Libo

泰 乾下坤上

宋 · 胡瑗 · 第8巻 / 51

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

泰:小往大來,吉,亨。

卦辞は言います。泰卦は、陰柔の小さい者が往って外卦に居り、陽剛の大きい者が来て内卦に居り、吉祥で亨通します。

義曰:按《序卦》云,履而泰然後安,故受之以泰。蓋言凡人旣能行其禮典,則必獲其安泰。泰者,安也。以二體言之,則乾本在上,今降而下之;坤本在下,今升而上之,是上下相交、陰陽相,故謂之泰。以人事言之,君以禮下於臣,臣以忠事於君,君臣道交而相和同,則天下皆獲其安泰也,故曰泰。

《序卦伝》は言います。「履して泰にして然る後に安んず。故に受くるに泰を以てす。」これは人がただ礼に依って行い得れば、必ず安泰を獲得するので、《泰》卦が《履》卦の後に接ぐということです。「泰」とは安です。上下両体に就いて見れば、乾は本来上にあるべきに、この卦では降りて来て内に居り、坤は本来下にあるべきに、この卦では升って行って外に居り、上下が彼此往来交通し、陰陽が彼此感合するので、「泰」と呼びます。人事に就いて見れば、君主が礼を以て己を屈して臣子と下交し、臣子が忠誠を以て君主に奉事し、君臣の道が交通して彼此和同すれば、天下は皆安泰を得るので、卦名を「泰」とします。

小往大來,吉亨者,自內之外是往也,由外入內是來也。陽德剛明,又主生育,其道至大,故稱大,今下降之,是大來也;陰主柔弱,又為消剝,故稱小,今上而升之,是小往也。陰陽之氣旣交,則萬物得其吉而亨也。以人事言之,則大為君子也,小為小人也。大者來居於內,是君子進用於朝廷;小者往而處外,是小人退黜於巖野也。君子旣進,小人旣退,則君臣之道交而上下之心和同,成治於天下,而天下之民皆得其吉而亨通也。

「小往大来、吉亨」の中で、内卦から外卦に走るを「往」と呼び、外卦から内卦に進むを「来」と呼びます。陽の徳性は剛強明達でかつ生育を主宰し、その道は極めて大きいので「大」と称し、この卦は陽が内にあるのでまさに「大来」です。陰の徳性は柔弱でまた消損剥落を主るので「小」と称し、この卦は陰が外にあるのでまさに「小往」です。陰陽二気がすでに交通すれば、万物は皆吉祥亨通を得ます。人事に就いて言えば、「大」は君子を指し「小」は小人を指します。大きい者が来て内卦に居るのは、君子が朝廷に進用されることで、小さい者が往って外卦に居るのは、小人が山野に貶退されることです。君子が進用し小人が退去すれば、君臣の道は交通し、上下の心は和同し、天下は因って大いに治まり、百姓も皆吉祥と亨通を得ます。

彖曰:泰,小往大來,吉,亨。則是天地交而萬物通也,上下交而其志同也。內陽而外陰,內健而外順,內君子而外小人。君子道長,小人道消也。

《彖伝》は言います。泰卦の「小往大来、吉、亨」とは、これは天地二気が交合して万物が通暢し、君臣上下が交通して心志が相同じることです。陽が内にあり陰が外にあり、剛健が内にあり柔順が外にあり、君子が内にあり小人が外にあります。君子の道は日一日と生長し、小人の道は日一日と消退します。

義曰:天地交而萬物通者,言陽氣下附,陰氣上騰,二氣交感,萬物得其生而亨通也。上下交而其志同者,上,君也;下,臣也。若君以禮敬接於臣,臣以忠節事於君,財是上志下接,下情上通,上下之道交通,故能行天下之大道也,立天下之大治也,則天下之民皆得其安泰也。

「天地交而万物通」は、陽気が下降して地に附着し、陰気が上昇して天に騰達して、二気が交互に感応すれば、万物はここにおいて生長し通暢を得るということです。「上下交而其志同」の中の「上」は君主を指し「下」は臣子を指し、君主が礼敬を以て臣子に対し、臣子が忠貞節操を以て君主に奉事して、これにおいて君主の意旨が下に達し臣下の実情が上に通ずると言えます。上下の道が彼此交通するので、天下の大道を推行し天下の大治を建立し得て、百姓もまた皆安泰を得ます。

內陽而外陰者,陽為君子,陰為小人,小人外而君子內,泰之道也。內健而外順者,此止以君子之身而言也,故君子內懐剛健之德而外示柔順之貌,以此之故,所以為泰也。內君子而外小人者,言君子則親附而用之,小人則疎遠而黜之,是君子之道日以長,而小人之道日以消。然則聖人作《易》,書不盡言,言不盡意,於此所以丁寧而言者,蓋欲其在位者登君子而任用之,抑小人而黜退之,則天下之事無不舉,萬民之業無不安,是泰道畢矣,故聖人所以申勸而言也。

「内陽而外陰」:陽は君子を代表し陰は小人を代表し、小人が外に摒せられ君子が内に居る、これが泰の路数です。「内健而外順」:この一句は単に君子自身に就いて立論し、君子は内に剛健の徳を懐き外に柔順の容を顕す、まさにこのため泰道を成就し得ます。「内君子而外小人」:君子に対しては親近依靠して任用を加え、小人に対しては疎遠排斥して貶退を加えるので、君子の道は日一日と生長し小人の道は日一日と消退するということです。聖人が《易》を作るに、もとより文字は言うべき話を尽くせず、話は心中の意を尽くせないが、ここでは反復して丁寧に言う、その用意は位に在る人が君子を提拔して重用し、小人を抑制して斥退することを希望するにあります。果たして能くこのようになれば、天下の事で成さないものなく、万民の生業で安まらないものなく、泰道もまた円満します。聖人がこのように講じたのはまさに申明白勉するためです。

象曰:天地交,泰。后以財成天地之道,輔相天地之宜,以左右民。

《大象伝》は言います。天地二気が交合する、これが泰の卦象です。君主はこれに取り法って、天地の生養の道を裁節成就し、天地の宜しき事に輔助配合して、以て百姓を扶助します。「后」は天子諸侯を指し、「財」は「裁」に通じ、「左右」は扶助です。

義曰:夫天氣下降,地氣上升,二氣交通而萬物得其生,此天地交泰之道也。後者,天子諸侯之通稱也。蓋天地交泰以生天下之財,是以天子諸侯觀此泰卦之象,阜豐其財,以成就天地生育之道,故作為網罟以畋以漁,作為耒耜以耘以耔,用商賈以通有無,作工功以便器用,阜豐其財,使鰥寡孤獨皆有常餼,此所以成天地化育之道,輔相天地所生之宜,以扶助天下之民而至於安泰也。

天気は下降し地気は上昇して、二気が交通して万物が生長を得る、これが天地交泰の道です。「后」は天子と諸侯の通称です。天地が交泰して天下の財貨を生ずるので、天子諸侯は泰卦の象を観察して、財貨を豊厚にする法を設けて、以て天地の生養の功を成全します。網罟を制作して人に猟し魚捕させ、耒耜を制作して人に耕耘し培土させ、商賈を運用して各地の有無を相通させ、工役を興辦して器用を便利にします。財貨が豊厚になれば、鰥夫・寡婦・孤児・子なしの老人が皆固定的の口粮を有し得ます。これが天地の化育の道を成就し天地の宜しき生養の事に輔助し、以て天下の百姓を扶持して安泰に達するのです。

初九:拔茅茹,以其彚,征吉。象曰:拔茅征吉,志在外也。

初九の爻辞は言います。茅草を拔けば、根鬚が相牽連して同類を帯び出し、前行すれば吉祥です。《小象伝》は言います。茅を拔いて前行して吉を得るのは、それの志向が外の天下にあるからです。「茹」は根鬚が相牽連することを指し、「彙」は同類です。

義曰:乾本在上,今居於下,必務上進,若君子將進用於朝廷,以佐君澤民而興天下之泰也。茹者,相續之稱也;彚者,類也;徵者,進也。夫茅之為物,拔之則其根牽連而起。若此初九之君子旣進用於朝廷,則天下之賢必皆引類而進,則是君子之道長之時也。君子之道得長,則天下之民受其賜,如此則吉莫大也。象曰志在外也者,言初九之君子必將引類而登進者,蓋其志於天下之民而進求其用,所以佐君而共立天下之治,興天下之泰也。

乾は本来上にあるべきに、この卦では下に居るので、必ず力を求めて上進し、ちょうど君子が将に朝廷に任用されんとして、君主を輔佐し百姓に恵を施し、天下の安泰を興起するがごときです。「茹」は根鬚が相牽連する講釈、「彙」は同類、「征」は前進です。茅草という物は、一たび拔き起れば根鬚は牽連して片を成して一斉に帯び出ます。初九のこの君子が一旦朝廷に任用されれば、天下の賢才は必ずまた接続して引薦され上る、これがまさに君子の道が生長する時です。君子の道が生長を得れば、天下の百姓は恩沢を受けて、吉利はこれより大きいものがありません。《小象伝》の「志在外也」は、初九のこの君子が必ず同類を牽引してともに登進するのは、彼の心思がもとより天下の百姓の上にあり、出仕して用を求めるのはただ君主を輔佐しともに天下の治世を建立し、天下の安泰を興起するためだということです。

九二:包荒,用馮河,不遐遺,朋亡,得尚于中行。象曰:包荒,得尚于中行,以光大也。

九二の爻辞は言います。荒穢を包容し得て、敢えて徒歩で河を渉る猛勇の人を任用し得て、疎遠の人を遺棄せず、私党を結ばず、因って中道に合して行きます。《小象伝》は言います。荒穢を包容し得て中道に合するのは、その道が光明広大だからです。

義曰:九二以剛明之德居中,而上應於六五之君,為六五之所任,是君子見用於時,為興泰之臣也。然而天下雖泰,其間不無荒穢,而九二旣以剛居中,則必寛弘廣大其心,以包藏其荒垢也,故曰包荒。用馮河者,馮河是暴猛之人也。九二旣居重位,柄重權,為天子之見任,而能逺大其器量,雖此馮河暴猛之人亦能用之。何則?夫良匠無棄材,隨其長短大小而皆適其用;況天下之廣,當泰之時,雖此暴猛之人亦有以用,故曰用馮河。

九二は剛強明達の徳を以て下卦の中位に居り、上に向かって六五の君と相応し、六五に倚任される、これは君子が時に逢い用を受けて、泰道を興起する大臣を充当するのです。天下はすでに安泰であるけれど、その中に荒蕪汚穢の処がないとは限りません。九二はすでに陽剛を以て中に居るので、必ず胸襟を放って寛厚広大にし、あの荒穢汚垢を一併して包容し入れるので、爻辞は「包荒」と言います。「用馮河」の「馮河」は、舟楫を用いず徒歩で水を渉るような粗暴勇猛の人を指します。九二は要位に身を居り重権を手に握り、天子に倚任されながら、器量を放って遠大にし、この類の粗猛の人をも用い得られます。なぜかというと、高明の工匠に廃料なく、長いも短いも大きいも小さいも皆各々用処があり、況んや天下の大に、正に安泰の時に当たっては、このような猛人すら自ずから用いる処があるので、「用馮河」と言います。

不遐遺者,遐,遠也;遺,棄也。言此九二之君子,荒穢者包藏之,暴猛者能用之,是皆由其廣大寛厚之至,故雖遐遠者亦不遺棄之也。朋亡得尚于中行者,言九二旣以剛明之德見任於六五,而又廣大其量以容於物,故必不親己之所親而親其朋類,如此所以得尚於中道而行也。象曰以光大也者,言九二之君子旣得尚於中而行,是其道光大而明顯也。

「不遐遺」の「遐」は遥遠、「遺」は抛弃です。これは九二のこの君子が、荒穢のは包容し得て粗猛のは任用し得て、皆彼の極めて広大寛厚の胸襟から出るので、関係が疎遠の人をも彼に抛弃されないということです。「朋亡、得尚于中行」は言います。九二はすでに剛明の徳を以て六五に倚任され、また器量を拡大して衆人を容納し得るので、決してただ自分が私下に親近する人に親近し自分の一党を提携するに止まらず、まさにこのため中道に合して行い得ます。《小象伝》の「以光大也」は、九二のこの君子がすでに中道に合して行事し得れば、彼の道は自然と広大にして光明显著だということです。

九三:無平不陂,無往不復,艱貞無咎,勿恤其孚,于食有福。象曰:無往不復,天地際也。

九三の爻辞は言います。ずっと平坦で傾斜に転じないものなく、ずっと往って返らないものなく、艱難の中で正を守れば過失がありません。自分の誠信が人に知られるかを憂慮せず、俸禄を安享して自ずから福分があります。《小象伝》は言います。往って返らないものがないのは、九三がまさに天地の交界の処に居るからです。

義曰:此一爻,聖人因天地將復之際,故設為之戒也。言乾本在上,坤本在下,所以泰者,上下交也;今九三居下卦之極,是天地將復之際也,天地復則不交而否矣。故聖人戒之曰:無有平而不歸險陂,無有往而不復其所者,猶若無有泰極而不至衰否,故當艱難而守之以正道,則可以久於其泰而免其凶咎也。

この一爻は、聖人が天地が将に各々本位に復帰せんとする時機に乗じて設けた告戒です。乾は本来上にあり坤は本来下にあり、この卦が泰たる所以は、まさに上下が互換して彼此交通するからです。今、九三は下卦の頂端に居り、天地は将に各々原位に帰らんとして、一旦原位に復帰すれば更に交通せず、泰は否に転じます。ですから聖人は告戒して言います。ずっと平坦で傾斜に転じないものなく、またずっと往って原処に返らないものなく、安泰が極点に至って衰敗閉塞に向かわないものがないがごときです。それゆえ艱難の中で正道を堅守して、こうしてはじめて泰の局面を少し久しく維持し得て、凶険と過失を免れます。

勿恤其孚,于食有福者,言旣能艱守正道,則不待憂恤其孚信而自然明顯,故可以往而安食其福祿也。象曰無往不復,天地際也者,言九三居乾之上,是將復於上;在坤之下,是將復於下,當天地之分際,故曰天地際也。

「勿恤其孚、于食有福」は言います。すでに艱難の中で正道を守住し得れば、自分の誠信が人に知られぬのを愁う必要なく、それは自然と顕露し出て、それゆえ安心して前行し安然と応得の福禄を享受し得ます。《小象伝》の「无往不復、天地際也」は、九三が乾体の最上の一爻に居り、将に上に向かって天の位置に復帰せんとして、同時にまた坤体の最下の一爻に緊挨し、坤もまた将に下に向かって地の位置に復帰せんとするので、それはまさに天と地の分界の処に当たって、「天地際」と言います。

六四:翩翩,不富以其鄰,不戒以孚。象曰:翩翩不富,皆失實也;不戒以孚,中心願也。

六四の爻辞は言います。軽捷に飛び下り、自分の富厚に靠らずとも近隣の同伴を帯動し得て、告誡せずとも彼此誠信に相従います。《小象伝》は言います。翩然として飛び下って富まないのは、上下が皆本位を離れたからです。告誡せずとも彼此誠信なのは、内心の共同的意願から出るのです。

義曰:翩翩者,自上而下疾飛之貌也。夫九三以陽居乾卦之極,是三陽同志皆務上進也;六四以陰居坤卦之初,是三陰同志而皆欲下復也,故此所以翩翩然與上二陰具復其本,所以無有凝滯也,故曰翩翩。不富以其鄰,不戒以孚者,以,用也,言三陰同志皆欲下復,故此六四不待富盛而自然能用其鄰,不須戒備而自孚信也,故曰不富以其鄰,不戒以孚。

「翩翩」は上から下へ疾く飛ぶ様子です。九三は陽爻を以て乾体の頂端に居り、下卦の三つの陽爻の志向が一致して皆上に推進せんと欲することを説明します。六四は陰爻を以て坤体の起始に居り、上卦の三つの陰爻の志向が一致して皆下に本位に復帰せんと欲することを説明します。ですから六四は軽捷に上の六五・上六の二つの陰爻とともに本来の位置に帰り、中間に半点の滞碍もなく、それゆえ「翩翩」と言います。「不富以其隣、不戒以孚」の「以」は「用」と講じます。三つの陰爻は志同道を合わせて皆下に帰らんと欲するので、六四は自身の富厚に凭藉せずとも自然と近隣の同伴を帯動し得て、予め約束防備せずとも彼此自然と誠信を以て相待するので、「不富以其隣、不戒以孚」と言います。

象曰皆失實也者,實謂居處也。言乾本在上,今泰之時則下之;坤本在下,今上之,是上下皆失其實也。六四所以翩翩然欲將復而居下,謂其失實故也。中心願也者,言六四不待戒備,自然有孚信而下復者,是眾心之所共願也。

《小象伝》の「皆失実也」において、ここの「実」は本来応に処すべき位置を指します。乾は本来上にあるべきに、泰卦の時には下に降り、坤は本来下にあるべきに、泰卦の時には上に升りました。上下が皆本位を離れました。六四が翩然として下に帰るのを急ぐ所以は、まさに自分が今失位の状態に居るからです。「中心願也」に至っては、六四が予め防備せずとも自然と誠信を以て下に復帰し得るのは、これは衆爻の心中の共同的願望だということです。

六五:帝乙歸妹,以祉元吉。象曰:以祉元吉,中以行願也。

六五の爻辞は言います。帝乙は娘を下の諸侯に嫁がせ、因って福祉を獲得し、大吉です。《小象伝》は言います。福を得て大吉なのは、六五が中道を以て自分の素来の心愿を実現し得たからです。

義曰:帝乙,商之賢王也。歸者,婦人謂嫁曰歸;歸妹之為言順也;祉,福也。此六五乃中順之主也,當此泰平之時,能以文柔接於下,則彖所謂上下交而其志同,卽君降志而接其臣,所以興泰道者也。猶言帝乙賢王以女下嫁於諸侯,是謙順之至也,故曰帝乙歸妹。

帝乙は商代の一賢明の君王です。「帰」は古人が女子の出嫁を称する講釈で、「帰妹」の二字は柔順相従の意味を含有し、「祉」は福です。六五は中を持して柔順の君主で、この泰平の時に当たり、文雅柔和の姿態を以て下の臣子を接納し得る、すなわち《彖伝》の言う「上下交而其志同」――君主が身段を低く放して臣下を結交しに行く、泰道はまさにこのように興るのです。これはちょうど賢王帝乙が娘を諸侯に下嫁させて、謙遜柔順が極点に至ったがごときなので、爻辞は「帝乙帰妹」と言います。

以祉元吉者,夫天子以女而下降於諸侯,是順之之至也,而在下者又能盡其分,故上下皆獲其福祉而有元大之吉也,故曰以祉元吉。象曰中以行願也者,言君治天下,必欲得賢能之臣為之委任也。今六五能執謙以下於九二賢明之臣,以至獲元大之吉,是由其中道而素願得行也。

「以祉元吉」は言います。天子が娘を諸侯に下嫁させるのは、柔順がすでに極点に至り、而して下位に居る一方もまた各々本分を尽くし得るので、上下が皆福祉を得て、最大の吉祥を獲致するので、「以祉元吉」と言います。《小象伝》の「中以行願也」は、君主が天下を治理するに、総じて賢能の臣を得て重任を委すことを希望するのに、今、六五は謙退の心を守って身を屈して九二のこの賢明の臣を交結しに行き、以致って大吉を獲得する、これがまさに中道に凭って自分の素来の心愿を実現し得たのだということです。

上六:城復于隍,勿用師,自邑告命,貞吝。象曰:城復于隍,其命亂也。

上六の爻辞は言います。城墻が傾覆して護城の乾壕に坍れ帰り、軍隊を動用してはならず、ただ自分の城邑の内で号令を発施するのみ、これを守って往けば実に鄙吝です。《小象伝》は言います。城墻が壕溝に坍れ帰るのは、政令がすでに紊亂したからです。「隍」は水のない護城壕です。

義曰:大凡平治之世,雖教化甚盛,其間不能無奸惡之人。堯舜太平也,未必無小人;桀紂暴亂也,未必無君子,皆繫於其上之所為如何耳。是故古之善為國者,旣以仁義道德為己任而安治天下,又且髙其城,浚其隍,以為之戒備而防天下之奸冦也。何則?天下雖在熙泰,而奸惡之人其心未嘗安,故聖人謂王公設險以守國者,將使治天下者必有仁義以興治道,亦須設險厄以崇備也。若但有其德而不能設備,則不可以保其國也;若但設其險阻而無其德,其國固不能以保也。

大凡太平の世は、縦使教化が極盛であっても、その中に奸悪の人が一人もいないことはあり得ません。堯舜の太平盛世に必ずしも小人がないとは限らず、桀紂の暴乱の世にも必ずしも君子がないとは限りません。関鍵は全て上位者がどうするかに過ぎません。ですから古の治国に善い人は、一方は仁義道徳を己の任として以て天下を安定し、一方はまた城墻を高く加え壕溝を深く掘って、戒備として天下の奸人と寇盗を防範しました。なぜかというと、天下は熙洽安泰の中に居るけれど、奸悪の人の心は従来安分したことがないからです。ですから《易》の中に「王公設險以守其国」と言い、まさに天下を治める人がすでに仁義を以て治道を興起する以上、必ずまた険要を設置して防備を加強しなければなりません。倘若徳行のみあって防備を設けなければ、国家は保てません。倘若険阻を設けるのみで徳行がなければ、国家は同じく保てません。

昔在太王居邠,狄人侵之,去而居岐山之下而邑焉。以太王為國非無德也,然卒為狄人之所迫者,以不設備故也;使太王居是時髙其城池,則雖夷狄之侵擾,亦無能為也。又秦之始皇有天下,北築長城,西據崤函,帶山阻河,險厄萬里,非無備也,然二世則失天下者,以不為德故也;使秦皇能以是國而修其德以濟之,則傾亡之禍無有也。以此知為國者必有其德,又設其險,則可以永永而守也。

従前、太王は邠の地に住んで、狄人が来て侵犯したので、已むなく遷り去って岐山の脚下に別に城邑を建てました。太王が治国を以て論ずれば、徳行がないのではなかったが、終に狄人に逼られて、原因は防備を設けなかったに在りました。假使太王が当時に城墻壕池を高く深く築いたら、たとえ夷狄が来て騒擾しても、彼を奈何し得なかったでしょう。更に見れば、秦始皇は天下を擁有して、北辺に長城を修築し、西辺に崤山函谷を拠守して、山を環し河を帯びて険要が万里に綿延し、防備がないとは言えなかったが、しかし二世に伝わって天下を失った、原因は徳行を修めなかったに在りました。假使秦始皇がこのような国勢に凭って更に徳行を修養してそれを輔成したら、傾覆滅亡の禍はもとより免れ得たでしょう。これに由って治国する人は必ずすでに徳行を有しかつ険要を設けて、はじめて長く久しく国家を守住し得ることが知られます。

然呉起曰在德不在險,蓋一時之權言耳,非萬世之大法也。且五帝而下,堯都於冀,舜都於蒲,今之河中府是也;禹都於安邑,湯都於亳,今之河南是也;周都於酆鎬,今之洛京是也。是皆其所都之地、所處之國,未有不以山河之險而守其國也。聖人之戒治天下者,安不忘危,治不忘亂,則可以永有其泰也。

呉起の言う「在徳不在險」に至っては、あれはただ当時の情勢に対する権宜の談で、万世に通行する大法ではありません。況んや五帝以下、堯は冀州に都を建て、舜は蒲坂に都を建て、すなわち今の河中府で、禹は安邑に都を建て、湯は亳に都を建て、すなわち今の河南で、周は酆・鎬に都を建て、すなわち今の洛京です。これらの帝王の建てた都城・拠った国土は、山河の険固に凭って国家を守衛しない一処もありません。聖人は天下を治理する人に告戒します。安定のときに危難を忘れず、治世の裏で禍乱を忘れず、こうしてはじめて長く安泰を保有し得ます。

上六處卦之極而泰道將革,又不能居安而思危,處治而思亂,以至驕慢邪侈而不為之戒備,故有城復于隍之事也。蓋言城復傾圯而無髙險之阻,隍復盈滿而無固之限,是皆恃泰之至,以及於否也,故曰城復于隍也。

上六は全卦の頂端に居り、泰道が将に変易せんとして、それは安定のときに危難を思い治世の裏で禍乱を思うことができず、以致って驕縦怠慢・邪僻奢侈で防備を加えず、こうして城墻が壕溝に坍れ帰る局面が現れました。これは城墻が倒塌して来て、更に高峻険固の屏障なく、壕溝が填め平られ填め満されて、更に堅固の界限がないということです。この一切は安泰を仗恃すること過ぎて、はじめて閉塞の否境に落ちたので、「城復于隍」と言います。

勿用師者,夫泰道既極,已不能自為之備,而更用軍師以攻伐於人,則是不量己力,而天下之人必不服從,適自取滅亡之道耳,故聖人又戒之,言不可復用師也。自邑告命貞吝者,夫威賞政令行之於天下則可,今上六既無所戒備,又不可用師,威德不足以及遠,告命不能及天下,但可號令於己邑之中而已。此皆由恃安泰之過而不能防閒以至於此,以正道言之,誠足以鄙吝者也,故曰自邑告命貞吝。象曰其命亂也者,蓋其命令紛亂,不能及於天下。聖人所以丁寧而言之者,欲戒後之人君處天下之泰,必常思危亡之事,則可以常保其泰也。

「勿用師」は言います。泰道がすでに尽頭に至り、自分は防備をも為し得ないのに、軍隊を動用して他人を攻伐せんとするのは、自身の力量を衡量しないことで、天下の人は必ず服従を肯んじず、ただ自ら滅亡を尋ねる路数に過ぎないので、聖人は更に告戒を加えて、兵を再用する不可と言います。「自邑告命貞吝」は言います。威刑・賞賜・政令が天下に通行し得てはじめてよいのに、今、上六はすでに戒備なくまた用兵し得ず、威望徳行は遠い所に届かず号令は天下に伝わらず、ただ自分の一座の城邑の内で号令を発施するのみです。これらは皆安泰を仗恃すること過ぎて防範を知らずしてこの地步に落ちたので、正道上において言えば、実に鄙吝可惜なので、「自邑告命貞吝」と言います。《小象伝》の「其命乱也」は、彼の政令が紛雑錯乱して天下に行き届かないことを指します。聖人が反復丁寧に言う所以は、後世の君主に告戒するので、身が天下安泰の時に居っては、必ず常に危亡の事を思って、こうしてはじめて長く安泰を保ち得ます。

否 坤下乾上

否之匪人,不利君子貞,大往小來。

卦辞は言います。閉塞の世は人の応有の常道に合わず、君子が正道を守持するに利せず、陽剛の大きい者が往って外に居り、陰柔の小さい者が来て内に居ります。

義曰:按《序卦》云,物不可以終泰,故受之以否。否者,閉塞之道也。天地相交,陰陽相接,則萬物得其亨通而繁盛,故曰泰,泰者,通也;物不可終通,故天地各復其本而陰陽不相交,則萬物皆閉塞而不生,此否之道也。

《序卦伝》は言います。「物は以て終に泰たる可からず。故に受くるに否を以てす。」「否」とは閉塞不通の道です。天地二気が相交じ陰陽が彼此接合すれば、万物は亨通繁盛を得るので「泰」と呼び、泰は通です。しかし事物は永遠に通達し得ず、天地が各々本来の位置に帰って陰陽が更に交合しなければ、万物は皆閉塞して生長できず、これが否の路数です。

否之匪人者,匪,非也。言天地不交,萬物不生而否塞,此非所謂人之常道也。夫君必以至誠接於臣,臣必以至忠奉於君,則天下可以獲安也;今否之時,君臣不交而物不得其所,是非人之常道也。何則?夫人情莫不欲安、欲逸、欲富、欲壽,否之時則不得其安,不得其逸,不得其富,不得其壽,是豈人之常道乎?

「否之匪人」の「匪」はすなわち非です。これは天地が相交じず万物が生長し得ず処処閉塞するのは、これは人の応有の常道ではないということです。君主は必ず極めて誠懇の態度を以て臣子に対し、臣子は必ず極めて忠貞の態度を以て君主に奉事して、天下ははじめて安定を得られます。今、閉塞の世にあっては、君臣が互いに交通せず、万物は応有の位置を得ず、これは自然と人の常道ではありません。なぜかというと、人の常情で安定を想わず安逸を想わず富足を想わず長寿を想わないものはなく、閉塞の時に至っては、安定も得られず安逸も得られず富足も得られず長寿も得られません――これがまだ人の常道と算えられましょうか。

不利君子貞者,夫否之時,天地不相交,君臣不相接,小人見用而其道長;小人之道長,則疾於君子,為君子者苟欲以正道而行,則必為小人之所害,故韜晦道德,卷懷仁義,退而自處,不露其正則可也。大往小來者,陽德至大,陰德至小;今否之時,陽之大德往居於外,陰之小德來處於內,往者屈之,來者伸之,猶君子往屈於巖穴,小人來居於朝廷,則否道所以致也。

「不利君子貞」は言います。閉塞の時に、天地が相交じず君臣が相接せず、小人は任用を得て気焔が日に長じます。小人の道が一たび長ずれば、君子を憎悪せんとします。君子たる者がもし必ず正道に按って行事せんとすれば、必然に小人に害されるので、道徳を収斂蔵起し仁義を懐中に巻蔵して、退いて独り其身を善くし、自分の正直を顕露せず、こうしてはじめて可です。「大往小来」は言います。陽の徳性は極めて大きく陰の徳性は極めて小さいのに、今、閉塞の時に、陽の大徳は往って外卦に居り陰の小徳は来て内卦に居り、往外の一方は圧屈を受け進来の一方は伸展を得、ちょうど君子が山野岩穴の間に退避して委屈を受け、小人が進んで朝廷を占拠するがごときで、閉塞の局面はこのように造成されたのです。

彖曰:否之匪人,不利君子貞,大往小來。則是天地不交而萬物不通也,上下不交而天下無邦也。內陰而外陽,內柔而外剛,內小人而外君子。小人道長,君子道消也。

《彖伝》は言います。否卦の「否之匪人、不利君子貞、大往小来」とは、これは天地二気が交じらずして万物が通じず、君臣上下が交じらずして天下が国なきに形ずることです。陰が内にあり陽が外にあり、柔が内にあり剛が外にあり、小人が内にあり君子が外にあります。小人の道は日一日と生長し、君子の道は日一日と消退します。

義曰:言否之所以非人常道而不利君子貞者,由天地各復其所,二氣不相交而萬物不得其亨通也。上下不交而天下無邦也者,上,君也;下,臣也。君不以禮敬接於臣,臣不以忠節事其君,禮敬忠義之情不交,則君臣之道塞;君臣之道塞,則天下之諸侯從而亂,所以邦國將至於傾覆矣。

否が人の常道に合わず君子の正を守るに利せざる所以は、天地が各々本位に帰って二気が更に交合せず、万物が亨通を得ないからです。「上下不交而天下无邦也」の中の「上」は君主を指し「下」は臣子を指し、君主が礼敬を以て臣子に対せず、臣子が忠貞節操を以て君主に奉事せず、礼敬と忠義の情が彼此通じなければ、君臣の道は堵塞します。君臣の道が一たび堵塞すれば、天下の諸侯は随って離心して作乱し、邦国も将に傾覆せんとして、国ありと雖も国なきに形ずるようになります。

內陰而外陽者,內者,親也;外者,疎也。陰為小人,陽為君子,親小人而疎君子,此所以成否道也。內柔而外剛者,此小人之體也。內而柔,則陰賊殘害;外而剛,則狠僻凌暴。故語曰色厲而內荏,厲,嚴厲也;荏,柔荏也。外有嚴厲之色,內有柔荏之心,此所以反君子之道也。內小人而外君子,小人道長,君子道消也者,由其內小人而親信之,外君子而疎逺之,是以小人之道日以長,君子之道日以消也。

「内陰而外陽」の中で、「内」は親近を意味し「外」は疎遠を意味します。陰は小人を代表し陽は君子を代表し、小人を親近し君子を疎遠にすれば、閉塞の局面はこのように形成されます。「内柔而外剛」は、小人の本相を言うので、内里が柔軟であれば陰狠に他人を残害し、外表が剛硬であれば凶狠乖僻に他人を欺圧します。ですから《論語》に「色厲而内荏」の講釈があります――「厲」は厳厲、「荏」は柔弱です。外に厳厲の顔色を擺出し、内は一副の軟弱の心腸で、これはまさに君子の道と相反します。「内小人而外君子、小人道長、君子道消」は、小人を近い処に置いて親信を加え、君子を遠い処に推して疎遠を加えるので、小人の道は日一日と生長し君子の道は日一日と消退するのです。

象曰:天地不交,否。君子以儉德辟難,不可榮以祿。

《大象伝》は言います。天地二気が相交じない、これが否の卦象です。君子はこれに取り法って、倹約の徳行を以て禍難を躲避し、高官厚禄を以て自身を炫耀してはなりません。「辟」は「避」に通じます。

義曰:言君子於此天地不交、賢人道塞之時,則當韜光遁跡,以全身遠害,不可與小人並立;若與小人並立,則必見害而召禍也。故但守儉素之德,不憫貧賤,以避小人疾之患耳。如不得已而仕,則不可居重位、享重祿以榮其身,第可全已遠害而已。故《君子陽陽》之詩曰:君子陽陽,左執簧,右招我由房。言周之衰,君子遭是時者相招為祿仕,但為一伶官之賤職,以全身遠害而已矣。

君子は天地が交じらず賢人の道が堵塞したときには、鋒芒を収斂し行跡を隠蔵して、以て自身を保全し禍害を遠く離れ、小人と肩を並べて立ってはなりません。一旦小人と並立すれば、必ずその陷害に遭い禍患を招来します。ですからただ倹約朴素の徳行を守住し、貧賤のために傷懐せず、この弁法を以て小人の嫉恨を躲ればよいのです。倘若已むを得ず出仕しても、要職を占拠し厚禄を享受して自分を光耀してはならず、ただ自身を保全し禍害を遠く離れるを求めれば足ります。ですから《詩経・王風》の《君子陽陽》の一篇に言います。「君子陽陽、左に簧を執り、右に我を由房に招く。」これは周室が衰微の際に、この時に遭逢した君子が彼此招引して領薪水の小官を為り、ただ楽工の類の低賤の職位を充当して、以て自身を保全し禍害を遠く離れるに過ぎないということです。

初六:拔茅茹,以其彚,貞吉,亨。象曰:拔茅貞吉,志在君也。

初六の爻辞は言います。茅草を拔けば、根鬚が相連して同類を帯び出します。正道を守持すれば吉祥で亨通します。《小象伝》は言います。茅を拔いて正を守って吉を得るのは、それの心中に終始君主を想っているからです。

義曰:泰之初,是君子道長之時,可以進用於朝廷,是以連引其類而進之,故其爻辭曰拔茅茹,以其彚,征吉。今否之初,是小人道長、君子不可用之時也。時旣不可用,則必引類而退,守以正道,不可求進,然後得其吉而獲亨也。象曰拔茅貞吉,志在君也者,夫君子之志,未嘗不在致君澤民也,雖當此否塞之時,引退守正,不苟務其進,俟時而後動者,蓋亦志在致君澤民而已。

泰卦の初爻は、まさに君子の道が生長する時に当たり、朝廷に進用され得るので、同類を牽引してともに上進し、爻辞は「拔茅茹、以其彙、征吉」と言います。今、否卦の初爻は、小人の道が生長し君子が出仕し得ない時です。時勢がすでに出仕を容れなければ、必ず同類を帯びてともに退いて、正道を守住して進取を謀らず、然る後に吉を得て亨通し得ます。《小象伝》の「拔茅貞吉、志在君也」は、君子の志向は従来君徳を輔成し百姓に恵を施すこの一事を離れたことがなく、たとえ閉塞の時に居って身を引いて退避し正道を守って苟且に進を求めず、時機を待って行動しても、心中に存するのはなお依然として君徳を輔成し百姓に恵を施すことだということです。

六二:包承,小人吉,大人否亨。象曰:大人否亨,不亂群也。

六二の爻辞は言います。順従の心を懐いて上の者を承奉し、小人はこれに由って吉を得、大徳の人は閉塞の中で自守して亨を得ます。《小象伝》は言います。大人が否世にかえって亨通し得るのは、彼が小人と混杂して群を為さないからです。

義曰:六二居否之時,小人而見用者也。然而以陰居陰,處得中正,是於小人之中能包其柔順便佞之心以奉承於上,是以小人而得小人之吉者也。大人否亨者,若大德大才之人則不然:居是時也,以其道塞而不通,故能以正自守,韜藏其仁義,卷懐其道德,不為世俗之所變,而不雜於小人之中,於否之世行否之中道,所以全身遠害也。

六二は閉塞の世に居り、任用された小人です。ただそれは陰爻を以て陰位に居り、また下卦の中位に居って位置が中正なので、小人の中ではあの柔順諂媚の心思を收起して上を承奉し得て、因って小人の身分を以て小人に属する吉利を得ます。「大人否亨」はこれと異なり、大徳大才の人がこの時に処して、道路が堵塞して通じないので、正を守り自ら持して、仁義を収蔵し道徳を懐に巻き、世俗の風気に改変されず、また小人の堆に混杂せず、閉塞の世に閉塞の世の行うべき中道を歩んで、この弁法を以て自身を保全し禍害を遠く離れます。

《中庸》曰:國有道,其言足以興;國無道,其黙足以容。《詩》曰:旣明且哲,以保其身。蓋否之時不可進用,但以義而自處,全身遠害而已。《中庸》又曰:素富貴行乎富貴,素患難行乎患難,君子無入而不自得焉。是言大人君子於否之時行否之道,所以亨也,故曰大人否亨。象曰大人否亨,不亂群也者,言大人君子其時雖否,然能以道自處,以正自守,不與小人雜,是不亂其群類也。

《中庸》は言います。「国に道あれば、その言は以て興るに足る。国に道なければ、その黙は以て容るるに足る。」《詩経・大雅・烝民》は言います。「明らかにして且つ哲なれば、以てその身を保つ。」見れば分かるように、閉塞の時は出仕して用を受けるに宜しくなく、ただ道義に依って自分を安頓し、性命を保全し禍害を遠く離れればよいのです。《中庸》はまた言います。「素富貴なれば富貴に行い、素患難なれば患難に行う。君子は入るとして自ら得ざるなし。」これがまさに大徳君子が閉塞の世に閉塞の世の路を歩み、因って亨通し得るので、爻辞は「大人否亨」と言います。《小象伝》の「大人否亨、不乱群也」は、大徳君子は否世に逢うと雖も、道を以て自処し正を以て自守し得て、小人と相混ざらず、また自分の所属するこの一類を搅乱しないということです。

六三:包羞。象曰:包羞,位不當也。

六三の爻辞は言います。ただ羞恥を包蔵して苟且に身を容れるのみです。《小象伝》は言います。羞恥を包蔵するのは、それの居る爻位が当たらないからです。

義曰:六二雖以小人之道用於時,猶且不失其中,承事其上而得其吉也。今此六三位既過中,履復失正,小人之道愈,但包其羞恥,苟容其身而已,故曰包羞。象曰包羞,位不當也者,蓋言六三於小人之中最為甚者,言其所處之位不當故也。

六二は小人の道を以て世に用いられたと雖も、畢竟なお中道を失わず、上に承事して吉利を獲得し得ました。今、六三の位置はすでに中位を越過し、居る所もまたその正を失い――陰爻が陽位に居ればすなわち当位せず――小人の習気は愈々甚だしく、ただ羞恥を包蔵して苟且に容身を求めるのみなので、「包羞」と言います。《小象伝》の「包羞、位不当也」は、六三が小人の中では最も不堪の一つであるのは、原因がそれの処する位置が適当でないに在るということです。

九四:有命無咎,疇離祉。象曰:有命無咎,志行也。

九四の爻辞は言います。任命する所有れば過失がありません。同類もまた従って福祉に沾じます。《小象伝》は言います。任命する所有って過失がないのは、それの志向が施行を得たからです。「疇」は同類、「離」は附着です。

義曰:有命,謂九四有命於初也;疇,類也;離,附也;祉,福也。夫否塞之時不可有命於其人,蓋小人眾多也;然此九四乃有所命者,以其有剛明勤儉之德,所應在初耳。何則?初六居否之時,以道不行於天下,故不苟進,引類而退,存心在君,蓋守道之君子也。今九四有命焉,所以為無咎也。然以君子而應君子,不唯已得無咎,使其疇類亦得附離於福祉也,故曰有命無咎,疇離祉。象曰有命無咎,志行也者,蓋九四以正而見命於初,以至同有其福祉,是己之志得行也。

「有命」は九四が下に向かって初六に対して任命する所有ることを指し、「疇」は同類、「離」は附着、「祉」は福です。閉塞の世はもとより随に人を任命するに宜しくなく、小人が多すぎるからです。九四は任命する所有るのは、それが剛強明達・勤勉倹約の徳行を具え、しかもそれと相応ずるのがまさに初六だからです。なぜこのように言うかというと、初六は否世に身を処して、道が天下に行かれないので、苟且に進取することを肯んじず、かえって同類を帯びて退避し、心中には終始君主を記懸しており、まさに一守道の君子です。今、九四はそれに対して任命する所有るので、過失がありません。しかも君子を以て君子に応和すれば、ただ自分に過失がないのみならず、また同類の人を一併して福祉に附着せしめ得るので、「有命无咎、疇離祉」と言います。《小象伝》の「有命无咎、志行也」は、九四が正道を以て初六に命を授けて、以致って彼此福祉を共享する、これがすなわち自分の志向が施行を得たのだということです。

九五:休否,大人吉。其亡其亡,繫于苞桑。象曰:大人之吉,位正當也。

九五の爻辞は言います。閉塞の勢を止息せしめ、大徳の人はこれに由って吉を獲得します。心中に時々将に覆亡せんとす・将に覆亡せんとすと念じて、江山は叢生の桑樹の根に係えた如く牢固になります。《小象伝》は言います。大人が吉を得る所以は、彼の居る位置が極めて正当だからです。

義曰:休,息也。夫以柔順之道婉遜以承其上而獲小人之吉者,六二是也;以剛健中正之德而履至尊之位,憂天下之所宜憂,泰天下之所未泰,消去天下之小人而休息天下之否道者,惟九五大人行之而獲吉也,故曰休否,大人吉。

「休」は止息です。柔順婉転の態度を以て上を承奉して、従って小人のあの一份の吉利を得たのは六二です。而して剛健中正の徳を以て至尊の位に登り、天下の憂慮すべき事を憂慮し、天下のまだ安頓せざる局面を安頓し、天下の小人を鏟除して、閉塞の勢を停止せしめたのは、ただ九五のこの大人のみが為し得、因って吉を獲得するので、爻辞は「休否、大人吉」と言います。

其亡其亡,繫于苞桑者,桑之為物,其根幹皆相迫結而堅固者也;苞即叢生也。夫以大人之德,能消天下之否而反於泰,雖然,且當常謂危亡之在前,不敢遑安,而曰其亡矣其亡矣。如此之戒,則社稷盤固,如係于苞桑之上而不可拔也。

「其亡其亡、繫于苞桑」:桑樹という植物は、根と幹が皆盤繞糾結して、極めて堅固で、「苞」とはすなわち叢生して簇を成すことです。大人の徳行に凭って、天下の閉塞を消除して安泰に帰り得ると雖も、なお応に常に自分に危亡が眼の前に在ると提醒し、一刻も懈怠安逸を敢えてせず、口に将に亡びんとす・将に亡びんとすと念ずべきです。このような警戒があれば、国家社稷ははじめて盤結牢固となり、叢生の桑樹の根幹に係えたように拔き動かせません。

上九:傾否,先否後喜。象曰:否終則傾,何可長也。

上九の爻辞は言います。閉塞の局を傾覆すれば、先は閉塞で後は歓喜に転じます。《小象伝》は言います。閉塞が尽頭に至れば傾覆するので、どうして長く維持し得ましょうか。

義曰:傾,覆也,圯也。夫否極則泰,剝極則復,未濟終之於既濟,此《易》之常道也。在《繫辭》則曰易窮則變,變則通,通則久;又揚子曰:陰不極則陽不生,亂不極則治不成,皆變易之常道也。今上九居卦之極,則必傾去其否而反之於泰,可以獲其亨通也,故曰傾否。先否後喜者,此言否之道,始則六二包承而大人否,九五休否而有大人吉,至此上九則否傾而之泰,是先否後喜之驗也。

「傾」は傾覆・坍塌です。閉塞が極点に至れば通泰に転じ、剥落が極点に至れば回復に転じ、《未済》の後は終に《既済》に帰する、これは《易》理の常道です。《繫辞伝》は「易は窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通じ、通ずれば則ち久し」と言い、揚雄もまた言いました。陰は極点に至らなければ陽は生じ出ず、乱は極点に至らなければ治は成らず。これらは皆変易の常理です。今、上九は全卦の頂端に居り、必然に閉塞の局を推倒して安泰上に回転し、従って亨通を獲得するので、「傾否」と言います。「先否後喜」は言います。否卦は一路下来して、起初は六二が順従を包蔵して大徳の人はただ否に自守するのみ、続いて九五は否塞を止息せしめて大人が吉を得、上九に至っては否局が傾覆して泰境に転入する――これがまさに先は閉塞・後は歓喜に応験します。

象曰否終則傾,何可長也者,言何可常若此之否也。然聖人言之,繫乎勸戒也。泰之時,慮其恃安而過極,故九三則曰無平不陂,無往不復,至上六則曰城復于隍,皆所以存戒之之意也;今否之時,又慮其躓跋而不進,故九五言休否大人吉,至此上九則言傾否,先否後喜,亦存勸之之意也。此皆極言人事之道,而明《易》之深也。

《小象伝》の「否終則傾、何可長也」は、このような閉塞の局面はどうして長く維持し得られようということです。ただ聖人がこのように講じるのは、その用意が全て勧勉と告戒にあります。安泰の時には、人が太平を仗恃して放縦に過ぎるのを恐れ、九三に「无平不陂、无往不復」と言わせ、上六に至ってまた「城復于隍」と言わせ、皆告戒の意を存します。閉塞の時には、また人が跌跌撞撞・灰心して進まざるのを恐れ、九五に「休否、大人吉」と言わせ、上九に「傾否、先否後喜」と言わせ、勧勉の意を存します。これらは皆人事の道理を極処まで講じて、従って《易》理の深切を顕明にするのです。

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