,以至復入於險之處,涉其難愈,凶之道也。「象曰:習坎入坎,失道凶也」者,言初六之柔弱不能自立,以之治一身則一身不治,以之治一國則一國不治,以之治天下則失治天下之道,是其懦弱失道之甚,愈往則凶愈也。
胡瑗が解釈します。「窞」は坑坎の裏に套しているさらに深い坑です。凡そ険難の時代に身を処しては、必ず剛強明達の徳性を具備し、平日また演練熟習して険に応ずるの本事を備えてこそ、自らの主張を天下に推行できます。今、初六は陰柔の質を以て坎険の最下に処し、上にまた相応する援手がなく、だからそれは位が卑く力なく奮発できず、質が柔く自立できません。地位は低く身子は弱く、また平日に険難に応付するの事を演習しておらず、結果は一歩一歩さらに深い険処に陷り込み、ますます陷るが深し、これが凶の道です。《小象伝》の「習坎入坎、失道凶也」は、初六が柔弱して自立できないことを言います。この副の样子を拿って自身を治理せば、自身は治まらず、一国を治理せば一国は治まらず、天下を治理せば天下を治理するの正道を丟掉了します。これは懦弱して道を失うの極まりで、ますます前に行けば、凶険はますます深しです。
九二:坎有險,求小得。象曰:求小得,未出中也。
九二の爻辞にいう。身は坑坎の中に在りて険情はなお在り、求むる所はただ小さく得るのみです。《小象伝》の解釈にいう。求むる所がただ小さく得るのみは、まだ険境の中間を走出でていないからです。
義曰:夫聖賢之人有剛明之才德,又加之以大中之道,乗時藉勢,其道足行於天下也。今九二雖有剛明之德,而居二陰之間,不遭其時,不得其位,其道不得行於天下,在於坎難之中,必有危險之事也。「求小得」者,夫君子有才懐德,得時居位,行其道於天下,無所求而不得;今九二雖有才德,然不得其時與位,而又未出於險中,是以所求止小得而已。
胡瑗が解釈します。聖賢の人は剛強明達の才徳を具備し、これに中に居り大を守るの原則を加え、若し時機に順応し形勢に憑藉すれば、彼の主張は天下に推行するに足ります。今、九二は剛明の徳性はあるものの、初六と六三の二つの陰爻の間に夾まれ、好い時に赶えず、また相応する地位を得ず、主張は天下に推行されず、人はなお坎険の中に陷って、必然に危険の事に遇います。「求小得」と言うのは、君子に才幹あり徳性を懐き、若しまた時機に赶え身はその位に居って、主張を天下に推行するならば、あれは何を求めても何を得るということです。今、九二は縦に才徳あっても、時機と位置が皆合せず、またまだ険境を脱出していないので、求むる所有りても過ぎず小さく得るのみです。
六三:來之坎坎,險且枕,入于坎窞,勿用。象曰:來之坎坎,終無功也。
六三の爻辞にいう。進んでも坑、退いても坑、処境はすでに険にしてただ勉强に険処に枕靠着するのみ、終に坑中の坑に落ち込む、この時有する所為すべからず。《小象伝》の解釈にいう。来るも往くも皆坑坎、最終には何の成效もないでしょう。
義曰:夫有剛明之才德而履於中正,則庶可拯其險難也。今六三居不得中,履復失正,而又介重坎之間,若來居於位則未出於坎,若往之於上則復有其坎,是其往來之間皆其坎險也。「險且枕」者,蓋身在於坎而下乘九二之剛,是旣險而又且枕於險也。「入于坎窞勿用」者,言六三以其不中不正,身在於險而又枕於險,以此而往則愈入於難之也,入於難之人是終不可以有用也。「象曰:終無功也」者,言此六三欲用之以治險難,則無有其成功也。
胡瑗が解釈します。剛強明達の才徳を具備し、また能く中に居り正を守ってこそ、勉强して険難を挽救しに行けます。今、六三はすでに中位に在らず、処する位置も端正でなく、また上下両重の坎険の間に夾まれています。退き返って原位に待てば、なお坑坎を出でず、上に一歩行けば、前はまた坑坎です。だからそれは一来一往、処処に皆険です。「険且枕」と言うのは、それは身は坎の中に在り、下にまた九二の陽剛の上に騎圧しているからです。易例は「承乗」を講じ、陰爻が陽爻の上に居るを「乗」と言い、陽爻の下に居るを「承」と言い、乗剛は逆・承剛は順です。六三はすでに険の中に在りて、また剛爻に乗り、坑の上に枕靠着するに等しいです。「入于坎窞、勿用」と言うのは、六三はすでに中にあらずまた正にあらず、人は険の中に在りてまた険に枕き、このようにして走下去すれば只だますます深く陷るのみ、すでに危難に陷った人は、終に用いるに派さないということです。《小象伝》の「終无功也」は、六三を用いて険難を治理せんと欲するも、あれは成效があることがないであろうということです。
六四:樽酒簋貳,用缶,納約自牖,終無咎。象曰:樽酒簋貳,剛柔際也。
六四の爻辞にいう。一樽の薄酒・二簋の飯食を、瓦缶のような素朴な器皿に盛り、この簡約の誠意を窓口より遞り入れる、最終に過ちありません。《小象伝》の解釈にいう。一樽の酒二簋の飯のごとき簡朴の相待は、まさに陽剛と陰柔の交接相親の表れです。
義曰:言六四出於下卦而居上卦之始,以陰居陰,是履得其正,上又近九五之君,九五又無應,故盡心而委任之,上下相交,君臣相接,故上無猜忌之心,下無疑貳之志,故其相待之物不假外飾,雖以一樽之酒、貳簋之食,又以瓦缶質素之器,納其至約於戶牖之間,以此相待,亦終無其悔咎也。蓋至誠相通,心志相交,故不假飾於外物,蓋牖者所以通幽而達明也。「象曰:剛柔際也」者,謂君臣之道相交際也。
胡瑗が解釈します。六四はすでに下卦を脱出して上卦の起頭に処し、陰爻を以て陰位に居り、処する位置は端正で、上にまた九五この君主に緊隣します。九五は別の相応する爻がなく、だから六四に対して心を尽くして信任します。上下は相互に交通し、君臣は彼此に接納し、それゆえ上に在る者に猜忌の心なく、下に在る者に二心なく、それによって彼此相待の礼物は外表の装点に頼らず、たとい只だ一樽の酒・二簋の飯にて、さらに瓦缶のような朴素の器皿を用いて盛り、この極簡の心意を窓口より遞り入れるとも、このように相待すれば終に悔恨過失ありません。双方が至誠を以て相通じ心志が相接するがゆえに、外物を用いて修飾するを要せず、窓戸の作用は、もと幽暗処を光明に通じせしむるなり。《小象伝》の「剛柔際也」は、指す所はまさに君臣の道が彼此交接相親するなり。
九五:坎不盈,祗旣平,無咎。象曰:坎不盈,中未大也。
九五の爻辞にいう。坑坎はまだ填満せず、険処が填平されるを待てば、過ちありません。《小象伝》の解釈にいう。坑坎がまだ填満せざるは、居中の徳がまだ充分に光大していないからです。
義曰:九五當坎之時,居至尊之位,有剛明之德、大中之道,然而猶居上坎之中,未出險難,是坎險未盈者也。「祗」,辭也。若坎險旣平,則是出於險難,故曰「無咎」。「象曰:坎不盈,中未大也」者,言五在坎之中流之未盈滿,喻君之道未盡,得其勢未能大亨通也。
胡瑗が解釈します。九五は身は険陷の時に処し、至尊の位に居り、剛強明達の徳性と中に居り大を守るの原則を具備しますが、それは畢竟まだ上卦坎の中間に在り、未だ険難を脱出せず、だから坑坎はまだ填満していないと言います。爻辞の裏の「祗」は只だ語助詞です。険処が填平されるを待てば、意味する所はすでに険難を走出でた、だから過ちなしと言います。《小象伝》の「坎不盈、中未大也」は、九五がまだ坎水の中間に処して水勢が未だ積満せず、君主の治道がまだ尽善を為さず、そ位そ勢を得ていると雖も、なお大いに亨通する能わざるを比喻します。
上六:係用徽纆,寘于叢棘,三歲不得,凶。象曰:上六失道,凶三歲也。
上六の爻辞にいう。繩索を用いて捆縛し、荊棘の囲み成す牢獄の裏に関押し、三年の久しきにわたっても出て来られず、凶です。《小象伝》の解釈にいう。上六は正道を迷失し、だから三年の久しきの凶厄を遭受しなければならないのです。
義曰:上六處兩坎之上,險惡之極者也。是險惡而不悛,如何處之?宜繫之以徽纆之索,置之於叢棘之下,使之思其過,至於三年天道小變之時,苟不改其惡,是終不能改,然後刑之,此凶之道也。
胡瑗が解釈します。上六は両重の坎険の最上端に処し、険悪の極点に至った人です。すでに険悪にして悔改めようとせず、彼をどう処置すべきでしょうか。当に繩索を用いて彼を捆り起こし、荊棘の囲み成す牢獄に関め入れ、彼に自らの過失を反省させ、三年に至りて天道が一小変するの時、もし彼がなお悪行を改めなければ、則ち終に改められないもので、後に彼に対して刑を用いる――これまさに凶の道です。
「象曰:上六失道,凶三歲也」者,夫君子之人在平夷之地能思其過,如顏氏「不遠復,無祗悔」;小人之情則險惡,教化不能導之,乃置之牢獄三歲而使省其過,是其失道之人也。故《周禮》司圜掌收教罷民,凡害人者弗使冠飾而加明刑焉,任之以事而收教之,能改者上罪三年而舍,中罪二年而舍,下罪一年而舍;其不能改而出圜土者殺,雖出,三年不齒,此之謂也。
《小象伝》の「上六失道、凶三歳也」。君子は平安順遂の処境の裏においても自らの過錯を反省し、顔回のように遠からず出でて便ち回頭し、それによって悔に至らず、小人の性情は則ち険悪で、教化の引導が動かず、好し他は彼を牢獄に関めて三年、彼を逼って自らの過失を省察せしむる、これがいわゆる正道を迷失した人です。だから《周礼》の記載に、司圜この官は収管してそれらの不良の民を教化するを掌り、凡そ人を害する者は、彼に装飾の冠を戴くを許さず、而も彼に罪状を標明する刑具を加え、彼に活を派して並びに教管を加え、悔改むる能くする者は、重罪は三年関満して釈放し、中等罪は二年にして釈放し、軽罪は一年にして釈放し、それらの悔改めようとせずして擅自に圜土牢獄を逃出ずる者は則ち処死し、便ち刑満して出るとも、三年の内に平民の数に列入せず――言う所はまさにこの道理です。
離 離下離上
離:利貞,亨。畜牝牛,吉。
《離》卦の卦辞にいう。正道を守持するに利があり、それゆえ亨通します。雌牛のような至柔至順の品性を畜養するのは吉祥です。
義曰:按《序卦》云「坎者,陷也,陷必有所麗,故受之以離」,蓋言險難之後必須附文明之人,然後得其安也。離者,麗也,日也,文明也,人君之象也,兩日相併,聖明相繼之義也。「利貞亨」者,言聖賢之君繼世以有天下,必皆以正道而為治,然後天下獲其利而得亨通矣。故古之堯老而舜繼,舜老而禹繼,禹老而啟繼,是其聖賢之君皆以正道相繼而無不得其亨通。又若下之者麗於上,上之者麗於下,皆以正道,然後可盡得其亨通矣。
胡瑗が解釈します。《序卦伝》によれば、坎は陥落で、陥落した後は必ず附麗依托する所がなければなりません。だから《坎》の後に《離》が続きます。意は険難を経た後に、必ず文明の人に依附して後に安定を得るということです。「離」には依附の義があり、また太陽を指し、また文明を指し、君主の象徴でもあります。二つの離卦が重なったのは、二輪の太陽が並んだもので、聖明の君主が一代接一代である意を取りました。「利貞亨」と言うのは、聖賢の君が世代相承して天下を有するに、必ず皆正道をもって治理し、後に天下人が利益を得、政局が亨通を得るということです。だから古に堯は年老いて舜が位を接ぎ、舜は年老いて禹が位を接ぎ、禹は年老いて啓が位を接ぎ、これらの聖賢の君は皆正道をもって相承し、亨通しないことはありませんでした。さらに、下位の者が上位の者に依附し、上位の者もまた下位の者に依托し、双方が共に正道に循ってこそ、完全に亨通を獲得できます。
「畜牝牛吉」者,牛卽柔順之物,所以任重而致遠也;牝者又柔之謂也,則是牛而又牝,言至柔至順之故也。蓋聖賢之人繼世以治天下,其所畜之臣必須有遠大之才,堪任國家之事,有柔順之德,不奪君之權,使之上則盡忠於國,下則竭誠於民,如此故能成天下之治,相繼不絶也,若周之周公、湯之伊尹、漢之平勃是也。
「畜牝牛吉」と言うのは、牛はもと柔順の牲口で、重きを負い遠きに行くことができるからです。「牝」はまた雌性・柔弱の意で、牛でしかも雌牛、至極柔和順従を形容します。聖賢の君が世代相承して天下を治めるに、畜養任用する臣子は必ず才具が遠大で、国家の大事を担うに足り、同時に柔順の徳性を具備し、君主の権柄を侵奪しないものでなければなりません。彼らに上に対しては国家に忠誠を尽くさせ、下に対しては百姓に誠意を尽くさせます。こうしてはじめて天下の治績を成就し、一代接一代として中断しません。周朝の周公、商湯の伊尹、漢朝の陳平と周勃のごときが、このような人です。
彖曰:離,麗也。日月麗乎天,百榖草木麗乎土,重明以麗乎正,乃化成天下。柔麗乎中正,故亨,是以畜牝牛吉也。
《彖伝》にいう。離とはすなわち依附です。日月は天に依附し、百穀草木は地に依附します。両重の光明が正道に依附し、それによって教化し天下を成就できます。柔順の者が中正の位に依附し、だから亨通し、それゆえ雌牛のような柔順の徳を畜養するのが吉祥だと言います。
義曰:此言離者,麗著之義也,故因而廣明離之義。日月所以常明,晝夜不息,幽隠之間無所不燭者,蓋其上麗著於天故也;百榖草木所以春生夏長、秋成冬收,小大髙下無不遂其宜者,蓋其下麗著於土故也。「重明以麗乎正,乃化成天下」者,言上下重離,兩日之象,是聖賢以柔順之道相繼而明,而又附麗於正道而行,使其教化流行,德澤洋溢,如是故能化成天下之俗也。
胡瑗が解釈します。ここで「離」は附着の意と言い、それによって勢いに随ってその義理を申明します。日月が恒久に光明で、昼夜停まらず、幽暗隠蔽の処にも照らさない所がないのは、それらが上に向かって天に附着するからです。百穀草木が春に萌生し夏に生長し秋に成熟し冬に收藏し、大小高低を問わず各々その宜しきを得るのは、それらが下に向かって地に附着するからです。「重明以麗乎正、乃化成天下」は、上下が皆離卦で、二輪の太陽の形象であり、聖賢の君が柔順の道をもって一代接一代と光明を放ち、しかも依附する所が正道であることを代表し、それによって教化は流布し、徳沢は充盈し、だから教化して天下の風俗を成就できます。
「柔麗乎中正,故亨」,謂二五也,言上下皆以柔順之道而麗著於中正之位,是其君臣皆以柔順而居中正,以成天下之治而獲其亨也。然而聖賢之君,其所畜之人有遠大之才、有重厚之德,使之竭誠盡節,如此故能亨繼世以有天下,為萬世之福,故曰「是以畜牝牛吉也」。
「柔麗乎中正、故亨」は六二と六五の二つの陰爻を指し、上下卦が皆柔順の道をもって中に居り正を得る位置に附着し、君と臣が共に柔順の徳を凭りに中に居り正を守るので、それによって天下の治績を成就し亨通を獲得するということです。さらに、聖賢の君が畜養任用する人は、才具が遠大で徳性が厚重で、彼らに忠誠を竭くし節操を恪守させるので、亨通して一代一代天下を承継し、万世の福気となることができます。それゆえ《彖伝》に「是以畜牝牛吉也」と言います。
象曰:明兩作,離。大人以繼明照于四方。
《大象伝》にいう。光明が二度升る、これが《離》卦の象です。大人はこれに取法し、相継ぎ絶えない光明を以て四方に照臨します。
義曰:上下二離,是兩明也,兩日重光臨照不絶之象也。大人者,言大才大德之人,以其文明柔順之道相繼以有天下,而臨照于四方,幽隱無所不燭,其光明相繼綿綿而不絶也。
胡瑗が解釈します。上下二つの離卦は、すなわち両重の光明で、二輪の太陽の光輝が重畳して照耀し、連綿として絶えない景象です。いわゆる「大人」は、才徳の宏大な人を指し、彼らは文明柔順の道を凭りに一代接一代と天下を有し、光輝は四方に照臨し、幽暗隠蔽の角落にも照らさない所がなく、その光明は相承して絶えず、綿延として絶えません。
初九:履錯然,敬之,無咎。象曰:履錯之敬,以辟咎也。
初九の爻辞にいう。歩みが交錯し挙止が戒慎のさまで、恭敬の心を以て自ら持すれば、過ちがありません。《小象伝》の解釈にいう。歩み始める時のあの戒慎恭敬は、まさに過失を避けるために用いるのです。
義曰:錯然者,敬之之貌也。言此初九居離之初,如日之初生,未明照於天下,若繼嗣之君於事之初,則當常錯然警懼,以進德修業,上副祖宗之託,下慰生民之望,所以得免其咎。「象曰:履錯之敬,以辟咎也」者,言居事之初不能修省恭謹,則未免其咎。
胡瑗が解釈します。「錯然」は恭敬戒慎のさまです。初九は離卦の最下位に処し、太陽が剛く升ったばかりで、まだ天下を照らし明るくできないがごとく、また即位の新君が剛く政事を接手したばかりで、当に時時警惕戒懼し、以て徳性を増進し事業を修習し、上に向かっては祖宗の重託に背かず、下に向かっては百姓の期望を撫慰し、それによって過失を免れることができます。《小象伝》の「履錯之敬、以辟咎也」は、反対に言えば、事の起頭の時においてもし自らを省察し恭敬謹慎できなければ、過失を免れられないということです。
六二:黃離,元吉。象曰:黃離元吉,得中道也。
六二の爻辞にいう。中和の色である黄色を依附する所とすれば、大いに吉祥です。《小象伝》の解釈にいう。黄色に附麗して大吉なのは、居中の道を得たからです。
義曰:六二居下卦之中,以陰居陰,是旣中且正,如日之中,朝廷明盛,行政施令,為皇極之化,故有元大之吉。「象曰:得中道也」者,蓋黃者,中也,以其有中正文明之德,此所以自然得其元吉。
胡瑗が解釈します。六二は下卦の中位に処し、陰爻を以て陰位に居り、すでに中に居りまた正に当たり、太陽が正中に升ったがごとく、朝廷は清明興盛で、政令を頒布し、大中至正に合する教化を施行するので、最大の吉祥が有ります。《小象伝》の「得中道也」は、黄色は五色のうち中央の色に属し、まさに「中」を代表し、六二は居中守正・文采光明の徳性を具備するので、自然に最大の吉祥を獲得するということです。
九三:日昃之離,不鼓缶而歌,則大耋之嗟,凶。象曰:日昃之離,何可久也?
九三の爻辞にいう。太陽がすでに偏西した附麗の象。この時もし瓦缶を敲いて歌い自娯し、晚年を安享できなければ、只だ年老衰邁の悲嘆が残るのみ、凶です。《小象伝》の解釈にいう。日がすでに偏西した光景、どうしてまた長久であり得ましょうか。
義曰:九三過離之中,如日之昃,其光有所虧也。若人之年已衰耋,必當求其代則可也:在家則致家事於其子,在朝則致朝事於其臣,以安神養志也,然後得其吉。今三不能鼔缶而歌以養衰老,則至於教化陵遲,萬事隳壊,是以有大耋之諮嗟,凶之道也。若堯之耄期倦於勤,以舜代之;舜之耄期倦於勤,以禹代之,故得教化大行,致太平之久,所以免大耋之嗟矣。「象曰:何可久也」者,言日之既昃,不久而傾,若人之年已衰老,不能鼔缶自樂以安神養志,使教化陵遲,是何可以長久也。
胡瑗が解釈します。九三は下卦離の中位を越え、太陽がすでに西に斜め、光芒が欠け始めたがごとしです。人は年老力衰の時に至れば、人を找んで接替させるべきです。家では家務を子に交し、朝廷では政務を臣下に交して、精神を安頓し心志を頤養して、後に吉祥を得ます。今、九三は缶を敲いて歌い、晚年を安度できず、それゆえ政令教化は日に日に頽敗し、万事は崩壊し、それによって只だ年老衰邁の悲嘆が残るのみ、これが凶の道です。反対に見れば、堯は耄耋の年に至りて勤労政務を厭い、舜に接替させ、舜は耄耋の年に至りて勤労政務を厭い、禹に接替させました。だから教化は大いに暢行し、太平は長久に維持され、年老いて依るべなきの嘆息を免れました。《小象伝》の「何可久也」は、太陽がすでに西に斜めた以上、久しからずして落ちるということです。人がもし年すでに衰老して、なお缶を敲いて自娯し神を安んじ志を養うことができず、返って教化を日に日に頽敗せしむれば、このような局面がどうして長久であり得ましょうか。
九四:突如其來如,焚如,死如,棄如。象曰:突如其來如,無所容也。
九四の爻辞にいう。来勢が突兀として、火焰の上炎するがごとく焚焼し、殺身に遭うがごとく死去し、丢棄されるがごとく人に唾棄されます。《小象伝》の解釈にいう。来ることこのように突兀たるは、天下に彼の容身する所がないからです。
義曰:九四已出於下卦而在上卦之初,如日之已沒而再出,突然而明,是猶以其非道遽然而進,且切近至尊大臣之位,其身不正,恃其權位,乃欲炎於上,故至焚如;然失其為臣之道,逼君之位,如是則死之亦宜,故言死如;若然,人神所共棄,天下之所不容,故曰棄如。
胡瑗が解釈します。九四はすでに下卦を脱出して上卦の起頭に処し、太陽が落ちた後にまた突然冒き出で、猛然として光を放つがごとく、これは譬えば人の正道に循わずして骤然として上位に上るようなものです。それはまた至尊の君位に緊く挨り、大臣の位置に処し、自身は正からず、権位に仗恃し、竟に君主の上に凌駕せんと欲し、気焰は上に炎え、だから「焚如」と言います。しかしそれは臣子たるの本分を失い、君主の位に逼犯し、殺身の禍に落ちるもまた応すべし、だから「死如」と言います。この地步に至っては、人と神が皆彼を唾棄し、天下に彼の容身する処なし、だから「棄如」と言います。
六五:出涕沱若,戚嗟若,吉。象曰:六五之吉,離王公也。
六五の爻辞にいう。涙は雨のごとく下り、憂傷して嘆息する、吉祥です。《小象伝》の解釈にいう。六五が吉たる所以は、それが王公の位に依附しているからです。
義曰:六五為離明之主,然以柔弱之質居於至尊,下為九四強臣之所逼,至於出涕沱若,而又憂戚嗟傷,言慎之至也,以其憂懼如是之至,然後得其吉也。「象曰:六五之吉,離王公」者,雖為強臣所逼,然居於至尊,麗著於王公之位,天下之所順,又能憂傷之至,故獲其吉。
胡瑗が解釈します。六五は《離》卦光明の主爻ですが、それは柔弱の資質を以て至尊の位に居り、下にまた九四この強横の大臣に逼迫され、以て涙下すること雨のごとく、なお憂傷嘆息を満懐し、それの謹慎なること極まりを形容します。正に憂懼がこの程度に至るがゆえに、後に吉祥を得ます。《小象伝》の「六五之吉、離王公也」は、それは強臣に逼られると雖も、畢竟身は至尊に居り、王公の位置に依托し、天下人が皆それに順服し、これに加えてまた憂懼する能く此に至る、だから吉祥を獲得するということです。
上九:王用出征,有嘉折首,獲匪其醜,無咎。象曰:王用出征,以正邦也。
上九の爻辞にいう。君王は兵を出して征討し、嘉すべき戦功有り――只だ首悪を誅殺し、俘獲するはそれらの附従の衆人にあらず、それによって過ちなし。《小象伝》の解釈にいう。君王の兵を出して征討するは、目的は邦国を端正するに在り。
義曰:丑,眾也。上九亦如三過其中,是政教已衰,故有四夷侵侮、諸侯背叛之事,王於是以兵征之。徵者,正也,徵於四夷所以正華夷之體,徵於諸侯所以正君臣之義,誅其元惡,弔民伐罪而已,故折其首惡,匪及其眾,則有嘉美而無悔咎。「象曰:王用出征,以正邦也」者,言王之用以出征,以正萬民之法,君則君,臣則臣,邦國從而正矣。
胡瑗が解釈します。爻辞の裏の「丑」は衆人・随従の意です。上九は九三と同じく本卦の中位を越え、政令教化がすでに衰敗したを表示し、それによって四方外族の侵扰欺凌・諸侯の背叛の事が現れ、君王はそれによって兵を出して征討します。「征」はすなわち「正」です。四方外族を征討するは、華夏と外族の名分体統を端正するためです。諸侯を征討するは、君臣の名分義理を端正するためです。做法は只だ首悪を誅除し百姓を撫慰して有罪の人を討伐するのみです。だから只だ首悪を斬り従衆に牽連せず、嘉すべき功績有りて悔恨過失なし。《小象伝》の「王用出征、以正邦也」は、君王の兵を出して征討する所以は、万民を統御するの法度を端正するためで、君たる者をして君たらしめ、臣たる者をして臣たらしめ、邦国もまたそれに随って端正に帰すということです。
