咸 艮下兌上
咸:亨,利貞,取女吉。
《咸》卦。亨通し、正道を守持するに利し、女子を娶りて妻とすれば吉祥を獲得します。「元亨利貞」は《周易》卦辞中の最も常見の一組の断語で、この卦は只だ「亨利貞」の三字を言います。「亨」は両情が感通して阻隔なきを指し、「利貞」は利が正道を守持するに在るを指し、「取」は此処では「娶」に通じます。
義曰:夫有天地萬物、男女夫婦、君臣上下,莫不有感之道,然後得其理。故聖人作《易》,以通神明之徳,以類萬物之情,分乾、坤、坎、離為上經,取咸、恆、既濟、未濟為下經,以盡天道人事之理。咸,感也,天地之大經、夫婦之大倫,故為下經之首也。
胡瑗が解説します。天地と万物、男女と夫婦、君臣と上下、一つとして彼此感応の道理の存在しないものはなく、唯だ感応が貫通して、各々の分際条理が乃ち成立します。だから聖人は《周易》を作り、それを用いて神明の徳性を会通し、それを用いて万物の実情を比擬しました。《乾》《坤》《坎》《離》を分列して上経の綱領とし、《咸》《恒》《既済》《未済》を取りて下経の綱領とし、以て天道と人事の全部の道理を窮め尽くします。「咸」はすなわち感応で、それは天地運行の大綱常であると同時に、夫婦結合の大倫理でもあり、だから下経の起頭に排されました。
亨利貞者,言天地不交則萬物無以化生,男女不感則人倫之道廢,是皆有感而後亨也。然既交感,不可邪諂,必利以正道,則盡感之義,故曰亨利貞也。取女吉者,言感之為道莫速於男女,男女相感然後萬物化生。故此卦上兊而下艮,在《說卦》云:艮三索而得男,故謂之少男;兊三索而得女,故謂之少女。言以少男取於少女,則人倫正而天地之義畢,故咸之道利取女吉也。
卦辞の「亨、利貞」は、天地の二気が交合しなければ、万物は化育生成する由なく、男女の間が相感応しなければ、人倫の道は廃弛することを言うのです。見るべし、凡事は皆先ず感応有りて、後に亨通を語るべし。しかしすでに彼此交感である以上、邪僻諂媚の手段を用いて相手に討好してはならず、必ず正道を以て相処してはじめて利有り、このようにしてはじめて感応の本義を窮め尽くしたと算し得、だから卦辞に「亨利貞」と言います。卦辞はまた「取女吉」と言うのは、感応の道は男女の間より来る速きはなく、男女が相互に感応して、後に万物が乃ち化生を得ます。だからこの一卦は上体が兊(沢)・下体が艮(山)です。《説卦伝》に言う。艮は乾坤が交索して三次に得るの男卦、だから「少男」と称し、兊は交索して三次に得るの女卦、だから「少女」と称します。少男を以て少女を迎娶すれば、人倫は端正し、天地生生の義もまた完備します。だから《咸》卦の道は女を娶るを吉とします。
彖曰:咸,感也。柔上而剛下,二氣感應以相與,止而說,男下女,是以亨利貞,取女吉也。天地感而萬物化生,聖人感人心而天下和平。觀其所感,而天地萬物之情可見矣。
《彖伝》にいう。咸はすなわち感応です。柔爻は上に居り剛爻は下に処す――「剛柔」は《周易》が陽爻と陰爻、および剛健と柔順の二種の性質を指称するのに用いる術語です――陰陽二気が彼此感応して相互に親与します。下卦艮の「卦徳」(一卦の象徴する徳性)は静止、上卦兊の卦徳は欣悦で、男方が主動して女方の下に屈居する、だから亨通し正を守るに利し女を娶りて吉を得ると言います。天地は交感して万物は乃ち化育生長し、聖人は天下人の心を感動して天下は和平に帰します。それらの感応する所の道理を観察すれば、天地万物の実情は皆能く看清されます。
義曰:夫柔者,子也,臣也,婦也,女也,至賤也;剛者,父也,君也,夫也,男也,至貴也。貴上賤下,人之常道也,人之交感之義也。夫女守正靜,男以禮下之,則夫婦道成而父子之親可見也;如賢者懐道義,君以禮下之,則君臣之義行而上下之禮興也。或賢者以道自處,君不能以禮下之,則君臣之分廢矣;是女守而男不以禮下之,則夫婦之道亦罔克成也。
胡瑗が解説します。いわゆる「柔」とは、子を指し、臣を指し、婦を指し、女を指し、尊卑序列の中に於いて最も卑の一端に処します。いわゆる「剛」とは、父を指し、君を指し、夫を指し、男を指し、最も尊の一端に処します。尊貴の者は上に居り卑下の者は下に在る、これは人世の常行の規矩であり、また人と人の交相感応する時の応有の分際です。女方は身を守り端正安静、男方は礼節を以て主動して己を屈して相就すれば、夫婦の道は成立し、父子の間の親情もまたこれによって顕現します。同じく、賢者は道義を懐いて自守し、国君は礼節を以て己を屈して相求めれば、君臣の名分は乃ち推行を得、上下の間の礼制もまたこれに随って興起します。もし賢者は道を以て自守するも、国君が礼を以て己を屈して相待つを肯んぜざれば、君臣の名分は廃弛します。これはまさに女方は正を守ると雖も、男方が礼を以て下に就くを肯んぜざれば、夫婦の道は同じく成就する能わざるがごとしです。
何則?天以髙而自處其上,地以卑而自處其下,天不降氣於下,則地氣無由而升,如是則陰陽之道無以變,萬物四時無以成也。夫天地尚爾,況於人乎!故感道貴以尊先卑,男下女,故曰咸感也。柔上而剛下,二氣感應以相與,至取女吉也,悉如前義。
なぜこのように言うのでしょうか。天は高遠を凭りに自ら上に処し、地は卑下を凭りに自ら下に処します。もし天が陽気を下に降らすを肯んぜざれば、地気もまた上に升る由なく、ならば陰陽交替の道は運転する能わず、万物と四時もまた生成する由ありません。天地ですらこのように俯就して相交わるを要す、まして人と人の間においてをや。だから感応の道は尊者が先ず卑者に向かって俯就するを貴び、男方が主動して女方の下に屈居する、それゆえ《彖伝》に「咸、感也」と言います。「柔上而剛下、二気感応以相与」以下「取女吉也」に至るまでのこれら几句は、含義は皆前に講じた所と相同じです。
天地感而萬物化生者,此言天氣降於下,地氣升於上,二氣升降而交通,則萬物以生以育而各遂性命,是知交感本自然之理,故無所不生,無所不成也。聖人感人心而天下和平者,言聖人享天下之貴勢,藉天下之重器,而天下之人均感恱而化之者,是必推誠信之道,使其仁義教化藏人之肌膚,淪人之骨髓,然後感恱於心而歸之也。是非由勞神役思,諄諄然取其心而求感之也。
《彖伝》の「天地感而万物化生」は、天の陽気は下降し地の陰気は上昇し、二気は一升一降して彼此貫通し、万物はそれによって生長養育を得て、各々自らの性命を完成することを講じます。これより知るべし、交感はもともと自然然而の道理で、だから生から生ぜざる能わざるもなく、成せざる能わざるもなし。《彖伝》はまた「聖人感人心而天下和平」と言うのは、聖人は身は天下の最も尊貴の地位に居り、天下の最も重要の権柄を執掌し、而も天下人は皆彼に感動喜悦し彼の教化を受くるは、これ必ず彼が誠信の道を推行し、仁義教化を人の肌膚に滲み入らしめ人の骨髓に浸み入らしめて、後に人心が乃ち由衷より喜悦して彼に帰附するがゆえです。これ決して神を労し思を苦しめ、絮絮叨叨として人心を籠絡し、強いて別人の己に感応するを求めるにあらず。
咸,感也。卦不名感而名咸者,聖人不以心求感於人,而人自感之,亦如天地二氣自然交通而萬物化生也。觀其所感,而天地萬物之情可見矣者,天地交感然後萬物生,男女交感然後天下化,凡此類是天地萬物之情狀,因其所感而可見也。
「咸」はすなわち感応です。この一卦は直接《感》と呼ばずして《咸》と呼ばれるは、聖人は刻意して心を用いて別人の己に感応するを謀らず、而も人は自然に彼に感動されるからです。「咸」の字はもと普遍にして心なく遍及するの義有り、まさに意ありて感を求めるの「感」の字と相対します。これは天地陰陽二気が自然に交通して万物がそれに随って化生するがごとし。《彖伝》の末句「観其所感、而天地万物之情可見矣」は、天地が交感して後に万物は化生し、男女が交感して後に天下は乃ち教化を得、凡そこの類に属する現象は、皆天地万物の真実の情状であり、それらの感応する所の道理に順って之を見れば、皆明白に見ることができます。
象曰:山上有澤,咸。君子以虛受人。
《大象伝》にいう。山の上に沼沢有り、沢水は下に滲みて山を潤し、山気は上に通じて沢に達す、これが《咸》卦の象です。君子はこの一卦象に取法し、虚懐若谷の態度を用いて他人を接納します。
義曰:按《左傳》云:澤竭則山崩。是澤之氣通於山,則萬物得其濡潤而遂其生成,此相感之義也。故君子法此山澤通氣之象,必虛其心,推其誠,以仁義之道行之於身而加之於人,則天下之人自然感恱而歸慕之也。是非假役役以求人之感也,故曰君子以虛受人。
胡瑗が解説します。《左伝》の裏に「沢竭れば則ち山崩る」と記載し、沼沢が枯竭すれば、山もまたこれに随って崩塌します。見るべし、沢中の水気は山と相通じて、万物は乃ち滋潤を得て生長を完成す、これまさに彼此感応の意義です。だから君子はこの山沢通気の卦象に取法し、必ず自らの心懐を虚空にし、自らの誠意を推出し、仁義の道を先ず自身に落実し、再び他人に推及せば、ならば天下人は自然に感動喜悦して傾心して帰附します。これは奔走鑚営し汲汲として別人の感応を求取するにあらず、だから《大象伝》に「君子以虚受人」と言います。
初六:咸其拇。象曰:咸其拇,志在外也。
初六の爻辞にいう。感応は只だ足の大拇趾に到達します。《小象伝》にいう。感応が只だ大拇趾に及ぶは、それの心志が卦外の相応する爻に繋がっているからです。いわゆる「爻位」は、六爻が下より上に至るの位次を指し、初爻は最下に居り、まさに人身の最下の足趾に対応します。
義曰:夫感之為義貴於深,當以聖賢之道,施為仁義之教、禮樂之化,以漸以摩,使之入人之肌膚,藏民之骨髓,然後天下之人皆合心畢慮,感恱於上也。上下交相感恱,是由感之道深故也。今咸其拇,夫拇者,足之趾,不能自動者也。蓋初六居艮之始,處卦之下,不能自有所動,是所感止及於趾,感之道不深而淺末者也,故曰咸其拇也。象曰志在外也者,言初六之應在於九四,是其所感之道不及於他,而志在於應四而已,志在外也。
胡瑗が解説します。感応この一事は、貴ぶべき所は深く入るに在ります。当に聖賢の道を用いて仁義の教誨・礼楽の化育を推行し、一点ずつ浸潤し、一層ずつ磨砺して、それを人の肌膚に滲み入らしめ、百姓の骨髓に蔵入せしめ、後に天下人は乃ち同心竭慮して、由衷より上に在る者に感悦すべきです。上下が彼此に感悦し得るは、まさに感応の道が深きに足るがゆえです。今、爻辞は只だ「咸其拇」と言う――「拇」は足の大趾で、本身は自主に活動する能わず。初六は下卦艮の起始・全卦の最下位に処し、自ら動作有る所由なく、だから感応は僅僅に脚趾に到達し、これは感応が深からずして浅末に流れるの表れ、それによって「咸其拇」と言います。《小象伝》の「志在外也」は、初六の「応」爻は九四に在り――いわゆる「応」は、初と四・二と五・三と上の三組の爻位の間の一陰一陽の呼応関係を指す――その感応は別人に触れ及ぶ能わず、心志は只だ九四との相応に放たるるのみ、だから心志は外に在りと言います。
六二:咸其腓,凶,居吉。象曰:雖凶居吉,順不害也。
六二の爻辞にいう。感応は腿肚に到達し、凶険有り、安居して位を守れば吉を得ます。《小象伝》にいう。凶険有りと雖も安居して吉を得るは、正道に順従すれば害を受けないからです。
義曰:腓者,拇之上、股之下,躁動之物也。夫感恱之道,根諸至誠可也。今六二居下卦之中,始能離初之拇,不以至誠感人而務在躁動,是不能使天下之人自然而感,如足之腓躁動不常,速凶之道也。居吉者,言六二居中得正,夫能以道自處,不務躁動以求感於人,但居其所,推至誠以及人,則天下之人自然感而歸之,故曰居吉也。象曰雖凶居吉,順不害也者,言六二所感之道雖未能深感人心而有凶,然若以道自處則得其吉,是能順於道而不至有害者也。
胡瑗が解説します。「腓」は腿肚で、位置は脚拇趾の上・大腿の下に在り、身上の最も躁動し易い部位です。感応喜悦の道は、本は至誠に扎根せねばなりません。今、六二は下卦の中位に処し、剛く初六のあの脚趾の層次を脱離し得たが、至誠を用いて人を感動せず、只だ一味に躁動して進を求め、このようでは天下人をして自然然而に感動せしめる能わず、まさに腿肚のように動いて停まらず反復無常で、凶険を招致するの路子です。爻辞はまた「居吉」と言うは、六二は下卦の中に居りてまた位に当たる――これ即ち《周易》の言う所の「中正」、中に居りて偏らず、位に当たりて失わず――若し正道を以て自処し、急いで躁動して人の感応を求めず、只だ本位を安守し、至誠を他人に推及せば、天下人は自然に感動して帰附し、だから安居して吉を得ると言います。《小象伝》の「雖凶居吉、順不害也」は、六二の感応の道はなお人心に深入するに足らず、それによって凶有りと雖も、但し正道を以て自守すれば即ち吉を得、これは能く道理に順従し、それによって害を受けずに至るということです。
九三:咸其股,執其隨,往吝。象曰:咸其股,亦不處也;志在隨人,所執下也。
九三の爻辞にいう。感応は大腿に到達し、持守する所は只だ人に随って動くのみ、このように往けば困頓悔恨有り。《小象伝》にいう。感応が大腿に到るも、また安居自守する能わざるなり。心志を他人に追随するに放てば、持守する所は実に太く卑下なり。
義曰:股者,上體之下、下體之上,隨足而動者也。九三以剛處下卦之上,而應在上六,但志於隨人,故若股之為物,不能自主,足動則動,足止則止,是其志淺末者也。執其隨者,言九三不能以道自處,徒欲觀人之顏色,察人之辭意,以為感恱之道,是所執之志在於隨人而已。以此而往,鄙吝之道,故曰執其隨往吝也。象曰志在隨人,所執下也者,言九三之志止務隨人以求感恱,不能髙尚其為,是所執卑下也。
胡瑗が解説します。「股」は大腿で、上半身の下・下半身の上に処り、脚の移動に跟う部位です。九三は陽剛の爻を以て下卦の最上位に居り、上六と相応すれども、心思は却って只だ他人に追随するに在り、だから大腿のように自主する能わず、脚動けばそれ乃ち動き、脚停まればそれ乃ち停まる、見るべしその志向は浅薄にして末流なり。爻辞の「執其随」は、九三は正道を凭りに自立する能わず、只だ他人の臉色を察し、他人の話意を揣摩せんと欲し、これを以て他人に感応するの手段となす、見るべしその秉持する所の心志は無非人に随って俯仰するなり。このようにして走下去すれば、鄙陋困窘の路子、だから「執其随、往吝」と言います。《小象伝》の「志在随人、所執下也」は、九三の心志は只だ一味に人に随って歓心を得るを知るのみ、自らの作為を高尚の層次に提げ上げる能わず、だからその持守する所は太く卑下なりと言います。
九四:貞吉,悔亡,憧憧往來,朋從爾思。象曰:貞吉悔亡,未感害也;憧憧往來,未光大也。
九四の爻辞にいう。正を守れば吉祥を得、悔恨は消亡す。心神定まらずに来回奔走すれば、只だ自らの同党の者が汝の心思に順って前来り帰附せん。《小象伝》にいう。正を守りて吉を得悔恨消亡すは、行う所の感応がなお為害する地步に到達していないからです。心神定まらずに来回奔走すれば、その道がなお光明広大に足らざるを説明す。
義曰:九四居股之上、處脢之下,心之象也。夫感之道,所利者正。今九四以陽居陰,失其正道,本有悔也;然猶能履尚謙沖,若守之以正,則吉可獲而悔可亡也。憧憧者,往來不絶之貌也。以天下之大、生靈之眾,不可家至戶曉,在聖人推至誠之道、仁義之化以廣洽之,則自然感恱而歸之,是聖人感人之心必在虛己之心也。今九四憧憧然往來,勞苦其思慮而求人之恱,但顧已之私應,不能感於天下,惟已之朋黨則從爾之思慮而歸之,是不能盡感之道也,故曰憧憧往來,朋從爾思也。
胡瑗が解説します。九四の位置は大腿の上・背脊肉の下に在り、まさに心の所在、だから心を取りて象とします。感応の道は、最も利あるは正を守るなり。今、九四は陽爻を以て陰位に居り、当位の正を失い、本来は悔恨有り。但しそれはなお謙虚冲和の態度を践行し得、正を以て之を守れば、吉祥は取得すべく、悔恨もまた消除すべし。「憧憧」は往来絶えず心神揺動のさまを形容す。天下の大・百姓の多を以て、挨家挨戸に説明しに行くこと不可能、聖人は只だ至誠の道を推行し、仁義教化を以て普遍に浸潤せば、人々は自然に感悦して帰附す、見るべし聖人の人心を感動するは、関鍵は自らの心を虚空にするに在り。今、九四は却って心神寧らずに来回奔走し、苦苦として心思を費尽して人の歓喜を討い、眼裏は只だ自らのあの相応する私交を顧るのみ、天下を感動する能わず。只だ自らの朋党の者が汝の心思に順って帰附して来るのみ、これは感応の道を窮め尽くさず、だから「憧憧往来、朋従爾思」と言います。
象曰貞吉悔亡,未感害也者,言能守正得吉,是所感未至於害也。憧憧往來,未光大也者,按《繫辭》曰:天下何思何慮?天下同歸而殊塗,一致而百慮,天下何思何慮?日往則月來,月往則日來,日月相推而明生焉;寒往則暑來,暑往則寒來,寒暑相推而歲成焉。往者屈也,來者伸也,屈伸相感而利生焉。尺蠖之屈,以求信也;龍蛇之蟄,以存身也。精義入神,以致用也;利用安身,以崇徳也。過此以往,未之或知也,窮神知化,徳之盛也。今九四不能虛心以感於人,乃憧憧以求之,是其道未光大也。
《小象伝》の「貞吉悔亡、未感害也」は、能く正を守れば即ち吉を得、見るべしその行う所の感応はまだ禍害を造成する地步に到らずということです。「憧憧往来、未光大也」に至っては、《繫辞伝》の一段の話を参看すべし。天下に何の思慮する可き有らんや。天下万物は殊途にして同帰し、百般の計慮にして理は一に帰す、天下に何の思慮する可き有らんや。太陽落ちれば月亮は即ち升り、月亮落ちれば太陽は即ち升り、日月は互相に推移して光明は生ず。寒去れば暑来たり、暑去れば寒来たり、寒暑は互相に推移して一年は生成す。去るは収縮、来るは伸展、一屈一伸は互相に感応して利益は生ず。尺蠖虫は先ず身を蜷曲するは、以て前に伸展せんがためなり。竜蛇は冬眠蟄伏するは、以て身体を保全せんがためなり。義理を精研して神妙に入るに至るは、以て実際に致用せんがためなり。その道を善用して己身を安頓するは、以て徳性を尊崇せんがためなり。この一層を超出して上れば、則ち人の尽く知る能くする所にあらず。神妙を窮究し変化を洞悉するは、あれは徳性の最も盛大なる境界なり。今、九四は虚心を以て別人を感動する能わず、返って心神寧らず四処に求取す、見るべしその道はなお光明広大に足らず。
九五:咸其脢,無悔。象曰:咸其脢,志末也。
九五の爻辞にいう。感応は背脊上の肉に到達し、悔恨なし。《小象伝》にいう。感応が只だ背脊肉に到るは、その心志が末梢上に停留するを説明す。
義曰:脢者,心之上、口之下。夫居至尊之位,必須謙沖,禮下於臣民,擴仁義之道,使教化行於天下,徳教深被於四海,則天下之人自然感恱於上。今九五以陽居陽,不能禮下於臣民,以尊而自恃,以貴而自驕,不能盡感恱於天下者也。夫以心感物猶未為得,況過於心之上乎?其不盡感之道明矣。無悔者,以其居中得正,處於尊位,猶可以無悔也。象曰咸其脢,志末也者,夫為感之主而不能盡感之道,其存志淺末可知也。
胡瑗が解説します。「脢」は背脊上の肉で、位置は心の上・口の下に在り。身は最も尊貴の位に居る人は、必ず謙虚冲和にして、礼節を以て己を屈して臣下と百姓に対待し、仁義の道を推広し、教化を天下に通行せしめ徳教を深々として四海に覆被せしめ、このようにすれば天下人は自然に心裏より上に在る者に感悦す。今、九五は陽爻を以て陽位に居り、剛上に剛を加え、礼を以て己を屈して臣民に対待するを肯んぜず、地位の尊貴に仗って自負し、身份の顕赫に憑って驕慢し、それによって天下人をして尽く感悦せしむる能わず。心を用いて外物を感動する尚且つ未だ必ずしも為し得ず、ましてその感応する部位はなお心の上方に在り心より離るる遠きをや。それは感応の道を窮め尽くさざる、甚だ明白なり。爻辞の「无悔」は、それは上卦の中に居りてまた位に当たり、身は尊位に処すれば、だからなお悔恨なき能うなり。《小象伝》の「咸其脢、志末也」は、身は一卦の感応の主と為りて、却って感応の道を窮め尽くす能わず、その存心の浅薄末流は亦以て知るべきなり。
上六:咸其輔、頰、舌。象曰:咸其輔、頰、舌,滕口說也。
上六の爻辞にいう。感応は只だ牙床・面頬と舌頭上に在り。《小象伝》にいう。感応が只だ牙床・面頬・舌頭に在るは、過ぎず口舌を鼓動して誇誇其談するのみなり。
義曰:輔者,口輔也。上六處一卦之終,以人體言之,輔頰之象也。言上六不能施仁義至誠之道,自然感恱於天下,徒戚施面柔,以甘言美辭求感於人,是所感在於口輔,故曰咸其輔、頰、舌也。象曰滕口說也者,言不能感人以至誠,但滕口頰以語言求感而已。
胡瑗が解説します。「輔」は即ち口旁の牙床骨なり。上六は全卦の最上・最末に処り、人身を以て比擬すれば、まさに牙床と面頬の部位なり。これは上六が仁義至誠の道を施行し、天下人をして自然に感悦せしむる能わず、只会低声下気・満臉媚色をなして、甜言蜜語を用いて別人の感応を博取するに過ぎず、その感応は僅かに一张の嘴に止まる、だから「咸其輔・頬・舌」と言うなり。《小象伝》の「滕口説也」――「滕」は張揚・放縦の意――は、それは至誠を以て別人を打動する能わず、只会口舌を鼓動し・言語を拿って人の感応を求むるのみなりを言うなり。
恒 巽下震上
恆:亨,無咎,利貞,利有攸往。
《恒》卦。亨通し、過ちなきこと有り、正道を守持するに利し、往くところあるに利し。「恒」は即ち恒久にして変らざるなり。
義曰:《序卦》云:夫婦之道不可不久,故受之以恆。恆,常久也。言男下於女,故能成夫婦之道;夫婦之道既成,則能成家。君下於臣,故能成君臣之道;君臣之道既成,則能成國。國家既成,不可不久,故受之以恆也。然謂之恆者,巽為長女,震為長男,二長相與,故恆久不息以成家也。然咸以二少、恆以二長者,蓋始則所感之道貴於速,故以二少言之;男女既別,夫婦既成,則不可不久,故以長言之,取長久之義,故曰恆也。
胡瑗が解説します。《序卦伝》に言う。夫婦の相処するの道は長久ならざるべからず、だから《咸》卦の後に接ぐるは《恒》卦なり。「恒」は即ち恒常久遠なり。前一卦は男方が女方の下に屈居するを講じ、だから夫婦の道を成就し得、夫婦の道すでに成立すれば、即ち一箇の家を成就し得。同じく、国君は己を屈して礼を以て臣子に下待し、だから君臣の道を成就し得、君臣の道すでに成立すれば、即ち一箇の国を成就し得。家と国すでに建立せらるれば、長久に維持せざるべからず、だから接ぎ来るは《恒》卦なり。これを「恒」と称するに至っては、下卦巽は長女と為り上卦震は長男と為るがゆえに、二箇の年長の者が結合し、だから能く恒久に息まず家室を成就し得るがゆえなり。《咸》卦は少男少女二箇の年少の者を取り、《恒》卦は長男長女二箇の年長の者を取るは、起初の相感の時は迅速なるを貴ぶがゆえに、年少の者を以て言うなり。男女の名分すでに定まり夫婦すでに成立するに及んでは、長久ならざるべからず、だから改めて年長の者を以て言い、取る所は長久の義、それによって《恒》と呼ぶなり。
亨無咎者,言夫婦之道、君臣之義既皆久而不變以至於亨,既獲其亨,何咎之有。利貞者,夫常久之道所利者貞,久而不貞與不久同也。夫婦既久,欲成一家之事者不可不貞;君臣既久,欲成天下之治亦不可不貞。夫婦君臣無所不正,則常久之道成矣。
卦辞の「亨、无咎」は、夫婦の道・君臣の義が皆能く長久に保持して改変せず、それによって亨通に達するを言うなり。すでに亨通せらるれば、また何の過错あらんや。「利貞」と言うは、恒久の道の最も利あるは正を守るなり。長久にして正を守らざれば、長久なる能わざると同じなり。夫婦の相処すでに長久なれば、一家の事を弁好せんと欲すれば正ならざるべからず。君臣の相処すでに長久なれば、天下の治を成就せんと欲すれば亦正ならざるべからず。夫婦の間・君臣の間に一処として正ならざるなければ、恒久の道は成立すなり。
利有攸往者,言人之所守能至誠不息,執節不變,積日累月,積月成歲,以至終而復始,無有窮已,則無所往而不利。是故為君子,為學能常久而不已,則可至於賢聖;為君臣,為治能常久而不變,則可以施仁義禮樂以化成天下。故行之一身,行之一家,行之一國,以至行之天下,均能不變所守,則其道大成;道既大成,則所往何不利之有。
卦辞の「利有攸往」は、人の持守する所が若し至誠より出でて間断せず、節操を執守して改変せず、日は月を積み月は年を積み、終りて復た始まり窮尽なきに至るまでなれば、則ち何処に至るも不利なきなりと言うなり。だから言う。身は君子たりて、学問を為すこと能く長久に停まらざれば、即ち賢人聖人の境地に達すべし。身は人臣たりて、政事を治理すること能く長久に変らざれば、即ち仁義礼楽を施行して天下を化育すべし。それゆえこの道理は一身に施行し、一家に施行し、一国に施行し、以至天下に施行し、但し皆能く持守する所を改変せざれば、その道は大功告成す。道すでに大成せば、往く所に又何の不利あらんや。
彖曰:恆,久也。剛上而柔下,雷風相與,巽而動,剛柔皆應,恆。恆亨無咎利貞,久於其道也。天地之道,恆久而不已也。利有攸往,終則有始也。日月得天而能久照,四時變化而能久成,聖人久於其道而天下化成。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣。
《彖伝》にいう。恒は即ち長久なり。剛爻は上に在り柔爻は下に在り、上震は雷と為り下巽は風と為り、雷と風は相互に助長す。下卦巽の卦徳は順、上卦震の卦徳は動、理に順いて行動す。全卦六爻は剛柔両両相応ず――これ即ち《恒》なり。卦辞の「恒、亨、无咎、利貞」は、能く長久に自らの正道を守住するがゆえなり。天地運行の道は、即ち恒久にして停息せざるなり。「利有攸往」と言うは、一段の終結する処はまさに新たな一段の開始なればなり。日月は天に依附し、だから能く長久に照耀す。四時は不断に変化し、だから能く長久に万物を生成す。聖人は長久にその道を守住し、天下は自然に化育成有り。それらの恒守する所を観察すれば、天地万物の実情は看清すべきなり。
義曰:震上為剛,至貴也;巽下為柔,至賤也。貴賤有別,尊卑有序,而常道已成。言之一家,則男正位乎外,女正位乎內;言之一國,則君以尊而位乎上,臣以卑而處其下。內外上下之分定,故國家之道成矣。雷風相與者,夫雷得風則益威,風得雷則愈盛,二者相資,故能助天地生成之功也。以人事言之,則猶夫婦相與而人倫正,君臣相與而教化成,蓋取其相資益而成長久之道也。
胡瑗が解説します。上卦震は剛に属し、最も尊貴の一方を代表す。下卦巽は柔に属し、最も卑下の一方を代表す。貴賤に分別有り尊卑に次序有れば、恒常の道はすでに確立せり。一箇の家に就いて言えば、男子は外に在りて外事の正位を把住し、女子は内に在りて内事の正位を把住す。一箇の国に就いて言えば、国君は尊位を凭りに上に居り、臣子は卑位を以て下に処す。内外上下の名分一旦確定すれば、家国の道は成立す。「雷風相与」に至っては、雷は風の鼓蕩を得て更に威勢有り、風は雷の震動を得て更に強盛なり、両者は互いに憑藉と為す、だから能く天地の万物を生成するの功を輔助す。人事を拿って言えば、譬えば夫婦は相互に扶持して人倫は端正し、君臣は相互に配合して教化は成就す、取る所はまさに彼此に資助増益し、従而長久の道を成就するの意なり。
巽而動者,此解二卦之體也。上體震,震為動;下體巽,巽為順。以巽而動,是猶夫義而婦聽,君義而臣忠,常久不已,以成其道也。剛柔皆應恆者,蓋此卦剛柔皆相應而不失其常,亦猶婦事夫、臣事君,皆常久不易之道也。
「巽而動」この一句は、上下二箇の卦体を解釈するなり。上体は震、震の卦徳は動、下体は巽、巽の卦徳は順なり。道理に順いて行動すれば、譬えば丈夫は義に合し妻子は聴従を肯んじ、国君は義に合し臣子は忠誠を尽くし、長久に断絶せず、従而恒久の道を成就す。「剛柔皆応、恒」は、この一卦は初と四、二と五、三と上、剛柔の六爻は両両相応してその常軌を失わず、亦譬えば妻子の丈夫に事え、臣子の君主に事うるがごとく、皆恒久にして変らざるの道理なり。
恆亨無咎利貞,久於其道也者,此言凡人之作為皆能至誠不息,悠久其道,則得亨、無咎、利貞之三徳也。天地之道,恆久而不已也者,夫天以髙明運行升降,晝夜未嘗休息;地以博厚容載萬物,亦未嘗休息。天地之道,運行容載久而不變,故且髙且大也。利有攸往,終則有始也者,義見前。
《彖伝》の「恒亨无咎利貞、久于其道也」は、凡人の所作所為が若し皆至誠より出でて間断せず、自らの道を悠遠長久に守れば、即ち亨通を獲得し・過错なく・正を守るに利しの三様の徳性を得るを言うなり。「天地之道、恒久而不已也」と言うは、天はその高遠光明を以て運行升降し、昼夜曽て停歇せず、地はその広博深厚を以て万物を承載し、亦曽て停歇せざるがゆえなり。天地の運行と承載は長久にして変らず、だからすでに高く且つ大なり。「利有攸往、終則有始也」に至っては、含義はすでに前の卦辞の解釈に見ゆなり。
日月得天而能久照,四時變化而能久成者,夫日往則月來,月往則日來,日月往來而能臨照天下之物,無論鉅細而皆燭之,蓋由所麗在天,故能久明而無有過差也。天地之大,陰陽之運在於四時,故春以生之,夏以長之,秋以成之,冬以終之,或代或謝,周而復始,故能生育萬物以成歲功,久而不易也。故曰日月得天而能久照,四時變化而能久成矣。
《彖伝》の「日月得天而能久照、四時変化而能久成」。太陽落ちれば月亮は即ち升り、月亮落ちれば太陽は即ち升り、日月は一往一来して能く天下万物に照臨し、巨細を論わず皆照らし到るは、これそれらの依附する所は天なれば、だから能く長久に光明にして毫も差錯なきなり。天地このように広大にして、陰陽の気の運転は即ち四時の中に体現せらる。春天はそれを生発し、夏天はそれを長養し、秋天はそれを成熟せしめ、冬天はそれを収蔵終結せしめ、一箇が一箇に接替し一箇が一箇に凋謝し、周而復始し、だから能く万物を生育し一年の功用を完成し、長久にして改変せざるなり。それゆえ言う、日月は天に依附するがゆえに能く久照し、四時は不断に変化するがゆえに能く久成すと。
聖人久於其道而天下化成者,夫天地至大,日月運焉,四時行焉,久而不變,故照臨四方,生育萬物,久而不易,無有窮已也。聖人有天下之大,居天下之尊,發政施仁,亦必久於其道,然後賞罰有常,號令有信,天下之人莫不仰而歸之,以成其風化,故曰聖人久於其道而天下化成也。觀其所恆,而天地萬物之情可見矣者,夫日月臨照,四時變化,萬物代謝,皆久於其道,無有窮已,則天地萬物之情常久而可見。
《彖伝》の「聖人久于其道而天下化成」。天地は至为广大、日月はその中に運行し、四時はその中に推移し、長久にして改変せず、だから能く四方に照臨し・万物を生育し、歴久にして易えず窮尽なきなり。聖人は天下の大を擁有し身は天下の至尊の位に居り、政令を発布し仁徳を施行すれども、亦必ず長久に自らの道を守住して、後に賞罰は乃ち常規有り号令は乃ち信用有り、天下人は無くして仰慕して彼に帰附し、従而一代の風俗教化を成就す、だから聖人は長久にその道を守って天下化育成有りと言うなり。「観其所恒、而天地万物之情可見矣」に至っては、日月の照臨・四時の変化・万物の新陳代謝は、皆長久に各々の常道を守りて窮尽なし、ならば天地万物の恒常にして変らざるの実情は、亦即ちこれによって見るべきなり。
象曰:雷風,恆。君子以立不易方。
《大象伝》にいう。雷と風は相薄く相助く、これ《恒》卦の象なり。君子はこれに取法し、一旦自らの立身の道を確立すれば方向を改変せざるなり。「方」は此処では遵循する所の道を指すなり。
義曰:震陽為雷,巽陰為風,陰陽相合,雷風相資,生成萬物,久而不已,以成其道也。故君子觀雷風之象,所作所為由中而不易其道,故能常久而成天下之治,行天下之道,無施而不可。方猶道也,言其所立不離於道也。
胡瑗が解説します。震は陽に属し、雷を象徴す。巽は陰に属し、風を象徴す。陰陽は彼此に契合し、雷風は互相に憑藉し、万物を生成し、長久に停まらず、従而それらの道を成就す。だから君子は雷風の象を観察し、一切の作為は皆内心の中道より出でて原則を改易せず、それによって能く長久に堅持し、天下の治理を成就し天下の大道を推行し、施用する所に至れば何処に至るも行き通るなり。「方」は即ち道の意、君子の確立する所の立身の処は道を離れざるを言うなり。
初六:浚恆,貞凶,無攸利。象曰:浚恆之凶,始求深也。
初六の爻辞にいう。始めより深く恒久の効を挖求すれば、便ち正を守るも凶険有り、何の利益もなし。《小象伝》にいう。深く恒久を求むるの凶有る所以は、剛く歩を起こすの時に於いて求むること深きに過ぐればなり。
義曰:浚,深也。天下之事必皆有漸,在乎積日累久而後能成其功。是故為學既久,則道業可成,聖賢可到;為治既久,則教化可行,堯舜可至;為朋友既久,則契合愈深;為君臣既久,則諫從言聽而膏澤下於民。若是之類,莫不由積日累久而後至,固非驟而及也。
胡瑗が解説します。「浚」は深く挖り深く求むるの意なり。天下の事情には皆一箇の漸進の過程有り、全て日積月累に在りて、後に乃ちその功效を成就すべし。だから学問を為すの日子久しければ、道徳学业は成就すべく、聖賢の境地は到達すべし。政事を治理するの日子久しければ、教化は推行すべく、堯舜の治は企及すべし。朋友を交わるの日子久しければ、情意は越々発りて投合す。君臣の相処するの日子久しければ、進諫は採納を得・言語は聴従を得、恩沢は即ち百姓の身上に下達し得。これらの類は、無くして日積月累に憑りて到達せざるなし、本来は一下子に弁到する能くするにあらず。
今此初六居下卦之初,為事之始,責其長久之道、永逺之效,是猶為學之始欲亟至於周孔,為治之始欲化及於堯舜,為朋友之始欲契合之深,為君臣之始欲道之大行,是不能積久其事而求常道之深,故於貞正之道見其凶也。無攸利者,言居事之始欲深於常道,以此而往必無所利,孔子曰欲速則不達是也。
今、初六は下卦の最初・事情の開端に処しながら、却って馬上に恒久の道を拿出し長遠の効を見んことを求む。これは譬えば剛く読書を開始すれば即ち立刻に周公・孔子に赶がんと欲し、剛く政を理するを開始すれば即ち立刻に堯舜の地步に教化せんと欲し、剛く朋友を結交すれば即ち情投意合して極深に至らんと欲し、剛く臣子を為れば即ち自らの主張を全面に推行せしめんと欲するがごとし――これは事情を長久に積累せしむるを肯んぜず、返って一上来すれば即ち深く恒常の道を求むるなり。だから便ち正を守るの道上に在りても凶を顕出すなり。爻辞の「无攸利」は、事情の開端に処して即ち恒久の道を求めて極深に至らんと欲するに言うに言うなり。このようにして走下去すれば必ず何の好処もなし、孔子の「欲速則不達」は、まさにこの意なり。
九二:悔亡。象曰:九二悔亡,能久中也。
九二の爻辞にいう。悔恨は消えます。《小象伝》にいう。九二の悔恨が消える所以は、それが長久に中道を守住できるからです。
義曰:夫天下之道得其大中,則萬世所不能變易。今九二以陽居陰,是失正而本有悔也;然以居下卦之中,其所行無過無不及,使賢者可俯就之,不肖者可企及之,如此是得天下之常道而萬世所矜式也,又何悔之不亡。象曰九二悔亡,能久中也者,言九二以陽剛之徳而能居下卦之中,是久於中道而無所變易,故悔亡也。
胡瑗が解説します。天下の道理は大中至正に合すれば、千秋万代も改易できないものです。今、九二は陽爻を以て陰位に居り、本は当位の正を失って悔いあるべきですが、しかし下卦の中位に処し、行事は過ぎることなく及ばないこともなく、賢能の者は身を俯せて就き来ることができ、不才の者も踵を上げて企及することができます。これで天下の恒常の道を得、万世も取法すべき準則となり、何の悔恨が消えないことがありましょうか。《小象伝》の「九二悔亡、能久中也」は、九二が陽剛の徳性を凭りに下卦の中に居ることができ、長久に中道を守って毫も動揺しないので、悔恨が消えるということです。
九三:不恆其徳,或承之羞,貞吝。象曰:不恆其徳,無所容也。
九三の爻辞にいう。恒久に自らの徳行を保持できなければ、羞辱を招くことがあり、たとい正を守っても困窘を免れません。《小象伝》にいう。恒久に徳行を保持できなければ、どこへ行っても容身する所がありません。
義曰:夫尊卑貴賤、內外上下不失其本分,則可以為常久之道。今九三居上六柔弱之下,是卑者先於尊、賤者先於貴,不常之人也。或承之羞者,言尊不尊、卑不卑,內外混淆,貴賤汨亂,此則羞辱之事隨之也。貞吝者,言徳既無常,其於永久貞正之道誠足鄙吝也。象曰不恆其徳,無所容也者,言九三既失其常久之道,則所往皆不容也。故孔子曰:人而無恆,不可以作巫醫。巫醫鄙賤之徒也,其無常徳者尚不可為,況其它乎?是則於所處固無容也。
胡瑗が解説します。尊卑貴賤・内外上下が各々その本分を失わないこと、はじめて恒久の道と成れます。今、九三は上六この柔弱の爻の下に居り、卑者が尊者の前に抢え、賤者が貴者の前に抢える、反復無常の人に属します。爻辞の「或承之羞」は、尊者が尊者らしくなく卑者が卑者らしくなく、内外は混雑し貴賤は錯乱し、羞辱の事は自然に随って来るということです。「貞吝」と言うのは、徳行がすでに反復無常である以上、あの恒久貞正の道に照らせば、実に鄙陋可羞です。《小象伝》の「不恒其徳、无所容也」は、九三がすでに恒久の道を丟掉した以上、どこへ行っても容納されないということです。だから孔子は言いました。人はもし恒心がなければ、巫医をも為ることができないと。巫医はもと低賤の行当で、恒常の徳行のない人が尚且つ為ることができないのに、まして別の事においてをや。見るべし、この種の人は自らの処する位置上において本より容身する術がありません。
九四:田無禽。象曰:久非其位,安得禽也。
九四の爻辞にいう。田猟するも獲物を打ち得ません。《小象伝》にいう。長久に自らの位にあらざるに処すれば、どうして獲物を得られましょうか。
義曰:田,獵也。凡禽獸可擒者,通謂之禽。夫常久之道必本於中正,今九四以陽居陰,是不正也;位不及中,是不中也。不中不正,不常之人也。以不常之人而居大臣之位,是無徳忝位者也。至於為治,則教化不能行;至於撫民,則膏澤不能下,是猶田獵而無禽可獲也。象曰久非其位,安得禽也者,言九四於常久之時處非其位,猶田獵而無禽,必無所得也。
胡瑗が解説します。「田」はすなわち打猟です。凡そ捕獲すべき禽獣は通じて「禽」と称します。恒久の道は必ず中正を以て根本とします。今、九四は陽爻を以て陰位に居り、位に当たらず、だから正ならず。その位次はまた上卦の中位に在らず、だから中ならず。中にあらず正にあらずして、まさに反復無常の人です。このような反復無常の人に大臣の位を占拠させるは、すなわち徳なくしてその位を窃拠するなり。政事を治理するに至っては、教化は推行できず、百姓を安撫するに至っては、恩沢もまた下達できません。これはまさに出かけて打猟するも一無所獲のごとし。《小象伝》の「久非其位、安得禽也」は、九四が恒久を講求するの時に於いて長久に占うべからざるの位置を占うるを言い、田猟して獲物なきがごとく、必ず一無所得なり。
六五:恆其徳,貞。婦人吉,夫子凶。象曰:婦人貞吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。
六五の爻辞にいう。恒久に自らの徳行を保持し、固守して変えず。これは婦人にとっては吉、男子にとっては凶です。《小象伝》にいう。婦人が固守して吉を得るは、彼女が一に従って終えるからです。男子は当に義に依りて事情を裁断すべく、もし婦人のように一味に順従すれば凶険有り。
義曰:貞,貞固也。《文言》曰:貞固足以幹事,是也。夫為天子之尊,有四海之廣,民物之繁,必使仁義教化流於天下,不可執一道、守一方,必也臨事制宜,隨時應變,則無施不可也。今六五居至尊之位,以柔弱不正之資,私一已之應,是固執常徳,不使流通於天下也。
胡瑗が解説します。「貞」は此処では堅固守持の意で、《乾卦・文言伝》に「貞固足以幹事」と言うは、まさにこれを講じます。身は天子の尊を為り、四海の広・百姓万物の繁多を擁有するに、必ず仁義教化を天下に流布せしめ、死守して一種の弁法・固執して一つの方向に偏してはならず、一定して事に臨みて合宜なる処置を拿捏し、時勢に随って霊活に応変してこそ、何処にも施行すべく。今、六五は身は至尊の位に居りながら、柔弱不正の資質を凭りに、偏私して只だ自らと相応するあの一爻を顧るのみ、これは死に一成不変の徳行を抱き、それを天下に流通せしめるを肯んぜざるなり。
婦人吉,夫子凶者,婦人處閨門之內,守一而已可也;夫子處閨門之外,則必臨事應變,大有所為可也。今六五執守一徳,不能大有所為,但繫私應,是以此道施之婦人則吉,而施之夫子則凶也。象曰夫子制義,從婦凶也者,婦人之事,固執其正,繫於一人則吉也;夫子則當制義,而不可泥於一也。若夫子從婦人之道,不能以義制事,則凶之道也。夫以夫子不能制義尚以為凶,況尊為天子、有四海之大者乎?凶可知也。
爻辞の「婦人吉、夫子凶」。婦人は身は内室の中に処し、只だ専一の節を守れば足るなり。男子は身は門戸の外に処し、必ず事に臨みて応変し、大有作為せねばなりません。今、六五は死に一成不変の徳行を守り、大有作為する能わず、只だ自らと私に相呼応するあの一爻に牽繋するのみ、だからこの做法を婦人の身上に用いれば吉、男子の身上に用いれば則ち凶なり。《小象伝》の「夫子制義、従婦凶也」は、婦人の事は、その正を堅守し一人に専繋すれば即ち吉、男子は則ち当に義に依りて裁断し、一端に拘泥すべからず。もし男子が婦人の路数を照搬し、義を用いて事情を処置する能わざれば、則ち取凶の道なり。一箇の普通の男子が義に依りて裁断する能わざる尚かつ凶と算す、まして尊として天子・四海の大を坐擁する人においてをや。凶険は知り得べきなり。
上六:振恆,凶。象曰:振恆在上,大無功也。
上六の爻辞にいう。躁動して已まず恒久を求むれば、凶険有り。《小象伝》にいう。身は最上位に在りてなおこのように躁動して恒を求むは、終に何の功效も有らざらん。
義曰:振,動也。謂君子可動則動,可進則進,可靜則靜,可退則退,動靜進退皆不失正,則聖人之道畢矣。今上六處恆之上,居震之極,是深求妄動之人也。以深求妄動,必不明進退動靜之理,若以此而往,凶之道也。象曰振恆在上,大無功也者,言動靜既不適時,而進退失常,於道既凶,又何功之有。
胡瑗が解説します。「振」は即ち動なり。君子は動くべき時に動き、進むべき時に進み、静かなるべき時に静かにし、退くべき時に退き、動静進退に皆その正を失わざれば、聖人の道は亦完備するなりと言うなり。今、上六は《恒》卦の最上位に処し、また上卦震動の極に居り、まさに一味に深求して妄動する人なり。すでに深求妄動せば、必ず進退動静の道理を明白にせず、このようにして走下去すれば、即ち取凶の道なり。《小象伝》の「振恒在上、大无功也」は、動と静がすでに時宜に合せず、進と退がまた常軌を失せば、道理の上においてすでに凶なり、また何の功效を談ずべきあらんや。
