Libo

坎下離上

宋 · 胡瑗 · 第35巻 / 51

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

未濟,亨。小狐汔濟,濡其尾,無攸利。

《未済》卦の卦辞に曰く:事がいまだ辦成せず天下がいまだ治好せぬ局面の中に処りても、依然として亨通に走向し得る。まさに一匹の小狐が水を渉り河を渡り、眼見で岸に到らんとするも、尾巴を水の裏に浸し、結果として何の好処も得ないが如し。「済」の本義は河を渡ることで、引伸して成事・救助と為す。「未済」とはすなわちいまだ彼岸に渡らざること。「亨」は「元亨利貞」四徳の一で、通達順暢を指す。「汔」は将に近づく・幾の意。卦辞は小狐の渡河功敗垂成を以て比として、人を提醒す:才力が単薄なのに硬く大事を承擔すれば、往々に最後の一步に失敗す。

義曰:按《序卦》云:「物不可窮也,故受之以未濟終焉。」葢言既濟之後,在上者不能持盈守成,以至窮極而無所通濟,故以此次於既濟也。此卦自既濟上六而來,明天下之事既濟之後,治平已久,人心怠忽,恃安而不思其危,恃治而不思其亂,逸樂不已,亂所由生,是以濡其首,反既濟而為未濟也。謂之未濟者,是天下法度敗壞,教化不興,故曰未濟。

胡瑗の解釈:《序卦》に講じて曰く、万物の発展は終点に停まり得ない。故に《既済》の後に《未済》を接ぎ、これを以て六十四卦を收束す。これは天下大治の後、上位に居る者がもし已有の成果を守り得ざれば、事は尽頭に走りて壅塞不通と為る。故に《未済》を《既済》の後面に排す。本卦は《既済》の上六一爻より変化して来た。天下の事が辦成した後、太平の日子が久しく過ごせば、人心は便ち鬆懈す:眼前の安穩に仗りて潜在の危険を想わず、眼前の有序に仗りて将来の動乱を防備せず、安逸享楽に節制なく、禍乱は便ちここより滋生し、ここに渡河の狐狸が頭に連れて皆浸湿せるが如く、治平已成より翻転して一事无成と為る。所謂未済とは、すなわち国家の法度が敗壞し教化が推行し得ぬ局面である。故にこれを未済と言う。

亨者,聖賢君子當是時,欲復有所濟,使民心之安、教化之興,宜以仁義之道拯救之。是必先正其身,然後正朝廷;朝廷正,然後正天下。必使天下人民事物各得其濟,而獲亨通也。

卦辞が亨通に説到するは、聖賢君子がこのような局面の下に処り、重新挽回あらんと欲し、百姓の心を安定せしめ教化を重新興起せしめんとすれば、當に仁義の道を以て天下を救治すべきである。この事には先後の次序あり:必ず先ず自己の身心言行を端正し、然る後に初めて朝廷を端正するに談じ得。朝廷の風気が端正せば、然る後に初めて整個の天下を端正し得。必定天下の百姓と萬事萬物を各々救助を得せしめてこそ、こうして初めて通達順暢の結果を獲得し得る。

小狐汔濟,濡其尾,無攸利者,汔者,幾也。狐之性善涉水者也,然以小者渡之,雖幾至於濟,然勢力微小,必至濡溺其尾也。以人事言之,猶天下未濟,欲興太平之功,欲拯天下之難,必藉大才大徳聖賢之人,與之戮力同心,一志畢慮,不顧險阻之在前,奮然往而濟之,則可以立大勲,圖大業,拔天下於困厄,出天下於水火也。苟以小才小徳、位卑勢寡之人當之,欲濟天下之險阻,是猶小狐之涉淵水,雖僅至於濟,不免濡溺,無所利於拯難也。

小狐狸が岸に快く到るも尾巴を浸し一獲なしのこの一句に至っては、其中の「汔」は将に近づくの意。狐狸の本性は水を渉るに善いが、年幼体小の狐狸を河を渡らしめれば、たとえ岸に靠まらんとするも、力気が余りに弱いが故に、終竟尾巴を水中に浸没せしめる。人事を以て対照すれば:天下いまだ治好せざる時、太平の功を興起し天下の患難を拯救せんと想えば、必ず才力宏大・徳行深厚の聖賢之士に依靠し、彼らと同心協力し、心志を専一にし思慮を竭くし、前面に艱険阻碍が横たわるに因って退縮せず、奮発して前に向かい事を做し成さねばならず、こうして初めて大功勲を建立し大事業を謀成し、天下を困厄の中より拔出し、百姓を水火の裏より救出し得る。もし才力浅薄・徳行不足・地位卑下・勢単力孤の人に換えて承擔せしめて、天下の険阻を渡らんと欲せば、それは小狐狸が深水を渉ると同様に、たとえ勉强して対岸に快く到るも、水に淹没せらるるを免れず、救難に対して毫も用処なし。

彖曰:未濟亨,柔得中也。小狐汔濟,未出中也。濡其尾無攸利,不續終也。雖不當位,剛柔應也。

《彖伝》の解釈に曰く:《未済》が亨通し得る所以は、六五この一柔爻が上卦の中位に居り、中を守る位置を取得したからである。小狐狸が渡り去らんとするも、それがいまだ下卦坎水この険境の中間を走出せざるが故と言う。尾巴を浸し好処なしと言うは、力気が接続し上げず、最後まで堅持し得ざるが故である。六爻は皆位に当たらざるといえども、上下両卦の剛爻と柔爻と彼此相「応」じ、依然として為し得べき処あり。此処の「応」とは、初と四、二と五、三と上の間の一陰一陽が互いに呼応する関係を指す。

義曰:柔謂六五也。言未濟之所由來者,以居上者所為有過,不得中道,所以然也。今六五能以柔順之質,履大中之位,委任九二剛明之臣,與之同心竭力,共濟天下之事,所以獲其亨通也。小狐汔濟,未出中也者,下坎為險,以狐之小者往涉於水,其力微弱,未必能濟;猶以小才涼徳之人慾濟險涉難,必不能出險難之中矣。

胡瑗の解釈:《彖伝》の講ずる柔爻は、六五を指す。天下が一事无成の地步に落到した所以は、上位に居る人の行事に過失あり、不偏不倚の中道を守らなかったが故に、この結果を造成した。いま六五は能く柔順の品質を以て、上卦の正中この尊にして中を得る位置に居り、政事を九二この剛強明察の臣子に託付し、君臣同心竭力して、一斉に天下の事務を挽救す。故に亨通を得る。小狐狸が渡り去らんとするもいまだ険境の中間を走出せずと言うに至っては、下卦の坎が険陥を象徴し、一隻の弱小の狐狸を水を渉らしめれば、力量微薄にして必ずしも渡り得ず。これは好比才力浅く徳行薄き人が険を渉り難を救わんと欲すれば、必定険難の包囲を走出し得ざるが如し。

濡其尾無攸利,不續終者,小狐之涉水,雖幾及其濟,然以力弱不能自奮,故致濡尾,不能終濟也。亦如人之濟難,其勢弱,其才薄,終無餘力以拯民於塗炭,不能卒有所成,故曰不續終也。雖不當位,剛柔應者,言九二、九四以陽居陰,六三、六五以陰居陽,所處皆不當位。位雖不當,然上下二體剛柔相應,施之人事,猶君臣同心戮力而相應,則可以共濟天下也。

尾巴を浸し好処なしと言うは、力気が最後まで接続し得ざるが故:小狐狸が水を渡るに、一点差で岸に到るといえども、力弱くして再び奮起し得ざるが故に、尾巴は水に浸湿せられ、終竟渡り完る能わず。これもまた人が難を救うに、声勢本来弱く、才具本来薄く、最後に余力なくして百姓を水深火熱の中より救出し得ず、事を辦成せざるに如し。故に力気が終点まで接続せずと言う。爻位は当たらずといえども剛柔相応ずと言うに至っては、九二・九四の両個の陽爻が却って偶数の陰位に居り、六三・六五の両個の陰爻が却って奇数の陽位に居り、処する位置は皆本分に合わず。これがすなわち「爻位」の当たる当たらざるの講法である。位置は当たらざるといえども、上下両卦の間の剛爻と柔爻は一一呼応す。人事に放てば、まさに君主と臣子が同心合力し彼此配合すれば、さらば依然として共同に天下を挽救し得るが如し。

象曰:火在水上,未濟。君子以慎辨物居方。

《大象伝》に曰く:離火は上に在り坎水は下に在り、火焰は上に向かって升り水流は下に向かって走り、両者は背道而馳して互いに成就し得ず。これが《未済》の象である。君子はこの卦象を見れば、便ち謹慎に事物の類別を分辨し、毎一樣の物・毎一人を皆それが処すべき位置上に安放せしめるべし。

義曰:夫水火相資,然後能濟於物,故曰既濟。今此二體火上水下,火自炎上,水自就下,水火相戾而不能相資,是以有未濟之象。君子因此之象,則當精審其事,明辨於物,使各居其方,皆遂其所,則賢為賢,愚為愚,貴貴賤賤,法度昭明,各安其分,不相踰越,蓋取諸水下火上之義也。

胡瑗の解釈:水と火とは本来互いに憑藉して初めて事物を成就し得る。水は上に在り火は下に在り、水は火に煮られて功用を生出せば、それがすなわち《既済》。いまこの一卦の上体は離火、下体は坎水で、火性は自然に上升し水性は自然に下流し、両者は相互に背離し、誰も誰を幇けられない。故に一事未成の卦象を呈す。君子はこの象に法れば、便ち當に細致に政務を審察し、清楚に人と物の品類を分辨し、彼らを各々あるべき方位に安処せしめ各々自身の価値を実現せしむべし:賢能の人は賢能の位置に放ち、愚鈍の人はそれと相称する処に安放し、尊貴者は尊貴の礼を受け、卑下者は卑下の分を守り、法度は清晰明白にして、人人は本分を安守し、互いに僭越しない。これがまさに水が下に在り火が上に在るこの一卦象の裏より領会し出た道理である。

初六:濡其尾,吝。象曰:濡其尾,亦不知極也。

初六の爻辞に曰く:河を渡るに尾巴を浸湿せり。これは人をして羞惜せしむるものである。《小象伝》の解釈に曰く:尾巴を浸湿する所以は、また事の分際と限度を明白せざるに由る。

義曰:欲濟天下之險難,拔生靈於水火者,非大才大徳之君子有可致之資、可致之勢,固不能也。今初六以柔弱之質,居一卦之下,處坎險之底,且欲拯天下之難,除天下之害,謂不量力,不度徳,反自取禍於躬,以至濡溺其尾也。夫以薄才當未濟之時,求安其身猶未知其可也,況欲濟天下乎?故彖曰小狐汔濟,濡其尾,言力不能濟,反自罹其害,誠可鄙吝也。象曰濡其尾,亦不知極者,言初所以濡溺其尾,蓋不量已才分,而不知道之極也。

胡瑗の解釈:天下の艱難険阻を渡り、百姓を水火の中より救出せんとすれば、もし才力宏大・徳行深厚の君子にあらずして、事を成すに足る資質と憑藉し得べき形勢を具備せざれば、本来行い得ない。いま初六は柔弱の資質を以て全卦の最下面に処り、また坎険の最底層に在り、却って天下の患難を拯救し天下の禍害を剷除せんと欲す。これを自らの力量を衡量せず自らの徳行を估量せざると言い、かえって自身に災禍を招来し、渡河の狐狸の如く尾巴を浸湿するに至る。このような単薄の才具を憑って一事未成の時に処り、自身を保全するですら必ずしも行い得ず。いわんや天下を救うをや。故に《彖伝》に小狐狸が岸に快く到るも尾巴を浸すと言うは、まさに力量が事を成すに足らず、かえって自己に禍害を招来すを言う。実に人をして惋惜羞慙せしむ。《小象伝》に尾巴を浸すは限度を知らざると言うのは、初六が水の裏に陥る所以は、まさに自己の才分を掂量せず、事理にその辺界あるを懂得せざるが故である。

九二:曵其輪,貞吉。象曰:九二貞吉,中以行正也。

九二の爻辞に曰く:車輪を拖住して急進せしめざるが如く自我節制し、正道を守持すれば吉祥。《小象伝》の解釈に曰く:九二が正を守りて吉なる所以は、それが下卦の中位に居り、中を守る道に憑って正道を践行し得るからである。

義曰:夫欲泰天下之否,解天下之蹇,非剛明才徳之君子未知其可也。今九二以剛明之才徳,居大中之位,雖未出於坎險,然所應在五,五又以柔順之道信任於己,與已同心戮力,往拯天下之危,經綸當世之治,以勞賚安定天下之民,雖搖曵其輪,盡力而退,固無咎也。貞吉者,為其以陽居陰,所處非正,然已有濟難之力,苟能用大中之道,由大正而行,則吉可知矣。象曰九二貞吉,中以行正者,言二本非正,以其有正中之徳,可以行正道而獲吉也。

胡瑗の解釈:天下の閉塞を打通し天下の困頓を解開せんとすれば、剛強明達・才徳兼備の君子にあらざれば辦成せざる。いま九二は剛明の才徳を以て下卦の中位に居り、いまだ坎険を脱離せざるといえども、その上に相応ずるは六五で、六五はまた能く柔順の態度を以て彼を信任し、彼と同心協力して、一同に天下の危局を拯救し当世の治理を籌劃し、慰労賞賜を以て天下の百姓を安定す。こうすれば、たとえ車輪を拖くが如く緩行し力気を竭くした後に退譲あるも、過咎あらざる。爻辞に正を守りて吉を得ると言うは、九二が陽爻を以て陰位に居り、処する所は併せ位に当たらざるが故である。しかし彼はすでに難を救う力量を具備し、ただ不偏不倚の中道を用い、大公至正の路子に循って做せば、吉祥は想い知るべし。《小象伝》に九二が正を守りて吉・中を以て正を行うと言うのは、九二は本来位置正ならざるも、中を守り正を持する徳行に憑って、依然として正道を推行して吉祥を獲得し得ることを言う。

六三:未濟,征凶,利涉大川。象曰:未濟征凶,位不當也。

六三の爻辞に曰く:事いまだ辦成せず、この時に贸然として前進すれば凶険あり。しかし大河大川を渉越すればかえって利あり。《小象伝》の解釈に曰く:未成の時に前進して凶険あるは、六三の処する位置が恰も当たらず、それは陰爻なのに陽位を占拠したからである。

義曰:六三以陰居陽,又在坎險之極,是不正懦弱之人也。以不正懦弱之人身在坎險,欲拯天下之患難,濟天下之未濟,如之何其可乎?身且不正,反欲進救天下,是窮凶之道也。然雲利涉大川者,蓋六三下近九二剛明中正之人,上比九四興衰撥亂之臣,處二四之間而能依附之,則可以獲安,而不至溺身於險難,故曰利涉大川也。

胡瑗の解釈:六三は陰爻なのに陽位を占拠し、また坎険の最上端に処り、立身正ならずしてまた懦弱の人を代表す。このような人は自己がなお険境の裏に陥りながら、天下の患難を拯救し天下の未成の局を扭转せんと欲す。何ぞ行い得んや。自身すら端正せざるに、かえって頭を出して天下を救わんとするは、これは自己を絶境に逼入する做法である。爻辞にまた大川を渉越して利ありと言うに至っては、六三が下に往きて九二この剛強明察・中を守り正を持する人に緊挨し、上に往きてまた九四この能く衰を振い弊を起こし乱を撥き正に反る大臣に「比」近するが故である。「比」とは相隣する両爻の間に親近依附する関係を指す。六三は二と四の間に夾まれて彼らに依靠するを懂得せば、便ち平安を求め得、自己を険難の中に淹没せしめざるに至る。故に大川を渉越するは利あると言う。

九四:貞吉,悔亾。震用伐鬼方,三年有賞于大國。象曰:貞吉悔亡,志行也。

九四の爻辞に曰く:正道を守持すれば吉祥、悔恨は消失す。威勢に憑って遠方の鬼方の国を征伐し、三年を用いて初めて成功し、功に因って大国に封賞を受く。《小象伝》の解釈に曰く:正を守りて吉を得悔恨消失するは、九四の難を救う志向が実行に付し得るからである。「鬼方」は商周時期の西北方の方国の名称である。

義曰:九四出坎險之中,居離之位,是有剛陽之才。然以陽居陰,所履不正,是以有悔。苟能守正,而上承六五之君,竭力盡心,以附順於上,以興天下之衰,則悔可亡,故曰貞吉悔亡。

胡瑗の解釈:九四はすでに坎険を走出し、上卦離明の範囲に進入し、彼が剛健陽剛の才干を具備することを説明す。しかし彼は陽爻を以て陰位に居り、立身の処は併せ端正ならず。故に悔恨を免れない。ただ正道を守り得て、上に向かって六五の君を承奉し、心力を竭くして順従し君上を輔佐し、以て天下の衰敗の勢を振興せば、悔恨は便ち消除し得る。故に爻辞に正を守り吉祥・悔恨消亡すと言う。此処の「承」とは、下面の爻が上面の爻を承奉するを指し、《周易》が爻際関係を講ずる固定の説法である。

震用伐鬼方,三年有賞于大國者,震謂威震也。當未濟之世,風俗久漓,典章久墜,紀綱乆闕,而九四有剛明之才,又居離明之位,是能用其威震,興師動眾,亦須三年然後有功,使復於既濟。故聖人重其酬功報勞,以大國而賞之,所以寵其成績也。然按既濟之卦,在九三亦言伐鬼方而曰髙宗,此但言震用者,蓋既濟九三有中興之象,此九四則興衰之臣也。象曰貞吉悔亡,志行也者,言九四已出險難,志欲安濟於天下,故能以剛明之才徳、大正之道,施行其救難之志也。

威勢に憑って鬼方を征伐し三年の後大国に賞を受くと言うに至っては、此処の「震」は威勢震懾の意である。天下未治の時代に処り、風俗は澆薄すでに久しく、典章制度は荒廃すでに久しく、綱紀は鬆弛すでに久しい。しかし九四は剛強明達の才干あり、また離卦光明の位に身を処す。故に威勢に憑藉して兵を興し衆を動かし得るも、三年を花上げて初めて成效を見、天下を重新治平已成の状態に帰せしめ得る。故に聖人は格外に彼の功労への酬報を看重し、大国を封賞して以て褒奨し、以てその功績への恩寵を顯示す。ただし《既済》卦に対照すれば、あそこの九三爻も鬼方を征伐を講じ、かつ殷高宗武丁であると点明す。此処はただ威勢に憑ると言うのみで君主の名を挙げないのは、《既済》の九三には中興の君の意象ありて、ここの九四はただ衰を振い弊を起こす臣子だからである。《小象伝》に正を守りて吉を得悔恨消失するは志向が行い得と言うのは、九四はすでに険難を脱出し、一心に天下を安定し拯救せんと想うが故に、能く剛明の才徳・大公至正の路数を以て、難を救う志愿を真に実施に付し得ることを言う。

六五:貞吉,無悔。君子之光,有孚,吉。象曰:君子之光,其暉吉也。

六五の爻辞に曰く:正道を守持すれば則ち吉祥、悔恨なし。これは君子の徳行の光輝で、内心また誠信あり、故に吉祥。《小象伝》の解釈に曰く:君子の光輝とは、まさにあの外に向かって照耀する光暉が吉祥を帯来するものである。「孚」は誠信・人をして信服せしむるの意。

義曰:六五以柔順位於至尊,未濟之主也。然以陰居陽,本亦有悔,故必守正然後得吉而無悔也。君子之光也者,以柔順文明之道,所行得中,且下應九二剛明之臣,與之同心戮力,一志畢慮,與天下興利除害,致天下於既濟,是君子光顯之徳也。有孚吉者,言六五以柔順之質,委任九二剛明之臣,與之共治天下,當絶疑忌之心,以信相待,則興治之功畢而終獲其吉也。象曰君子之光,其暉吉者,六五之君能以柔接物,以信遇臣,興天下之治,是君子光暉之用無所不至,而獲其吉也。

胡瑗の解釈:六五は柔順の品質を以て最も尊貴の君位に居り、天下未治の時の主政者である。しかしそれは陰爻にして陽位に処り、本来また悔恨あり。故に必ず正道を守って、然る後に初めて吉を得て悔なからしめ得る。所謂君子の光輝とは、六五が柔順にして文明の方式を以て行事し、挙措は中道に合し、また下に向かって九二この剛明の臣と相呼応し、君臣同心協力・心志を専一にし思慮を竭くして、天下のために有利の事を興辦し有害の事を除去し、天下を未成の局より治平已成の境地に帰せしむる。これがすなわち君子の光明显耀の徳行である。誠信を懐きて故に吉祥と言うは、六五が柔順の資質に憑り、政務を九二この剛明の臣に託付し、彼と共同に天下を治理すれば、便ち當に猜忌の心を断絶し、誠信を以て相待すべきである。こうすれば治世を振興する功業は初めて完成し、最終に吉祥を獲得する。《小象伝》に君子之光其暉吉と言うは、六五この君主は能く柔和を以て人に待し誠信を以て臣下に対待し、天下の治理を興起し、君子光輝の作用は至らざる所なく、故に吉祥を獲得する。

上九:有孚于飲酒,無咎。濡其首,有孚失是。象曰:飲酒濡首,亦不知節也。

上九の爻辞に曰く:誠信を以て相待して飲宴の楽を安享すれば、過咎あらざる。しかしもし其中に沉溺して頭に連れて皆浸湿せば、あの份の誠信はすなわち錯った処に用いた。《小象伝》の解釈に曰く:飲酒して頭頂を浸すに至るは、また節制を懂得せざるに由る。

義曰:夫六五柔順之主,能下接九二剛明之臣,使既濟之道已成,至於上九,則綱紀已振,教化已洽,法令已備,故已可以無為而治,不勞聰明,委信於臣,而飲食宴樂以相和悅,所以無咎也。濡其首,有孚失是者,夫安不可恃,樂不可極,任臣不可以不察,如是則有苟簡敗壞浸潤之禍,至於濡溺其首,蓋失其所信之道,取不節之嗟,故曰有孚失是,此聖人深戒之辭也。

胡瑗の解釈:六五は柔順の君主で、能く下に向かって九二この剛明の臣を延納し、治平の功を完成を得せしむ。上九のこの爻に到れば、綱紀はすでに振作し、教化はすでに普及し、法令はすでに完備し、故に君主は清靜無為を以て治理し得、耳目心思を費尽すに及ばず、事を臣下に信託し、臣下と飲食宴楽し彼此和悦す。故に過咎なし。頭を浸湿し誠信が錯った処に用いられたと言うに至っては、安定は一味に倚仗すべからず、歓楽は極処に走るべからず、臣子を任用するも察験を加えずにすべからずと講ずる。否らば便ち苟且草率・政事敗壞・讒言漸漬の類の禍患あり、渡河の人が頭に連れて皆水の裏に淹没せるが如きに至る。これがすなわち信任を錯った対象に放ち、節制を知らざるの嘆惜を招来す。故に誠信が錯った処に用いられたと言う。これは聖人が深く後人に告誡する言である。

繋辞上

周易言繋辭者,按周易始於伏羲,畫為八卦;至於文王,定為六爻,演為六十四卦,又作卦下之彖辭以解釋一卦之義,曲盡天地之道,總包萬事之冝;而又周公作其爻辭,以釋逐爻之義。然而聖人作卦,其道至大,以至纎至悉之事無不備載。雖有爻彖之辭以解釋之,然其辭義深逺,其理精微,至淵至奧,不可以易曉,則於常常之人固難知矣。是故孔子復作十翼以釋之,欲使後世之人可以達聖人之淵奧,知聖人之行事也。

《周易》の裏に何故《繋辞》この一篇あるか。《周易》の成書過程を考察すれば:それは伏羲より起こり、伏羲が八卦を画き出した。周文王に至りて、毎卦を六爻と確定し、八卦を両々相重ねて推演して六十四卦と成し、また卦名の下に繋げた彖辞を書きて一卦の大義を解釈し、天地運行の道理を曲尽無遺に講じ、人間万事のあるべき分寸を皆その内に包挙した。此後周公が再び爻辞を作り、逐爻に毎一爻の意義を解釈した。しかし聖人の立てた卦は、道理極めて宏大にして、最も細微・最も瑣屑の事情に至るまで載録せざるなし。爻辞・彖辞を以て解説を加えるといえども、これらの文辞の意思は深遠にして義理は精細幽微、深邃極点に至り、容易に読み懂がたく、尋常の人に対して本来通暁し難い。故に孔子はまた「十翼」を作って以てそれを疏解し、後代の人をして聖人の思想の深処に通達し、聖人の教を立て事を行うの用意を明白せしめんと欲した。

所謂十翼之名者,曰上彖、下彖、大象、小象、文言、上繋、下繋、說卦、序卦、雜卦。凡此十翼,以釋六十四卦之義。上下彖以解文王卦下之辭,大象以釋一卦之名義,小象分於六爻之下以解周公之爻辭,文言以文釋乾坤二卦之理,此繋辭以統言天地之淵奧、人事之終始,說卦以陳說八卦之徳業,序卦以序六十四之次敘,雜卦以辨眾卦之錯雜。

所謂「十翼」の名目は、上彖・下彖・大象・小象・文言・上繋・下繋・説卦・序卦・雑卦のこの十篇である。彼らは皆六十四卦の大義を闡釈するを用とす:上彖・下彖は文王が卦名の下に書いた彖辞を解説し、《大象》は毎一卦の命名と取象の義を解釈し、《小象》は六爻の下に分列して周公の作った爻辞を解説し、《文言》は専ら《乾》《坤》の両卦の義理を推闡し、眼下のこの篇《繋辞》は則ち総括して天地の深奥の理と人事の始末を講じ、《説卦》は八卦各自の徳性と功用を陳述し、《序卦》は六十四卦の排列の先後次第を説明し、《雑卦》は衆卦が両々相対し錯綜交雑する関係を辨析す。

此上繋是夫子十翼之中第六翼,自天尊地卑而下至篇末,分十一章,各列於後,今隨文而解之。然按先儒周氏云:上繋辭凡十二章,自天尊地卑為一章,聖人設卦觀象為二章,彖者言乎其象為第三章,精氣為物為第四章,顯諸仁藏諸用為第五章,聖人有以見天下之為第六章,初六藉用白茅為第七章,大衍之數為第八章,子曰知變化之道為第九章,天一地二為第十章,是故易有聖人為第十一章,子曰書不盡言為第十二章。

この篇《繋辞上》は孔子の十翼の当中の第六翼である。「天尊地卑」の一句より往下篇末に至るまで、十一章に分かつべく、下文は逐章に排列し、経文に随って一段一段解説す。ただし前代の学者周氏の説法に拠れば、《繋辞上》は一共に十二章に分かる:「天尊地卑」を以て起こりて第一章と為し、「聖人設卦観象」を第二章と為し、「彖者言乎其象」を第三章と為し、「精気為物」を第四章と為し、「顕諸仁蔵諸用」を第五章と為し、「聖人有以見天下之賾」を第六章と為し、「初六藉用白茅」を第七章と為し、「大衍之数」を第八章と為し、「子曰知変化之道」を第九章と為し、「天一地二」を第十章と為し、「是故易有聖人之道四焉」を第十一章と為し、「子曰書不尽言」を第十二章と為す。

虞飜分一章,以大衍之數並知變化之道共為一章取之。然分義之段數未盡意,隨文而別解之。然繋辭有二說,是聖人繋屬其辭於爻卦之下,故此篇第六章云繋辭焉以斷其吉凶,第十二章云繋辭焉以盡其言。是繋者,取其繋屬其辭於卦下,故謂之繋辭也。

三国時の虞翻は則ち一章を少分し、「大衍之数」と「知変化之道」とを合併して一章と成して処理した。これらの分章の弁法は義理上に皆透徹に講じ得ていない。故に此処は旧例に拘らず、経文に随って別に解説を作る。《繋辞》この篇名に至っては、前人に二種の講法あり、実は皆聖人が解説の文辞を卦爻の下に繋挂するこの事を言う。故に本篇の第六章に文辞を繋上文して以て吉凶を判断すと言い、第十二章に文辞を繋上文して以て話を講じ尽くすと言う。見れば「繋」はまさに文辞を卦の下に繋属するこの層の意思を取る。故にこの一篇を便ち《繋辞》と叫ぶ。

繋辞上・第一章 天尊地卑

天尊地卑,乾坤定矣。

経文に曰く:天は上に在りて尊く、地は下に在りて卑し。乾坤両卦の位置は便ちこれに由って確定し下る。乾は純陽を代表し、天に取象す。坤は純陰を代表し、地に取象す。天地の上下の分位が一旦分明せば、整部《周易》の依托する乾坤の框架も便ちこれに随って成立す。

義曰:此言天地之道者也。自此「乾坤定矣」而下,至「天下之理得而成位乎其中矣」為一章,以釋聖人法天地之義也。夫易之所始,始於天地。天地之判,混元廓開,而萬物之情皆生於其間。既萬物之情皆生於其間,是故聖人仰以觀於天文,俯以察於地理,於是畫為八卦,以類萬物之情,以盡天地之道、人事之理,以盡乾坤水火風雷山澤之象,是易之卦始於天地者也。

胡瑗の解釈:この一句の講ずるは天地運行の道理である。「乾坤定矣」以下より、「天下之理得而成位乎其中矣」に至るまで、合して一章と為し、以て聖人が天地に取法する用意を闡明す。《周易》の起点は便ち天地に在る。天地が分判し混沌元気が廓然開闢した後、万物の種種の情状は皆この中間より生発し出る。既に万物の情が皆天地の間に生ずれば、聖人はここに頭を抬げて日月星辰の天文を観察し、頭を低くして山川原野の地理を考察し、これに拠って八卦を画き出し、それらを以て万物の情状を帰類し、天地運行の規律と人間事務の条理を皆概括し入れ、乾天・坤地・坎水・離火・巽風・震雷・艮山・兌沢のこの八種の物象を皆其の中に收攝す。これはすなわち、《周易》の卦は天地より起頭することを言う。

然則天尊地卑者何也?夫天是純陽之氣,積於上而為尊;地以積陰之氣,居於下而為卑。剛陽居上而有尊髙之象,柔陰居下而有卑下之分。二氣始交,分為剛柔,是以交錯以至生成萬物、覆載萬物,大無不包,細無不有其形狀。故天地為乾坤之象,乾坤為天地之用。天地尊卑既分,則乾坤之位因而可以制定也。然則首言天地尊卑者,葢萬事之理、萬品之類皆自乾坤為始,故先言天地尊卑也。

然らば何故に天尊して地卑すると言うか。天は純陽の気に由って上に積聚す。故に尊と為す。地は純陰の気に由って下に積聚す。故に卑と為す。剛健の陽気は上に居りて、便ち崇高の象を顯出す。柔順の陰気は下に居りて、便ち卑抑の分を顯出す。陰陽二気が開始して交感し、「剛柔」両種の性質を分出す――剛は陽の強健有力を指し、柔は陰の順承包容を指す――ここに彼此交錯して、万物を生成し万物を承載覆蓋し、大は包まざるなく、細は一切の形状皆その中より具備す。故に天地は乾坤の取る所の象で、乾坤は天地の作用の落実である。天地の尊卑は既に划分せば、乾坤の位置も便ちこれに随って確定す。開篇に何故に先ず天地の尊卑を講ずるかに至っては、万事の道理・万類の品物は皆乾坤を起点と為すが故に、故に先ず天地の尊卑より説起す。

卑髙以陳,貴賤位矣。

経文に曰く:低下と崇高の位置が一経陳列分明せば、尊貴と卑賎の等級も便ちこれに随って確立す。

義曰:卑者,謂地體卑下;高者,謂天體高上。夫天地卑高既定,則人事萬物之情皆在其中。故六十四卦、三百八十四爻各有貴賤高卑之位,是以君臣、父子、夫婦、長幼皆有其分位矣。若卑不處卑,高不處高,上下錯亂,則貴賤尊卑、君臣父子夫婦長幼不得其序。夫如是,無髙卑之分位矣。故此貴賤之分,皆自髙卑之位既陳,然後從而定矣。

胡瑗の解釈:所謂卑とは、地の形体が下方に処るを指す。所謂高とは、天の形体が上方に処るを指す。天地の高下が一経確定せば、人間事務と万物の種種の情状は便ち皆この格局の裏に包含される。故に六十四卦・三百八十四爻は各自皆尊貴卑賎・居高居下の位置を有し、君と臣・父と子・丈夫と妻子・年長と年幼はこれに因って各々自己の名分位置を有す。もし下位にあるべき者が下位に安んぜず、上位にあるべき者が上位に居らず、上下顛倒錯乱せば、さらば貴賎尊卑の秩序・君臣父子夫妻長幼の次第は便ち皆乱れる。真にあの一步に到れば、高下の分も便ち名存実亡と為る。故に貴賎の分別は、皆高下の位置が先行して陳列した後に、初めて跟って確立し起こるのである。

動靜有常,剛柔斷矣。

経文に曰く:運動と静止は各々固定の常規を有し、剛と柔の分別も便ち判定し得る。

義曰:夫天以剛陽居於上則為動,地以柔陰居於下則為靜。天地之道,生成萬物各有常度:動而有常則為剛,靜而有常則為柔。動靜既有常分,生成各有常理,則剛柔可以斷矣。以人事言之,夫君以剛徳居於上為動,臣以柔道居於下為靜。君出其令而臣行之,臣納其善而君聽之,君臣動靜既有常理,則剛柔之分可以斷矣。若動而不常,則剛道不成;靜而不常,則柔道不立。夫如是,則剛柔不可以斷定也。然則此經雖論天地之性,然亦兼總萬物之動靜也。

胡瑗の解釈:天は剛健の陽気を以て上に居り、運行不息を表現し、動に属す。地は柔順の陰気を以て下に居り、安然として承載を表現し、静に属す。天地が万物を生養するに、各々固定の法度あり:動にして常規あるは剛に帰し、静にして常規あるは柔に帰す。動と静は既に各々常態あれば、生養成物も各々常理ありて、剛と柔の界限は自ずから分かれて清し。人事を以て対照すれば:君主は剛健の徳を以て上位に居り、動に属す。臣子は柔順の道を以て下位に居り、静に属す。君主は政令を発布し臣子は往きて執行し、臣子は善言を進献し君主は能く聴納す。君臣の間は動静各々常理ありて、剛柔の分際も便ち判然として弁え得。かえって動にして常規なければ、剛の一面は便ち立ち上がらず、静にして常規なければ、柔の一面も従って成立せず。あの時に到れば剛柔は便ち判定し得ざる。見ればこの一句は天地の性質を論ずるに在るといえども、同時に万物の動静の理をも総括した。

方以類聚,物以群分,吉凶生矣。

経文に曰く:人は各々その志向社会路数に按って聚りて同類と成し、物は各々その族群に按って分かれて不同の類別と成す。吉と凶とは便ちここより産生出る。

義曰:此已下言聖人法天地之象也。方者,道也。天君子之人同道而齊術,道同於已者則相推而類聚之。君子則以君子為朋偶,小人則以小人為類黨;為士者則以士為同道,為濃者則以農為族黨,為工者則以工為同道,為商者則以商為類聚,是皆以同道為之共處,各隨其類族矣。物以群分者,上既言君子小人各從其類,此又言萬品之物亦各以其群類而為黨也。至如飛者則以飛者為群,走者則以走者為群,以至昆蟲草木巖穴之物,各從其群,各從其分也。

胡瑗の解釈:ここより始めて聖人が天地の象に取法することを講ず。「方」は此処にてはすなわち道路・路数の意。君子の人は道相同じく術相斉しく、およそ自己と路数相同なるは、便ち互相引薦して聚りて一類と成す。君子は君子を以て朋友同伴と為し、小人は則ち小人と結んで党羽と為す。読書して士と為るは士人を以て同道と為し、農を務むるは農人を以て族群と為し、工を為すは工匠を以て同道と為し、商を経るは商人を以て同類と為す。これらは皆路数相同なるが故に共に一処に処り、各自自己の属する類別に跟従す。万物が族群に按って分かると言うに至っては、上文は既に君子小人は各々その類に随うを講じ、此処は再び万類の物も各々族群に按って一党を結成することを講ず:飛ぶ能くするは飛ぶ能くする者と同群し、走る能くするは走る能くする者と同群し、昆虫・草木・穴居の物に至るまで、もまた各々その群に帰り各々その分を守る。士・農・工・商の所謂四民は、各々各の行當と交游あり。まさに人が類を以て相聚るが人事上に落ちた具体の樣子である。

吉凶生矣者,夫上言方以類聚,物以群分,此言吉凶生矣者何哉?夫吉凶生於異類,善惡由夫影響。同逍齊術者則為吉,非其類者則為凶。若君子同於君子之人則吉,小人入於君子之黨則凶,是吉凶之道生於非類。無所分別,若平其所趣則凶,是以生焉;若順其所同則吉,是以生焉。是吉凶之道生於非類者也。

吉凶ここより産出すと説到すれば:上文は既に人は路数を以て相聚り物は族群を以て相分かると講じたれば、此処に何故に接続して吉凶が便ち生出したと言うか。吉凶はまさに異類相処の中より産生するが故で、善と悪とは形と影・声と響の如く彼此相随う。路数相同・方法一致のが一処に湊れば便ち吉で、本不同類のを硬く湊り合わせれば便ち凶である。譬如君子と君子と相聚れば便ち吉、小人が君子の隊伍の裏に混進すれば便ち凶。見れば吉凶の理は同類なるか否かの上に生ず。もし毫も分別なく、趨向不同の人事を拉平混同せば、凶は便ちここより生ず。もし彼此相同の路数に順って結合せば、吉も便ちここより生ず。故に言う、吉凶の道はまさに同類なるか否かのこの一点より産生出る。

在天成象,在地成形,變化見矣。

経文に曰く:天上に在りて凝聚して日月星辰の如き物象と成り、地上に在りて凝聚して山川草木の如き形体と成す。変化の道理は便ち顕現し出る。

義曰:象謂日月星辰也,形謂山川草木也。夫天以剛陽之氣居於上而生物,地以柔陰之氣在於下而承天。在於天者則為日月星辰之象,在於地者則為草木山川之形,是天地之道、生成之理自然而然也。變化見矣者,上既言在天成象,在地成形,此復言變化見矣者何哉?葢天地之道、生成之理,有全體而化者,有久大而化者,有驟然而化者,千變萬化皆有形象,而人莫能究其實,但知其自然而然也。

胡瑗の解釈:所謂象とは、日月星辰を指す。所謂形とは、山川草木を指す。天は剛健の陽気を以て上に居りて万物を生発し、地は柔順の陰気を以て下に居りて天施を承接す。天上に落ちるは、日月星辰の象と成り、地上に落ちるは、草木山川の形と成る。これがすなわち天地運行・生養成物の道理で、本来この如く、安排を假らず。変化ここより顕現すと言うに至っては、上文は既に天上は象を成し地上は形を成すと講じたれば、此処に何故にまだ一句変化顕現を補うか。天地運行・生養成物の道理には、整体が一斉に転化するあり、歷時長久にして後にその広大を成すあり、また転眼の間に骤然変異するあり、千変万化皆見るべき形迹を留めるも、人はその背後の実情を窮究し得ず、ただそれが本来この如くなるを知るのみ。

是故剛柔相摩,八卦相蕩。

経文に曰く:故に剛爻と柔爻とは互相摩擦切磨し、八卦は彼此推移激蕩す。

義曰:此已下明天地陰陽相推蕩之事也。夫天本在上,地本在下,及夫天氣下降,地氣上騰,陽極則變而為陰,陰極則反而為陽。陽剛而陰柔,陰消而陽伏,剛柔互相切摩,更相變化,然後萬物之理得矣。夫八卦之始,本於天地剛柔二體,法於陰陽,剛則為陽爻,柔則為陰位,爻位相錯雜,然後以成八卦,推蕩於天地之間。若十一月一陽生而推去一陰,五月一陰生而推去一陽,是八卦相推蕩於天地之間,所以成於六十四卦也。

胡瑗の解釈:ここより起こりて、講ずるは天地陰陽が互相推移激蕩する事である。天は本来上に在り、地は本来下に在る。天気が下降し地気が上升するに及べば、陽気は極点に到れば便ち転じて陰と為り、陰気は極点に到れば便ち返りて陽と成る。陽性は剛健・陰性は柔順で、陰気が消退する時は陽気は潜伏し、剛と柔とは彼此摩蕩し、交替変化して、万物の道理は初めてここより成立す。八卦の来源は、天地剛柔のこの両種の基本体性に本とし、陰陽に取法す:剛は画きて陽爻と成し、柔は占めて陰位と為し、爻と位とは交錯配合して、ここに八卦を形成し、天地の間に在りて反復推蕩す。譬如夏暦十一月の冬至は一陽が初生して一分の陰気を推退すれば、それがすなわち《復》卦の陽気回還の象である。五月の夏至は一陰が初生して一分の陽気を推退すれば、それがすなわち《姤》卦の陰気始生の象である。八卦は便ちこのように天地の間に互相推蕩して、ここに演じて六十四卦と成る。

鼓之以雷霆,潤之以風雨。

経文に曰く:雷霆を以て万物を鼓動し、風雨を以て万物を滋潤す。

義曰:鼓者,動也。雷者,陰陽二氣相激搏則其聲為雷;霆者,怒雷則謂之霆。風所以生萬物,雨所以潤動植也。此至一寒一暑,重明上文變化見矣及剛柔相摩、八卦相蕩之事也。夫天地二氣相蕩而成八卦之象,相推而成萬事之理,又鼓之以震雷離電,滋潤以巽風坎雨,使天下之物無不遂其性者,天地之道也。然而風亦言其潤者,葢風者是生成之氣,能滋生於萬物,故亦言其潤也。

胡瑗の解釈:「鼓」とはすなわち鼓動・発動。所謂雷とは、陰陽二気が互相激撞する時に発出する声响である。所謂霆とは、雷声が暴烈なる時の称呼である。風は以て万物を生発し、雨は以て動物と植物を滋潤す。この一句より下文の寒暑往来を講ずるに至るまで、皆再び上文の説く所の変化顕現・剛柔摩蕩・八卦推移のこの几件の事を申明するに過ぎない。天地二気は互相激蕩して以て八卦の象を形成し、互相推移して以て万事の理を成就す。再用びて震卦の雷・離卦の電を以てそれを鼓動し、巽卦の風・坎卦の雨を以てそれを滋潤し、天下の万物を各々その性を遂げざるなからしむれば、これがすなわち天地の道である。風にも連れて滋潤と説成すに至っては、風は本来生養の気で、能く万物を滋生し得るが故に、故に同様に潤の字を以てそれを講ず。

日月運行,一寒一暑。

経文に曰く:太陽と月亮とは循環運行し、ここに寒往暑来・四季交替あり。

義曰:日者,太陽之精;月者,太陰之精。寒者是純陰之氣,暑者是純陽之氣也。夫天地之道生成萬物,既鼓動以雷霆,又滋潤以風雨,以日而煦育之,以月而照臨之。及夫日月運行,以成晝夜,以成寒暑之候,以盡生成之功者,天地之道也。然而直云震巽離坎,不云乾坤艮兊者,葢乾坤之道上下備言,艮兊非鼓動運行之體,故不言之。其實亦雷電風雨出於山澤,故亦兼包其義焉。

胡瑗の解釈:太陽は至陽の気の精華で、月亮は至陰の気の精華である。寒は純陰の気、暑は純陽の気。天地が万物を生養するに、既に雷霆を以てそれを鼓動し、また風雨を以てそれを滋潤し、太陽の暖気を以てそれを煦育し、月亮の清光を以てそれを照臨す。日月が循環運行するに及び、白天と黑夜を形成し、寒来暑往の節候を形成して、生養の功を円満に做し到れば、これがすなわち天地の道である。経文はただ震・巽・離・坎の四卦を提げて乾・坤・艮・兌を提げずに至っては、乾坤の道は上文に天尊地卑を講ずる時にすでに完整に説過し、艮山・兌沢は本来鼓動運行の主体にあらざれば、故に列出しなかった。実は雷電風雨もまた山沢の間より生発す。故に艮兌の意思はすでに一併に其の裏頭に包含せり。

乾道成男,坤道成女。

経文に曰く:乾の法則は陽剛の一方を成就し、坤の法則は陰柔の一方を成就す。

義曰:道者,自然而生也,此言乾坤之道也。夫天以純陽在上,故為乾;地以純陰在下,故為坤。乾主乎剛健,坤主夫柔順。乾自然而為男,則為君、為父、為長、為上;坤自然而為女,則為臣、為子、為婦、為少。乾居於上則為尊,坤居於下則為卑,二氣交感以生萬物,故有男女之象。然則坤必言成者,葢乾因陰而得為男,坤因陽而得為女,故言成也。

胡瑗の解釈:此処の「道」は、自然として生成するを指し、説くは乾坤両卦の本性である。天は純陽の気を以て上に居る。故に乾と称す。地は純陰の気を以て下に居る。故に坤と称す。乾は剛健を主と為し、坤は柔順を主と為す。これがすなわち所謂「卦徳」、すなわち一卦の代表する根本性情である。乾は自然として陽剛の一方と成り、ここに引伸して君と為り父と為り長と為り上と為る。坤は自然として陰柔の一方と成り、ここに引伸して臣と為り子と為り妻と為り幼と為る。乾は上に居りて尊と為り、坤は下に居りて卑と為り、両種の気は互相交感して以て万物を生出す。故に男女の象あり。両句皆一個の「成」の字を用いるに至っては、乾は陰の配合に憑藉して初めてその男と為り得、坤は陽の感応に憑藉して初めてその女と為り得るが故に、故に「成」と言う。

乾知大始。

経文に曰く:乾は万物創生の開端を主宰す。乾は天の功用で、万物いまだ成形せざる以前に、それはすでに生発の機を統攝す。

義曰:大始者,是陰陽始判、萬物未生之時也。乾者,天之用也。夫乾以天陽之氣在於上,故萬物莫不始其氣而生,莫不假其氣而成。得其生者,春英夏華,秋實冬藏;承其氣而成者,則胎生卵化,蠕飛動躍。是乾知大始,起於無形而入於有形也。

胡瑗の解釈:所謂大始とは、陰陽が剛く分判し万物がいまだ生出せざるあの段階を指す。乾とは、天の功用である。乾は上天の陽気を以て上位に居る。故に万物は一様としてこの股の気に憑って初めて生長を開始せざるなく、一様としてこの股の気を借りて初めて成形を得せざるなし。この気を得て生ずるは、草木は便ち春天に抽芽し夏天に開花し秋天に結実し冬天に収蔵す。この気を承けて成形するは、便ち胎生あり卵化あり、蠕動あり飛翔あり行走あり跳躍あり。これがすなわち乾の主宰する万物の開端:無形の処より発動し、進んで有形の境に進入す。

坤作成物。

経文に曰く:坤は乾の施予を承接し、万物を制作して形と成す。地は純陰の気を以て天施を承載し、万物の形体质地は皆ここに落成す。

義曰:坤者,是地之形也;物者,萬品之物也。夫地以純陰之氣在於下,上承於天陽之氣以生萬物,無所不載,無所不育,是乾始於無形而坤能載之,以作成萬物之形狀也。然乾言知、坤言作者,蓋乾之生物起於無形,未有營作;坤能承於天氣已成之物,事可營為,故乾言知而坤言作也。

胡瑗の解釈:坤は地の形体を指し、物は世間各類の事物を指す。地は純陰の気を以て下方に処り、上に向かって天の陽気を承接して以て万物を生養す。承載せざるなく化育せざるなし。これがまさに乾が無形の処より開端して、坤は能くそれを承接し下して、制作して万物の具体の形状と為す。乾は一個の知の字を用い坤は一個の作の字を用いるに至っては、乾の万物を生養するは無形より起こり、まだ経営制作に談じ及ばず。坤は則ち上天の気がすでに発動した成果を承接し、実事ありて経営操作し得るが故である。故に乾は知と言い、坤は作と言う。

乾以易知,坤以簡能。

経文に曰く:乾は平易の方式を以て万物の開端を主宰し、坤は簡約の方式を以て万物の功能を成就す。

義曰:夫乾之生物,本於一氣,其道簡略,不言而四時自行,不勞而萬物自遂,是自然而然者也。坤以簡能者,夫坤之生物,假天之氣,其道亦簡略,其用省黙而已,不假煩勞而物自生,不假施為而物自遂,是自然而然者也。

胡瑗の解釈:乾は万物を生養するに、一股权の元気に本とし、その路数は極めて簡略である:一言を発せずして四季は自然に運転し、気力を費やさずして万物は自然にその生長を遂げ、一切は本来この如し。坤が簡約を以て能を見ると言うは、坤の万物を生養するに上天の気に憑藉を要し、その路数は同様に簡略にして、作用は過ぎず省事にして沉默するのみである:大費周章するに及ばずして万物は自然に生出し、刻意に施為するに及ばずして万物は自然に長成し、もまた本来この如し。

然則乾言易知、坤言簡能者何也?蓋乾體在上,坤道在下,萬物始於無形,而乾能知其時,下降而生之;坤道在於下,而能承陽之氣,以作成萬物之形狀,其道凝靜,不須煩勞,故乾言易知,坤言簡能也。若夫生成之道於物艱難,則不為易知;若於事煩勞,則不為簡能也。

然らば何故に乾は平易を以て知を主とし坤は簡約を以て能を見るを以て講ずるか。乾体は上に居り坤道は下に居るが故である:万物は無形の処より開始し、乾は能くあの時機を把握し、陽気を下降せしめてそれらを生発せしむ。坤は下方に処り、能く陽気を承接し、万物の形体を制作し出し、その路数は凝定安靜にして、繁重労作を須としない。故に乾は平易にして知を主とすると言い、坤は簡約にして能く成すと言う。かえって言えば、もし生養成物の過程が万物に対して艱澀難為ならば、便ち平易と称し得ず。もし事を做り起すに煩瑣労頓ならば、便ち簡約と称し得ず。

易則易知,簡則易從。

経文に曰く:平易なれば、別人は理解し親近し易し。簡約なれば、別人は跟従し奉行し易し。

義曰:此復說上乾以易知也。夫天之道,寂然不見其用,杳然而不知其為,及夫四時之代謝,萬物之生殺,不待煩勞而自然者也。夫人君居兆民之上,為生靈之主,天下之事固不可以一言而盡也,然而必當法此乾道簡易之徳,以總萬事之要目,則天下之道亦自然簡易而知也。

胡瑗の解釈:これは再び上文の乾が平易を以て知を主とする道理を申説す。天道は寂静無声にして、それが何の作用を起こすかを看出せず。幽遠難測にして、またそれが究竟何を做したかを知らず。しかし四季は自然に更替し、万物は自然に生長凋落し、皆繁労を須とせずして自然に成る。人君は万民の上に高居し、天下生霊の主宰で、天下の事は当然一句の話に講じ完るべからず。しかし彼は必ず乾道この平易の徳に效法し、万事の綱要を抓住して以て全局を統攝せねばならず、さらば天下を治理する路数も便ち自然に簡明知可と変成す。

簡則易從者,復解上坤以簡能也。夫地以純陰之氣上承於天以生萬物,不在煩勞而自然簡易,天下之物各遂其性者也。夫為臣之道,為國家之樑棟,作士民之冠冕,必當法此地道之簡易,承君之命,宣君之化,敷布於天下,簡其萬事之要,則天下可易從矣。

簡約なれば便ち跟従され易しと言うは、これは再び上文の坤が簡約を以て能を見るの意思を解釈す。地は純陰の気を以て上に向かって天気を承接して以て万物を生養するに、繁労に靠らずして自然簡約にして、天下の物は各自その本性を遂ぐ。臣子を為すの道理も同様である:身は国家の棟梁・士民の表率たりて、必ず地道の簡約に效法し、君主の命令を承接し、君主の教化を宣揚し、それを天下に布施して、ただ万事の要領を抓住せば、こうすれば天下の人は跟って奉行し易し。

易知則有親,易從則有功。

経文に曰く:平易にして知るべければ、人は親近を楽しむ。簡約にして従うべければ、事は容易に成效を見る。

義曰:此二句論聖賢法此乾坤簡易之理也。親者,親比也。言聖人法此天道,簡其萬事之要,不假繁冗,屑屑於治體,惟在廣其仁義生成之道,以及於天下,昭蘇萬有,養育萬民。夫如是,則天下之人皆悅而親比之也。易從則有功者,言人臣之道法此地道,奉君之命,行君之事,不在繁冗,使天下之人於事易從,不在冗屑,而其功易成也。

胡瑗の解釈:この両句は聖賢が乾坤の簡易の理に取法することを講ずる。「親」とはすなわち親近依附。意味は聖人は天道に效法し、ただ万事の綱領を抓住し、繁瑣冗雑を搞さず、また治理の枝節の上に斤々計較せず、ただ仁義生養の道を推广開来し、天下に遍及し、万物を重新生機を獲せしめ、百姓を養育を得せしむるを求めるのみ。このように做れば、天下の人は自ずから皆心悦誠服して彼に親近依附す。簡約易従なれば便ち功を見易しと言うは、臣を為すの道が地道に效法することを講ず:君主の命令を奉行し、君主の交代した事を辦理し、繁冗を搞せず、天下の人を事を做起して跟従し易くせしめ、瑣碎に糾纏せざれば、功業は自ずから成就し易し。

有親則可久。

経文に曰く:衆人の親近帰附を得れば、事業は便ち長久に維持し下去り得る。

義曰:此二句論人法乾坤久而益大也。物既和親,無相殘害,故可久也。言聖人既能法天之生物,順其萬物之情,成其至道之要,施之無窮,傳之萬世,天下之人既親比之,久而不朽,此聖人之道至大者也。

胡瑗の解釈:この両句は人が乾坤に效法するは、愈久しく愈益その広大を見るを講ず。万物は既に彼此和睦親近し、互相残さず。故に長久を得る。意味は聖人は既に能く上天に效法して万物を生養し、万物本来の情性に順応し、大道の綱要を成就し、施行すれば窮尽なく、伝流し下去れば万代に及べる。天下の人は既に彼に親近帰附せば、この份の事業は歷久にして不朽壞す。これがまさに聖人の道の最も宏大なる処である。

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