Libo

帰妹 兌下震上

宋 · 胡瑗 · 第30巻 / 51

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

歸妹,征凶,無攸利。

《帰妹》卦の卦辞にいう。随嫁の妹妹・侄女の身分を以て夫家に嫁いで、若し本分に安んぜずして一意に前に向かって進を争えば、即ち凶険を招致して、何の一処の利益を得べきもなきなり。

義曰:按《序卦》云「進必有所歸」,故受之以《歸妹》。大凡人事,其進必有所歸;若進而無所歸,則是於進之義失其道矣。然則所謂歸妹者,謂侄娣從女兄而適於人,故謂之歸妹。夫人之不孝,無後為大。其諸侯守宗廟社稷之大,其事尤重,故聖人制禮,使一娶九女,廣其繼嗣,生生不絶,永可以守宗廟社稷之祀而不廢也。

胡瑗が解説します。《序卦伝》の「進必有所帰」の説法に依れば、事物は前に向かって推進して後に必定に帰宿有るを、だから《漸》卦の後に接きて《帰妹》を排す。凡そ人間の事は、前に往き走れば必ず安頓の去処有るを要す。只だ前進を知りて帰るべきの処なければ、即ち「進」此の件事の上に於いて正道を失掉す。いわゆる「帰妹」は、陪嫁の侄女と妹妹との嫡姐に随いて一同に夫家に嫁ぐを指す。古人は不孝の中に於いて後嗣なきを以て最も厳重と為し、而も諸侯は世代に宗廟社稷を守住して、子嗣を伝続するの一事は更に緊要なれば、だから聖人は婚禮を制定して、諸侯をして一次に九位の女子を娶り帰らしめて、子嗣の來源を拓き広げて、生養は断絶せず、能く長久に宗廟社稷の祭祀を守住して中廃するに至らざらしむるなり。

故娶一而二往從之,為左右媵,各有侄娣,同姓者九人。必須同姓,所以親親相睦,絶爭妬之心,是以聖人重之。因震兌之象以明其義:震為長男,兌為少女,以少女從於長男,非其所配也;非其配而從之者,則是侄娣而從於女兄適人之義也。征凶無攸利者,此言侄娣雖從於人,然上有女兄為之正配,當退守其分。苟非其位而有征進,則是侵女兄之權,奪女兄之寵,欲以下而陵於上,以卑而侵於尊,以庶而亂於嫡,是凶之道,必無所利也。

だから諸侯は正式に一位の正妻を迎娶して、別に两箇の同姓の国は女を送りて陪嫁して、左媵・右媵と称す。正妻と両媵とはまた各自に侄女・妹妹を帯びて随行して、合し起せば共は九人なり。必ず同姓なるべしと規定する所以は、血親の間をして彼此に親愛和睦せしめて、寵を争い嫉妬するの心を杜絶せんと欲すればなり、聖人はまさに此に因りて此の套の礼制を看重す。胡瑗はまた上震下兌の卦象に就きて来たりて卦義を闡明す。震は長男を象徴し・兌は少女を象徴して、少女を以て去りて長男に追随するは、本来即ち彼女と相配するの対象にあらざるなり。すでに正配にあらずして仍として之に随いて出嫁せば、あれはまさに侄娣の嫡姐に跟いて人に嫁ぐの意なり。卦辞の「征凶、无攸利」は、侄娣はたとい同じく夫家に嫁入るも、但し上頭に還有嫡姐が正妻と作り居れば、彼女らは理当に自らの名分を退守すべくを言うなり。たとい本位に安んぜずして前に向かって進を争えば、則ちそれは嫡姐の権柄を侵奪し・嫡姐の寵愛を搶き走る、下を以て上に凌ぎ・卑を以て尊を侵し・庶を以て嫡を乱る、これまさに凶を招くの道にして、必然に一に利する所なきなり。

彖曰:歸妹,天地之大義也。天地不交而萬物不興,歸妹,人之終始也。說以動,所歸妹也。征凶,位不當也。無攸利,柔乘剛也。

《彖伝》にいう。帰妹の礼は、体現する所は天地の間の最も重大の道理なり。天地の二気は若し交感せざれば、万物は即ち興起するに従なし。男女の婚配・侄娣の随嫁は、まさに人類の生命の終結と延続とに関係す。下卦兌は喜悦を主り・上卦震は行動を主りて、喜悦に因りて行動すれば、嫁出す所はまさに妹なり。卦辞の「征凶」と言うは、各爻の処する所の位次は並びに相当ならざるがゆえなり。「无攸利」と言うは、陰柔は陽剛の上に凌駕するがゆえなり。

義曰:此廣言天地之道,以明歸妹之義也。夫天地之道,陽氣下降,陰氣上升,陰陽交通,二氣相感,然後萬物生。若其二氣不相交感,則萬物孰由興發而生成也?故古者諸侯一娶九女,所以廣繼嗣而承守宗廟社稷之祀;若其婚姻之禮廢,不廣其繼嗣,則其社稷之祀、宗廟之奉絶而無守,是猶天地不交則萬物不能興也。

胡瑗が解説します。此の一段は天地運行の大道より推して広く発揮して、以て《帰妹》一卦の意義を闡明す。天地の法則は、陽気は自ら上よりして下降し・陰気は自ら下よりして上升し、陰陽は彼此に貫通して・两種の気は互相に感応して、後に万物は乃ち化生を得たるなり。たとい此の两種の気は互いに交感せざれば、万物はまた何を憑りに興起して長成せんや。だから古時の諸侯は一次に九位の女子を娶り帰るは、まさに子嗣を広開して・宗廟社稷の祭祀を承担し守住するを好しと為るがためなり。たとい婚姻の礼は荒廃して・子嗣の來源を拓き広げるに往かざれば、ならば社稷の祭祀・宗廟の奉養は即ち断絶して承守する人なからん、これ譬えば天地の二気は交わらざれば、万物は便ち興発するに従なきがごとし。

歸妹人之終始者,言人凡有生則有死,有盛則有衰。諸侯一娶九女,正室死則右媵繼之,以至左媵及侄娣繼之不絶,所以廣其嗣息而承其祖先之業,是歸妹者人之終始者也。說以動所歸妹者,此因二體以釋歸妹之義。上體震,震為動;下體兌,兌為說。兌為少女而從於震之長男,非其所說者,今動而得說者,蓋其所歸嫁侄娣以從於女兄之故也。

《彖伝》は帰妹は人の終始に関ると説くは、人は生有れば必ず死有り・興盛有れば必ず衰微有るを言うなり。諸侯は一次に九女を娶るは、正妻は去世せば便ち右媵に由りて接続し、再び下に往きて左媵および侄娣に由りて依次に接続して断絶せず、以て子孫を広開し・祖先の基業を承接すれば、だから帰妹は人倫の終結と開始とに関係すると説く。「説以動、所帰妹也」に至っては、上下の两箇の単卦の性情に就きて来たりて卦義を解釈す。いわゆる「卦徳」は、即ち一卦の代表する所の性情と作用なり。上卦は震、震の卦徳は動を為し・下卦は兌、兌の卦徳は悦を為す。兌は少女にして震の長男に追随するは、本は彼女の喜悦する所の対象にあらざるに、今、却って能く一面に行動して一面に喜悦するは、まさに嫁ぐ所は侄娣にして・嫡姐に随いて一同に門を過ぐるの縁故なるがゆえなり。

征凶位不當者,謂九四、九二皆以陽居陰,六三、六五以陰居陽,是位不當也。夫以侄娣而從於女兄,是不當其正位;既不當其正位而妄有征進,則奪寵侵權,凶之道也。無攸利柔乗剛者,蓋六三之柔乗九二之剛,六五之柔乗九四之剛。言柔乗剛者,是卑陵於尊,庶亂於嫡,必不利矣。

「征凶、位不当也」と説くは、九四・九二の两爻は皆陽爻を以て陰位に居り・六三・六五の两爻は皆陰爻を以て陽位に居るを指し、此れ即ち「爻位」の当たらざると叫ぶなり。いわゆる爻位は、一爻の六箇の位次の中に処する所の位置、および其の陰陽属性と此の位次とは相合するか否かを指す。侄娣は嫡姐に跟いて人に嫁ぐは、本来即ち正妻の名位の上に立たざるなり。すでに正位に在らざるに、却又胡乱に前に向かって進を争えば、即ち寵を奪い権を侵す、これは凶を招くの道なり。「无攸利、柔乗剛也」と説くは、六三此の一陰爻は九二の陽爻の上に凌駕し・六五此の一陰爻は九四の陽爻の上に凌駕するがゆえなり。「剛柔」は陽爻と陰爻の代称。陰爻は陽爻の上面に圧るを「乗」と叫び・緊接して陽爻の下面に在るを「承」と叫び、合して「承乗」と称す。陰柔を以て陽剛に乗ずるは、即ち卑者は尊者に凌駕し・庶妾は嫡妻を扰乱して、必定に利有ることなからん。

象曰:澤上有雷,歸妹。君子以永終知敝。

《象伝》にいう。沼沢の上に雷声を響かす、これ即ち《帰妹》卦の取象なり。君子は此に由りて領悟す。事を弁ずるは着眼して長久の結局に於いてし・併せて預め一套の制度は末流に到りて終に出現するの弊敗を看清すべきなり。

義曰:澤上有雷,所以鼓動萬物以廣生成之功,有歸妹之象,故聖人名為歸妹,一娶九女之道,使其永久繼嗣而無絶。君子之人觀此歸妹之象,必當察其事之永乆,法之終末必有敝壞,當預防之可也。

胡瑗が解説します。沼沢の上に雷有りて、雷声は万物を鼓動して、化育生成の功をして推し広げるを得せしめば、まさに帰妹の象徴に合乎せり、だから聖人は此の一卦に名を帰妹と取るなり。一次に九女を娶り帰るの制度は、即ち子嗣をして長久に延続して断絶せざらしめんと欲するなり。君子は此の卦象を観察して、必ず一件の事は能く長久に維持するか否かを考察して・併せて明白にするは任何の一套の法度も末流に到れば皆敗壞を出現して・応に預め防範を加えるべきなり。

初九:歸妹以娣,跛能履,征吉。象曰:歸妹以娣,以恆也。跛能履吉,相承也。

初九の爻辞にいう。随嫁の妹妹の身分を以て出嫁するは、即ち跛脚の人の仍として能く走路するがごとく、此のように前行すれば是れ吉利なり。《象伝》にいう。娣の身分を以て随嫁するは、これは人倫の中の恒久にして変らざるの道理なり。跛脚にして仍として能く行走して吉を獲ずるは、彼女は能く安心して上の人に承事するがゆえなり。

義曰:女子少者曰娣。初九處一卦之始,最近卑下之地,是侄娣從於女兄以適於人,而能自處卑下,盡其卑順之道以承其上,而得侄娣之道,故曰歸妹以娣也。跛者,足之偏也,猶侄娣者非其正配,然而從女兄以適於人,能盡其道以配君子而廣其孕嗣以成其家,猶足之雖偏而能履地而行,不至於廢也。既能盡其侄娣之道,守卑順之質,以是而往事於君子,則獲其吉也。象曰歸妹以娣以恆者,言女弟以從於女兄而適人者,人倫之常也。跛能履吉相承也者,言能盡其柔順承事於上,以承其家,吉之道也。

胡瑗が解説します。女子の中の年紀の較小なるを「娣」と叫ぶ。初九は全卦の開頭に処して、位置は最も下に靠り・最も卑微にして、まさに侄娣の嫡姐に跟従して夫家に嫁ぐを象徴して、而も能く卑下の位に安処して、力を尽くして謙卑柔順の道を守住して来たりて上面の人に奉事して、それによって侄娣の応有の分際に合乎せば、だから爻辞は「帰妹以娣」と説く。「跛」は脚に偏残有る、譬えば侄娣は併せて正妻にあらざるなり。しかるに彼女は嫡姐に随いて人に嫁いで、能く自らの本分を尽くして丈夫を輔助し・子嗣を繁衍し・家室を成就すれば、即ち脚はたとい偏残なるも仍として能く地を踏みて行走して・廃棄せられて用いられざるに至らざるがごとし。すでに能く侄娣の道を尽くし・謙卑柔順の本質を守住して、此のようの態度を用いて去りて丈夫に侍奉すれば、自然に吉祥を獲得す。《象伝》の「帰妹以娣、以恒也」は、妹妹は嫡姐に随いて出嫁するは、これは人倫の常道なりを言うなり。「跛能履吉、相承也」と言うは、彼女は能く柔順の徳を尽くして上の人に承事して、従而に家室を撑持し起すを言い、これ即ち吉を獲るの道なり。

九二:眇能視,利幽人之貞。象曰:利幽人之貞,未變常也。

九二の爻辞にいう。一隻の眼睛に毛病有るの人は仍として能く看見す、宜しく幽居して静を守るの人のごとく正道を固守すべし。《象伝》にいう。幽静の人の貞正を守るに宜しきは、彼女は併せて恒常の道を改変せざるがゆえなり。

義曰:眇者,目之偏也。九二以陽居陰,履非其正,亦猶侄娣從於女兄非正室之象也。然而能盡卑下之節以承於上,而配君子,廣其繼嗣,猶目之偏亦不廢於視也。利幽人之貞者,言九二雖履非其正,然上有六五之應;雖上有其應,而為侄娣者不可越其位分而上進,如其妄求上進,則奪女兄之權,故當退處其位分,守其幽靜之道而不變,故獲其利。象曰利幽人之貞未變常者,言侄娣所以從女兄而適人,必居幽靜守正以事君子,此道之常也。九二雖有其應,不妄求進,盡至正之道,是未變其常也。

胡瑗が解説します。「眇」は一隻の眼睛に偏残有るなり。九二は陽爻を以て陰位に居りて、処する所は併せて正に合乎せず――陽爻は陽位に居り・陰爻は陰位に居るを乃ち「正」と叫び・上下卦の中間の一爻に居るを「中」と叫び・両者は兼備すれば便ち「中正」と称す。これまさに侄娣の嫡姐に随いて出嫁して正妻にあらざるの形象に象る。しかるに彼女は能く謙卑の節を尽くして来たりて上面の人に奉事し・丈夫を輔佐して・子嗣を広延すれば、即ち眼睛はたとい偏残なるも亦観看を妨げざるがごとし。「利幽人之貞」と説くは、九二はたとい処する所は正ならざるも、上面に却って六五とそれと相「応」ずる有り。いわゆる応は、初と四・二と五・三と上の此の三組の位次の間の一陰一陽の彼此に呼応するの関係を指す。たとい上に呼応有るも、但し身は侄娣を為れば已むを得ず自らの名分を越過して上に向かって進を争うべからず、若し妄りに上進を求めば、即ち嫡姐の権柄を奪去せん、だから応に本分を退守して・幽静自処を堅持して改変せざれば、それによって乃ち利益を獲得す。《象伝》の「利幽人之貞、未変常也」は、侄娣は嫡姐に随いて人に嫁ぐに、必ず幽静自守して・正を持して以て丈夫に事えて、これは恒常の道なりを言うなり。九二はたとい呼応有るも妄りに前進を求めずして、至正の道を尽くせば、まさに常道を改変せざるなり。

六三:歸妹以須,反歸以娣。象曰:歸妹以須,未當也。

六三の爻辞にいう。出嫁の妹妹は還須等待して、時候の到るを待ちて再び回頭して以て娣の身分を以て出嫁せん。《象伝》にいう。出嫁して須要等待するは、眼下は還有適当の時候に到らざるがゆえなり。

義曰:須,待也。六三以陰柔之質居剛陽之位,是履非其正也,猶侄娣之從於女兄,其年尚幼,未可以適人,必待年於父母之國,待其長大,然後復歸君子之家以為侄娣。故《春秋》隱二年書伯姬歸於紀,至七年書叔姬歸於紀。伯、叔者,長幼之稱,則叔姬者伯姬之侄娣也。當二年伯姬歸紀之時,其年尚幼少,故待年於魯國,至七年乃始歸於紀,是侄娣有待年之義也。象曰歸妹以須未當者,是言侄娣有幼少未當歸人,必待年於父母之國也。

胡瑗が解説します。「須」は即ち等待なり。六三は陰柔の資質を以て陽剛の位次を占踞して、処する所は正に合乎せず、譬えば侄娣は本応に嫡姐に随いて出嫁すべきに、しかるに年紀は還小にして、能く人に嫁がざれば、只だ父母の国に留りて年齢の合宜を待ちて、長大して後に乃ち夫家に到りて侄娣を充当するに如かざるがごとし。だから《春秋》の隠公二年は伯姬の紀国に嫁往するを記載し、隠公七年に到りて又叔姬の紀国に嫁往するを記載す。伯・叔は排行長幼の称呼にして、見るべし叔姬は即ち伯姬の侄娣なり。隠公二年に伯姬は紀国に出嫁するの時、叔姬は年紀は還小なれば、それによって魯国に留りて成年を等待して、七年に直到りて乃ち紀国に嫁到れり、これ即ち侄娣に「待年」の礼有るの実例なり。《象伝》の「帰妹以須、未当也」は、まさに侄娣は年紀は幼小にして、還有嫁ぐの時候に到らざれば、必ず父母の国に於いて成年を待つべきを言うなり。

九四:歸妹愆期,遲歸有時。象曰:愆期之志,有待而行也。

九四の爻辞にいう。出嫁の日子は原定の期限を拖過せり、晚めに出嫁するは自ら其の合適の時機有るなり。《象伝》にいう。婚期を延誤するの心意は、等待する所有りて後に乃ち行動するなり。

義曰:愆,過也。九四以陽居陰,處非正位,猶女子雖備侄娣之數以適於人,過期而未往。雖過期未往,然而以剛陽之質居陰柔之位,不為躁進,有柔順之徳,以其年尚幼,未可以往,故待其禮之全備,俟其年之長大,然後歸於君子,斯得其時也。遲,亦待也。象曰愆期之志有待而行者,言九四居其陰位,有柔順之徳,不務剛躁,是志有所待而行也。

胡瑗が解説します。「愆」は即ち超過なり。九四は陽爻を以て陰位に処して、正位に居らず、譬えば女子はすでに侄娣の数に列入して・応に人に随嫁すべきに、却って婚期を過ぎて還有前往せざるがごとし。たとい期を過ぎて未だ嫁がざるも、但し彼女は陽剛の資質を以て陰柔の位に居りて、肯んじて躁急冒進せずして、柔順の徳を具備す。年紀は還小にして能く出嫁せざるがゆえに、だから礼数の完備・年歳の長成を待ちて、後に乃ち夫家に帰して、此のようで乃ち時宜に合乎すと算す。「遅」も亦等待の意なり。《象伝》の「愆期之志、有待而行也」は、九四は陰位に居りて、柔順の徳を具備して、剛強急躁を逞くせずして、心志は等待する所有りて後に行動するを言うなり。

六五:帝乙歸妹,其君之袂不如其娣之袂良,月幾望,吉。象曰:帝乙歸妹,不如其娣之袂良也。其位在中,以貴行也。

六五の爻辞にいう。商王帝乙は妹妹を嫁出し、あの正室を為るの衣袖の装飾は返って陪嫁の娣の華美に比ぶに及ばず、月亮は將に圓れんとして未だ満たざる、吉利なり。《象伝》にいう。帝乙は妹を嫁すに、正室の衣飾は其の娣の美好に及ばず。六五は上卦の中位に処するは、尊貴の身分を以て行事するなり。

義曰:帝乙者,商之賢王也。言六五以陰柔之質居上卦之中,是猶帝乙之王所歸之妹也。然按《泰》之六五言帝乙歸妹,此亦言之者,蓋帝乙是商之賢王,於時最能盡婚姻之禮,周之去商尤近,知其最詳,故聖人特取帝乙為言以明其義也。

胡瑗が解説します。帝乙は商代の一位の賢明の君王なり。六五は陰柔の資質を以て上卦の中位に居れば、即ち帝乙の嫁出せるのあの位の妹妹に譬ゆ。《泰》卦の六五も亦「帝乙帰妹」を講じ到りて、此処に又一次提起するは、帝乙は商代の賢王にして、当時に於いて最も能く婚姻の礼を行い周全せしむるがゆえなり。周朝は商代に距離すること甚だ近くして、これらの礼制に対して知るは最も詳細なれば、だから聖人は特意に帝乙を挙げて例と為して来たりて卦義を闡明す。

其君之袂不如其娣之袂良者,蓋君者,正室之小君也。故《衛詩·鶉之奔奔》之篇曰:「鶉之奔奔,鵲之疆疆,人之無良,我以為君。」君者指宣姜而言之,是正室得稱為君也。袂謂衣袖,所以為禮容也。良,善也。

「其君之袂不如其娣之袂良」と説く、其の中の「君」は正室を指し、亦即ち諸侯夫人の称する所の「小君」なり。だから《詩経》の衛地の詩の《鶉之奔奔》の一篇は写して曰く。鵪鶉は双双として相随い・喜鵲は対対として群を成し、あの人の品行は併せて美好ならざるに、我は却って還得彼女を把して国の君夫人と為さざるを得ずと。詩の裏の「君」はまさに衛国の宣姜を指せば、見るべし正妻は以て君と称すべきなり。「袂」は衣袖を指し、是れ礼儀容飾を顕示するの部位なり。「良」は即ち美好なり。

言侄娣本卑賤之位,今六五居極貴之地,是正室已死而侄娣繼為正室,有柔順之德,能盡婦道以配於君子,雖其正室之徳亦不如侄娣之容禮最備而善良也。月幾望者,望為月十五盈滿之時也。月者,陰道婦妾之象也。言六五雖得繼為正室,處至貴之地,然不可時有驕盈之志,當常執柔順之道,但如月之幾近於望,不至盈滿,則獲其吉。象曰其位在中以貴行者,六五以其處上卦之中,履至尊之位,是侄娣至此得繼其嫡而為正室,以配於上,是以賤從貴而行也。

これは侄娣は本は卑賤の地位に処するに、今、六五は却って極めて尊貴の位に居れば、見るべし是れ正妻はすでに去世して、侄娣に由りて接続して正室と為れるを言うなり。彼女は柔順の徳を具備して、能く婦と為るの道を尽くして来たりて丈夫を輔佐すれば、たとい原来の正妻の徳行なるも、亦此の位の侄娣の儀容礼節の最も周備にして美好なるに比ぶに及ばざるなり。「月幾望」の「望」は、每月十五の月亮の圓満するの時なり。月亮は陰に属し、是れ婦人妾媵の象徴なり。これは六五はたとい接続して正室と為り・至尊の地に処するを得たるも、却って已むを得ず驕矜自満の念頭有るべからず、応に終始として柔順の道を守住して、只だ月亮の満圓に接近して極盈の程度に到らざるがごとく、此のようで乃ち能く吉を獲るべきを言うなり。《象伝》の「其位在中、以貴行也」は、六五は上卦の中位に処し・至尊の位に居りて、侄娣は此処に到りて接続して嫡妻と為るを得て正室と為りて、上の丈夫に配合するを言い、これは卑賤の身に由りて尊貴に随従して行事するなり。

上六:女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。象曰:上六無實,承虛筐也。

上六の爻辞にいう。女子の捧着するの竹筐の裏は空して一物なし・男子は羊を宰するも血を見ず、一処の利有るはなきなり。《象伝》にいう。上六は一無所有、捧ぐるは一隻の空筐なり。

義曰:筐,竹器也。大凡女子承其筐篚,必有物以實之;士之刲羊,必有其血,此事之常也。亦猶侄娣之適於人,進必有所遇,退必有所繫,此亦女子之常也。今上六處一卦之上,居窮極之地,進則無所往,退則無所應,進退之間皆無所得,如女子之承筐而無其實,士之刲羊而無其血,進退失所,若以此而行,何有所利哉?象曰上六無實承虛筐者,上六位至窮極,進退無所適,猶女徒承虛筐而無其實也。

胡瑗が解説します。「筐」は竹編の器具なり。凡そ女子は筐篚を捧げて祭祀に参与するは、裏面に必定に祭品を盛有り。男子は羊牲を宰殺すれば、必定に血を見る、これは常理なり。これも亦譬えば侄娣は夫家に嫁いで、前に進めば必定に遇合する所有り・退処すれば必定に依托する所有る、これも亦女子の常態なり。今、上六は全卦の最上に処して、窮尽の極点に到れるの地方に居りて、前に往けば往くべきの処なく・後に退けばまたそれと呼応するの爻なく、進退の間は一の得る所なければ、即ち女子は筐を捧げて筐中は空空・男子は羊を宰して血を見ざるがごとく、進退は皆帰宿を失掉せり。このように照らして行事せば、何処に還会何の利益の言うべき有らんや。《象伝》の「上六无実、承虚筐也」は、上六の位次はすでに窮尽の極に到りて、進退は皆往くべきの処なきを言い、即ち女子は白白に一隻の空筐を捧げて裏頭は何もなきがごとし。

豊 離下震上

豐:亨。王假之,勿憂,宜日中。

《豊》卦の卦辞にいう。豊大の時は以て亨通すべし。君王は能く此のごときの盛大の境地に到達せば、即ち憂慮するに及ばず、只だ太陽の正中に行き到るがごときの普く四方を照らせば便ち好し。

義曰:按《序卦》云「得其所歸者必大」,故受之以《豐》。言凡得其所歸者,其道必至盛大,故以豐次於歸妹。然則豐者,王者富有天下,生聚繁夥,民物眾多,是天下眾大之時也,故謂之豐。既富有天下以至豐盛之極,是其道大通矣。

胡瑗が解説します。《序卦伝》の「得其所帰者必大」の説法に依れば、凡そ帰宿を得たるの事物有れば、其の道は必定に盛大に走向すれば、だから《豊》卦は《帰妹》の後に排せらる。いわゆる豊は、君王は天下に富有して・人口は繁衍聚集して・百姓と物産とは皆極めて多くて、まさに天下の人衆物盛の時なれば、それによって豊と叫ぶなり。すでに天下に富有して豊盛の頂点に達せば、ならば其の行う所の道は自然に大いに通達す。

王假之者,凡有聖人之徳,有仁義之道,苟不得其時,不得其位,則無興天下之勢,無居天下之資,是則雖有仁義之道,安能有所為哉?故聖人必假此豐盛之時,發號施令則民易以從,行賞用罰則民易以服,以至制禮作樂,施發教化,可以大行於天下也。

「王假之」と説き到るは、一人は縦然に聖人の徳行を具備し・仁義の道を抱持するも、若し生れて時に逢わずして・また相応ずるの地位を得ざれば、則ちすでに天下を振興するの形勢なく・亦據りて天下を治理するの憑藉なし。このようにてはたとい仁義の道を懐くるも、又能く何の事を為成さんや。だから聖人は必ず豊盛の時機を憑藉せねばならざるを言うなり。政令を発布すれば、百姓は即ち聴从し易く・賞罰を施行すれば、百姓は即ち信服し易く・進みて礼を制し楽を作りて・教化を推行すれば、皆能く天下に於いて大規模に施行すべきなり。

勿憂宜日中者,夫天下至廣,有教化之所不能及者,有一物不得其所者,是王者之所憂也。今戒之勿憂者,日中則宜也。蓋言日未中之時,則其明未盛;日之過中,則其明將衰;惟是日中正之時,則徧照天下,無纎悉幽隱不被其光輝。聖人雖富有天下,必須仁義道徳徧及於天下,使無一民一物不被其澤,不被其燭,如此可以勿憂恤也。

「勿憂、宜日中」と説き到るは、天下は極めて広大にして、総に教化の到る能わざるの地方有りて、亦某の一樣の人や物が各々其の所を得る能わざる有らん、これまさに君王の憂慮する所なり。今、卦辞は却って彼に憂慮するに及ばざるを叫ぶは、太陽の正中に当たるがごときを為し到れば即ち合宜なるがゆえなり。太陽は還有正中に升り到らざれば、光明は即ち盛ならざるに足らず。一たび正中を過ぎれば、光明は即ち衰減せんとす。唯だ正中の中天に当たるの時刻のみが、能く遍く天下を照らして、再び細微幽暗の角落も亦其の光輝を受けざるなきなり。聖人はたとい天下に富有するも、亦必ず仁義道徳を天下に遍及せしめて、一箇の百姓・一件の事物をも恩沢を得ざる・光明を照らされざるなからしめて、此のようで乃ち憂愁せざるべきなり。

彖曰:豐,大也。明以動,故豐。王假之,尚大也。勿憂宜日中,宜照天下也。日中則昃,月盈則食,天地盈虛,與時消息,而況於人乎?況於鬼神乎?

《彖伝》にいう。豊は、即ち盛大なり。内に光明を懐いて外に能く行動せば、だから豊と叫ぶ。君王は此の種の境地に達するは、盛大を崇尚するがゆえなり。憂慮するに及ばずして日の正中に象るに宜しきは、普く天下を照らすべきを言うなり。しかるに太陽は一たび正中に到れば即ち偏斜し・月亮は一たび圓満すれば即ち虧蝕す。天地の間の盈満と空虚とは、皆時序に随い退して消え長ず、まして人においてをや、まして鬼神においてをや。

義曰:言聖人廣有四海萬類,是豐盈盛大之時也。明以動故豐者,此因二體以明豐卦之義。上體震,震為雷;下體離,離為火。雷主動,火主明。聖人當豐盛之時,以至明之徳而動,則其徳敎仁義大被於天下,故此所以致豐大之極也。

胡瑗が解説します。これは聖人は四海を広有して・万類は帰附して、まさに豊盈盛大の時なりと講ずるなり。「明以動故豊」と説くは、上下両卦の卦徳に就きて来たりて《豊》卦の意義を闡明す。上卦は震、震は雷を象徴し・下卦は離、離は火を象徴す。雷は発動を主り・火は光明を主る。聖人は豊盛の時に処して、極めて明察の徳行を憑りて後に行動すれば、彼の徳教と仁義とは即ち能く天下に広被して、これで乃ち豊大の極致を造成す。

王假之尚大者,夫有聖人之徳,雖居豐盛則不能加益,雖貧賤則不能虧損。此言尚大者,蓋其得天下之勢,則仁義道德可以大行於天下,而成光大明盛之業,固非假以自大其已而己。勿憂宜日中宜照天下者,言日之中正,則天下萬物無所不照;王者之道能徧通天下,使遠近幽隱無所不燭,如日之中,乃可以勿用憂恤也。

「王假之、尚大也」と説く。聖人の徳行は本身は併せて豊盛に身を処するに因りて增添せず、亦貧賤に身を処するに因りて減損せざるなり。此処の崇尚盛大と説く所以は、彼は一旦天下の形勢を掌握せば、仁義道徳は便ち能く天下に大行して、光明盛大の功業を成就して、決して是れ豊盛を借りて自らを抬高するのみにあらざるがゆえなり。「勿憂宜日中、宜照天下也」と説くは、太陽は正中に行き到れば、天下の万物は照らされざるなくを言うなり。君王の道は能く天下に遍通して、遠近幽隠の処をして光明に覆被せられざるなからしめば、即ち太陽の正中に当たるがごとく、これで乃ち憂愁せざるべきなり。

日中則昃、月盈則食、天地盈虛、與時消息、而況於人乎、況於鬼神乎者,言凡當盛大之時,過必有衰,是故聖人於此豐大之時以切戒之。言日之過中則必傾昃,月三五而盈,過盈則必虧;天地之道,以陰陽二氣互相推蕩於其間,則有時而消虛,有時而長息,盈虛消息皆於時而行。以天地日月之大尚且如是,況人之小者、鬼神之邇者乎?故於此特戒之,使君子之人安不忘危,存不忘亡,豐盈之時不忘其衰微之際,增修其徳,謹慎其行,然後可以免喪亡傾覆之事也。

「日中則昃、月盈則食、天地盈虚、与時消息、而况于人乎、况于鬼神乎」に至っては、凡そ盛大の時に処するは、頭を過ぎれば必定に衰に轉ずを言い、だから聖人は此の豊大の際に鄭重に告誡す。太陽は一たび正中を過ぎれば必然に西に斜け・月亮は十五に到りて圓満して、圓満を過ぎれば必然に虧缺す。天地の法則は、陰陽二気は其の間に於いて互相に推移激蕩して、それによって時には消退虧虚し・時には増長充盈して、盈虚消長は全て時序に随いて運行す。天地日月の此のごときの広大の存在を以てすら尚且つ此のごとし、まして渺小の人・切近の鬼神においてをや。だから特意に此処に於いて告誡して、君子をして安定の時に危難を忘れず・生存の時に覆亡を忘れず・豊盈の時に処して日后の衰微の境地を忘れず、進みて徳行を修養し・行事を謹慎して、後に乃ち喪亡傾覆の禍患を免るべからしむるなり。

象曰:雷電皆至,豐。君子以折獄致刑。

《象伝》にいう。雷と電とは一同に到来す、これ即ち《豊》卦の取象なり。君子はこれに取法し、以て訟案を判断し・刑罰を施行す。

義曰:雷電者,皆陰陽二氣相擊而成也。夫雷電皆至於天下,使天下萬物莫不興起而成豐大,是豐之象也。君子之人觀此象而折斷其獄訟,致用其刑罰。然必法此雷電者,蓋獄訟之情巧偽萬狀,若有威無明則傷於暴,有明無威則傷於懦,故必明與威兼用之,則獄可折而刑可致矣。

胡瑗が解説します。雷と電とは皆陰陽二気の互相に撞撃して生成せらるるなり。雷電は一斉に天下に降臨して、天下の万物をして振起して豊大を成就せざるなからしめば、これ即ち豊の卦象なり。君子は此の象を観察して、以て訟案を判決し・刑罰を施用す。必ず雷電に取法するを要する所以は、訟獄の実情は巧詐万変なるがゆえなり。只だ威厳有りて明察なければ、即ち暴虐に失し・只だ明察有りて威厳なければ、即ち軟弱に失す。だから必ず明と威とを兼用して、案件は乃ち判じ清楚して・刑罰は乃ち施じ恰当すべきなり。

初九:遇其配主,雖旬無咎,往有尚。象曰:雖旬無咎,過旬災也。

初九の爻辞にいう。自らと相配するの主に遇上し、たとい身は数のすでに盈満するの時に処するも、亦過咎有ることなからず、前往すれば人の推崇を受けん。《象伝》にいう。たとい盈満の数に当たるも過咎を致さざるは、一旦此の限度を超過せば便ち災禍有らん。

義曰:配主謂九四也。夫豐盛之時,必須上下之間皆有光明盛大之徳以相敷暢,然後可得豐盛之道。今初以剛陽之徳上應於四,四亦有剛陽之徳,是上下之間皆有剛陽之徳,光明盛大之道,其徳相合配,故致其豐盛,是初遇其四之配主也。

胡瑗が解説します。いわゆる「配主」は、九四を指す。豊盛の時に処するは、必ず上下の間に皆光明盛大の徳行を具備して・彼此に敷布暢達して、後に乃ち豊盛の道を成就する能くす。今、初九は陽剛の徳を以て上に向かって九四と呼応し、九四も亦陽剛の徳を具備すれば、これ即ち上下は皆陽剛の徳有り・皆光明盛大の道を走る、二者は徳行は相合相配して、それによって豊盛の局面を造成せば、だから初九は九四此の配主に遇い到れりと説く。

雖旬無咎者,旬者十日也,謂數之盈滿也。言初與四皆有剛陽之徳而上下相信,是由君聖臣賢,其德相符。今以其發揚光明之徳徧於天下,是雖居其盈滿盛火之時,可以享豐盛而無咎也。往有尚者,言既上下之間皆有光明之徳,以此而往則行有所尚也。象曰雖旬無咎過旬災者,言上下俱有明盛光大之德,故雖居豐盈之時可以無咎;若不能守光明之道而過於盈滿,則必有傾覆之災也。

「雖旬无咎」と説く。「旬」は本は十天を指し、此処では以て数目のすでに盈満せるを表示す。初九と九四とは皆陽剛の徳を具備して上下は彼此に信任して、譬えば君主は聖明・臣子は賢能にして、徳行は互相に符合するがごとくを言うなり。今、光明を発揚するの徳行を憑りに天下に普及せば、だからたとい身は盈満至盛の時に処するも、仍として能く豊盛を享有して過咎を致さざるなり。「往有尚」と説くは、すでに上下は皆光明の徳有れば、此のように照らして前行すれば、為す所の行為は便ち推崇を受けんを言うなり。《象伝》の「雖旬无咎、過旬災也」は、上下は皆明盛光大の徳行有れば、だからたとい豊盈の時に処するも亦過咎有ることなからんを言うなり。但し若し能く光明の道を守住せずして盈満の限度を超出せば、即ち必定に傾覆の災禍を招来せん。

六二:豐其蔀,日中見斗,往得疑疾,有孚發若,吉。象曰:有孚發若,信以發志也。

六二の爻辞にいう。豊盛にする所は却って光明を遮蔽するの席幕、正午の時分に返って北斗を看見す。此のように前往すれば猜疑と禍害を招来せん。若し能く誠信を懐いて心意を発抒し出せば、則ち吉利なり。《象伝》にいう。誠信を懐いて発抒し出すは、誠信を用いて去りて衆人の心志を啓発するなり。

義曰:蔀者,掩蔽闇昧之物。凡豐大之時,必上下之間皆有明徳,不可少有闇昧,然後可以發暢於天下也。今六二以陰柔之質而上應於六五,五又是陰昧之人,是於豐大之時,所豐者不能光大,而乃豐於闇昧之物也。

胡瑗が解説します。「蔀」は光線を遮蔽して・昏暗を造成するの物なり。凡そ豊大の時に処するは、必ず上下の間に皆光明の徳有りて・稍も昏昧すべからずして、後に乃ち光明を天下に発揚する能くす。今、六二は陰柔の資質を以て上に向かって六五と呼応し、六五も又陰暗不明の人にして、これ即ち豊大の時に於いて、豊盛にする所の物は能く光大せず、返って遮蔽光明の物事の上に豊盛にするなり。

日中見斗者,斗星之名也,日昏方見,闇昧之極也。夫日之正中,其光輝徧及天下,無所不燭;豐盛之時,上下之間皆有光明之徳,則可以徧及於天下,無有不被其澤。今二居豐之時,所應皆闇昧之道,則是猶日之正中反見其斗星也。六二既是闇昧之道,則必不能相取信,若有所往,則相疑而致疾害也。

「日中見斗」と説く。斗は星宿の名称、天色は昏黒の時に乃ち看る能くすれば、見るべし昏暗は極点に到れり。太陽は正中に行き到れば、光輝は天下に遍及して照らざるの処なし。豊盛の時は、上下は皆光明の徳有れば、恩沢は即ち能く天下に遍及して、得ざる者なからん。今、六二は身は豊時に処して、呼応する所は却って皆昏昧の道にして、これ譬えば正午の時分に返って北斗を看見するがごとし。六二はすでに昏昧の道を走れば、即ち必然に能く別人の信任を取得せざらん。若し前往する所有れば、便ち互相に猜疑して禍害を招致せん。

有孚發若吉者,言六二雖以陰柔之質,無光明之徳,然位下卦之中,是有中正之道。苟能盡其至誠之心,由中之言以發天下之心志,以接天下之人,使之皆逹其聰明,莫不發其志意以親信之,如是上下相交而取信,則蒙者反而為明,疑者得以相信,則可以獲吉矣。

「有孚発若、吉」と説く。六二はたとい陰柔を以て質と為して・光明の徳行なきも、但しそれは下卦の中位に居りて、中正の道を具備す。たとい能く至誠の心を竭尽して・心の底より発するの言語を用いて去りて天下の人の心志を啓発し・天下の人を接引して、彼らの耳目をして皆通達聡明と為らしめ・人人は心志を振起して来たりて親近信任せしめば、此のように上下は交接して彼此に信を取りて、昏蒙の人は返って明白と為り・猜疑の人も亦互いに信任を得たれば、即ち能く吉祥を獲得すべし。

九三:豐其沛,日中見沬,折其右肱,無咎。象曰:豐其沛,不可大事也。折其右肱,終不可用也。

九三の爻辞にいう。豊盛にする所は光を遮るの旗幔、正午の時分に返って細微の小星を看見す。自らの右臂を折断するも、但し過咎なし。《象伝》にいう。豊盛にする所は只だ旗幔なれば、見るべし能く大事を承担せざるなり。右臂を折断したるは、終に能く任用する所有ることなからん。

義曰:沛者,繫於旗竿旌旗之垂也,所以掩蔽光明之物。沬者,星之微小也。九三雖以陽居陽,處得其正,有剛陽之質,然居離卦之位,處文明之衰,所應在於上六,上六又無光明之德,居豐之時不能光明盛大其道,是所豐者惟掩蔽光明之物也。

胡瑗が解説します。「沛」は旗竿に系いて下垂るの旌旗、遮蔽光明の物に属す。「沬」は細微暗小の星なり。九三はたとい陽爻を以て陽位に居りて・処する所は正を得て・陽剛の質を具有するも、但しそれは身は離卦の中に在りて、まさに文明の將に衰えんとするの際に当たりて、呼応する所は上六にして、而も上六も又光明の徳なし。豊時に処して能く自らの道を光明盛大せしめざれば、だから其の豊盛にする所は只だ遮蔽光明の物のみなり。

日中見沬者,夫斗者星之大,沬者星之微。六二雖亦闇昧,然猶有中正之徳,未甚至於全暗,故曰日中見斗。今九三居文明之極,其明已衰,而又所應者亦陰昧之人,是闇昧之極,猶日中反見其微星也。折其右肱者,夫手之便者在右而已,若右肱折,則左雖存亦不足適用也。言三居離明之衰,又所應皆無光明之道,雖以陽居陽,亦不能用成其事也。無咎者,九三本有光明之徳可以顯用,今處於衰暗之地,皆已自為之,不可以咎責於人也。象曰豐其沛不可大事者,凡欲立天下之治,成大事大功,必上下有光明之徳可也,今三已闇昧之甚,是不可大有為於事也。

「日中見沬」と説く。斗は較大の星・沬は極めて微小の星なり。六二はたとい亦昏昧なるも、却って還有中正の徳を保有して、全然の黑暗に至らざれば、だから只だ正午に北斗を看ると説く。今、九三は文明の尽頭に処して、光明はすでに衰退し・応ずる所も又陰暗の人にして、昏昧は極点に到れば、即ち正午に返って微星を看見するがごとし。「折其右肱」と説く。人手の霊便なるは右辺に在りて、右臂は一旦折断せば、左臂はたとい在るも亦使用するに足らざるなり。これは九三は離卦の光明衰微の時に処して、応ずる所も又皆光明の道なきにして、たとい陽爻を以て陽位に居るも、亦施展して事功を成就する法なきを言うなり。「无咎」と説くは、九三は本来光明の徳を具有して・顕揚任用すべきに、今、衰暗の地に落到したるは、全て自らの造成するにして、能く別人に帰咎責怪する能わざるがゆえなり。《象伝》の「豊其沛、不可大事也」。凡そ天下の治績を建立し・大事大功を成就せんと想うは、必ず上下は皆光明の徳有りて乃ち可なり。今、九三はすでに昏昧は甚だ太きれば、だから事功の上に於いて大いに作為有るは不可能なり。

九四:豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。象曰:豐其蔀,位不當也。日中見斗,幽不明也。遇其夷主,吉行也。

九四の爻辞にいう。豊盛にする所は光を遮るの席幕、正午に返って北斗を看見す。自らと同類の主に遇上す、吉利なり。《象伝》にいう。豊盛にする所は只だ席幕なるは、処する所の位次は相当ならざるがゆえなり。正午に北斗を看るは、幽暗にして明らかならざるなり。同類の主に遇いて吉を獲ずるは、終に能く行動する所有るに至れるなり。

義曰:蔀者,蔽障之物。言九四有剛陽之德,居陰柔之位,是當豐盛之時而反居於闇昧之地,故亦曰豐其蔀也。日中見斗者,夫居豐之時,當有光明盛大之徳,如日之中正無不照臨;今九四反以剛明之質處闇昧之地,是猶日中之見斗星,闇昧之至也。

胡瑗が解説します。「蔀」は光線を遮擋するの物なり。九四は陽剛の徳を具備して却って陰柔の位に居りて、まさに豊盛の時に当たりて返って昏暗の地方に処せば、だから亦「豊其蔀」と説く。「日中見斗」と説く。豊時に処するは、本応に光明盛大の徳行を具備して・太陽の正中に当たるがごときの照らざる所なかるべきに、今、九四は返って剛健明察の資質を以て昏暗の地に処せば、即ち正午に北斗を看見するがごとく、昏暗は極点に到れり。

夷主謂初九也。言四雖居陰暗之位,然本有剛明之質,而又應在初九,初亦有剛明之質,德與己同,故謂之夷主也。是上下之際交相發明,申暢其光明之徳以被天下,而獲其吉也。象曰日中見斗幽不明也者,言本有剛明之質而自處幽暗之地,不能發其光明之道。遇其夷主吉行也者,雖居陰暗而遇得初九剛明之夷主以相輔佐,而發明盛大之道,是得吉而行者也。

いわゆる「夷主」は、初九を指す。九四はたとい身は陰暗の位に居るも、本来は却って剛健明察の資質を具有して、而且に初九と相応じ、初九は同じく剛明の質を具有して・徳行はそれと相同じければ、だから夷主と称す、亦即ち同類の主なり。於是乎上下の間は互相に彰顕発明して、光明の徳を申展暢達して天下を覆被せば、それによって吉祥を獲得す。《象伝》の「日中見斗、幽不明也」は、本は剛明の質有るに、却って自ら幽暗の地に処して、能く光明の道を発揮する能わざるを言うなり。「遇其夷主、吉行也」と言うは、たとい身は陰暗に居るも、却って初九此の位の剛明の同類の主の来たりて輔佐するに遇いて、従而に盛大の道を彰明して、だから能く吉を得て行動する所有るを言うなり。

六五:來章,有慶譽,吉。象曰:六五之吉,有慶也。

六五の爻辞にいう。文采光明の賢才を招来せば、即ち福慶と美譽有り、吉利なり。《象伝》にいう。六五の吉を得るの所以は、慶賀すべきの事有るがゆえなり。

義曰:章,明也。六是陰柔之質,五是剛陽之位,以陰柔之質而來居陽剛,是自能為章美光大之道,以發揚明德於天下,故有慶善之事、嘉美之譽而獲吉也。

胡瑗が解説します。「章」は即ち明なり。六は陰柔の資質を代表し・五は陽剛の位次を代表す。陰柔の質を以て来たりて陽剛の位に居れば、それは自身は能く文采光美の道を成就して・光明の徳行を天下に発揚するを説明せば、だから慶賀すべきの善事有り・美好の声譽有りて、それによって吉祥を獲得す。

上六:豐其屋,蔀其家,窺其戸,闃其無人,三歲不覿,凶。象曰:豐其屋,天際翔也。窺其戸,闃其無人,自藏也。

上六の爻辞にいう。屋宇を造りて極めて高大ならしめながら、却って家門を遮蔽して起す。門縫より裏に向かって窺看すれば、寂静にして一箇の人影をも見ず、三年は皆人に見えず、凶険なり。《象伝》にいう。屋宇を造りて極大ならしむるは、天辺に飛翔するがごときの高逺なり。其の門戸を窺看して寂として一人なきは、自ら光明を蔵れ起せるなり。

義曰:屋者,人之所蔽蓋其身也,今豐盛之終,是闇昧之極也。家者,人所密而自藏也,又蔀掩之,亦謂闇昧之甚也。上六以陰柔之質居一卦之極,不得其中而過於豐盛之道,其暗至甚,猶屋本蓋而復豐盛之,家本深藏而又掩蔽之,是闇昧之極者也。

胡瑗が解説します。屋子は人の以て自身を遮蔽するに用うるにして、今、豊盛の終点に処して、まさに昏昧の極点に到れり。家は人の隠密自蔵の地方、再び遮蔽掩盖を加えれば、亦昏昧の太に過ぎたるを説明す。上六は陰柔の質を以て全卦の頂端に居りて、能く中を守らずして豊盛の道を過度に追求せば、だから昏暗は至極なり。譬えば屋子は本来即ち遮蓋の物にして、還要それを造り更に高大ならしめんと欲し・家は本来即ち深藏の処にして、還要再び遮掩を加えんと欲す。これまさに昏昧の極点に到れるのさまなり。

闃者,寂然而無所覩也。言上六陰暗之極,猶屋之豐、家之蔀,雖窺視其戸,寂然無所覩而不見其人,雖三歲之間亦無所覿,此凶之道也。象曰豐其屋天際翔也者,言上六之爻過於中道而闇昧之極,始飛於天際,上而無所歸。自藏者,言以至窺視其戶,寂然而無所覩,是自藏其光明而不能發揚之也。

「闃」は寂静にして何も看る能わざるなり。これは上六は陰暗は極処に到りて、即ち屋宇の高大・家門の遮蔽のごとく、たとい門縫の裏より窺看するも、亦静にして任何の物をも看えず・一箇の人をも見ず、三年の間は同じく何も看る能わざれば、これは凶険の道なり。《象伝》の「豊其屋、天際翔也」は、上六此の一爻は中道を超出して昏昧は至極にして、竟に天辺に飛到するがごとく、高々として上に居りて帰宿するの処なきを言うなり。「自蔵也」と言うは、以て其の門戸を窺看するに、寂静にして毫も見る所なきは、まさに自ら光明を蔵れ起して能く発揚する能わざるなり。

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