重刊『人子須知』資孝地理心学統宗
重刊『人子須知』資孝地理心学統宗
風水堪輿典籍
まず読む書が形勢か理気かを見極めてから条文に入るのがよい。派を跨いだ術語の混用が、この門で最もありがちな誤読の源である。
凡例
一、是編為人子術,非為術家設,故凡不傳之秘,一一敷陳口訣而作詩歌,以為不記誦便。二、是編惟務通俗,俾易知識,初無意於組織文辭,以絢觀美。是以直敘其旨而不嫌於鄙,詳述其奧而不慮乎繁。即於前後之重複,辨證之瑣屑,與夫照應不齊,言論膚淺,俱弗暇恤耳。
第一条、この書は人の子(親に孝を尽くす子、以下「人子」)が孝を尽くすために作られた実用の学であり、職業的な術士のために立てた説ではない。そこで古来秘して外に伝えなかった口訣を、いずれも一つずつ敷き並べて詩歌に編み、読者が暗記に苦しまずに済むようにした。第二条、この書はひたすら通俗であることを務め、人が容易に理解できればよいとして、もともと文辞を凝らし組織して観感の華美を求める意図はない。したがって宗旨を直截に叙述し、鄙陋と嫌われることを恐れず、奥深いところを詳しく展開しても煩瑣になることを案じない。前後の文の重複、辨析・考証の瑣末さ、照応の不備や議論の浅近さといった欠点については、いっさい顧みる余裕がなかったのである。
三、是編所收諸名地圖,不過為釋疑設耳。故於緊要相關處,援古證今,具圖詳說以發明之。其間或因論龍穴而略于于砂水,或因論砂水而略於龍穴,惟所重處特加詳焉,其它莫能悉及。蓋寸箋半簡間,摹數百十里山川,烏可兼備哉!闇者或病其不類,緣識見不同耳。祝觀物先生云:“圖圖圖,模糊模糊復模糊。一人摹一樣,十人畫九圖。”信哉!善觀者當自得其妙,又安可按圖索驥?
第三条、本書に収めた各地の名墓の図は、もっぱら疑難を解くために設けたものである。そこで紧要に関連する箇所では、いずれも古例を援用して今の事実に照らし、図形を添えて詳しく説明し、その理を闡明した。その中には「龍穴(りゅうけつ)」を論じるために「砂水(さすい)」を略したものもあり、砂水を論じるために龍穴を略したものもあり、重視する箇所だけをとりわけ詳しくし、その余はすべてに及ぶことができなかった。そもそも方寸の紙片の間に数百里の山川を描き写すのに、どうして万全を期せられようか。見識の浅い者は図が実際の山に似ていないと病めるかもしれないが、それは見る目の違いにすぎない。祝観物先生は言った。「図よ図よ図、模糊模糊また模糊。一人が写せば一つの姿、十人が描けば九つの図。」まことにその通りである。図を善く見る者はおのずから図の外にその妙を会得するのであり、どうして図様を頼りに按図索驥できようか。
四、凡諸名地圖,皆予兄弟足目所經涉者,或名師扦點,或課驗不爽,或發越確應,必有明徵可為法則者斯收之。否則,無徵不信,何可泛收?五、凡諸地圖,必著其土名山向,某師所卜,及詳所出人物官爵,不以瑣屑自嫌者,固所以徵其實跡,亦欲人子因此可以索微探頤,得意於筆舌之外,毋以是而反啟疑議焉。
第四条、収録した各地の名墓の図は、いずれも我ら兄弟が自ら足で歩き目で見たものである。あるものは名師が自ら点定した穴、あるものは繰り返し検証して誤りのなかったもの、あるものは後に発達して確かに応験したものであり、必ず明らかな証拠があって法式とし得るものを収めた。さもなくば証拠なく信ずるに足らず、どうして広く濫収できようか。第五条、各地の図には必ずその地の土名、山の坐向、どの地師が卜したかを記し、またその家から出た人物と官爵を詳しく載せる。瑣屑を嫌わないのは、もともとその真実の証跡を確かめるためであり、また人子がこれによって精微を索め奥義を探究し、筆舌の外に意を得て、これらの記載によってかえって疑いや議論を起こさないように願うためである。
六、凡引用諸名師語,或稱姓氏,或稱書名,或稱號,或稱字,或止稱某氏某公,從便也。其不著者,闕疑耳。多吾鄉者,考據切實雲。七、凡折衷諸說是非,亦惟據於已驗仙蹟,及名師議論之長者取證也。
第六条、各位の名師の言を引用するにあたり、あるいは姓を称し、あるいは書名を称し、あるいは号を称し、あるいは字を称し、あるいはただ某氏・某公と称するのは、すべて随宜に便を取ったからである。出所を記さなかったものは、疑わしきを闕いて妄断しないためである。本郷の地師を引用するのが最も多いのは、郷里の事は考証が最も切実だからである。第七条、諸家の説の是非を折衷判断するにあたっても、ただすでに応験した先賢の名穴の遺跡と、各位の名師の議論のうち立脚できる部分とに拠って証を取るのであり、空しく論を立てることはしない。
八、凡收諸名地圖,既有敘說矣,又間有補義釋義,及有傳奇傳疑者,或以取證,或以申明,非瑣也。九、凡設龍穴砂水諸圖式,立法有不得不然者,但不可執泥耳。生山不與畫山同,固有山水奇妙處,雖良工不能施其巧,在智者觸類旁推可也。
第八条、収録した各地の名墓の図には、すでに叙説の文字があるが、その間にしばしば「補義」「釈義」を附し、また奇聞や存疑の条目を記載している。あるいは証を取るため、あるいは理を明らかにするためであって、瑣屑で無用というものではない。第九条、「龍」「穴」「砂」「水」の種々の図式を立てるにあたり、立法には自ずからそうせざるを得ない道理があるが、読者はそれに拘泥し死守してはならない。生きた真の山と紙上に描き出した山とは結局異なり、山水にはもともと奇妙にして描写し難いところがあり、たとい高明な画工でもその巧みを施すことはできない。すべては知恵ある人が一隅を挙げて三隅を反り、類に触れて傍らに通ずるほかないのである。
十、凡名地,有遠至數百年後而方有福應者,有近只數年而即有福應者,世俗多泥葬地後所生人方能受蔭,即此太遠太近,豈不荒唐哉?予兄弟初嘗深疑,久而徧徵,灼然不爽。蓋驟發遲發,亦猶悟學有頓門漸門之義,漸發乃常理共知,不必辨。其驟發者,如陶氏之牛眠穴、王氏之折臂三公地,固已彰彰明驗於世,不可謂無此理也。茲於編中所收諸地,惟取其眞是應蔭者,不以年代遠近拘,特書諸此,以告觀者毋疑焉。
第十条、名地には、あるものは数百年後になって初めて福報の応験が見られ、あるものは数年のうちにすでに応験する。世俗は多く一つの説に固執し、下葬後に生まれた者だけが蔭庇を受けられると考えるが、ではこのような遠すぎたり近すぎたりする応験は、荒唐の話になってしまわないか。我ら兄弟も初めは深く疑っていたが、長くなるにつれあちこちで検証し、分毫の差もないことを知った。発福に速い遅いがあるのは、禅を参じ道を悟るのに「頓門」と「漸門」の別があるようなものである。ゆっくり発福するのは誰もが知る常理であり、あえて弁ずるまでもない。驟然に発福するものについては、例えば晋の陶侃の「牛眠穴」や、王氏の折臂三公を出すべき地など、すでに世に明らかに応験しており、この理がないとは言えない。いま書中に収める各地は、確かに真に蔭応のあるものだけを取り、年代の遠近に拘束されず、わざわざここに記して、読者が疑いを生じないようにするものである。
十一、不佞嘗謂地學須致力三多,而究心地書不與焉。何謂三多?多參明師則傳授眞而所聞博,多觀古格則所見廣而是非明,多經窀穸則歷練精而眞見定。地書固已多覽,然紙上陳言又在三多之外矣。且人子安能盡此三多?故於是編多載名圖,俾人子精加紬繹,虛心詳究,三多在其中。久之,自有心領神會,豁然貫通,而俗師淺巫莫能誑之,不於慎終之者有補矣夫!
第十一条、私が常に言うのは、地理を学ぶには「三多」に工夫を用いなければならず、埋头して地理書を読むことはその中に算入しないということである。三多とは何か。高明な地師を多く参訪すれば、得る伝授は真切で、聞くことは広博になる。前人の残した名墓の格局を多く見れば、見るところは広く、是非は分明になる。下葬・開壙の事を多く自ら経験すれば、練歴は精熟し、真の見識が定まる。地理書はもちろん多読すべきだが、紙上の陳言は結局三多の外にある。まして人子たる者がどうしてこの三多をすべて行えようか。そこで本書は名墓の図式を多く載せ、人子に仔細に抽繹し虚心に詳究させることで、三多の工夫をその中に寓すのである。久しきに及べばおのずから心に領り神に会し、豁然として貫通し、庸俗な地師や浅陋な巫者にもはや騙されることはない。これは葬送の大事を慎重に執り行おうとする者にとって、一つの助けではないか。
十二、凡巨室,美地固非一穴。楊公所謂“眾墳合力卻成大”,又云“取眾墳參互議”,斯確論也。故茲所收之圖,有一家而二三地者,職此耳。十三、地理家諸書繁浩,條緒多端,眞贗並列,未易悉辯。緣督仙翁所謂“得訣歸來好看書”,確論矣!茲於編中撮其精當者,取以質證。或摘一二句,或採一二節,或間摭庶人之言,或備錄一家之說,或斷章而取義,或檃括以為辭,意在發明,非敢務博也。編中曰右、曰按、曰已上、曰補議,皆理有未盡,而復申明之,特變其發語之辭耳。
第十二条、大族の家では、良い地はもともと一穴にとどまらない。楊筠松の言う「衆墳合力して却って大を成す」、また「衆墳を取りて参互に議す」は、いずれも確切な論である。だから本書に収める図には、一家で二三箇所の地を占めるものがあるのはこのためである。第十三条、地理家の著述は浩繁で、頭緒は多く、真書と偽書が混雑して並び、一々分弁するのは容易でない。趙縁督仙翁の言う「訣を得て帰りて書を看るに好し」は、まことに確論である。本書は各家の書から精当な部分を摘取して是非を質証する。あるいは一二句だけ摘み、あるいは一二節を採り、あるいは民間の平常な人の説をついでに拾い、あるいは某一家の整段の議論を完全に録し、あるいは章を断じてその義を取り、あるいは原意を括約して己の言葉とする。意図するのはいずれも道理を闡発することにあり、博洽を誇ることを敢えてしない。書中に現れる「右」「按」「已上」「補議」という種々の字は、いずれも道理がまだ尽きていないためにさらに一層の申説を加えるもので、ただ発語の辞頭を換えたにすぎない。
郢中重刻『人子須知』序
德興徐維志、維事兄弟蓋孿雲。少為邑諸生。遭家難,棄去,治形家言。德興故多堪輿家,見,以為未慊於志,更走四方,求勝己者而師事之。所歷燕、齊、吳、楚、閩、粵,名城大都偉麗之觀,絶嶂幽壑猿鳥之徑,遺墟荒隴,狐兔之宮,皆窮躋翔覽然後已。凡三十年而業成,著書曰《人子須知》。
江西徳興の徐維志・徐維事の兄弟二人は双生児である。年少の頃はともに県学の生員であったが、後に家に変故があり、挙業を棄てて堪舆形家の学を修めることに転じた。徳興は古来堪舆家が多く、二人は遍く訪ね歩いたがなお心志を満たすことができず、そこで四方に奔走し、己に勝る者に遇えば皆その師とした。足跡の及んだところは、今の河北・山東・江蘇・湖広・福建・広東の各地に及び、名城大都の壮麗な景観も、絶壁深谷で猿鳥のみ通じる小径も、廃墟荒塚で狐兎が出没する旧墓も、すべて登り遍覧してやまなかった。前後してちょうど三十年で学業が成り、一部の書を著して『人子須知』と名づけた。
學士大夫雅好之,造請無虛日,庭中羔雁為群矣。先通奉公居王父喪,取其書置几上,手校讎,紙弊墨渝弗釋也。無何,先通奉不祿。諸孤藐焉懼不足以襄大事,則迎致維事來與計之。君故儒者,恂恂若不能言。比登覽,即千里在指顧中。聚訟可否,眾莫能決,君徐出詞組而定,人人遜弗如也。
士大夫たちはこの書を大いに愛し、門を登って教えを求める者が一日も絶えることがなく、庭には見舞いの礼として贈られる羔羊・大雁が群を成した。私の先父の通奉公は祖父の喪に服する時、この書を取って案頭に置き、自ら校勘し、紙が摩滅し墨が変色するまでも放すことを惜しんだ。ほどなく先父が世を去った。幾人かの孤児は年幼く力弱く、自らこの大事を執り行えないことを恐れ、徐維事を迎え請うて議した。徐君はもともと読書人の出で、謙恭であまり言葉を解しないかのようであったが、山に登って視察するに及ぶと、千里の山川が彼の指さし顧眄する間に尽くあった。衆人が一つの地の可否を争って誰も決められない時、徐君は从容として数句の断語を出し、事は定まり、人は皆自ら彼に及ばないと認めた。
間嘗請曰:“述兄弟三十年功緒,盡在斯編矣。今又十年,而聞見日益。太史公幸為我忠臣。”不佞謝不敏。會君有郢曾司空聘,而維志適從荊南來,遞出所新得,相資損益殆半。司空遂以付剞劂焉,而謂不佞與聞首事,屬序以遠其傳。不佞竊嘆夫術業之難工,而盛名不易居也。
彼はかつて私に個人的に頼んで言った。「我ら兄弟の三十年の功夫の成績は、すべてこの書の中にある。いままた十年が過ぎ、見聞は日々増えている。太史公のあなたが私のために忠実な記録者となってくだされば幸いです。」私はその才力がないと辞した。折しも徐君は郢中の曽司空の招聘を受け、徐維志もちょうど荊南から駆けつけ、兄弟はそれぞれ新近に得たところを出し合って互いに参訂し、増刪した部分はほぼ半分を占めた。曽司空はそこで書を刻工に交付して印刷させ、また私がこの事の発起に参与したとして、序を書くよう嘱し、書をより遠くまで伝えようとした。私は窃かに嘆じた。一門の学問を精工に成し遂げるのはこれほど難しく、盛名もこれほど担い難いものか、と。
君恆言家世受《尚書》,學古有獲,多聞事。建始,吾求堪輿於書而不合也,自用則小,好問則裕。中,吾求之人而不合也,晚而求之古今墓宅成敗已驗之格,而合者十六七矣。夫兩戒山河,首西北而竟東南,其形勢利便,豈一端而已?自吾涉淮北,渡漢南,以窺中原秦蜀而驗吾格,與前代名家擘畫無不合者矣。胼手胝足,勞心焦思,其成之難如此。
徐君は常に言った。彼の家は代々『尚書』を伝習し、古を学んで得るところがあり、見聞も多い。彼は言う。「初め、私は書本の中に堪舆の理を求めたが、符合しなかった。ひたすら自分で主張すれば得るところは小さく、人に教えを請うことを肯んずれば得るところは寛裕である。中ごろ、私は人の上に求めたが、やはり符合しなかった。晚年になってようやく転じて古今の墳墓・宅第の成敗ですでに応験した実例の格局に求め、これで十中六七は符合するようになった。唐の一行和尚の言う南北「両戒」の山川は、西北に起首して東南に終わるが、その間の形勢の利便は、どうして一種だけであろうか。私が北に淮を渡り南に漢を渡り、中原と秦蜀の地を窺い、自ら立てた格局を検証すると、前代の名家の規画布置と合わないところが一つもなかった。手脚に繭ができ、心を労し思を苦しめ、学成の難しさはこのようなものである。」
君兄弟名藉甚,而忌者之口亦無所不至。初以不佞招入郢,人或詬曰:“是商顏郜首而儒衣冠者,英雄欺人耳!”市虎杯蛇,轉相扇惑,君幾無以自解。斯名為謗囮矣。嗟夫!無論君所執,無論今之人,漢子云氏作《大玄》,羽翼聖經,而舉世莫能知,獨桓譚奇其辭,謂“五百歲而後興”。老氏不云乎,“知我希者貴”。彼其之子,雖戶說以眇論,終不能化,復何有於不佞之言?君第藏之名山可矣!萬曆癸未歲孟春之吉,賜進士出身亞中大夫河南布政使司右參政前陝西按察司副使奉勅提督學校翰林院國史修撰雲杜利瓦伊禎敘。
徐氏兄弟の名声は大きく、それゆえ嫉妬する者の言挙げも至らないところがなかった。初め私が彼らを郢中に招いた時、人々は毀って言った。「これはただ形容枯槁して儒服を着た者で、英雄の架子をもって人を威嚇するだけだ。」三人成虎・杯弓蛇影、流言は輾転して煽惑し、徐君はほとんど自弁する術がなかった。名声そのものがかえって謗りを招く媒となった。ああ! 徐君の守る学問がどうかはともかく、今人がどうかも言うまい。漢の揚子雲は『太玄』を著して聖人の経典を羽翼したが、世の中にこれを読み解く者はなく、ただ桓譚だけがその文辞を賞し、この書は「五百年後に興る」と言った。『老子』は言っていなかったか、「我を知る者が少なければ少ないほど、我は貴い」と。かのような人は、たとい戸を逐一訪ねて精微の論を説いても、結局点化し得ないのであり、私のこの数句が何を済わせられようか。徐君はただ書を名山に蔵すればよいのである。万暦十一年癸未孟春吉日、賜進士出身・亜中大夫・河南布政使司右参政・前陝西按察司副使・奉敕提督学校・翰林院国史修撰の雲杜李維楨が序を作る。
重刊『人子須知』序
嘉靖辛酉春,餘從京邸會星橋金太史,談堪輿家書不下數十百種,類皆繁雜,互相牴牾。仁人孝子一旦當大事,悲傷慘怛之餘,取其書而覽之,無所適從,往往以弗克盡心為憾。惟德興徐氏兄弟所著《人子須知》一書,會諸書而折衷之,足以破群疑,當大事也。然餘聞其言,未見其書。
嘉靖四十年辛酉の春、私は京城の寓所で星橋金太史に会い、堪舆家の書は数十百種を下らないが、大抵は繁雑錯乱して互いに抵触すると談じた。仁人孝子はひとたび葬送という大事に遭えば、悲痛の余りこれらの書を取って見ても、従うべきところがまったくなく、往々にして親に心を尽くせなかった憾みを抱く。ただ徳興徐氏兄弟の著した『人子須知』一書だけは、各家の書を彙集して折衷を加え、衆多の疑惑を破るに足り、大事に応ずるのに用い得る。ただし私は当時金太史のこの言葉を聞いただけで、まだその書を見てはいなかった。
比自商於致政歸,訪其書於坊間,兩見刻本,深嘉二子用心之當,而服金太史之言非誣。惜字多訛舛,欲為厭觀也。辛巳冬,雲杜李太史為尊人方伯公卜地,乃移書中丞王公,為訪二子來雲杜。時伯子已入閩越,迎其季子來。
私が商於一帯から官を辞して帰り、書坊でこの書を訪ね求めた時、前後して二種の刻本を見て、兄弟二人の用心の精当さを深く称許し、金太史の言が虚言でないことにも感服した。惜しむらくは刻本に錯字・訛字があまりに多く、見て厭きを生ずるほどだった。万暦九年辛巳の冬、雲杜の李太史が父の方伯公のために葬地を卜択し、中丞王公に手紙を書いて、徐氏兄弟を雲杜に招き請うよう託した。当時兄の徐維志はすでに福建・浙東一帯に行っていたので、弟の徐維事だけを迎えた。
既襄大事,餘後自太史廬迎季子及高第弟子塗子於郢中,亦為卜地計。見季子儒雅蘊籍,迥異俗師。相與遊處幾一載,暇日出手錄善本示余。未幾,伯子亦自閩越至,更相是正者久之。餘因念茲會不偶,所著述已精,從而校定入梓,使海內之仁人孝子覽之而從事,庶無弗克盡心之憾矣乎!旹萬曆十有一年癸未孟夏月望日,郢中陽白居士曾璠子玉甫譔。
葬事が済んだ後、私はまた李太史の居所から徐維事とその高弟の塗子を郢中に招いた。これもまた葬地を卜択するためである。徐維事の人となりは儒雅含蓄で、一般の庸俗な地師とは大いに異なっていた。交わることほぼ一年、暇な時に彼は自ら抄録した善本を出して私に見せた。ほどなく兄の徐維志も福建・浙東から駆けつけ、兄弟はまた長い間互いに訂正し合った。私はそこでこのような機縁は偶然でないと思い、また彼らの著述がすでに精審であるので、これに校定を加えて付梓刊行し、天下の仁人孝子がこれを読み、照らして葬送を執り行えば、おそらくもはや心を尽くせなかった憾みはないであろう。時に万暦十一年癸未孟夏四月十五日、郢中の陽白居士曽璠(字は子玉)が撰す。
旧序(華亭徐階撰)
江右徐維志、維事氏伯仲,著資孝堪輿書曰《人子須知》,因通家仰湖費大人馳請余言。適客有在座者,遽矍然曰:“人子之所當知者,豈惟是哉!且孝亦未易以言也。若大舜終身之慕,武周之繼述,曾參之養志,斯孝矣。顧屑屑於一藝一能,謂之曰孝,吾惑焉。”
江西の徐維志・徐維事兄弟は、孝道を資する堪舆の書『人子須知』を著し、世交の仰湖費大人を通じてわざわざ私に序文を求めてきた。折しも座に一人の客人がいて、すぐさま驚いて言った。「人の子として知るべき事は、どうしてこれだけのものか。まして孝道もまた容易に説き明かせるものではない。大舜のように終身父母を思慕し、周武王・周公のように先人の事業を継承して成就し、曽参のように父の心志を奉養できてこそ、初めて孝というのだ。いま一門の技芸・一つの本领に斤斤として、これを孝と称するのは、私には解せない。」
餘解之曰:“人子之於親也,固當無所不用其極,況地理尤切於送終以當大事者乎!《傳》曰‘事死如事生’,茍於其親之沒也,置蟻泉沙礫中,無異委壑,孝安在哉?是故風水之說固不足信,而厝親之舉則當重也;生人之禍福不足計,而化者之安危則所當慮也。
私は彼のために解釈して言った。「子として父母に対するのは、もともと至るところで極致を尽くすべきものであり、まして地理という事は送終という大事と関係がとりわけ切実である。『礼記』は『死者に事えること生けるが如くせよ』と言う。もし父母が亡くなった後に、その遺体を蟻穴・泉眼・沙礫の中に安置したなら、それは親を山溝に棄てるのと分別がなく、孝はどこにあるか。だから言うのだ。風水の禍福の説は固より全信するに足らないが、父母を安葬するという事は郑重すべきであり、活人の禍福は計較するに足らないが、已故の親の遺体の安危は憂慮すべきである、と。」
曾謂舜之大孝,武周之達孝,曾參之純孝,厥念乃不逮此與?誦夫子宅兆之訓,程子五患之戒,則地理固人子當知之切務,而非彼一藝一能者比也。謂之曰資孝亦宜矣。且觀其書,分條析類,明切該博,闢諸家之陋習,啟天下以孝誠,信有補於世教者,不可以其術而忽之也。”客唯唯而退。因書以歸之。賜進士及第光祿大夫左柱國少師兼太子太師吏部尚書建極殿大學士知制誥經筵國史總裁華亭存齋徐階撰。
どうして言おう、舜の大孝・武王周公の達孝・曽参の純孝は、その念慮にこの一層が思い及ばなかったであろうか。孔子の『其の宅兆を卜して安厝す』という訓誨、程頤の『五患を避けよ』という告戒を一たび念ずれば、地理はもともと人子たる者が知るべき切要な事務であり、あの一技一能とは比較できないことが分かる。これを『資孝』の書と呼ぶのは、名実ともに副うというものだ。さらにこの書を見れば、条を分かち類を別ち、明白にして切要、かつ該博で、各家の陋習を掃除し、孝誠をもって天下の人を開導しており、実に世道教化に補益があり、術数を説くからといって軽忽すべきでない。」客人は声を連ねて是とし退いた。私はそこでこれらの言葉を書いて彼らに渡した。賜進士及第・光禄大夫・左柱国・少師兼太子太師・吏部尚書・建極殿大学士・知制誥・経筵国史総裁の華亭存斎徐階が撰す。
旧序(浮梁金達撰)
世所論堪輿家,率以相地之術易視之。夫勘輿非術也。昔神禹敷土,隨山刊木,因九河之勢,奠厥民居;公劉之遷都,相陰陽,觀流泉;周公卜洛營周,居於洛邑,自古重之久矣。自左僊著《龍經》,郭景純著《葬書》,俚談曲說之士,遂各以所見售世,流為藝術,則世之易視之也固宜。
世人は堪舆家を議論するに、大抵は相地という学問を看軽している。実は堪舆はただの一つの方術ではない。昔、大禹が土地を整治した時、山势に沿って木を伐り標を立て、九河の走勢に依って百姓の居処を安んじた。周の先祖の公劉が遷都した時には「陰陽を相(み)、流泉を観る」ことを要した。周公は洛地を卜筮して成周を営建し、国都を洛邑に定めた。古来この事を重視するのは由來が久しい。左仙が『龍経』を著し郭璞が『葬書』を著して以後、俚俗な歪理を説く者どもがそれぞれ自己の一点の見解を持って世に兜售し、堪舆は流れて一門の生計の技芸となった。それなら世人がこれを看軽するのも怪しむに足らない。
夫宇宙亦大矣!術家者既不能長騖萬里,窮章亥之所步,復泥俚談曲說,不取正於大方家,如執蹄涔議絳虯,安可得乎!論法象者莫辨於《易》,其曰“天地定位,山澤通氣。”夫位有定而氣實通焉。絪縕磅礡,游魂靈怪,氣也。蒸為風雨,應為列星,流形於山川草木,亦氣也。氣也者,載天地而浮之也。是故山氣多勇,澤氣多瘖,谷氣多痺,險阻氣多壽。
宇宙はなんと広大なことか。術士たちは万里を縦横に上古の大章・豎亥の丈量したところを歩き尽くすこともできず、また俚俗の歪理に拘泥して真の大家に正しさを求めることを肯んじない。これはまさに牛蹄の跡の一掬いの積水を守って深淵の赤龍を談ずるようなもので、どうして談じ明かせられようか。天地の法象を最も分明に説くのは『周易』に如くはなく、『説卦』は「天地定位し、山沢通気す」と言う。方位は固定しているが「気」は貫通流行することが見て取れる。あの弥漫充塞して変化測り難い游魂の霊怪は気であり、蒸騰して風雨となり、上応して列星となり、流布成形して山川草木となるのもまた気である。気というものは、天地を載せてその中に浮懸せしめるものである。だから山中に住む者は多く剛勇で、水沢に住む者は多く喑唖で、深谷に住む者は多く痹症で、険阻の地に住む者は多く長寿である。
郭景純曰“啟陳發新,朝海拱辰”。左僊以北戒山起于闐,左支極之於,南戒山自右支極五嶺。其言曰“山行有斷,脈不中絕”,山澤通氣之說也。世之業堪輿者能知之乎?夫建都立邑,載諸經者,吾無論已。郭景純論葬法曰:“葬者藏也,乘生氣也。”世遂以氣休咎論禍福,不揆葬義所自起。孟軻氏不云乎,“且比化者,無使土親膚。”於人心獨無恔乎?吾以是知葬之起也,蓋仁人孝子之心也。
郭璞は言った「陳を啓き新を発し、海に朝し辰に拱す」と。左仙は「北戒」の山は西域于闐に起こり、左に分かれる支脈は極遠まで伸び、「南戒」の山は右支から五嶺まで伸びると考えた。彼が言う「山行に断あり、脈は中絶せず」は、まさに『周易』の「山沢通気」の理を説いている。当世に堪舆を業とする者で、この一層を解する者がいるだろうか。都を建て邑を立てる事については、経書に皆記載があるので、私は多くを言わない。郭璞は葬法を説いて言う「葬とは蔵であり、生気に乗じ接するを要する」と。世人はそこで気の吉凶を以て人の禍福を談じるが、安葬という事の本意がどこから起こるかを推究しない。孟子は言っていなかったか「死者のためを思えば、泥土が直にその肌に著くを忍びない」と。これはまさに人の心の過ごし難いところではないか。私はこれによって安葬という事の起源は、もともと仁人孝子の一片の心から起こることを知った。
不乘生氣,避五患,萬一奪烏鳶而飼螻蟻,其與委溝壑者何殊哉!夫善愛親者,疾必擇名醫,葬不敢以付庸術,蓋慎之也。是故乘生氣,避五患,以寧吾親,以畢吾終天之願,此仁人孝子所為心也,非徒以禍福論休咎也。彼堪輿者,倘能以其所嘗試者藏遺器於造化,而畢吾仁人孝子之心,其道亦大矣哉!世烏得而易視之?
もし「生気」に乗じず、程頤の言う「五患」を避けず、万が一ただ遺体を烏鷹の口から奪い返してまた螻蟻に喰わせるだけなら、それは屍を沟壑に抛つのと何の違いがあろうか。真に父母を愛惜することを知る者は、父母が病めば必ず名医を選び、安葬もまた平庸な術士に託すことを敢えてしない。そのためのものは一つの「慎」の字である。だから言う、生気に乗じ五患を避け、我が父母をして安らかならしめ、我が終身の願いを了す。これこそ仁人孝子の用心の所在であり、ただ禍福を以て吉凶を論ずるのではない。あの堪舆を業とする者が、もし真に彼らの試験済みの本领を以て、親の遺体を天地造化の中に妥く蔵し、仁人孝子のこの心を全うできたなら、この学問もまた大きいのではないか。世人はどうしてこれを看軽できようか。
吾饒有儒生徐維志、維事伯仲,嘗輯堪輿書曰《人子須知》,就正於餘。閱其議論該博,發理精詳,會百用於一原,析貳疑於百氏,眞足以挽俚談曲說而歸之正者,因書此以序之雲。賜進士及第南京國子監司業前翰林院國史編修浮梁星橋金達撰。
我ら饒州に徐維志・徐維事という二人の読書人の兄弟があり、かつて一編の堪舆書『人子須知』を編み、持って来て私に是正を請うた。私が読んでみると、その議論は該博で、道理を発明すること精細詳尽にして、百種の用法を一つの本原に帰会させることができ、また百家の異説の中に剖いて両可で決し難い疑問を開き、真に俚俗の歪理を正路に引き戻すに足りた。そこでこれらの言葉を書して序とした。賜進士及第・南京国子監司業・前翰林院国史編修の浮梁星橋金達が撰す。
序(銀麓張琨撰)
予謝仕二十餘年,於六經外,百家之書,靡不探究,惟庖犧氏之卜筮,岐黃氏之醫藥,郭景純之葬法,誠可以利天下者,皆得謂之仁術。宜乎其河江屢變,浮雲芻狗,而三術之衍,於萬世者不廢也。蓋制作之美則愛,愛則傳,人情理勢其固然與。
私が官を辞してからすでに二十余年、六経以外は諸子百家の書で探究しないものはない。その中でただ伏羲氏の卜筮・岐伯黄帝の医薬・郭璞の葬法だけが、確かに天下に福を造ることができ、いずれも「仁術」と称し得る。怪しむに足りない。江河は屢々道を改め、世事は浮雲芻狗のように変幻して定まらないのに、この三門の学問の流衍だけは万世廃れることがない。おそらく創制が美善なるものは、人がこれを愛し、愛すればこそ伝流する。人情事理の必然の趨勢はもともとこのようなものであろう。
吾邑徐君,少峰仰峰二難。握其所譔資孝堪輿書出以示余,皆精神獨得之妙也。餘閱而繹之,見其廣搜乎天下山川脈絡之源,旁及乎遠近名家仙蹟之式,參之以古先鴻儒大方家之緒論,摹寫乎伍星變換不一之形體,逐節斷以己意,一理貫通而宜葉乎人情,誠有深得夫晉室明賢“乘生氣”之肯綮者。
我ら県の徐氏兄弟、号は少峰・仰峰、優劣の分かち難い二人の人才である。彼らは自ら撰した資孝の堪舆書を持って私に見せたが、すべて精神心得上の独得の妙であった。私が読んで細かく尋繹すると、彼らが広く天下の山川脈絡の本源を搜求し、傍ら遠近の名家の残した名穴の格式に及び、また古代の大儒と真の内行の議論を参照し、「五星」の変化不一の形体を摹写し、逐節に自らの見解をもって断を下し、一つの道理を以て終始を貫通し、かつ人情に切合していることが見えた。実に深く晋代の高賢郭璞の「生気に乗ず」一語の要害を得ている。
要皆明切簡易,暢於辭華。譬之翰墨家人稱為布帛菽粟,飫之而不厭者,覽之易入,習之易趨。允矣通世之寶訓,可愛而傳也!且其教人安厝以當大事,舉所珍重而得隆其孝,示所勿犯而得全其仁,端持身之德本,衍國家之風化者,由此而出矣。
概して言えば皆明白切実・簡易で分かりやすく、辞藻の華麗に勝る。文章家の言葉に比すれば、これは世に言う布帛菽粟の類のもので、毎日食しても厭かず、読んで入りやすく、学んで手に付きやすい。これは真に世に通行する貴重な訓条であり、愛すに足り伝流に値する。まして書中は人に教えて安葬を妥くし喪事の大を担い、珍重すべきところを指せば人はその孝を隆厚にでき、避忌すべきところを指せば人はその仁を保全できる。身を立てる德行の根本を正し、国家の風俗教化を推衍するのは、皆ここから生ずるのである。
矧二君以穎敏之資,有聲藝苑,行可大鋪張,而乃幡然,浮雲軒冕,放情山水,發其所蘊,以資孝道於天下後世,是二君雖遯世,而尤闡達者。及物之事功,謝上蔡所謂幾,枉一生之根,二君可免也。猗與休哉!一時賢士大夫,各出金石,固已有公論矣,又奚餘之喋喋乎?
ましてこの二人は聡穎敏悟の資質を以て、早くから士林の中に声名があり、もともと身手を大展できたのに、翻然として途を改め、官位爵禄を浮雲と看做し、山水の間に情を縦にし、胸中に蘊えたところを発抒して、以て天下後世の孝道を資した。この二人は世を避けて隠居したとはいえ、さらに道理を闡明通達させた人である。万物に推し及ぼす事功について、謝良佐の言う、ほとんど一生の根本を空しく虚擲するという毛病は、この二人は免れ得たのである。なんと美しいことか。当時の賢士大夫は各々金石の文字を書して称許し、公論は早くからそこにあり、どうして私がここで絮叨するを用いようか。
雖然,智者作法,愚者咻焉。賢者更制,不肖者拘焉。安得天下孝子慈孫誦君之書,超然陳跡之外,通其巧於心目之間,不遇以書而遇以目,不遇以目而遇以神,洞其眞而契其妙,以廣二君仁孝教天下之本心?此二君未露之美意也。餘固因其請而並以及之。二君生同一乳,宋太師忠愍公裔,理學秋谷先生八世孫,銀邑世家雲。隆慶己巳,八十四歲叟眷張琨書於銀麓精舍。
とはいえ、聡明な人が法度を立てれば、愚昧な人は傍らで吵嚷し、賢能な人が旧制を変更すれば、不肖な人は旧様を死抱して放さない。どうすれば天下の孝子賢孫に徐君の書を誦読させ、紙上の陳跡の外に超脱し、書中の巧妙を自己の心目の間に貫通させられるか。ただ書本を以て領会するだけでなく目を以て印証し、ただ目を以て印証するだけでなく心神を以て契合し、その中の真を看透しその中の妙を契合し、以てこの二人の仁孝を以て天下を教化する本心を推広するのか。これこそ両人が明言しなかった美意である。私はもともと彼らの請いに応じてついでにこの一層に言及した。両人は同胞の双生児で、宋代の太師忠愍公の後裔、理学家秋谷先生の八世孫であり、徳興県の世家である。隆慶三年己巳、八十四歳の老翁・姻眷の張琨が銀麓精舎にて書す。
序(鉛山余鋐撰)
古昔聖人握造化之樞,探陰陽之竅,仰觀俯察,以闢天文地理之蘊。故璣衡察而象緯之數莫爽。夫惟坤厚載物,山澤通氣,沖和鬱靈,微妙鮮測。粵自遷歧相洛,時其陰陽,而風水之說實肇其端。三代以上,遐哉邈矣。漢晉而下,哲人繼踵,其著名於世,有若郭、卜、曾、楊、吳、廖、賴傳者。稽其授受,有巒頭、天星之傳。觀其著述,有《青囊》、《葬經》等作。歷世漸遠,敷詞益繁,然皆逞其臆說,狃於偏習,而末能會其全也。
上古の聖人は造化の枢機を掌り、陰陽の竅要を探求し、仰いで天象を観、俯して地理を察し、以て天文地理の蘊奥を開き出した。だから璇璣玉衡を以て観測すれば、日月星辰の度数に差錯がない。まさに大地が厚重にして万物を承載し、山沢の間に気息が相通じ、冲和の気が鬱結して霊秀を成し、微妙にして測度し難いからである。周人が岐山に遷居し洛邑を相度して以来、陰陽寒暖を按じて時節を定めることになり、風水の説は実にその時に端を開いた。夏商周三代以上の事は、すでに遥かにして考え難い。漢晋以下、明哲の士は踵を接して出で、世に著名なのは郭璞・卜則巍・曽文辿・楊筠松・呉景鸞・廖瑀・頼文俊という一系の伝人である。彼らの師承授受を考察すれば「巒頭」と「天星」の二路に分かれ、彼らの著述を見れば『青嚢経』『葬経』などの書がある。年代は隔たること益々遠く、敷陳の言辞は益々繁となるが、大抵は一己の臆説を逞しゅうし、一路に偏る習気を固守し、全局を会通できた者はいない。
饒郡徐君伯仲,少負奇穎,馳譽芹泮。因襄大事,雅志山水,而於堪輿諸書研究底蘊巳,自諗曰:是局聞見,未悉大觀。乃遍歷寰宇,日與薦紳諸大夫遊,凡名山形勝,世族宅兆,登覽摹圖,相為印證,克然有得。
饒州の徐氏兄弟は、年少の頃から奇特な聡穎の名を負い、県学の中で声譽があった。後に父の葬送の大事を執り行うことになり、初めて山水の学に志を立て、堪舆各家の書を皆その底裏まで研究し尽くした。研究し終わって、彼らは自ら反省して言う。このようにして得た見聞はなお一隅に局限され、大きなところを見ていない、と。そこで天下を遍く走り、日々士紳大夫と交遊し、名山勝地・世家大族の墳塋に及ぶものは、皆登臨遊覧して図に摹画し、互いに印証し、明白に心を得た。
由是厭諸說之汗漫,乃旁稽博採,撮要刪繁,闡幽彰微,而凡形勢、天星不傳之秘,悉皆列欵圖形,分條析類,辭義備具,殆邃乎聖人俯察之理,而發前賢未發之秘者矣。編成示予,爰定其名曰《心學統會》。蓋取夫發揮純粹,而獨得乎心悟;芟祛偏臆,而統集乎大成者耳。授吾鉛王上舍梓傳,善乎二君之志也!其錫類於天下之仁人孝子者,厥功深矣哉!厥惠溥矣哉!隆慶戊辰仲冬之長至日奉直大夫南京刑部廣東清吏司員外郎鉛山東泉餘鋐譔。
ここに至って彼らは諸家の説の漫然として辺際なきを厭棄し、そこで旁搜博採して精要を撮取し繁冗を刪去し、幽隠なるを闡明し微細なるを彰顕し、「形勢」と「天星」の両派の秘して外に伝えざるものを、すべて条款を列出し図形を画して分条別類し、辞句と義理をともに備え、ほとんど聖人が大地を俯察する理に深入り、前賢の発掘しなかった秘要を発掘した。書が編み成ると持って私に見せ、私はそこでそのために名を定めて『心学統会』とした。取ったのは純粋の理を発揮して独り内心に得る体悟、偏執臆断を鏟除して大全に統会集成するという意である。彼らは書を我ら鉛山の王上舎に交付して刻板流伝させた。両人のこの心志は真に美しい。その天下の仁人孝子に推し及ぼす教化の功はなんと深く、恩恵はなんと広いことか。隆慶二年戊辰仲冬冬至日、奉直大夫・南京刑部広東清吏司員外郎の鉛山東泉余鋐が撰す。
序(南山祝眉寿撰)
三才一理,而天其宗乎?地匪天,塊然已,何以效厥能?人匪天,蠢然已,何以效厥靈?故地必曰理,有以哉!夫天言乎其氣,地言乎其形。而地之所以為地,則生生之氣。氣之所以為氣,則生生之理。《傳》曰“天包地外”,吾則曰天入地中。不特虛靈屬天,而盡九垓之下皆天也,亦徵矣。世之求地者,苟不從事乎天,則本先撥矣,又安足語此?
天・地・人の三才は同一の理から出るが、天はそれらの宗主と該当するのであろう。地はもし天を離れればただ一塊の頑土にすぎず、何を以てその能を施すか。人はもし天を離れればただ一つの蠢物にすぎず、何を以てその霊明を発揮するか。だから地に言及するには必ず「地理」と称するのには、所以がある。天は気に就いて言い、地は形に就いて言う。而して地が地たり得る所以は、生々して息まない気に依り、気が気たり得る所以は、生々して息まない理に依る。旧説は「天は地の外に包む」と言うが、私はむしろ天は地の中にも貫入すると言いたい。虚霊の処が天に属するばかりでなく、九重の地底の下にも全て天が満ちている。これもまた検証があるのだ。世に地を求める者が、もし天の上から着手しなければ、それはまず根本を撥ね除けることになり、何の地理を談ずることがあろうか。
稽諸古聖,未有以地言者。堯都平陽,舜都蒲坂,禹都安邑,湯都亳,天下之大地理歸焉。迨周公洛邑之營,夫子宅兆之訓,二聖人豈徒然哉。營洛為民,民安而國安。宅兆為親,親安而子孫安。是皆本天星,察地理,所謂仁人孝子之用心也。故人子卜宅兆,要當以安親為念,豈惟求諸地哉?必求諸吾靈臺方寸之天可也。
古代の聖人を考察すれば、ただ地のみに就いて説を立てた者は一人もいない。堯は平陽に都を建て、舜は蒲坂に都を建て、禹は安邑に都を建て、湯は亳に都を建てた。天下最大の地理はこの数処に帰結する。周公が洛邑を営建し、孔子が「其の宅兆を卜して安厝す」の訓誨を残すに及び、この二聖人はどうして徒らに為したであろうか。洛邑を営建したのは百姓のためで、百姓が安ければ国家が安らかである。墓地を卜択したのは父母のためで、父母が安ければ子孫が安らかである。これらは皆天の上の星象に本づき、地の下の形理を察したもので、まさにいわゆる仁人孝子の用心である。だから人子たる者が墓地を卜択するには、つねに父母を安んずることを以て念とすべきで、どうしてただ大地の上に求めるだけでよかろうか。必ず自己の心の方寸の地のあの一片の天の上に求めなければならないのである。
眷家徐維志、維事伯仲,少為邑弟子。未幾以家難棄去,因葬親不忍委庸術,遂雅志山水,偏遊四方。歷涉歲久,聞見日博,乃出心得,著堪輿書,命曰《人子須知》。鉛邑王上舍壽梓廣其傳,徵言於予。首誦十戒,良契吾天,特表之,以為外天言地者勸。若其論斷、圖形,觀者當自得之。二君與予際沙兄友善,嘗從海內諸大君子究性命學,此特其緒餘雲。隆慶己巳端陽後三日同邑暖川南山祝眉壽譔。
姻親の徐維志・徐維事兄弟は、年少の頃ともに県学生員であった。ほどなく家の変故で挙業を棄て、また父を安葬するに庸俗な術士に託すに忍びず、そこで専ら山水の学に留意して四方を遍遊した。経歴する歳月が久しく、見聞は日々広博となり、心得たところを書き出して堪舆書を著し、名を『人子須知』と取った。鉛山の王上舎が出資して刻板してその流伝を広め、私に序文一篇を求めた。私はまず巻首の十条の戒言を読み、深く私の言う「天」の意に契合するものがあり、わざわざこれを標挙して、天を撇いて空しく地を談ずる者を勧め戒めるのに用いた。書中の論断と図形については、読者がおのずから各々得るところがあるであろう。両人は私の兄の際沙と交好し、かつて海内の諸大君子に従って性命の学を探究した。この書は彼らにとって余事にすぎない。隆慶三年己巳端午の後三日、同県暖川の南山祝眉寿が撰す。
自序
擇地一事,人子慎終切務也。孔子有“卜宅兆”之訓,孟子謂“比化者無使土親膚”,程子有“避五患”之戒,朱子謂“必慎必誠,不使稍有他日之悔”。聖賢垂教,其慎如此。欽惟我皇朝以孝治天下,迄今二百餘年,聖聖相承,仁恩磅礴,大臣命婦,咸有卹典,親親之教,視古尤加。誠以生事死葬,禮之大焉。
親のために地を択んで安葬するという事は、人子たる者の慎終追遠の切要な事務である。孔子に「其の宅兆を卜して安厝す」の訓誨があり、孟子は「死者のためを思えば、泥土を直にその肌に著くを忍びない」と言い、程頤は「五患を避けよ」の告戒を立て、朱熹は安葬は必ず「必ず慎み必ず誠にして、他日の悔いを少しも有らしめず」と言った。聖賢の残した教誨は、このほどに郑重なのである。恭しく惟うに、本朝は孝道を以て天下を治め、今日に至るまで二百年余り、歴代の聖君が相承し、仁恩は広く被り、大臣と封を受けた命婦が亡くなれば皆撫恤の典礼があり、親を親しみ愛する教化は古代よりさらに厚重である。これは実に生前の奉養と身後の安葬が、礼制の中で最大の事だからである。
且事死如事生,而葬必慮夫親魂之安危。又天性有不可解者,豈惟拘拘於彼術家所謂禍福之說哉!但化者既寧,則生者自昌。先正謂由根達枝,斯定理也。予不幸早孤,思得善土以奉先靈,不敢付諸術。讀易之暇,因究其理,求其據且確者,盡安厝之誠,以塞人子當知之分,與夫分內之可為事耳。
まして死者に事えること生けるが如くし、安葬するには必ず親の魂魄の安危を顧慮しなければならない。この中にはまた天性に化じ解し難い一点の情があり、どうしてただ術士たちの説く禍福の説を死抱して放さないだけのものであろうか。亡者が安らかなれば、生者はおのずから昌盛する。先輩先賢はこれを養分が樹根から枝葉に通達するようなものと言い、これは一条の定理である。私は不幸にして幼年に父を喪い、一心に一塊の良い土を求めて先人を安奉しようとし、この事を術士に交付することを敢えてしなかった。そこで『易』を読む余暇にその中の道理を探究し、憑拠があって確鑿たる説を尋ね求め、安葬の一片の誠心を尽くして、以て人子たる者の知るべき本分、および本分の内で力の及ぶ事を填めんと求めただけである。
然天地大父母,則有生天地間者,皆吾同胞類也。吾不欲苟於窀穸以畢子職,而天下獨非盡人之子與?矧推親親之愛,大無我之公,尤吾儒所謂理一焉者,其寧恝然於斯耶?於是忘其僭陋,與弟善述日加鑽研,會諸說而折其衷,芟繁蕪而歸其要,合形勢方位於一家,以龍穴砂水為四例,輯成一書,簡易明切,頗有便於慎終者之探索。
然るに天地は万物の大父母であり、天地の間に生まるるものは皆我の同胞の類である。私自身が墓穴を軽率に遇して子の職分を了すことを肯んじないのに、天下の人は皆他人の子ではないのか。まして親を愛する心を推広し、無我の公を拡大することは、まさに我ら儒家の説く「理一分殊」であり、どうしてこれに対して淡然として管しないことができようか。そこで私は自己の僭越浅陋を顧みず、弟の徐善述と日々钻研し、諸家の説を会通して折衷を加え、繁蕪を刪去して要領に帰結し、「形勢」と「方位」の両派を合わせて一家と為し、「龍」「穴」「砂」「水」を立てて四大門類とし、一部の書に編成して、簡明扼要にして切実で、喪事を執り行う者が査考するに頗る方便である。
目曰《人子須知》,蓋欲天下之為子者各親其親,而吾之所知不獨為一人之知雲。昔人謂芻蕘之言,聖人擇焉。苟自其人心之有知與不可不知者,須以求之,則於卜宅兆,避五患,以畢夫安厝之大事者,斯有以得其要領,而不為邪說所惑,庶上可以敷聖君賢相,澤及枯骨之仁,下可以盡肖子賢孫,厚本慎終之孝,亦國家孝治天下之一端,吾儒窮理盡性分內事也。若概視為術家之說,非予兄弟搜輯之本意矣。嘉靖甲子孟春德興山人徐善繼書於雙芝堂。
題名を『人子須知』としたのは、天下の子たる者が各々皆その父母を親しみ愛することを願い、また私の知るところが私一人の知識となるだけでないことを願うためである。古人は言った、草を割り柴を打つ者の言でも、聖人は善を択んで取る、と。もし人人が自己の心のすでに知っているところと知らざるべからざるところから着手し、この書に照らして求索すれば、墓地を卜択し五患を避け、安葬という大事を立派に行う上で、要領を捉えて邪説に惑わされないことができる。こうすれば上には聖君賢相の恩沢が枯骨に及ぶその仁を推広でき、下には孝子賢孫の根本を厚くし送終を慎重にするその孝を尽くすことができ、国家が孝を以て天下を治める一つの方面ともなり、我ら儒者の物理を窮究し人の本性を尽くす分内の事である。もし一概にこれを術士の言と看做すなら、それは我ら兄弟が搜集編輯した本意ではない。嘉靖四十三年甲子孟春、徳興山人徐善継が双芝堂にて書す。
予嘗觀宋儒牧堂蔡先生家訓云:“為人子者,不可不知醫藥、地理。”惕然心動。不幸先君早逝,生無以為養,所可圖者,惟宅兆一事耳。於是與季兄棄舉子業,治堪輿家言。所過名山大川,古今陵墓,必周覽久之而後去。更事師亦不啻數十人。如此者垂三十年,而後稍有端緒。
私はかつて宋儒の蔡牧堂先生の家訓を読んで言うを得た。「子たる者は、医薬と地理を知らざるべからず」と。読み終えて心中凛然として感ずるところがあった。不幸にして先父は早く世を去り、生前に私はよく奉養することができず、設法して行い得るのは墓地を卜択するという一事だけが残った。そこで私は兄とともに科挙の功課を放棄し、専ら堪舆の学を治めた。歩き通った名山大川・古今の陵墓は、必ず仔細に見飽きて初めて去ることを肯んじ、前後して師として拝した者も数十人を下らなかった。こうしてほぼ三十年を過ごして、ようやく少しばかり頭緒を摸得した。
夫術家妙契陰陽,明通觀察,雖代不乏人,然各私相授受,其流之弊,遂致矛盾冰炭,言天星者黜巒頭,言形勢者闢方位,穿鑿附會之說,與詆譭聚訟之談,紛然莫可究詰。人子欲葬其親,茫無所據,有遺憾者多矣。予竊取而權衡之,形勢審於未穴之先,先天之本體也;方位察於倒杖之後,後天之妙用也。先天之體出乎自然,天也;後天之用盡乎當然,人也。體用不可偏廢,天與人相峙並行,烏得執彼廢此耶?
術家の中で精妙に陰陽に契合し観察が通明な者は、歴代少なくなかった。しかし各家が私に伝授し合い、流弊の至るところ、遂に彼此矛盾して水火相容れぬ地に至った。「天星」を講ずる者は「巒頭」を排斥し、「形勢」を講ずる者は「方位」を攻撃し、穿凿附会の説と相互に毀損争訟する言論が紛紛擾擾として、追究して明らかにすることができない。人子たる者が父母を安葬しようとして茫然として拠るところなく、憾みを抱く者が多い。私は窃かに両派を掂量してみた。形勢はまだ穴を定めない前に審察するもので、「先天」の本体に属する。方位は「倒杖」して穴を定めた後に察験するもので、「後天」の妙用に属する。先天の体は自然より出づ、それは天である。後天の用は尽く人事の当然にあり、それは人である。体と用は偏廃すべからず、天と人はもともと並立して同行するもので、どうして一辺を捉えて他辺を廃することができようか。
乃以平昔所講求經涉而有得者,定為成書。先列巒頭之要,次附天星之法,形勢方位,各有攸當,天人體用,不相背違。俾孝子慈孫欲安其先靈者,不為偏見所誤,命之曰《人子須知》。夫舉千古不決之疑,而撊然兼總其全,僭越之罪,何辭可解?乃私心要在於資孝云爾,世當有諒我者矣。嘉靖甲子孟春德興山人徐善述書於怡怡軒。
そこで平生講求探訪し自ら経歴して得たところのものを、定めて一部の書とした。まず「巒頭」の要領を列し、次いで「天星」の方法を附し、形勢と方位は各々その位置に帰し、天と人・体と用が彼此相い背かない。先人の魂霊を安頓せんとする孝子賢孫が一偏の見に耽誤されないようにするため、ここに題名を『人子須知』とした。千百年来決断し下せなかった疑難を一挙に兼収総括しようとする、この僭越の罪は、何の言葉を以て解脱できようか。ただ私の私心の要旨は孝道に資するにあるだけで、世には必ず私を体諒する人があるであろう。嘉靖四十三年甲子孟春、徳興山人徐善述が怡怡軒にて書す。
