Libo

鼎 巽下離上

宋 · 胡瑗 · 第28巻 / 51

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

鼎:元吉,亨。

《鼎》卦の卦辞にいう。故を革め新を取りて尽善尽美と為れば、それによって元大の吉祥を獲得し、其の道は此に由りて亨通す。

義曰:按《序卦》云「革物莫若鼎」,故受之以《鼎》。鼎者,變生為熟、革故取新之謂也。言聖賢之人凡欲革天下之弊亂,必須改正朔,易服色,殊徽號,變禮樂,以新天下之視聽,故必法制齊明,得其盡善盡美,然後獲元大之吉,其道是以亨通也。

胡瑗が解説します。《序卦伝》は「革物莫若鼎」――物性を改変するは鼎に若くなし――と講じ、だから《革》の後に《鼎》を接ぐ。「鼎」は生を熟に煮る、即ち旧物を革除し・新物を取用するの意なり。これは聖賢は凡そ天下の弊政禍乱を革除せんと要するに、必ず暦法歳首を改定し・車服顔色を更換し・徽号を別立し・礼楽を変更して、天下の人の視聴を焕然一新せしむべくを言うなり。それによって法度制度は必ず整斉厳明にして、尽善尽美を為し到りて、後に乃ち元大の吉を獲得して、其の道も亦此に由りて亨通すべきなり。

彖曰:鼎,象也。以木巽火,亨飪也。聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。

《彖伝》にいう。《鼎》卦は、鼎此の件の器物に取象す。木柴を火中に順送入すれば、これ即ち食物を烹煮す。聖人は牲物を烹煮して以て上帝を祭享し、また大規模に烹煮して以て聖賢を供養す。謙順を以て人を待てば、それによって耳は聡く目は明るし。柔順の六五は上進して尊位に居り、すでに中位を得て、また下に向かって剛健の九二と相応ずれば、だから大いに亨通す。

義曰:鼎者,鑄金所為而有法象者也。以木巽火亨飪者,此因二體以解鼎卦之象。下巽,巽為風;上離,離為火。以木以風而入於火,故有亨飪之象,此鼎之用也。聖人亨以享上帝者,此以下廣明鼎卦之義。言鼎之所以用者,由木入火而成也,故聖人亨之,可以享祀於上帝也。

胡瑗が解説します。鼎は金屬を用いて鋳成して・法定の形制を帯びるの器物なり。いわゆる「以木巽火、亨飪也」、これは上下の二体を用いて《鼎》卦の象を解釈す。下卦は巽、巽は風を為し・木を為す。上卦は離、離は火を為す。木材と風とは一同に火中に送入せば、だから烹煮の形象有るなり、これ即ち鼎の用途なり。いわゆる「聖人亨以享上帝」、此処より往下は推して広く《鼎》卦の意義を説明す。鼎の能く作用を起す所以は、木は火中に入りて食物を煮熟するに靠れば、だから聖人は祭品を烹煮して、以て上帝を祭祀するに用いるべきなり。

而大亨以養聖賢者,言聖人大亨以養天下之賢,使賢聖盡得其養。然此所以言大亨者,以天下之大,四海之廣,非一聖一賢之所能致,又非一耳一目之所能察,故聖人分其爵祿,大其優寵,以廣求天下之聖賢,使皆得己之養,為養之大莫大於此,故曰大亨。

いわゆる「而大亨以養聖賢」は、聖人は大規模に烹煮して天下の賢者を供養して、賢人聖者をして皆奉養を得せしむるを言うなり。此処の「大亨」と言う所以は、天下は此のように広大・四海は此のように遼闊にして、一聖一賢の成就する能く所にあらず、亦一耳一目の察尽する能く所にあらざればなり。だから聖人は爵位俸禄を分出し・優待寵遇を加厚して、以て広く天下の聖賢を求取して、彼らをして皆自らの供養を得せしむ。供養の大はこれより大なるなければ、だから「大亨」と叫ぶなり。

巽而耳目聰明者,言聖人既盡養天下之賢,又當以巽順之道下接之,是以天下之賢者皆樂其所養,盡其謀慮,竭其忠信,以輔於君,以共成其政,故得其天下之耳為己耳,天下之目為己目,以成己之聰明。柔進而上行得中而應乎剛是以元亨者,此指六五而言也。夫五以柔順之道進而居至尊之位,又在上體之中,是所為之事得其中,而又下應九二剛明之臣,是聖賢相得,君臣相會,故能鼎新制作,革去弊亂,天下之事無不得其大通,故曰是以元亨。

いわゆる「巽而耳目聡明」は、聖人はすでに力を尽くして天下の賢者を供養せり、還応に謙遜柔順の道を用いて身を屈して彼らを接納すべくを言うなり。於是乎天下の賢者は皆受くる所の奉養に安んじ、其の謀略思慮を尽くし・其の忠誠信実を竭して、来たりて君主を輔佐して、共同に政事を成就す。此のようであれば君主は便ち能く天下の人の耳朵を以て自らの耳朵と作為し・天下の人の眼睛を以て自らの眼睛と作為して、従而に自らの聡明を成就す。いわゆる「柔進而上行、得中而応乎剛、是以元亨」、これは六五の一爻を指して言うなり。六五は柔順の道を以て上進して至尊の位に居り、また上卦の中間に処せば、だから行事は皆中道に合乎す。再び下に向かって剛健明達の九二の臣と相応ずれば、これ即ち聖君と賢臣とは相投・君臣は相遇うなり。それによって能く法度を鼎新し・弊乱を革去して、天下の事は大いに通達せざるなければ、だから「是以元亨」と言うなり。

象曰:木上有火,鼎。君子以正位凝命。

《象伝》にいう。木上に火を燃す、これ即ち《鼎》卦の卦象なり。君子は此の象に取法し、自らの名位を端正し、自らの政令を凝聚成就す。

義曰:凝,成也。言君子之人觀此木火亨飪之象,凡欲鼎新法令、革民弊亂、以新天下耳目者,必先正其至尊之位,定其尊卑之分,以凝成其命令,而新其法制。

胡瑗が解説します。「凝」は凝聚成就なり。君子は此の木は燃え火は食を烹るの卦象を観察して、凡そ法令を鼎新し・百姓の弊乱を革除し・天下の人をして耳目を一新せしめんと欲するは、必ず先ず自らの至尊の名位を端正し、尊卑上下の名分を定下して、後に乃ち能く政令を凝聚落実し・法度制度を更新すべし――名位は正ならざれば、号令は便ち凝定するに従るなきなり。

初六:鼎顛趾,利出否,得妾以其子,無咎。象曰:鼎顛趾,未悖也;利出否,以從貴也。

初六の爻辞にいう。鼎足は傾倒翻転し、裏面の敗壞の物を倒出するに利有り。妾を娶りて、彼女は児子を生下せりに因りて、だから過咎なし。《象伝》にいう。鼎足は傾倒するも、並びに常理に違逆せず。穢物を倒出するに利有るは、尊貴に跟从せんがためなり。

義曰:夫陽以生物為實,陰以剝物為虛,鼎之為器,上虛而下實者也。初六以陰柔之質而處一卦之下,是鼎器反上實而下虛也。既上實而下虛,遂至鼎顛趾也。利出否者,夫否者,否惡不善之物也,鼎雖顛趾,然利於出否去穢以納新也。

胡瑗が解説します。陽は能く万物を生養すれば、だから実を為す。陰は万物を剥落すれば、だから虚を為す。鼎此の種の器皿は、本応に上面は空虚にして下面は充実すべきなり。初六は陰柔の質にして却って全卦の最下面に処すれば、鼎器の返って上は実にして下は虚に等しき。上実下虚なれば、鼎は自然に即ち鼎足を翻倒せん。いわゆる「利出否」、「否」は敗壞不善の物。鼎はたとい鼎足を翻倒せりと雖も、却って正に此を借りて敗壞汚穢の物を倒出して、新たなるを装進すべく好し。

得妾以其子無咎者,夫妾者,至賤者也,以至賤而為尊者之配,升於貴位而為正室,所以反得無咎者,以其有子故也。有子何也?以其子能荷先祖之業,承宗廟之重,故得無咎,則《公羊》所謂「子以母貴,母以子貴」者,此其義也。其意若君子承弊亂之後,思欲鼎新天下之事,其所為雖有小害,然利於覆去否穢,建立新法,以新天下之耳目,終立天下之大功,所以得其無咎。象曰鼎顛趾未悖者,夫鼎雖顛覆,然能覆去否穢以納其新,是其道未至於悖逆也。利出否以從貴者,夫既以顛出否穢以納其新,又以妾為室而無咎,以子之貴故也。

いわゆる「得妾以其子、无咎」。妾は身份の最も卑賤なるにして、最も卑賤の身份を以て尊者の配偶と為りて、貴位に升到して正室と為れるに、返って過咎なき所以は、彼女が児子を生みしがゆえなり。児子有りてまたどうかせんや。此の児子は能く先祖の家業を担起し・宗廟祭祀の重任を承当する能くすれば、だから過咎なし。《公羊伝》の言う所の「子以母貴、母以子貴」は、講ずる所はまさに此の道理なり。其の用意は、君子は弊政乱局を接手して後、天下の事務を鼎新せんと欲するに、為す所はたとい一点の損害を帯来するも、却って汚穢を傾去し・新たなる法度を建立して、天下の人をして耳目を一新せしめて、最終に天下の大功を成就するに利有れば、だから能く過咎なきなり。《象伝》の「鼎顛趾、未悖也」は、鼎はたとい翻倒せりと雖も、却能く此を借りて汚穢を傾去して新物を装入せば、此の路は並びに違逆の地步に走到るなきを言うなり。「利出否、以従貴也」と言うは、すでに汚穢を傾倒排出して以て新を納め、また妾を正室と立てて過を致さざるは、皆児子の尊貴を憑るがゆえなり。

九二:鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。象曰:鼎有實,慎所之也;我仇有疾,終無尤也。

九二の爻辞にいう。鼎中は実物を盛れり、我が匹配する者は疾患有りて、能く我に靠近せず、吉祥なり。《象伝》にいう。鼎中はすでに実物有れば、自らの去向を謹慎すべきなり。我が匹配する者は疾患有れば、終に過失有ることなからん。

義曰:九二以剛陽之質處鼎之中,是鼎有實物之象也。夫鼎之實必有齊量,不可以盈溢,若遇其盈溢,則有覆餗之凶。君子之人雖有才徳,亦有分量,若職事過其才分,則有隳官之謗矣。仇即謂五也,疾謂三與四也,言二雖應於五,然以三四間隔其路,使其君不得以他職事即加於己,故己既得盡其才以事於上而無隳官之咎,所以獲吉。蓋有實之鼎不可復有所增,才任已極,不可復有所加故也。

胡瑗が解説します。九二は剛健陽質を以て鼎腹の中に処し、まさに鼎中に実物を盛れるの象なり。鼎の裏の装う所は必ず定量有りて、満溢すべからず。一旦満溢せば、即ち鼎中の食物を傾覆するの凶険有り。君子はたとい才幹徳行有るも、才分も亦自ら限度有りて、若し担負するの職事は其の才分に超過せば、即ち官守を敗壞するの譏議を招来せん。「仇」は六五を指し、「疾」は三・四の两爻を指す。九二はたとい六五と相応ずるも、却って三・四の两爻に路を隔断せられて、君主をして再び別の職事を自らの身上に加える能わざらしむ。それによって自らは其の長ずる所を尽くして去りて在上者に事奉するを得、官守を敗壞するの過錯を落下せざれば、だから吉祥を獲得す。これはすでに装満せるの鼎は再び物を添うる能わず、才幹と任う所とはすでに極処に到りて、再び加うるべからざるがゆえなり。

象曰鼎有實慎所之也者,言人才有大小,若才不甚大而加其煩任重職,則必有凶敗之至,故宜慎其所之,不可妄其所行也。我仇有疾終無尤也者,言我之仇雖為二陽所間而不能復加事於己,則我終免曠官之尤悔矣。

《象伝》の「鼎有実、慎所之也」は、人の才幹は大有り小有りて、若し才幹は併せて甚だ大ならざるに繁重の任務と要職を給えば、必定に凶険敗壞を招致せば、だから応に自らの往かんとする所の地方を謹慎して、妄りに行動すべからざるを言うなり。「我仇有疾、終无尤也」と言うは、我が匹配する者はたとい三・四の两箇の陽爻に隔断せらるるも、再び事情を我が身上に加うる能わざれば、ならば我は終に尸位素餐の過失と悔恨を免去するを言うなり。

九三:鼎耳革,其行塞,雉膏不食,方雨虧悔,終吉。象曰:鼎耳革,失其義也。

九三の爻辞にいう。鼎耳は様を変えたり、鼎を抬くの路は堵住せられて、肥美の野鶏肉は喫うに及ばず。陰陽は調和して雨を降らすに到れば、悔恨は便ち減損して、最終に吉祥を獲得せん。《象伝》にいう。鼎耳は様を変えたるは、鼎耳の本応に虚空なるべきの意義を失せり。

義曰:九三以陽居陽,自實也,居下卦之上,有耳之象也。夫鼎之耳虛之,所以容鉉也,今革易其常道以實其耳,不能受鉉者也。鉉而不受,鼎斯不舉矣,是其行之所以窒塞也。夫鼎而不舉,行而窒塞,雖有雉膏甘美之食,焉得而食哉!若君子之人以剛亢自處,不能容受天下之賢,故其行所以窒塞也。夫既不能容受天下之賢,雖天下有善謨善慮,亦不可得而用矣。

胡瑗が解説します。九三は陽爻を以て陽位に居り、本身は充実にして、下卦の最上に処して、鼎耳の形象有り。鼎耳の中空に要する所以は、鼎を抬くの横杠を容納せんがためなり。今、九三は鼎耳の応有の常道を改変して耳孔を塞実せば、即ち横杠を接納する法なし。横杠は挿し入る能わざれば、鼎は便ち抬き起る能わず、これ即ち其の前行の受阻するの縁故なり。鼎は抬き動かず・路は堵塞せられれば、縦然に野鶏肉のごときの甘美の食物有るも、またどうして喫い到る能くせんや。これ譬えば君子は剛強高亢を以て自居して、能く天下の賢才を容納接受せず、だから行事は処処に窒礙す。すでに能く天下の賢才を容納せざれば、ならばたとい天下に好きの謀画・好きの思慮有るも、彼は亦取りて用うるに従るなきなり。

方雨虧悔終吉者,夫雨者,陰陽相和而然也,若能改革前非,去其剛亢,上以交於君,下以來於賢,則得虧損其悔而終獲其吉矣。象曰鼎耳革失其義者,言鼎必虛耳以待鉉而舉之,今以陽居陽而自實,是失其為鼎耳之義也。

いわゆる「方雨虧悔、終吉」。雨は陰陽の相調和して降下せらるるなり。九三は若し能く従前の過失を改掉し・自らの剛強高亢を去掉して、上に向かって君主と交接し・下に向かって賢才を招来せば、即ち能く悔恨を減損して最終に吉祥を獲得せん。《象伝》の「鼎耳革、失其義也」は、鼎は必ず耳孔をして中空せしめて、乃ち能く横杠をして挿入してそれを抬き起せしむるを待てばなりを言うなり。今、九三は陽爻を以て陽位に居りて自身は充実せば、これ即ち鼎耳と為るの意義を失せるなり。

九四:鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。象曰:覆公餗,信如何也。

九四の爻辞にいう。鼎は足を折断して、王公の美食を傾覆して、鼎身は湯汁に沾汚せられ、凶険なり。《象伝》にいう。王公の美食を傾覆したるは、実在は奈何する能わざるなり。

義曰:九四居上卦之下,鼎足之象也。餗者,鼎之美實;渥者,沾濡之貌。夫鼎足所以上承於鼎,以受其美實,今九四以陽居陰,居非其位,不正者也。以不正之質,是不能上承於鼎,斷折其足,傾覆公家之美實,不惟傾覆美實,而又有沾濡其形體之凶。若人臣智小徳薄而切進於君,當人主大任,荷國家重責,則必曠敗其職而傾覆公家之事,不獨傾覆公家之事,而又有刑戮及身受汙辱之禍,凶之道也。象曰覆公餗信如何者,言禍及身,信無可奈何也。故先聖特繫此爻曰:徳薄而位尊,智小而謀大,力小而任重,鮮不及矣。言不勝其任也。

胡瑗が解説します。九四は上卦の最下面に処して、鼎足の形象なり。「餗」は鼎中の美味、「渥」は湯汁に沾湿せらるるのさまなり。鼎足の作用は上に向かって鼎身を托住して、裏面の美食を承受すべく好し。今、九四は陽爻を以て陰位に居り、処する所は其の位に当たらず、これは不正なり。此の不正の質を憑りて、それは上面の鼎を托住する能わざれば、於是乎鼎足を折断して、公家の美食を傾覆せり。只だ美食を傾覆するのみならず、還落得鼎身の湯汁に沾汚せらるるの凶険に至る。これ譬えば人臣は智慧は浅小・徳行は浅薄にして却って急切に君に求進して、君主の大任を担当し・国家の重責を背負せば、必定に職守を曠廃して公家の事を傾覆せん。只だ公家の事を傾覆するのみならず、還会刑戮を身上に加えられ・汚辱を蒙受するの禍患を招来す、これは凶険の道なり。《象伝》の「覆公餗、信如何也」は、災禍は自らの身上に落ちて、実在は奈何する能わざるを言うなり。だから先聖は特意に此の一爻の下に辞を系して言う。徳行は浅薄にして却って身は尊位に居り、智慧は浅小にして却って大事を謀画し、力量は微小にして却って重任を担負すれば、禍に遭わざるは稀なりと。これはそれは自らの職任を担当し起る能わざるを言うなり。

六五:鼎黃耳金鉉,利貞。象曰:鼎黃耳,中以為實也。

六五の爻辞にいう。鼎は黄色の耳・金屬の横杠を配し、正を守るに利有り。《象伝》にいう。鼎は黄耳有るは、六五は中を守るの徳を以て自らを充実するがゆえなり。

義曰:黃者,中之象;金者,至剛之物;鉉,所以貫鼎耳而舉之,謂九二也。言六五以陰柔之質居大中之位,能謙虛以下接於九二之剛,猶鼎虛其耳以待其鉉而舉,故今得金鉉貫其中而舉之,以成鼎之道也。以人事言之,則是君虛謙而不自髙亢,下接於天下賢明之臣,使下之賢相率而歸以輔於己。

胡瑗が解説します。黄は中に居るの色、中を守るの象徴を為す。金は最も剛硬の物質。「鉉」は鼎耳を穿りて鼎を抬き起すの横杠、此処では九二を指す。六五は陰柔の質を以て上卦中位に居り、能く謙虚に身を屈して九二の剛健を接納して、即ち鼎は耳孔を虚空せしめて、横杠の来たりてそれを抬くを待つがごとし。だから今、能く金鉉の其の中を貫穿して鼎を挙起するを得て、鼎の功用を成就す。人事に就きて言えば、これ即ち君主は虚心謙下にして・自ら高亢に居らず、下に向かって天下の賢明なるの臣子を接納して、下面の賢者をして相継いで帰附して来たりて自らを輔佐せしむるなり。

利貞者,以六五雖有大中之道以下接於臣,然以陰居陽,履非其正,而九二以陽居陰,亦非其正也。以不正之道相親比,則不能無悔,故聖人於此深戒之,言利在其至正之道,然後可以獲其吉也。象曰鼎黃耳中以為實者,言五以陰柔之質本非其實,而能虛中以納物,行大中之道以為其實也。

いわゆる「利貞」。六五はたとい中を守るの道有りて去りて下面の臣子を接納するも、しかるにそれは陰爻を以て陽位に居りて、処する所は並びに正に当たらず。九二は陽爻を以て陰位に居り、同じく正に当たらず。两箇の皆正に当たらざるの爻は彼此に親比すれば、即ち悔有るを免れ難し、だから聖人は此処に於いて鄭重に告誡して、好処は極正の道を堅守するに在り、此のようで乃ち能く吉祥を獲得すべきなりと説く。《象伝》の「鼎黄耳、中以為実也」は、六五は陰柔の質を以て本来は充実と算すべからざるも、但しそれは能く虚心中空にして外物を容納して、中を守るの道を奉行して、即ち此の箇を以て自らの充実と為すを言うなり。

上九:鼎玉鉉,大吉,無不利。象曰:玉鉉在上,剛柔節也。

上九の爻辞にいう。鼎は玉製の横杠を配し、大いに吉祥、不利なきことなし。《象伝》にいう。玉鉉は上位に居るは、「剛柔」は相済して各々其の節度を得たるなり。

義曰:玉者,有堅剛之質而其色溫潤。上九以陽居一卦之上,處鼎道之成,眾爻皆履剛,而此一爻獨履六五之柔,是剛柔相濟而有玉鉉舉鼎之象。以人事言之,是為人臣者有剛柔之徳,致君於堯舜三代之治,成太平之化,故能獲其大吉而無所不利也。

胡瑗が解説します。玉の質地は堅硬剛強にして、色沢は却って温和潤沢なり。上九は陽爻を以て全卦の最上に居り、まさに鼎道の成就するの時に当たり。衆爻の踏む所は皆剛爻にして、唯だ此の一爻は六五の柔爻の上に踏み居れば、それによって是れ剛と柔とが互相に調済して、玉鉉の鼎を挙ぐるの形象有り――「剛」は陽爻の剛健を指し・「柔」は陰爻の柔順を指す。人事に就きて言えば、これは臣子を為るは兼ねて剛柔の两種の徳行有りて、君主を堯舜三代のごときの治世に輔佐して成して、太平の教化を成就せば、だから能く大吉を得て往く所不利なきなり。

象曰玉鉉在上剛柔節者,上九以剛陽之爻履六五柔順之質,剛而不至於暴,柔而不至於懦,故所以致君於無為,皆剛柔得其中節者也。然六五言金鉉而上九言玉鉉者,夫玉之性剛柔全也,上九體陽而履柔,剛柔全也,故曰玉鉉。六五以陰而乘陽,差失其正,其徳未備,故曰金鉉。

《象伝》の「玉鉉在上、剛柔節也」は、上九は剛健の陽爻を以て六五の柔順の質の上面に踏み居り、剛強にして暴烈に流れず・柔順にして怯懦に流れず、だから能く君主を輔佐して無為而治に達するを言うなり、これは皆剛柔が各々其の恰当の節度を得たるの縁故なり。六五は「金鉉」と説きて上九は「玉鉉」と説くに至っては、玉の性質は兼ねて剛柔を備えればなり。上九は本身は陽爻にして却って柔爻の上に踏み居りて、剛柔は两全せば、だから「玉鉉」と叫ぶ。六五は陰爻にして却って陽爻の上に「乗」りて、稍稍其の正を失して、徳行は還有完備ならざれば、だから只だ「金鉉」と叫ぶなり。

震 震下震上

震:亨。震來虩虩,笑言啞啞。震驚百里,不喪匕鬯。

《震》卦の卦辞にいう。亨通す。雷震の到来するの時は人人は驚懼戦慄し、事後は却って能く談笑自若す。雷声は百里の逺を驚動すれども、祭を主るの人は却って祭品を舀うの匕・香酒を盛るの鬯をも曽て失手して掉落せず。

義曰:按《序卦》云「主器者莫若長子」,故受之以《震》。震,動也。蓋言鼎者,國家之重器;震者,長子之象。按《說卦》又云「震一索而得男」,故謂之長男,此震者坤一索之卦也,故有長男之象。言正嫡之子可繼先祖之業,奉宗廟之祭,能主國家之重器也,此《震》所以次於《鼎》也。

胡瑗が解説します。《序卦伝》は「主器者莫若長子」――宗廟の重器を掌管するの人は嫡長子より合適なるは莫し――と講じ、だから《鼎》の後に《震》を接ぐ。「震」は即ち動なり。鼎は国家の重器にして、震は則ち長子の象徴なり。《説卦伝》はまた「震一索而得男」と言う、だから震を長男と称す。震は坤卦の初次に求索して男を得たるの卦、故に長男の象有り。これは嫡長子は能く先祖の基業を継承し・宗廟の祭祀を主持し・国家の重器を執掌するを言い、これ即ち《震》の《鼎》の後面に排せらるるの縁故なり。

亨者,震為雷,雷者盛陽之氣,居於地下而出於地上,故動則有威。既動而有威,則勾者出,萌者達,蟄者伸,枯者榮,天下萬物昆蟲草木之類無不震動而亨通。以人事言之,則是聖賢君子一動,而天下之民無遠近小大,無鰥寡孤獨,皆被其徳澤而各遂其所。若君子之人一動而不能法震雷,使萬物得其亨通,則不能成動之道,是動之妄者為也。故聖人特於此言震亨者,所以為動者之法也。

いわゆる「亨」。震は雷を象徴し、雷は旺盛の陽気、地下に伏して地上に発すれば、だから一動するは即ち威勢を帯ぶ。すでに動きて威有れば、蜷曲の芽は便ち土より鑽出し・萌発の苗は便ち舒展して開き・蟄伏の虫は便ち蘇醒伸展し・枯槁の木は便ち重新に繁栄して、天下の万物は以て昆虫草木に至るまで震動せられて通達せざるなきなり。人事に就きて言えば、即ち聖賢君子は一たび挙動有れば、天下の百姓は遠近大小を論わず・鳏夫・寡婦・孤児ならんと子なきの老人ならんとを論わず、皆彼の徳沢を蒙受して各自に心願を遂ぐるなり。たとい君子は一たび挙動有るも能く震雷に效法して・万物をして各々其の通を得せしめざれば、即ち能く「動」の正道を成就せず、あれは妄動なり。だから聖人は特意に此処に於いて「震亨」と説くは、まさに一切の行動するの人のために法則を立下せんと欲するなり。

震來虩虩者,虩者,蠅虎之蟲也,藏牕壁中蠕然而動。言威震之來,則人為之戰兢懼不能自安,如蠅虎蠕然而動。然則重言虩虩者,恐懼之至也。笑言啞啞者,啞啞則和樂之貌。言始以威剛,旣能戰慄不敢為妄,故動有法則而不陷於刑戮,雖有威剛之嚴而不加於己,故始雖有恐懼之憂,終有笑言之樂。

いわゆる「震来虩虩」。「虩」は蠅虎此の種の小虫、窗縫墻壁の裏に蔵れて蠕蠕として動す。雷威の到来するの時は、人は便ち戦慄惶恐して・自ら安んずる法なしにして、即ち蠅虎のごとく蠕動して停まらざるなり。重畳して「虩虩」の二字を用うる所以は、恐懼の極点に到れるを形容するなり。いわゆる「笑言唖唖」。「唖唖」は和悦歓楽のさまなり。起初は威厳剛猛に因りて戦慄して、敢えて胡作非為せざれば、だから挙動は皆法度有りて、刑罰に陷入するに至らず。威厳剛猛はたとい在るも、却って自らの身上に加うる能わざらん。それによって起初はたとい恐懼の憂有るも、最終に却って談笑の楽有るなり。

震驚百里不喪匕鬯者,百里即雷聲之所及也。匕者,宗廟之器,以棘木為之,似畢而無兩岐,所以舉鼎之實而升於爼也。鬯者,以鬱金草和酒而有芬芳調鬯之氣。言震有長子之象,大而繼天子以臨天下,小而繼諸侯以臨一國,是必有威徳以及遠,使民心知有所歸,則威震之道全,而可以主宗廟之祭而不喪匕鬯也。

いわゆる「震驚百里、不喪匕鬯」。百里は即ち雷声の伝わる能く所の範囲なり。「匕」は宗廟の裏の礼器、酸棗木を用いて做成して、形状は畢器に象るも両箇の岔頭なしにして、以て鼎中の祭肉を挑起して俎上に放るに用う。「鬯」は鬱金草を用いて調和せるの酒、芬芳調暢の香気を発散す。震はすでに長子の象徴有れば、大は則ち天子を継いで天下に君臨し・小は則ち諸侯を継いで一国を治理す。此のようの人は必ず威厳徳行有りて四方に遠播して、民心をして帰向する所有るを知らしめて、威震の道は乃ち完備と算し、乃ち能く宗廟の祭祀を主持して匕鬯を失手して掉落するに至らざるべきなり。

彖曰:震,亨。震來虩虩,恐致福也。笑言啞啞,後有則也。震驚百里,驚遠而懼邇也。出可以守宗廟社稷,以為祭主也。

《彖伝》にいう。《震》卦は亨通す。「震来虩虩」は、恐懼を知りて乃ち能く福慶を招来するがゆえなり。「笑言唖唖」は、此の後の行事は皆法度有るがゆえなり。「震驚百里」は、遠処の人は驚を受け・近処の人は戒懼するを言うなり。此のようの長子は出づれば、即ち能く宗廟社稷を守護して、祭祀の主人と為すべし。

義曰:震亨者,言震雷不動則萬物不通,聖人不動則天下不亨。恐致福者,言震雷之來能戰慄恐懼以自修省,則不陷於禍害而終致福慶之事。後有則者,言既恐懼而致其福,則是不為非妄之行,而動有所法則,致有笑言啞啞之樂也。

胡瑗が解説します。いわゆる「震亨」は、震雷は発動せざれば、万物は能く通達せず・聖人は挙動する所有らざれば、天下は能く亨通せざるを言うなり。いわゆる「恐致福」は、雷威の到来するの時に能く戦慄恐懼して・此を借りて自ら修省せば、即ち禍害に陷入せず、最終に福慶の事を招来するを言うなり。いわゆる「後有則」は、すでに恐懼に因りて福慶を招来せば、便ち再び胡乱に妄為せず、挙動は皆法度の循べき有りて、それによって談笑歓楽の局面有るに至るを言うなり。

震驚百里驚遠而懼邇也出可以守宗廟社稷以為祭主者,言長子既有威徳以及於人,則遠者無不驚恐,近者無不戒懼,是以民心莫不趨向而樂從之,故出可以繼祖考之業,奉宗廟社稷之祭而為之主,無喪失其匕鬯者矣。

いわゆる「震驚百里、驚逺而懼邇也、出可以守宗廟社稷、以為祭主也」は、長子はすでに威厳徳行有りて人に施及せば、遠処の人は驚動せざるなく・近処の人は戒懼せざるなければ、それによって民心は彼に向かい・意に樂しみて彼に跟从せざるなきなり。だから彼は一たび出でずれば即ち能く祖父輩の基業を継承して、宗廟社稷の祭祀を主持して主祭の人と為りて、其の匕鬯を失掉せざるなり。

象曰:洊雷,震。君子以恐懼修省。

《象伝》にいう。雷声は接続して断えず、これ即ち《震》卦の卦象なり。君子は此の象に取法し、心に恐懼を存して自身を修養し・言行を反省す。

義曰:雷者,天之威也;洊者,因仍之謂也。以上體是雷,下體亦雷,則是天威重仍而至也,則萬物莫不震憡而獲其亨。君子觀此震雷之象,以驚恐戒懼修飭其身,省察其行,以全身遠害,則身不陷於過惡,刑戮所不及也。

胡瑗が解説します。雷は上天の威厳、「洊」は接続して相因るの意なり。上卦は雷・下卦も亦雷なれば、見るべし天威は一重に接いて一重に降下して、万物は震動驚懼を受けて此に由りて通達を獲得せざるなきなり。君子は此の震雷の象を観察して、驚恐戒懼の心を以て自身を整飭し・言行を省察して、以て己身を保全し・禍害を遠くするを求むるなり。此のようであれば身は即ち過失罪悪に陷入せず、刑罰殺戮も亦彼の身上に加うる能わざらん。

初九:震來虩虩,後笑言啞啞,吉。象曰:震來虩虩,恐致福也;笑言啞啞,後有則也。

初九の爻辞にいう。雷震の到来するの時は驚懼戦慄し、此の後は能く談笑自如す、吉祥なり。《象伝》にいう。雷震が到来して驚懼するは、恐懼は能く福慶を招来するがゆえなり。此の後は談笑自如するは、行事はすでに法度有るがゆえなり。

義曰:來者,自外之辭。夫剛威之行,所以驚懼奸偽,懲戒邪惡。初九有剛明之德而居震動之始,是不敢為非而內無所慊,故剛威自外而來,本非己所招致。然己不能無恐懼之心,既能虩虩然恐懼,則其身益修而其行益明,不敢為妄,則禍患必不能及於己,而終獲笑言之吉矣。

胡瑗が解説します。「来」の字は外面より来たるを表示す。剛猛威厳の施行は、以て奸偽を震攝し・邪悪を懲戒するに用うるなり。初九は剛健明達の徳行有りて震動の開端に処し、本身は敢えて悪事を為さず・心裏も亦亏欠なければ、だから剛威は外面より降臨するは、元来自らの招来するにあらざるなり。しかるに彼は仍として畏懼の心なき能わず。すでに能く戦戦兢兢として恐懼せば、ならば身を修むるは更に厳謹・行事は更に清明にして、敢えて妄為せざれば、禍患は必定に自らに波及する能わず、最終に談笑自如の吉祥を獲得す。

六二:震來厲,億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。象曰:震來厲,乘剛也。

六二の爻辞にいう。雷震は襲来して危険有りて、巨額の財貨を損失し、九重の高き山陵の上に攀登せり。追尋するに及ばず、七天の内に自然に復得せん。《象伝》にいう。雷震は襲来して危険有るは、六二は剛爻の上に凌駕するがゆえなり。

義曰:來者,亦自外之辭。六二以陰柔之質居下卦之中,是履得其正,行得其中,既有中正柔順之德,是不為非妄也,故雖剛威之來,亦非己所招致,故曰震來也。然而厲者,蓋初九為震之主,而已以陰柔之質下乘陵之,故其身必有危厲也。十萬曰億,貝者,寳之謂也,言當威震之時而乘震動之主,則其身危厲而所喪失者多,故曰億喪貝也。

胡瑗が解説します。「来」の字は同じく外面より来たるを表示す。六二は陰柔の質を以て下卦の中位に居り、処する所は正を得・行う所は中を守りて、すでに中正柔順の徳有れば、即ち胡乱に妄為せざらん。だから剛威はたとい降臨するも、亦非自らの招来するにあらざれば、それによって「震来」と説く。しかるに仍として危厲有るは、初九は全卦の下に在るの陽爻・震動の主爻にして、而も六二は陰柔の質を以て上面より其の頭上に凌駕するがゆえなり。「億」は十万此の数目、「貝」は上古に貨幣と作為せるの宝物、此処では泛しく財貨を指す。威震の時に当たりて却って震動の主の上面に乗れば、自身は便ち危険に処して、喪失する所の財貨も亦極めて多ければ、だから「億喪貝」と言うなり。

躋于九陵者,躋,升也;陵,險阻之地也;九陵言至髙也。不惟多有所喪失,而又超履髙險,升於九陵之上。然則雖有喪貝躋陵之事,然以本有中正柔順之德,不須馳逐追取,七日之間自然得之,言始雖有失而終有所得也。

いわゆる「躋于九陵」。「躋」は登る、「陵」は険阻の高地、「九陵」は高き極点に到れるを言うなり。六二は只だ多くを損失するのみならず、還要険阻高処を越過して・九重の山陵の上に登上せねばならず。たとい財貨を喪失し・高陵に攀登するこれらの遭遇有るも、但しそれは本より中正柔順の徳有れば、奔走追尋するに用いず、七天の内に自然に失して復得す――これは起初はたとい失う所有るも、最終に仍として得る所有るを言うなり。

六三:震蘇蘇,震行無眚。象曰:震蘇蘇,位不當也。

六三の爻辞にいう。雷震の下に驚懼不安なれども、但し震動の中に前行すれば災禍有ることなからん。《象伝》にいう。雷震の下に驚懼不安なるは、其の処する所の爻位は恰当ならざるがゆえなり。

義曰:蘇蘇者,震恐之貌。凡剛威之行,所以警其邪偽而戒其奸惡,故初九有剛明之徳,六二有中正之道,雖則威震之來非已所招,故曰震來。今此六三以陰居陽,履非其正而為髙亢者也,既履非正而又髙亢,則是邪惡之人也,其威震之來乃已所招,故不曰來。夫以不正之行當威震之時,故蘇蘇然恐懼之也。行無眚者,言六三雖以不中不正之行,而下巽於六二之柔,上奉於九四之剛,於理為順,故雖震威之行可以免其禍患,而災眚不及於己矣。

胡瑗が解説します。「蘇蘇」は震を受けて恐懼するのさまなり。剛威の施行は、本は以て邪僻虚偽を警醒し・奸険凶悪を懲戒するに用うるなり。初九は剛健明達の徳有り・六二は中正の道有りて、威震はたとい降臨するも、皆彼ら自らの招来するにあらず、だから爻辞は「震来」と説く。今、六三は陰爻を以て陽位に居りて、処する所は正に当たらず而又高亢自大す。すでに正に当たらず而又高亢なれば、則ちそれは邪悪の人にして、威震の来るはまさに彼自らの招致するなり、だから爻辞は「来」と説かず。不正の行為を以て威震の時に碰上れば、それによって乃ち驚懼不安なり。いわゆる「行无眚」は、六三はたとい行事はすでに中に居らず亦正に当たらずと雖も、但しそれは下に向かって柔順に六二の柔に随従し・上に向かってまた九四の剛に奉承して、情理の上に於いては順と算すれば、だからたとい震威の中に行動するも、亦能く禍患を免れ・災殃は自らに波及する能わざらんを言うなり。

九四:震遂泥。象曰:震遂泥,未光也。

九四の爻辞にいう。雷震は此処に到れば便ち泥淖に陥入して通達する能わず。《象伝》にいう。雷震は泥淖に陥るは、其の道は還有光大ならざるを言うなり。

義曰:泥者,泥滯不通之辭也。居人上者必當有剛威之徳,又有至正之道以安於下,則下之人相率而從之。今九四以剛陽之質為眾陰之主,居非其位,履失其正,雖有剛威,不能亨通於群下,以是而言,於己道未甚光大也。

胡瑗が解説します。「泥」は滞陥して通ぜざるの説法なり。人の上に居るは、必ず剛健威厳の徳有りて、また極正の道有りて来たりて下面の人を安定せしめて、下面の人は乃ち相継いで彼に跟从せん。今、九四は剛陽の質を以て众多の陰爻の主宰と為れるに、居る所は其の位に非ず・履む所は其の正を失す。たとい剛威有るも、却って能く众多の下属の中に於いて阻なく通行する能わず。このように照らして言えば、それは自らの道は還有十分の光大と談ずるに及ばざるなり。

六五:震往來厲,億無喪,有事。象曰:震往來厲,危行也;其事在中,大無喪也。

六五の爻辞にいう。雷震の中に、来去は皆危険有り。但し巨大の損失有ることなからず、還能く作為する所有らん。《象伝》にいう。来去は皆危険有るは、危難の中に行事するなり。其の弁ずる所の事は中道に合乎せば、だから大なる損失なし。

義曰:六五以陰柔之質為一卦之主,進則上無所應,退則下乗九四剛威之臣,往來之間皆有危厲。十萬曰億,言六二處下卦之中,亦乗於初九之剛,故居不得安而大有所喪,是以稱億喪貝。今六五為一卦之主,雖下乗九四之剛,然履得大中之位,行得大中之道,雖往來之間時有危厲,亦不能大有所喪也。

胡瑗が解説します。六五は陰柔の質を以て全卦の主爻と為りて、前に向かって進めば則ち上面に相応ずるの爻なく・後に向かって退けば則ち下面に九四此の位の剛威の臣を「乗」じて、来去の間は皆危険有り。「億」は十万なり。六二は下卦の中位に処して、同じく初九の剛爻の上に乗れば、故に居処は安んぜずして喪う所は甚だ多ければ、爻辞は乃ち「億喪貝」と説く。今、六五は身は一卦の主を為りて、たとい下に向かって九四の剛を乗ずるも、却って上卦の中位に踏み居りて・行うは中を守るの道なれば、だから来去の間はたとい時に危険有るも、亦大なる損失有るに至らざるなり。

有事者,夫當威震之世,下有剛權不正之臣,若専無為而治,則不足拯天下之難,救天下之弊,固當有為獨任以權天下可也。象曰震往來厲危行也者,言六五居至尊而乗剛,故往來之間皆危厲而行也。其事在中大無喪者,言處得其位,合於中道,雖興起大事,亦無所喪失也。

いわゆる「有事」。まさに威震動蕩の世に当たりて、下面に権柄を握持して正を守らざるの強臣有れば、若し一味に無為而治を主張せば、即ち天下の危難を拯救し・天下の積弊を革除するに足らず。此の時は本より応に作為する所有りて・独りで権柄を当りて以て天下の事を処置して乃ち可なり。《象伝》の「震往来厲、危行也」は、六五は身は至尊に居りて却って剛爻の上に乗れば、だから来去の間は皆危険の中に行事するなりと言うなり。「其事在中、大无喪也」と言うは、其の処する所の位置は当を得・中道に合乎せば、たとい大事を興弁するも、亦何の損失有ることなからんを言うなり。

上六:震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎。婚媾有言。象曰:震索索,中未得也;雖凶無咎,畏鄰戒也。

上六の爻辞にいう。雷震の下に心中は瑟瑟として発抖し・両眼は驚惶して四顧す。此の時に前往すれば凶険有り。雷震は自らの身上に打ち到らずして、而も隣近の人の身上に打ち到れば、それによって過咎なし、只だ婚姻親家の間は難免に閑話有るなり。《象伝》にいう。心中は瑟瑟として発抖するは、中位を得ざるがゆえなり。たとい凶険有るも過咎なきは、隣人の震を受くるを看て戒懼する所を知るがゆえなり。

義曰:索索者,中恐懼之謂也;矍矍者,視驚聳之貌也。上六以陰柔之質居威震之極,履不得大中之位,故當威剛之來,索索然恐懼,矍矍然驚聳也。征凶者,言居威震之極而又無大中之徳,則當固守常分,庶免凶咎,苟復有所往,是凶之道也。

胡瑗が解説します。「索索」は内心の恐懼、「矍矍」は眼神の驚惶聳動するのさまなり。上六は陰柔の質を以て威震の頂点に処し、踏む所も又中に居るの位にあらざれば、だから剛猛威勢の一来すれば、心裏は瑟瑟として発抖し・眼中は驚惶して四顧す。いわゆる「征凶」は、身は威震の極処に処して而又中を守るの徳なければ、即ち応に牢牢に自らの本分を守住して、乃ち凶咎を免去するの望有らんと言うなり。若し還要行動する所有れば、あれは便ち凶を招くの道なり。

震不于其躬于其鄰無咎者,夫九四為剛威之主而處上卦之下,上六居一卦之極而在無位之地,逺於九四,故九四之剛威不能及己之身。雖不及其身而及其鄰,謂五犯九四之剛,有往來之厲,則己能觀此鄰戒以自修省其身,整治其行,故得無咎也。

いわゆる「震不于其躬、于其鄰、无咎」。九四は剛威の主爻にして上卦の最下面に処し、上六は全卦の頂端に居りて・身は職位なきの地方に在りて、九四に離るるは甚だ逺ければ、だから九四の剛威は自らの身上に傷き到る能わざるなり。たとい自らに傷き到る能わざるも、却って隣近の爻に傷き到れり――六五が九四の剛を冒犯して・それによって来去皆危の厲有るを指す。上六は能く隣人の此の番の教訓を看て而自ら修省し・自らの行為を整飭せば、だから能く過咎なきなり。

婚媾有言者,上六處不得位,履不得中,雖婚媾至親之人,亦不能免讒間之言。象曰震索索中未得者,言上六所以索索然恐懼,以履不得中故也。雖凶無咎畏鄰戒者,言雖有凶而能免其咎,以其能觀戒於五而畏慎其所行,故咎可以免也。

いわゆる「婚媾有言」。上六は処する所は其の位に当たらず・踏む所も又中に居らざれば、たとい親を結ぶの至親の人なるも、亦讒毁離間の閑話を免れ難し。《象伝》の「震索索、中未得也」は、上六の瑟瑟として発抖するの所以は、まさにそれは中位に踏み到るなきがゆえなり。「雖凶无咎、畏鄰戒也」と言うは、たとい凶険有るも却能く過咎を免去するは、それは能く六五の身上より警戒を看て而己が行う所を謹慎するがゆえに、だから過咎は免除を得たるなり。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.

Hexagrams in this volume