旅 艮下離上
旅:小亨,旅貞吉。
《旅》卦の卦辞にいう。外に客居するは只だ小さく亨通するのみ、羈旅の人は旅途中の応有の正道を守住して乃ち吉利なるべきなり。
義曰:按《序卦》云「窮大者必失其居」,故受之以《旅》。言凡人居於豐大之時,恃其盛大,多過於中道,而不知守常,以盈滿自取傾覆喪亡之事,致其身窮困,反居於外,故旅所以次於豐。旅者,羈旅之義,言人寄身於他國,托居於外,故謂之旅。
胡瑗が解説します。《序卦伝》の「窮大者必失其居」の説法に依れば、盛大を尽頭に追求するの人は一定会して安居の所を失うれば、だから《豊》卦の後に接きて《旅》卦を排す。人は豊大の時に処して、往往に興盛を倚仗して・行事は中道を超過して・又能く常法を守住するを懂得せざれば、盈満に因りて自ら傾覆喪亡の禍事を招来して、自身を窮困に弄して・返って外に流落せば、だから旅卦は豊卦の後に排せらる。いわゆる旅は、即ち羈旅の意なり。人は身子を別の邦国に寄放して、暫く外地に托居せば、それによって旅と称す。
小亨者,按《雜卦》云「親寡旅也」。言人自居於家、居於國,則親黨助己者眾,故其道得以大行,其志得以大通;今居旅寄身托跡於他國,親戚輔己者少,其道不得以大行,其志不得以大通,故曰小亨。旅貞吉者,夫人居旅之時,親己者寡,不可恃其大正之道居於人上,但居旅不失為旅正則吉矣。
「小亨」と説き到るは、《雑卦伝》は「親寡、旅也」と講じ、旅卦の特徴はまさに親近の人の稀少なるなり。人は自らの家裏に待ち・本国に待てば、親族党羽の自らを幇助するの人は多ければ、それによって彼の主張は能く大行し・彼の志向は能く大通す。今、他郷に客居して、別国に身を寄せ跡を托せば、親戚故旧の能く自らを扶助するは少なければ、主張は即ち大行する法なく・志向も亦大通する法なければ、だから只だ小亨と説く。「旅貞吉」と説き到るは、人は羈旅の時に処して、自らを親近するの人は本より少なければ、能く自らの守る所の大中至正の道を仗りて即ち人の上に凌駕すべからず、只だ外に客居して旅人の応守の正道を失掉せざれば、即ち吉利ならん。
彖曰:旅,小亨,柔得中乎外而順乎剛,止而麗乎明,是以小亨,旅貞吉也。旅之時義大矣哉!
《彖伝》にいう。旅卦は只だ小さく亨通する能くするは、陰柔者は外卦に於いて中位を得て而又陽剛に順従し、内は能く安止して外は能く光明に附麗すれば、だから小さく亨通して、羈旅は正を守りて乃ち吉を得たるなり。羈旅此の一卦の包含する所の時勢と義理とは、実在は重大なりや。
義曰:柔得中乎外者,指六五也;順乎剛者,指上九也。言六五以柔順之質居於外,又有大中之道,而居旅之時託身於外,是能執柔順大中之徳以順從於上九之剛,是以卑而事尊,以下而事上,故能安其所而不失正也。
胡瑗が解説します。いわゆる「柔得中乎外」は、六五を指し・いわゆる「順乎剛」は、上九を指す。六五は柔順の資質を以て外卦に処して、また中位に居りて大中の道を具備し、まさに羈旅の時に当たりて身子を外に安頓して、能く柔順にして偏らざるの徳行を守住して去りて上九の陽剛に順従すれば、これ即ち卑下の身を以て尊貴に侍奉し・在下の位を以て在上に侍奉して、だから能く処する所に安んじて正道を失わざるなり。
止而麗乎明是以小亨旅貞吉者,此因二體以言之。下體艮,艮為止;上體離,離為明。言居旅之時託身於他國,親己者寡,必須求賢明之人以附麗之。既順於剛,不紊其道,不悖於理,又附得賢明之人,是以小有亨通而得旅之正吉也。
「止而麗乎明、是以小亨、旅貞吉」と説くは、これは上下両卦の卦徳に就きて講ずるなり。下卦は艮、艮の卦徳は静止を為し・上卦は離、離の卦徳は光明を為す。他国に客居するの時は、自らを親近するの人は稀少にして、必ず賢明の人を寻求して去りて依附せねばならず。すでに能く陽剛に順従して・自らの原則を打乱せず・事理に違背せず、また賢明の人に依附し上れば、だから能く小さく亨通して、併せて羈旅は正を守るの吉を獲得す。
至如仲尼,大聖也,有聖人之徳,有大中之道,不得其時,不得其位,皇皇歴聘於諸國,能盡其順以事其君,又盡順以輔其人。有顏讎由、蘧伯玉為之主,是皆當時之賢者,能附麗之。至於遊、夏、顏、閔七十子之徒,三千之眾,是時皆托跡於外而隨大聖人為之依歸。
即ち孔子の此のごときの大聖人なるも、聖人の徳行と大中の道とを具備するも、却って生れて時に逢わずして・応有の職位を得ざれば、只だ惶惶として奔走して、諸国を遍訪して仕を求めるに如かざりし。彼は能く力を尽くして柔順に所到の国の君主に侍奉し・また力を尽くして柔順にあそこの人を輔助す。当年に彼は衛国に於いて顔讐由・蘧伯玉を以て寄居の主人と為せり、これらは皆当時の賢者にして、孔子はまさに彼らに依附せるなり。子游・子夏・顔回・閔子騫等の七十位の高足、および三千弟子の衆に至っては、あの時も亦皆身を外に托して、此の位の大聖人に追随して帰依と為せるなり。
是大聖大賢之人不得其位,不逢其時,托寄於他國,皆必盡其柔順以奉其在上,而又得大賢大聖之人以為其主,乃可以獲吉也。旅之時義大矣哉者,寄旅於他國,托跡於外,處之最難,於道尤重,故聖人於此嘆美之,惟大聖大賢之人可以為之也。
見るべしたとい大聖大賢なるも、一旦職位を得ざりて・時機に遇わざりて他国に身を寄せば、亦皆必ず其の柔順を尽くして去りて在上の人に奉事して、同時に又要能く大賢大聖の一類の人を找見して以て依托の主人と為し、此のようで乃ち能く吉祥を獲得すべきなり。《彖伝》の「旅之時義大矣哉」と感嘆するは、別国に寄居して・外に身を托するは、処境は最も艱難にして、道理の上に於いてまた格外に要緊なれば、だから聖人は此処に於いて讃嘆を加うるなり。唯だ大聖大賢の人のみが為し到る能くす。
象曰:山上有火,旅。君子以明慎用刑而不留獄。
《象伝》にいう。山上に火を燃す、これ即ち《旅》卦の取象なり。君子はこれに取法し、刑を用うるに既に明察にして又審慎にして、併せて案件を積圧滞留せしめざるなり。
義曰:火性炎上,而火在山上,燎於物,其勢不能久留,是旅之象。君子觀此象,當明慎用其刑罰而無留滯其獄。何則?夫刑者,斷人肌膚,傷人骨髓,死者不可復生,斷者不可復續,故君子當明顯審慎而用刑罰,辨其情偽,正其枉直,使無至於失法;又不可重傷其民,使繫獄者無至於留滯也。
胡瑗が解説します。火の本性は上に向かって燃焼して、火は山上に於いて草木を蔓延焚焼して、あの勢頭は法なく長久に停留せば、まさに羈旅の形象に合乎す。君子は此の卦象を観察して、応に明察審慎に刑罰を施用して、訟案をして拖延積圧せざらしめよ。何を以てか。刑罰は人の肌膚を割断し・人の骨髓を傷害せんと要するにして、死せるは能く復活せず・断れたるは能く重続せざれば、だから君子は必ず明白顕豁にして而又周密謹慎に刑を用いて、案情の真偽を辨清し・是非曲直を判明して、法度を失うに至らざらしめよ。同時に亦已むを得ず一再に百姓を傷害すべからずして、在押の人をして長期に獄中に滞留せざらしむるを要す。
初六:旅瑣瑣,斯其所取災。象曰:旅瑣瑣,志窮災也。
初六の爻辞にいう。外に客居して行事は瑣碎猥屑なるは、これ即ち彼自ら災禍を招来するの原因なり。《象伝》にいう。羈旅にして瑣碎猥屑なるは、心志は窮困にして乃ち災禍を招来す。
義曰:瑣瑣者,細碎煩屑之謂也。夫羈旅之道雖尚柔順,然亦不可過。今此初六以柔順之質居一卦之下,是自處卑賤之地,而為貧賤所動其心,故為猥細瑣屑之事,苟容於人,苟合於世。斯,此也。言既失其居,托跡於他國,而為瑣屑之行如此,則人皆賤之,眾皆棄之,是自取災咎之道。象曰旅瑣瑣志窮災者,言初六居旅之時而為卑賤動其心,其道不通,其志窮困,是以取災也。
胡瑗が解説します。「瑣瑣」は細碎煩雑猥屑を形容す。羈旅の道はたとい柔順を崇尚するも、但し柔順も亦已むを得ず過分すべからず。今、初六は柔順の資質を以て全卦の最下に処して、是れ自らを卑賤の地位に安置して、心思も又被動せられて貧賤境遇に牽動せられて、それによって種種の猥瑣細碎の事を做出して、一味に別人に遷就し・苟且に世俗に附和す。「斯」は即ち「此」なり。これは彼はすでに安居の所を失いて・別国に身を托して、行為も又瑣碎して此の地步に到れば、ならば人人は皆彼を軽賤し・衆人は皆彼を拋棄す、これまさに自ら災を招き禍を惹くの路子なり。《象伝》の「旅瑣瑣、志窮災也」は、初六は羈旅の時に処して、卑賤に因りて心志を動揺して、路子は行き通らず・志向は窮困に陥れれば、だから災禍を招来すと言うなり。
六二:旅即次,懷其資,得童僕貞。象曰:得童僕貞,終無尤也。
六二の爻辞にいう。外に客居して能く合適の旅舎に住進して、身上に盤纏を帯びて、還得忠実可靠の僮僕を得たり。《象伝》にいう。忠貞の僮僕を得たるは、終に過失と憂患有ることなからん。
義曰:即,就也;次,舍也;資,貨也。言羇旅之道既尚其柔順,而六二以陰居陰,履得其正,而處下卦之中,是羇旅之時託身寄跡於他國,而能盡柔順之質,得中正之道:柔而不失其中,順而不失其正,在上位而不至驕,在下位而不至慢,為眾所與。如此,是於羇旅之時能即就其次舍以安身,懷蓄資貨以厚備,不失其所之謂也。童僕者,盡其至順以事其主也,是得此至順之正道也。
胡瑗が解説します。「即」は就近して前往し、「次」は止宿の旅舎、「資」は財貨盤纏なり。羈旅の道は本より柔順を崇尚して、而も六二は陰爻を以て陰位に居り、処する所は正を得、また下卦の中位に処して、まさに他国に客居するの時に能く柔順の質を尽くし・又中正の道に合乎す。柔和にして分寸を失わず・恭順にして正直を失わず・上位に処して驕慢に至らず・下位に処して怠惰に至らざれば、それによって衆人の許賛を受く。此のようのごとくであれば、彼は羈旅の時に便ち能く就近して旅舎に住進して自身を安頓し・財貨を儲備して以て充裕を求む、これ即ち自らの応有の位置を失わざると叫ぶなり。いわゆる「童僕」は、僮僕は能く最も柔順の心を尽くして主人に侍奉するを指し、六二も亦まさに此の種の至順の正道を得たるなり。
象曰得童僕貞終無尤者,夫聖賢君子之人必有剛正之徳,然後可以免其尤患。今二所以能免者,蓋古之人可以屈身而伸道,不可以屈道以伸身。今旅之時失其所居,是其道不得以通,而二能盡柔順中正之道,故尤患所以無也。
《象伝》の「得童僕貞、終无尤也」。一般に説けば、聖賢君子は必ず剛強正直の徳行を具備して、乃ち能く過失と禍患を免るべきなり。今、六二は陰柔の爻にして却って亦能く禍を免るるは、古人の原則は寧ろ自らの身を委屈して以て道義を伸張すべく、道義を委屈して以て自身を抬高すべからざるがゆえなり。羈旅の時はすでに安居の所を失いて、其の道は自然に行き通らざるに、而も六二は能く柔順中正の道を極致に為し到れば、だから過失と禍患とは皆彼の身上に臨到せざらん。
九三:旅焚其次,喪其童僕,貞厲。象曰:旅焚其次,亦以傷矣。以旅與下,其義喪也。
九三の爻辞にいう。外に客居して、住む所の旅舎は焼毀せられ、また僮僕を失掉せり、たとい自守するも危険なり。《象伝》にいう。羈旅の中に自らの居所を焼くは、実在は傷痛に値うなり。旅人の身分を以て却って去りて在下の人に交結するは、道理に照らせば即ち喪失する所有るべきなり。
義曰:居旅之時必尚柔順之道,今九三以陽居陽,處下卦之上,是務剛亢者也。夫託身寄跡於外,是失其居而志不通矣,而三反為剛亢之行,則眾所不與,故其次舍必見焚燬而不得安居也。
胡瑗が解説します。羈旅の時に処するは必ず柔順の道を崇尚せねばならず、今、九三は陽爻を以て陽位に居り、また下卦の頂端に処して、是れ一味に強を逞うし高亢の人なり。外に身を寄せ跡を托するは、本来即ちすでに安居の所を失掉して・心志は通達し難きに、九三は返って剛強高亢の挙動を做出せば、於是乎衆人は皆肯んじて彼に親附せず、だから其の住む所の旅舎は必定に焚毀に遭いて安んじて居る法なきなり。
九三既為剛亢之行,為眾所不與,而上又無應,進退皆失其所,以下近於六二欲親比之,是始務剛亢而後失其所欲,求於上又失其童僕事主柔順之正道,是為旅而焚其次舍,喪失柔順之道,則眾人所共疾之,危厲之道也。象曰旅焚其次亦以傷矣者,言居旅之道已失其所而復焚其次舍,是亦可傷悼矣。其義喪者,以旅之道而反與於下,自取喪亡也。
九三はすでに挙動は剛強高亢にして、衆人は皆親附せず・上に向かってまたそれと呼応するの爻なければ、進退は皆依靠を失掉せり。それは下に向かって六二に緊く挨りて、六二と相「比」せんと欲す――いわゆる比は、相隣の両爻の彼此に親近依附するの関係を指す――しかるに先前は一味に強を逞うして、結果は此の点の願望をも落空せしめたり。上に向かって求むる所有りて着落なく、また僮僕の主人に侍奉するのあの種の柔順の正道を丟掉して、於是乎外に客居して旅舎を焼掉し・柔順の道を喪失するの局面と為りて、衆人は共同に彼を厭悪す、これは危険の道なり。《象伝》の「旅焚其次、亦以傷矣」は、外に客居するは本已に帰宿を失いて、また自らの居所を焼掉せり、実在は人をして傷痛せしむるを言うなり。「其義喪也」と言うは、旅人の身分を以て返って去りて在下の人に結交するは、自ら喪亡を招来するに等しきを指す。
九四:旅于處,得其資斧,我心不快。象曰:旅于處,未得位也。得其資斧,心未快也。
九四の爻辞にいう。外に客居して総算に歇脚の地方を得たり、亦財銭と利斧とを得たれども、我心は却って併せて痛快ならず。《象伝》にいう。旅途中に歇脚の処有るは、還有相称の位次を得ざるがゆえなり。財銭利斧を得たれども、心裏は仍として痛快ならざるなり。
義曰:處者,止息之地也;資,貨也;斧,斷也。言四以剛陽之質居於陰位,是有柔順之節,居剛而不為亢者也。處上卦之下,盡謙順之道,故旅之時可以得其止處者而不失其所也。然猶不及六二有大中之徳,故安然就其居之次,故此但得止息之地也。
胡瑗が解説します。「処」は歇息停留の地方、「資」は財貨、「斧」は決断の義を取るなり。九四は陽剛の資質を以て陰位に居れば、それは柔順の節度有るを説明して、たとい陽剛に属するも亦高亢に流れざるなり。それは上卦の最下に処して、能く謙遜柔順の道を做足せば、だから客居の時に歇脚の処を找到して無所帰依に至らざるなり。不過それは畢竟に六二の中に居りて大中の徳有るに比ぶに及ばず、六二は以て安穏にして自らの旅舎に住進すべく、九四は則ち只だ能く一箇の暫時に止息するの地方を得るのみなり。
得其資斧者,四雖未得其位,然能盡其柔順之道,不為髙亢之行,故可以安處而得其資貨,又有剛明之徳可以自斷也。其心不快者,言雖得其止息資貨,然所居不得其中,未得其位,則進退動止不遂其心志。象曰旅于處未得位也者,言四雖得止息之處,亦未得其位也。心未快者,雖得其資貨而能斷,然未得其位,未遂其志,故心所以未快也。
「得其資斧」と説く。九四はたとい相称の位次を取得せざるも、却って能く柔順の道を尽くして、高亢自大の挙動を為さざれば、だから能く身を安んじて財貨を獲得して、同時に又剛強明察の徳行を具備して、事に遇えば自ら決断する能くす。「我心不快」と説く。たとい歇息の地と財銭とを得たるも、但し居る所の処は中位に在らず・位次も亦相称ならざれば、進退行止は即ち能く称心如意せざるなり。《象伝》の「旅于処、未得位也」は、九四はたとい止息の所有るも、終究に応有の位次を得ざるを言うなり。「心未快也」と言うは、彼はたとい財貨有りて又能く決断するも、却って始終として位は当たらず・志は遂げざれば、それによって心裏は総に痛快ならざるを言うなり。
六五:射雉一矢亡,終以譽命。象曰:終以譽命,上逮也。
六五の爻辞にいう。山鶏を射て一支の箭を射失すれども、最終に却って美譽と榮顕の任命とを獲得せん。《象伝》にいう。最終に美譽と任命とを獲得するは、上面の人は彼に対して惠及する所有るがゆえなり。
義曰:此一爻以陰柔之質居上卦之中,有大中之道、巽順之德,而居於羇旅,所謂柔得中乎外而順乎剛者也。且雖有柔順中正之徳,然寄身托跡於外,方知其所親比者寡,而未嘗固必其所求,不必志其所得,猶人之射雉,但以一矢而射之,其得失未可知也。然其執節守道,不為困窮貧賤之所動,而秉其中正柔順之徳,雖一時至於亾矢而不得,亦終有可嘉美之譽、尊顯之命而隨之。
胡瑗が解説します。此の一爻は陰柔の資質を以て上卦の中位に居り、大中の道と謙遜柔順の徳行とを具備して、而又羈旅の中に処するは、まさに《彖伝》の言う所の「柔得中乎外而順乎剛」のあの一爻なり。それはたとい柔順中正の徳有るも、しかるに外に身を寄せ跡を托して、乃ち能く自らを親近依附するの人の極少なるを知りて、それによって従来に所欲を強求せず・亦必ず得る所有るを執着せずして、即ち人の山鶏を射るは、只だ一箭を発して、手に得るか否かは本より預料し難きがごとし。しかるに彼は節操を持守して・困窘貧賤に因りて心志を動揺せず・始終として中正柔順の徳行を秉持せば、たとい一時に箭を射失して一の獲る所なきも、最終に仍として称美すべきの声誉と尊貴顕達の任命とが随いて来たる所有らん。
故孔子羇旅於周末,歴聘於諸國,亦未嘗必有所求,故有行可之仕,有際可之仕,有公養之仕。行可之仕者,言但於時可以庶幾行道則從之;際可之仕者,言但以其君交際之得其道則從之;公養之仕者,言於其國養待之得其禮則從之。
だから孔子は周朝の末年に列国に客游して・諸侯を遍訪するも、亦曽て何をも強求せざりし。《孟子》は彼の出仕するは三種の情形有るを記す。一は「見行可之仕」・二は「際可之仕」・三は「公養之仕」なり。いわゆる見行可之仕は、只だ当時に還有大道を推行するの指望有れば、彼は即ち应聘するを言うなり。いわゆる際可之仕は、只だあの位の国君は彼と交往するは礼数に合乎せば、彼は即ち应聘するを言うなり。いわゆる公養之仕は、只だあの箇の国家は客を奉養待遇するは礼制に合乎せば、彼は即ち应聘するを言うなり。
是其歴聘天下而未嘗固必其所求,然而所居之國必與聞其政。故子禽問於子貢曰:「夫子至於是邦也,必聞其政,求之與?抑與之與?」子貢曰:「夫子溫良恭儉讓以得之。夫子之求之也,其諸異乎人之求之與?」是言孔子有此盛徳,而於羇旅動止得其中,不固必其所求,而自以為嘉美之譽、尊顯之命也。象曰終以譽命上逮也者,上言上九也。六五為羇旅之人而能盡柔順之節以奉於上,故為上所信而有尊顯之命及之也。逮,即及也。
見るべし孔子は天下を遍訪して従来に強求せざるに、然而一国に到る毎に、必定に能く其の国の政事を参与聴聞す。だから《論語》は子禽の子貢に問うを記載す。先生は一箇の国家に到る毎に、一定にあそこの政事を聴き得るは、それは彼自らの求め来れるか、還是人家の主動に彼に告げたるかと。子貢は回答して曰く。先生は温和・善良・恭敬・倹朴・謙譲此の五種の徳行を靠りて得来せるなり。先生の求取するの方式は、大概は別人の求取するの方式と一樣ならざらんと。これ即ち孔子は此のごときの盛大の徳行有れば、だから羈旅の中に於いて一挙一動は皆中道に合乎して、何をも強求せずして、美好の声誉と尊顕の任命とは自然に彼に帰するを言うなり。《象伝》の「終以譽命、上逮也」、此の「上」は上九を指す。六五は身は羈旅の人を為りて能く柔順の節を尽くして去りて在上者に奉事せば、それによって上位者に信任せられて、尊顕の任命は便ち彼に惠及す。「逮」は即ち及・到達なり。
上九:鳥焚其巢,旅人先笑後號咷,喪牛于易,凶。象曰:以旅在上,其義焚也。喪牛于易,終莫之聞也。
上九の爻辞にいう。鳥巣は火に焼毀せられ、客居の人は先には歓笑して後には声を放ちて号哭す。平易の処に於いて牛を丟失せり、凶険なり。《象伝》にいう。旅人の身分を以て人の上に高居するは、理に照らせば即ち焚を遭うべきなり。平易の処に於いて牛を丟うは、到頭に人の肯んじて此の事を彼に告げるもなきなり。
義曰:巢者,鳥之所居,最在於上也。夫羇旅之道貴在謙下柔順,而上九以剛陽之質處上卦之極,無巽順之道而為髙亢之行。行於羇旅,所親比者寡少,而反為髙亢居眾人之上,則眾人之所共疾而欲害之。既眾人慾害之,則必失其所居而不得其安,如鳥之巢而見焚也。
胡瑗が解説します。巣は鳥の棲息するの地方、位置は最高処に在り。羈旅の道の最も貴ぶべきは謙卑柔順にして、而も上九は陽剛の資質を以て上卦の頂端に処して、謙遜柔順の道なきにして、行為は高亢自大す。外に客居するは、本来即ち能く自らを親近依附するの人は少なきに、彼は返って高傲に衆人の上に凌駕して、於是乎衆人は一同に彼を厭悪して・彼を加害せんと想う。衆人はすでに彼を加害せんと想えば、彼は必定に居所を失いて安身を得ざるに至る、即ち鳥巣の火に焼掉せらるるがごとし。
旅人先笑後號咷者,言旅之時托跡於外而得處眾人之上髙顯之位,則自為尊貴之極,故其心自喜而先笑;至於為眾人之所疾,以及焚巢喪位而不得安居,故後號咷也。喪牛于易凶者,牛者至順之物,言上九以剛陽而居卦之極,自為髙亢之行,而喪失其柔順之道於平易之間,故有凶也。
「旅人先笑後号咷」と説く。外に客居して却って居然に衆人の上の顕赫の位置に占到して、自ら以て尊貴は極点に到れりと為して、だから心中に窃喜して先に大笑す。衆人に厭悪せらるるに到りて、以て巣は焚かれ・位は奪はれて安んじて居る法なければ、於是乎後に声を放ちて号哭す。「喪牛于易、凶」と説く。牛は最も柔順の牲畜にして、これは上九は陽剛を以て一卦の頂端に居りて、自ら高亢の行を作して、平平常にして毫も設防なきの間に於いて自らの柔順の徳を丟掉せるを言い、だから凶険有るなり。
象曰以旅在上其義焚也,以旅居人之上,於義自當焚也,又況恃剛亢之質以處之者哉!喪牛于易終莫之聞也者,言處髙亢之地而身無巽順之道,雖有過惡之事而人無敢言之者,故曰莫之聞,而至於焚巢後號咷之凶也。
《象伝》の「以旅在上、其義焚也」。旅居者の身分を以て人の上に高踞するは、理に按じて本来即ち焚を遭うべきに、まして還有剛強高亢の性子を倚仗して来たりて自処するにおいてをや。「喪牛于易、終莫之聞也」と言うは、彼は高亢の地位に処して自身は毫も謙遜柔順の道なければ、たとい過失悪行有るも、亦人の敢えて彼に向かって進言するなければ、だから「莫之聞」と説き、終に巣は焚かれ・事後に号哭するの凶険の下場に落到するを言うなり。
巽 巽下巽上
巽:小亨,利有攸往,利見大人。
《巽》卦の卦辞にいう。謙遜順従は只だ小さく亨通する能くするのみ、前往する所有るに宜しく、徳位有るの大人に見え往くに宜しきなり。
義曰:按《序卦》云「旅而無所容,故受之以巽」。巽者,入也。蓋言凡人之為羇旅,託身於外,比己者寡,若不巽順則無所入,是必有巽順之德,然後有所入。然謂巽者,以其巽體是風。夫風者,然無狀,不知所至之地,無所不入,故曰巽。
胡瑗が解説します。《序卦伝》の「旅而无所容、故受之以巽」の説法に依れば、外に客居するの人は容身の処なければ、だから《旅》卦の後に接きて《巽》卦を排す。巽の意思は進入なり。これは人は羈旅の客と為りて・外に身を托して、能く自らを親近するの人は甚だ少なければ、若し謙遜順従せざれば、即ち容身進入すべきの地方なからんを言うなり。必ず先ず謙順の徳有りて、後に乃ち進入し得べきなり。巽と称作する所以は、巽此の一卦の卦体は風を象徴すればなり。風此の種の物は固定の形状なく・亦それは何処に吹き到らんとするかを知らざるに、却って孔なきに入らざるなければ、だから巽と叫ぶなり。
小亨者,夫立大事、立大功、欲成天下之業者,必須有剛健之徳、果斷之心,勇於所行,然後有所立,其志得以大通,其道得以大行。今此巽卦全用巽順,有傷於柔懦,其道不得以大行也,故但小亨而已。
「小亨」と説き到るは。凡そ大事業を建立し・大功勲を成就し・天下の大業を完成せんと想うの人は、必ず剛強健動の徳行と果敢決断の心志とを具備して・勇んで行動に付して、後に乃ち樹立する所有りて・志向は乃ち能く大いに通達し・主張は乃ち能く広く施行すべきなり。今、巽卦は全て謙遜順従に靠りて、柔弱怯懦に流るるを免れざれば、主張は能く世に大行する法なし、だから只だ小さく亨通するのみと説くなり。
利有攸往者,夫人剛健果決之性,或傷於暴而過於中道,則所往之地必無所措置,必無所詳審,是以必無所利矣。今此巽卦能用巽順,則是所往當獲所利也。利見大人者,夫人以柔順之道,雖為能順於人而有利攸往,然其全用柔順則失於太弱而不能自斷,故必利見大有徳之人以斷決之,使一歸於中正也。
「利有攸往」と説き到るは、人は若し一味に剛強果決せば、暴躁に流れて中道を超出し易ければ、ならば何処に到るも安排は恰当ならず・考慮は周到ならざれば、それによって必然に利の言うべきなきなり。今、巽卦は謙遜順従を運用するを懂得すれば、だから前往すれば即ち利益を獲得する能くす。「利見大人」と説き到るは、人は柔順の道を憑りてたとい能く他人に順応して・前往すれば利有るも、しかるに完全に柔順に依頼すれば即ち太も軟弱に失して・事に遇えば能く自ら決断せざれば、だから必ず徳行の崇高なるの大人に見え往きて、彼に由りて自らのために裁断を替して、一切をして中正に帰せしむるを要す。
彖曰:重巽以申命,剛巽乎中正而志行,柔皆順乎剛,是以小亨,利有攸往,利見大人。
《彖伝》にいう。上下両卦は皆巽にして、反復して政令を申明するを象徴す。陽剛者は能く謙順にして而又中正の位に居れば、それによって心志は施行を得たるなり。两箇の陰柔の爻は皆陽剛に順従す。だから能く小さく亨通して、前往する所有るに宜しく・徳位有るの大人に見ゆるに宜しきなり。
義曰:重巽以申命者,此明巽之義也。言上下二體皆為巽體,故曰重巽。聖人法此重巽之道以申行命令,不可止利於一身、便於一方,必順天下之心,合天下之慾,若風之所行,天下萬物至纎至悉莫不被之也。
胡瑗が解説します。いわゆる「重巽以申命」は、巽卦の意義を闡明するに在り。上下の两箇の単卦は皆巽なれば、だから重巽と称す。聖人は此の種の一再に謙順するの道理に取法して来たりて政令を反復申明す。政令は已むを得ず只だ自ら一人に対して利有り・只だ某の一方をして便利ならしむるべからずして、必ず天下の人の心願に順応し・天下の人の期望に合乎して、風の吹き過ぐる所の地方のごとく、天下の万物はどのように細微瑣屑なるを論わず、其の覆被を受けざる一樣なからしむべきなり。
剛巽乎中正而志行者,此指九五而言也。夫九五以剛陽之質處巽之體,又居上卦之中,以陽居陽,履得其中正之位,居於至尊而又巽順,所行得其中,所履得其正,則其志大行,其發號施令則天下之人無不順者也。柔皆順乎剛者,柔謂初六、六四也,皆以柔順之質處巽體之下,而皆上順於剛陽之爻,是以下而奉乎上,以卑而奉乎尊也。
「剛巽乎中正而志行」と説くは、これは九五を指して言うなり。九五は陽剛の資質を以て巽卦の中に処して、また上卦の中位に居り、陽爻を以て陽位に居りて、踏む所はまさに中正の位なり。身は至尊の位に在りて而又能く謙遜順従して、行事は中道に合乎し・居る所は正道に合乎せば、それによって心志は能く大行して、一旦号令を発布すれば、天下の人は順従せざるなきなり。「柔皆順乎剛」と説く、此処の柔は初六と六四とを指し、两爻は皆柔順の資質を以て各自のあの一箇の巽体の最下に処して、而も上に向かって陽剛の爻に順従すれば、これ即ち在下者を以て在上者に奉事し・卑者を以て尊者に奉事するなり。
是以小亨利有攸往利見大人者,言上有柔順之徳而順於眾,復引此彖辭而結之也。言九五以剛而居於巽體之中,初六、六四能執柔順之道以下而奉於上,全任柔順,不能大有所為,是以得其小亨,而所往之地、所入之處皆有所合。然其性巽順而傷於過柔,所申之命令、所行之事不能大有所成,是必利見大有徳之人以果斷而決白之,然後所申之命令、所行之事施之於人莫有不順之者,如風之及於物罔有不入者也。
「是以小亨、利有攸往、利見大人」と説くは、在上者は柔順の徳を具備して能く衆人に順応するがゆえに、《彖伝》は於是乎重新に卦辞を引用して来たりて総結を作るなり。これは九五は陽剛を以て巽体の中位に居り、初六・六四は則ち柔順の道を守住して、下に在りて上に奉事するを言うなり。全然に柔順に依頼すれば、即ち能く大いに作為有る能わざれば、だから只だ小さく亨通を得るのみ、不過往く所の処・進む所の門は還算に合い来るなり。しかるに其の性情は謙順にして過柔に失して、申明する所の政令・推行する所の事情は能く大なる成就有る能わざれば、それによって必ず徳行の崇高なるの大人に見えて、彼に由りて果断に裁決辨明して、後に申明する所の政令・推行する所の事情は人の身上に施加せられて、乃ち順従せざる者なからん、即ち風の万物の上に吹き到るは、透入する能わざる一処なきがごとし。
象曰:隨風,巽。君子以申命行事。
《象伝》にいう。風は相継いで起きて、一陣に接いて一陣、これ即ち《巽》卦の取象なり。君子はこれに取法して来たりて政令を反復申明し・政事を推行す。
義曰:隨,順也。夫巽之體上下皆巽,如風之入物,無所不至,無所不順,故曰隨風巽。君子法此巽風之象,以申其命、行其事於天下,無有不至而無有不順者也。
胡瑗が解説します。「随」は即ち順なり。巽卦の卦体は上下は皆巽にして、好像に風の万物に吹入るは、到らざるの処なく・順わざるの処なきがごとければ、だから「随風、巽」と言うなり。君子は此の種の巽風の形象に取法して、政令を申明し・政事を天下に推行せば、即ち能く到らざる一処なからざるを為し到りて、亦順服せざる一処なからん。
初六:進退,利武人之貞。象曰:進退,志疑也。利武人之貞,志治也。
初六の爻辞にいう。進むも亦非なり・退くも亦非なり、宜しく勇武の人のごとく正道を固守すべし。《象伝》にいう。忽ち進み忽ち退くは、心志は疑惑して定まらざるなり。武人の貞正に取法するに宜しきは、心志を整治端正せんと要するなり。
義曰:此一爻以陰柔之質居巽之體,在一卦之下,是至卑者也。既處於卑而又上承於眾剛,則是柔弱怯懦,遲疑猶豫,不能自決,而或進或退,無所定也。武人者,剛武之士也。言凡人有剛則必濟之以柔,有柔則必濟之以剛,使剛柔之道皆得其中,然後事可以成,道可以行。
胡瑗が解説します。此の一爻は陰柔の資質を以て巽卦の中に処して、また全卦の最下に在りて、是れ最も卑微なるなり。すでに身は卑下に処して、上面に又要众多の陽爻を承接すれば、於是乎柔弱怯懦・迟疑猶豫と顕れて、能く自ら主意を拿らず、一忽れに進まんと想い・一忽れに退かんと想いて、主張を拿定する能わざるなり。いわゆる「武人」は、剛強勇武の人なり。凡そ人は若し性情は剛強なれば、必ず柔和を用いて来たりて調剤せねばならず。若し性情は柔和なれば、必ず剛強を用いて来たりて補足して、剛と柔とをして皆恰好其の処に到らしめて、後に事情は乃ち為し成るを得て・主張は乃ち行き通るべきなり。
今初六以陰柔之質,復在一卦之下,又居巽體,是全用柔巽者也。既全用柔巽,是以有進退之疑,故利在武人之正,用其剛健之德、果敢之志,勇於行事,使所行之事、所施之道剛柔相濟,皆得其中,然後可獲其吉也。象曰利武人之貞志治也者,夫既柔弱怯懦而不能自決,則於身亦不能自治;既不能自治,安能治於人哉?故必用其剛武之徳相濟而行,則可以治正其志而及於人也。
今、初六は陰柔を以て質と為して、また全卦の最下に処し、還有身は巽体の中に在りて、是れ完完全全に只だ柔順を用うるの一爻なり。まさに全て柔順を用うるに因りて、乃ち進退不定の疑惑有るに至れり、だから利有るの弁法は武人の正道に取法するなり。剛強健動の徳行・果敢決断の意志を拿出して・勇んで事を弁じて、弁ずる所の事・行う所の道をして剛柔は互相に調剤して・皆中道に合乎せしめば、此のようで乃ち能く吉祥を獲得すべきなり。《象伝》の「利武人之貞、志治也」。すでに柔弱怯懦して能く自ら決断せざるに到れば、ならば自身をも管好する能わざらん。自身をも管好する能わざれば、またどうして去りて別人を治理せんや。だから必ず剛強勇武の徳行を用いて来たりて調剤して後に行動して、乃ち能く自らの心志を整治端正して、進みて人に推及すべきなり。
九二:巽在床下,用史巫紛若,吉,無咎。象曰:紛若之吉,得中也。
九二の爻辞にいう。謙卑して床下に伏するの地步に到るは、若し以て神明に事奉して・祝史と巫覡とを請じて紛紛として福を降らせば、則ち吉利、過咎有ることなからん。《象伝》にいう。福祉の紛紛として至るの吉祥は、九二は中に居りて其の分寸を得たるがゆえなり。
義曰:床者,卑猥之地。蓋此一爻本有剛陽之質而居於巽體,又處陰柔之位,是其謙巽過甚而所行於卑猥之地,不得其中道者也。用史巫紛若吉者,言此爻巽順過甚,以甚巽而施之於身、接之於人,則事必不立;而施於事神,則可以無咎。
胡瑗が解説します。床下は卑賤委瑣の地方なり。此の一爻は本は陽剛の資質を具有するに、却って身は巽体の中に在りて、また陰柔の位に処せば、それによって謙卑するは頭を過ぎて、行事は卑瑣の境地に落到して、中道に合乎せざるなり。「用史巫紛若、吉」と説くは、此の一爻は謙順は過度なるを言うなり。此の種の過分の謙卑を拿りて自らの身上に用い・人と交接するの上に用いれば、事情は一定に弁じ成る能わざらん。但し若し以て神明に事奉するの上に用いれば、即ち過咎有ることなからん。
史巫者,史即祝史也,巫即巫覡之人,皆所以道人之言以告於鬼神,而復道鬼神之意以達於人者也。言九二既巽順過極,失於中道,惟是用以事鬼神則可也。夫事鬼神者必盡其至誠,巽其言辭,以使精誠上通,則明靈降監,福祉來應,紛然眾多,以獲其吉而無咎也。象曰紛若之吉得中也者,言本以剛健之徳而反居陰柔之位,是失其中道,然施之以事鬼神,則得其中矣。
いわゆる「史巫」。史は即ち祝祷を掌管するの祝史、巫は即ち男女の巫覡にして、彼らは皆人の話を鬼神に転達し・また鬼神の意思を人に伝達するを負責す。これは九二は謙順はすでに頭を過ぎて・中道を失掉して、只だ以て鬼神に事奉して乃ち恰当なるを言うなり。鬼神に事奉するの人は必ず至誠を竭尽して・言辞を恭順に説き到りて、一片の精誠を神明に上達せしめて、於是乎神霊は降臨して鑑察して、福気は一件に接いて一件に回応して、紛紛として来たれば、それによって吉祥を獲得して過咎なし。《象伝》の「紛若之吉、得中也」は、九二は本は剛健の徳を以てするに却って陰柔の位に居れば、これは本は中道を失掉するなりを言うなり。しかるに此の份の過分の恭順を鬼神に事奉するの上に用到すれば、返って恰好其の処に到るなり。
九三:頻巽,吝。象曰:頻巽之吝,志窮也。
九三の爻辞にいう。眉頭を皺めて勉強に謙順するは、人をして惋惜せしむ。《象伝》にいう。勉強に謙順して可惜なるは、心志はすでに路を走り尽くしたるがゆえなり。
義曰:頻者,頻蹙憂愁之貌。九三以剛陽之質又處剛陽之位,復在一卦之上,是其全剛亢而不能巽者也,居巽之時失其謙巽之道矣。然而上為六四之所憑陵,下乘九二之剛,然九二雖是剛徳,蓋居於陰位,亦得巽順之道。今九三則是上承六四,下乗九二,勢不自得,是以舍其剛亢之道,不得已而為柔巽,屈其心志,憂愁然不得已而為之,非出於至誠,如是亦可鄙吝者也。
胡瑗が解説します。「頻」は眉を皺めて愁を発するのさまなり。九三は陽剛の資質を以て又陽剛の位次を占踞して、還有下卦の頂端に処して、是れ完全に剛強高亢にして・能く謙順せざるの一爻にして、身は巽卦の時に処するに、却って謙遜の道理を丟掉せり。しかるに其の上面は六四に圧制せられ・下面にまた九二の陽剛の上に騎れば、九二はたとい陽剛の徳に属するも、却って陰位に居るに因りて、同じく謙順の道を得着せり。今、九三は上は六四を承接し・下はまた九二を凌乗して、形勢の上に於いて処処に自在ならざれば、於是乎只だ剛強高亢の作風を放棄して、已むを得ず柔順の様子を装出して、自らの心志を委屈して、愁眉苦臉に勉強して之を為す、併せて真誠より出づるにあらざるなり。此のようの謙順は、亦即ち鄙薄惋惜するに値うなり。
六四:悔亡,田獲三品。象曰:田獲三品,有功也。
六四の爻辞にいう。悔恨は消失し、田獵は三類の獵物を獲得せん。《象伝》にいう。田獵は三類の獵物を獲得するは、功労有るを説明す。
義曰:六四以陰居陰而又居巽之體,亦謙巽過甚,而又行不得其中,是以有悔也。然以陰居陰本得其正,而上承九五之君,竭其志誠,盡其巽順以奉其上,故得悔亡。且孔子曰「事君盡禮,人以為諂也」,言人之事君其柔巽過甚而見疑,然不可以見疑而變其志,當盡其巽順之節,不失其為臣之道以奉於上。
胡瑗が解説します。六四は陰爻を以て陰位に居り、また身は巽体の中に在りて、同じく謙卑するは太に過ぎて、而且に行事は中道に合乎せざれば、だから本来は悔恨有るなり。不過それは陰を以て陰に居りて、本来即ち其の正を得、また上に向かって九五の君に承事して、誠心を竭尽して・恭順を極処に為し到りて来たりて君上に奉事せば、それによって悔恨は消失す。孔子は《論語》の裏に「事君尽礼、人以為諂也」と説き過ぎたり、意思は臣子は君主に事奉して若し恭順するは過分に到れば、即ち人に疑うるは諂媚と為さるるを。しかるに能く人に猜疑せらるるに因りて自らの志節を改変すべからずして、仍として応に恭順の分寸を尽くして・臣と為るの道を失掉せずして来たりて君上に奉事すべきなり。
承流宣化,奉君之威權,行君之事,所行必有成功,是猶田獵之時而獲其禽獸以充三品之用。三品即一為乾豆,二為賓客,三為充君之庖是也。象曰田獲三品有功也者,言六四雖始有悔,然能竭其巽順以承事於君,則所行之事必有成功,如田獲三品之禽也。蓋大臣之事君,若不以恭巽至正之道而尚於諂詖佞媚之行,則不可免其誅戮之禍,況於悔乎?於此盡其巽順而不失其正,則可以悔亡而有其功也。
君上の教化を承接して併せて宣布を加え・君主の威権を奉行して・君主の政事を弁理して、作り起せば必定に成效有りて、これ譬えば田獵の時に禽獣を獵得して、以て三種の用途を供すべきがごとし。いわゆる三品は、第一等は干肉を制成して宗廟の祭祀を供し・第二等は以て賓客を招待し・第三等は君主の厨房を充実す。《象伝》の「田獲三品、有功也」は、六四は起初はたとい悔恨有るも、但し能く恭順を竭尽して去りて君主に承事せば、弁ずる所の事は即ち必定に成效有るを言い、譬えば田獵は三類の獵物を獲得するがごとし。大臣は君主に事奉して、若し恭順至正の路子を走らざれば、返って諂媚巧言・邪佞取寵の行徑を崇尚せば、ならば誅戮の禍をも躲掉する能わざらん、まして只だ悔恨のみにおいてをや。此処に於いて能く其の恭順を尽くして而又其の正を失わざれば、即ち能く悔恨を消掉して併せて功労を立下すべきなり。
九五:貞吉,悔亡,無不利,無初有終,先庚三日,後庚三日,吉。象曰:九五之吉,位正中也。
九五の爻辞にいう。正を守れば則ち吉、悔恨は消失して、不利なきことなし。起初は順わざるも最終に好きの結果有り。庚日の前の三天に於いて預め申明し・庚日の後の三天に於いて再三に叮嘱すれば、吉利なり。《象伝》にいう。九五の吉を得るの所以は、処する所の位次はすでに正にして又中なるがゆえなり。
義曰:言九五處人君之位,為巽之主,當以謙順之德下接於臣。今五以剛陽之質復處剛陽之位,失於太剛,無柔順之道,所以有悔也。然以居中正之位,有剛明之才,而不失其治天下之道,故獲吉而悔亡;既獲吉而悔亡,則所往無不利矣。無初有終者,言五始以剛強之道,無巽順之徳以接於下,不能感悅於人心,所以無初也;然而有剛明中正之德,得所以治天下之道,故有終也。
胡瑗が解説します。九五は身は君主の位に居りて、是れ巽卦の主爻、本応に謙遜柔順の徳行を以て下に向かって臣子を接納すべきなり。今、九五は陽剛の質を以て又陽剛の位に処して、過剛強に失して、柔順の道を缺少せば、だから悔恨有らん。しかるにそれは中正の位に居りて、剛強明察の才幹を具備して、天下を治理するの正道を失掉せざれば、それによって吉祥を獲得して悔恨は消失す。すでに吉を得て又悔なければ、ならば何を為すも不利なきことならん。「无初有終」と説くは、九五は起初は剛強の道を憑りて行事して、謙順の徳なきにして去りて下属を接納して、能く人心を感動取悦せざれば、だから開頭は順わざるを言うなり。但し彼は終究に剛明中正の徳行を具備して、天下を治理するの正道を掌握せれば、だから結局は好きなり。
先庚三日後庚三日吉者,凡《易》中言庚甲者,皆十日之名,取申令之義也。甲於五行為木,於四時為春,仁恩之道也,蓋蠱者承衰亂之後,聖人當以仁恩之令拯濟之,故曰先甲後甲。庚者於五行為金,於四時為秋,金主斷割,秋主嚴厲,此巽為風之象,無所不入,主人君之號令。
「先庚三日、後庚三日、吉」と説く。《周易》の中に凡そ庚日・甲日に提到するは、皆十天干の中の日子の名称にして、取る所は反復して政令を申明するの意なり。甲は五行に於いて木に属し・四季に於いて春に属して、仁愛恩沢の道を代表す。《蠱》卦は衰敗混乱の後に承接して、聖人は応に仁愛恩沢の政令を用いて去りてそれを救治すべければ、だからあそこは「先甲三日、後甲三日」と説く。庚は五行に於いて金に属し・四季に於いて秋に属して、金は断割を主り・秋は厳厲を主る。而も巽卦は風を取りて象と為し、風は孔なきに入らざるなければ、まさに君主の号令を主管す。
言五處人君之位,其發號施令在於當,其賞罰在乎信,使善者知勸,惡者知懼。然賞罰號令之出,將使天下之人皆服從之,固不可驟然而行,故先三日以申諭之,後三日以丁寧之,使民知其號令之必行、賞罰之必信,有所戒懼,則天下大治而吉矣。象曰九五之吉位正中也者,五所以獲吉者,蓋行得其中,履得其正,而不失治天下之道也。
九五は身は君位に居りて、号令を発し施令するは恰当を貴び、賞を行い罰を施すは守信を貴びて、善を為るの人をして勉励を受くるを知らしめ・悪を為るの人をして畏懼する所有るを知らしむべきなり。不過賞罰号令は一旦発出せられて、天下の人をして皆服从せしめんと要するに、本来即ち能く突然に施行する能わざれば、だから庚日の前の三天に於いて先に申明暁諭を行い・庚日の後の三天に於いて再び叮咛を加えて、百姓をして号令は必定に執行され・賞罰は必定に兌現せらるるを明白せしめて、心に戒懼を存せしめれば、天下は即ち大治して吉祥ならん。《象伝》の「九五之吉、位正中也」、九五の吉を獲ずるの所以は、行事は中道に合乎し・処する所は正道に合乎して、天下を治理するの根本を失掉せざるがゆえなり。
上九:巽在床下,喪其資斧,貞凶。象曰:巽在床下,上窮也。喪其資斧,正乎凶也。
上九の爻辞にいう。謙卑して床下に伏するの地步に到りて、財銭と利斧とを丟掉せり、此を守りて変わらざれば則ち凶なり。《象伝》にいう。謙卑して床下に伏するは、上位に処して而已に窮尽に到れるがゆえなり。財銭利斧を丟掉したるは、まさに凶険の在る所なり。
義曰:床下者,卑猥之地也。言上九本有剛明之質,而居重巽之極,處無位之地,是所行謙巽亦過甚而至於卑猥者也。喪其資斧貞凶者,資,貨也,人之才也;斧,斤也,善於斷割。言上九所以至於卑猥者,蓋處無位之地,無剛明之才,又不能斷割以自決其事,故於貞道凶者也。象曰巽在床下上窮也者,處巽之極,其道窮困,以至卑猥也。正乎凶者,上九本有剛明之徳可以自斷,而反處一卦之極無位之地,是失斷割之才於正道而凶也。
胡瑗が解説します。床下は卑賤委瑣の所在なり。上九は本来剛強明察の資質を具有するに、却って重巽の頂点に居りて、職位なきの地方に処せば、それによって彼の謙卑も亦頭を過ぎて、卑瑣の地步に落到せり。「喪其資斧、貞凶」と説く。「資」は財貨、譬えば人の才具。「斧」は斧頭、善く決断するの義を取るなり。上九の卑瑣に淪落したる所以は、身は无位の地に処して、剛明の才の用うべきなく・又能く果断に自らの事を作主する能わざれば、だから正を守るに就きて言えば返って凶険と為るなり。《象伝》の「巽在床下、上窮也」は、彼は巽卦の尽頭に処して、路子はすでに窮困に走り到りて、以て卑瑣に流るるに致れるを言うなり。「正乎凶也」と言うは、上九は本は剛明の徳有りて以て自ら決断すべきに、却って返って一卦の極端・无位の地に処して、決断の才幹を丟掉するに等しく、正道の上に於いて返って凶を招くを言うなり。
