繋辞上・夫易広矣大矣
分而為二以象兩,掛一以象三,揲之以四以象四時。
四十九根の蓍草を手に随って両把に分け、以て天地「両儀」を象徴す。再び其中より一根を抽き出して夾え起し、天地人「三才」を象徴す。然る後に每四根を一組として数え過ぎ、春夏秋冬の四時を象徴す。
義曰:夫大衍之數始本五十有五,然其所頼者四十有九。然四十九數未分之時則為一,以象太極天地未判之際;次分而為兩,以象陰陽分剖之理,於左手則為陽,於右手則為陰。
大衍の数は本来五十五、而して実際に憑藉するは四十九。この四十九根は未だ分けざる時に渾然として一にして、以て「太極」を象徴す――天地未だ分判せざるあの状態。続いてそれを両把に分け、陰陽の剖判の道理を象徴す:左手の持つ所は陽を代表し、右手の持つ所は陰を代表す。
然陰陽既分而人事未備,又於左手之中掛其一於小指之間,以象三才,言天地人事萬品之類皆備於其間。又揲數之以象四時者,又以左右手握之,四數之,以象天之有春夏秋冬四時運轉、寒暑徃來不絶之義也。
陰陽は虽すでに分かれたるも、人この一一維は還って未だ安置せざれば、ここに又左手のあの把の裏より一根を抽き出して、小指の間に夾えて、以て「三才」を象徴し、天地人及び万事万物の品類の皆其中に斉備するを表示す。「揲之以四」に至っては、左右両手の握る所の蓍草を每四根一組として数え過ぐるを把って、以て上天に春夏秋冬の四季の運転・寒来暑往の永く停息せざる有るの意思を象徴す。
歸竒於扐以象閏,五歳再閏,故再扐而後掛。
数え剩下る零頭を手指の縫の裏に夾えて、以て閏月を象徴す。五年の中に両次閏するを要す。故に両次余りを帰した後に再び一を掛ぐを要す。
義曰:言既揲數之,其有餘者則歸之於左手所掛一之處,以象其閏。然則天之有三百六十五度四分度之一,日行遲,一歳一周天;月行速,一月一周天。以全數言之,則日一年行三百六十度,餘有六度。
これは四根一組として数え了えた後に、剩下る零頭は便ち左手の先前の一を掛けた処に帰攏して、以て閏月を象徴するを言う。周天は共に三百六十五又四分の一度有り:太陽は走ること慢く、一年に天を一周し、月亮は走ること速く、一個月に天を一周す。もし整数に按って計算せば、太陽は一年に三百六十度を行じ、還って六度を多出す。
是故聖人因此大衍天地生成之數,推測幽隠,以其揲蓍之數四數之,其有歸餘殘竒之數,則歸於所掛小指之間,以象其閏。既取歸餘殘竒之數以象其閏,然於二年之中為閏,又其數未備;於三年之中為一閏,又其數出剩,遂於五年□閏,則其數始足。
故に聖人は大衍この套の天地生成の数に依拠して以て幽隠の事を推測す:蓍草を以て四根一組として数え、およそ数え剩下る零頭は、便ち小指の夾える所に帰攏し、それを以て閏月を象徴す。既に零余の数を以て閏を象徴せば、さらば両年に便ち一閏を置き、日数は還って足らず。三年に一閏を置けば、又略して多余有り。ここに第五年に到りて再び一閏を置き、日数は初めて恰好補足す。
故一歳之間所剰六度,又有六小月,是十二日也,三年之中凡三十六日,故閏一月;又剰六日,遂於五年之中積為二十四日,加此六日即為三十日,故五年□閏也。
具体的に説けば:一年の中に六度を多出し、又六個の小月は各々一日を少し、合計十二日。三年下来共に三十六日。故に一個の閏月(三十日)を置く。閏を置きた後に還って六日を剩下す。第五年に到れば、又二十四日を累積し出し、先前の剩した六日を加上せば、正好三十日。故に第五年に再び一閏を置く。
然揲蓍之數歸餘殘竒,零止有一二三為殘竒。今註疏之說以謂四為殘竒,則非也。且四四數之是全數也,若以全數為殘竒,則無所據,但止有一二三為殘竒也。若無餘,則再扐而後掛之,然後見成閏積分之數也。
蓍草を数うる時の零余に至っては、その零頭はただ一・二・三この三種のみ可能なり。当今の注疏は四も亦た零余と算うと説くは、あれは正しくない:四根一組として数え下去れば、四の本身は正に一整組なり。整組を把って零余と為すは毫も根拠なし。故に零余はただ一・二・三のみ。もし最後に数えて零余なからば、便ち再び一度帰余を作して然る後に一を掛げ直し、こうして初めて累積して閏と成る数目を顕し出し得。
然謂「再扐而後掛」者,蓋上言「歸竒於扐以象閏,五歲再閏,故再扐而掛之」是也。
所謂「再扐而后掛」とは、すなわち上文の説く所:零余を指間に夾えて以て閏月を象徴し、五年の中に両次閏するを要するに因り、故に両次の帰余を経た後に再び一を掛げ直すを要す。
是故四營而成《易》。
故に四道の程序を経て、初めて一次の演変を完成す。
義曰:「是故」者,連上文也。四營者,則謂四度經營而成變易也。四營者,則謂上「揲之以四以象四時,歸竒於扐以象閏,五歳再閏,故再扐而後掛」是也,凡此四度經營,然後成其變易之道。
「是故」両字は上文を承接して説く所である。所謂「四営」とは、すなわち四道の經営操作を経て初めて一次の変化を完成するを要す。この四道の操作とは、上文の講ずる所の蓍を分けて両把と成し・一を掛げて三才を象し・每四根に一数して四時を象し・零余を指間に夾えて閏月を象する(五年両閏に因って須く両次帰余の後に再掛するを要す)この一整套の手続を指す。每この四道の程序を走完すれば、一次の変易の道は初めて吿に完成す。
十有八變而成卦。
十八次の変化を経て、初めて一卦を形成す。
義曰:凡言一爻,凡三度揲之,則為一爻;一卦六爻,三六一十八,是十有八變而成一卦也。
每一爻を求得するに、三次の揲蓍を須要して初めて定まる。一卦に六爻有り、三乗六して十八に等し。故に十八次の変化を経て初めて一卦を形成すと言う。
八卦而小成。
八卦を画き成せば、便ち初步に完備と算す。
義曰:言伏羲所畫八卦,乾、坤、艮、巽、震、離、坎、兌是也。八卦既立,寫其天地水火山澤風雷之象;水火山澤風雷之象既立,是以健、順、動、止、明、入、陷、說之性畢備,此八卦之小成者也。
これは伏犠の画いた所の八卦、すなわち乾・坤・艮・巽・震・離・坎・兌を言う。八卦は一経確立せば、便ち天・地・水・火・山・澤・風・雷これらの物象を摹写し出す。これらの物象は既に確立せば、ここに剛健(乾)・柔順(坤)・振動(震)・静止(艮)・光明(離)・潜入(巽)・陷険(坎)・和悦(兌)この八種の性情も便ち一一具備す。これがすなわち八卦の「小成」。
引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。
八卦に引申推衍を加え、同類の事物に遇えば便ち類に随って拡展せば、天下の一切の做し得べき事は便ち皆其中に包羅す。
義曰:言文王因此八卦小成之後,遂引伸八卦為六十四卦,又因其事物萬品之類而増長之。若觸剛之事類,以次増長其剛;若觸柔之事類,以次増長其柔。是以天地之性、萬物之理、天下之情偽、萬物之本,至纎至悉,天下之能事無不畢載於其間。
これは文王が八卦小成の基礎の上に、八卦を引申重畳して以て六十四卦と為し、又万事万物の種類に依って不断に拡充するを言う。剛の一類に属する事に碰上せば、便ち順次にそれの剛の一面を拡展し、柔の一類に属する事に碰上せば、便ち順次にそれの柔の一面を拡展す。ここに天地の性情・万物の道理・天下の真情と虚偽・万物の根本、無論如何に細微詳盡なるも、天下の一切の做し得べき事は其中に完備に載録せざるなし。
顯道神徳行。
それは幽微の道理を彰显し、もまた人の徳行を神妙莫测ならしむ。
義曰:上既言天地之數,天下之能事畢載於《易》,故可以顯明其萬物之理、萬事之情,原其所由,不知所以然而然,又可以神其徳行,莫見其跡也。
上文は既に天地の数・天下の一切の能事を講明して皆完備に《周易》の中に載録するを明らかにしたれば、故にそれは能く万物の道理・万事の情状を彰显し、その然る所以を追溯す。虽人は何を為すか此の如くなるを説き出し得ざるも、事は却って自然此の如し。それは又能く人の徳行を神妙莫测ならしめ、人をして其中の踪跡を看見せしめざるなり。
是故可與酬酢,可與佑神矣。
故にそれは以て人と応答酬対し得、もまた神明の作用を輔助し得。
義曰:酬酢者,謂報答之辭也。言《易》之道既言天地幽賾之事,又顯明萬事之理,又以蓍數明其吉凶之事,知其未來,明其已徃,使人占兆之,知其吉凶之驗,使人從善而去惡,從吉而背凶,若響之應聲而應對之也。
「酬酢」とは賓主往来応答の言辞を指す。これは《周易》の道は既に天地間の幽深難見の事を講明し、又万事の道理を彰显し、還って蓍草の数を以て吉凶の在所を指出すを言う:将来を預知し既往を明察し、人をして占問を通じて以て吉凶の応験を看到せしめ、従って悪を棄て善に従い吉に趨り凶を避けしむ。それの人への応答は、便ち回声の声音に応和するが如く即時にして準確なり。
可與佑神者,言《易》道既言吉凶之事,使人占之,從吉而懼凶,是可以佑明神之徳而行事者也。
所謂「可与佑神」とは、《周易》の道は既に吉凶の事を講明し、人をして占問を通じて以て吉利に趨向し凶険を警懼せしむれば、これは便ち神明の徳化を輔助し、人に拠って行事せしむるに等し。
繋辞上・易有聖人之道四焉
易有聖人之道四焉。
《周易》この部の書の裏に、聖人が後人に留めた四条の門径を含有す。所謂「聖人之道四焉」とは、《易》を以て言を立て、《易》を以て行動を決定し、《易》を以て器物を制作し、《易》を以て卜筮して疑を問うこの四種の用法を指す。
義曰:此已下至「易有聖人之道四焉,此之謂也」為一章。言大易之道探賾索隠以成其道,故所用之道有四焉。
胡瑗解説:この一句より起りて、一直に下文の「子曰、易有聖人之道四焉者、此之謂也」に至るまで止まり、合して一章と為す。この一章の講ずるは、《周易》の義理は能く最も幽深繁雑の地方に深入して以て探尋し、能く最も隠微不顕の道理を捜求し出し、こういう份の功夫に憑って初めてそれ自己の一套の法則を成就したり。まさにこのが故に、この套の法則の裏より派生し出して人の取用に供し得べき門径は一共に四条有る。
以言者尚其辭。
およそ《周易》に憑って議論を発し言説を立てんと要する人は、最も看重するは卦辞爻辞これらの文字である。
義曰:言則謂大易之中所述之言辭也。言聖人探賾索隠作為大易,聖人之情顯見於言辭之間,故君子之人慾觀大易之意,必觀聖人諸卦爻所繋屬之文辭,見聖人之情意也。
胡瑗解説:此処の説く「言」とは、《周易》の裏に記録し下げたあの文辞を指す。聖人は幽深を探究し隠微を捜求して、因って《周易》を制作した。彼の心裏に後人に吿げんと欲する意思は、全て明明白白にこれらの文辞の裏頭に顕露す。故に学ぶことに志有る人は《周易》の旨趣を弄清せんと想えば、必定に聖人が六十四卦・三百八十四爻の底下に繋げた卦辞と爻辞とを細読して、これらの話の裏より聖人の真正の心意を看出さねばならず。
以動者尚其變。
およそ《周易》に憑って自己の行止挙動を決定せんと要する人は、最も看重するは卦爻の変動である。
義曰:動則謂諸卦諸爻也,變,動也。言聖人仰觀俯察作為大易,設為六十四卦,其爻有得位者,有失位者,有變有動,有正有不正,有中有不中,有應有不應者,是諸卦之爻有變動者也。既有變動,則吉凶悔吝生乎動矣。有動而悖於理者則凶,有動而合於道者則吉。是故君子之人凡欲知其吉凶悔吝存亡之幾,必先觀其諸卦諸爻之變動,然後可以知吉凶之事、悔吝之虞、變通之理,然後趨其善而背其惡,向其吉而避其凶,所以致身於無過也。
胡瑗解説:此処の説く「動」とは、各卦各爻を指す。「変」とは、もまた変動の意思である。聖人は頭を抬げて天象を観察し頭を低めて地理を察看し、これに拠って《周易》を制作し、布列して六十四卦と成した。卦裏の每一爻は、或いは居位して當を得、或いは居位して當を失い、変有り動有り、中正なる有り不中正なる有り、当位居中の有り居中せざる有り、上下の間に相応ずる有り相応応ぜざる有り――これがすなわち各卦の爻の皆変動の中に処るを言う。既に変動有れば、さらば吉・凶・悔・吝この四種の結果は皆変動の裏より生出す:行動が事理に違背するは、結果は便ち凶。行動が正道に合乎するは、結果は便ち吉。故に徳行有る人はおよそ自己の吉凶悔吝・存亡成敗の苗头を預先に知らんと想えば、必定に先ず各卦各爻の変動を看清し、こうして初めて哪些の事が吉し哪些の事が凶し、何処に懊悔と羞吝の隠憂有り、変通は応に如何に着手すべきを明白し得。明白した後に便ち善の一面に趨向して悪の一面に背離し、吉利に奔って凶険を躲開し、こうして初めて自己をして立身処世して過錯を出さざらしめ得。
以制器者尚其象。
およそ《周易》に憑って器物を創制せんと要する人は、最も看重するは卦の取る所の形象である。
義曰:象則謂大易之中聖人所設六十四卦之法象也。至如伏羲作結繩而為網罟,蓋取諸離;神農作耒耜取諸益;宮室取大壯;弧矢取諸睽。如此之類,皆是尚其法象也。故君子欲觀制器之用,必觀聖人設卦制器之法象也。
胡瑗解説:此処の説く「象」とは、《周易》の中に聖人の設立した所の六十四卦あの一套の效法に供し得べき形象を指す。例えば伏伏犠が繩子を結して網罟と為して以て魚を捕え獣を猟するに用いたは、《離》卦の附麗相網の意思に取法したもの。神農が耒耜この類の農具を制作したは、《益》卦の民に増益する意思に取法したもの。宮室を建造するに《大壯》卦の高大穩固に取法し、弓箭を制作するに《睽》卦の乖離相制に取法した。此の類の如し、皆卦象に取法して以て器物を造る。故に志有る人は器物制作の道理を弄明白せんと要せば、一定得に聖人の設卦立象・依象造器のあの一套の法則を看ねばならず。
以卜筮者尚其占。
およそ亀卜蓍筮を以て事を問わんと要する人は、最も看重するは占問の得る所の結果である。
義曰:筮則謂蓍策龜兆之占筮也。夫凡人之生,必有疑貳之事、得失之理,不得以前知,是故聖人作為大易,設為六十四卦,有變通之理,有吉凶之驗。以其凡人不能無疑、不能無吉凶,然吉凶之道雖聖人有所不知。聖人既有所不知,必謀之於鬼神,以明得失吉凶之事。然鬼神之道至幽至隠,不可以形覩,不可以象窺,然莫知其所與人有異。然聖人必謀之者,是故假其至誠,取其蓍龜之數,審之於天地之數,明諸卦諸爻變動之理,以明過去未來之事,則必以卜筮占策,然後可以前知矣。
胡瑗解説:此処の説く「筮」とは、蓍草の茎数を以て演算し亀甲の裂紋を以て断験するあの一套の占問の法を指す。人が世上に活るに、拿主意を定め得ざる事・得失の道理を看清し得ざるに遇うを免れず、事先に結果を知ること無法なり。故に聖人は初めて《周易》を制作し、六十四卦を布設し、其中に既に変化通達の義理有り、もまた吉凶応験の憑拠有り。普通人は疑惑なきべからず、もまた吉凶に遇上せざるべからざるに因り、而して吉凶の道理は聖人に連れても亦有る弄明白せざる時。聖人は既に弄明白せざる所有れば、便ち必定に鬼神に向かって求教して、好く得失吉凶を弄清せんことを要す。しかし鬼神の道は極めて幽暗隠微にして、形体を看るべからず、もまた形象を窺い出すべからず。人はそれが究竟人と如何なる不同有るかを知る従なし。聖人の仍ほそれに向かって求教せんとする所以は、弁法は便ち自己の一片の至誠の心に憑って、蓍草と亀甲の顕示する数目を取用し、天地の数を拿って以てそれを核験し、各卦各爻の変動の道理を弄清し、従って過去已成の事と将来未至の事とを照見す。このようになれば、便ち卜筮演策に靠らざるべからず。それに靠って初めて預先に結果を知り得。
是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如響。
故に徳行有る人は將に作為有らんとし將に行動有らんとする時、先ず《周易》に向かって占問し、疑難を把ってそれに聴かせ説く。それは問う所に回答し指示を給出し、便ち回声の声音に応和するが如く、問うに随って答え、一点も含糊せず。
義曰:言君子之人既能觀此四者之事,凡有所施為,凡有所行徃,必先問焉而以言,考其蓍龜之靈、占筮之策、通變之理、吉凶之道,然後其受命也如響之應聲,無有逺近幽深。
胡瑗解説:徳行有る人は既に上面の説く所の辞・変・象・占この四件の事に留意するを懂得せば、さらばおよそ一件事を做し一趟に出行せんと要すれば、必定に先ず疑難を《易》に向かって説明して以て占問し、蓍草亀甲の顕す所の霊験・演筮の得る所の策数・変化通達の道理と吉凶の在所を考察し、然る後にそれの給出する答復は便ち回声の喊声に応和するが如く乾脆にして、無論問う所の事の遠処近処・幽微か深奧かなるも、皆答え上げ得。
遂知來物。
ここに便ち將に発生せんとする事情を預先に知り得。
義曰:言此大易之道告示於人,無有遐逺邇近幽深宻之間,皆前知其吉凶禍福之驗,天地陰陽之理,將來之事、已徃之失,皆前知矣。
胡瑗解説:《周易》の道は人に向かって開示し、無論問う所の事情の遥遠なるか切近なるか、幽隱なるか深密なるか、それは皆能く預先に吉凶禍福の験証を顕出す。天地陰陽変化の道理・将来還って到来せざる事・過去すでに犯下した過失、それを通じて皆能く事先に知暁し得。
非天下之至精,其孰能與於此。
天下最も精微の道理に非ざれば、還って何のこの地步に達し得べきものか。
義曰:言大易之道,若非至極精妙、通達天下,其孰能與於此哉。
胡瑗解説:《周易》の道はもし精微奧妙して極点に到り普天之下に通達するに非ざれば、還って何の东西がこの一步に做し到り得べきや。
參伍以變,錯綜其數。
三と五の如き数目を以て交互推演して以て変化を求め、それらを交錯綜合して運算す。
義曰:參則謂三也,伍則謂伍也。言天一之數有三有五,至如天之一下交於地之六生水,地之十上交於天之五生土,是天地之數三五通變,上下錯雜綜統,以成萬物之數。
胡瑗解説:「参」とはすなわち三、「伍」とはすなわち五。これは天地生数の裏に既に三有りもまた五有るを言う:譬如天数一は下に向かって地数六と交合して以て水を生出し、地数十は上に向かって天数五と交合して以て土を生出す。見れば天地の数はすなわち三と五の如く彼此往来変通するに靠り、上下交錯・總攬綜合して、初めて万物各自の数目を生成したり。
通其變,遂成天地之文。
これらの変化を貫通して、ここに天地間の紛然交錯の紋理を形成す。
義曰:言天地陰陽之道、通變之理、化裁之跡,老陰老陽之數交而相雜,以成天地之文,若剛柔晝夜之道、寒暑徃來之功、青赤交雜之類。二百一十有六以定乾之老陽之象,一百四十四策以定坤之老陰之象,如此之類,他皆可知也。
胡瑗解説:天地陰陽の運行・変通の義理・裁成化育の痕跡は、皆老陰と老陽とこの両種の数が交互錯雑して、初めて天地間の紋理を織り成したり。好比剛と柔と相対し・白天と黑夜と相替わり・寒暑往来相推し・青色と赤色と交織するこの一類の現象の如し。具体的に数の上に就けば:乾卦六爻は全て老陽と為し、每爻は三十六策、合計二百一十六策、この数は便ち乾の老陽の象を定下す。坤卦六爻は全て老陰と為し、每爻は二十四策、合計一百四十四策、この数は便ち坤の老陰の象を定下す。一を擧げて三に反すれば、その余の道理は皆此に照らして推知し得。
極其數,遂定天下之象。
これらの数を推演して尽頭に至れば、ここに天下万事万物の形象を断定したり。
義曰:言聖人窮極天下之數、陰陽之策、萬事之理、纎介之微,然後可以定天下之法象也。
胡瑗解説:聖人は天下の所有の数目・陰陽両類の蓍策の策数・万事万物の道理を、一直に極細極微の地步にまで推究して、こうして初めて天下の取法に供し得べき種種の形象を確定し出し得たり。
非天下之至變,其孰能與於此。
天下最も能く変化を窮尽する道理に非ざれば、還って何のこの一步に達し得べきものか。
義曰:言大易之道極窮天地之數,以成天下之法象。若非天下至變至通之道,其曷能與於此哉。
胡瑗解説:《周易》の道は天地の数を推究して尽頭に到り、これに拠って天下の取法に供し得べき形象を造り出したり。もし天下最も変化に善く最も能く通達するあの道理に非ざれば、又何処にこの一步に做し到り得べきや。
易無思也,無為也,寂然不動,感而遂通天下之故。
《周易》は自身に思慮なく、もまた刻意に造作せず、静かにあの処に擺りて一動せず。一旦人の誠心に感発せられれば、便ち随に天下一切の事情の来龍去脈を貫通す。
義曰:言大易之道能極盡天下之數,極盡天下之事,然而易之道不假思慮,任用自然;不須經營,任用自動。寂然不見其跡,黙然不見其形。若聖人以至誠之心感而行之,則通變之理、萬事之宜自然而達矣。
胡瑗解説:《周易》の道は能く天下の数目・天下の事情を皆窮究して底に到るも、それ自身は併せて何の思慮を動用せず、一切は自然に聴憑す。もまた必ずしも刻意に經営安排せず、一切は自動に聴憑す。それは安靜にして痕跡を看るべからず、沈黙にして形跡を顕し出すべからず。ただ聖人が至誠の心を拿って去ってそれを感通しそれに依って行事せば、さらば変通の道理・万事を處置する分寸は、自然に便ち皆通達す。
非天下之至神,其孰能與於此。
天下最も神妙莫测の道理に非ざれば、還って何のこの一步に達し得べきものか。
義曰:夫非忘象者則無以制象,非遺數者無以極數。至精者無筮策而不可亂,至變者體一而無不周,至神者寂然而無不應,斯蓋功用之母、象數所由立也。言大易之道若非道極妙、變化如神、極深研幾、探賾索隱,其孰與於此哉。
胡瑗解説:能く形象を忘掉せざる人は、便ち形象を駕馭する無法なり。能く数目を撇開せざる人は、便ち数目を窮尽する無法なり。精微して極点に到るは、蓍策を用いて数えずとも錯乱せざるなり。変化して極点に到るは、本体はただ一個にして周遍せざる処なし。神妙して極点に到るは、寂然として動かずとも感応せざる処なし。この三樣はまさに一切の功用の母体にして、もまた卦象と数目の成立し得る根由である。《周易》の道はもし妙して極処に到り変化して神の如く幽深处を推究して底に到り隠微处を捜求し出すに非ざれば、又誰かそれに及ぶに足らんや。
夫易,聖人之所以極深而研幾也。
《周易》とは、聖人が以て幽深の理を窮究し細微の苗头を研尋する憑藉である。
義曰:此以下又明聖人作易之道,極窮幽隱,識照幾先,而作其易者也。深者,則謂未有其理、未見其形而聖人極深其用者也;幾則謂有其理未形,則謂之幾也。言聖人作易,以極其有理未形之幾也。
胡瑗解説:ここより往下は、又聖人の《易》を作る用心を説明す:彼は幽隠の処を窮究して底に到り、事情の苗头の未だ顕露せざる前に就已に看清して、ここに《易》を作り成したり。所謂深とは、道理未だ成形せず形跡未だ顕現せず、而して聖人は已にそれの作用を推究して極処に到るを指す。所謂幾とは、道理は已に有りて尚未だ成形せず、こういう將に露せんとして未だ露せざる苗头を便ち幾と叫ぶ。これがすなわち聖人が《易》を作るは、まさにあの理有りて未だ成形せざる苗头を窮尽せんと欲するなり。
唯深也,故能通天下之志。
まさに《易》は能く幽深を窮究するに因って、故に能く天下人の心志を貫通す。
義曰:夫人之深,未有其理,未有其形,而又天下之心億兆其心,而聖人以己之深可以通天下之志,何也?蓋天下之心雖億兆之心,而聖人以己之心可以見天下之心,以己之志可以見天下之志。何則?夫人情莫不欲飽暖而惡其飢寒,人情莫不欲壽考而惡其短折,人情莫不欲富貴而惡其貧賤,人情莫不欲安平而惡其勞苦。是故聖人以己之心推天下之心,億兆之眾深情厚貎皆可以見矣。雖億兆之心至多而難見,而聖人但以一己之心、一身之勞逸,雖未見其理、未顯其形,則天下之心自然而見矣。
胡瑗解説:所謂幽深とは、道理未だ成形せず形跡未だ顕現せざるなり。いわんや天下人の心思は千万億の多き有るをや。聖人は自己一個人の深察に憑って、怎で能く天下人の心志を貫通せんや。道理は在りて曰く:天下の心思は虽億万種有るも、聖人は却って能く自己の心を以て去って天下人の心を照見し、自己の志向を以て去って天下人の志向を照見す。何を為すか。人之常情、飽食暖衣せんと想って饑寒を厭悪せざるなし、長寿せんと想って夭折を厭悪せざるなし、富貴せんと想って貧賤を厭悪せざるなし、安穩太平せんと想って労苦を厭悪せざるなし。故に聖人は自己の心を拿って去って天下人の心を推想せば、千万人の心底の真情と表面の厚飾と、便ち皆看出し得。人心は虽多き察し尽くし難きも、聖人はただ自己のこの一顆の心・自身の労と逸とに就着いて以て体会せば、たとい道理未だ成形せず形跡未だ顕現せざるも、天下人の心も便ち自然に照見す。
唯幾也,故能成天下之務。
まさに《易》は能く苗头を研尋するに因って、故に能く天下の事務を辦成す。
義曰:幾者,是有理未形之謂也。夫君子之人慾極天下之務,必先博學之,審問之,慎思之,明辨之,篤行之。既能如是,則雖天下之務、萬事之微盡可見矣,所謂知至知終者是也。
胡瑗解説:所謂「幾」とは、すなわち道理は已に存在して還って未だ成形せざるなり。徳行有る人は天下の事務を辦して尽善に到らんと想えば、必定に先ず広博に学び・詳細に問い・謹慎に思い・清楚に辨え・踏実に行うこの五条に做し到らねばならず。これは《礼記・中庸》に見ゆ。能くこの一步に做し到れば、さらば天下の事務・万事の細微の処は便ち皆看明白す。すなわち《乾》卦文言の説く所の知至知終なり。
唯神也,故不疾而速,不行而至。
まさに《易》は神妙莫测なるに因って、故に催趕するを用いずして自然迅速に、走動するを用いずして自然到達す。
義曰:夫大易之道極深研幾,無思無為,寂然不動,能通天下之志,能定天下之務,是其功如神,不疾而速,不行而至者也。
胡瑗解説:《周易》の道は幽深处を窮究して底に到り苗头を研尋し出し、自身は無思無為・寂然不動にして、しかし能く天下人の心志を貫通し、能く天下の事務を辦定す。こういう功效は神明に如同じく、催促するを用いずして就已に快く、走動するを用いずして就已に到る。
子曰:易有聖人之道四焉者,此之謂也。
孔子曰く:所謂《周易》の中に聖人の四条の門径を含有するとは、講ずる所はすなわち上面のこれらの内容である。
義曰:此又言大易能通微妙,以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占,故天下之能事畢矣。然則首尾俱言聖人之道四者,蓋為此一章之中所陳者三事:一曰非天下之至精,二曰非天下之至變,三曰非天下之至神。皆是廣言大易之道,然三事之中亦不出於聖人之道四,故首尾總而結之也。
胡瑗解説:此処に再び一度《周易》の能く精微を貫通するを講ず:言を立てる人はそれの文辞を看重し、行動する人はそれの変化を看重し、器を造る人はそれの卦象を看重し、卜筮する人はそれの占断を看重し、天下の做し得べき事はこのに到れば便ち斉備す。この一章の開頭と結尾とに皆「聖人之道四」を提ぐるは、章中に陳述する所有るは一共に三件事なるに因る:一は「非天下之至精」、二は「非天下之至変」、三は「非天下之至神」。この三句は皆大処より《周易》の道を講ずるも、而して三件事も又皆上面のあの四条の門径を跳出し得ざるなり。故に首尾に同一句の話を以て總括して結と為す。
