Libo

兊下坎上

宋 · 胡瑗 · 第33巻 / 51

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

節:亨。苦節不可貞。

《節》卦:亨通。ただし節制が度を過ぎて苦しく堪え難い「苦節」は、以て長久に守持する常法と為すことはできない。卦名の「節」は、竹に節あり・事々に分限あるの義を取る。

義曰:按《序卦》云「物不可以終離,故受之以節」。言凡物不可使之終有離散,故必節制之。然謂之節者,葢節之道在於人之一身,則言語、飲食、心意、思慮、出處、進退,以至嗜慾皆有所節,使父子有禮,上下有等,男女有別,尊卑有序,長幼有倫,夫婦有制,內外有分,皆有所節。至於一國以及天下,用度、禮樂、刑政、賞罰、號令、宮室、旌旗、車輿、服器,以至稅賦徭役以其時,賢不肖各有所處,士農工商各守其業,富貴貧賤各當其分。如此之類,舉而言之,是修身、齊家、治國、正天下皆有所節,故謂之節。然其得亨者何?蓋人之修身以至治天下皆有所節,則所往之地、所為之事無不獲亨通也。

胡瑗の釈義:《序卦伝》に「物は以て終に離るべからず、故にこれを節をもって受く」とある。意味は万物は一直に離散し続けてはならず、故に必ず節制を加えなければならない。《節》卦はこの故に《渙》卦の後に列する。「節」と称する所以:節制の道が一人の身に落ちれば、言語・飲食・心思・謀慮・出仕と退隠・前進と後退、各種の嗜好欲望に至るまで、様様皆分寸がある。人倫に落ちれば、父子の間に礼あり、上下の間に等級あり、男女の間に分別あり、尊卑の間に次序あり、長幼の間に倫次あり、夫妻の間に節制あり、内外の間に界限あり、様様皆分寸がある。一国に推广し天下に至れば、用度開支・礼楽制度・刑罰政令・賞功罰過・号令文告・宮室営造・旌旗儀仗・車馬服器、賦税の征收・徭役の征発が農時に按じて行われるに至るまで、賢者と不肖者は各々その位に就き、士農工商は各々本業を守り、富貴貧賤は各々その分に安んず。この類の事情を合わせて言えば、すなわち修身・斉家・治国・平定天下に節度ある分限なからざるなし。故にこれを「節」と言う。然らばそれは何に憑って亨通するか。修身より天下を治めるに至るまで件件皆節度あれば、至る所・為す事に通暢せざるなし。

苦節不可貞。苦者,人之所難嗜者也,猶味之苦也。夫節之道不可過,過則人不樂從。以其一身一家,節過則猶無大害;若於治天下人民之眾而節之太甚,則必不樂從。是故聖人預為之備,曲為之防,酌中立法,使其車輿、器用、宮室、旌旗、衣服制度皆有其節,一合於中正。苟苦之,則天下未易治也。

卦辞に「苦節不可貞」と言う。「苦」は人の受け難く愛好し難いもので、味が苦を発するが如し。節制の道は度を過ごしてはならず、一たび過ごせば人は跟従を楽しまない。もし一身一家に関わるのみならば、節制過分でも大害を醸すに至らない。しかし天下億万の百姓を治めて節制が余りに狠ければ、百姓は必ず服従を肯んじない。故に聖人は事に先んじて準備があり、処処彼らのために防を設け、斟酌折中をもって法を立て、車馬・器用・宮室・旌旗・衣服等各項の制度に皆一定の限度を持たせ、一律に「中正」に合せしむる――偏らず倚らず、また端正にして邪なからず。もし節制を一件の苦事と変えれば、天下は治め易くない。

且如賦稅之設,非欲聚斂其財貨,厚取於民以自足已,蓋有郊廟之祀、賓客之供、兵儲之備,此為國者不可廢也,是以不得已而取之。取之必有中道,故中者天下之通制。取之過甚,則在下者財匱而不能給;取之薄,則在上者用度不足。是以量時之豐約,酌民之厚薄,使天下之人樂從而易於輸納,可謂得節之道也。故夏后氏五十而貢,殷人七十而助,周人百畝而徹,皆什一法而得天下之中。

賦税を以て言えば、賦税を設立するは財貨を搜刮し民に厚く取りて君主自身を満足せしめんがためではなく、郊天祭祖の典礼・賓客を招待する開銷・軍需儲備の費用が皆治国に廃棄すべからざるものだからで、故に已むを得ずして百姓に征收する。征收は必ず折中の標準があらねばならず、故に「中」こそ天下通行の制度である。取ること余りに重ければ、下の百姓は財力枯竭して供給し上げられず、取ること余りに軽ければ、上の国用はまた足らず。故に年成の豊歉を衡量し民力の厚薄を斟酌して、天下の人を服従を楽しみ繳納を易くせしめてこそ、節制の道を得たと言える。故に夏代は五十亩に按じて「貢」法を行い、商代は七十亩に按じて「助」法を行い、周代は百亩に按じて「徹」法を行い、皆十分抽一の税率であって、まさに天下の「中」に合う。

彖曰:節,亨,剛柔分而剛得中。苦節不可貞,其道窮也。說以行險,當位以節,中正以通。天地節而四時成,節以制度,不傷財,不害民。

《彖伝》に曰く:《節》卦が亨通する所以は、剛爻と柔爻が上下に分処し、剛爻がまた中位に居るからである。「苦節不可貞」とは、このように走下去れば路は行き絶えることを言う。下卦の兌は喜悦、上卦の坎は険陥で、喜悦を帯びて険難の中を行くことを得る。九五の居る所の位は正当で、よって節制を主持し得る。中に居り正を守るから、通行无碍を得る。天地に節度あり、ここに四時は依次して成る。聖人はこれに依って制度を制定すれば、財用を損傷せず、百姓を傷害しない。

義曰:此因二體以明節亨之義。上坎為陽,陽為剛;下兊為陰,陰為柔。剛得中者,九二九五之爻也。夫節所以得亨者,陽本在上,今處於上;陰本在下,今居於下,是君臣上下各有分也,故曰剛柔分也。剛得中者,言九二九五以剛陽之質居剛陽之位,又居得其中,履得其正,當節之時能為節制之道,使天下皆得中制,是以亨通也。若節不可貞其道窮也者,夫節之道不可過,過則不能緣人之情而眾不樂從,是不可久行於世而為萬代通行之法,窮困之道也。

胡瑗の釈義:ここでは上下二つの卦体に就いて《節》卦の亨通の道理を闡明する。上卦の坎は陽に属し、陽の性質は剛。下卦の兌は陰に属し、陰の性質は柔。所謂「剛柔」は、もと陰陽二種の爻の性情を指し、陽爻は剛健、陰爻は柔順。所謂「剛得中」は、九二・九五の両爻を指す。節制が亨通し得る所以は、陽は本来上にあるべく、いま果たして上体に処り、陰は本来下にあるべく、いま果たして下体に居り、君臣上下各々名分あるからである。故に《彖伝》に「剛柔分」と言う。所謂「剛得中」は、九二・九五が剛陽の資質をもって剛陽の爻位に居り、また皆上下卦の中間に処り、行事端正だからである。節制の時に当たり節制の道を施行し得、天下を皆適中の法度を得せしむる。故に亨通。「苦節不可貞、其道窮也」に至っては、節制は度を過ごしてはならず、度を過ごせば人情に順応し得ず、衆人は服従を楽しまない。このような弁法は長く世間に行い万代通行の法則と為ることはできず、ただ一条の走投無路の路子である。

說以行險者,上坎為險,下兌為說,是說而能行於險也。蓋言聖人緣人之情,酌中以為通制,當節之時雖有險阻,能以說順行,則人亦樂從之也。當位以節者,言九五有剛眀之徳,居至尊之位,為節之主,是所居當其位而能酌民情為之節制也。中正以通者,此又言九五居中履正,所為節制得其中,又得其正。得其中則無過與不及之事,得其正則不入於私邪,是中正所為之道可以通行萬世,使天下得盡所以為節制之義也。

「説以行険」とは、上卦坎の「卦徳」が険陥、下卦兌の卦徳が喜悦であることを言う――所謂卦徳とは、毎一卦が代表する性情と作用である――合わせれば喜悦を帯びて険難の中を行くこととなる。これは聖人が人の常情に順い、斟酌折中して通行の制度と定めることを言う。節制の時に当たり前に険阻があるといえども、和悦柔順の姿態をもって推行し得れば、人もまた従うを楽しむ。「当位以節」とは、九五が剛強明断の徳行を具え、至尊の位に身を居り、節制を主持する人であって、居る所の位は正当、よって民情を斟酌して節度を制定し得る。「中正以通」はまた九五に就いて言う:それは中に居り正を守り、立つる所の節度は既に中に合い、また正に合う。中に合えば過分と不及の毛病なく、正に合えば私心邪念に落ちない。このような中正の做法は万世に通行し得、天下の人を節制の意義を充分に実現せしめ得る。

天地節而四時成,節以制度,不傷財,不害民者,此已下廣眀節之道也。夫天地之道,陰陽之序,以生以成,皆有所節。至如生成之終,則有風雨霜雪以殺之;殺之既終,復以春陽為發生之始。是天地之道始始終終,陰陽相蕩,寒暑往來,不失其序,所以能生成萬物,此天地盡其為節之道也。聖人法天地之道為之節制,設其禮法,各有常分,以至取予無不得其中,如是而行,自然財不傷而民不害也。

「天地節而四時成、節以制度、不傷財、不害民」のこの数句以下は、さらに節制の道を申説する。天地運行の法則・陰陽交替の次序は、生発より成熟に至るまで、一処として節度なきなし。生長成熟が尽頭に走るに及べば、便ち風雨霜雪が来りて万物を肅殺す。肅殺完畢すれば、また春の陽気をもって新たな一輪の生発の開端と為す。天地の道はこのように一始一終循環已まず、陰陽は互いに激盪し、寒来暑往は従来次序を錯乱せず。故に万物を生養成就し得る――これがすなわち天地が節制の道を極致に致したものである。聖人は天地の道に效法して節度を制定し、礼法を設立し、各項事務に皆固定の分限を持たせ、取予の間に至るまでその適中を得ざるなし。このように施行すれば、自ずから財用を損耗せず、百姓を傷害しない。

象曰:澤上有水,節。君子以制數度,議徳行。

《大象伝》に曰く:沢の上に水あり。水は沢岸の約束を受けて泛濫せず。これが《節》卦の取象である。君子はこれに法って、名分等第と度量制度を制定し、人の徳行の高下を評議する。

義曰:夫水之性,決之於江河,其性沛然順於下,莫之與御。今水在澤中,則不能順往而流,故有節制之象。數者,名數也;度者,制度也。言君子之人法此節之象,定其名數,立其制度,使禮樂之道、度量之分無得過差,盡合於中也。議徳行者,夫人本五常而生,其性有全有偏。唯聖人受性之全,賢人則才智有所偏。是以當節之時,必量其才之大小,隨其徳之優劣以任用之,大才者置之大位,小才者置之小位。若其無徳無行,則沒身而不用。

胡瑗の釈義:水の本性は、一旦決口して江河に流入すれば、浩浩荡荡一直に低き処に奔瀉し、誰もそれを攔えられない。いま水は沢の中に蓄えられれば、任意に流走することができず、ここに節制の意象を有する。「数」は名分等第を指し、「度」は制度法式を指す。これは君子が《節》卦の象に效法し、名分等第を確定し、制度法式を建立し、礼楽の規矩・度量の分際を皆偏差を出さず、全部適中に合せしむることを言う。「議徳行」に至っては:人は仁義礼智信五常の性を禀受して生まれ、禀得するものに完全なるもあり偏缺するもあり。ただ聖人のみが受くる所の性が完満无缺で、賢人の才智は偏至を免れない。故に節制の時に当たり、必ずその才干の大小を衡量し、その徳行の優劣に依って任用する:大才は大位に安置し、小才は小位に安置する。もし徳なく行もなければ、すなわちその一生を終えて任用しない。

初九:不出戶庭,無咎。象曰:不出戶庭,知通塞也。

初九:内室の門庭を走出さず。過ちなし。《小象伝》に曰く:戸庭を出ないのは、いつ通すべきかいつ塞ぐべきかを知るからである。

義曰:戶者,門之內、牖之間也。夫人之情,莫不欲安逸而惡節制之為禁。此節者,節人之邪情,約人之私慾,遏人之非,絶人之偽。然而節情約欲、遏非絶偽,人莫不惡之。然當節制之始,典章未備,法度未詳,必當慎宻之,不可洩機於人。苟所行不宻,則必為人所窺而敗壊成事,如是則法未出而奸生,令未下而詐起,必不可以節制之也。今初九履下卦之下,居節制之初,是謀事之始,故當慎其幾宻,不使宣露於人,使天下之人由之而不知之,而情偽不作,巧詐不生,則是能慎其幾宻,不出戶庭之間,所以成節制之道而無咎矣。

胡瑗の釈義:「戸」は房門以内・窓牖の間のあの最も内側の処を指す。人の常情として安逸を貪り節制約束を悪まざるなし。所謂節とは、人の邪僻の情を節制し、人の私欲を約束し、人の過失を遏止し、人の虚偽を杜绝する。しかし情を節し欲を約し、非を遏し偽を絶するこれらの事は、人人皆好まない。しかも節制が剛く推行を開始する時、典章はいまだ斉備せず、法度はいまだ周詳ならず、必ず謹慎保密して、機要を人に泄露せしめてはならない。もし為す事が厳密ならざれば、必ず人に窺探されて大事を壞す:法令いまだ頒布せざるに奸邪はすでに滋生し、命令いまだ下達せざるに詐偽はすでに興起し、節制は自ずから推行し下らない。初九は下卦の最下の一爻を踩み、節制の開端に処し、まさに事情を謀劃する起頭である。故に機密を謹守し、それを外泄せしめず、天下の人を只管照し行わしめて其中の原委を知らしめざるべきである。こうすれば真情仮意は乱を作さず、機巧詐偽は滋生しない。能くこのように機密を慎守し、戸庭を足一歩出ざれば、節制の道は成就する。故に過咎なし。

象曰不出戶庭知通塞也者,言初九居事之始,所以不出戶庭者,非是藏其幾宻,慎其法制,不宣佈於天下,葢當節制之初,典章法度未甚大備,不可以宣露於人,是能知其時可以通則通之,可以塞則塞之,通塞不失其宜也。故繫辭曰:亂之所生,則言語以為階。君不宻則失臣,臣不宻則失身,幾事不宻則害成。言大凡幾宻之事,必當慎之。苟宣露於人,則君失臣,臣失身,以至天下皆失其節,如是則不能免於咎也。

《小象伝》の「不出戸庭、知通塞也」は、初九が事情の開端に処り、それが戸庭を出ないのは、一味に機密を蔵起し法制を看緊して永遠に天下に公布しないのではない。実は節制の初は典章法度がいまだ甚だ不完備で、早過ぎて外泄し得ないからである。それは能く時勢を審度する:通行すべき時には便ち通行し、封閉すべき時には便ち封閉し、通と塞と皆その宜を失わない。故に《繋辞伝》に曰く:禍乱の産生は、往々言語を階梯と為す。君主が慎密ならざれば臣子を失い、臣子が慎密ならざれば自身を喪い、機要の事が慎密ならざれば禍害を招致す。これはおよそ機要に属する事は皆謹慎を要し、一旦外人に向かって張揚すれば、君主は便ち臣子を失い、臣子は便ち自身を喪い、天下に至って皆節度を失い、災咎を免れない。

九二:不出門庭,凶。象曰:不出門庭凶,失時極也。

九二:大門の庭院を走出さず。凶険あり。《小象伝》に曰く:門庭を出ずして凶を招くのは、時機を失すること極に至るからである。

義曰:在外謂之門。大凡居事之始,節人之情偽,必當慎重而幾宻之。故初九在卦之始,處節之初,典章未備,法度未完,故幾密而不宣露於人,是以不出戶庭也。今此九二居卦之中,是典章已備,法度已立,必當宣佈於天下,以制節於人情,使其奸偽不敢萌,巧詐不得作,天下之人皆合於中制可也。今有可致之資而反不出門庭之間,使制度不立,上下無別,以至天下之人皆亂其常,則是恣人之情,縱人之慾,速凶之道也。象曰不出門庭失時極也者,言九二居得其中而法制已成,當行而不行,當施而不施,使天下之人情偽交作而上下無等,節制之道不出門庭之間,失時而不宣佈,以至窮極亦不能行,凶其宐矣。

胡瑗の釈義:外に朝するあの一道を「門」と言い、戸は内にあり門は外にある。およそ事情の開端に在って人心の真偽を節制するには、皆慎重に密を守らねばならない。故に初九は卦の起頭・節制の初期に処り、典章いまだ斉備せず法度いまだ完成せざるが故に、隠秘にして外泄せず、故に「不出戸庭」と言う。いま九二は下卦の中に居り、典章はすでに斉備し法度はすでに確立している。すなわち天下に公布し、これをもって人情を節制し、奸偽を萌芽を敢えてせず、巧詐を発作する由なからしめ、天下の人を皆適中の法度に帰せしむべきである。これが初めて正しい。しかしそれは明明行う条件を有しながら、かえって門庭を一歩出るを肯んぜず、制度を立てられず上下に分別なく、天下の人の綱常を大乱せしめる。これは人の私情を放任し人の欲望を縦容するに等しく、凶険を招致する做法である。《小象伝》の「不出門庭凶、失時極也」は、九二は位に居りて中を得て法制はすでに成れども、推行すべきに推行せず、施布すべきに施布せず、天下の真情仮意を一斉に発作せしめ上下に等級なからしむ。節制の道は門庭の内に関され、時機を錯過して宣布せず、局面が窮極するまで施行し得ない。凶に遭うは理の当然である。

六三:不節若,則嗟若,無咎。象曰:不節之嗟,又誰咎也。

六三:節制を加えなければ、ただ唉声嘆気するのみ、他人を怪むべからず。《小象伝》に曰く:節制せずして招来した嗟嘆、また誰を怪まん。

義曰:若者,語辭也。夫為節之道,必須先正其身,然後可以正人。身既正,則天下孰不從之。今六三以陰居陽,是為不正;在下卦之上,是為不中。既失其中,又非其正,且在卦之上,是居眾人之上者也。夫居眾人之上,必也賞必信,罰必當,正身立法度,平典章,宣政教,以節天下之人,則奸偽不作,巧詐不生,而人自信從之矣。今反不能自正其身,又不能節制其人,是雖有嚴刑峻法,人亦不從,故反自生嗟怨之聲,如是必不可為節制之主也。無咎,葢三以不正之身居眾人之上,不能節制,以至嗟若之凶,皆已自為之,又何咎於人哉?故象曰又誰咎也。

胡瑗の釈義:「若」は語気詞で、本身に実義なし。節制の道を施行するには、必ず先に自己を端正し、然る後に他人を端正し得る。自身既に正ければ、天下に誰か服従せざらん。六三は陰爻をもって陽位に居り、故に正ならず。下卦の最上の一爻に処り、故に中ならず。既にその中を失い、また正に当たらず、しかも身は下卦の上にあり、衆人の上に居る人である。およそ衆人の上に居る者は、必ず賞賜は信用を講じ刑罰は分寸に合い、自身を端正し法度を確立し典章を厘平し政教を宣布し、これらをもって天下の人を節制せねばならず、さらば奸偽は興起せず巧詐は滋生せず、人は自ずから信服跟従する。いまそれは自己さえ端正し得ず、また他人を節制し得ない。こうすれば、たとえ厳刑峻法あっても、人は服従を肯んぜず、ここにかえって自己に嘆息怨恨の声音を生じさせる。見ればそれは絶対に節制を主持する人と為り得ない。爻辞に却って「无咎」と言うのは、六三が不正の身をもって衆人の上に居り、節制成らずして唉声嘆気の凶境に落ちたのは、全て自己の造成したもので、また誰に帰咎し得ようか。故に《小象伝》に「又誰咎也」と言う。

六四:安節,亨。象曰:安節之亨,承上道也。

六四:安然として節制の中を行く。亨通。《小象伝》に曰く:安然として節を守り亨通するのは、上に君主の道を承けるからである。

義曰:按此爻居上卦之下,近九五之尊,而又以陰居陰,履得其正,上承其君,下率其民,以柔正之道,上以節君之情,制君之慾,防君之邪僻,致君於正;又能宣君之令,布君之徳,以去天下人之邪偽,禁天下人之非僻,使天下之人一歸於正,而得節制之道。是由以柔正自正其身,以至正君率民,安然而行其節制,故所往無不得其亨通也。象曰安節之亨承上道者,言六四以柔正之道自正其身,上承於君以行節制,所以率天下之人得以亨通,是承君上之道也。

胡瑗の釈義:この爻は上卦の最下の一位に処り、九五の尊位に靠近し、また陰爻をもって陰位に居り、居る所端正である。それは上に君主を承奉し、下に百姓を統率し、柔順守正の道に憑り、対上は君主の情緒を節制し君主の欲望を約束し君主が邪路を走るを防止して、君主を正道に引き導き、対下はまた君主の命令を宣布し君主の徳沢を施布し、天下の人の邪偽を除去し天下の人の非僻を禁絶し、人人を皆正道に帰せしめ、節制の道はこれに由って確立する。これは先ず柔順守正をもって自身を端正し、進んで君主を端正し百姓を統率し、安安穩穩に節制を推行する。故に何を為しても亨通せざるなし。《小象伝》の「安節之亨、承上道也」は、六四が柔順守正の道をもって自身を端正し、上に向かって君主を承奉して節制を施行する。故に天下の人を率領して一同に亨通に走向せしめ得る。これがまさに君上に承事する正道である。

九五:甘節,吉,往有尚。象曰:甘節之吉,居位中也。

九五:節制が甘美可口。吉祥。往前推行すれば必ず尊崇を受ける。《小象伝》に曰く:甘美の節が吉祥なる所以は、その居る位が中を得るからである。

義曰:甘者,味之甘,人所嗜也。夫節之道,是節人之情,防人之慾,人之所惡也。今九五以陽居陽,處得其正,又居上卦之中,履至尊之位,為節制之主。當節之時,能以中正為之節制,無過無不及,施於當世,則天下之人無尊卑長幼上下,以至於遠近幽隱,皆悅然樂而從之,是九五為節之道使人樂從,如嗜甘味也,所以得其吉矣。往有尚者,五以中正之道為節制之法,可以為世世之通行,而天下之民皆樂從之,是五有所往,則為人尊上者也。

胡瑗の釈義:「甘」は甘甜の味道で、人人皆食を愛する。しかし節制の道は人の性情を節制し人の欲望を防堵するもので、本来人人の悪む所である。九五は陽爻をもって陽位に居り、処する所端正、また上卦の中位に居り、至尊の位に登臨し、節制を主持する人である。節制の時に当たり、それは不偏不倚・端正無私の原則をもって節度を立て、過分にも不及にもあらず、当世に推行すれば、ここに天下の人は尊卑長幼上下を分かたず、遠方偏僻・幽隠不顕の処に至るまで、個個皆欣然として楽従する。これがすなわち九五の立てた節制の道が人に遵従を楽しませ、甜味を愛食するが如く、故に吉祥を得る。「往有尚」に至っては、九五は中正の道をもって立てて節制の法と為し、世世代代通行し得、天下の百姓は皆服従を楽しむ。故に九五は何処へ往いても、人に上に尊崇される。

象曰甘節之吉居位中也者,言聖人通其情,故能達節;常人違其情,故多苟節。夫能通天下之情,不違其理,守大中之節,不失其時,以此而行,則合聖人中正之道。今五居至尊之位,在上卦之中,是能正其身而為節制之主,使天下之人皆尊尚而從之,是居位中正之故也。

《小象伝》の「甘節之吉、居位中也」は、聖人は人情に通達し得るから、立て出す節度もまた通達可行で、常人は人情に違背するから、定め出す節度は多半勉强敷衍である。能く天下の人の情実を通暁して事理に違背せず、大中至正の節度を守って時機を錯過せず、このようにして做けば、聖人の中正の道に合する。九五は至尊の位に身を居り、また上卦の中間にあり、能く自身を端正して節制を主持する人と為り、天下の人を皆彼を尊崇し彼に跟従せしむる。まさにその居る所の位が既に中にして且つ正なるが故である。

上六:苦節,貞凶,悔亡。象曰:苦節貞凶,其道窮也。

上六:節制が余りに苦く、一味に守持し続ければ凶険あり。ただし悔恨は消失し得る。《小象伝》に曰く:苦節して固守すれば凶なるのは、この路はすでに尽頭に走ったからである。

義曰:夫節制之道,貴乎中正,則人樂從之。今上六過於九五,是居不得中者也,所為節制之道皆過於中,是人所厭苦之也。以正道言之,則已凶矣,故曰貞凶。然悔亡者,夫節制有苦於天下,則害其事;今上六居無位之地,但行於一已而自節,苦於一身,則可以悔亾。故孔子曰:禮與其奢也寧儉,喪與其易也甯戚。是言凡過節於一身,則可以無悔也。象曰苦節貞凶其道窮也者,以陰柔之質居節制之極,所為失中正之道,而天下之人厭苦之,是過為節制之道,以至窮極也。

胡瑗の釈義:節制の道は中正を貴びとし、中正であればこそ人に遵従を楽しませ得る。上六の位置は九五を越過し、居位中を得ずに属する。その立つる所の節度は処処過分で、故に人の厭苦する所と為る。正道をもって衡量すれば、これはすでに凶である。故に爻辞に「貞凶」と言う。「悔亡」と言うに至っては:節制がもし天下の人を苦しめれば、事を壞す。しかし上六は職位なき所に処り、ただ節制を自己一身に施行し、苦しめるはその一人である。さらば悔恨はかえって消失し得る。故に孔子に曰く:礼を行うには奢侈するよりも儉朴するが如かず、喪に居るには儀節を周備するよりも内心哀戚するが如かず。これはすなわち、およそ過分の節制を自己一身に加えるは、悔恨なきを得ると言う。《小象伝》の「苦節貞凶、其道窮也」は、上六が陰柔の質をもって節制の極端に処り、為す所は中正の道に背離し、天下の人は皆それを苦と嫌う。これは節制が頭を過ごして、絶路に走るに至ったものである。

兌下巽上

中孚:豚魚吉,利涉大川,利貞。

《中孚》卦:誠信が広く被り、小豚や魚のような微賤の生物もその恵を受ける。吉祥。大河を渡るに宜しく、正道を守持するに宜しい。卦名の「中孚」――「孚」とはすなわち誠信で、信は心中より生発する。故に中孚と言う。

義曰:按《序卦》云「節而信之,故受之以中孚」。言聖賢之人為節之道,必當以信而行之,使乆而不變,可以為萬世之法,故以中孚次於節。謂之中孚者,孚,信也,信由中出,故曰中孚。葢二陰居中,是虛中而發誠信於內,出之於性;孚信既發於中,施之於外,則天下必信之矣。豚魚吉者,豚是獸之至微者也,魚是蟲之至隱者也。夫聖賢之人所立正教,必須信於天下,使天下之人皆順從之,以至至微至隱之物皆亦被其信。是故聖王作為節制,斧斤不時不入山林,數罟不入汙池,昆蟲未蟄不以火田。如是之類,是皆取之以時,用之有節,使至微至隱之物皆遂其生而涵濡其性。豚魚無識之物,猶且被澤而不妄有所傷,則有識之類其蒙信也可知矣,故曰吉。

胡瑗の釈義:《序卦伝》に「節してこれを信ず、故に中孚をもって受く」とある。意味は聖賢が節度を訂立するには、必ず誠信に憑って推行し、それを長久に変わらずして万世の法と為さねばならない。故に《中孚》卦は《節》卦の後に接する。「中孚」と称する所以:「孚」とはすなわち信で、信は内心より生出する。故に中孚と名づく。此卦は六三・六四の二つの陰爻が当中に居り、まさに内裏虚空を表示し、誠信を心底より発出し、本性より出ずる。誠信は既に内心より発すれば、再びこれを外に施行せば、天下の人は必ず信服する。卦辞に「豚魚吉」と言う:豚は獣類中最も微小なり、魚は虫類中最も隠蔽なり。聖賢の立つる正教は必ず天下に信を取らねばならず、天下の人を皆順従せしめ、最も微小最も隠蔽なる生物も一併にこの誠信に沐浴せしめる。故に聖王は節度を制定する:時令に至らざれば、斧斤は山林に入り砍伐を得ず、細密の漁網は池塘に下るを得ず、虫類いまだ蟄伏せざれば、火を放ち田を焼くを許さず。この類の規定は、皆時令に按じて索取し節度を有して使用し、最も微小最も隠蔽なる生物を皆順遂に生長せしめ本性を涵養せしめる。豚と魚のような無知の物ですらなお恩沢を受けて妄殺を遭わざれば、知覚ある人類がこの誠信を蒙受するは推して知るべし。故に「吉」と言う。

利涉大川者,川者險難之地,大則有兵革之事,小則有宼盜之虞,於天則水旱蟲蝗,於人則死亾疾疫,險難之事也。夫節制之道行於世,必以至信及於天下,不遺微小,則天下相信,戚疎相睦,聖人以此極濟天下之難,何所不利哉?若不以至信及於上下,苟涉大難,必有阻溺。此中孚之徳猶已及於豚魚,則天下之人無不信服,上下和同,物情不違,故涉於大難無不利矣。利貞者,夫信而不正,不若不信,故聖賢所節制,必須不偏不黨,至誠不息,不為邪欲所勝,則天下皆信其上,是所利在於正也。

卦辞に「利渉大川」と言う:「川」は艱険危難の地を代表する――大なれば兵戈戦乱、小なれば盗賊侵擾、天時上に表れれば水旱蝗災、人事上に表れれば死亡疫病、皆険難に属す。節制の道を世間に行わんとすれば、必ず至誠の信を天下に遍及せしめ、微賤の物も遺漏せざらしめ、さらば天下の人は彼此互信し、親しきも疏きも皆和睦し得る。聖人はこの一点に憑って天下の大難を救済せば、何の順利ならざるがあらん。もし至誠の信をもって上下を貫通し得ざれば、一旦真に険を渉り難を犯せば、必ず阻まれ沉溺する。いま《中孚》の徳行は豚魚にも感化し及んだ。天下の人は自ずから信服せざるなく、上下は和同し、物情は相違逆せず。故に大難を渡渉して順利ならざるなし。「利貞」に至っては:誠信ありて正道に合わざるは、誠信なきに如かず。故に聖賢の立つる節度は、必ず偏私せず結党せず、至誠にして永く間断せず、邪僻の欲望に圧倒されざらしめ、こうすれば天下の人は初めて君上を信任し、利はまさに一個の「正」の字に落ちる。

彖曰:中孚,柔在內而剛得中,說而巽,孚乃化邦也。豚魚吉,信及豚魚也。利涉大川,乗木舟虛也。中孚以利貞,乃應乎天也。

《彖伝》に曰く:《中孚》卦は柔爻が内に居り剛爻が中位を得、下卦は和悦にして上卦は遜順、誠信はここに邦国を感化し得る。「豚魚吉」とは、誠信が豚魚にも感通し及ぶことを言う。「利渉大川」とは、中間虚空の木船に乗って河を渡ることを言う。「中孚以利貞」とは、こうして初めて天道に相応ずることを言う。

義曰:柔在內者,謂六三六四也。言三四以柔順處中,而四陽居外,二陰既處其中,則是虛其中也。言誠信之道發於中,行於外,使天下之人皆信之,故曰柔在內也。剛得中者,謂九二九五也,二爻皆以剛居中而得正。夫剛而不中不正,則為私為暴,不可信於天下,故剛以得中為貴也。

胡瑗の釈義:「柔在內」とは、六三・六四の両爻を指す。三・四は柔順の質をもって全卦の当中に処り、四個の陽爻は上下両端に分居し、二個の陰爻は既に中に居れば、卦体の中間はすなわち空である。これは誠信の道が心中より生発し外に施行して、天下の人を皆信服せしめることを言う。故に《彖伝》に「柔在內」と言う。「剛得中」とは、九二・九五の両爻を指し、この両爻は皆剛陽の質をもって上下卦の中位に居りて各々その正を得る。剛強にして中に正ならざれば、偏私と暴虐と変化し、天下に信を取り得ない。故に剛爻は中を得るを以て貴しと為す。

說而巽孚乃化邦者,言此卦下體為兌,兌為說,上體巽,巽為風,是九五能以風教權變,孚信於天下,則天下之人說順而信矣。左氏曰:小信未孚,神弗福也。夫聖賢之人不可為小小之信,必當立其大信,使天下之人皆孚信之。上既以由中之信發之於中,施之於外,無偏黨私曲,皆合於中,則天下之人皆化上之信,奸偽不作,巧詐不興,亦以至誠至信奉於上,故曰乃化邦也。

「説而巽、孚乃化邦」のこの一句は、此卦の下体は兌、兌の卦徳は喜悦、上体は巽、巽の取象は風であることを言う。九五は風行草偃の如き教化と通権達変の手段に憑り、誠信を天下に施及すれば、天下の人は便ち欣悦柔順して彼を信ずる。《左伝》が曹劌の言を記するに曰く:小恩小信は未だ神明に信を取る能わず、神明は福を降さず。見れば聖賢は小信小恵を為すのみならず、必ず大きな信用を樹立して天下の人を皆信服せしめなければならない。君上は既に内心より発する誠信を外に施行し、偏私結党・曲意徇情なく、一切中道に合すれば、さらば天下の人は皆この誠信に感化され、奸偽は再び興起せず、巧詐は再び滋生せず、亦至誠至信をもって君上に奉事す。故に「乃化邦也」と言う。

豚魚吉信及豚魚者,言豚魚所以得吉者,蓋由孚信之所及至廣至遠,取之有時,用之有節,不傷其性,以至至微至隱皆被其徳,故小雅魚麗之詩,蓋言萬物眾多也。利涉大川乘木舟虛者,下兌為澤,澤者水也;上巽為木,木在水上,舟之象也。夫大川之深,至險至浚,若以舟楫濟之而居於其中,所涉無不濟矣。是猶在上者能以節制之道、由中之信,施為號令風教於天下,使天下之人上下以信相接,何所不從哉?若國有大患,人有大難,則可以使同心戮力,以順從於君而共拯之,無危險而不獲其濟。

「豚魚吉、信及豚魚也」のこの一句は、豚魚が吉を得る所以は、誠信の及ぶ所が極めて広く極めて遠いからである:時令に按じて索取し節度を有して使用し、彼らの天性を傷害せず、最も微小最も隠蔽なる生物にもこの徳沢を蒙受せしむ。故に《詩経・小雅》の《魚麗》の一篇は、まさに物産豊盛・万物繁多を歌詠する。「利渉大川、乗木舟虚也」:下卦の兌は沢、沢はすなわち水。上卦の巽は木、木は水上に浮かび、まさに船の形象である。大河は水深く、極険極幽。もし船楫をもって渡り人は船中に坐せば、渡り得ざるなし。これは在上位者が節制の道・内心より発する誠信を以て、天下に号令を発布し教化を推行し、天下上下を誠信を以て相待せしめれば、また誰か聴従せざらんを譬える。一旦国に大患・人に大難あれば、衆人を同心合力して君主に順従し一斉に挽救に往かしめ得、再び危険あっても救い成らざるなし。

中孚以利貞乃應孚天者,夫天之道無所不正,無所不信,故冬至則陽氣應之,夏至則陰氣應之,寒暑代謝,日月往來,皆無毫釐之差。是天地陰陽、寒暑晝夜、日月皆有其信而不失其正,是天之不言而能信萬物者也。今聖賢之人能推由中之信,無偏黨之邪,以取信於天下,使天下皆信之,是應乎天也。

「中孚以利貞、乃応乎天也」のこの一句は、天道は処として正ならず信を守らざるなし。故に冬至一至れば陽気は便ち時に応じて生じ、夏至一至れば陰気は便ち時に応じて起こり、寒暑は交替し日月は往来し、絲毫の差錯なし。見れば天地陰陽・寒暑昼夜・日升月落は皆その信実ありてその正を失わない。これがすなわち上天が一言を発せずして万物に信を取り得る所以である。いま聖賢は内心より発する誠信を推广し、偏私結党の邪念なく、これをもって天下に信を取り、天下の人を皆彼を信じせしむれば、これがすなわち天道に相応ずる。

象曰:澤上有風,中孚。君子以議獄緩死。

《大象伝》に曰く:沢の上に風吹き過ぐれば、水面に応ぜざるなし。これが《中孚》卦の取象である。君子はこれに法って、訟獄を慎重に審議し、死刑を寛緩する。

義曰:澤與風皆生成之道也。夫風行澤上,物無不從,猶君子之人以由中之信施乎外,無所不及,無所不順也。議獄緩死者,君子觀是之象,以謂獄者繫獄之人就苦,而告之以所死者不可復生,必推由中之誠,原議冤枉,察其真偽,求其曲直,以緩恕其死,則可以盡其至信之道也。

胡瑗の釈義:沢と風とは皆万物を生養成就する力量に属す。風が沢の上を行けば、万物に応ぜざるなし。君子が内心より発する誠信を外に施行して、至らざるなく順わざるなきに譬ゆ。「議獄緩死」に至っては:君子はこの卦象を観察して、牢獄の中の囚犯が苦を受けているを思い、人は一旦処死せられれば再び活き返ること能わざるを思う。故に必ず内心の誠意を推出し、冤屈の有無を重新審核し、供詞の真偽を考察し、是非曲直を追究して、以てその死罪を寛緩赦免する。このように為し得れば、至誠の信の道理を尽くしたと言える。

初九:虞吉,有它不燕。象曰:初九虞吉,志未變也。

初九:予め揣度して後に行う。吉祥。たとえ別の対象が前来りて誘引しても、それと安享歓楽しない。《小象伝》に曰く:初九が揣度して吉を得るのは、その心志が始終改変しないからである。

義曰:虞,度也;燕,樂也。此居兌之始,上有六四為之正應,然中有九二六三間隔已之應,是以初九能度四之正應,裁量其情以孚信於己,不為二三間隔而變其志,自能虞度,終以至誠待之,故得吉也。有它不燕者,初既以四為正應,雖有二三間之,而能虞度之,以謂縱有它來從己者,己亦執心不變,不與之為燕樂也。象曰虞吉志未變者,此一爻居事之始,在兌之初,其志専一,與四為應,其志終不變易矣。

胡瑗の釈義:「虞」は揣度、「燕」は安楽である。初九は下卦兌の開端に処り、上に六四がその正応と為る。しかし中間に九二と六三が隔たり、それと正応とを阻斷している。故に初九は能く六四この正応を揣度し、相手方の情実が真に誠信を以て己に待すかを衡量し、二・三の両爻の阻隔に因って心志を改変しない。まさに揣度に善く、始終至誠を以て相待するが故に、吉祥を獲る。「有它不燕」に至っては:初九は既に六四を正応と為す。二・三に阻隔されるといえども、能く仔細に掂量し、たとえ別の爻が前来りて己に投拠しても、己は心を守り変わらず、彼らと一道に歓楽を尋ね作らないと認定す。《小象伝》の「初九虞吉、志未変也」は、この爻は事情の開端・兌体の起始に処り、心志は専一にして、ただ六四と相応じ、始終更改しない。

九二:鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡之。象曰:其子和之,中心願也。

九二:鶴は背陰の幽暗の処に鳴き、その同類は声に応じて相和す。我に美好の爵禄あり、願わくは爾と共に分かち享けん。《小象伝》に曰く:同類が声に応じ相和するのは、内心より発する意願である。

義曰:夫信出於中,雖天地亦可以充塞;苟無信實,雖無識之物亦不已從。今九二以剛陽之徳居兌之體,在中孚之中而有由中之信以及於下,上無其應,無所私繫,在三四重陰之下,處幽暗之中而不失其信,是以聲聞於外,至於天下同類之人以孚信應之,若鳴鶴之在陰而其子自然應和。我有好爵吾與爾靡之者,言聖賢之人既以誠信達於天下,上下自然以誠信相交,故與之其天爵,共天祿,而無所離間靡散也。言我有美好之爵,與爾共散之也,蓋至誠所感,上下和悅之至也。象曰其子和之中心願者,言誠信之人願與同類相應,今得誠信而應之,是中心之所願也。

胡瑗の釈義:誠信は心裏より発出すれば、天地の間にも充満し得る。もし信実なければ、知覚なきものすら跟従を肯んぜない。九二は剛陽の徳を以て兌体に処り、《中孚》卦の中位に居り、内心より発する誠信を下面に施及す。それは上に相応ずる爻なく、故に私情の牽係を受けず、身は六三・六四の両重陰爻の下に在り幽暗の中に処るといえども、その信を失わず。故に声名は外面に伝わり、天下のそれと同類の人は皆誠信を以て来りて応ず。まさに鶴が幽暗の処に鳴きて同類が自ずから応和するが如し。「我有好爵、吾与爾靡之」とは、聖賢は既に誠信を以て天下に通達せば、上下は自ずから誠信を以て相交り、ここに天賦の爵位と俸禄を拿出して人と分かち享け、彼此離間渙散を生ぜざるを言う。すなわち言う:我に美好の爵禄あり、願わくは你と一同に分かち享けん。これがまさに至誠の感じる所で、上下和悦極に至る。《小象伝》の「其子和之、中心願也」は、誠信を講ずる人は本来同類と呼応せんことを願う。いま真に誠信を得て相応和せば、これがすなわちその心裏最も深き願望である。

六三:得敵,或鼓或罷,或泣或歌。象曰:或鼓或罷,位不當也。

六三:対手に碰上すれば、一時は鼓を擂りて進攻し、一時は疲憊して兵を収め、一時は哭泣し、一時は唱歌す。《小象伝》に曰く:忽ち進攻し忽ち兵を罷むるのは、処する爻位が正当でないからである。

義曰:六三以陰居陽,履非其正,小人者也;切近於四,四以陰居陰,君子者也。夫小人而近君子,則必陷於君子,是以六三得其所敵,故曰得敵。既敵必戰,則或鼓而進,故曰或鼔。然小人雖欲害君子,君子執正道而無所變易,非小人之所能勝,則反自罷敝,故曰或罷。且小人既不克勝而得罪於君子,則懼其侵奪,故曰或泣。然君子守己薄責,不為區區之行,不屑屑與小人校計,則小人獲存而得出於憂懼之地,反有所喜,故曰或歌。以是見六三不中不正,所為失道,而強弱憂喜之無常也,故象曰位不當也。

胡瑗の釈義:六三は陰爻を以て陽位に居り、処する所正ならず、小人の類に属す。それは六四に緊挨す。六四は陰爻を以て陰位に居り、君子の類に属す。小人が君子に靠近せば、必ず君子の手裏に栽す。故に六三は己の対手に碰上し、爻辞に「得敵」と言う。既に対手と為れば交戦を免れず、ここに鼓を擂りて進攻す。故に「或鼓」と言う。しかし小人は君子を加害せんと欲するといえども、君子は正道を守り毫も動揺せず、小人の戦勝し得る所にあらず。小人はかえって己を疲憊不堪に弄得する。故に「或罷」と言う。小人は既に鬥い勝てず、またすでに君子を得罪したれば、報復侵奪に遭うを害怕す。故に「或泣」と言う。しかし君子は己に厳しく人に責むるに寛く、瑣碎計較の事を為さず、小人と算賬するを屑としない。小人はここに保全を得て憂懼の処境を走出し、かえって歓喜を起こす。故に「或歌」と言う。これに由って見れば六三は中にも正にもあらざりて、行事は正道を失し、初めて時に強く時に弱く、忽ち憂い忽ち喜び、反復无常と為る。故に《小象伝》に「位不当也」と言う。

六四:月幾望,馬匹亡,無咎。象曰:馬匹亡,絶類上也。

六四:月は満盈に接近し、成対の馬匹は走失す。過ちなし。《小象伝》に曰く:馬匹が走失するのは、同類の牽扯を断絶して上に九五に追随するからである。

義曰:月者,陰之體;望者,光魄盈滿與日相望之時也。此一卦惟六三六四以陰柔居於內,而六三以其不正,故為小人也。六四以陰柔之質居巽順之體,居得其正,奉九五之君,能布徳教以孚萬邦,得臣道之正也,如月之近望,光輝明盛,徧照天下。然懼招君父之疑,常自戒慎,不自滿假,故曰幾望也。

胡瑗の釈義:月は陰の形体、「望」は月光が円満にして太陽と遥遥相対するあの日を指す。全卦にただ六三・六四の二個の陰爻のみ内部に居り、六三は処する所正ならざるが故に小人と算す。六四は陰柔の質を以て巽順の卦体の裏に処り、居る所正を得、九五の君に奉事し、徳教を施布して万邦に信を取り、臣を為す正道を得る。まさに月が満望に臨近する時、光華は明亮盛大にして、遍く天下を照らすが如し。しかしそれはまた君父の猜疑を招来するを怕れ、故に時時自我警戒して、自満自大を敢えてせず。故に「幾望」と言い、ただ満月に接近して十足円満に至らず。

馬匹亡無咎者,匹謂匹耦群類也。夫君子守其道徳,以務遠者大者,不與小人校分毫之利害。若以君子而與小人校其區區屑屑,則賢不肖混淆,而君子小人無間,以至患害所及。今六四雖為六三所侵,來與己爭,然己得其正,犯而不校,是以絶其群類,上承於五,固守其分,養成至徳,故獲無咎也。象曰馬匹亡絶類上也者,言匹馬而亡,是獨行也,能下絶六三之類,上順九五之尊,是自能以正道上應於五也。

「馬匹亡、无咎」のこの一句:「匹」は配対の同伴・同類を指す。君子は己の道徳を守り、長遠宏大の事に専心し、小人と分毫得失を計較しない。もし君子が偏に小人と斤々計較してあの瑣屑の事を争えば、賢と不肖と混雑分かたず、君子と小人とに界限なくなり、禍患もまたこれに随って来る。いま六四は六三に侵擾され前来りてそれと争奪するといえども、六四自身は位に居りて正を得、冒犯されても計較せず、故に同類との牽扯を断絶し、上に向かって九五を承奉し、本分を牢牢に守り、極高の徳行に涵養成す。故に過咎なし。《小象伝》の「馬匹亡、絶類上也」は、成対の馬は走失して独行を余儀なくされる。まさにそれは能く下に六三この一類の牽連を断絶し、上に向かって九五の尊位に柔順し、正道に憑って九五と相応ずることを表示す。

九五:有孚攣如,無咎。象曰:有孚攣如,位正當也。

九五:誠信を懐きて人心を緊く維係す。過ちなし。《小象伝》に曰く:誠信を以て天下を維係するのは、その居る爻位が端正得当なるからである。

義曰:攣者,牽攣之謂也。此九五居至尊之位,履正處中也。夫居尊而有中正之徳,是有至誠至信之心,發之於內而交於下,以攣天下之心,使天下之人皆以誠信奉於上,上下內外皆以誠信相通,是得為君之道而獲吉,復何咎之有?

胡瑗の釈義:「攣」は牽係維係の意。九五は至尊の位に身を居り、行事は端正にしてまた上卦の中に処る。尊位に居りてまた中正の徳行を具えるは、一片の至誠至信の心ありて、内心より発出して下面の人と交接し、これを以て天下の人心を牽住し、天下の人を皆誠信を以て君上に奉事せしめ、上下内外は全て誠信に憑って相通ず。これがすなわち君主を為す正道で、故に吉祥を獲る。また何の過咎かあらん。

上九:翰音登于天,貞凶。象曰:翰音登于天,何可長也。

上九:高飛の鳥の鳴声は直ちに雲天に上る。ただその声を聞いてその実を見ず。固守し続ければ凶険あり。《小象伝》に曰く:虚声が天に上達す。このような情形は何ぞ長久を得ん。

義曰:翰者,鳥羽之髙飛也。此上九在一卦之上,居窮極之地,是其誠不能自內而出,無純誠之心、篤實之道,徒務其虛聲外飾,以矯偽為尚,如鳥之飛登於天,邈然不見其形,杳然莫覩其跡,徒聞其虛聲而已。貞凶者,君子之人所為所作,必皆本其純誠篤實光大以感於人,而人亦以誠實奉之,此君子之謂也。今乃居無實之地,任無誠之聲,以正道觀之,可謂凶矣,故曰貞凶。象曰何可長者,言上九徒以虛聲外飾驕於人,殊無純誠篤實之行,以此而往,愈久愈凶,故聖人戒之曰何可長如此,蓋欲人改過反誠,以信實為本也。

胡瑗の釈義:「翰」は鳥が羽翼を張りて高飛するを指す。上九は全卦の最上の一爻・窮極の地に処り、それはその誠意が内心より生発したにあらざるを説明す。純粋の誠心なく篤実の作風なく、ただ一味に虚名と表面文飾を追求し、矯揉作偽を以て本事と為す。まさに鳥が高天に飛び上り、渺遠にして形体を見えず、杳然として蹤跡を尋ね得ず、人々の聞く所はただ一片の空声のみであるが如し。所謂「貞凶」:君子の一挙一動は、必ず純誠篤実・光明正大を本として人を感動せしめ、人もまた誠実を以て彼に報いる。これを初めて君子と言う。いま上九は毫も実徳なき地に立ち、一個の空洞無誠の名声に憑って行事す。正道に按って見れば以て凶と言い得る。故に「貞凶」と言う。《小象伝》の「何可長也」は、上九はただ虚声粉飾に頼って人に誇耀し、全く純誠篤実の品行なく、このように下去れば、時間は愈久しく凶険は愈深し。故に聖人は警誡してこのようでは何ぞ長久を得んと言う。本意は人に改過して誠実に回帰せしめ、信実を以て根本と為さしめんと欲するに在る。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.

Hexagrams in this volume