Libo

随 震下兌上

宋 · 胡瑗 · 第11巻 / 51

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

隨:元亨利貞,無咎。

《随》卦の卦辞は言います。「元亨利貞」の四徳を具えて、はじめて過錯を免れ得ます。「元亨利貞」は天地が万物を生成する四種の徳性で、元は開創、亨は通達、利は和宜、貞は正固です。

義曰:按《序卦》云:豫必有所隨,故受之以隨。言聖賢在上,旣得天下之悅豫,必皆樂而隨之也。然謂之隨者,兌上為說,震下為動,是聖賢動順民心,則天下皆悅樂而隨之也。元亨利貞者,此天地之四德也。凡聖賢之人慾天下之隨已,故當修天地生成之四德,然後可以使天下皆悅而隨之,則可以免咎也。

胡瑗の解説:《序卦伝》は言います。和楽の後に必ず追随あり。故に《豫》卦の後は《随》卦に接ぐ。これは聖賢が上に在り、すでに天下の歓悦を獲得した以上、衆人は必然に彼を追随するを楽しむということです。随と呼ぶ所以は、上卦の兌が喜を主り下卦の震が行動を主り、聖賢の挙動が民心に順応すれば、天下人は歓喜して従うからです。いわゆる開創・通達・和宜・正固は、天地が万物を生成する四種の徳性です。凡そ聖賢が天下人に自分を追随せしめんと欲すれば、天地のこの四種の化育の徳を修養して、然る後にはじめて天下人を心から悦服して従わせ得て、また過錯を免れ得るのです。

凡人將隨於人者,亦當審其所隨之人有此元亨利貞之四德,能生成於民物者,然後隨之,則得其所安而獲其無咎也。是隨之道,必以此四德兼備,然後可以求人之隨及隨於人也。

反対に言えば、一人が他人を追随せんと打算するも、また応に先ず追随せんとする対象が開創・通達・和宜・正固のこの四種の徳性を具えるか否か、真に百姓を養育し万物を成就し得るか否かを看清みて、然る後に追随して、こうしてはじめて身を安んじ命を立てて差錯を出さずに済みます。見れば分かるように、追随の道は、必ず四徳を斉備してはじめて、他人に自分を追随するを求め、あるいは自分が他人を追随することを言えます。

彖曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞無咎,而天下隨時。隨時之義大矣哉!

《彖伝》は言います。《随》卦が随たる所以は、陽剛の体が下降して陰柔の下に居り、下卦は震動して上卦は兌悦で、一たび動けば人を喜ばせ、人は自然と追随します。大いに通達し正を守って過錯なく、こうして天下人は皆時に及んで追随します。時勢に随順する道理は、実に重大です。

義曰:剛來而下柔,動而說隨者,此就二體以釋其義。夫震以動,其性剛;兌以說,其性柔。今震在兌下,是剛來而下於柔也。猶聖賢君子以至剛之德、至尊之位、至貴之勢接於臣而下於民,故賞罰號令一出於上,則民皆悅然隨於下也,故曰剛來而下柔,動而說隨。

胡瑗の解説:陽剛が下降して陰柔の下に居り、一たび動けば人を喜悦せしめて追随を生ずると言うのは、これは上下両体から卦義を解釈します。震は動を主り、その性は剛に属し、兌は悦を主り、その性は柔に属します。今、震は兌の下にあって、すなわち陽剛が下降して陰柔の下に居ります。これはちょうど聖賢君子が至剛の徳を懐き至尊の位に居り至貴の勢を握りながら、身を屈して臣子を接納し百姓に俯就することを肯ずるがごときなので、賞罰号令が一たび上から発せられれば、下の人は皆欣然として追随します。それゆえ剛者が柔の下に居り、一たび動いて人を悦服せしめ、こうして追随があると言います。

大亨貞無咎而天下隨時者,此釋元亨利貞之四德也,言有是四德兼備而無其咎過,則天下之人盡將奔走匍匐及時而隨之矣。隨時之義大矣哉者,言隨時之義至大,非大才大智有上四德之人,必不能使天下之民悅而隨之也,故先聖於此重嘆美之也。

大いに通達し正を守り過なくして天下が時に及んで追随すると言うのは、これは開創・通達・和宜・正固のこの四徳を解釈するので、四徳を具えてかつ過失がなければ、天下人は奔走して駆け来り俯身して帰附し、時に及んで彼を追随します。末句が時に因って随う意義の大を讃嘆するのは、この道理が極めて重大で、才略が宏大で智慮が深遠でかつ上述の四徳を兼具する人でなければ、断じて天下の百姓を心悦誠服して追随せしめ得ないので、先聖はここで再三称美したのです。

象曰:澤中有雷,隨。君子以嚮晦入宴息。

《大象伝》は言います。雷が大沢の中に潜蔵して、時機を待って然る後に動く、これが《随》の卦象です。君子はこれに取り法って、天色が晩に向かえば内に入って安歇休息します。

義曰:雷在澤中,是待時而動,若雷之一奮,則萬物皆隨而震動,是隨之象也。君子以嚮晦入宴息者,此當有二義。言隨之時必當慎其所以為隨之道,不可輕動,必須待其人有是四德之備而後隨之。雖然,亦未可以顯然而從之,固當韜光養正,向於隠晦之中以自安息,而詳審其人使可以隨,然後往而隨之,則得其道也。

胡瑗の解説:雷は沢中に伏して、時機を待ってはじめて発動し、一旦雷の声が奮起すれば、万物は皆それに随って震動する、これがすなわち随の卦象です。君子が晩に向かえば内に入って休息するという句に至っては、その中に二層の意思を含みます。頭の一層は言います。追随の時に居っては、必ず追随の道に対して格外に慎重で、軽挙妄動してはならず、必ず相手が確かに四徳を具えるのを待って、はじめて追随に行くべきです。縦使このようであっても、なお張揚して投奔しに行くに宜しくなく、鋒芒を収斂し正気を涵養して、幽隠の処に退いて自分を安頓し、あの人を仔細に審察し清らかにして、追随すべきことを確認して後、更に往って追随して、これがはじめて道理に合します。

苟不擇其人,又且顯然而往,至於中道有所不至,則其為患不細矣,故《論語》曰:朋友數斯疎矣,事君數斯辱矣,是也。又若君子欲人隨於已,亦當韜光濳德,向於冥晦之中,使其元亨利貞四德之備,則天下之人自然隨之也。故君子之隨於人者,若伊尹起莘而隨湯,太公起海濱而隨文王,七十子之隨仲尼,皆得其為隨之道也。

假如選択を加えずに貿然と往き、また姿態を極めて張揚に擺せば、一旦中途で相手が合意でないことを発覚したとき、惹き出す麻煩は少なくありません。ですから《論語》は言います。朋友に対して親昵煩絮に過ぎれば、かえって疎遠され、君主に事えて進言が頻繁に過ぎれば、かえって自ら辱を取ります。第二層の意思は、君子がもし他人に来て自分を追随せしめんと希望すれば、また応に光芒を斂蔵し徳性を潜養して、幽暗の中に退処して、開創・通達・和宜・正固の四徳を修養完備すれば、天下人は自然と来て追随します。君子が他人を追随した範例に至っては、伊尹が莘野から出て成湯を追随し、姜太公が海濱から出て文王を追随し、孔門の七十弟子が孔子を追随した如きは、皆追随の道に合します。

故先聖於象辭以戒後人,凡隨之道尤宜重愼也。註疏謂物皆說隨,可以無為,不勞明鑑。且凡聖人在上,天下未隨之時,則當焦心勞思以治之;及天下既隨之後,則亦當憂勤而思所以安之之道,豈有物既隨而荒怠佚樂、無憂勤之志者哉?

ですから先聖は《大象》の裏で後人に告戒します。追随のこの事は尤も応に慎重であるべきと。旧有の注疏は万物が皆欣然として相随えば、君主は以て為す所なく神明察を労せずともよいと言いますが、この講釈は妥当でありません。聖人が上に在って、天下がまだ帰附しないときは、固より苦心焦思して治理せねばならず、天下がすでに帰附したときに及んでも、同じく憂労勤勉して、人心を安頓する道を謀求せねばなりません。どこに万物がすでに帰附すれば、すなわち荒廃懈怠して安楽に耽り、更に憂勤の志を存せぬ道理がありましょうか。

初九:官有渝,貞吉,出門交有功。象曰:官有渝,從正吉也;出門交有功,不失也。

初九の爻辞は言います。素来把守した主張に変通する所有れば、正を守って吉を得て、門を出て行って人と結交すれば、功效を建立し得ます。《小象伝》は言います。主張に変あって正道に帰依すれば、吉を得る所以です。門を出て結交して功あるのは、自分の立身する所を失わなかったからです。

義曰:官,主守也;渝,變也。大凡人素有所主守,確然持一節不變者,當隨之世,則必觀時量勢而變其前之所守,則其人之可從者決然往而隨之可也。今初九居隨之時,當動之始,固宜易所素守,擇其人而隨之也。旣欲擇其人,則必視其有四德之備、大賢大正之人使可以隨之,則隨之則於正道得吉也。出門交有功者,言不能韜光晦跡拱黙以待其人,而已出門矣,則必擇其有功者然後交之,乃可以獲安而不失其所也。

胡瑗の解説:官は、主守する立場を指し、渝は、変通です。大凡一人が平素固守する所有って、死にも一節を抱き定めて改変を肯んじないけれど、追随を講ずる時代に至っては、必ず時勢を審し度を計って、従前の固守を略か変通しなければなりません。確かに従うに値する人に遇えば、毅然として往って追随します。初九は《随》卦の初に居り、まさに行動の開端に当たり、もとより応に素来の執守を改易して、合適の人を選択して追随すべきです。すでに選択する以上、相手が四徳を斉備するか否か、大賢大正の人と称し得るか否かを見て、追随すべきことを確認して後に追随すれば、このようにすれば正道に合して吉を得ます。門を出て結交して功あると言うのは、もし行跡を斂蔵し拱手静默してあの人を待つことを為し得ず、すでに門を邁げ出た以上、それならば必ず真に事功の建樹ある人を挑選して然る後にそれと結交して、かくの如くしてはじめて安穩に自処して立身の地を失わないことを指します。

象曰官有渝從正吉者,大凡人之守節,確然執一而不能通變者,未可以語聖賢之道也。夫聖賢之道,隨時通變,無所執泥,當可隨之時,雖素有所主,亦必擇其人之善者而從之也;若時不可動而人不可隨,則退而固其所守,以道自處也。然雖去就不同,但從於正則吉也。

《小象伝》が主張に変あっても正道に帰依したので吉を得ると言うのは、凡そ節を守るに一端に執定して変通を解さぬ人は、なお聖賢の道を談ずるに足りません。聖賢の做法は時勢に随って霊活に権変して拘泥固執せず、追随すべき時機に碰えば、縦使平素別に主張があっても、その中の良善の人を挑選して従いに行き、もし時勢が行動に宜しくなく相手が追随するに値しなければ、それならば退き帰って自分の操守を守牢にし、道義を以て自身を安頓します。出処進退は同じでないと雖も、帰依する所が正道であれば、結果は皆吉です。

六二:係小子,失丈夫。象曰:係小子,弗兼與也。

六二の爻辞は言います。底下のあの若い人に牽係すれば、上面のあの成年男子を失います。《小象伝》は言います。若い人に牽係するのは、両頭が同時に兼顧し得ないからです。

義曰:小子謂初九也,丈夫謂九五也。大凡陰柔不能自立,必得剛陽之人以繫之則可也。今六二居隨之時,與九五為正應而最逺之,初九非其應而切近之,故已以陰柔之質因而附於初,是失九五之丈夫而繫初九之小子也。然則六二履於中正,何繫乎非應?蓋陰弱而無常守故也。

胡瑗の解説:小子は初九を指し、丈夫は九五を指します。大凡陰柔の質は自立できず、必ず陽剛の人に依托してはじめて行えます。六二は《随》卦の時に居り、九五ともとより正しく相対応する一対ですが、相隔たるが最も遠く、初九はそれの正応ではないけれど、身辺に近在します。ですから六二は柔弱の質を以て勢に順って初九に依附して、九五という丈夫を抛き去り初九という小子に牽係したに等しいです。すでに六二は中に居り正を守るのに、なぜかえって相応せぬ爻に牽係するのでしょうか。陰質が柔弱で恒久不移の操守に缺少するからです。

夫以不定之性而又居隨之時,是必舍逺而繫近矣。然所以不言凶者,蓋聖人於此戒之,謂其尚有從正之道,若能繫於九五而舍於初九,則不至於凶咎也。象曰係小子弗兼與者,言繫於初則失五,繫於五則失初,從此則失彼,從邪則失正,是不可以兼與也。

このような揺擺不定の性情を以て、また人人が相随う時に居れば、自然と遠を捨て近を求めます。爻辞が凶と断じなかった所以は、聖人がここに告戒の意を留めたからです。六二は畢竟なお正道に帰依する余地があって、もし改めて九五に牽係し初九を放開し得れば、凶を招くに至りません。《小象伝》が両頭は兼ね得ないと言うのは、初九を係えれば九五を失い、九五を係えれば初九を失い、こちらに従えばあちらを丢き、邪路に従えば正路を失うので、終に両全し得ないということです。

六三:係丈夫,失小子,隨有求得,利居貞。象曰:係丈夫,志舍下也。

六三の爻辞は言います。上面のあの成年男子に牽係し、底下の若い人を失います。このように追随すれば、求める所に得る所有りますが、正道に安処するに宜しいです。《小象伝》は言います。丈夫に牽係するのは、六三の心志がすでに下のあの一頭を捨棄したことを言います。

義曰:丈夫謂四也,小子亦謂初也。六三亦以柔弱之質不能自立,必得剛陽之人以隨之也。上既近於四而下又逺於初,是以隨九四之丈夫而失初九之小子也。隨有求得者,言隨之時,六三上無正應,九四又下無正應,是兩無所繫而又相比,今六三往隨之,是所求有得也。

胡瑗の解説:ここの丈夫は九四を指し、小子はなお初九を指します。六三も同じく柔弱の質を以て自立できず、必ず一位の陽剛の人に依托して追随に行かねばなりません。それは上に九四に緊隣し、下に初九から離れるが較遠なので、九四という丈夫を追随して初九という小子を失いました。追随して求める所に得あると言うのは、この追随の時に、六三は上に正応なく、九四も下に正応なく、両爻が皆牽係する所なくかつ彼此緊隣するので、今、六三が往って彼を追随すれば、求める所は自然と収穫あるからです。

利居貞者,言六三、九四皆非所應,今既相從,必以正道乃獲其利而無凶咎之事也。是以凡師友朋黨之間所相隨者,必皆以正則可以全其終也。故仲尼曰:居是邦也,事其大夫之賢者,友其士之仁者。蓋言必得正人端士,然後可以相從也。

正道に安処するに宜しいと言うのは、六三と九四は本来正応ではなく、今すでに相従した以上、必ず正道を歩んで、はじめて好処を得て凶禍を出さないからです。ですから凡そ師徒・朋友・同道の間の相互追随は、必ず正を以て相处して、はじめて善終を保全し得ます。孔子は言ったことがあります。一つの邦国に住すれば、そこの賢良の大夫に事え、そこの仁厚の士人と結交せよ。講ずる所はまさに必ず端正正派の人を見つけて、然る後に彼此相従することを談じ得るのです。

九四:隨有獲,貞凶。有孚在道,以明,何咎?象曰:隨有獲,其義凶也;有孚在道,明功也。

九四の爻辞は言います。追随して収穫する所有っても、もし一味に己が為に据えれば、たとえ自守しても凶険があります。ただ誠信を心に懐き行事を臣道に合して、かつこの心跡を表明し出せば、また何の過錯がありましょうか。《小象伝》は言います。収穫する所有ってそれを据えるは、道理に就いて言えば凶です。誠信を懐き臣道を恪守して、はじめて自分の功業を顕明し得ます。

義曰:九四以陽居陰,履非其正,然而已以剛明之才得居人臣之極位,用心廣大,無所繫吝,天下之民欲隨於己,巳輒納而不拒之,是有所獲也。貞凶者,夫民,君之民也,已居人臣之位而輒有之,則侵權擅民,於人臣之正道大為凶也。

胡瑗の解説:九四は陽爻を以て陰位に居り、処する所は端正ではありません。しかしそれは剛強明叡の才に凭って人臣の最高の位置を占拠し、胸襟は広々として偏私吝惜なく、天下の百姓がそれに帰附せんと愿えば、それは一概に接納して拒絶せず、これがすなわちいわゆる収穫あることです。自守しても凶だと言うのは、百姓はもとより君主の百姓だからです。臣子の身として彼らを自分の名下に収帰すれば、それは君権を侵奪し民衆を擅自に据有するので、人臣の守るべき正道に按って衡量すれば、これは大凶の事です。

有孚在道以明何咎者,孚,誠信也;道,臣子之道也。言九四雖擅有君之民、侵取君之權,蓋是君之澤未下於民而已又當臣位之極,故天下皆願歸之也。然既在嫌疑之地,則宜如何?故必當推其至誠至信,率天下之民以奉於上,盡其齊物之心,顯然推白其臣子之道,以明非有叛逆之惡,則庶可以免其刑戮而逃其悔吝也。

誠信を懐いて臣道に合し心跡を表明すれば過錯なしと言う、その中の孚は誠実守信、道は人臣たるの守るべき本分です。これは九四が君主の百姓を擅自に据有し君主の権柄を侵奪したと雖も、しかしあれは君主の恩沢がまだ民に下達していないので、それがまた恰好臣位の頂点に居るので、天下人は皆それに帰附せんと愿うということです。すでに猜疑を招く地位に身を居れば、どうすべきでしょうか。必ず十足の誠意と信実を出して、天下の百姓を率いて君上に奉事し、人に対し一視同仁を尽くし、臣たるの本分を明白に擺出して、以て自分に断じて叛逆の心がないことを表明して、こうしてはじめて刑戮を免れ悔恨を躲ける望みがあります。

故昔者文王當紂之時,三分天下有二,而記者稱之曰:文王有君民之大德,有事君之小心。然尚不免紂之疑而有羑里之囚,至不免。是臣子之道,當顯然盡其誠信以事於君,則可以免咎。象曰有孚在道明功也者,言既有孚信在於臣子之道,而上得剛明之君知己非叛違之意,故足以明己之功也。

従前、周文王は商紂の世に身を処し、天下を三分して彼はすでにその二を拠っていましたが、記述する人は彼を称えて言います。文王は万民を統御する大徳もあれば、君主に奉事する小心謹慎もある。饒すくしてこのようであっても、なお紂王の猜忌を免れず、羑里の禍に囚禁を遭って、終に躲れられませんでした。見れば分かるように、臣子たる者は、理当自分の誠信を明白に擺出して君主に奉事して、はじめて罪責を免れ得ます。《小象伝》がこうしてはじめてその功を顕明し得ると言うのは、すでに誠信を臣子の本分の上に落実し、上にまた剛強明叡の君主に遇い、自分に背叛の意がないことを明白にすれば、自分の功業を彰顕するに足るということです。

九五:孚于嘉,吉。象曰:孚于嘉吉,位正中也。

九五の爻辞は言います。誠信を以て善美の人を任用すれば、吉祥です。《小象伝》は言います。誠信に善人を任用して吉を得るのは、九五の居る位が正でかつ中だからです。

義曰:九五居隨之時,以剛陽居至尊而履得其正,處於大中,故天下之人莫不鼔舞而隨之。然則如何以副天下所隨之望?故當虛其心,盡其誠,以信任大才大賢嘉善之人,以共成天下之大治,則吉莫與盛。象曰孚于嘉吉位正中也者,言九五為中正之君,下應於六二,六二亦為中正之臣,而已能孚信而任之,則天下之賢皆來隨於已,而輔成天下之事業也。

胡瑗の解説:九五は《随》卦の時に居り、陽剛の質を以て至尊の位に居って処する所が端正で、また上卦の中に当たるので、天下人は歓欣鼓舞して彼を追随せぬものがありません。それではどうすれば天下人の追随の期望に副えられるでしょうか。虚懐若谷にして誠意を竭くして、あの才が大で徳が厚く善良美好の人を信任して、彼らと一道に天下の大治を成就せしめれば、このような吉祥はこれより盛大なものがありません。《小象伝》が彼の居る位が正でかつ中だと言うのは、九五が中正の君主で、下に六二と相応して、六二もまた中正の臣子であることを講じ、九五がすでに誠信を以て彼を任用し得れば、天下の賢才は皆来て追随して、共に輔助して天下の事業を成就するのです。

上六:拘係之,乃從維之,王用亨于西山。象曰:拘係之,上窮也。

上六の爻辞は言います。彼を拘捕捆縛して、はじめて帰従するを肯んじ、更に束縛看管を加えます。君王は因って西山の地でその道を暢行し得ます。《小象伝》は言います。拘捕捆縛の手段を動用するのは、上六がすでに全卦の極上に居って窮途末路だからです。

義曰:夫隨之世,天下之人莫不畢從於上也。今上六處卦之終,最居於上極,是其兇頑而不從之人也。夫兇頑之人,雖王者興而不從,聖人起而不服,必待其拘囚縶繫之後乃從也。

胡瑗の解説:人人が相随う時代に、天下人は徹底的に上位者に服従せぬものがありません。而して上六は全卦の最後・位置の最高の処に居り、まさにあの凶暴頑固で死んでも帰附しない人です。この種の人は、たとえ王者が興起しても従うを肯んじず、聖人が出世しても心服するを肯んじず、必ず彼を拘捕囚禁し捆縛するに至ってはじめて、範に就くを肯んじます。

維之王用亨于西山者,維即維縶之也。西山,以上體兌,兌西方之卦;山取其險惡也。夫聖人在上,天下之民莫不歸之,而此上六兇頑之人,置之一方則一方受其害而罹其險惡,今既加之以誅伐而維縶之,使不能萌其惡以毒於民,故雖西方險阻之地亦得亨矣。

束縛を加えて君王が西山で通達し得たと言う、その中の維はすなわち拴係捆縛です。いわゆる西山は、上卦が兌で、兌は方位の上で西方に属するからです。山はその険峻悪劣の意を取ります。聖人が上に在って、天下の百姓は帰附せぬなく、ただ上六のこの凶頑の徒が、彼をどの一方に置いても、どの一方もその禍害を受けその荼毒を遭います。今、すでに討伐を加えて彼を拘係したので、彼は更に悪念を生出して百姓を毒害し得ず、それゆえ西方のような険阻の地も同じく政通人和となりました。

蠱 巽下艮上

蠱:元亨,利涉大川。先甲三日,後甲三日。

《蠱》卦の卦辞は言います。敗壊の事を整治すれば、開創して大いに通達し得て、大河巨険を渡るに宜しいです。政令を発布するに、甲日の前の三日に予め申明し、甲日の後の三日に反復して叮嚀します。

義曰:蠱,壞也。按《左傳》昭公元年云:皿蟲為蠱,榖之飛者亦為蠱。蓋言三蟲食一皿,有敗壞之象,故云皿蠱為蠱;又言榖之積久腐壊者則變而為飛蟲,亦蠱敗之象,故云榖之飛者亦為蠱。夫物既蠱敗,則必當修飾之,故《雜卦》曰:蠱則飾也。是矣。以人事言之,則是風俗薄惡、教化陵遲而不綱不紀也。方此之時,聖賢之人必以仁義之道施為而拯治之也。

胡瑗の解説:蠱とは、敗壊です。《左伝》の昭公元年に記します。器皿の裏に虫が生ずるを蠱と呼び、穀物が久しく積んで生出した飛虫もまた蠱と呼びます。意は数条の虫が一つの器皿を蛀食して、腐壊の象があるので、器皿に虫が生ずるを蠱と呼び、穀物が堆置して久しく腐爛して飛虫を化生するのも同じく敗壊の象なので、穀中の飛虫もまた蠱と呼びます。事物がすでに敗壊すれば、必ず修整を加えなければならないので、《雑卦伝》は言います。蠱はすなわち整飭修治。人事の上に移して言えば、すなわち風俗が浇薄敗壊し教化が衰頽松弛して、綱紀が荡然たることです。まさにこの種の時に当たって、聖賢の人は必ず仁義の道を拿出して救治を施行します。

元亨者,元者天地大生之德,於人為仁也;亨者天地大通之德,於人為禮也。言聖賢當此天下蠱壊之時,思欲拯治之,必有天地大生之德、至仁之道以拯濟之,又當以禮制而拯葺之,以救弱扶衰,興滯補弊,使天下之生靈各得其大通也。

開創して通達し得ると言う、その中の元は天地が広大に生育する徳性で、人の身に落ちればすなわち仁で、亨は天地が広大に通達する徳性で、人の身に落ちればすなわち礼です。これは聖賢が天下の敗壊の局に面して、着手して救治せんと欲すれば、必ず天地が万物を生育するような徳性・至仁の道を具えて以て拯済を加え、また礼法制度を以て修補收拾し、衰弱を扶助し壅滞を疏通し弊病を彌補して、天下の蒼生を各自暢達阻ならざらしめるということです。

利涉大川者,大川謂大險大難也。夫治天下弊壊之事,不可安然而治之,必在沖涉大難,奮不顧一己之私,存心於天下,然後可以治其事,措之安平也。何則?以天地之德至廣至大而發生萬物,尚有屯難,況聖賢治天下蠱敗之事,豈無險難乎?

大河を渡渉するに宜しいと言う、あの大河は極大の凶険艱難を譬喩しています。天下の積弊を整治するは、安穩として成し得ず、必ず重々の艱険を冲過して、身を奮い顧みず個人の得失を計らず、一心を天下に係えて、然る後に事情を成し安頓平穩し得ます。なぜかというと、天地の徳性は何と広大なことか、万物を生育するにさえ屯難険阻があれば、況んや聖賢が天下の敗壊の事を整治せんとするに、どうして凶険なしにあり得ましょうか。

先甲三日後甲三日者,庚甲皆申令之名也。凡事仁恩,於五行為木,木主春,春為施生,故為仁恩之令也。凡事已蠱敗,非下民之所能為,皆在上者致之也,然聖賢必欲治之,則當以仁恩之令而為之先也。

甲日の前の三日・甲日の後の三日と言う、庚と甲は皆号令を発布する日名です。凡そ仁愛恩沢の類の事は、五行の中で木に配属して、木は春季を主り、春は生機を施予するので、甲日の発する所はまさに仁恩の令です。事情がすでに敗壊したのは、もとより下の百姓が造成したのではなく、皆上位の者が招致したのです。しかし聖賢がすでに整治せんとする以上、応に先ず仁恩の令を以て路を開くべきです。

是故民有匱乏者,則出粟帛以濟之;民有失於奢者,則以禮而節之;民有未出於塗炭者,則出之而使安其所;民有入於兇頑而陷於刑辟者,則使之改過自新。故先之三日以申諭之,後之三日以丁寧而勸戒之,如此則天下之事無有不舉矣。

それゆえ百姓に貧乏無着のがあれば、粮食布帛を発放して周済し、百姓に奢侈して度を失うがあれば、礼制を以て節制し、百姓がなお困苦の中に陥っていれば、彼らを拔出して安頓し、百姓がすでに凶頑に堕して刑律に触犯していれば、彼に改過自新の機会を与えます。ですから甲日の前の三日に先行して曉諭し、甲日の後の三日に反復して叮嚀勧誡して、このようになれば、天下の事で成さないものがありません。

彖曰:蠱,剛上而柔下,巽而止,蠱。蠱元亨,而天下治也。利渉大川,往有事也。先甲三日,後甲三日,終則有始,天行也。

《彖伝》は言います。《蠱》卦は陽剛が上にあり陰柔が下にあり、下体は巽順で上体は静止で、これが蠱を構成します。敗壊を整治して大いに通達し得て、こうして天下は治を得ます。大河を渡渉するに宜しいは、往けば必ず一番の事業が為すべきことを言います。甲前三日・甲後三日は、終結した後はまた開端、これがまさに上天の運行の節律です。

義曰:上體艮為剛,下體巽為柔。夫天下之事所以弊壊者,由上無剛明之德以制於下,下無柔順之心以從令於上耳。今此卦上既剛明而能下,又柔順以奉令,故蠱敗之事可以得治也,故曰蠱剛上而柔下。

胡瑗の解説:上卦の艮は剛に属し、下卦の巽は柔に属します。天下の事情が弊壊する所以は、上に剛強明叡の徳性が缺少して下屬を節制し、下に柔順服従の心が缺少して上令を奉行するからです。今、この卦は、上はすでに剛強明叡にして己を屈して人に下るを肯んじ、下はまた柔順にして政令を奉行するを肯んじるので、敗壊の事が整治を得、それゆえ《彖伝》はそれが剛を以て上に居り柔を以て下に居ると言います。

巽而止蠱者,上艮為止,下體為巽,巽為權變,艮為鎮靜。夫能用權者多失於鎮靜,今既止靜又能行權,故可以治蠱敗之事也。利涉大川往有事者,言聖賢之人慾治蠱敗之事,則雖大險大難必往而治之,庶成天下之事業也。先甲三日後甲三日終則有始天行也者,言上之行仁恩之令,先之三日,後之三日,終而復始,若天有四時之行,春生而秋成,始始終終,無有休息也。

巽順にして止まり得ればすなわち蠱だと言う、上卦の艮は静止を主り、下卦は巽で、巽は権变通融を代表し艮は鎮定沈静を代表します。権変に善い人は往々にして浮躁に失しますが、今はすでに鎮静し得てかつ通権達変し得るので、敗壊の事を整治し得ます。大河を渡渉するに宜しく往けば事有るべきと言うのは、聖賢が敗壊を整治するに、縦使天大の艱険があっても必ず往って処置して、以て天下の事業を成就せんことを求めるを指します。甲前三日・甲後三日は、終わりて復始まるはすなわち天道の運行だと言うのは、上位の者が仁恩の令を施行して、前の三日に予告し後の三日に叮嚀して、一輪が結ばればまた一輪の開端で、ちょうど上天の四時の運行のごとき、春は生発し秋は成熟して、終わりて復始まり、従来歇まらないということです。

象曰:山下有風,蠱。君子以振民育德。

《大象伝》は言います。山の下に風が起って、草木が凋落する、これが《蠱》の卦象です。君子はこれに取り法って、一面は百姓を賑済振作し、一面は自分の徳業を培育します。

義曰:按《左傳》云:在《周易》,女惑男、風落山,謂之蠱。言山之有材木,今為其風之所落而在山之下也。夫風之為氣,能生物亦能落物,此即肅殺之風,故為蠱之象也。君子觀此之象,以拯救天下敗壊之事,振濟萬民之難,使皆得其所而遂其性;又且養育己之德業而加於天下,不使至於蠱敗也。

胡瑗の解説:《左伝》は言います。《周易》の講釈に拠れば、女子が男子を迷惑し、山風が草木を吹落とすを、皆蠱と呼びます。これは山上にもとより林木があるのに、今は風に吹き落とされて、山脚の下に堆積したということです。風という気は、万物を生長し得て、また万物を摧落し得て、ここでは肅殺の風を指すので、蠱の卦象に取られます。君子はこの景象を観察して、天下の敗壊の事を救治しに行き、万民の苦難を賑済して、人人に各々その所を得て各々その性を遂げしめます。同時にまた自分の徳行事業を培養して天下に施及し、世道を再び敗壊の地步に走らせません。

初六:幹父之蠱,有子,考無咎,厲終吉。象曰:幹父之蠱,意承考也。

初六の爻辞は言います。子が出面して父の遺留した敗壊の事を整治すれば、このような子があれば、先父は過咎を免れ得て、処境は艱危であれど、終に吉祥を得ます。《小象伝》は言います。父の留下した乱局を整治するのは、用意は父の心志を承継するにあります。

義曰:大凡事之蠱敗,必求所以修飾之也。初六居卦之始,得巽之體,能用權變以承家道而乾集父事,故云幹父之蠱。有子者,夫能代父之任而成家之事者,子之職也,一不能然,是無子矣。今初以權變而幹父之事,使男正位乎外,女正位乎內,內外和睦,上下整肅,是得其為子之道也。

胡瑗の解説:凡そ事情が敗壊すれば、総じて修整する法を設けねばなりません。初六は全卦の開端に居り、巽体に属して、権変を運用して家業を承接し父の未竟の事を成し得るので、それが父の遺留した乱局を整治すると言います。このような子があると言うのは、父に替って責任を担い家事を成すのが、もとより子たるの職分で、一旦為し得なければ、子なしに等しいからです。今、初六は権変の才を以て父の事を辦理して、男子を外に各々その位を正しくし婦人を内に各々その位を正しくせしめ、内外は和睦し上下は整肅して、これがすなわち人子たるの本分を尽くしたのです。

考無咎者,言父有不能幹家之事而至於蠱敗,咎莫大焉;苟得賢明之子以代其任而成其事,則可使其父立於無過之地矣。今初六能用其權變以幹濟其事,使其父得無咎也。

先父が過咎を免れ得ると言うのは、父が家業を操持し得ず以致って敗壊に弄られた、この過失は大きくてこれより過ぐるなく、倘若賢明の子が彼に替って承担し事情を成せば、父を過失なしの地位に立たせ得るということです。今、初六は権変を運用して事情を成し得て、因って父を過咎を免れせしめます。

然謂之考無咎者,夫生曰父曰母,死曰考曰妣,蓋言初六不唯能幹父之蠱而致父於無過,兼使其父雖至於終沒,亦免其咎而致其令名以光於後也。故《祭義》曰:亨孰羶薌,嘗而薦之,非孝也,養也。君子之所謂孝者,國人稱願然曰:幸哉有子若此,所謂孝也已。

先考无咎と言って父无咎と言わない所以は、在世の時は父・母と称し、去世した後は考・妣と称するからです。これは初六がただ父の留下した乱局を整治して父を過失を免れせしめるのみならず、また父をたとえ身故した後にも罪責を洗脱せしめ、美名を留下して後世に照耀せしめ得るということです。ですから《礼記・祭義》は言います。牲肉を烹煮し香気を調和して、親口で嘗めて然る後に双親に進献するは、あれはただ奉養で、まだ孝とは算えられません。君子の言う孝は、全国の人を皆称羨して言わせるに至るに在ります。真に幸運だなあ、このような子があって!これをはじめて孝と呼びます。

又哀公問於孔子曰:何謂成親?孔子曰:君子也者,人之成名也。百姓歸之名,謂之君子之子,是使其親為君子也,是為成其親之名也。蓋言父雖有過,而子能終乾之,則使其父免咎矣。

魯哀公はまた孔子に問いました。何を双親を成全すると呼ぶか。孔子は答えました。いわゆる君子とは、人々が彼に与える一つの成就性の美名です。百姓がこの名号を以て彼に帰して、彼を君子の子と称せば、これはすなわち彼の父をも君子に抬挙したに等しく、また双親の名声を成全したのです。この段の話は言います。父は縦使過失があっても、子がもし事情を徹底的に成し得れば、また父を罪責を免れせしめ得ます。

厲終吉者,厲,危也。言初六居卦之始,幹父蠱敗之事,是主艱也,故當常若危厲在前,恐懼其始,則終可以獲吉也。象曰幹父之蠱意承考者,意謂心之所存也。言為子之道,不可盡循父之命,但心之所存以至孝事其親而成之耳。

処境が艱危で終に吉祥を得ると言う、あの厲の字はすなわち危険です。これは初六が卦の開端に居って、父の遺留した乱摊子を整治しに行くのに、担うは最も難辦の頭の一歩なので、時時危難が眼前に擺する如くにして、一初めから戒懼の心を存して、終にはじめて吉を得られるということです。《小象伝》が用意は父志を承継するに在りと言う、あの意の字は心中に存する念頭を指します。これは子たるの道理は、事事皆父の吩咐に照らして為すのではなく、心中に一片の至孝を存して、それを以て双親に奉事しかつ事情を成すのだということです。

九二:幹母之蠱,不可貞。象曰:幹母之蠱,得中道也。

九二の爻辞は言います。母の一方の家務を整治するに、固執して長くこの上に守るべからずです。《小象伝》は言います。母の一方の事務を整治して進退を知るは、まさに中道に合します。

義曰:九二以剛明居中而在內卦之內,是能幹其母蠱壊之事也,故曰幹母之蠱。不可貞者,言君子之人必上思忠於君,下思利於民,不可屑屑然專以治閨門之事,久執其道為己之正也。象曰幹母之蠱得中道也者,九二以剛明之德居得中位,在內則能幹母之蠱,在外則能幹父之事,在朝廷則能忠於君而利於民,是周旋進退皆得於中道也。

胡瑗の解説:九二は剛強明叡の質を以て中位に居って内卦の中に居り、母のあの一方の敗壊した家務を料理し得るので、それが母の事を整治すると言います。固守するべからずと言うのは、君子は必ず上に君主に効忠せんことを思い下に百姓に造福せんことを思って、瑣瑣碎碎として専ら内室家務を管内して、この事を長久に執守して自分の本分と為すべからざるということです。《小象伝》が彼は中道に合すると言うのは、九二が剛明の徳を以て中を得る位に居って、家にあっては母の一方の事を整治し得て、外にあっては父の一方の事を承担し得て、朝廷にあっては君主に忠を尽くして百姓に福を造り得て、どのように周旋進退しても中道に合するということです。

九三:幹父之蠱,小有悔,無大咎。象曰:幹父之蠱,終無咎也。

九三の爻辞は言います。父の遺留した乱局を整治するに、少しばかり懊悔する所有るけれど、大きい過失を釀成するに至りません。《小象伝》は言います。父輩の敗壊の事を整治して、終に過錯がありません。

義曰:九三以陽居陽,有剛明之德,履於至正,故能幹父之蠱。何則?夫剛則有能之才,正則公而不私,以此而行,則克乾其事而無所不濟也。小有悔無大咎者,言九三全用剛以乾其家事,則必傷於和睦之道,而親族之間必小有悔恨之者;然已代父之任,整肅閨門之教而乾成其事,則終無大咎也。

胡瑗の解説:九三は陽爻を以て陽位に居り、剛強明叡の徳性を具えて、処する所が極めて端正なので、父の留下した敗壊の事を整治し得ます。なぜかというと、剛ならば、事を辦する才干があり、正ならば、公道にして私を徇らないからです。この両様に凭って為れば、事情は成し得て、通達せぬなくなります。少し懊悔あるも大過なしと言うのは、九三が一味に剛を以て家事を処理するので、和睦を傷つけるを免れず、親族の間に総じて少しの怨懟懊悩があります。ただそれは畢竟父に代って担子を挑起し、門内の規矩を整肅して事情を成したので、終に大きい過失はありません。

六四:裕父之蠱,往見吝。象曰:裕父之蠱,往未得也。

六四の爻辞は言います。父の遺留した敗壊に対してただ寛緩拖延するのみで、このように往って行事すればただ困頓に遭遇するのみです。《小象伝》は言います。一味に寛緩して整治せざれば、往っても収穫する所有りません。

義曰:夫父以柔懦不能剛決,以至蠱壊其家,而六四又以柔弱之質承其蠱敗之後,無剛明果決之才,不能代父之任而乾家之事也。然而以陰履正,故但少能寛裕其父之事耳,故曰裕父之蠱。

胡瑗の解説:父は柔弱怯懦で果断に事を決し得ず以致って家業を壊しました。六四はまた柔弱の質を以てこの敗壊した後の局面を接手して、すでに剛強明叡・果断決絶の才干なく、父の重担を担い起せず家の中の事を成せません。ただそれは陰爻を以て陰位に居って処する所が端正なので、なお父の事に対して略か寛緩に維持し得、それゆえ爻辞はそれがただ父の乱局を寛緩するのみだと言います。

往見吝者,夫承蠱敗之後而以柔弱之質將有所往,必見悔吝而無所成也。然初六亦以陰柔之道乃能幹父之蠱,此即往而見吝,何也?蓋初六居壊敗之始,當乾家之初,能用權變以治其事,致父於無過之地,故聖人言之以為萬世治家之法,當在於始也。是以為臣為子者,不可以無剛明之才也。今六四既居事壊之後而無剛明之才,不能幹濟其事,故往見吝而無所得也。

往けば必ず困頓に遭うと言うのは、敗壊した後の残局を接手して、また柔弱の質を以て挙動する所有れば、必然に困窘懊悩に遭遇して一事も成さないからです。しかし初六も同じく陰柔なのに、なぜかえって父の乱局を整治し得て、六四は一たび往けば困吝を見るのでしょうか。初六は敗壊が剛に頭を起した時に居り、家業を整治する開端に正しく当たって、権変を以て事情を処理妥当にし得て、父を過なき地に立せしめたからです。聖人は特にこの一点を拈出して、万世の家を治める法則と為した――功夫は開頭に下すべし。これに由って知られるように、臣子たる・子たる者は、剛強明叡の才干なしにはいられません。今、六四は身に事情がすでに壊透した後に居り、また剛明の才に乏しく、整治の事を成せないので、往けばただ困に遭って毫も得る所がありません。

六五:幹父之蠱,用譽。象曰:幹父用譽,承以徳也。

六五の爻辞は言います。父の遺留した敗壊の事を整治して、因って美好の声誉を獲得します。《小象伝》は言います。父の業を整治して美譽を得るのは、徳行を靠って父志を承継するのです。

義曰:譽者,嘉美之稱也。六五所以能幹父之蠱者,蓋承以其徳,不在剛威,而能代父之任、承家之事,又有大中之道,下應九二剛明之人,用是所以得嘉美之譽也。象曰幹父用譽承以徳者,言六五所以用譽者,非徒取於虛名也,蓋以大中至正之徳承父之志以治其事,使社稷永固,生靈受賜,各遂其所,而天下嘉美之譽自然至矣。

胡瑗の解説:誉は、美好の称許です。六五が父の遺留した敗壊を整治し得たのは、徳行を以て承継したに靠り、剛猛威勢を靠ったのではありません。それは父に替って担子を挑起し家業を接続し得て、また寛大中正の道を守り、下に剛明の九二と相応し、それゆえ美好の声誉を贏得しました。《小象伝》が彼は徳を以て承継したと言うのは、六五の得た賛誉は徒らに虚名を有するのではなく、寛大中正の徳行を以て父の心志を承接して事務を処理し、国家の根基を長久穏固にして、百姓を恩沢を蒙り各々その所を得せしめ、こうして天下の美譽は自然として来たということです。

上九:不事王侯,髙尚其事。象曰:不事王侯,志可則也。

上九の爻辞は言います。更に王侯に事えず、自分の志節を高遠に抬します。《小象伝》は言います。王侯に事えず、このような心志は取り法うに値します。

義曰:夫事治於始,至於終則其事已成也。大凡人子之始,竭力盡孝以事父而治於家;人臣之始,竭力盡忠以事君而利於民。及夫國家既濟,功業既成,榮問既極,而苟年德衰耗,則必有止足之心而不累其位,退休歸老,不事於王侯而自崇髙尊尚其事也。

胡瑗の解説:事情を開頭から着手して整治して、末尾に至れば、事業もまた成就します。大凡子たる者は、起初は孝心を竭くして父に奉事して家を治め、臣子たる者は、起初は忠心を竭くして君主に奉事して百姓に利を謀ります。国家がすでに安定し功業がすでに成就し名声栄寵が皆頂点に至ったときに及んで、もし年歳と精力が漸く衰えれば、止まるを知り足るを知る心を生出して、更に官位に自分を拖累せず、退休して郷に帰り、更に王侯に事えずして、自分の操守志節を高遠尊貴に看るべきです。

象曰不事王侯志可則也者,言上九之不事王侯,蓋有足止之心、髙尚之行,可為世俗之所法則也。言聖人之德始終如一,無有衰耗,若周公之輔於周,亦卒於周,未聞髙尚其事也。夫有周公之資則可,為自賢人而下,則不能無衰耗矣,功業既成則休退宜也。然世俗所謂髙尚者,內則無心於家,不孝於父而乾其事;外則無心於國,不忠於君而利其民;但髙傲衣冠,晦跡山林,逺去人跡,此直豕鹿木石之伍耳,非聖人言蠱上之意也。

《小象伝》がこのような心志は取り法う可と言うのは、上九が王侯に事えざるは、足るを知り止まるを知る心・高潔に自守する行から出て、世人の效法する榜様と為り得るに足るということです。ただ聖人の徳行は始終如一で、従来衰退せず、周公が周室を輔佐して、死するまで周室で事に任じていたがごときは、彼が何らかの清高を標榜しに行ったと聞きません。周公のような資質があれば自然とずっと幹し続け得ます。賢人以下は、精力徳望に衰退を免れず、功業がすでに成就した以上、激流に勇退するが合宜です。世俗が標榜するいわゆる清高に至っては、内は家に心なく、父に孝せず家事を操持するを肯んじず、外は国に心なく、君主に忠を効めず百姓に利を謀らず、ただ衣冠を孤傲に擺して、山林に身を蔵して、人跡を遥かに躲ける――これはただ猪鹿草木と同類なのみで、断じて聖人が《蠱》卦の上爻の裏で表現せんと欲する意ではありません。

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