Libo

萃 坤下兌上

宋 · 胡瑗 · 第25巻 / 51

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

萃:亨,王假有廟,利見大人,亨,利貞。用大牲吉,利有攸往。

《萃》卦の卦辞にいう。会聚の時、道路は通達す。君王は宗廟に来たりて祭を致す。大德大才の人に見ゆるに宜しく、それによって亨通す。但し必ず正道を守持して乃ち利有るべきなり。牛羊のごときの大牲を用いて献祭せば、吉利なり。往く所有るに宜しきなり。此処の「利貞」は、「元亨利貞」の四徳の中の後の両項――「元」は万物の創始の大徳、「亨」は通達して阻むなし、「利」は万物をして各々其の宜を得せしむ、「貞」は正固を守持する――なり。

義曰:按《序卦》云:物相遇而後聚,故受之以萃。萃者,聚也。蓋言聖賢既相姤遇,則天下之人得以會聚,故以萃次於姤也。然萃所以得亨者,蓋君臣相遇,民物和會,當此之時,其道得以大通,其志得以上行,故萃亨者此也。

胡瑗が解説します。《序卦伝》に拠れば、万物は彼此に相遇して後に聚集すれば、だから《姤》卦の後に《萃》卦を接上す。萃は、即ち聚集なり。これは聖賢はすでに彼此に遇合せれば、天下の人は会聚して一処を得べきを言い、だから《萃》を《姤》の後面に排す。「萃、亨」の亨通する所以に至っては、君臣は相遇い・百姓万物は和洽して会合せば、此のようの時に於いて、君主の道は広汎に通行を得・臣民の志は上に向かって申達を得べきがゆえ、卦辞の「萃、亨」と言うはまさに此の意思なり。

王假有廟者,廟貌也,言聚先祖之神,故謂之廟。何則?夫人之生,則精神萃之於身;及其死也,魂氣歸於天,形魄歸於地。於此時也,孝子慈孫雖有求見之志而不能見其容貌,雖有虔奉之心而不得為之奉養。

いわゆる「王假有廟」。廟は即ち容貌の「貌」、それは先祖の神霊を聚集するがゆえに、だから廟と称す。何を以て此のように言うか。人は生きる時、精神は此の身体上に聚集す。死せるを待っては、魂気は昇って天に帰し・形魄は降って地に帰す。あの時に到りては、孝子賢孫は縦に一面を見んと欲するの心願有るも、亦先人の容貌を見る能わず。縦に虔誠に奉養するの心意有るも、亦彼らのために奉養の礼を尽くすに従るなきなり。

是故聖人觀萃之卦,假其萃聚之道,設為廟祧,以萃祖宗之精神於其間,以奉四時之祭,以盡孝子之心,而施教於天下,使天下之人當此萃聚之時皆知尊事其祖先也,故萃聚之道莫大於此。

それによって聖人は《萃》卦を観察し、それが会聚するの道理を借用して、宗廟祧廟を設立し、祖宗の精神を其の中に聚集し、春夏秋冬の四時に按じて祭祀を挙行し、此を以て孝子の心願を満足せしめ、同時に教化を天下に施行して、天下の人をして此の会聚の時代に於いて皆自らの祖先を尊奉するを懂得せしむ。だから言うに、会聚の道はこれより重大なるなしと。

利見大人亨者,夫小民蚩蚩,不能自立,是必得大有才徳之人,以仁義之道生成之,然後得其所亨。今萃聚之世,民物和會,故當利見大有才徳之人,然後民得以亨通矣。利貞者,君之所以得民、民之所以從君,必須利在於正道。苟居上者不以正道而治之,則民始雖眾多而聚,終亦離叛矣,是萃之道所利者惟在於正。

いわゆる「利見大人、亨」。普通の百姓は渾渾噩噩にして、能く自ら立ち起る能わず、必ず大有才徳の人の仁義の道を用いて彼らを養育成全するを得て、後に乃ち通達順遂すべきなり。今、まさに会聚の時代に当たりて、百姓と万物は和洽して会合すれば、だから応に大有才徳の人に見ゆべく、百姓は乃ち此に因りて亨通すべきなり。いわゆる「利貞」。君主は以て民心を得・百姓は以て君主に帰附する所は、皆必ず正道を以て利の所在と為すべし。たとい上位に居るの人が正道を用いて去りて治理せざれば、ならば百姓は起初はたとい人数の众多・聚り合うるも、最終に還是離散して背叛せん。見るべし、《萃》卦の講ずる所の「利」は、只だ一箇の「正」の字上に落着す。

用大牲吉者,夫君之所有天下者,蓋由功業被於民而為天之所眷佑者也。故孟子曰:天與賢則與賢,天與子則與子。是則為人上者撫有萃聚之世,皆由天所付與之也。故王者當此萬物萃聚之世,必用其碩大之牲為之享祀,以答天所貺之命,故得其吉也。利有攸往者,萃聚之世,君臣會聚,天下和同,故聖賢君子必當往而康濟之,使天下大得其亨通矣。

いわゆる「用大牲吉」。君主の天下を擁有する所以は、彼の功業は百姓に遍及し、それによって上天の眷顧庇佑を得ればなり。だから《孟子・萬章上》に言う。上天は天下を賢者に交せば、即ち賢者に伝え、上天は天下を児子に交せば、即ち児子に伝うと。見るべし、君主を為るの人の能く此のようの会聚の時代を統領するは、皆上天の授与する所なりと。それによって君王は万物の会聚するの時代に処して、必ず肥碩の牛羊を用いて祭享を挙行し、以て上天の賜う所の天命を報答して、だから能く吉利を獲得す。いわゆる「利有攸往」。会聚の時代は、君臣は一堂に聚集し・天下は和洽して心を同じくせば、だから聖賢君子は理応に前往して抱負を施展し・天下を安定救助して、天下をして大いに亨通を得せしむべきなり。

彖曰:萃,聚也,順以說,剛中而應,故聚也。王假有廟,致孝享也。利見大人亨,聚以正也。用大牲吉,利有攸往,順天命也。觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。

《彖伝》にいう。萃は、即ち聚集なり。下卦は柔順にして上卦は和悦、九五は陽剛にして中に居りて六二と相応ずれば、だから能く聚集す。「王假有廟」は、祖先に対するの孝敬と祭享を表達す。「利見大人亨」は、聚集は正道に依循するを要すと言うなり。「用大牲吉、利有攸往」は、上天の意旨に順承するなり。万物の聚集するの情形を観察すれば、天地万物の実情は即ち見清すべきなり。

義曰:萃訓即聚也,言天下君臣民物會聚之時也。順以說者,此就二體以言之,下坤為順,上兊為說,是聖人在上能以仁義之道順民之慾、說民之心,使群民亦以順說而相合也。

胡瑗が解説します。萃の字の訓解は即ち聚集、天下の君臣・百姓・万物が会聚して一処にするの時を指す。いわゆる「順以説」は、上下の両箇の卦体に就きて言うなり。下卦は坤にして、其の卦徳は柔順を為す。上卦は兌にして、其の卦徳は和悦を為す。これは聖人は上位に在りて、能く仁義の道を用いて百姓の願望に順応し・百姓の心を取悦せしめ、衆百姓をして亦順従和悦の心を以て彼と相合せしむるを言うなり。

剛中而應故聚也者,此指九五六二而言。蓋五以剛徳居中,為萃之主,下應六二柔正之臣,是君臣之間倡而和、令而行、同徳而治者也。夫既順而說,又剛而中,有此四徳之備,然後天下之民因得而聚矣。

「剛中而応、故聚也」、これは九五と六二の両爻を指して言うなり。九五は陽剛の徳を以て上卦中位に居り、《萃》卦の主爻にして、下に向かって六二此の柔順にして正を守るの臣子と相応ず、まさに君唱え臣和え・君令え臣行え・君臣は徳を同じくして共治する天下の局面なり。すでに柔順にしてまた和悦、すでに剛強にしてまた中に居り、順・説・剛・中の此の四種の徳性を具備して、後に乃ち天下の百姓は此に因りて聚攏して来たるなり。

王假有廟致孝享也者,言王者假立廟貌,以聚先祖之精神,以修四時之祭,以盡孝子之心,而示教於天下,使皆能明享親之禮也。利見大人聚以正也者,言當此萃聚之時,必須得大有才徳之人以正道治之,則天下可得而久大矣。

「王假有廟、致孝享也」は、君王は宗廟の形制を立起するを借りて、先祖の精神を其の中に聚攏し、春夏秋冬の四時に按じて祭祀を修挙し、此を以て孝子の心意を尽くし、併せて此の份の教化を天下に昭示して、人人をして皆祭享する両親の礼節を明白せしむるを言うなり。「利見大人、聚以正也」は、まさに会聚の時に当たりて、必ず大有才徳の人を得て、正道を用いて此の聚合し起れるの天下を治理して、天下は乃ちすでに長久にしてまた広大なるべきを言うなり。

用大牲吉利有攸往順天命也者,夫君者,天之所以命也,故代天理物,以仁義之道生成天下之民,使天下之民皆受其賜而會聚於時,則王者用大牲之禮答天之意,以順承天之所命也。然利有攸往而言順天命者,夫王者既代天理物,則必往而康濟之,所以順上天付與之命也。

「用大牲吉、利有攸往、順天命也」。君主は上天の任命する所なれば、だから上天に代わりて万物を治理し・仁義の道を用いて天下の百姓を養育成全して、天下の百姓をして皆彼の恩賜を蒙受して此の時代に於いて会聚し起らしむるを要す。於是乎君王は便ち大牲を献ずるの祭礼を用いて上天の心意に回報し、以て上天の授くる所の使命に順承す。「利有攸往」も亦「順天命」に帰するに至っては、君王はすでに上天に代わりて万物を治理せば、即ち必定に前往して天下を安定救助せねばならざれば、これまさに上天の交付する所の使命に順承するなり。

觀其所聚而天地萬物之情可見矣者,此廣明萃聚之義也。夫天本居上,地本在下,及其陰陽相交,萬物發生而萃聚,此天地聚會之情也。至於昆蟲草木,亦各從其類,故《繫辭》曰:方以類聚,物以群分,是也。今此君臣民物各相萃聚之世,聖人觀此萃聚之道,則可以見天地萬物之情狀矣。

「観其所聚、而天地万物之情可見矣」、これは更に進んで会聚の意義を闡発す。天は本来上に在り・地は本来下に在り、陰陽の二気は交感して、万物は萌生して生長して聚集し起るを待てば、これ即ち天地の会聚するの実情なり。昆虫草木に至っても、亦各自に類に依りて相従す、だから《周易・繋辞上》に「方以類聚、物以羣分」と言う、講ずる所はまさに此の道理なり。今、君臣・百姓・万物の各自に相聚るの時代に処して、聖人は此の会聚の道を観察して、即ち天地万物の真実の情状を看見すべきなり。

象曰:澤上於地,萃。君子以除戎器,戒不虞。

《象伝》にいう。兌沢は坤地の上に高く出づ、これ即ち《萃》卦の卦象なり。君子はこれに取法し、兵器を收藏整治して、意料の外の変故に戒備す。

義曰:上兊為澤,下坤為地,澤者水之所聚,今澤處地之上,是萃聚之義也。除,去也。言君子之人當此萃聚之世,民既和說,海內晏然,於是之時不可復用其兵,是必韜藏其弓矢,偃息其戈矛,以示天下不復用兵也。故昔者武王翦商之後,載櫜弓矢,倒載干戈,歸馬於華山之陽,放牛於桃林之野,是所謂除去戎器者也。

胡瑗が解説します。上卦兌は沢を為し・下卦坤は地を為す。沢は水の汇聚するの地方、今、沢は地の上に処すれば、これ即ち会聚の意なり。「除」は去除・收起の意なり。これは君子は此のようの会聚の時代に処して、百姓はすでに和睦して悦服し・四海の内は安寧して事なし、此の時は已むを得ず再び兵戈を動用すべからず、必ず弓箭を袋子の裏に収め進み・戈矛を放倒して歇息し、此を以て天下に向かって再び兵を用いざるを表明すを言うなり。だから従前の周武王は商を滅ぼして後、弓箭を櫜袋に装進し・干戈を倒転して收起し、戦馬をして華山の南に帰らしめ・牛を桃林の野に放せり、これ即ち《象伝》の言う所の兵器を收起するなり。

然天下雖安,忘戰必危,故雖萃聚之世,民已和會,然不可不有所備。蓋事久則弊,隆極必替,故聖人於是時亦常因民之隙訓習師旅,以為國備而戒不虞。至如堯舜商周之時,可謂極治矣,然猶立司馬、司徒、司空、司冦之職以訓習兵戎。以是觀之,雖在萃聚之世、至平之時,亦當戒於不虞,此乃聖人安不忘危、存不忘亡之道也。

但し天下はたとい安定すと雖も、戦備を忘れれば必定に危険なり、だからたとい会聚の時代・百姓はすでに和洽して会合せりと雖も、亦防備なき能わざるなり。事情は久しければ即ち弊を生じ、興盛は極点に到れば必然に衰替す、だから聖人は此のようの時に於いても、亦常に農事の空隙に趁って軍隊を訓練して、国家の防備と作為し、以て意外の変に戒惧す。堯・舜及び商・周の時代のごときは、治理を極致に到れりと言うべきなりと雖も、却って仍として司馬・司徒・司空・司寇の等の職官を設立して来たりて兵事を操練せり。此に由りて見れば、たとい会聚の世・太平の極の時に処するも、亦応に意外に戒備すべく、これまさに聖人の安定の時に危難を忘れず・生存の時に覆亡を忘れざるの道理なり。

初六:有孚不終,乃亂乃萃。若號,一握為笑。勿恤,往無咎。象曰:乃亂乃萃,其志亂也。

初六の爻辞にいう。起初は誠信有るも能く到厎に保持せず、於是乎心志は迷乱し、而も終に会聚を得たり。たとい一時に号咷哭泣するも、转眼の間にまた転じて歓笑と為る。憂慮するに及ばず、前往すれば過咎有ることなからん。《象伝》にいう。心志は迷乱して而も終に会聚を得たるは、それの心志は一度に擾乱せられたるがゆえなり。

義曰:孚,信也。按此初六居萃聚之世,上應於九四,是以始初則以至信相待,欲相萃聚。然而六三以不正之身居其間,上無其應,又最比於四,遂招誣謗之言以間於己,是以初雖始有誠信以待於四,今既為小人之所間,則初六誠信之心不得其終也。

胡瑗が解説します。「孚」は即ち誠信なり。初六は会聚の時代に処し、上に向かって九四と相応ずれば、だから一开始に双方は至誠を以て相待して、聚合して一処に到らんと欲す。しかるに六三は位置不正の身分を以て中間に夾り、それは自ら上に向かって相応ずるの爻なく、また九四と挨ること最も近し、於是乎誣蔑毀謗の言を散布して来たりて初六と九四とを離間せん。それによって初六は起初はたとい誠信の心有りて去りて九四に対待するも、今、すでに小人に中より挑撥せられれば、此の份の誠信の心は便ち能く到厎に保持する能わざるなり。

乃亂乃萃者,謂六三既為間於初六,不得與四相從,是以初六心志必為惑亂也,故曰乃亂。然且當萃聚之世,是上下皆相求萃聚之際,初雖心志惑亂,終得其萃,故曰乃萃。

いわゆる「乃乱乃萃」。六三はすでに中より初六を離間して、それをして九四に跟随する能わざらしめば、初六の心志は必然にそれのために迷乱せん、だから「乃乱」と言うなり。但し畢竟はまさに会聚の時代に当たりて、上下は皆互いに聚合を寻求すれば、初六はたとい心志は一度に迷乱せるも、最終に還是九四と聚合する能くす、だから「乃萃」と言うなり。

若號一握為笑者,號謂號咷也,一握謂掌握之間至淺末者也。萃聚之世,必上下相求和會然後必有所濟。然此初雖與四為正應,然為六三小人之所間,廁於其間以疎隔於初,使不得與四萃聚,故始則有號咷之怨。然四雖為三之所間隔於己,而本與初為應,故亦不至於深久,雖初始則號咷,然終得與四為之萃聚而有歡笑也。

いわゆる「若号、一握為笑」。「号」は号咷大哭、「一握」は不過一掌の間を説く、極めて其の短暫軽微を言う、哭と笑は转眼すれば便ち換り過ぐるなり。会聚の時代は、必ず上下が互相に合を求めて、事情は乃ち弁じ成るを得べきなり。初六はたとい九四と正応なりと雖も、却って六三此の小人に中間に夾られて離間を加えられ、横に插し進みてそれを九四と隔開して、それをして九四と会聚する能わざらしむれば、だから起初に号咷悲怨有るなり。但し九四はたとい六三に中間に隔てらるるも、本来は初六と相応ずるの一対なれば、だから此の種の隔閡も亦太く久しく拖ることなからん。初六は起初はたとい号咷せるも、最終に還是九四と会聚して転じて歓笑と為る能くす。

勿恤往無咎者,夫君子為小人之所疾害,小人為君子之所決去,此理之常也。今初為六三小人之疎間於己,為之讒謗,然君子之心何必憂恤,但執其正道,以至誠公直而行,往求於四之應,則必無咎矣。

いわゆる「勿恤、往无咎」。君子は小人に嫉恨陥害せられ、小人は君子に決然として清除せらる、これ本は世間の常理、必ずしも此に因りて驚怪するに及ばざるなり。今、初六は六三此の小人に中より離間せられ、また讒言毀謗に遭うるも、然而君子は心裏に何ぞ必ずしも此のために憂慮せんや。只だ正道を堅守し、至誠にして公正坦直の態度を以て行事し、徑直に前往して九四此の正応を寻求せば、即ち必定に過咎有ることなからん。

六二:引吉,無咎,孚乃利用禴。象曰:引吉無咎,中未變也。

六二の爻辞にいう。引薦せられて進めば則ち吉利、過咎なし。内心に誠信有れば、たとい只だ微薄の禴祭を用いるも亦合宜なり。《象伝》にいう。引薦せられて進みて吉利にして過咎なきは、六二の中を守るの操守は終始として改変せざるがゆえなり。

義曰:君子之進,不可自媒以苟媚其君而幸其時之寵榮也。是故君子懐忠信以待舉,力行以待取,是君子凡所進用必須有道,待上之聘求然後往,則得盡進身之道也。今六二以陰居陰,履得其中,又上應九五中正之君,然亦必待其君援引於己,然後往之,此所以得吉而無咎也。

胡瑗が解説します。君子の進用は、已むを得ず自ら推銷し・君主に討好するに靠りて僥幸に一時の寵栄を取得すべからず。だから君子は忠信を懐抱して挙薦を等待し、力を勉めて踐行して錄用を等待す。君子は凡そ出仕任職するは皆必ず道に合乎して、君上の聘請征召を待って後に乃ち前往して、これで乃ち進身の道を尽到したると算すべきなり。今、六二は陰爻を以て陰位に居り、処する所も亦下卦の中を得、上に向かっても尚九五この位の中正の君と相応ず。たとい此のごとくなるも、それは必ず君主の主動に来たりて自らを援引するを待って、後に乃ち身を動かして前往して、これまさにそれの能く吉を獲得して過咎なきの原因なり。

孚乃利用禴者,孚,信也;禴,薄祭也。夫君子之進,必在乎誠信相交、心志相接,然後其道可以大行也。今當萃聚之時,君臣之間誠信既著,心志既通,則可以不煩外飾,其道得行矣。若夫君臣之間誠信未著、心志未通而欲其道之大行,則孔子所謂未信而諫則以為謗己者也。蓋君臣相應則道可大行,孚信中立則雖禴之薄祭亦可通於神明也。

いわゆる「孚乃利用禴」。「孚」は誠信、「禴」は簡薄の祭祀なり。君子の進用は、一定に誠信に相交り・心志は相通ずるの基礎上に建立して、後に乃ち彼の主張は世に大行し得べきなり。今、まさに会聚の時に当たりて、君臣の間は誠信はすでに顕著・心志はすでに貫通せれば、即ち已むを得ず再び外在の修飾を煩労すべからず、主張は自然に行き通るなり。たとい君臣の間の誠信は未だ顕著ならず・心志は未だ貫通せざるに、即ち自らの主張を世に大行せんと欲せば、則ち孔子の言う所のあの種の情形と為る。未だ信任を取得せざるに去りて進諫せば、君主は只だなたが彼を毀謗すると以為せん(語は《論語・子張》に見る)。大凡君臣は彼此に感応せば、道は即ち大行し得べし。誠信は心中に立てば、ならばたとい禴のごときの簡薄の祭祀なるも、亦照じて能く神明に感通すべきなり。

象曰引吉無咎中未變也者,言六二之所以待君之見引而後進者,蓋守中正之道而不變,不為富貴貧賤之所移,待求而進,是志未有變也。

《象伝》の「引吉无咎、中未変也」は、六二の君主の来たりて引薦して後に乃ち前進するを要する所以は、それは中正の道を守住して改変せず、富貴ならんと貧賤ならんとに動揺せられず、征聘を待って乃ち出仕すれば、これはそれの心志は終始として変ぜざりしを説明すと言うなり。

六三:萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。象曰:往無咎,上巽也。

六三の爻辞にいう。聚合せんと欲するも聚るを成さず、只だ声を連ねて嘆息するのみ、何の利益と言うべきもなし。前往すれば則ち過咎有ることなからん、只だ稍かの困窘有るのみ。《象伝》にいう。前往して過咎なきは、上六は陰柔巽順にして、肯んじてそれを容納するがゆえなり。

義曰:如,語辭也。六三以陰居陽,位不正也;居下卦之上,不中也。以不中不正之身居於萃聚之世,上無其應,而欲親比於四,然四本與初為正應,是以不納於已。既不見納,是以嗟諮怨望,復何所利哉。

胡瑗が解説します。「如」は語助詞なり。六三は陰爻を以て陽位に居りて、位置は端正ならず。また下卦の最上に処して、中位に居らず。此のようのすでに中に居らず亦位に当たらざるの身分を以て会聚の時代に処し、上に向かって相応ずるの爻なければ、便ち九四に親近依附せんと欲す。しかるに九四は本来初六と正応なれば、それによって肯んじてそれを容納せざるなり。すでに容納せられざれば、六三は只だ嗟嘆埋怨するに如かず、また何の利益と言うべきあらんや。

往無咎小吝者,萃聚之世,上下相求以成萃聚,然後事有所成。今此六三雖無正應而四又不見納,然當是萃聚之時,舍其四之陽,以類求類,則往而應於上六亦免其咎。然小有鄙吝者,蓋上六亦陰,以陰求陰,所以小吝而已。象曰往無咎上巽也者,言六三舍九四而往應於上,必無咎也。何則?蓋上六以陰爻在上,陰為巽順,必下接於己也。

いわゆる「往无咎、小吝」。会聚の時代は、上下は互いに寻求して以て聚合を成就して、事情は乃ち弁じ成るを得べきなり。今、六三はすでに正応なく、九四も亦肯んじてそれを容納せず。但しまさに会聚の時に当たりて、それは九四此の陽爻を舎開きて、転じて同類を以て相求め、前往して上六と呼応して、亦能く過咎を免るべきなり。なお稍かの困窘有る所以は、上六は同じく陰爻、陰を以て陰を求むれば、終に正配と算せざるがゆえ、だから只だ小小の困窘のみなり。《象伝》の「往无咎、上巽也」は、六三は九四を舎棄して前往して上六に応合すれば必定に過咎なからんと言うなり。何を以てか。上六は陰爻を以て最上位に処して、陰の性情は本より柔順にして、一定会に下に向かって自らを容納せんがゆえなり。

九四:大吉,無咎。象曰:大吉無咎,位不當也。

九四の爻辞にいう。大いなる吉利を為し到りて要し、乃ち過咎なき能くするなり。《象伝》にいう。必ず大吉を要して乃ち過咎なきは、九四の居る所の位置は本来即ち恰当ならざるがゆえなり。

義曰:萃聚之世,眾陰皆欲萃於君,而四以陽居陰,在上卦之下,不中不正,而當眾陰之路,是必有擅民之疑、奪權之嫌。故須內抱剛明之徳,外盡忠順之道,使其事為大吉,然後可以免咎,故曰大吉無咎。

胡瑗が解説します。会聚の時代に於いて、众多の陰爻は皆君主のあそこに聚集して去らんと欲すれども、而も九四は陽爻を以て陰位に居り、上卦の最下に処し、すでに中に居らず亦位に当たらず、偏にまた衆陰の上行の路口上に挡れば、これ即ち必然に私自に百姓を籠絡するの猜疑・君権を侵奪するの嫌隙を招来せん。だからそれは必ず内に於いて剛強明察の徳行を懐抱し・外に於いて忠誠順従の本分を尽くして、自らの為す所の事情を大いなる吉利に為し、後に乃ち過咎を免るべきなり、だから爻辞は「大吉、无咎」と言うなり。

九五:萃有位,無咎,匪孚,元永貞,悔亡。象曰:萃有位,志未光也。

九五の爻辞にいう。会聚の時に処して君位を据有せば、過咎なし。只だなお天下に於いて信を取る能わざると雖も、但し只だ長久に大善正固の徳を堅守すれば、悔恨は即ち消失せん。《象伝》にいう。会聚の時はたとい君位を据有すると雖も、それの心志は未だ光大せざるを説明す。

義曰:萃聚之世,天下之民皆遇聚歸於上。今五有剛明之才,居至尊之位,當是時,下有九四不正之臣據群陰歸已之路而固塞之,是使眾民皆歸於四而不歸於五,故五所存者位與號耳。無咎者,以五雖有權臣在下侵權奪勢,然本有剛明之才、中正之徳,但其道不得以大行,亦可以自得無咎也。

胡瑗が解説します。会聚の時代に於いて、天下の百姓は皆応に聚集して君主の身上に帰附すべきなり。今、九五は剛強明察の才幹を具備し、至尊の君位に居れども。しかし此の時に於いて、下面に九四此の位置不正の臣子有りて衆陰の君主に帰附するの通道を占据着して併せてそれを堵死して、衆百姓をして皆九四に帰附して九五に帰附せざらしむれば、だから九五の保有する所は、不過一箇の君位と一箇の名号のみなり。いわゆる「无咎」。九五はたとい権臣の下に在りて権勢を侵奪する有るも、但し彼は本来剛明の才幹・中正の徳行を具備し、只だ主張は能く天下に大行せざるのみにして、仍として自守して過咎なきべきなり。

匪孚元永貞悔亡者,言五雖有侵權之臣而使已之威賞號令不行於天下,而不為天下之所信,苟能自守永長貞正之徳,無私無陂,久而不變,則可以悔亡。象曰萃有位志未光也者,言五雖有其位而其道不得以大行,而教化號令不能以及於天下,不為天下之所信,是其志未甚光大也。

いわゆる「匪孚、元永貞、悔亡」は、九五はたとい権を侵する臣有るに因りて、自らの威厳賞罰・号令政教を天下に通行する能わざらしめ、それによって天下の人の信服を得る能わずと言うなり。但し只だ能く自ら長久の貞正の徳行を守住して、偏私する所なく・偏斜する所なく、久しきを歴て改変せざれば、悔恨は即ち消失すべきなり。《象伝》の「萃有位、志未光也」は、九五はたとい君位を占するも、主張は却って能く大行せず・教化号令は能く天下に推及せず、天下の人の信任を得る能わざれば、見るべし彼の心志はなお十分の光大を談じ上ぐる能わざるを言うなり。

上六:齎諮涕洟,無咎。象曰:齎諮涕洟,未安上也。

上六の爻辞にいう。唉声嘆気し、涕涙は交流すれども、但し過咎なし。《象伝》にいう。唉声嘆気し・涕涙交流するは、上六が最上位に居りて並びに安穏ならざるがゆえなり。

義曰:齎諮者,嗟嘆之貌。出自目曰涕,出自鼻曰洟。上六居卦之極,上進無所往,引退無所適,當萃之時而又下無其應,是以嗟嘆而涕洟以求其萃聚也。然則得無咎者,蓋六三以不正之身在下卦之上,亦無其應,是以與上以類求類,此所以無咎也。象曰齎諮涕洟未安上也者,言上六所以齎諮涕洟者,以不得其所而不安其居也。

胡瑗が解説します。「賚咨」は嘆息するのさま。眼睛の裏より流出するを涕と叫び・鼻子の裏より流出するを洟と叫ぶ。上六は一卦の頂端に処し、上に往けば再び去るべきの地方なく、後に退くも帰るべきの去処なし。まさに会聚の時に当たりて、下に向かってまた相応ずるの爻なければ、だから只だ唉声嘆気し・涕涙交流して聚合を寻求するのみ。すでに此のごとくなれば、何を以てなお過咎なしと言うか。六三は位置不正の身分を以て下卦の最上に処して、同じく相応ずるの爻なければ、於是乎上六はそれと同類を以て相求めて、これ即ち過咎なきの縁由なり。《象伝》の「賚咨涕洟、未安上也」は、上六の唉声嘆気し・涕涙交流する所以は、それは合適の位置を得ずして、上面に於いて待つること並びに安穏ならざるがゆえなりと言うなり。

升 巽下坤上

升:元亨,用見大人,勿恤,南征吉。

《升》卦の卦辞にいう。上昇の時は大いに亨通す。大德大才の人に見えんに宜しく、憂慮するに及ばず。南方に向かって前行すれば吉利なり。此処の「元亨」は、即ち「元亨利貞」の四徳の中の前の両徳。「元」は万物の創始の大徳、「亨」は通達して阻むなし。

義曰:按《序卦》云:聚而上者謂之升,故受之以升。言物之眾萃,自少而聚之於多,自下而至於髙,以升於上,故以此升次於萃也。然曰元亨者,言聖賢之人升於上位,必須有元大始生之徳以生成天下之民物,又有大亨之徳以通濟天下之事,然後得盡所以升上之道也。

胡瑗が解説します。《序卦伝》に拠れば、聚集して後に再び上に往けば即ち升と叫ぶ、だから《萃》卦の後に《升》卦を接上す。これは万物は众多に会聚し起りて、少より積みて多と成り・低より高に升りて、それによって上に向かって昇進すれば、だから《升》を《萃》の後面に排すと言うなり。「元亨」と言うに至っては、聖賢の人は上位に升到し、必ず「元」の此の種の万物を化生するの博大の徳を具備して、以て天下の百姓と万物を養育成全し、また「亨」の此の種の通達の徳を具備して、以て天下の事務を疏通成就して、後に乃ち上昇の道を尽到したると算すべきを指す。

用見大人勿恤者,夫君子之升進,雖有是大生大通之徳,然不可孑然而獨往,必須用見大有才徳之人以依附之,然後升其髙位而不至於危,可以永保其祿位,復何有所憂恤哉。

いわゆる「用見大人、勿恤」。君子の上昇進取は、たとい万物を化生し・天下に通達するの徳行を具備するも、却って已むを得ず孤零零として独自に前行すべからず、必ずあれらの大有才徳の人に見えて去りて彼らに依附して、後に乃ち高位に升上して陥危に陥らざるに至らず、能く長久に自らの禄位を保住して、これでまた何の憂慮すべきあらんや。

南征吉者,按此一卦,上坤,坤為西南之卦;下巽,巽為東南之卦,上下皆是南方之位,故曰南征。夫聖賢之人居升進之時,必附麗南方離明之主,又取其往就南方長養寛平之地以生成天下,則所行之道無不通濟,故可以獲其吉也。

いわゆる「南征吉」。此の一卦は上体は坤にして、坤は方位上に於いて西南に属す。下体は巽にして、巽は東南に属す。上下の両体は皆南方の位に帰すれば、だから「南征」と言うなり。聖賢の人は上昇進取の時に処して、必ず南方のあの位の離火のごとき光明の君主に依附して、同時にまた其の前往する所の南方のあの片の温暖寛和・生長養育に宜しきの土地を取りて、以て天下を養育成全せば、ならば推行する所の道は行き通らざるなきなり、だから能く吉利を獲得す。

彖曰:柔以時升,巽而順,剛中而應,是以大亨。用見大人勿恤,有慶也。南征吉,志行也。

《彖伝》にいう。陰柔は時機に順応して上昇し、下卦は巽遜にして上卦は柔順、九二は陽剛にして中に居りて併せて六五と相応ずれば、だから大いに亨通す。「用見大人勿恤」は、此のように為せば福慶有らんと言うなり。「南征吉」は、心志は推行を得たるを言うなり。

義曰:柔以時升者,此釋卦名之義也。巽在下,坤在上,二卦之體皆主柔順,而又三陰在上,得時而進,亦猶賢人君子執柔順之道,以其時之可進而進,是得其升進之義也。

胡瑗が解説します。「柔以時升」、これは卦名の含義を解釈す。巽は下に在り・坤は上に在り、両箇の卦体は皆柔順を以て主と為す。而且に上卦の三箇の陰爻は上方に居りて、時機に順応して前進す、これ譬えば賢人君子が柔順の道を秉持して、進取すべきの時機に趁って進取するがごとく、まさに上昇進取の意義に合乎す。

巽而順剛中而應是以大亨者,此又以二體兼九二六五以釋元亨之義。下體巽也,上體順也,剛中,九二也,應謂六五也。夫君子必不可全任巽順之徳,若全任之則失於懦,是必內有剛明之才,外有柔順之行,使剛不過亢,柔不至懦,而所為所行之事皆得其中正。

「巽而順、剛中而応、是以大亨」、此処はまた上下の両箇の卦体を用い、九二・六五の両爻を加上して、卦辞の「元亨」の含義を解釈す。下体は巽にして、巽遜の義を取る。上体は坤にして、柔順の義を取る。「剛中」は九二を指し、「応」はそれと相応ずるの六五を指す。君子は決して完全に巽遜柔順の徳行に依頼すべからず、若し完全にそれに依頼せば、即ち懦弱に流れ入らん。必ず内に剛強明察の才幹有り・外に柔順謙和の挙止有りて、剛強をして亢厲に過分ならざらしめ・柔順をして懦弱に流れ入らざらしめ、為す所は皆中正に合乎すべきなり。

然而外既有柔順之徳,內有剛明之才,苟或上無其應,則亦不可得而升進,故今又應於六五中正之君。是當此之時,君子皆得其升進之道,以元大始生之徳通濟於天下,是以大亨也。南征吉志行也者,言君子之進,既附麗其大人,又即其南方生養寛平之地以生成於天下,是所立之志、所行之道皆得以大行矣。

然而外に於いて縦に柔順の徳有り・内に於いて縦に剛明の才有るも、たとい上面にそれと相応ずるの爻なければ、亦照じて上昇進取する法なし。だから此処はまた特意に九二が六五この位の中正の君と相応ずるを指出す。まさに此のようの時に当たりて、君子は皆上昇進取の路徑を得、万物を創始するの博大の徳を用いて天下に於いて通達成就すれば、それによって大いに亨通す。「南征吉、志行也」は、君子の進取は、すでに大德の人に依附し、また南方のあの片の生長養育・寛和平坦の土地に走向して去りて天下を養育せば、於是乎彼の立つる所の志向・行う所の道路は皆能く大いに推行し開くべきを言うなり。

象曰:地中生木,升。君子以順徳,積小以髙大。

《象伝》にいう。地中に樹木を生ず、これ即ち《升》卦の卦象なり。君子はこれに取法し、徳性に順循して、細小を積累して以て高大を成就す。

義曰:坤為地,巽為木。夫木之生資於地,始自芽櫱,至把握,積久以至合抱,是升進之象也。君子觀此象,執柔順之徳,常積善道,不矜細行,以日繼月,以月繼時,以時繼歲,至終身久而不變,積小善以至大善,由小賢以至大賢,由大賢以至於聖,皆從微而至著,由小以至大,故曰積小以髙大也。

胡瑗が解説します。坤は地、巽は木なり。樹木の生長は土地に依托して、起初は只だ一顆の芽苗、長じて一握の粗さと為り、累積して久しく終に合抱の大樹と為る、これ即ち上昇進取の景象なり。君子はこの卦象を観察し、柔順の徳行を秉持して、常に善道を積累し、細小の行為を軽視せず。一日より累積して一月と成り、一月より累積して一季と成り、一季より累積して一年と成り、終身に至るまで長久に変らざるに至る。小善を積累して以て大善を成就し、小賢より大賢と為り、大賢より聖人と為る。これらは皆細微の処より逐漸に顕著と為り・小の処より逐漸に大と為るなり、だから「積小以髙大」と言うなり。

初六:允升,大吉。象曰:允升大吉,上合志也。

初六の爻辞にいう。衆人は信従して一同に上昇す、大いなる吉利なり。《象伝》にいう。信従して上昇して大吉なるは、それは上面の九二と心志が合するがゆえなり。

義曰:允,信也,率從之稱也。夫升進之時,君子所志在於乘時以升進於其位而行其道也。今初居巽之體,處升進之始,雖無其應,然於九二同心合志以進於位,為眾賢之先倡,故賢人君子皆信而率從之以進於上。君子之人既得升進,則其道得以行,其志得以伸,其澤可以福於生靈,其功業可以被於天下,故吉之大者此也。

胡瑗が解説します。「允」は信従の意、亦相率いて跟从するの称呼なり。上昇進取の時に当たりて、君子の志向は時機に趁って相応ずるの位置上に升到して自らの道を推行するに在り。今、初六は巽体の中に処し、上昇の開端に居り、それと相応ずるの爻なしと雖も、却能く九二と心を同じく志を同じくして一起に其の位を進取し、衆賢の中の率先して倡導する人と為れば、だから賢人君子は皆それに信服し・相率いてそれに跟从して一同に上に向かうなり。君子はすでに上昇進取を得たれば、彼の道は即ち能く推行され、彼の志向は即ち能く伸展され、彼の恩沢は能く百姓に福を造り、彼の功業は能く天下に遍及すべし、だからこれは最大の吉利なり。

象曰允升大吉上合志也者,初六當升進之時,為升進之始,雖上無應,然與九二中正之賢合志而進,使眾人亦率從於已而升進,故得大吉也。

《象伝》の「允升大吉、上合志也」は、初六は上昇進取の時代に処し、上昇の起点に居り、上面にそれと相応ずるの爻なしと雖も、却能く九二この位の中正の賢者と志を同じく道を同じくして・一同に進取して、衆人をして亦相率いて自らに跟从して一同に上昇せしめれば、だから大きい吉利を獲得すと言うなり。

九二:孚乃利用禴,無咎。象曰:九二之孚,有喜也。

九二の爻辞にいう。内心に誠信有れば、たとい只だ微薄の禴祭を用いるも亦合宜、過咎なし。《象伝》にいう。九二の此の份の誠信は、喜慶を帯来せん。

義曰:孚,由中之信也;禴,春之薄祭也。九二以剛陽之徳處下卦之中,而體居其巽,是其剛不過亢,柔不至弱,執大中巽順而升者也。而又上應六五之君,以柔順而接納於已,是升而得其時、得其道者也,以至於所行之道、所為之事無不合於中。

胡瑗が解説します。「孚」は心の底より発するの誠信。「禴」は春に挙行するの簡薄の祭祀なり。九二は陽剛の徳を以て下卦の中位に処し、而も居る所の卦体はまた巽なれば、だから其の剛強は亢厲に過分ならず、柔順も亦軟弱に至らず、大中の道を秉持し・巽遜柔順の姿態を以て上昇するの人なり。加上それが上に向かって六五この位の君主と相応じ、六五も亦柔順の態度を以て自らを容納すれば、見るべしそれの上昇は其の時を得・其の道を得て、以て推行する所の道・為す所の事、中道に合乎せざるなきなり。

夫君既以柔順而接納於下,則下得盡其由中之信、至誠之道以事其君。若然,以至信至誠而事其君,則不假外物,不須外貌,而君自然信任矣,亦若誠信立於中,雖薄禴之祭亦可以通於鬼神也。

君主はすでに柔順の態度を以て下面の臣子を容納すれば、臣子は便ち心の底より発するの誠信・至誠の道理を完全に君主に事奉するの上に用いる能くす。果して能く至信至誠を以て君主に事奉せば、ならば外在的の物品に借助するに及ばず、亦外表の儀容を講究するに及ばず、君主は自然に彼を信任せん。これも亦即ち誠信が内心に確立せば、ならばたとい禴のごときの簡薄の祭祀なるも、亦照じて能く鬼神に感通するがごとし。

左傳所謂:苟有明信,雖澗溪沼沚之毛,蘋蘩薀藻之菜,筐筥錡釡之器,潢汙行潦之水,可以薦於鬼神,可以羞於王公,是也。無咎者,九二以至誠之道奉於君而君任信之,則是諫行言聽,膏澤下於民,以此為臣,何咎之有。象曰九二之孚有喜也者,夫君臣相信以成天下之事,以立太平之功,是有喜慶之美也。

これ即ち《左伝・隠公三年》の言う所。只だ明白にして欺かざるの誠信有らば、ならばたとい山澗溪流・沼沢小洲の上に采り来れるの野草、苹・蘩・蕰藻の一類の水菜、筐・筥・錡・釜の一類の粗陋の器皿、積水窪地と路辺流潦の裏より舀り来れるの水なるも、亦以て鬼神に進献し・王公に進奉するに用いるべきなり。いわゆる「无咎」。九二は至誠の道を以て君主に奉事し、君主も亦彼を信任し、於是乎彼の諫言は采納せられ・彼の話は聴従せられ、恩沢はそれによって百姓に下達す。このようにして臣子を為れば、また何の過咎と言うべきあらんや。《象伝》の「九二之孚、有喜也」は、君臣は彼此に信任して天下の事を成就し・太平の功を建立すれば、これは可喜可慶の美事なりと言うなり。

九三:升虛邑。象曰:升虛邑,無所疑也。

九三の爻辞にいう。上昇は即ち一座の空にして阻攔なきの城邑に進入するがごとし。《象伝》にいう。上昇して空邑に入るがごとしは、前路に疑慮阻碍すべき何もなきを言うなり。

義曰:九三以陽居陽,履正者也,而又有上六以為之應,進不為小人之所阻礙,退不為時之所凝滯,而上六又為之引道,上下相順,無有疑間,以是而升於君子之位,若升虛邑然,復何所疑哉。

胡瑗が解説します。九三は陽爻を以て陽位に居り、処する所の位置は端正、また上六と相応ずる有り。前進は小人に阻挡せられず、後退も亦時勢に滞留せられず、而も上六はなおそれのために前面に於いて路を引き、上下は彼此に順応して、何の猜疑隔閡もなし。此のようの条件を憑りに君子の応有の位置上に升到すれば、即ち一座の空蕩蕩として人の拦阻なきの城邑に走進するがごとく、また何の疑慮すべきあらんや。

六四:王用亨于岐山,吉,無咎。象曰:王用亨于岐山,順事也。

六四の爻辞にいう。君王は岐山に於いて祭享を挙行す、吉利、過咎なし。《象伝》にいう。君王が岐山に於いて祭享を挙行するは、これは柔順に上に事えるの事なり。

義曰:王即文王也,岐山,文王所治之地也。夫升進之道貴於柔順,今此六四以陰居陰,履得其正,上比於六五,是進得其位者也。然比於六五柔弱之君,又下乘眾陽剛強之臣,六四執柔順之道,率其剛強之臣以事其君,故有文王之象。

胡瑗が解説します。此処の「王」は周文王を指し、岐山は文王の治理する所の地方なり。上昇進取の道は柔順を以て貴と為す。今、六四は陰爻を以て陰位に居り、処する所の位置は端正、上に向かってまた六五と緊く隣りて比し、進取して当たるべき其の位を得るなり。但しそれの緊く隣る所の六五は柔弱の君主、それはまた下に向かって众多の陽剛強悍の臣子の上に凌駕す。六四は柔順の道を秉持して、これらの剛強の臣子を率領して去りて君主に事奉すれば、だから文王の気象有るなり。

昔商紂在上,文王為西伯,治於岐山之邑。當此之時,文王有聖人之才,無聖人之位,而以仁義之道生成其一國,至如耕者九一,罪人不孥,仕者世祿,關譏而不徵,市而不稅,發政施仁必先於窮民,是以岐山之民皆得亨通,故歸者如歸父母。當是之際,文王升進之道愈盛,故曰王用亨于岐山也。

従前、商紂王は位に在り、文王は身は西伯を為り、岐山此の一片の封邑を治理せり。あの時、文王は聖人の才徳有るも聖人の名位なし、只だ能く仁義の道を以て自らの此の一国の百姓を養育成全するのみ。《孟子・梁恵王下》は文王の岐を治むるの政事を記載す。田を耕すの人は只だ九分に一の税を抽て、罪を犯すの人は妻児に牽連せず、官を為るの人は世代に俸禄を享有し、関卡は只だ稽查して税を徵せず、集市は只だ登記して税を抽てず、政令を発布し・仁政を施行するは必ず先ず窮苦の百姓を照顧す。それによって岐山の百姓は皆通達順遂を得、彼に帰附するの人は即ち自らの父母に帰向するがごとし。此の時に到りて、文王の上昇進取の勢は愈々興盛なり、だから「王用亨于岐山」と言うなり。

吉無咎者,文王以仁義居人臣之位,升進之道固已盛矣,天下之心固已歸矣。如是則幾於侵君之權、擅君之民,苟不以柔順之節奉於上,則臣子之分虧而凶咎必至矣。故文王能盡臣子之道,執柔順之節,率天下之民以服事於紂,故得吉而無咎矣。象曰王用亨于岐山順事也者,言文王治岐山之地,三分天下有其二,且盡率其民以服事於紂,不失臣子柔順之道,是至順之事也。

いわゆる「吉、无咎」。文王は仁義の徳を以て臣子の位置上に処し、上昇進取の勢は本已に極盛、天下の人心は本已に彼に帰附せり。此の地步に到りては、即ち君主の権柄を侵奪し・君主の百姓を私占するに近乎し。若し柔順の節操を用いて去りて君上に奉事せざれば、ならば臣子の本分は即ち虧損し、凶険災禍は必定に随って至らん。だから文王は能く臣子の道を尽くし、柔順の節操を秉持して、天下の百姓を率領して去りて紂王に服事して、それによって吉利を得て過咎なし。《象伝》の「王用亨于岐山、順事也」は、文王は岐山の一帯を治理して、天下三分はすでに其の二を占むるも、却って仍として全力を挙げて百姓を率いて紂王に服事し、臣子の柔順の道を失わざるを言い、これは最も柔順の事なり。

六五:貞吉,升階。象曰:貞吉升階,大得志也。

六五の爻辞にいう。正道を守持すれば則ち吉利、階級を拾い登るがごとく尊位に登上す。《象伝》にいう。正を守りて吉利・級を拾いて升るは、心志の大いに得る所有るを言うなり。

義曰:階是尊者所居之地。六五以陰居陽,本失其正者也,然升進之道貴於柔順。今六五有柔順之道,居得其中,是有大中之徳者也,而又下有九二剛明中正之臣為之輔佐。然所為之事患在於不正,若能守之以正,則可以獲吉而當至尊之位也。象曰大得志也者,若能守至正以居其位,而治天下之民使皆受其賜,則己之志大有所得也。

胡瑗が解説します。「階」は尊貴者の居る所の台階の地なり。六五は陰爻を以て陽位に居りて、本来は失位不正。但し上昇進取の道は柔順を以て貴と為し、今、六五は柔順の道を具備し、また上卦の中位に居りて、大中の徳有るなり。而且に下面に還有九二この位の剛強明察・中に居りて正を守るの臣子が彼に輔佐を為す有り。只だそれの為す所の事情は、隠患はまさに端正ならざるに在り、若し能く正道を以て自守せば、即ち吉利を獲得して至尊の位に穏居すべし。《象伝》の「大得志也」は、若し能く至正の道を守住して来たりて其の位に居り、天下の百姓を治理して人人をして皆彼の恩賜を蒙受せしめば、ならば自らの心志は即ち大いに得る所有るを言うなり。

上六:升,利于不息之貞。象曰:冥升在上,消不富也。

上六の爻辞にいう。一味に上昇し、肯んじて止息せざるの勢頭を正を守るの上に収斂するに宜しきなり。《象伝》にいう。昏昧に一味に上昇して最高処に居るは、只だ自らを消減損するのみ、再び富盛を求むる能わず。

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