Libo

家人 離下巽上

宋 · 胡瑗 · 第21巻 / 51

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

家人:利女貞。

《家人》の一卦は、下卦を離と為し上卦を巽と為し、講ずる所は治家の道なり。卦辞にいう。家人の道は、女子の能く正固を守持するを以て利と為す。「貞」は正にして固守するの意、主婦の婦職に安んじて其の正を失わざるを指す。一家の内は主婦が先ず端正して、父子兄弟の次序は乃ち立ち起るを得、だから「利女貞」と言うなり。

義曰:按《序卦》云「傷於外者必反於家」,故受之以《家人》。言人之有所傷於外,則必反於內以求其安,故《家人》所以次於《明夷》也。然此謂之家人者,蓋聖人以此為治家之法也。利女貞者,夫家人之道以女正為始。何則?夫女子之性柔弱無常而好惡隨人,故凡君子欲治其家,必正其身以正其女,以正其閨閫之內,父子之列、尊卑長幼之序各得其正。家既正,然後施之為治天下皆可得而正也。故《大學》曰「欲治其國先齊其家」,然則治家之道在女正為始也。

《序卦伝》に言う。外に於いて傷害を受けたる人は必ず家中に帰らん、だから《明夷》の後に接ぐるは《家人》なり。人は外に於いて挫傷を遭受せば、一定に家内に返りて安頓を尋求す、これ即ち《家人》卦の《明夷》卦の後面に排列せらるるの縁故なり。この一卦の「家人」と取名する所以は、聖人がこれを借りて治家の法度を建立せんと欲するがゆえなり。「利女貞」に至っては、治家の道は女子の端正より做起すべきを言うなり。何を以てか。女子の性情は柔弱にして定准なく、好悪は人に随って転移し易し、だから君子は一家を治め好かんと欲すれば、必ず先ず自身を端正し、再び自身より去りて妻女を端正し、進んで内室門戸の内の一切を端正し、父子の行列・尊卑長幼の次序を皆各々其の正に帰せしむべし。家中は一たび正しくなれば、再びこの套の弁法を推行し開きて去りて天下を治理せば、天下も亦即ち皆正に帰すべきなり。だから《大学》に「自らの国を治め好かんと欲すれば、先ず自らの家を斉にし好くせよ」と言う。見るべし、治家の道は、女子の正を守るを以て起点と為すなり。

彖曰:家人,女正位乎內,男正位乎外。男女正,天地之大義也。家人有嚴君焉,父母之謂也。父父,子子,兄兄,弟弟,夫夫,婦婦,而家道正。正家而天下定矣。

《彖伝》は《家人》卦を解釈して言う。女子は端正に内室の位置を守住し、男子は端正に外事の位置を守住す。男女は各々自らの位置を擺正す、これまさに天地の間の最大の倫理法則なり。一家の中にも亦威厳の君長有り、指す所は即ち父母なり。父を為るは父に似、子を為るは子に似、兄を為るは兄に似、弟を為るは弟に似、夫を為るは夫に似、妻を為るは妻に似て、家道は即ち端正す。家は一たび端正なれば、天下も亦即ち随って安定す。

義曰:女正位乎內者,謂六二也。六二以柔順之質處內卦之中,若貞正之婦治閨門之內也。然婦人之道不可預聞外事,但以致整於內而已,故《書》曰「牝雞無晨,牝雞之晨,惟家之索」,故女必正位乎內也。男正位乎外者,謂九五也。九五以剛明之徳處外卦之中,是男子以義治外,其父子有禮,兄弟有序,尊卑上下各正其位也。然以義制事則不可從於婦人,故《恆》卦曰「夫子制義,從婦凶也」。

「女正位乎内」は六二この一爻を指す。《周易》の講ずる「爻位」は、一卦六画の自下而上の位次を指す。初・三・五は陽位、二・四・六は陰位。陰爻は陰位に居り・陽爻は陽位に居るを得正と叫び、第二位あるいは第五位に居るを得中と叫び、二者を兼備すれば便ち「中正」なり。六二はまさに陰爻が陰位に居りて、また下卦(内卦)の中位に処し、柔順にして其の正を失わず、譬えば一位の正を守る主婦の内室を治理するがごとし。但し婦人の職分は外面の政事を過問するに宜しからず、只だ家内を整治して井井條條たらしめれば足るなり。だから《尚書・牧誓》に「母鶏は応に晨を司るべからず、母鶏は一旦鳴きて暁を報ずれば、この家は即ち敗落せん」と言う、見るべし女子は必ず端正に内位を守住すべきなり。「男正位乎外」は九五この一爻を指す。九五は陽爻が陽位に居り、上卦(外卦)の中位に処し、剛健明察の品德を具備し、譬えば男子が道義を以て外面の事務を処理し、父子の間に礼有り・兄弟の間に序有り・上下尊卑が各々其の位に安んずるがごとし。すでに道義を用いて事情を裁断せんとすれば、一味に婦人に聴従する能わず、だから《恒》卦の六五の《象伝》に「男子は応に道義に依りて事情を裁断すべく、一味に婦人に順従すれば即ち凶険有り」と言うなり。

所謂男女正,天地之大義也者,夫天以至剛之徳、至尊之體處於上,地以至柔之徳、至卑之質位乎下,此天地自然之常分也。以人言之,女正位乎內,男正位乎外,男女之位正,是得天地之大義也。

「男女正、天地之大義也」と言うに至っては、天は最も剛健の品德・最も尊貴の形体を以て上方に居り、地は最も柔順の品德・最も卑下の質性を以て下方に処す、これは天地の自ら然りとして然るの固定名分なればなり。いわゆる「剛柔」は、《周易》の裏において即ち陽と陰の両種の性質。剛は動を主として尊に居り、柔は静を主として卑に居る。人事を拿りて対照すれば、女子は端正に内位を守住し、男子は端正に外位を守住し、男女は各々其の位に安んじて相僭越せず、これ即ち天地の間の最大の倫理法則に合上するなり。

家人有嚴君焉,父母之謂也者,夫君總生殺之權,操富貴之柄,四海之內莫不畏懼群而歸之,故謂之君。若父母之尊,則一家之事皆主焉,故不可專任其慈而無所斷制,必又加之以威嚴,董之以禮節,使一家之內有畏懼之心,如君之尊而又如君之嚴,則家道可以成也。

「家人有厳君焉、父母之謂也」と言うは、国君は手に生殺の権柄を握り、富貴の賞予を掌管し、四海の内に彼を敬畏せず成群に彼に帰附せざるの人なし、だから彼を君と称するがゆえなり。父母は一家の中の尊位も亦まさに此のごとし。全家の事は皆彼らに由りて主を為す、それによって一味に放任慈愛して毫も裁断なき能わず、必ず再び威厳を加え、礼節を以て督責約束し、一家の内をして人人敬畏の心を存せしむべし。すでに国君のごとき尊位有りて、また国君のごとき威厳有れば、家道は乃ち真に立ち起るを得べきなり。

父父子子、兄兄弟弟、夫夫婦婦而家道正,正家而天下定矣者,夫為父有父道,為子有子道,以至兄弟夫婦各有其道,是以父盡其嚴,子盡其孝,兄盡其友,弟盡其恭,夫盡其義,婦盡其順,如此則家道正矣。家道既正,天下斯定矣。故堯,聖人也,先親九族然後平章百姓;文王亦聖人也,先刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦。是君子之治天下必先正家,正家而天下定矣。

「父父子子、兄兄弟弟、夫夫婦婦而家道正、正家而天下定矣」と言うは、父を為るに父を為るの道理有り、子を為るに子を為るの道理有り、推して兄弟夫婦に及ぶも亦各々各々の道理有るがゆえなり。父は威厳を尽くし、子は孝順を尽くし、兄は友愛を尽くし、弟は恭敬を尽くし、夫は道義を尽くし、妻は柔順を尽くす、これで家道は即ち端正す。家道は一たび正しくなれば、天下は自然に安定す。だから堯は聖人にして、《尚書・堯典》は彼が先ず九族を親睦し、後に乃ち百官を辨明し・万邦を協和せるを記載す。文王も亦聖人にして、《詩経・大雅・思斉》は彼が先ず妻子のために表率を做出し、再び推して兄弟に及び、進んで以て封国を治理せるを言う。見るべし、君子の天下を治理するは一定に先ず自らの家を端正し、家は一たび端正なれば、天下も亦即ち安定すなり。

象曰:風自火出,家人。君子以言有物而行有恆。

《大象伝》にいう。風は火の裏より生出す、これ即ち《家人》卦の取象――離を火と為して内に在り・巽を風と為して外に在り、火は盛んにして後に風生ず、まさに家内は先ず修明し・教化は再び内より推して外に及ぶがごとし。君子はこの一卦象に取法し、説話は必ず実在の内容有り、行事は必ず恒常の準則有るべし。

義曰:風自火出,家人者,王通謂「明內而齊外」,有家人之象是也。物,事也。君子觀此之象,治其家使言有其事,行有其常,一言一行無有妄動,此治家之本在於正身也,故《孟子》曰「身不行道,不行於妻子」是也。

「風自火出、家人」は、隋代の大儒王通はそれを「先ず内に於いて修明し・再び外に向かって斉整する」と解釈し、まさに家人の取象に合す。「物」は此処では即ち事・即ち実在の内容なり。君子はこの一卦象を観察し、家を治むるに便ち自らの説く毎句の話に皆事実の根拠を有せしめ、為す毎件の事に皆常法を循るべきを有せしめ、一言一行に皆敢えて軽率に妄動せず、治家の根本は即ち自身を端正するに在るがゆえなり。だから《孟子・尽心下》に「自身が道に依りて行わざれば、妻子児女をも使い動かす能わず」と言う、講ずる所はまさにこの道理なり。

初九:閒有家,悔亡。象曰:閒有家,志未變也。

初九の爻辞にいう。家道の初めて立つの時に就きて防禁を設下すれば、悔恨は自ら消失せん。《小象伝》の解釈。いわゆる「閑有家」は、一家の人の心志が未だ壊れ変らざるの時に乗じて先ず防範を加えんと欲するなり。「閑」は本は門中の木欄を指し、引申して防禁・約束と為す。

義曰:閒者,寛而防之之謂也。凡人之情,愛之極則無疑,親之至則無防,故君子之人治其家,必當思慮未及於邪、耳目未接於私之時,預為之防,曲為之備。不然,使醜惡已彰、奸邪已萌而始為之防,是非家人之罪,乃已陷家人於有過之地也。今初九以陽居陽,處一卦之初,是治家之始,有剛明之徳而能于思慮未動、私邪未萌之前以為之防,故悔亡也。象曰閒有家志未變也者,夫君子防閒其家,待奸邪而後防之,惡彰而後治之,則無及矣。必於家人志慮未變之前豫防閒之,則所謂治家之道也。

「閑」は寛緩従容として防範を加えるの意なり。人の常情は、愛すること極めれば便ち再び猜疑せず、親しむこと極めれば便ち再び防備を設けず、だから君子の家を治むるに、一定に家人の心思が未だ邪僻に滑向せず・耳目が未だ私欲に沾染せざるの時に乗じて、預め防線を設下し、周密に準備を為し好くせねばならず。否らば醜惡がすでに顕露し奸邪がすでに萌発して乃ち去りて防範すれば、則ちそれは家人の罪過にあらず、而も自ら家人を過失有るの地步に推到せるなり。初九は陽爻が陽位に居りて、また全卦の最下・治家の開端に処し、剛健明察の品德を具備し、能く心思未だ動かず・私邪未だ萌えざるの前に先ず防禁を立つ、だから悔恨が消失すると言うなり。《小象伝》の「志未変也」は、まさに君子が一家を防範するに、若し奸邪が出現して乃ち防ぎ・罪惡が顕露して乃ち治めば、即ち及ばざるなり。必ず家人の心志が尚かつ改変せざるの前に預め防閑せば、これ乃ち治家の道と呼ぶがゆえなり。

六二:無攸遂,在中饋,貞吉。象曰:六二之吉,順以巽也。

六二の爻辞にいう。自ら主張を作して成就し去るべきの事なきことなし、只だ家中に於いて飲食祭祀を操持し、正を守れば即ち吉祥なり。《小象伝》の解釈。六二の吉祥なる所以は、それはすでに柔順にしてまた謙遜にして、能く上位の命を承奉するがゆえなり。「遂」は専断独行を指し、「中饋」は家中の飲食供奉の事を指す。

義曰:遂者,專也。夫婦人之事雖治於閨門之內,皆稟命而行也。今六二以陰居陰,處內卦之中,履得其正,是婦人之得正者也,但處於內而無所自專,故云無攸遂也。在中饋貞吉者,夫自古以來,上至天子之后妃,下逮庶人之妻妾,其所職之事不過於奉祭祀、饋飲食而已。故《禮》后有瑤爵之獻、奠盎之事,《詩》有《關雎》《采蘩》,皆后夫人之職也。六二處內任婦職而無所專,所主在於饋食而已,職此而又處其正,故得吉也。象曰六二之吉順以巽也者,言六二所以得吉者,以居中履正,順而且巽,上能稟九五之命也。

「遂」は即ち専断なり。婦人の事務は内室の中に於いて処理するなりと雖も、亦皆家長の命を禀承して行うなり。六二は陰爻が陰位に居りて、また下卦の中位に処し、踏む所の位はすでに中にして且つ正、まさに婦人が其の正を得たるのさまなり。只だ身は内室に処して自ら主張を作する能わざるがゆえに、だから「无攸遂」と言うなり。「在中饋、貞吉」に至っては、自古より、上は天子の后妃より下は平民の妻妾に至るまで、担う所の職事は不過是れ祖先を奉祀し・飲食を供備するのみなり。だから《礼記》の載する所の王后に瑶爵を献じ・盎斉を設くるの事有り、《詩経》に《周南・関雎》《召南・采蘩》の篇有り、写す所は皆后妃夫人の職分なり。六二は内位に安処し・婦人の職を担いて権を擅にせず、主管する所は只だ飲食供奉のみ、この職分を尽くしてまた能く正を守り、だから吉を得るなり。《小象伝》の「順以巽也」は、六二が吉を得るの縁故は中に居りて正を守り、すでに柔順にしてまた謙遜にして、能く上に九五の命令を承うるに在るを講ずるなり。

九三:家人嗃嗃,悔厲吉;婦子嘻嘻,終吝。象曰:家人嗃嗃,未失也;婦子嘻嘻,失家節也。

九三の爻辞にいう。家を治むること厳厲に過ぐれば、家人は愁苦し怨嘆す、悔恨有ると雖も・危険を歴ると雖も、結果は仍として吉祥なり。若し妻子児女を任憑して嬉笑して度なからしめば、最終に必ず羞吝難堪に至らん。《小象伝》の解釈。家人の愁苦怨嘆するは、なお治家の道を失せりと算せず。妻子児女の嬉笑して度なきは、即ち一家の規矩を丟掉せるなり。「嗃嗃」は厳厲を形容し、「嘻嘻」は嬉笑を形容し、「吝」は日に漸く鄙陋難堪を指す。

義曰:嗃嗃,過嚴之貌也;嘻嘻,和樂之貌也。夫治家之道不可專任其慈,雖至過嚴,終亦無所傷矣。今九三以陽居陽,有剛明至正之徳,居下卦之上,為一家之主者也。故為家之主若嗃嗃然嚴肅,使家人內外上下皆有畏懼之心,故雖有悔吝之事、危厲之道,亦得吉也。

「嗃嗃」は管束の厳厲に過ぐるのさまを形容し、「嘻嘻」は嬉笑逸楽のさまを形容す。家を治むるに一味に慈愛に依靠する能わず、たとい厳厲の頭を過ぐるも、終に根本を傷つくる能わず。九三は陽爻が陽位に居りて、剛健明察・極めて端正の品德を具備し、また下卦の最上の一爻に処し、まさに一家の主の位置なり。身は一家の主を為りて厳粛の人をして愁嘆せしむるの地步に至るも、家中の内外上下をして敬畏の心を存せしむれば、だからたとい些かの悔恨の事を招来し・危険の辺縁を走るも、最後はなお吉を得るなり。

婦子嘻嘻終吝者,夫婦子,人之所愛也。若為一家之主而私於所愛,不能嚴正其治,使婦子嘻嘻然和樂,則奸惡由此而萌矣。夫如是,至於終竟必有鄙吝之道也。象曰未失也者,言雖嗃嗃嚴厲,未失治家之道也。失家節也者,若婦子嘻嘻而和樂,是失其治家之節也。

「婦子嘻嘻、終吝」と言うは、妻子児女は本は人の最も疼愛する対象なればなり。若し身は一家の主を為りて所愛に偏私し、能く厳正に管教を施行せず、妻子児女を任憑して嬉笑して度なからしめば、邪悪は便ち此に由りて滋生せん。このように下去せば、到頭来れば必ず鄙陋難堪の地步に落ちん。《小象伝》の「未失也」は、たとい厳厲の人をして愁嘆せしむるに至るも、並びに治家の正道を丟掉せざるを講ずるなり。「失家節也」と言うは、一旦妻子児女をして嬉笑逸楽せしめば、即ち一家の応有の節度を丟掉するに等しきを講ずるなり。

六四:富家,大吉。象曰:富家大吉,順在位也。

六四の爻辞にいう。家庭をして富足せしめば、大いなる吉祥なり。《小象伝》の解釈。富家して大吉なるは、六四が柔順にしてまた応有の位置上に安処するがゆえなり。六四は陰爻が陰位に居りて、得正に属し、また上卦の下に在り、大臣の位なり。

義曰:夫初九既以剛明之徳居卦之初,能防微杜漸,使閨門之內不接於私邪,得正家之初也。六二又能以柔順之體居服勤之職,九三又能過嚴以畏懼其家人,是家道已成。至六四居大臣之位,是君子既正已之家,至此則佐君以正天下之家,故有君之爵祿之富以富其家而得其大吉也。象曰富家大吉順在位也者,六四家道已成之後,當大臣之位,上近於君,是順在其位,以治家之道移於國也,故《孝經》曰「居家理故治可移於國」也。

初九は剛健明察の品德を以て全卦の始めに処し、能く微に防ぎ漸に杜じて、内室をして私邪に沾染せしめざる、これは家道を端正するの開端なり。六二はまた柔順の質を以て操労侍奉の職分を担起し、九三はまた厳厲を以て家人をして心に敬畏を存せしむ。此処に到りて、家道はすでに建成せり。六四に到りては、身は大臣の位に居り、君子は先ず自らの家を端正し、此の時に便ち君主を輔佐して去りて天下の人の家を端正し、それによって君主の賜与するの爵位俸禄の富を享有して自家を富足せしめ、大吉を得るなり。《小象伝》の「順在位也」は、六四が家道すでに成りたる後に大臣を担任し、上面にまた君位に貼近し、柔順に自らの位置上に安処し、家を治むるの弁法を国を治むるの上に移用するを講ずるなり。だから《孝経・広揚名章》に「家に於いて能く家を治理して好くすれば、この份の治理の能は乃ち国家の上に移用すべきなり」と言うなり。

九五:王假有家,勿恤,吉。象曰:王假有家,交相愛也。

九五の爻辞にいう。君王は治家の道を天下の家に推極す、憂慮するに及ばず、自然に吉祥なり。《小象伝》の解釈。君王が治家の道を推極するは、天下の人をして彼此相親愛せしむるなり。「假」は此処では至る・推極するの意、「恤」は憂慮なり。

義曰:九五以剛明中正之徳居於君位,是謂王者能假此治家之道以治於天下者也。故先正其家,使閨門之內莫不一於正,正家而天下定,是為君者以此道而行,則不必憂恤而自得其吉也。象曰王假有家交相愛也者,言聖人能推恩愛於天下之家,父父子子、兄兄弟弟、夫夫婦婦,各以和順之道交相愛樂也。

九五は剛健明察にしてまた中に居りて正を得るの品德を具備し、君位の上に坐す、だから君王は能くこの套の治家の道を推広し開きて去りて天下を治理すと言うなり。彼は先ず自らの家を端正し、内室の上下をして一処も正に帰せざるなからしめ、家正しくして後に天下安定す。君主を為る者は此に照らして行えば、即ち憂心操労するに及ばずして自然に吉を獲得す。爻辞中の「假」はまさに憑借・推極の義。家を治むると天下を治むるは本は一箇の道理、家法は内室に於いて立ち得れば、邦国に推すも亦立ち得べきなり。《小象伝》の「交相爱也」は、聖人は能く恩愛を天下の毎一箇の家庭に推及し、父は慈に子は孝に・兄は友に弟は恭に・夫は義に婦は順にして、人人皆和順の道を以て彼此に親愛し相楽しむを講ずる、刑罰に倚りて駆使するにあらざるなり。

上九:有孚威如,終吉。象曰:威如之吉,反身之謂也。

上九の爻辞にいう。心中に誠信を懐きて外表は威厳にして畏るべし、最終に吉祥なり。《小象伝》の解釈。威厳にして畏るべくして吉を得るは、説く所は先ず反りて自身を端正するなり。「孚」は心の底より発するの誠信を指す。

義曰:孚者,由中之信;威,謂威嚴可畏。上九以剛明之才居家人之極,當家道之成,是能先正其身,發其信於中,而外兼之以威嚴,終成家道,使閨門之內肅然有序而畏敬之,故獲其吉也。象曰威如之吉反身之謂也者,言上九所以有威信而使人畏敬之者,蓋能先修其身而後加於人也。

「孚」は心の底より発するの誠信、「威」は威厳にして人をして敬畏せしむるを指す。上九は剛健明察の才を以て《家人》卦の最上位に処し、まさに家道成就の時に当たり、能く先ず自身を端正し、誠信を心裏より発し出し、外面にまた威厳を以て輔い、終に家道を成就し、内室の中をして整粛して序有り・人人敬畏せしむれば、だから吉祥を獲得す。《小象伝》の「反身之謂也」は、上九のすでに威信を有してまた能く人をして敬畏せしむる所以は、全く彼が先ず自身を修好せしめ、後に乃ち別人に施加するに在るを講ずるなり。

睽 兌下離上

睽:小事吉。

《睽》卦は下卦を兊(兌)と為し・上卦を離と為し、「睽」は乖违背離の意なり。卦辞にいう。乖違の時勢の裏に於いては、唯だ小事のみが乃ち吉を得べきなり。これは人心が離散し、大事は合力して為すに由なく、能く細小の処の和順を守住せば即ち不錯と算すればなり。

義曰:按《序卦》云「家道窮必乖」,故受之以《睽》。睽者,乖也,言家人之道既窮極,則必至於睽異而離散也。小事吉者,夫睽乖之時,上下之情既異,內外之志既乖,天下之人其心皆不同,於時雖有大才大徳之人,亦不能大有所為也。何則?夫君子之道,必將大有為則須上下協心,眾賢同力,無有異志,故發之天下而功業被於世也。今既睽乖,故但小事則可以得吉也。

《序卦伝》に言う。家道は尽頭に走れば必然に乖離す、だから《家人》の後に《睽》を接ぐ。「睽」は即ち乖違、治家の道が一旦窮極すれば、必然に彼此背離し各自離散に走向するを言うなり。いわゆる「小事吉」は、乖違の時に於いては、君臣上下の情意はすでに隔閡し・内外朝野の心志はすでに背離し・天下の人の心思は彼此相同ならざるがゆえなり。この種の時勢の裏においては、たとい大才大德の人有るも、大なる作為有る法なし。何を以てか。君子は大なる事業を成就せんと欲すれば、必ず上下同心・众多の賢者は合力し・異志なきを要し、これで天下に施行して、功業は乃ち世に覆被し得べきなり。今すでに人心は乖離せば、ならば只だ些かの小事を為してなお吉利を得べきのみなり。

彖曰:睽,火動而上,澤動而下;二女同居,其志不同行。說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉。天地睽而其事同也,男女睽而其志通也,萬物睽而其事類也。睽之時用大矣哉!

《彖伝》の解釈にいう。《睽》卦は上離は火を為して、火性は上に向かって燃動し、下兊は沢を為して、沢水は下に向かって流動し、両者は各々一方に奔る。離は中女・兊は少女、両箇の女子は一処に同住すれども、將来は各々嫁を為して人に従い、心志は並びに同帰せず。下体は和悦にして上体の光明に依附し、柔爻は上行して尊位に居り、すでに中位を得てまた剛爻と相呼応す、だから小事は吉を獲得すべきなり。天と地は乖隔なれども、万物を生養するの事業は却って相同なり。男と女は乖別なれども、結合して家を成すの心志は却って相通ず。万物の品類は乖異なれども、生に趨き死を避くるの情態は却って同類なり。乖違の時の用処は、真に大いなること甚だしきなりや。

義曰:睽,火動而上,澤動而下者,此釋所以得睽之名也。火本炎上,澤本潤下,水火相資,然後能成功而利萬物也。今乃火動於上,水又動於下,水火不相資,是有睽乖之義也。二女同居,其志不同行者,離為中女,兊為少女,女子之生長必從人,此天理之常也。今二女同居,必有從人之志,是其志不同行,亦睽異之義也。

「火動而上、沢動而下」は、この一卦が何を以て「睽」と呼ぶかを解釈す。火の本性は上に向かって燃焼し、沢水の本性は下に向かって浸潤し、水火は互相に憑借し彼此に調剤して、乃ち功用を成就して万物に利益す。今、火は只管上に向かって動き、水は只管下に向かって動き、両者は互相に憑借せず、これ即ち乖违背離の意味有るなり。「二女同居、其志不同行」は、離卦は中女を象徴し・兊卦は少女を象徴するがゆえなり。女子は長ずれば総に嫁いで人に従う、これ常理なり。両箇の女子は一屋に同住して、各々各々の帰宿の念有り、心志は自然に同路ならず、これも亦乖離の意なり。

說而麗乎明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以小事吉者,言暌之時所以得小事之吉者,下以兊說而上以離之大明,猶君子以說順之道而附於大明之人,而又以柔進居至尊之位,所行所為正合於中道,無過無不及,又且下應於九二剛明之臣。夫如是,故小事所以得其吉也。

「説而麗乎明、柔進而上行、得中而応乎剛、是以小事吉」は、乖違の世に於いてなお小事の上に於いて吉を得るの道理を講ずるなり。此処に用うるは「卦徳」、即ち上下両体の各々の性情。下体兊は和悦、上体離は光明。これ譬えば君子が和悦順従の態度を以て去りて一位の明察の君主に依附するがごとし。これに加えて六五は柔爻を以て上行して至尊の位に居り、一挙一動に皆中道に合して、過分ならず亦不及ならず。また下に向かって九二この剛健明察の臣子と相「応」ず――《周易》の言う所の「応」は、初と四・二と五・三と上のこの三組の位次上に於いて陰陽は相配して彼此に呼応するを指すなり。このようの条件有れば、だから小事は能く吉を獲得すなり。

天地睽而其事同也者,此以下廣明睽之義也。言睽之道有自然而合者,若天以髙而處上,地以卑而處下,是睽也,然而陰陽之氣交則生成之事同也,故曰天地暌而其事同也。男位乎外,女位乎內,是睽也,然而相資而成一門之治,則是其志通也,故曰男女睽而其志通也。萬物眾多,品類不同,是睽也,然而好生惡死,樂安懼危,則是其事類也,故曰萬物睽而其事類也。睽之時用大矣哉者,睽乖之世小人眾多,然順時而動者惟大才大徳之人能之,故先聖於此重嘆美之也。

「天地睽而其事同也」以下より、更に進んで乖違の中に自ら相合の処有るを闡明す。天は高く上に在り・地は低く下に在り、位置は乖隔なり。しかし陰陽の二気は一たび交感すれば、万物を化育するの事業は却って完全に一致す、だから天地は乖なりと雖も其の事は相同なりと言うなり。男子は外を主とし・女子は内を主とし、分位は乖別なり。しかし彼此に憑借して共同に一家の治理を成就すれば、心志は便ち相通ず、だから男女は乖なりと雖も其の志は相通ずと言うなり。万物は数量众多・品類各異にして、形態は乖異なり。しかし生を好み死を惡み・安穏を楽しみ危険を畏懼するの情状は、却って同一類なり、だから万物は乖なりと雖も其の事は同類なりと言うなり。「睽之時用大矣哉」に至っては、乖違の世は小人众多にして、能く時勢に順応して動き・離乱の中に於いて人心を收拾するは、唯だ大才大德の人のみが弁じ到るを得れば、だから先聖は此処に於いて再三これを讃嘆す。

象曰:上火下澤,睽。君子以同而異。

《大象伝》にいう。上体は火・下体は沢、火は昇り水は降る、これ即ち《睽》卦の取象なり。君子は此に取法し、人と和同に相処するの同時に、仍として自らの苟合を肯んぜざるの独立操守を保有す。

義曰:火在上,澤在下,二者不相資,故有睽乖之象。夫睽異之時,小人眾多,皆欲加害於君子,故君子與之和同,然外雖和同,內之所存則異也。

火は上に在りて炎上し、沢は下に在りて潤降し、両者は互相に憑借せず、だから乖違の象有るなり。乖離の時勢の裏においては、小人は数を為して众多にして、皆君子を加害せんと欲す、それによって君子は表面上は彼らと和同に相処して、対立を激化し去らず。但し外表は随和すると雖も、内心の守る所の操持は彼らと截然として不同なり。これ即ち「同而異」の分寸なり。

初九:悔亡。喪馬勿逐,自復。見惡人,無咎。象曰:見惡人,以辟咎也。

初九の爻辞にいう。悔恨は消失す。馬を喪失するも逐うに及ばず、それは自ら帰り来らん。凶悪の人に見えば、過咎有ることなからん。《小象伝》の解釈。凶悪の人に見ゆる所以は、眼前の災禍を避けんがためなり。「辟」は「避」に通ず。

義曰:初九居一卦之下,當睽乖之時,上無其應,本有悔者也。然而九四亦無正應,故與初心志相合,逺而相得,其悔所以亡也。喪馬勿逐自復者,馬者至彰顯之物,當睽之時,人心既已乖離,雖喪失彰顯之物,必無有私匿之者,故雖勿逐當自復也。

初九は全卦の最下位に処し、また乖違の時に遇い、上面にそれと相応ずるの爻なし、本來は悔恨有るべきなり。しかし九四も亦同じく正応なし、両爻は同病して相憐れみ心志は相合し、相隔たること遥遠なりと雖も彼此に投契し、悔恨は此に因りて消失す。いわゆる「喪馬勿逐、自復」は、馬は極めて顕眼の大牲口なればなり。乖離の時に当たりて人心はすでに各々相顧みず、たといこのようの顕眼の物を丟失するも、亦人の私に藏匿する者有らざらん、だから去りて逐うに及ばず、それは自然に帰り来らん。

見惡人無咎者,夫險惡之人,其用心皆欲陷害於君子,況睽乖之時小人熾盛,苟不和同而接見,必罹其所害,故見之乃無咎也。象曰見惡人以辟咎也者,夫君子進用於朝,道行天下,則斥逐小人無所畏忌;時既睽乖,雖其惡人亦禮下而接見之,所以避一時之咎也。

「見悪人、无咎」と言うは、陰険凶悪の徒は心を存して皆君子を陥害せんと欲す、まして乖違の時に於いては小人の気焔は正に盛んなればなり。若し彼らと表面上相処するを肯んぜず・接見を拒絶すれば、必然に彼らの毒手を招来せん、だから肯んじて一見すれば返って過咎なきなり。《小象伝》の「以辟咎也」は、君子は若し朝廷に於いて位を得・道は天下に行われれば、自然に小人を斥退して顧忌する所なかるべしと講ずるなり。今、時勢は乖離し、たとい凶悪の人なるも亦礼を以て相待し・見ること一面せん、為す所は眼下のこの一時の禍患を避くるに在りなり。

九二:遇主于巷,無咎。象曰:遇主于巷,未失道也。

九二の爻辞にいう。小巷の裏に於いて君主と相遇う、過咎なし。《小象伝》の解釈。小巷に於いて相遇うは、並びに君子の道を失掉せざるなり。「主」は九二の応ずる所の六五の君を指し、「巷」は曲折して狭窄の小道なり。

義曰:巷者,委曲不正之道也。君子當治平之世,斥逐小人,則可坦然由正道而行;若睽乖之時,人心不同,群小黨盛,皆欲加害於君子,故此九二與五為應,以五為主,不敢顯然相遇於明坦之途,顯然遇之則為小人之所害,但遇之於委曲隘狹之道,乃得無咎。象曰遇主于巷未失道也者,蓋睽之時不可顯然而行,雖由委曲隘狹之巷而得遇於主,亦未失君子之道也。

「巷」は曲折にして正ならざるの小路を指す。君子は太平の世に生れれば、小人を斥退して、坦然として大道上を走るべし。しかし乖違の時に遇上すれば、人心は各々異なり、小人は党を結び勢盛んにして、皆君子を加害せんと欲す。九二と六五は本は相応ずるの一対、六五を以て自らの君主と為すも、敢えて公然と光天化日の大道上に於いて相会せず――公然として相会せば即ち小人に中傷せられん――只だ曲折狭窄の小路上に於いて相見ゆる能くするのみ、これで乃ち過咎なきなり。《小象伝》の「未失道也」は、乖違の時は張揚して行事するに宜しからず、たとい曲折狭窄の小巷を経由して去りて君主に見ゆるも、亦並びに君子の守るべきの正道を丟掉せざるを講ずるなり。留意すべきは、小巷を走るは只だ形跡上の迂回して禍を避くるのみにして、君臣相合する所の憑るは仍として正応の道なり。若しこれを進身を求めて道を枉げて逢迎すると読成せば、即ちこの一爻を誤解せるなり。

六三:見輿曵,其牛掣,其人天且劓,無初有終。象曰:見輿曵,位不當也;無初有終,遇剛也。

六三の爻辞にいう。眼看して車子は拖住せられ、車を拉くの牛は牽掣せられ、車を赶くの人はなお髡髪と割鼻の刑を遭受す。初めは順ならず、最終は却って好結果有り。《小象伝》の解釈。車は拖住せらるるは、六三の処する所の爻位が当ならざるがゆえなり(陰爻が陽位に居る)。初めは順ならずして最終に成る有るは、終に剛健明察の上九に遇上するがゆえなり。

義曰:輿,所以載物而行也。六三以陰居陽,履失其正,上有上九之剛為己之應,己得往而應之;然睽異之時,履於不正,則上下皆欲害之,故若其輿為人之牽曵,其牛為人之拘掣也。其人天且劓者,天當作而字,古文相類,後人傳寫之誤也。然謂而者,在漢法有罪髠其髮曰而;又《周禮》梓人為筍簴作而,亦謂髠其髮也。其人即謂九二九四也,以六三履非其正,皆欲害之,故或來髠其髮,或來劓割其鼻也。

「輿」は即ち物を載せて行走するの車子なり。六三は陰爻なるも却って陽位に居り、踏む所の位置は正を失せり、上面に上九この一剛爻有りて其の正応と為し、本來は前往して相応ずべきなり。但し乖違の世に於いてまた立身正ならず、上下の人は皆それを加害せんと欲すれば、だから車子の人に拖住せられ・牛の人に牽掣せらるるがごとく、寸步も行くこと難し。「其人天且劓」に至っては、胡瑗は以為す、「天」の字は応に「而」の字と作るべく、古文の両字は形近くして、後人の伝抄の誤なり。「而」は漢代の刑法中に於いては鬚髪を剃去するの刑罰を指し、犯罪者の髪を剃るを「而」と呼び、《周礼・考工記》の梓人が鐘磬を懸挂するの笋簴を制作すれば、其の上に刻むの獣形も亦「而」の字を用い、同じく毛髪を剃去するを指すなり。「其人」は指す所は即ち九二と九四のこの両爻。六三は立身正ならざれば、両爻は皆それを害せんと欲し、於是乎一箇は来たりて其の頭髪を剃り、一箇は来たりて其の鼻を割るなり。

無初有終者,六三本以正應於上九,以其履不得正,故小人皆來害之。上九既見六三為小人之所害,故亦疑之,不與六三之從已,是無初也。然六三本以至誠而應上九,初雖不與之應,然其有剛明果斷之才,故終則明知六三之誠而與之應,是有終也。象曰無初有終遇剛也者,言初為上之見疑,然終則知已之誠而與之應,是六三所遇得剛明之人也。

いわゆる「无初有終」は、六三は本來上九と正応を結成すれども、只だ立身正ならざれば、小人は皆来たりて加害すを言うなり。上九は六三が小人に糾纏せらるるを見て、亦それに対して疑心を起し、六三の帰附を接受するを肯んぜず、これ即ち「无初」――起頭は順ならず。しかし六三は本は至誠の心を以て去りて上九に応ずるなり、初めは拒絶せらるると雖も、但し上九は剛健明察・果断に事を決するの才具を具備し、最終に六三の誠意を看清してそれと相応ず、これ即ち「有終」――終に好結果有るなり。《小象伝》の「遇剛也」は、六三は初めは上九に猜疑せられ、到後に上九はそれの誠心を明白にしてこれと相合す、見るべし六三の遇う所は一位の剛強明察の人なり。

九四:睽孤,遇元夫,交孚,厲無咎。象曰:交孚無咎,志行也。

九四の爻辞にいう。乖違の世に於いて孤立して援なきも、却って志同道合の善士に遇上し、彼此に誠信を以て相交る。危険の境地に処すと雖も、却って過咎なきなり。《小象伝》の解釈。誠信を以て相交りて過咎なきは、心中に存する所の志向が施行を得たるがゆえなり。「元夫」は初九を指し、「孚」は誠信なり。

義曰:九四當睽乖之世而無應獨立,是睽之孤者也。元夫,謂初九也。初九以剛明之才處下卦之下而無正應,今九四亦無正應,是其心志相同,體類相契而為配偶也。交孚者,九四初九既不以正而合,是必傾至誠至信以交相待也。厲無咎者,九四雖與初以信相交,然彼此皆不正,故須必常若危厲,則可以免其咎悔也。象曰交孚無咎志行也者,夫當睽乖之時,果無應則所存之志不得行矣,今四乃與初以道相應,是其志得行也。

九四は乖違の世に生れて正応なく、孤零零として独立す、だから「睽孤」と叫ぶなり。「元夫」の指す所は初九なり。初九は剛健明察の才を以て下卦の最下位に処し、亦正応なし。九四も亦同じく正応なし、両者は心志相同・類性相契して、於是乎配偶のごときの同道を結成せり。いわゆる「交孚」は、九四と初九は本は正応の礼に按じて配合せらるるにあらず、只だ至誠至信を傾尽して彼此に相待する能くするのみなり。いわゆる「厲无咎」は、九四は初九と誠信を以て相交ると雖も、但し両爻は各自立身して皆端正と算せず、だから必ず時時に危境に臨むがごとく・戒懼して懈らざれば、乃ち咎悔を免去し得べきなり。《小象伝》の「志行也」は、乖違の時に若し当に応援なければ、胸中の志は施展する由なしと講ずるなり。今、九四は初九と道に依りて相応ずれば、志向は便ち推行を得たるなり。

六五:悔亡,厥宗噬膚,往何咎。象曰:厥宗噬膚,往有慶也。

六五の爻辞にいう。悔恨は消失し、自家の宗党は柔嫩の皮肉を咬開するがごとく轻易に阻碍を清除す、前往して何の過咎あらんや。《小象伝》の解釈。宗党は柔肤を咬くがごとく梗阻を除去す、前往すれば必ず喜慶有らん。「厥宗」は六五と相応ずるの九二を指し、「噬肤」は為すこと極めて容易なるを比喻す。

義曰:六五以陰居陽,履於不正,本有悔者也,然居至尊之位而下應九二之剛陽,故其悔所以亡也。厥宗噬膚者,宗謂九二也。九二既為已之正應,則是已之宗黨也;膚者,柔脆之物,易於噬齧者也。九二本以正而應己,然當睽乖之時,眾皆來肆害於己,故九二之宗排斥此陰邪不正之小人,使之不為害,是易於噬柔脆之物也。

六五は陰爻が陽位に居りて、立身は本は端正と算せず、理に照らせば悔恨有るべし。しかしそれは身は至尊の君位に処し、下面にまた九二この一剛陽の爻と相応ずれば、だから悔恨は消失を得たるなり。いわゆる「厥宗噬肤」。「宗」の指す所は九二。九二はすでに六五の正応なれば、即ちその同宗の党羽に等しきなり。「肤」は柔軟脆嫩の物、咬み起るに毫も力を費さず。九二は本は端正の道を以て上に六五に応ずるも、乖違の時は众多の小人は皆来たりて肆意に君に加害せん。於是乎九二この位の宗党は出面してそれらの陰邪不正の小人を排斥し、彼らをして君を害する能わざらしむ、為し起れば即ち一塊の嫩肉を咬開するがごとく容易なり。

往何咎者,言九二既以至誠來應於己,己往而應之,又何咎哉。象曰厥宗噬膚往有慶也者,言六五之應既在九二,而為小人之間廁,故九二終能噬齧之,不妨己之路,若往而應之,則不惟相合,而又有喜慶之事也。

「往何咎」と言うは、九二すでに至誠の心を以て上に応合し来れば、六五は前往してそれと会合するに、なお何の過咎あらんやと講ずるなり。《小象伝》の「往有慶也」は、六五の正応は本は九二に在り、中間は却って小人に插足阻隔せられ。九二は終にこれらの梗阻を咬穿して除去し、君王が自らと会合するの道路を妨礙せず。六五は前往して相応ずれば、但だ君臣が能く志を合すのみならず、なお可喜可慶の結果を帯来せんと講ずるなり。

上九:睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧,後說之弧,匪冦婚媾,往遇雨則吉。象曰:遇雨之吉,群疑亡也。

上九の爻辞にいう。乖違は極処に到りて孤立し、一頭の污泥を背に満てる猪を見、また一車子の鬼を見る。先ず弓を張りて射んと欲し、随って後に弓を放下す。来たるは並びに強盗にあらず、而も求婚の親家なり。前往して和潤の雨に遇上せば、即ち吉祥なり。《小象伝》の解釈。雨に遇いて吉を得るは、種種の猜疑が皆消散するがゆえなり。「説」は此処では「脱」と読み、卸下・放下なり。

義曰:四以無正應而曰睽孤,今上九處卦之終,是睽乖之極者也。睽乖之極,雖有其道亦不能通,故亦曰睽孤。豕本不潔之物,而又負其泥塗,是穢之甚者也。言六三為己之正應,而在九二九四之間,故已之視乎六三必有猜貳之心、狐疑之惑,若視豕之負塗然,穢惡之甚也。

九四は正応なきがゆえに「睽孤」と称せられ。上九は全卦の末尾に処し、乖違は極点に到り、たとい相応ずるの爻有るも亦通達する法なし、だから同じく「睽孤」と称す。猪は本来即ち不潔の物、まして背上にまた污泥を沾満せば、あれは髒れること極点に到れり。これは六三が本は上九の正応なりと雖も、却って九二・九四の両箇の陽爻の間に夾るを言うなり。上九は六三を見て、心裏は必ず猜忌両端・狐疑不定の念頭を生出し、即ち一頭の污泥を背負うの猪を見るがごとく、それを汚穢不堪と覚ゆるなり。

載鬼一車者,鬼者虛無而不可見也,車之所不可載者也。今上九見六三在九二九四之間,故疑其穢惡,若見一車之鬼,是其造虛成實,以無為有,妄偽之甚也。先張之弧者,言六三本為己之應,今既廁於二陽之間,故上反疑之,張其弧矢欲以攻之也。

「載鬼一車」と言うは、鬼は虚無縹緲にして・見えも触れもせず、本来即ち車子の能く装载するの物にあらざればなり。上九は六三が九二・九四の間に夾るを見て、便ちそれを汚穢不正と疑心し、満満たる一車の鬼を見るがごとし――これは虚幻を事実と当成し・なきのを有ると説成す、猜忌は荒謬の極点に到れり。「先張之弧」と言うは、六三は本は上九の正応なりと雖も、今は両箇の陽爻の中間に夾り、上九は返ってそれに対して疑心を起し、弓箭を張開してそれを射んと欲すを講ずるなり。

後說之弧者,上卦為離,離為火,火性至明,上九處離之極,明之至者也;下卦為兊,兊為水,水性至潔,六三處兊之極,至潔者也。六三本以至誠來應於己,為小人之所廁,至於致疑,然上九以至明之性,故終能察六三之至清而審其至誠,遂說去其弧而與之會合也。

「後説之弧」と言うは、上卦は離にして、離は火を象徴し、火性は最も明亮、上九はまた離体の頂端に処し、明察の極処に到れるなり。下卦は兊にして、兊は水を象徴し、水性は最も潔浄、六三は兊体の頂端に処し、潔浄の極処に到れるなり。六三は原本至誠の心を以て前来して相応ずれども、只だ小人に中間に插たれて猜疑を招致せり。上九はすでに極めて明察の本性有れば、終に六三の清白を看清し・其の誠意を審明し、於是乎弓箭を卸下し、それと会合す。

匪冦婚媾者,六三本以正道應己,然以二陽所間,故不得會合,今既察明六三之情偽,是雖讒言不能間之而終得會合也。往遇雨則吉者,雨者陰陽之和也,今上九之陽合於六三之陰,則是和而得吉也。象曰遇雨之吉群疑亡也者,言上九始以小人之讒間六三,故疑之而不與之應,然上九有剛明之徳,知六三以至誠而來應,遂不疑而與之會遇和合,是群疑亡也。

「匪冦婚媾」と言うは、六三は本は正道を以て来たりて上九と相応ずれども、只だ両箇の陽爻に隔断せられて会合する能わざるがゆえなり。今、上九はすでに六三が真誠なるや虚偽なるやを看清せれば、便ち讒言なるも亦彼らを離間する能わず、最終に結合を得たるなり。「往遇雨則吉」と言うは、雨は陰陽が交感して和合するの産物なればなり。上九の陽と六三の陰と相合すれば、まさに陰陽調和して吉を得るの象徴なり。《小象伝》の「羣疑亡也」は、上九は初めは小人の讒言を聴信して六三を疏远し、それによって猜疑して相応ずるを肯んぜざりしを講ずるなり。但し上九は剛健明察の品德を具備し、終に六三が至誠を以て帰するを明白にし、於是乎疑慮を打消してそれと相会して和合す、種種の猜疑は此に就きて煙消雲散せり。

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