兊下兊上
兌:亨,利貞。
《兌》卦の卦辞に曰く:喜悦の道は亨通し、正固を守るのに宜しい。《周易》の断卦には常に「元亨利貞」の四字を用いる。元は創始、亨は通達、利は合宜、貞は守正を指す。兌卦はその中の亨と利貞の二項のみを取る。
義曰:按《序卦》云「入而後說之,故受之以兊」。言人能以柔順之道入於人,則人皆說之,故次於巽。然謂之兌者,其象為澤,其性為悅,所以為天下說之之法也。然澤者,水之所聚而滋息萬物,以為生成之功,使之皆得滋養而說懌也。
胡瑗の解釈:《序卦伝》に「入って後にこれを説(よろこ)ぶ、故に兊をもってこれを受く」とある。人が柔順の道をもって人の心に入ることができれば、人は皆これを悦ぶ。故に《巽》に次ぐ。これを兌と謂うのは、その象が沢であり、その性が悦であるからで、まさに天下を悦ばせる法を示すものである。沢とは水の集まり、万物を滋息させて生成の功を成し、万物を皆滋養を得て悦怿(よろこ)ばしめるものである。
然不謂說而謂之兊者,蓋聖賢之人將欲感天下之心,必當以仁義之道、恩恵之事,固不可以言語口舌而為說,故去其言而為兊也。亨者,言聖賢發仁施恵,布徳澤以說天下之人,使天下之人皆感說之,故得其亨通也。
「説」と書かず「兊」とするのは、聖賢が天下の心を感動させようとするには、必ず仁義の道と恩恵の事をもってすべきであって、決して言語口説をもって悦ばせてはならないからである。故に「説」の言偏を去って「兊」とした。「亨」とは、聖賢が仁を発し恵を施し、徳沢を布いて天下の人を悦ばせ、天下の人を皆感悦させるから、亨通を得るのである。
利貞者,夫感說之道多失於邪,若小人之人止以淫聲媚色、雕牆峻宇、流連荒亡以說於心,巧言令色、柔佞邪諂以苟容於人,如此皆所以喪身敗徳,以至亡家失天下,是說非正然也。故聖賢之人施其感說之道皆本於至正,則無所不利也。
「利貞」とは:人を悦ばせる道はしばしば邪に失する。小人はただ淫声・媚色・雕牆峻宇・流連荒亡をもって心を悦ばせ、巧言令色・柔佞邪諂をもって人に容れられようとする。このようなものは皆身を喪い徳を敗り、家を亡ぼし天下を失うに至るものであって、この悦びは正しきにあらざるものである。故に聖賢の人が感悦の道を施すには皆至正を本とすれば、利あらざることなし。
彖曰:兌,說也。剛中而柔外,說以利貞,是以順乎天而應乎人。說以先民,民忘其勞;說以犯難,民忘其死。說之大,民勸矣哉!
《彖伝》に曰く:兌とは悦びである。剛が中に居り柔が外にあり、悦びの道をもって利貞とする。故に上は天に順い、下は人に応ずる。悦びをもって民に先んずれば、民はその労を忘れ、悦びをもって民を犯難(死難)せしめれば、民はその死を忘れる。悦びの功用が大きいゆえに、民は励まされるのである。
義曰:剛中而柔外說以利貞者,言此卦內二爻為剛,外爻為柔。言所以感說人者,當內有其剛,外示以柔。然而止有剛則至暴,而無以感說天下之心,故當外示之以柔。內既剛,外復柔,以此說人,則人皆說而歸之,是得其正而無所不利也。
胡瑗の解釈:「剛中而柔外、説以利貞」とは、この卦の各単卦において下の二爻が陽剛で、最上の一爻が陰柔であることをいう。人を感悦させる方法は、内に剛強の操守を有し、外に柔和の姿を現すべきである。もし剛強のみであれば、暴烈に失して天下の心を打つことができない。故に外は柔和を現さなければならない。内は剛強、外は柔和、この方式をもって人を感悦させれば、人々は皆心悦誠服して帰附し、これが正道を得て利あらざることなし。
是以順乎天而應乎人者,夫天之體之徳運動而不已,是至剛者也;及其降氣以生成萬物,則至柔而不失其柔也。人之情莫不好安逸而惡危亡,說仁義而懼鄙吝。今聖賢之人內有剛眀之徳而外示柔順之道,施其仁義,發其恩恵,以說於天下,是上能順乎天之心,而下能應乎人之情也。
「是以順乎天而応乎人」と言うのは:天の本体と徳性の運行は止まず、至って剛健である。それが気化を降らせて万物を生成するに及んでは、また極めて柔和で終始柔和を失わない。人の常情として、安逸を好んで危亡を悪み、仁義を好んで鄙陋吝嗇を惧れない者はない。いま聖賢は内に剛強明察の徳を具え、外に柔順の姿を現し、仁義を施行し恩恵を広く布いて天下を悦ばせる。これがすなわち上は天の意に順い、下は人の性情に応ずることである。
說以先民民忘其勞者,民之情皆欲安而惡勞,若聖賢之人將欲役使之,必當發其仁義恩恵感說之,則民從其役使而忘勞苦之心也。夫就死者,人之所難也,聖賢先能發仁義徳澤,然後使之冒犯大難,至於死地,則民亦說樂而從之,無有怨也。說之大民勸矣哉者,夫施說之道固非小小之事可以感懐天下之心,必須有仁義徳澤以遍施天下,使民雖從其勞役、犯其死難皆無怨心,況乎納之以善,教民固勸而說從之矣。
「説以先民、民忘其労」と言うのは:百姓の本性は皆安逸を欲して労苦を厭う。聖賢が彼らを役使しようとするには、必ず先に仁義恩恵を施行して感動・感悦させなければならない。そうすれば百姓は駆使に従って労苦を忘れる。死に赴くことは、さらに人が最も為し難いことである。聖賢は先に仁義徳沢を施し、その後に百姓を大難に冒させ死地に赴かせても、百姓は心から甘んじて従い、怨言を抱かない。「説之大、民勧矣哉」と言うのは:感悦の道を施行するには、もともと小さな恩恵だけでは天下の人心を打てない。必ず仁義徳沢を天下に遍く施し、百姓が労役を負い死難を冒しても怨恨の心を持たないようにしなければならない。まして善道をもって彼らを導けば、百姓は自らさらに奮勉して欣然と従う。
象曰:麗澤,兌。君子以朋友講習。
《象伝》に曰く:二つの沢が連なり潤し合う。これが《兌》卦の取象である。君子はこれに法って、朋友とともに学問を講論し切磋して習う。
義曰:上下二體皆兌,是二澤相麗也。夫水之聚於一澤之中,則能滋息萬物而使之皆得其說懌,而況二澤相麗,是其說之大者也。君子觀是象,凡施說之道必當施之於大而至於久遠。若小人惟以淺近為說,以快己之慾,然至於久逺則不能無厭倦之心,厭倦既生,至喪身亡家敗國失天下皆由於此。
胡瑗の解釈:上下二つの単卦が共に兌であって、まさに二つの沢が連なり相依る形である。水が一つの沢に集まっても、なお万物を滋養繁育し皆に潤沢を得させて悦ばせることができる。いわんや両沢が連なり互いに灌注すれば、その悦びはいよいよ宏大である。君子はこの卦象を観て、およそ取悦の道を施行するには、必ず大きな処に落とし、かつ長久に続けられなければならないと悟る。小人はただ浅近なものをもって楽しみとし、ただ一身の欲望を満たすことを求める。日が長くなれば、厭倦の心を生じないことはなく、厭倦が一旦生じれば、身を喪い家を亡ぼし国を敗り天下を失うこと皆これより生ずる。
故君子之人當說其大者,惟朋友講習。蓋朋友之道同心同徳,其志氣相契,所講者聖人之道徳,所習者聖賢之事業,日聞其所不聞,日見其所不見,使道徳事業愈久而愈新,皆無其厭倦之心,是為說之道莫重於此也。
故に君子は宏大な事をもって楽しみとすべきであり、それは朋友とともに講論・演習することである。朋友の道は同心同徳・志趣相投を貴びとする。講論するのは聖人の道徳であり、研習するのは聖賢の事業である。日々に未だ聞かざる道理を聞き、日々に未だ見ざる事理を見て、道徳学問と事業をいよいよ久しくいよいよ新しくし、それによって終始厭倦の心を生じない。これを見れば取悦の道は、これより重きものはない。
初九:和兌,吉。象曰:和兊之吉,行未疑也。
初九の爻辞に曰く:中和の道をもって人を悦ばせる。吉。《象伝》に曰く:和悦して吉を得るのは、その行いに疑わしきところがないからである。
義曰:和謂中和也。夫兌者,西方之卦也,以四時言之則為秋,秋所以成萬物,萬物皆說而成也。君子之人在上,以義制天下之民,使之感說而歸之,故當廣發其中和之教,所應不繫於一,無心於物而使之自然感說而從之,則不失其兌之義也。
胡瑗の解釈:「和」とは中正平和を指す。兌は八卦の方位において西方の卦に属し、四季に配すれば秋である。秋は万物成熟の季節で、万物は皆欣然として成就する。君子が上位に居り、道義をもって天下の百姓を節制し、彼らを心悦誠服させて帰附させる。故に中正平和の教化を広く推行し、照応する所はある一人に偏り係らず、外物に私心を存せず、百姓をして自ずから喜悦・柔順せしめる。これこそ兌卦の本義を失わない道である。
今初九居兌之始,是能剛中而柔外以施其說也。何則?蓋以其有剛明之才,故曰剛中;體夫兌說,故曰柔外。夫內既剛,外又柔,是能以中和之道說天下之人,心無所繫,故得天下之歡心而獲其吉者也。象曰和兌之吉行未疑也者,初九能以中和之道,上不繫應而行不在私,故以此而施說於人,則人皆說而從之,復何所疑哉?
いま初九は兌卦の開端に処し、まさに内剛外柔をもって感悦の道を施行できる。何をもってそう言うか。それは剛強明察の才干を有するから「剛在內」と称し、また兌卦喜悦の性情を禀るから「柔在外」と称する。内は剛強、外は柔和であれば、中正平和の道をもって天下の人を悦ばせることができ、心中に私情を掛けない。それによって天下の人の歓心を得て吉祥を獲る。《象伝》の「和兌之吉、行未疑也」は、初九が中和の道をもって行い、上は応爻に係らず、行いも私心より出ず、この態度をもって人を感悦させれば、人人は皆これを喜び従う。何の疑うべきことがあろうか。
九二:孚兌,吉,悔亡。象曰:孚兌之吉,信志也。
九二の爻辞に曰く:誠信をもって人を悦ばせる。吉。悔恨は消える。《象伝》に曰く:誠信をもって人に悦ばれ吉を得るのは、その心志が真実に信じられるからである。
義曰:此爻以陽居陰,履非其正,本有悔者也。然以剛居中,是其有至信發之於中而施說於人,不為邪僻,不為非妄,使天下之人皆必信之,以至歡心而歸一,獲其吉,是得其所以為說之道,悔遂亡矣。象曰孚兌之吉信志也者,能以由中之信發於己之志而施說於天下,天下之人莫不說而歸之。
胡瑗の解釈:この爻は陽爻をもって陰位に居り、処する所が正に合わないから、本来悔恨がある。しかし陽剛をもって下卦の中位に居り、心の内より発する至誠信実があることを示す。この誠信をもって人を感悦させ、邪僻をせず妄行をなさず、天下の人を必ず彼を信じるに至らしめ、衆人が斉しく歓悦して帰附するに至り、よって吉祥を獲る。これが人に悦ばれる正道を掌握したのであり、悔恨はここに消える。《象伝》の「孚兌之吉、信志也」は、心の内より発する誠信を己の志向と化し、もって天下を感悦させれば、天下の人は悦ばずして帰附せざる者なし、ということである。
六三:來兌,凶。象曰:來兌之凶,位不當也。
六三の爻辞に曰く:自ら門に来て人に喜ばれようとする。凶。《象伝》に曰く:来て悦を求めて凶となるのは、処する位次が当たらないからである。
義曰:夫感說之道,必須至公至正,無所偏繫,使天下之人自然而說之則可也,固不可以言語口舌柔邪以苟取於人而求其說。今六三當施說之世,以陰居陽,又在一卦之上,是履不得中,行不得正,以不中不正之道,是欲以柔邪諂佞、姑息苟且以來天下之說。雖天下之民一時歡心而說從之,終無其道以久說斯民,以是施說,非凶而何?
胡瑗の解釈:感悦の道は必ず極めて公平・極めて端正で、いずれか一方に偏袒・依附せず、天下の人に自ずから喜悦せしめてこそ行い得る。決して口舌言辞・柔媚邪佞をもって人に媚び、強いて人の歓心を換えてはならない。いま六三は感悦を施行する時代に身を処しながら、陰爻をもって陽位に居り、また下卦の頂端に処する。処する所は中位にあらず、行いも正道に合わない。このような中にも正にもあらざる路数をもって、柔媚諂佞・姑息苟且によって天下の人の喜びを招こうとする。たとえ天下の百姓が一時喜んで従っても、ついには長く百姓を悦ばせうる正道を持たない。この方式をもって感悦を施行して、凶ならずして何であろう。
九四:商兌未寧,介疾有喜。象曰:九四之喜,有慶也。
九四の爻辞に曰く:人に悦ばれるべきか否かを反復して權衡し、心が安らかでない。為害する者を隔絶できれば、喜慶がある。《象伝》に曰く:九四に喜ある所以は、この事が慶賀に値するからである。
義曰:商謂商議裁制也;寧,安也;介,隔也;疾謂六三也。九四以剛明之資居上卦之下,切近九五之君,是居得大位與持重權者也。既為權位之臣,則邪媚之人皆欲以甘言巧語、柔佞之道以苟說於己,將以希進用之地。然小人之徒止欲榮進一身而已,若使進而有位,則上必為害於君,下必為害於民,君民之間皆被其疾害。
胡瑗の解釈:「商」は商議裁断の意、「寧」は安、「介」は隔絶、「疾」は六三を指す。九四は剛強明察の資質をもって上卦の最下に居り、九五の君に緊接し、要職に居り重権を握る大臣である。権を掌る重臣たる以上、邪佞諂媚の人は皆甜言巧語・柔媚奉承の手段をもって彼に媚び、これによって晋身の路を得ようとする。しかし小人の輩はただ一身の栄顕を求めるのみで、一旦進用せしめて位を得れば、上は必ず君主を害し、下は必ず百姓を禍し、君と民の両頭が皆彼らの毒害を受ける。
是則九四既有權位,人求說已,及已之說人,皆當商議裁制其所說之義,則不失其正。然既商議裁制,則旦夕憂慮,常恐小人之進,故未能斯須遑安也。介疾有喜者,六三既以柔邪欲說於己,欲圖進其身,苟進之則為君民之害矣,故九四則當施剛眀之徳以裁制而介隔杜絶之。
それゆえ九四はすでに権位に居る以上、他人が来て媚びるにせよ、自ら人を悦ばせるにせよ、皆その中の分寸を仔細に權衡裁断しなければならず、そうして初めて正道を失わない。しかし常に權衡裁断せねばならぬ以上、早晚憂心し、常に小人が入り込むことを怕れて、片時も安閑を得ない。「介疾有喜」と言うのは:六三は柔媚邪佞をもって彼に媚び、己を抬挙せんことを図っている。一旦六三を上らせれば、君と民の禍害となる。故に九四は剛強明察の徳を発して裁断し、六三を隔て、塞ぎ止めるべきである。
既能介隔六三之小人,則天下之賢者得以進,天下之民皆得其安,上以致國於太平,下以納民於富壽之域,是有其喜慶者也。象曰九四之喜有慶也者,九四所以有喜者,葢由能介隔六三諂佞之小人使不得進,所以杜君民之害,使賢者得路以施仁義於天下,獲其福慶之事也。
すでに六三のごとき小人を外に隔絶できれば、天下の賢才は進用を得、天下の百姓も皆安居し、上は国家を太平に致し、下は百姓を富寿の境地に入らしめる。これがすなわち慶幸に値する喜事である。《象伝》の「九四之喜、有慶也」は、九四に喜ある所以は、六三この諂佞小人を隔絶して進用せしめず、もって君民を危害する禍根を塞ぎ、賢者に行くべき路を通じ、仁義を天下に施行するから、この福慶を獲るのである。
九五:孚于剝,有厲。象曰:孚于剝,位正當也。
九五の爻辞に曰く:剥奪侵害を専らとする者に信任を委ねれば、危険がある。《象伝》に曰く:剥害の人を信任して危険があるのは、九五の処する位置がまさにその責に当たるからである。
義曰:孚,信也;剝,刻也。夫聖賢之人皆以仁義為先,若使之進於有位,則上可以致君於無過之地,下可以躋民於富壽之域,使天下罔有一民一物不得其所而不被其福慶也,此聖賢之所用心也。小人則不然,外以柔邪諂佞,內以貪殘狠毒為心,若使之見用,於上必為亂於君,於下必為害於民,以至天下皆被其剝刻。
胡瑗の解釈:「孚」は信任、「剥」は剥削苛刻である。聖賢の人は一律に仁義を首位に置く。もし彼らを進用して位を得せれば、上は君主を過失なき境地に処らせ、下は百姓を富寿の境地に登らせ、天下に一人の百姓・一件の事物も安頓を得ず福沢を享けざることなからしめる。これがまさに聖賢の用心である。小人はそうではない。外は柔媚諂佞、内は貪婪残忍狠毒。一旦任用されれば、上は必ず君主を撹乱し、下は必ず百姓を禍し、天下の人を皆その盤剥苛待を受けしめるに至る。
然則為天下者欲治於民,莫若以至誠委任天下之賢,使推其仁義之心以布澤流恵,則天下不勞而治矣。今九五以剛明中正之徳居至尊之位,為兌之主,是有可致之資。既有其資,則當信任其賢明有徳之人以輔助於己,故天下皆被其賜矣。
これを観れば、天下を治める者が百姓を治めようとする最善の法は、至誠の心をもって天下の賢才に委任し、彼らに仁義の心を推广させ、恩沢を布施せしめることに過ぎない。そうすれば天下は力を費やさずして治まる。いま九五は剛強明察・中正不偏の徳行をもって至尊の位に居り、兌卦の主爻であって、治世を成就する資質を具えている。すでにこのような資質があるからには、賢明有徳の人を信任して自らを輔佐せしめ、天下の人才に皆その恩賜を蒙らしめるべきである。
且五雖本應於九二,九二有剛正之徳,而已不能盡柔巽以任用之,反比於上六邪佞不正之臣,是所信者剝刻之小人也。既信剝刻之小人,則賢者退而朝廷昏亂,紀綱廢弛,以至害於國而及乎天下,是其危厲之甚也。象曰孚于剝位正當也者,此聖人戒之之辭也,言九五居可致之位,操可致之資,反委任上六柔邪之小人以剝刻君子,自取危厲,故於此切戒之,責於五也。
しかも九五は本来九二と相応ずる。九二は剛強端正の徳行を具えるが、九五は自ら姿態を低くして彼を任用せず、かえって緊隣する上六と親しい。上六は邪佞不正の臣であって、彼の信任する所はまさにあの盤剥苛刻の小人であることが見て取れる。すでに盤剥苛刻の小人を信任すれば、賢者は退隠して朝廷は昏乱し、綱紀法度は鬆弛敗壊し、国家を禍して天下に波及するに至る。危険は実に甚だしい。《象伝》の「孚于剥、位正当也」は、これは聖人の告誡の言である。九五は治世を成就し得る位置に居り、治世を成就し得る資質を握りながら、かえって上六のような柔媚邪僻の小人を委任して君子を剥害せしむる。これは自ら危険を招くに等しい。故にここに厳しく告誡し、責任を九五の身に帰する。
上六:引兌。象曰:上六引兊,未光也。
上六の爻辞に曰く:衆人を牽引して来て己に喜ばせる。《象伝》に曰く:上六がひたすら牽引して悦を求めるのは、その道が光大でないからである。
義曰:引者,牽引之辭也。言上六以陰柔居一卦之極,當無位之地,故欲以柔邪不正之道苟且以牽引天下之民,欲使盡歸說於已。象曰上六引兌未光也者,夫施說之道一失其正,則皆為私邪而不可行,況其以柔佞欲苟說於人乎?今上六既然,故雖得人之說,其道亦未足為光大也。
胡瑗の解釈:「引」は牽引拉攏の意。上六は陰柔の質をもって全卦の頂端に処し、ちょうど職位なき所に当たる。故に柔媚邪僻の不正の道をもって苟且に天下の百姓を拉攏し、皆帰附して己を喜ばせようとする。《象伝》の「上六引兌、未光也」:感悦の道を施行するに、一旦純正を失えば、皆私心邪念に淪して行い通せない。いわんや柔媚諂佞をもって強いて人の歓心を討うをや。いま上六はまさにこのような者であるから、たとえ一時人の喜びを得ても、その道は光明博大と言うに足らない。
坎下巽上
渙:亨。王假有廟,利涉大川,利貞。
《渙》卦:亨通。君王が自ら宗廟に臨んで祖先を祭祀する。大河を渡るに宜しく、正道を守持するに宜しい。「假」はここでは到達・親臨の意。「利渉大川」は《周易》に常用される断語で、険難を冒して大事を成就し得ることを喩える。「貞」は正を守り移らないことを指す。
義曰:按《序卦》云「說而後散之,故受之以渙」。渙,散也,離也,釋也。言人樂極則憂,歡極則悲,歡樂之極,久而不已,以至離散,故渙次於兌。然渙者,是人心睽離、上下違散之謂也。亨者,言上下所以渙散,故民所以睽離,蓋由道有所壅塞,志有所不通,是以渙散。故君子當此之時,必以權變之術、剛眀之徳,釋去民之險難,以和眾情,以導眾志,使皆得萃聚而至於亨通,故曰渙亨也。
胡瑗の釈義:《序卦伝》に曰く、人心はまず喜悦があり、喜悦が極に至れば転じて渙散となる。故に《兌》卦の後に《渙》卦が続く。「渙」の字は三層の意を含む:散開、分離、解除。人情は常に楽しみ極まれば憂を生じ、歓び極まれば悲を生ず。歓楽が久しく続き収斂を知らなければ、ついに必ず離散に向かう。故に《渙》卦は《兌》卦の後に列する。ただしこの卦の言う渙散は、特に人心が互いに猜忌背離し、上下君臣が互いに違逆して散乱する局面を指す。卦辞の「亨」は補救に就いて言うのである:上下の渙散・百姓の相互背離の所以は、政令道路が壅塞し、上下の心志が相通じないことに根源がある。故に君子はこのような時に処して、必ず通権達変の手段を運用し、剛強明断の徳行に憑って、百姓のために険阻危難を解除し、衆人の情緒を調和し、衆人の意志を疏導して、渙散の人心を再び聚めて、ついに亨通に向かわせる。故に卦辞に「渙、亨」と言う。
王假有廟者,言人精氣體魄,萃則生,散則死。精氣散之於天則為神,體魄歸之於地則為鬼,冥然倀倀然,幽邈而不知所之。為人子者,思欲追念其容貌,竭心以奉養,雖有悽愴之懐,不可得而見之。故先王因此渙散之義,思欲萃聚其親之神靈,故假立其廟,以狀先祖之容貌。於是四時追感,設為祭祀之禮以薦享之,所以表追念悽愴之心。而又燔燎羶薌以達諸陽,酌鬱鬯芬香之酒沃之於地以達諸陰,所以盡孝子思親之志,教天下追思奉先之道也。
卦辞の「王假有廟」は、人の生死聚散から説き起こす。人の身の精気と形体は、聚合すればすなわち生、離散すればすなわち死。精気は升散して天に至り神となり、形体骨肉は帰蔵して地下に入り鬼となる。一片の幽冥恍惚・茫然依り処なしであって、深遠にして何処へ往ったか知れない。子女として父母の音容笑貌を追念し、心力を竭くして彼らを奉養したいと思っても、たとえ凄涼悲愴の情を満腔に抱いても、再び親人に見ることはできない。故に古代の聖王はこの層の渙散の理に就いて、すでに散去した親の神霊を再び聚めようと欲し、ここに宗廟を建立し、廟貌をもって先祖の形容を模擬した。一年四季、時令に随って追慕の感を生じ、祭祀の礼儀を制定して供奉を進献し、これによってその追念の凄愴の心を表する。祭祀の時にはまた牲脂を焚いて香気を上騰させ、陽に属する神を感通し、欝金香草を掺した鬯酒を斟んで地に灌ぎ、芬芳を下渗させて、陰に属する魄を感通する。このようにして、孝子の両親を思念する心愿を尽くすとともに、天下の人に祖先を追思し先人を奉事する道理を教えもするのである。
利涉大川者,大川險阻之謂也。夫渙散之時,民心違離,上下相戾,必不能涉其大川。是故聖賢君子必起而濟之,雖甚大險,必往救其生靈,不可懼其患難。是利在涉此大川,以拯天下渙散,使皆萃聚,不至離散而各得其濟也。所以能然者,蓋巽體屬木,涉於川而無沉溺之患,故古之聖人刳木為舟,剡木為楫,舟楫之利以濟不通,是巽木能涉於水也。猶聖人有才智而又有剛健之徳,能拯民之患難,無有不濟者也。利貞者,言離散之時,不以正道而拯濟之,則人心愈肆,而邪僻之事從而至矣。故聖賢之人當此之際,利守正道,則可萃天下之民也。
卦辞の「利渉大川」。「大川」は険阻艱難の代称である。人心が渙散するとき、百姓は互いに背離し、上下は彼此抵触し、本来この大河を渡り得ない。まさにこのが故に、聖賢君子は必ず挺身して出て救済しなければならない。たとえ険難が極めて大きくとも、必ず往きて蒼生を拯救し、事を怕れて退縮してはならない。故に利はまさに敢えてこの大河を渡ることに在る――これをもって天下の渙散を挽救し、離散の人心を再び聚合せしめ、四分五裂に至らず、人人皆救助を得せしめる。このようにできた所以は、本卦の上体が巽であり、巽は五行において木に属し、木は水上に浮かんで沉溺しないからである。故に上古の聖人は整木を刳り空にして船を作り、木を削って楫を作り、舟楫の利に憑って本来到り得ぬ所を溝通した。これがまさに巽木が水に行くを得る取象である。これは聖人が才智を有し、また剛強篤実の徳行を有し、百姓の患難を拯救して救い得ざるなきことを喩える。卦辞にまた「利貞」と言う:人心離散の際、もし正道をもって救わなければ、百姓はただいよいよ放縱となり、邪僻不正の事がこれに随って来る。故に聖賢はこのような時に、利は正道を守るに在り、ただこのようにしてのみ天下の百姓を再び聚め得る。
彖曰:渙,亨,剛來而不窮,柔得位乎外而上同。王假有廟,王乃在中也。利涉大川,乗木有功也。
《彖伝》に曰く:《渙》卦が亨通する所以は、剛爻が来て下卦の中に居り困窮に陥らず、柔爻が外卦で正当の位置を得、かつ上の九五と同心だからである。「王假有廟」とは、君王の心がまさに中道に在ることを言う。「利渉大川」とは、木船に乗って前行して初めて功効を建て得ることを言う。
義曰:剛來而不窮者,此言九二有剛陽之徳,來居坎險之中,而上無所應,然已有剛眀之才,終不陷身於窮困也。柔得位乎外而上同者,此言六四以陰居陰,居得其正,而在上卦之下,是位乎外也。既居外卦之下,下無其應,然上比九五之君,九五亦無應,故與之志合而相得,同心戮力,上與五同渙散天下之難,萃聚天下之民而濟之也。
胡瑗の釈義:「剛来而不窮」とは、九二のこの爻を指す。九二は剛健陽明の徳性を具え、下卦坎険の正中に来て、上には相応ずる爻がない――《周易》において初と四、二と五、三と上の陰陽相対を「応」と言う。しかしそれ自身に剛強明断の才があり、ついに己を困窮に陥れることはない。「柔得位乎外而上同」とは、六四を指す。六四は陰爻をもって陰位に居り、処する所得正し、また上卦の最下の一爻にある。故に「位乎外」と言う。それは外卦の下に居り、下には相応ずる爻がないが、上は九五の君に緊接する――この種の相隣相亲を「比」と言う――そして九五も同様に応なく、ここに君臣の心志が相合し彼此投契し、同心合力して、ともに天下の危難を渙解し天下の百姓を聚合してこれを救済に往く。
王假有廟王乃在中也者,言人體魄既散,幽陰而難見,是故王者假立此廟,以萃其容貌,四時祭祀,以表悽愴之心。然而立其廟宇,設其祭祀,追思念舊,不可以瀆,不可以疏,是王者教人之孝,亦在中道者也。利涉大川乗木有功也者,言川者水之聚,濟之以舟楫。今下體坎,坎為水,故為川;上體巽為木,故為舟。繫辭曰:刳木為舟,剡木為楫。是唯舟楫為能利涉大川。猶聖賢當此渙散之時,必須冒涉險難,使渙散者皆萃聚之,故往則有功也。
「王假有廟、王乃在中也」のこの一句は、人は死ねば形体骨肉はすでに散去し、幽隠にして見難い。故に君王は宗廟を建立し、先祖の容貌を廟貌の中に聚め、四時節に按じて祭祀し、もって追思の悲愴の情を表する。しかし廟宇を立て祭祀を設け故旧を追念するこの事は、過度に頻繁にして褻瀆に流れてもならず、過度に稀疏にして冷淡に近くなってもならない。君王が天下の人を教えて孝を行わせるも、同様に不偏不倚の「中道」に落とさねばならない。「利渉大川、乗木有功也」のこの一句は、河川は水の汇聚して成るもので、これを渡るには船と楫に頼らねばならない。此卦の下体は坎、坎の取象は水。故に「川」と言う。上体は巽、巽の取象は木。木は以て船を造り得る。故に「舟」と言う。《繋辞伝》の「刳木為舟、剡木為楫」は、まさに船楫のみが順利に大河を渡り得ることを説明する。これは聖賢が人心渙散の時に処して、必ず風険を冒してこの険難を渉り、離散の人心を再び聚合せしめるゆえに、一往して前進すれば功効を建て得ることを喩える。
象曰:風行水上,渙。先王以享于帝立廟。
《大象伝》に曰く:風が水面の上を行き吹けば、水波はこれに随って四散する。これが《渙》卦の取象である。先王はこの卦象に法って、祭天の礼をもって上帝を奉享し、かつ宗廟を建立して祖先を祭祀した。
義曰:夫風行水上,渙然而散,是得渙之象也。帝即天帝也。以形言之謂之天,以氣言之謂之陰陽,以主宰言之謂之帝。言先王當此渙散之時,設其郊祀,備其物儀,薦享於天地,以報成功也。立廟者,言萃聚先祖之精神,立為廟貌,四時祭之,以表悽愴之心,奉先之道也。
胡瑗の釈義:風が水面上を行けば、水は渙然として散開する。これがまさに《渙》卦の卦象に合う。「帝」とはすなわち天帝である:形体より言えばこれを天と言い、気化より言えばこれを陰陽と言い、万物を主宰するこの一面より言えばこれを帝と言う。ここでは先王が人心渙散の時に処して、郊外祭天の大典を挙行し、祭品儀節を備斉し、天地に供奉を進献し、もって天地の万物を成就する功に報いることを言う。「立廟」に至っては、先祖の精神を聚め、廟貌の像を立て、四時節に按じて祭祀し、もってその凄愴の追思の情を表することを言う。これがすなわち先人を奉事する正道である。
初六:用拯馬壯,吉。象曰:初六之吉,順也。
初六:拯救に用いる馬が強壮有力。吉祥。《小象伝》に曰く:初六が吉祥なる所以は、柔順をもって行事し得るからである。
義曰:夫渙散之時,人民既違散,上下既乖離,救之緩則情偽交作,奸邪並起,無所不至,事難濟矣。今此初六以陰柔之質,居一卦之下,又在渙散之始,是往而拯之不可後時,固當用剛壯之馬,急於解民之難,使得萃而不散,吉之道也。象曰初六之吉順也者,言當此渙散之時,固不可以剛暴拯濟之,苟尚剛暴,則民愈怨而心愈離。今初九既以陰柔居於卦下,而復在事初,能執柔順之道以拯濟之,故得其吉也。
胡瑗の釈義:人心渙散の時、百姓はすでに離散し、上下はすでに乖違している。救援が一たび遅れれば、真情仮意は皆出て来て、奸邪の徒が紛紛と興起し、何事も為し出し、局面は収拾し難くなる。初六は陰柔の資質をもって全卦の最下の一位に居り、また渙散がちょうど開始する際に正当する。見れば往きて救助するに決して時機を失ってはならず、強壮の馬匹を駆使して、前に先んじて百姓の危難を解除し、人心を聚合を得て四散に至らしめざるを理とする。これがすなわち吉を獲る道である。《小象伝》の「初六之吉、順也」は、渙散の際には本来剛猛暴烈の手段をもって救うことができない。一旦剛暴を崇尚すれば、百姓はただいよいよ怨恨を増し、人心はいよいよ遠く離れる。いまこの爻は陰柔の質をもって全卦の下に居り、また事情の開端に処し、柔順の道を守って救助を施行し得る。故に吉祥を得る。
九二:渙奔其機,悔亡。象曰:渙奔其機,得願也。
九二:渙散の中において、憑倚すべき几案の旁に奔赴する。悔恨消える。《小象伝》に曰く:その倚靠すべき処に奔赴するのは、心中の願望を遂げたからである。
義曰:機者,人所倚憑,謂初六也。此九二當渙散之時,以陽居陰,失正者也;上又無應,是無同心同徳合契之人也。既無合契之人,居又失正,是有悔者也。然而初亦無應,能知事始,用拯濟之馬以救天下之渙。今二若能奔從於初,則是得其所憑倚之地也。既得其所憑倚,則可以同謀合慮,以拯當時之難,使天下得其萃聚;天下既以萃聚,則其悔得以亡矣。象曰渙奔其機得願也者,言二當渙散之時,上無其應,道不得行,志不得伸,其身不能有所濟。既能奔從於初,與之共謀為慮,同心協志而有所憑依,則是得中心之所願也。
胡瑗の釈義:「机」は人の倚靠する几案で、ここでは初六を指す。九二は渙散の時に処し、陽爻をもって陰位に居り、失正に属する。上には相応ずる爻がなく、身辺に同心同徳・意気相投の人がないに等しい。投契の人なく、処する所も位に当たらなければ、本来悔恨があるべきである。しかし初六も同様に応なく、事情が剛く起頭する時に手を動かし、強壮の馬を駆使して天下の渙散を救うことを知る。九二がもし初六に奔りてこれと相就けば、すなわち憑倚すべき落脚の処を得たに等しい。この依靠があれば、両爻は便ち共同に謀劃し合力思慮して、当面の危難を救い、天下の人心を再び聚合せしめ得る。人心一たび聚まれば、その悔恨は自ずから消える。《小象伝》の「渙奔其机、得願也」は、九二が渙散の時に処して、上に相応ずる爻なく、主張は推行せず、志向は伸展せず、己一己の力に憑って何も救い得ない。初六に奔ってこれと相就き、両爻が一同に謀劃思慮し、同心協力して依靠を有すれば、これこそその心中真の願望を遂げたと言うべきである。
六三:渙其躬,無悔。象曰:渙其躬,志在外也。
六三:自身の禍患を渙解する。悔恨なし。《小象伝》に曰く:その自身を渙解するのは、その心志が外卦の上九の身に係るからである。
義曰:夫有才者或無位,有位者或無才,或位崇而徳薄,志大而位小,皆不足以有為也。今六三以陰居陽,履非其正,當渙散之時,其徳不能安天下之眾,其才不能釋天下之難,在險之終,有悔者也。然而上有上九居一卦之極,有剛眀之才,以己為正應。既以己為正應,是以不能固其所守,往從於上。然雖不能大濟天下之事,亦可以釋一身之患而無悔吝也。象曰渙其躬志在外也者,言三雖居非其位,而得上九為之正應,往以從之,思展其志於天下國家也。
胡瑗の釈義:世の中には才干ある人が往々に地位なく、地位ある人が往々に才干ない。職位甚だ高くして徳行浅薄な者、志向甚だ大きくして職位甚だ低き者もあり、これらは皆作為するに足らない。六三は陰爻をもって陽位に居り、処する所正ならず。この渙散の時に当たり、その徳行は天下の衆人を安定せず、その才能は天下の危難を解除せず、しかも坎険の末尾に身を処す。本来悔恨あるべきである。しかし上九は全卦の頂端に居り、剛強明断の才を具え、また六三を正応とする。まさに上にこのような一つの正応があるが故に、六三は己の本位を守り得ず、便ち往きて上九に追随する。このようになれば、それは天下を救済する大事を成就し得ないといえども、自身の禍患を解除して悔恨遺憾なきに足る。《小象伝》の「渙其躬、志在外也」は、六三は居る所の位が正当でないといえども、上九がその正応としてあり、ここに往きて追随し、上九を藉りて抱負を天下国家に施展せんことを指望する。
六四:渙其群,元吉。渙有丘,匪夷所思。象曰:渙其群元吉,光大也。
六四:結党の羣を渙解する。大いに吉祥。渙散の中において、高低不平の土丘に身を置くが如く、それは尋常の人の設想し得る所ではない。《小象伝》に曰く:朋党を渙解して大吉なるのは、その徳行が光明盛大だからである。
義曰:群,眾也。天下之渙起於眾心乖離,人自為群。六四上承九五,當濟渙之任,而居陰得正,下無私應,是大臣秉大公之道以濟天下之渙,且又得君以行其志。內掌國之機務,外宣君之徳意,使天下之黨盡散,則天下之危以濟,天下之難以解,天下之心不至於乖離而皆得以萃聚,上下悉有所歸。有此之功,故得盡善元大之吉也。
胡瑗の釈義:「羣」とはすなわち衆。天下の渙散する所以は、人心の乖違背離・各自党派を結成することに起こる。六四は下において九五の君を承奉し――下爻が上爻を托挙するを「承」と言い、上爻が下爻を圧臨するを「乗」と言う――渙散を救治する責任を担い、また陰爻をもって陰位に居りて正を得、下に偏私の相応ずる爻がない。これがまさに大臣が大公の道を秉持して天下の渙散を救い、しかも上に君主の信任を得て、己の主張を推行し得るものである。それは内に国家の機要政務を掌り、外に君主の徳意を宣布し、天下の朋党を全部散解せしめる。このようになれば天下の危局は救済を得、天下の患難は化解を得、人心は再び乖離せずして聚合し、上上下下皆帰属を有する。このような功労があるから、尽善至大の吉祥を得る。
渙有丘匪夷所思者,夫為人臣者當尊其君,為人子者當尊其父,然後君父臣子之道正矣。丘者,臲卼不平之地。今六四上奉九五之君,下為百官之長,當天下渙散乖離之際,其承君之命令,宣君之徳澤,以釋天下之難,一責於己,是其權既重,其職匪易,故六四常終日乾乾,終夜惕惕,竭其臣節,能自臲卼,不敢少安,而亦未嘗敢平其思慮也。象曰渙其群元吉光大也者,言渙散之時,上下乖離,六四獨能執柔順之道以事其君,使天下之眾不至離散,如是於臣子之道,得其光明盛大者也。
「渙有丘、匪夷所思」のこの一句:臣子たる者は君主を尊奉すべく、子女たる者は父親を尊奉すべく、君父臣子の間の名分が初めて正しく置かれる。「丘」は高低不平にして人をして立足安穩ならしめざる処である。六四は上に九五の君を奉事し、下に百官の長たりて身を為し、ちょうど天下渙散乖離の際に当たり、君主の命令を承接し、君主の恩沢を宣布し、天下の危難を化解すること、皆がその一人の身に圧される。権柄既に重く、職任また難し。故に六四は整日整日勤勉不懈、整夜整夜警惕不安にして、人臣の節操を尽くし、己を始終その安穩ならざる状態に処らしむるを寧うし、一刻の苟安を敢えてせず、また心を平に放つを敢えてしない。《小象伝》の「渙其羣元吉、光大也」は、人心渙散・上下乖離の時に、唯独り六四のみが柔順の道を守って君主に事奉し、天下の衆人を離散に至らしめない。こうすれば、臣を為し子を為す分際において、光明にして盛大を成し遂げたと言う。
九五:渙汗其大號,渙王居,無咎。象曰:王居無咎,正位也。
九五:汗を発するが如く重大の号令を発布し、渙散の中において君王はその位に安居する。過ちなし。《小象伝》に曰く:君王がその位に安居して過ちなきは、処する所の位置が端正だからである。
義曰:汗者,膚腠之所出,出則宣人之壅滯,愈人之疾,然且一出而不可反。猶上有教令,釋天下之難,使天下各得其所者。今此九五居至尊之位,為渙散之主,居得其正,履得其中,能出其號令,布其徳澤,宣天下壅滯,發天下湮鬱,使一令之出而不復反,一號之施而不復更,善者賞之,惡者罰之,使天下之人皆信於上,咸有所歸,是如汗之不反者也。
胡瑗の釈義:汗は皮膚の纹理の中より透け出て、一たび汗が出れば人身の壅塞が疏通し、病もこれに随って痊愈する。しかも汗は一旦発せられれば收回を得ない。これはまさに君上が教令を頒下し、天下のために危難を化解し、人人を各々その所を得せしめるに譬ゆ。九五は至尊の位に居り、渙散の局を主持する者であって、居る所の位は端正、行う所は「中」に合う。すなわち上卦の中に処りて過不及なし。それは号令を発布し恩沢を施布し、天下の壅塞を疏通し、天下の鬱結を抒解し得る。一道の命令を発すれば再び收回せず、一次の号召を施行すれば再び更改せず、善は賞を加え、悪は罰を加え、天下の人を皆君上に信服せしめ、人人帰属あるが如くする。これは汗が出て返らざるが如し。
渙王居無咎者,言九五既居尊位,為渙散之主,當是時上能自正其位,下能任六四之臣,宣號令,布徳澤,釋天下之大難,正天下之廣居,輔王者之尊位,使天下之人皆知上有眀君,下有賢臣,無渙散之難,民得安堵,天下合洽,則九五之君所以居位而無悔咎矣。象曰王居無咎正位也者,言九五居至尊之位,任賢明之臣,萃天下之民而免悔者,由所居之得正故也。
「渙王居、无咎」のこの一句は、九五はすでに尊位に居り渙散を救治する主人となった以上、この時それは上に己の位分を端正し、下に六四のような臣子を任用し得る。六四によりて号令を宣布し恩沢を施布せしめ、天下の大難を化解し、天下この广厦を正し、君王の尊位を輔助する。このようになれば、天下の人は皆上に明君・下に賢臣あることを知り、渙散の患は再び存せず、百姓は安居を得、天下は和洽融洽し、九五この君主は自ずから位に居りて悔恨過咎なし。《小象伝》の「王居无咎、正位也」は、九五は至尊の位に身を処し、賢明の臣子を任用し、天下の百姓を再び聚合して悔恨を免れしむる。原因はまさにその居る所の位置が端正合宜なることに在る。
上九:渙其血去逖出,無咎。象曰:渙其血,逺害也。
上九:渙散の中において流血の傷を免れ、遥かに険地を走出す。過ちなし。《小象伝》に曰く:流血の傷を免れるのは、禍害から遠く離れたからである。
義曰:逖者,逺也。夫天下渙散之時,上下乖違,情偽叢生,利害紛起,必有所傷也。今此上九居上卦之極,處無位之地,能全其身,獨逺其難,不與眾競,故渙其血去也。逖出無咎者,言既居卦極而無位,是能獨逺於難,所以無咎也。象曰渙其血逺害也者,既獨居上卦之上,是最逺於患害也。
胡瑗の釈義:「逖」とはすなわち遠。天下渙散の時、上下は互いに乖違し、真情仮意は叢生し、利害の糾葛は紛起し、必ず傷害を受ける者あり。上九は上卦の頂端に居り、職位なき所に処し、自身を保全し得、独りあの禍難を遠離し、衆人と争競せず。故に「渙其血去」と言い、流血の傷を渙解し去ったのである。「逖出、无咎」に至っては、それはすでに一卦の極位に処りて職守なく、まさに独り危難を遠離し得る。故に過咎あらざる。《小象伝》の「渙其血、遠害也」とは、すなわちそれは独り上卦の上に居り、禍患より距離最も遠い。
