Libo

繋辞上・夫易広矣大矣

宋 · 胡瑗 · 第40巻 / 51

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

「我有好爵,吾與爾靡之」者,亦是言至誠相待之故也。夫美好之爵,不自獨有,宜與爾同類之人共分而靡之,是言結之深,用心不私,至公至正也。然此引而證之者,葢明聖人之言行當擬議而行之,言之善者則善者應之,言之惡者則惡者應之。

「我有好爵、吾与爾靡之」とは、同様に至誠を以て相待することを講ず。美好の酒爵を独自占有せず、理応に汝この同類の人と共同に分饗すべし。これは彼此結交の深く、用心に毫も私意なく、極めて公正無偏なるを言う。孔子がこの両句を引いて以て証と為すは、聖人の言語行為は當に先ず比擬議論を経て再び施行すべきを説明せんと欲するがためである:説く所の話が善なれば、善の回応は便ち来り、説く所の話が悪なれば、悪の回応も便ち来る。

子曰:「君子居其室,出其言善,則千里之外應之,況其邇者乎?」

孔子曰く:君子は自己の屋裏に安居して、説き出す話が美善なれば、千里の外の人も皆彼に響応す。いわんや近旁の人をや。

義曰:此孔子因言聖人之言,出於其近以行於逺,出於其內以及於外,出於其身以行於人也。故君子之人凡居其室,出一善言,可以為天下之法,可以興天下之利,雖千里之逺而人皆從之,況於邇近之人乎?

これは孔子がこれに借りて説明する:聖人の言論は、近処より発出して遠方に流行し、内室より発出して外界に波及し、自身より発出して他人に施行す。故に君子は屋中に安居して、ただ一句の美善の話を説き出せば、便ち天下の取法する準則と為り得、天下の利益を興起し得。縦に千里遠隔なるも、人々も皆彼に追随す。いわんや身辺近処の人をや。

「居其室,出其言不善,則千里之外違之,況其邇者乎?」

「君子は屋中に安居して、説き出す話が美善ならざれば、千里の外の人も皆彼を背離す。いわんや近旁の人をや。」

義曰:言君子之人凡居其室,出一言不善,則不可為天下之法,不能除天下之害,不能興天下之利,則千里之人皆違而不從之,況邇近乎?

これは君子が屋中に安居して、ただ一句の不美善の話を説き出せば、便ち天下の取法する準則と為り得ず、天下のために禍害を除去し得ず、天下のために利益を興起し得ざるを言う。さらば千里の外に遠在の人も皆背離して彼に追随せず。いわんや身辺近処の人をや。

「言出乎身,加乎民;行發乎邇,見乎逺。言行,君子之樞機。」

「話は自身より説き出せば、便ち百姓に加わる。行為は近処より発動せば、便ち遠方に顕現す。言と行とは、君子の最も關鍵の枢紐と機括である。」

義曰:樞者,戶樞,司其通塞之道;機者,弩牙,主其矢之中否也。夫言戶樞之發,或明或暗,主其通塞之道;弩牙之發,或中或否,主其發矢之中,猶君子之人言行有善有不善者也。

「枢」は門軸で、門戸の開合通塞を掌管す。「機」は弩機の上の牙で、射出す箭の中る中らざるを決定す。門軸が一転すれば、或いは室内を明亮せしめ或いは室内を昏暗せしめ、通と塞とを掌管す。弩牙が一発すれば、或いは射中し或いは射中せず、箭矢の命中し得否を決定す。これはまさに君子の言行に比ゆ。美善なる有り不美善なる有るが如し。

夫君子之言行,出之於身,行之於外,自邇而及逺,由中而及外。若發而為善,則天下從而法則之;若發而不善,則天下從而違去之。是言行之出為命為令,有得有失,若尸樞之主通塞,猶弩牙之有中否,中則為天下之榮,否則為天下之辱,是言行者君子之樞機也。

君子の言行は、自身より発出し、外界に施行し、近処より推及して遠方に及び、内心より推及して外物に及ぶ。発出して来るが美善なれば、天下人は便ち跟って取法す。発出して来るが不美善なれば、天下人は便ち跟って背離す。見れば言行は一旦口を出れば便ち政命号令と成り、其中に得有り失有り、便ち門軸が開と合を掌管するが如く、弩牙が中と不中を決定するが如し:中れば便ち天下の栄耀、中らざれば便ち天下の耻辱である。故に言う、言行は君子の枢紐と機括なりと。

「樞機之發,榮辱之主也。」

「枢紐機括は一経発動せば、栄耀或いは耻辱は便ちここに由って決定す。」

義曰:言行者本由君子之出,發之中與不中,是榮辱之主也。

言と行とは本来皆君子が自己に発出す。発出の後の合宜なるか否かは、まさに栄耀と耻辱の決定因素である。

「言行,君子之所以動天地也,可不慎乎?」

「言と行とは、君子が以て天地を感動するもの。何ぞ慎重ならざるを得んや。」

義曰:夫君子之言行有善有不善,必當思慮之。若思之不精,慮之不深,則言之不善矣,善與不善皆動之於天地也。故《書》曰「天聰明自我民聰明,天明威自我民明威」,言天體雖髙而下聽於卑矣。

君子の言行に美善なる有り不美善なる有るが故に、故に必ず仔細に思量せねばならず。もし思考精ならず考慮深からざれば、説き出す話は便ち不妥当なるなり。而して妥当か否かを論わず、皆天地を感動す。故に《尚書・皋陶謨》に曰く:「上天の視聴は、我が百姓の視聴を通じて以て体現せらる。上天の賞罰威厳も、亦た我が百姓の褒貶を通じて以て体現せらる。」これはすなわち言う、天体は虽高高在上なれども、却って身を俯せて下面の卑微の民意を傾聴す。

夫君子之言善,則為號令以除天下之害,以興天下之利,天下之人和樂而從之。民既和之,則善聲動於天;善聲動於天,則上天降其福。若言之不善,不能興天下之利,不能除天下之害,則天下之人嗟怨而不從之;天下之人既嗟怨而不從之,則怨氣瀆於天;怨氣瀆於天,則上天降之以禍。是君子之言行出則動乎天地,必當精心而致思之,可不戒慎乎?

君子はもし言語美善なれば、便ち化して政令と為りて天下の禍害を去除し天下の利益を興起し得、天下人は便ち和睦歓悦して彼に追随す。百姓は既に和悦せば、美善の声は便ち上に感じて天に達し、美善の声が上に天に感ぜば、上天は便ち福祥を降下す。これに反せば、もし言語不美善なれば、既不能く天下の利を興さず、又天下の害を除く能わず、天下人は便ち嘆息怨恨して追随を肯んぜざるなり。天下人は既に嘆息怨恨して追随せざれば、怨気は便ち上に衝して天に達し、怨気が上に天に衝せば、上天は便ち災禍を降下す。見れば君子の言行は一旦発出せば便ち天地を感動す。必ず専心致志に反復思量し、何ぞ戒懼謹慎ならざるを得んや。

「同人先號咷而後笑。」

《同人》九五の爻辞に曰く:人と和同する過程の中に、先ずは声を放ちて痛哭し、後に却って転じて歓笑と為る。

義曰:此是《同人》九五之辭。言《同人》之九五下應於六二,然有九三九四為己之寇難,六二以至誠相待,雖為三四寇難,終得為正應也。然此引之者,凡《易》之辭有理義未盡者,孔子復引而明之。言《同人》之九五始為三四寇難,不得與二為應,是先號咷也;然二五至誠相應,終得遇,是後笑也。故因此言行陳其至誠之道,故引以為義也。

これは《同人》卦九五の爻辞である。九五は下に向かって六二と相応ずるも、九三・九四が中間に横たわりて、その阻難と成る。六二は至誠を以て相待し、虽三・四に阻まるるも、終竟は正応を成就す。孔子がこの一句を引くは、《周易》の辞句は時として義理が未だ説き尽くさざる有るに因り、彼は便ち再び引き出して以て闡明を加える。九五は起初三・四に阻まれて、六二と相応じ得ざる。これがすなわち「先号咷」。後に二と五とが至誠を以て相応じ、ついに会合す。これがすなわち「后笑」。故に孔子は言行を講ずるに借りて、以て至誠の道を陳述し、初めてこの句の爻辞を引いて以て義理を発明す。

子曰:「君子之道,或出或處。」

孔子曰く:君子の立身処世の道は、或いは出仕して事を任じ、或いは退隠して自ら守る。

義曰:夫君子之人懷才抱道,有經邦濟世之才,若遇其時、遇其君,則進登王者之朝以濟天下之民,故曰或出;若不遭其時、不遇其君,則守其至正之道,待時而動,故曰或處。

君子は才干と道術を懐蔵し、国を治め世を救う能力を具備す:もし合適の時勢に碰上し合適の君主に遇合せば、便ち王者の朝堂に進入し、去って天下の百姓を救助す。これがすなわち「或出」。もし合適の時勢に碰上せず合適の君主に遇合せざれば、便ち極端正の原則を固守し、時機を等待して再び行動す。これがすなわち「或処」。

「或黙或語。」

「或いは沈黙して言わず、或いは口を開きて発言す。」

義曰:夫君子之人凡居於室,不可以妄語,但寂然不言,黙然不語;或當可言之時,必精思而慎慮之,然後可言也。夫如是,雖言滿天下無口過,行滿天下無怨惡,使天下之人莫不恱而從之,而其心一歸於大中之道也。

君子は家中に平居して随口乱説すべからず、ただ安靜に声を出さず沈黙に議論を発せず。話すべき時に到れば、もまた必定先ず精細思考・審慎権衡して、然る後に初めて口を開く。能くこの如くなれば、たとい言論が天下に伝遍するも口舌の失あらざらんとし、行迹が天下に遍及するも怨恨を招来せざらんとし、天下人をして心悦誠服して追随せざるなからしめ、而して人心も亦た一斉に不偏不倚の中正の道に帰向せしむ。

然則君子之人,同類相應,同心相得,不必同其道然後言之。至如禹稷事於堯朝,憂天下之飢如己之飢,憂天下之溺如己之溺;又顏子一簞食,一瓢飲,在陋巷,人不堪其憂,孟子謂禹稷顏回同道;又如箕子佯狂殷紂,子去之,比干諫而死,是皆其心異而其道同也。惟君子之言必當擬而後言,議而後動,則語黙出處自然合於道矣。

ただし君子の間は、同類は自然に相応じ、同心は自然に相契し、併せて完全相同の路子を走らねば初めて一致と談じ上げるに非ず。譬如大禹と后稷とが尭の朝廷に任事するに、天下人の飢餓を擔憂するは自己の飢餓の如く、天下人の溺水を擔憂するは自己の溺水の如し。而して顔回は一竹筐の飯・一瓢の水、陋巷の裏に住して、別人はあの份の清苦に受け堪えず、彼は却って安然として自ら楽しむ――孟子はこれに因って禹・稷と顔回とは同一条の道を走ると言う。又如箕子は殷紂の世に在りて瘋癲を仮装し、微子は出走を選擇し、比干は進諫して殺せられ、三人の做法は各々異なるも守る所の道は相同じ。ただ君子が説話に先ず比擬を経て行動に先ず議論を経れば、さらば或いは語り或いは黙し、或いは出で或いは処り、自然に皆能く道に合す。

「二人同心,其利斷金。」

「両個人の心意相同なれば、あの份の鋒利は金属を斬断するに足る。」

義曰:金者,至堅之物也。夫君子之人推誠以待物,則物以至誠待於己,凡是同心同類之人皆感悅而從之,不必求同於己之道者,但其心一同則可也。至如二人同心,合謀共慮,成天下之能事,雖至纎至悉之利,亦可以斷截堅剛之金,是同心之人至利者也。

金は最も堅硬の东西である。君子は誠心を以て外物に対待せば、外物も便ち至誠を以て彼に回報し、およそ同心同類の人は皆感動喜悦して帰附す。併せて別人が自己と同一条の路を走るを強求するを須とせず、ただ心意一致せば便ち足る。譬如両個人の心意相同にして、共同に謀劃・共同に思慮して、天下の難事を成就す。あの份の合力は、縦に極細微極精密の鋒刃の利なるも、もまた堅硬の金属を斬断するに足る。見れば同心の人は、その力量は最も鋭利なり。

「同心之言,其臭如蘭。」

「同心の人の説き出す話は、気味芬芳にして蘭草に好像たり。」

義曰:臭者,香氣也;蘭者,香草也。言君子之人既能同心同徳,合謀共慮,吐言發語有馨香之臭氣,如芝蘭之馥郁芬芳,以達於天地之間也。

「臭」は此処に於いては気味・香気を指し、「蘭」は香草である。これは君子は既能く同心同徳し、共同に謀劃・共同に思慮すれば、さらば口を開きて説く所の話は便ち馨香の気を帯び、好像芝蘭の如く濃郁芬芳にして、一直に天地の間にまで飘散すを言う。

「初六,藉用白茅,無咎。」子曰:「苟錯諸地而可矣,藉之用茅,何咎之有?慎之至也。」

《大過》初六の爻辞に曰く:潔白の茅草を以て襯墊と為せば、過咎あらざるなり。孔子曰く:本来东西を直接地上に放てばも亦た可なり。還って茅草を用いて墊せば、何ぞ過咎有らんや。これは謹慎極点に到る。

義曰:自此已下當連上文為一章,註疏以此為第七章之始,非也,當連上文。則是此是《大過》初六之爻辭也。夫《大過》之時,政教陵遲,紀綱廢墜,上下失道,本末衰弱,惟是有大才徳之人過越常分以拯救之。然聖賢之人雖過越常分以拯救天下之事,然居事之始,不可不慎重之,苟不能慎重之,則害於成事而以災其身。

胡瑗按:ここより往下は當に上文に接続し、同じく一章に属すべし。注疏本はここを以て第七章の開頭と為すは、正しくない。當に上文に連ねて読むべし。この一句は《大過》卦初六の爻辞である。大過の時に処り、政令教化は衰敗し、綱紀法度は廃弛し、上下は皆正道を偏離し、根本と枝末とが一同に衰弱し、ただ才徳卓異の人のみが能く常規を超越して以て挽救す。しかし聖賢は即便に常規を超越して天下の事を挽救するも、事の剛く起頭する段階に処りて、格外慎重ならざるべからず。倘若慎重に能わざれば、便ち事の成功を妨害し、かえって自身に災禍を招来す。

夫置器於地,必安全而無傾覆之事,今置器於地,又以潔白之茅薦藉之,是過慎之至也。既過慎之,則安全而無傾覆也。故孔子因論君子擬議其言行,故以此明慎事之始,如置器於地,又藉以白茅,是慎之至也,何咎之有乎?

器物を地上に放れば、本来穏妥にして傾覆せざるなり。いま地上に放ち、還って潔白の茅草を用いて下面に墊す。これは過分に謹慎して極点に到る。既にこの如く謹慎なれば、自ずから穏妥にして傾覆せざるなり。故に孔子は君子の言行に対して先ず比擬議論を加えねばならぬを談論した後に、便ちこの句の爻辞を用いて以て事を做す起頭の時に謹慎すべきを説明す:器物を地上に放ち、還って白茅を墊上げるは、まさに謹慎極点に到る。何ぞ過咎有らんや。

「夫茅之為物薄,而用可重也。慎斯術也以徃,其無所失矣。」

「茅草この东西は本身軽賎なれども、その用途は却って甚だ貴重なり得。こういう謹慎の弁法を一直に推行し下去れば、便ち閃失有るべからざるなり。」

義曰:夫茅之為物雖柔弱菲薄,然祭祀之時必取而為用,以薦藉宗廟之靈,雖為物甚微,然有潔白柔順之質,其用也重矣。聖人因其慎事之始,又取茅之所用之重,以明慎重之術,以此而徃,則無所失。且天過之事尚且如此,況於小小之事乎?

茅草は虽柔弱軽賎なれども、しかし祭祀を挙行する時は必定にそれを取りて以て使用し、それを以て宗廟神霊に供奉する祭品を襯墊す。それは物件として極めて微小なるも、却って潔白柔順の品質を具有し、因って用途は十分貴重なり。聖人は事を做す起頭に謹慎を須とするこの一層に就き、又茅草の用途貴重なるこの一層を取りて、以て慎重に事を行う方法を闡明す:この様に照らして推行し下去れば、便ち閃失あらざるなり。《大過》の如き常規を超越する大事に連れても尚且つ此の如し。いわんやあの細小の事情をや。

「勞謙,君子有終,吉。」

《謙》卦九三の爻辞に曰く:勤労にして而又謙退し、君子は能く善始善終し、吉祥なり。

義曰:此是《謙》卦九三之爻辭也。夫《謙》之九三以陽居陽,在下卦之上,以位言之則居得其正,以身言之則在人臣之極位,上奉於君,下在百官之上,其責至重,其職非輕。是以上則勞謙以事於君,下則勞謙以接於人,不以勤勞為慮,常惟曠官之責。夫如是,是「勞謙君子有終」者也。

これは《謙》卦九三の爻辞である。九三は陽爻を以て陽位に居り、下卦の最上の一爻に処す:爻位に就いて言えば、それは居りてその正を得。身份に就いて言えば、それはすでに人臣の最高の位に居り、上に向かって君主に侍奉し、下に向かって百官の首に位居し、責任は極めて重く職分は軽からず。故に彼は上に向かって勤労謙退を以て君主に侍奉し、下に向かって勤労謙退を以て衆人を接待し、従来労苦を心上に放たず、念々擔心する所はただ尸位素餐・職守に負くのみ。能くこの如くなれば、便ち「労謙、君子有終」なり。

然則必言「君子之終」者何也?夫小人之性亦有謙順之時,然其心易變,朝行而夕改,不能終始而行之。唯其君子之人,慎始至終,有其本末,故云君子終吉也。

然らば何故に必ず「君子有終」を説かねばならぬか。小人の本性も亦た謙恭柔順の時有るが故に、ただ彼は心思が翻覆し易く、早上還ってこのように做し、晚上便ち改むる。始より終に至るまで一貫に堅持し得ざるが故である。唯だ君子のみ、起頭より謹慎して、一直に最後まで貫徹し、本末俱全す。故に君子は初めて終に吉祥を獲得し得と言う。

在古之時,惟周公可以當也。夫周公是文王之子,武王之弟,成王之叔。當周之時而相武王伐紂,一戎衣而天下定。迨夫成王幼弱,己居三公之責,攝天子之位,握天下之重,權位非不尊也,權非不重也,天下非不歸也,而周公盡人臣之忠節,竭人臣之思慮以事於沖君,復制禮作樂,朝諸侯於明堂,天下臣民陶然而歸之。

古人の中に在りては、ただ周公のみがこの句に当たるに足る。周公は文王の児子・武王の弟弟・成王の叔父である。周朝の初創の時、彼は武王を輔佐して商紂を討伐し、一挙に兵を興せば便ち天下を平定した。成王の年幼力弱に到れば、彼は三公の職に身を居り、天子の位を代行し、天下の大権を掌握す:地位を論ずれば尊ならざると謂うべからず、権柄を論ずれば重ならざると謂うべからず、人心を論ずれば彼に帰附せざると謂うべからず。しかし周公は仍旧人臣の忠誠気節を尽くし、人臣の深謀遠慮を竭くし、去って年幼の君主に侍奉した。又礼楽を制作し、明堂の上に在りて諸侯の朝見を接受し、天下の臣民は皆欣然として心を帰した。

然周公之心猶且吐哺握髮以下白屋之士,上盡忠節以奉於君,下盡謙恭以下於人,自古至今未有如周公之徳者也。

しかし周公の心思は仍旧:飯を食らうに口中の食物を吐き出し、頭を洗うに湿髪を握って便ち出でて賓客を接待し、謙卑にあの出身寒微の士人を礼遇した。上に対しては忠誠気節を竭尽して君主に侍奉し、下に対しては極尽謙恭して人の後に居るを甘んじた。古より今に至るまで、誰の徳行も周公に比得るなし。

子曰:「勞而不伐,有功而不徳,厚之至也。」

孔子曰く:勤労にして而自ら誇らず、功有りて而自ら其徳に居らざるは、これは敦厚極点に到る。

義曰:此孔子因言君子勞謙以成功業,又不自矜伐其功、逞已之徳、稱為己善者也。在古之時,惟夏禹可以當也。夫夏禹事於堯舜之朝,洪水滔天,浩浩懐山襄陵,下民昏墊,天下之人物幾魚鱉矣。

これは孔子がこれに借りて説明する:君子は勤労謙退を以て功業を成就するも、自ら功労を誇らず徳行を炫耀せず、好処を自己の頭上に算入せず。古人の中に在りては、ただ夏禹のみが当たるに足る。夏禹は尭・舜の朝廷に在りて任職する時、洪水は滔天して、浩浩蕩蕩として山陵を包囲し丘阜を漫過し、下界の百姓は其中に陷溺し、天下の人は幾ほど皆魚鼈と変成せんとした。

而禹獨以聖人之徳,盡已之力,竭己之謀慮,周行天下,疏河決導,尋源分派,以通水之性,成其功業,天下之人得免魚鱉之患,此禹功之最大者也。自古至今,天下莫有及禹之功者也。

唯だ大禹のみが聖人の徳行に憑り、自己の力気を用い尽くし、自己の謀慮を竭尽し、天下を遍走し、河道を疏濬し壅塞を開決し、水源を探尋し支流を分導し、水性をして暢通を得せしめ、従ってこの番の功業を成就し、天下人をして初めて魚鼈の患に淪るを免れしめた。これは大禹の功績中最も大なる一件である。古より今に至るまで、天下に誰の功労も大禹に趕上せざるなし。

然禹不自以為功,故舜舉之曰:「汝惟不伐,天下莫與汝爭功;汝惟不矜,天下莫與汝爭能。」是大禹不自矜伐其功徳也,此是徳厚至極者也。

しかし大禹は併せて自ら功有りと認為せざるなり。故に舜は彼を称許して曰く:「まさに汝が誇耀せざるが故に、天下に人の汝と功を争うなし。まさに汝が自負せざるが故に、天下に人の汝と能を争うなし。」これの説くはまさに大禹が自らその功徳を誇耀自負せざるなり。これがすなわち敦厚極点に到る。

「語以其功下人者也。」

「これは彼が自己の功労に憑って却って愈益謙卑に人の下に居るを言う。」

義曰:上既言「勞謙君子有終」、「有功而不徳」,故此大《易》之道語說《謙》卦之九三,能以謙順之功卑下於人者也。

上文はすでに「労謙、君子有終」と「有功而不徳」を講じたれば、故に此処の《周易》はまさに《謙》卦九三この一爻を説く所である:彼は能く謙恭柔順の作為に憑って、自己を別人の下に放つ。

「徳言盛,禮言恭。」

「徳性に就いて言えば充盛を要求し、礼节に就いて言えば恭敬を要求す。」

義曰:夫君子之徳以盛為本,苟不盛大之,則不足以為徳,故「徳言盛」者,取其日新之謂也。「禮言恭」者,夫君子之行禮必以謙順為本,以恭敬為先,苟不能恭敬而行之,亦不足謂之禮,故「禮言恭」者,取其恭順之謂也。

君子の徳性は充盛を以て根本と為す。もし盛大に起り得ざれば、便ち徳と称するに足らず。故に「徳言盛」と言う。取る所はまさに前文の「日新之謂盛徳」のあの層の意思である。「礼言恭」に至っては、君子が礼を行うは必定に謙遜柔順を以て根本と為し恭敬を以て先務と為すが故に、もし恭敬に做し到らざれば、もまた礼と称するに足らず。故に「礼言恭」と言う。取る所はまさに恭順のこの層の意思である。

「謙也者,致恭以存其位者也。」

「所謂謙とは、すなわち恭敬を極尽して以て自己の位置を保住す。」

義曰:夫君子之人在人臣之極位,處百官之上,必當盡恭順之節以事於君,懷恭順之誠以接於下,然後可以存乎其位也。若居人臣之極位,在百官之上,不能盡恭順之節以事於君,不能懷恭順之誠以接於下,則不能保其祿位也,必須致恭然後可存其位也。

君子は既に人臣の最高の位に居り百官の上に身を処せば、便ち必ず恭順の礼节を極尽して以て君主に侍奉し、恭順の誠意を懐いて以て属下を接待し、こうして初めて自己の位置を保住し得。これに反せば、人臣の極位に身を居り百官の上に位するも、能く恭順の節を以て君主に侍奉せず、能く恭順の誠を以て属下を接待せざれば、便ち自己の爵禄職位を保ち住めざるなり。故に必ず恭敬を極尽して、然る後に初めてこの位置を守住し得。

「亢龍有悔。」子曰:「貴而無位,髙而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。」

《乾》卦上九の爻辞に曰く:龍の飛ぶこと過度高ければ、悔恨有らん。孔子の解釈に曰く:彼は身份尊貴にして実際の爵位なく、地位高聳にして百姓の帰附なく、賢人は虽下位に在るも来りて彼を輔佐せず。故に一たび挙動有れば便ち悔恨を帯来す。

義曰:上既明謙徳保位,此明無謙則有悔也,故引《乾》卦上九之辭以證之。夫《乾》之上九處一卦之極,過於九五,在窮極之地,是知進而不知退,知存而不知亡也。夫君子之人若能居富貴之位,不自髙亢,執其謙順,則可保其位而獲吉也;若不能謙順,是為亢龍之悔咎矣。

上文はすでに謙徳を以て職位を保住するを闡明したれば、此処は則ち謙ならざれば便ち悔恨を招致するを説明す。故に《乾》卦上九の爻辞を引いて以て印証す。《乾》卦上九は全卦の最上端に処り、すでに九五を超過し、窮尽至極の地に落ち、ただ前進を知りて退譲を知らず、ただ保全を知りて敗亡を知らざる処境である。君子はもし富貴の位に身を居りて自高自大せず、謙恭柔順を堅守せば、便ち位置を保住して吉祥を獲得し得。もし謙順に做し到らざれば、さらば便ち「亢龍」の如き悔恨と災咎と成る。

子曰「貴而無位,髙而無民」者,夫人君之位止於九五,今上九之爻過於九五,失其中道而在窮極之地,是天下之民不與也,故云「貴而無位,髙而無民」者。夫欲率天下之民,莫非有才有位然後可以無悔,今上九已過中道,越於九五,雖居徳位之尊,奈何天下之民皆歸於九五,上九之爻則是髙而無民也。

孔子の「貴而无位、高而无民」と言うは、君主の位次はただ九五に至るまで止まるが故である。いま上九この一爻はすでに九五を超過し、中に居る正道を失い、窮極の地に落ち、天下の百姓は併せて彼を擁戴せざるなり。故に初めて彼が尊貴にして実位なく高聳にして民衆なしと言う。天下の百姓を統率せんと想えば、必ず才干有りて又名位有りて、初めて悔恨を免れ得。而して上九はすでに中道を越過し九五を超出し、虽名分上は依然尊位に居るも、奈何天下の百姓は皆九五に帰向すれば、上九この一爻は自然に便ち高高と上に在りて百姓なしなり。

「賢人在下位而無輔,是以動而有悔也」者,夫天下之賢,患乎不用;既得其用,患乎不才;既有其才,患乎無君;既有其君,即盡忠竭節以事之。今上九之爻過於九五,在窮極無位之地,則是無權之人也。雖天下賢才至眾,但甘於藜藿,處於蒿萊,不輔於上九過亢之人也,是以上九動靜之間,必須有其悔吝也。

「賢人在下位而无輔、是以動而有悔」に至っては、天下の賢者が、起初は任用せられざるを擔心し、任用せられれば、又自己の才具足らざるを擔心し、才具有れば、又明君に遇合せざるを擔心し、一旦明君に遇合せば、便ち忠誠気節を竭尽して去って彼に侍奉するを言う。いま上九この一爻は九五を超過し、窮極にして実位なき処に処り、実際上は権柄なき人である。天下の賢才は虽多しとも、却って寧ろ粗劣の野菜を甘食し荒草の間に隠居して、もまた上九この種の過度高亢の人を輔佐し往くを肯んぜざるなり。故に上九は動くも静まるも論わず、皆悔恨と遺憾を帯来するを免れざるなり。

「不出戶庭,無咎。」

《節》卦初九の爻辞に曰く:自家の門庭を走出せざれば、便ち過咎あらざるなり。

義曰:此《節》卦初九之爻辭也。上既言《乾》之上九不知進退,恃其崇髙之位,生其驕亢之心,以至其道窮極,動有悔吝,此又言聖賢語黙之間必當周宻,故引此《節》卦初九之辭以證之。

これは《節》卦初九の爻辞である。上文はすでに《乾》卦上九の進退を知らざるを講じ、自己の崇高の地位に倚仗して以て驕縦高亢の心を生出し、以て窮途末路に走り至り、一動すれば便ち悔恨有る。此処は進んで聖賢が开口と沈黙の間に於いて必ず周厳縝密せねばならぬを講ず。故に《節》卦初九の爻辞を引いて以て印証す。

夫節之為道,節人之情,防人之慾,禁民之非,止民之偽,天下之所惡聞、人情之所不願者也。凡君子之人為節之道,必當慎重而周宻,不可使人窺覩。若一漏洩其幾,則人之情偽奸詐萬狀叢然而生,壞於成事。如是,則法出而奸生,令下而詐起耳。故君子凡節天下,不可不周宻之,苟能周宻慎重,不露其芒角,使小人不得間而窺,則可免其過咎矣。

節制の道とは、人の情感を節制し人の欲望を防範し百姓の非法の挙を禁絶し百姓の虚偽の行を遏止するは、本来天下人の聴き愛さざる所・人情の情願せざる所の事である。故に君子が節制の道を推行するには、必ず慎重にして周密にして、人をして底細を窺探せしめ得ざらしめねばならず。一旦其中の機要を泄露せば、人々の種種の虚偽奸詐の手段は便ち紛紛として冒出し起りて、已成の事を敗壞し掉す。あのようになれば、法令は剛く頒布せば奸弊は便ち産生し、命令は剛く下達せば欺詐は便ち興起す。故に君子はおよそ天下を節制せんと要すれば、周密に做し到らざるべからず。もし能く周密慎重にして鋒芒棱角を露さず、小人をして窺探する縫隙を抓得ざらしめば、便ち過咎を免れ得。

子曰:「亂之所生也,則言語以為階。」

孔子曰く:禍乱の産生は、往々に言語を拿って階梯と為して一步步に攀爬上る。

義曰:階者,梯階,人之所履也。夫亂之所生也,皆言語以為之梯階。夫君子之人排斥奸邪,創立制度,必當慎其言語,苟言之不慎,則亂之所由矣,是故亂之生皆自言語以為之梯階也。

「階」とはすなわち梯級で、人が一步步に踏上ぐる东西である。禍乱が産生する所以は、皆言語を把って上に攀爬する梯級と為したものである。君子は奸邪を排斥し制度を創立せんと要すれば、必ず自己の言語を謹慎せねばならず。一旦説話不慎なれば、便ち禍乱の由来と成る。故に言う、禍乱の産生は皆言語を以て梯級と為すと。

「君不宻則失臣。」

「君主は能く密を守らざれば、便ち臣子を失去す。」

義曰:夫為臣之道,盡忠竭節以諌於君,成興天下之利,或除天下之害,或斥言奸邪,或指陳僭忒。與君同謀共慮,君不能慎宻,彰露其事,為眾所共聞,則人生嫉妬之心,以至失臣之身也。

臣子を為す本分は、忠誠気節を竭尽して君主に向かって進諫するにある:或いは天下の利益を成就興起し、或いは天下の禍害を除去し、或いは当に面して奸邪の人を斥責し、或いは僭越失度の事を指陳す。臣子は既に君主と共同に謀劃すれば、君主はもし能く慎重に保密せずして、事を張揚し出して衆人皆に知らしめれば、別人は便ち嫉恨の心を生出し、最終にこの位の臣子の性命に連れても皆失い掉らん。

「臣不宻則失身。」

「臣子は能く密を守らざれば、便ち自身に賠上す。」

義曰:夫人慾興天下之利,除天下之害,成一時之功,為萬世之法,以鼎新天下之法制者,必當慎其幾,藏其宻也。苟言行之有虧失,聞之於外,為人之所疾害,則是自害失其身也。

一個人が天下の利益を興起し天下の禍害を除去し、一時の功業を成就し万世の法度を樹立し、従って天下の法制を革新せんと欲せば、便ち必ず其中の機要を謹慎対待し、機密を蔵好せねばならず。倘若言語行事の上に疏漏有りて、外面に聴き去られ、別人の忌恨陷害に遭えば、あれは便ち自己が自己を害し性命を賠上するなり。

「幾事不宻則害成,是以君子慎宻而不出也。」

「機要の事は能く保密せざれば、禍害は便ち形成す。故に君子は機密を慎守して軽易に泄露せざるなり。」

義曰:言君子之人幾宻之事不可不慎。苟一漏洩其幾,為小人之所窺覩,則奸邪互生,情偽交作,害廢於成事,敗壞於法制,如是則天下從而亂矣。是以君子凡立成事、謀議奸邪,不可不為之慎宻,是以君子慎宻而不出也。

これは君子が機要隠秘の事に対して謹慎ならざるべからざるを言う。一旦機要を泄露せば、小人に窺見せられて、奸邪は便ち交相滋生し、虚偽は便ち一斉に興起し、已成の事は破壊廃棄せられ、既定の法制は敗壊毀損せられ、こうすれば天下も便ちこれに随って混乱す。故に君子はおよそ事功を建立し奸邪に対付せんを謀議せんと要すれば、皆慎密に做し到らざるべからず。故に君子は機密を慎守して軽易に口を出さざるなりと言う。

子曰:「作《易》者,其知盜乎?」

孔子曰く:《周易》を撰作した人は、大概盗賊が如何に招来せらるるかを懂得せりや。

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