朝山の暗拱を論ず
或問地理書謂“明朝不如暗拱”,此說何如?答曰:眞龍結作,其力量大者,雖數百里之外,猶為用神。如朱子論冀都地,謂江南五嶺諸山乃是第四五重案。其間相去數千里,安得而見?只是論地先要識大勢,然後可以語此。若小龍小穴,亦欲指遠外山水以為朝拱,則非也。蓋必有百里來龍,方有百里局勢;千里來龍,方有千里照應。各隨龍穴力量何如。
ある人が問います、地理書に「明白に来朝するは、暗中に拱衛するに如かず」という、これは如何に講ずるか、と。答えていいます、真龍の結作・力の大なるものは、たとえ数百里の外に在りと雖も、依然として有用の神と算します。譬えば朱熹の冀都の地勢を論ずるに、江南五嶺一帯の山を第四五重案山という、相隔つること数千里、何ぞ見ることを得ん。ただ地を論ずるにまず大勢を識ることを要し、然る後にこの話に及ぶべし。もし小龍小穴にして、また遠くの山水を指して朝拱と為さんと欲すれば、則ち対せず。何となれば、必ず百里の来龍あってこそ百里の局勢あり、千里の来龍あってこそ千里の照応あり——各々その龍穴の力の大きさを看るべきが故に、と。
嘗見今人論地,不察龍穴力量,一概貪遠秀,慕大局,凡案外水口各處,有奇峰秀水,則指為暗拱。及見有凶山惡水,則又謂穴間不見無害。噫!何其謬耶!既吉者為暗拱,其凶者豈非暗殺乎?此不識根本,徒論枝葉者耳。苟龍穴眞貴,則其凶惡形狀雖列於前而見之且不足畏;龍穴不眞,雖奇峰插天,秀水特朝,亦為無益。況其不見者?
常に見るに、今の人の地を論ずるや、龍穴の力を考察せず、一味に遠くの秀峰を貪り大格局を羨む。凡そ案外・水口の各処に奇峰秀水あるを、則ち暗拱と指作し、凶山悪水を見るに及んでは、また穴中に見えず妨害なしという。嗚呼、何ぞ荒謬なるか。既に吉を暗拱と算すれば、凶は豈に暗殺と成らざらんや。これは根本を識らず、枝葉の上に打転する人なり。倘若龍穴確かに貴重ならば、それら凶悪の形状は面前に排列し見えと雖も懼るに足らず。龍穴真ならざれば、縦に奇峰天に挿し秀水特に来朝拜すと雖も、益なく、況んやそれら根本に見えざるものをや。
楊公云:“砂如美女,貴賤從夫;水似精兵,進退由將。”卜氏云:“本主微賤,文筆變為畫筆;龍穴特秀,殺刀化作牙刀。”此不易之論也。然又貴於活變,圓機心悟,不可執一。固有穴間不見,奇妙暗拱於外,而其應亦在於外者。或女貴,或離鄉而貴,或貴在外家,皆是也。
楊筠松がいいます、砂は美女に似て貴賤皆夫に随い、水は精兵に似て進退全く主将に凭る、と。卜応天がいいます、主山本身微賤なれば文筆も画筆と変わり、龍穴特に秀異なれば殺刀も牙刀と化す、と。これ皆更改すべからざる定論です。然るに運用の妙はまた霊活変通に貴く、円通に領悟して一条を死守すべからず。確かに穴中に見えず・奇妙の砂水が外に暗拱して、応験もまた外に落つるものあり。或いは女子の貴顕に応じ、或いは家郷を離れてこそ貴を発するに応じ、或いは貴を外家親族に応ず、皆この類に属します。
且如建陽書林陽基,四面奇峰周迴羅列,秀入雲表。及至入穴,則麄山迫塞拱夾而已,面前之奇砂皆列於外,斜走不止。此乃秀氣發揚於外,而內則窒暗卑汙,故其間亦蔑有顯者,雖多豐富,而俗不尚禮。然文藉乃由此出,遠播天下,是亦外秀之應也。
譬えば建陽書林のあの陽宅基地は、四面奇峰環列し、秀色直ちに雲霄に入る。然るに穴中に入るを待てば、不過幾座の麄蠢の山逼近して夾峙するのみ、面前のそれら奇秀の砂は皆外圍に排列し、斜斜として走去りて収まらず。これはすなわち秀気皆外に発揚して、裏頭は却って窒塞昏暗・低窪汚濁にして、ゆえにあの一帯にも顕貴の人物を出さず、富庶の家少なからざるも風俗は礼教を崇尚せず。ただ書籍刻本はこの地より出産し、天下に遠播す——これもまた外秀の外に応験する一种と算すべし。
朝山の乱雑を論ず
《葬書》云:“若懷萬寶而宴息,若具萬贍而潔齊。”又云:“若寶而有也。”《黑囊經》云:“前砂欲其堆了堆。”《雪心賦》有“三千粉黛”、“八百胭花”之說,是皆言前砂以重疊為貴。誠如所論,不幾於太亂雜乎?夫前朝之砂固貴其重重疊疊,獻奇列秀。然峰巒太多,亂雜混濁,可以向此,可以向彼,則情意不專,烏得為吉?《賦》云:“尖峰秀出,只消一峰兩峰。”則確論也。
郭璞《葬書》にいいます、万宝を懐抱して安然と休息するが如く、万物を備斉して潔斎するが如し、と。またいいます、宝物の如く之を擁有す、と。《黒嚢経》にいいます、穴前の砂は一堆連なり一堆なるを要す、と。《雪心賦》に「三千粉黛」「八百胭花」の説あり。これ皆穴前の砂の重畳を以て貴とするを講ず。然るにこの如くいえば、豈に太も乱雑と為さんとするにあらずや。穴前朝対の砂は固より重々畳畳・奇を献じ秀を羅するを貴とすれども、然るに峰峦多すぎ・雑乱混濁して、こちらに向くも可・かちらに向くも可なれば、情意は専一ならず、何ぞ吉と算せん。《雪心賦》にいいます、尖峰秀出、ただ一峰両峰を消すのみ、と。これこそ確切の論なり。
吳公《口訣》云:“三峰對中,兩峰對空。”其慎重如此。如樂平縣徐附馬祖地,前峙雙峰。先是,一明師同其徒見之曰:“此地當出國婚之貴。”其徒遂為徐氏私下之,不識向空,而偏向一峰。師復過之,訝曰:“誤矣!”乃索其課,題曰:“好對空兮卻對峰,他年莫地道無功。為官必定因妻貴,意正濃時卻中風。”後徐氏果兩尚公主,驕橫不檢,廷臣劾之取首級。
呉景鸞《口訣》にいいます、面前三座の峰あれば中間の那座に対準し、面前両座の峰あれば両峰の間の空処に対準す、と。これを見れば前人の取向は何等慎重なるか。譬えば楽平県徐駙馬の祖地は、穴前に両座の峰対峙す。起先一位の明師ありて徒弟を帯びこの地を看たり、いわく、ここは当に皇家と親を結ぶ貴人を出すべし、と。その徒弟は則ち私に徐家の為に穴を点じ、当に空に対すべきを解せず、却って其中の一座の峰に偏向しました。師父後来再び彼処を経過し、驚きていわく、錯なり、と。ここにおいて彼の写せる課語を索め、題していわく、本当は空に対すべきを峰に対したり、日后この地が霊ならぬというなかれ。官を為すは必ず妻子に因りて貴し、正当意の時に中風せん、と。後来徐家は果して両人ありて公主を娶り、驕横にして不検点、朝臣に弾劾せられて性命を失いました。
可見兩峰尚有對空之不可誤,況峰巒之亂雜者乎?故龍虎山張眞人陽基,前對琵琶山,舊名鎗刀山,雖聳拔森立,如鋸齒排列,然以太多而不得為文筆,乃符筆矣。其富貴自兩漢相傳至今,悠久不替,乃其龍穴之美,非前砂之所能主也。
これを見れば両座の峰のみの時、空に対するこの一点も錯るべからず、況んや峰峦乱雑の地をや。ゆえに龍虎山張天師の陽宅基地は、前面に琵琶山に対し——旧名槍刀山——あの山は聳抜森立し・鋸歯の如く排列すれども、然るに多すぎるが故に、「文筆」と算すること能わず、ただ画符の筆と算するのみ。張家の富貴は両漢より相伝えて今日に至り、長久衰えず、これは他家の龍穴本身が美好なるが故に、穴前の砂の能く主宰する所にあらず。
雖然,卻又不可拘執。若前峰環列,獻奇逞秀,又多為大貴龍穴之應。只要中間有一二峰特異,取為正對,如金雞縣狀元吳伯宗公陽基在新田者,前朝七十二峰,果出七十二人科第。然七十二峰豈非多乎?只是中有雙峰特異,以為正對吳氏兄弟俱登一甲。又蘭谿縣范氏祖地,前對九峰,有九子登科之貴,是其應也。
話是の如しと雖も、また成見を死守すべからず。もし前面群峰環列し・奇を献じ秀を逞しゅうすれば、あれは多くまた大貴龍穴の応験なり。ただ中間に一両座の峰格外特異あるを要し、取りて以て正対となせば則ち行けり。譬えば金谿県状元呉伯宗の新田の陽宅基地は、前面七十二座の峰に朝対し、後来果して七十二人の登科を出しました。七十二座の峰は豈に多しと算せざらんや。ただ当中に両座の峰特に奇異あり、用いて正対を作し、呉氏兄弟は皆一甲に中りました。また蘭谿県范氏の祖地の如く、前面九座の峰に対すれば、則ち九子登科の貴あり、正にその応験なり。
故凡峰巒混雜者,必須中有一二峰挺然獨異,天然朝拱,不待推擇。而餘山排列,皆面面有情,擁從左右,乃至貴之格也,又不可以亂雜論。惟欲其去穴稍遠為吉。蓋眾峰羅列,若太近穴,終覺亂濁。稍遠則自然清奇秀麗。何也?秀峰雖秀,近而視之亦丑;丑峰雖丑,遠而視之亦秀,故爾。
ゆえに凡そ峰峦混雑の地は、必ず当中に一両座の峰挺然として独り異なり、天然朝拱して来たり、刻意選択を用いざるを要す。其余の山は排列众多と雖も、皆面を開き情あり、簇擁随従して左右に在り——これすなわち至貴の格にして、以て乱雑と看るべからず。ただこれらの峰は穴を離るること稍遠き方が好し。何となれば、群峰羅列・もし穴に近すぎれば、終に乱にして濁なるを顕し、稍遠ければ自然に清奇秀麗となるが故に。何を以てか。秀峰は秀と雖も、湊近して看れば亦丑と覚え、丑峰は丑と雖も、遥々望めば亦秀と覚ゆ——すなわちこの縁故なり。
大抵朝山雖欲其列秀獻奇,又不可徒貪其秀,致有失穴之患。故曰:“坐下若無眞氣脈,面前空有萬重山。”又曰:“坐下無龍,朝對成空。”尤當致察於龍穴,而不可徒以朝秀為愛耳。予嘗謂世人都只愛尖峰,不知地理重眞龍。龍若不眞穴不的,朝堪圖畫總成空。蓋亦崇本抑末之意。龍虎山圖見陽基卷。新田吳氏陽基圖見陽基圖。
大体にいえば、朝山はその秀色を羅列し奇姿を献ずるを望むと雖も、ただその秀麗を貪るを能わず、以て失穴の禍患を落下すべからず。ゆえにいいます、坐山の下もし真気脈なければ、面前縦に万重の山あるも亦是れ空なり、と。またいいます、坐下に龍なければ、朝対便ち一场の空と成る、と。尤も当に龍と穴の上に細加考察し、一味に朝山秀麗を愛するのみならざるべし。我らかつていいました、世人皆ただ尖峰を愛し、地理の最も看重するは真龍なるを知らず。龍真ならず穴的ならざれば、朝山縦に美しきこと画に入るべくも、到頭終に一场の空と帰す、と。これもまた崇本抑末の意思なり。本節の提到せる両処の図は、此の巻に再出せず。龍虎山張天師陽宅基地の図は、本書陽基の巻に見え。新田呉氏陽宅基地の図も、亦た陽基巻の図内に収む。読者はこの両処の形勢図を看んと欲せば、当に陽基巻を翻検すべく、此処はただ索引を出すのみ。
右地在樂平縣金山鄉。其龍穴俱美,惜乎立向少差,減福如此。蓋立向既差,則內之乘氣分金,外之砂水向背皆相戾矣。所謂差之毫釐,謬以千里,豈不信夫。左地在蘭谿縣東一里許,乃縣龍之分結者。分後頓起展誥土星,為貼身帳。自帳中正脈抽出,側落一邊,開口成窩穴之格。內堂團聚,外洋開暢,金華府河水橫抱,繞帶左右。龍虎均勻奇巧,近案逆水彎抱有情。外面九峰,插天特秀。范氏葬後,一父生十子,九登科。其一未第者,是為香溪先生浚,篤志道學,世稱大儒,故今俗傳十子九登科雲。
右辺この幅の図上の地は楽平県金山郷に在り。その来龍と穴場は皆美なれど、惜しむべくは「立向」稍稍偏りたる一点、福力はこの如く減損して下りました。何となれば、向一旦立て錯れば、穴内の生気を承接する「分金」随って錯乱し、穴外砂水の向背も統統穴に相違するが故に。古人の差は毫釐・謬は千里を以てすという、此の地を看れば、また信ぜざるを得んや。左辺この幅の図上の地は蘭溪県城東一里左右に在り、県城主龍の分出して結成せるもの。脈を分けし後猛然として一座の「展誥」形の土星を聳起し、以て貼身の帳幕を充つ。正脈は帳幕の正中より抽出し、偏側して一辺に落ち、口を開きて「窩穴」の格局を結ぶ。内明堂団聚して散ぜず、外洋開闊舒暢、金華府の河水は横に環抱し、左右両辺を纏繞す。青龍白虎両砂は匀稱にして巧妙、近処の案山は水に逆らい彎抱して来たり、甚だ情あり。外圍九座の山峰は天に挿して起こり、格外清秀。范氏は此地に葬り入れし以後、一位の父十人の子を生じ、其中九人科第に考中しました。唯一登第せざる那位は、すなわち香谿先生范浚、彼は専心致志して道学を研求し、世人に大儒と推されました。ゆえに今日に至るまで、民間はなお范家「十子九登科」と伝説します。
孤峰独秀を論ず
或問:朝案亂雜之說,固已聞命。然一山朝拱者,又有謂孤峰獨秀而不吉,何也?答曰:此說是論龍身,非論朝砂也。蓋龍法忌孤峰獨秀,恐其單寒。所謂龍怕孤單,而貴有蓋送護從者是也。朝砂則欲其聳秀。苟有一峰挺然獨異,秀入雲表,乃極貴之格,砂法中謂之文筆插天。若坐下龍穴眞的,主理學大儒、神童狀元之貴,又何忌夫一峰之獨秀乎?
ある人が問います、朝山・案山の雑乱不吉の道理は、已に聴明白なり。然るにただ一座の山前来朝拱する時、また或る人は「孤峰独秀」は吉利ならざるという、これは為んぞや、と。回答は、あの句は龍身を講ずるにして、朝砂を講ずるにあらず。就中龍の法則を論ずれば、確かに孤峰独聳を忌み、その孤单寒薄を怕る。ゆえに龍は孤单を怕れ、「蓋」「送」と護従の山の相随あるに在りと貴ぶ、という。朝砂は却って正に相反し、要するは高聳清秀なり。倘若一座の山峰挺然独立・衆と同じからず、秀麗なること直ちに雲霄に挿さば、あれは正に極貴の格局にして、砂法の裏に「文筆插天」と称す。ただ坐下の龍と穴確かに真ならば、此の如き一座の峰は主に理学大儒・神童状元此の等の貴顕を出すを主り、又何ぞ一峰独秀を忌まんや、と。
嘗見朱文公、王荊公之祖地,羅一峰公陽宅也,皆是一峰特秀,豈可謂孤峰獨秀而不吉?或曰:誠如所論,則《雪心賦》內“文筆孤單”之說非與?曰:《雪心賦》後人更換本文處極多。嘗考董德彰所注本作“文筆欹斜”,頗為有理。蓋《賦》既有文筆孤單之忌,又何復云“尖峰秀出,只消一峰兩峰”?豈應自相矛盾如此?其不足信明矣。
我ら兄弟かつて朱熹朱文公・王安石王荊公両家の祖墳を看たり、また羅一峰先生羅倫の住宅を看たり、前面は皆一座の山峰格外清秀なり。豈に「孤峰独秀」便ち吉利ならざると言うことを得んや。或る人また問う、汝の如く講ずれば、則ち卜応天《雪心賦》の裏の「文筆孤单」あの忌語は豈に錯ならざらんや、と。回答は、《雪心賦》は後人に原文を改換せられたる処極めて多し。我らは董德彰の注本を考察せり、此の一句は「文筆欹斜」と作り、講ずること甚だ理あり。何となれば、《雪心賦》既に文筆孤单を以て忌諱に列すれば、怎んぞまた「尖峰秀出・只消一峰両峰」というを得ん。何ぞ自相矛盾して此の地步に至らん。これを見れば「文筆孤单」の一句は憑信に足らず、已に甚だ明白なり、と。
且龍穴眞貴,雖朝峰欹斜,亦不為大害,但稍減力而已。嘗觀寧都縣尚書董文僖公祖墳頓鍾形在縣之地名璜坊者,前峰欹側,其課云:“可惜狀元峰不正,他年亦作探花郎。”果出文僖公越,登成化已丑科探花,官至禮部尚書。可見地之美惡在龍穴,而不在於前朝之峰。故雖欹斜亦且出貴,而何孤峰獨秀之足忌哉!
況んやただ龍真穴貴ならば、たとえ朝山の峰歪斜不正と雖も、また大害と算すべからず、不過略々力量を減ずるのみ。我らは寧都県董文僖公家の祖墳を看たり、喝形は「頓鐘」、該県の地名璜坊の処に在り、前面あの座の峰はすなわち偏斜なり。当時の断語にいわく、惜しむべし状元峰の立つや正ならず、他年もまた探花郎を出すを得ん、と。後来果して董越董文僖公を出し、成化己丑科探花に考中し、官は礼部尚書に做到しました。これを見れば一块の地の好壊は龍と穴に在りて、前面朝山のあの座の峰に在らず。ゆえに峰歪斜と雖も、照様貴人を出し、又何ぞ「孤峰独秀」の何たるを忌むに値せんや。
重刊人子須知資孝地理心学統宗 巻五上之二 徳興山人徐善継述同著
前応後照を論ず
穴前案外之山,謂之前應;穴後玄武頂背之山,謂之後照。亦曰前照後蓋,即前朝後坐之山也。謝氏謂之前親後倚;陳氏謂之在後者為寶殿,在前者為龍樓;卜氏謂前帳後屏;劉氏謂特秀在前,屏幛在後;鄭氏謂“群峰獨秀矗矗於其前,疊帳獻奇層層於其後。”皆指此也。
穴場の前面・案山の外のあの重の山を「前応」と呼び、穴場の後面・玄武頂背の後のあの重の山を「後照」と呼びます。或る人は「前照後蓋」と称するも、実はすなわち前面の来朝・後面の為坐の两重の山なり。謝氏はこれらを「前親後倚」と呼び、陳氏は後に在るを「宝殿」・前に在るを「龍楼」といい、卜応天は「前帳後屏」と称し、劉氏は特秀の峰を前にし屏幛の山を後にするといい、鄭氏は則ち群峰独秀・矗矗然として穴前に立ち、帳を畳ねて奇を献じ・層層として穴後に排すと形容す。各家の名目は同じからざるも、指すは皆此の前後两重の山なり。
周東樓謂前應即第二重案山,及三重五重皆是。要尖如筆,卓如笏,方如誥軸,重高一重,如襯錦然,皆端正美好者是也。後照即福儲峰,乃祖山在結頂之後,或兩臂之外,尊貴高大,矗矗然托護於玄武,如寶座,如御屏,如幃帳、簾幙者是也。
周東楼のいわく、「前応」とはすなわち第二重案山にして、更に外なる第三重・第五重も皆算内に在り。それら或いは尖として筆の如く・或いは卓立して朝笏の如く・或いは方正として誥軸の如く、一重より一重重ねて高く、錦緞の下に層層の底子を襯するが如く、かつ個個端正美好なるを要す。「後照」とはすなわち「福儲峰」にして、祖山の結穴の頂背の後に落ち・或いは左右両臂の外に落ち、尊貴高大・矗然として玄武の一方を托護し、形状は宝座の如く・御屏の如く・帷帳・簾幕の如し、という。
若回龍、脫龍、橫龍之穴,不得祖宗為照山,亦須外山之尊貴高大者在後托護之,使玄武枕以為照,而不陷於空亡可也。有等怪穴,翻身逆勢,坐空以當朝水者,又有坐後有深潭融注,或水纏遶合襟者,皆不以此拘也。
もし「回龍」「脱龍」「横龍」この幾種の穴であって、自家の祖山を取りて照山に充てることが得られぬならば、それでも必ず外来の尊貴高大の山ありて後ろに托護し、玄武に枕靠するところを有して後照を成し、背後空虚無依の「空亡」の境地に落ちざらしめねばなりません。別に一類の怪穴あって、翻身して大勢に逆らい、故意に空に坐して当面朝来の水を承くるものあり。また坐山の背後に深潭聚まり、或いは水ありて後ろより纏繞して来たり、穴前にて「合襟」を成すものあり。この幾種は皆後照必ず山を要するという規矩の拘束を受けません。
其前應之山,若得有近案山可關內堂,則外雖無應山,不害其為吉地。卜氏云“外聳千重,不若眠弓一案”是也。楊公以向前空闊無朝應為人刦。若當面有水陽朝,或有低近之砂橫抱,則不忌。故曰:“人刦當從向上求,面前空闊要遠朝如無遠朝,是犯人刦。有水特來砂橫抱,信知人刦小為妖。”
「前応」の山については、ただ近処に案山ありて内明堂を関攔し得れば、外面たとえ応山なきも、その吉地を成すを妨げません。卜応天のいわく、外に千重の遠山を聳起するは、近前の一道の臥弓の如く彎曲する案山に如かず、とは正にこの一層を講ず。楊筠松は穴の前方に向かって空曠開闊・毫も朝応の山なき情形を「人劫」と呼びます。ただ当面もし明亮の水朝来し、或いは低矮貼近の砂ありて穴前を横抱すれば、忌諱するに及びません。ゆえに彼のいわく、人劫は立向の方位の上に推求すべく、面前一片空闊なれば必ず遠く朝山を要し、倘若遠朝もなからんは、便ち人劫を犯す。もし水ありて専程流れ来たり、また砂ありて横抱すれば、則ち人劫の禍害は小小の作怪に過ぎざるを知る、と。
大抵前應後照山俱全而重疊者,尤為上吉。二者較之,後照尤緊。萬物負陰而抱陽,故穴後不可以無屏障以蔽背風。其坐後高山,亦謂之天柱峰。卜氏云:“天柱高而壽彭祖。”亦謂之福儲峰。趙緣督云:“後座重重高照,百福攸集。”故有此山,則主福壽雙全,康寧百順,人丁蕃衍,富貴攸久。
大体にいえば、前応と後照の两重の山斉全にしてかつ層層重畳するは、最も上吉です。両者相い比ぶれば、後照はさらに要緊です。万物は皆陰を負いて陽を懐抱するものにして、ゆえに穴の背後は屏障なかるべからずして背後より来る風を遮らしむ。坐山の後の高山は、また「天柱峰」と呼ばれ、卜応天は天柱高聳の人家は彭祖の如く長寿を得るという。それはまた「福儲峰」とも呼ばれ、趙縁督は後座重々として高く映照すれば百様の福気皆聚まるという。いわゆる「福儲」とは、正に福気の背後に積儲する義を取る。ゆえにただこの重の山あれば、則ち福寿双なり全うし・安康順遂・子孫繁衍・富貴長久を主ります。
如承天曾司空始祖地在彭澤者,其前應後照重疊齊整,故司空喬梓,高壽厚福,夫婦齊眉。諸孫蕃衍,四世同堂,滿門朱紫,百福咸集,是其格也。又徐國公始祖地在豐城者,亦以後枕帝座,蓋照有力,前應齊全而吉。二圖並具下。
例えば承天府曽司空家の始祖墳は彭沢に在り、あの地は前応と後照層層重畳・斉整分明にして、ゆえに曽司空父子は皆高寿厚福・夫妻白頭偕老し、子孫繁衍・四代同堂・満門皆朱衣紫綬の顕官・百様の福気一斉に聚拢するは、正に此の格局の応験です。また徐国公家の始祖墳は豊城に在るが如きも、亦た背後に「帝座」の山を枕し・蓋照力あり・前応斉全にして、此に因りて吉利。この両块の地の図は皆下に附す。
右地在彭澤九都,土名橋亭。其龍來自鳴水山,遠不詳述。至計家嶺,頓起御屏為少祖。棲閃數節,橫列大帳,中峰獨聳福儲。又數節入首,列三臺。中臺推出正體太陽金星,開口結穴。穴間平坦,左右包裹重疊,取作蓮花形花心穴。
右図この地は彭沢県九都に在り、小地名は橋亭。その龍脈は鳴水山より発し、路途太も遠く、ここに一々細述せず。計家嶺に走り至り、猛然として一座の「御屏」形の山を聳起して少祖山を作る。此の後左棲右閃して幾節を走り、横に一座の大帳を排開し、帳幕正中一峰独聳するは、すなわち「福儲峰」なり。更に幾節を走りて「入首」の処に達し、「三台」三座の山を排出す。中間のあの一台は一座の標準の「太陽金星」を推出し、口を開きて穴場を結ぶ。穴中の地面は平坦、左右重々包裹し、此に因りて喝形を蓮花と為し、穴は花心の上に点ず。
穴下餘氣鋪氈,明堂融聚,近案順水拜伏,為謝恩領誥。外洋諸峰,如掛榜,如天馬、文筆、席帽,種種羅列,前應後照齊全。水口獅象捍門,流神遶青龍,纏玄武,諸吉咸備,眞美地也。
穴下の多余の地気は一片の氈褥と鋪展を成し、明堂の水は汇聚して散ぜず、近処の案山は水勢に順い俯伏下拜して、形如臣子の恩に謝し詔誥を領受す。外洋の諸多の山峰は、或いは張掛せる金榜の如く、或いは天馬・文筆・席帽の如く、種種の形象前面に羅列し、前応と後照の両重斉全。水口の処に獅形・象形の両山ありて門戸の如く把守し、水流は青龍の一辺を繞り、また玄武の背後を纏い、各種の吉象様々具備し、真に一块の美地なり。
元至正間,曾氏葬寶二公。公四子,伯永一,居橋亭;仲曰永二,居柳樹下;叔曰永三,居小嶺。今皆富盛。季曰永四公,以武功從太祖高皇帝肅清江漢,定藉安陸今承天衛官藉。再傳百戶公,三傳萬戶公,延及於今,世襲千戶。
元代至正年間、曽家は宝二公をここに葬る。宝二公に四子あり。長子永一は橋亭に住し、次子永二は柳樹下に住し、三子永三は小嶺に住し、今皆富足興盛。四子永四公は武功を凭りて太祖高皇帝朱元璋に追随し江漢一帯を掃平し、安陸に落籍し、すなわち今の承天衛軍籍なり。再び伝えて一代は百戸公、第三代は万戸公、一直に今に延続し、世代千戸の職を承襲す。
知縣公遜,歲薦。今金堂贈太保、尚書。贈員外公輝,以孫貴,贈太保、尚書。七代陽白公璠,登進士,官陝西少叅。致仕,進階中憲大夫,累封太保、工部尚書。羅泉公秉,歲薦,授光祿署丞。八代確庵公省吾,登進士,累官太保、大司空,衣蟒束玉,世代皆一品恩榮。廩生速庵省吾、可庵宗吾,及九代諸孫,人文濟濟,福祉未艾雲。按:是地也,龍勢雄猛,武星結穴,力量全,故主世襲簪纓。天柱高,福儲厚,故主享遐齡,備百福。前沙順水拜伏,故離鄉顯貴。餘氣多,故人丁衍,運祚永。
知県公曽遜は歳貢の薦挙により出仕し、今金堂に在り、太保・尚書を贈らる。贈員外郎曽輝は孫輩の顕貴に因りて封を受け、亦た太保・尚書を贈らる。第七代陽白公曽璠は進士に考中し、官は陝西布政司少参を任じ、退休の時中憲大夫に進階し、屢次太保・工部尚書を封贈さる。羅泉公曽秉は歳貢により薦挙され、光禄寺署丞を授かる。第八代確庵公曽省吾は進士に考中し、歴官して太保・大司空すなわち工部尚書に至り、蟒袍を身穿し玉帯を腰束し、幾代も一品の恩栄を享受す。廩生速庵省吾・可庵宗吾、および第九代の衆孫輩は、人才済済として、福沢はなお遥かに頭せず。作者按語にいわく、この地は龍の気勢雄壮猛烈、また武に属する星体により結穴し、力量完備にして、ゆえに子孫世代官爵を承襲するを主る。天柱峰高く福儲峰厚し、ゆえに高寿を享け百福斉備を主る。穴前の砂は水勢に順い俯伏下拜し、ゆえに家郷を離れてこそ顕貴を主る。穴場の多余の気は充盈し、ゆえに人丁繁衍・家運長久を主る、と。
右地在豐城,土名桐槽。其龍自羅山入臨川境,轉至桐槽,繫省龍分結,迢遞而來。將入局,橫列大帳,左右天乙、太乙中聳,帝座秀異清奇。正脈從帝座中逶迤而下,復開九腦芙蓉帳。帳中頓起大貴人,聳立特異,節節上格貴龍。復大斷,霞帔過脈,隱隱三臺掛角而下,撒落平坡,開口結穴。
右図この地は豊城に在り、小地名は桐槽。その龍脈は羅山より臨川境内に入り、桐槽に転じ、省城主龍の分出して結成せるものにして、一路迢迢として来たり。本局に入らんとするに快く、横に一座の大帳を排開し、左右「天乙」「太乙」両峰を分列し、中間に高聳するは「帝座」にして、秀異清奇。正脈は帝座の正中より逶迤として下り、また一重の「九脳芙蓉帳」を張る。帳中猛然として一座の「大貴人」峰を聳起し、挺立特出、節節皆上格貴龍の模様なり。此の後また大断一次し、「霞帔」の形を以て峽を過を過ぎ、隠隠として三台を現し、斜掛して下り、平坡に撒落し、口を開きて結穴す。
到頭丑怪,穴似散漫,龍虎帶劍,似乎分飛不顧,俗見無不驚駭。殊不知大龍乾地,曜氣發露,貴秀全在於此,但不利初年耳。徐氏宋建炎四年葬後,果不利,從戌遷濠州,生王,為我皇朝開國元勲,朝班廟享,皆居第一,封魏國公,進中山王,三代追封王爵。女為文孝皇后。次子永昌,復以成祖推功,封定國公,南北兩京,世襲公爵,俱掌兵政。諸勲貴莫與比論。舊有記云:“桐槽大地,獵獵塌塌。火腳金頭,卻似牛軛。帝座後殿,貴人前席。日月捍門,龍虎持戟。有人葬著,王侯兩國。百年已後,富貴方得。若問發跡,先須江北。
到頭の処は形状丑怪、穴場看れば松散にして収まらず、青龍白虎両砂はまた皆剣の如く尖利なる石脚を帯び、各々分飛して誰も誰を顧みざるが如く、俗人これを見て驚駭せざるなし。彼ら何ぞ知らん、これは大干龍の結ぶ所の地、「曜気」外に露る、貴と秀は正にここに在り、ただ頭の数十年順利ならざるのみ。徐家は宋代建炎四年に葬り入れし後、果して不順、戍辺に因りて濠州に遷り、彼処にて中山王徐達を生み、本朝開国第一功臣を成り、朝班位次と配享太廟皆第一に居り、魏国公に封じ、中山王に進封し、三代皆王爵を追封さる。その女は文孝皇后なり。次子徐永昌はまた推戴成祖の功に因り、定国公に封じ、南京北京両処世代公爵を承襲し、皆兵権を掌管す。衆多の勲貴の家に徐家と相比ぶる能くするなし。从前一篇の鉗記ありて此の如く写す。桐槽この大地、山形獵獵として勢いを作し塌塌として鋪展し、火形の脚に金形の頭を配し、樣子活く一副の牛軛に似たり。帝座の山は後殿を充て、貴人の峰は前席に列す。日月両山は水口を把守して門戸の如く、龍虎両砂は戈戟を手持す。或る人もし此の穴を葬中すること得んは、両個の国公王侯を出すことを得べし。不過百年以後を待ちて、富貴方に真に手に到らん。若し何処より発跡するを問わば、須く先に江北に往くべし、と。此処底本の引く鉗記はただ起首の引号ありて收尾なく、文字は「先須江北」に至りて止む。
按:是地也,龍分省城正幹,穴枕帝座,故力量大。日月捍門,故王侯之尊。穴怪《怪穴訣》云:“金頭火腳,葬火消爍;火腳金頭,葬下封侯。”此火腳金頭也,堂氣順,故發越遲。龍虎俱帶貴曜,兄弟皆掌兵權。曜飛楊,局逐水,故離鄉而貴。雖然,徐氏之貴地尤多,未必全在此穴。但其鉗記若是,其驗亦神矣哉!
作者按語にいわく、この地の龍は省城正幹の上より分け出でしもの、穴はまた「帝座」の山を枕し、ゆえに力量宏大なり。日月両山は水口を把守して門の如し、ゆえに王侯の尊を主る。穴形古怪、《怪穴訣》にいわく、金形の頭に火形の脚を配すれば葬り下して火に焼き尽さる、火形の脚に金形の頭を配すれば葬り下して便ち侯を封ぜらるべし、と。ここは正に火脚金頭なり。明堂の気は水に順いて去り、ゆえに発達の来たること遅し。青龍白虎は皆貴気の「曜」を帯び、ゆえに兄弟皆兵権を掌る。曜気飛揚し、局勢水に随いて去り、ゆえに家郷を離れてこそ顕貴なり。話是の如しと雖も、徐家の貴地は本来多く、未だ必ずしも全て此の一穴に出るとは限らず。ただあの篇の鉗記の預言せること此の如く貼切にして、応験もまた真に神なるに足る、と。
傳疑晉郭景純至豐城,改扦邑治。見此水口有日月捍門二阜,訝曰:“此內有至尊地乎?”隨察之,曰:“日月反位,非至尊,不過王侯地耳。”遂私作記而去。觀其神驗如此,信非景純不能。
伝疑一則。晋代郭璞郭景純は豊城に至り、県治の為に基址を重新点定す。彼は此の処の水口に日月两座の土阜ありて門戸の如く把守するを見て、驚きていわく、此の裏面に帝王級の至尊の地あること莫かるや、と。随いて細加察看し、またいわく、日月の方位は顛倒せり、至尊の地にあらず、不過王侯を出すの地のみ、と。ここにおいて私に一篇の記を写して離れ去りぬ。彼の推断せること此の如く神験なるを看れば、実に郭景純此の如き人物にあらざれば能くせざる所なり。
左輔右弼を論ず
左輔右弼者,龍穴貴證也。在穴之左右特起兩山,夾耳對峙者,尤為緊切。要夾照登對,不相參差為美。又要高低、大小、遠近相等,方為合格。或圓聳如太陰太陽,謂之日月夾照;或卓立如頓筆展旗,謂之文武侍衛;或方平延褒,謂之列幛列屏;或圍遶盤旋而包裹,或高峙秀拔而拱夾,或重重疊疊,如禁衛兩班;或濟濟森森,如影從萬卒。此皆左輔右弼,侍衛之砂之至貴者也。
「左輔」「右弼」は龍真穴貴の一種の憑証なり。それらの指すは穴場の左右両側に特意聳起せる两座の山にして、人の両耳の如く穴場を夾峙するもの、此の種最も緊要なり。此の両山彼此照応・成双成対して、一前一後参差不斉ならざるを要してこそ美と算し、また高低相当・大小相当・遠近相当してこそ合格を算す。それら或いは円潤高聳して「太陰」「太陽」両星の如く、「日月夾照」と呼ばれ、或いは卓然挺立して筆架の頓放・旗幟の展開の如く、「文武侍衛」と呼ばれ、或いは方正平展・延伸寛闊にして「列幛列屏」と呼ばる。或いは環繞盤旋して穴場を包裹し、或いは高く聳立し・清秀挺拔して両旁に拱夾し、或いは重々畳畳して宮禁衛士の両班に分列するが好比、或いは済済森森として万名の士卒の影随するが好比す。これ皆左輔右弼にして、侍衛の砂の裏最も尊貴の様子なり。
其在後龍之左右者,謂之天以太乙;其在過峽之左右者,謂之天角天弧;其在前朝之左右者,謂之金吾執法;其在明堂之左右者,謂之天關地軸;其在水口之左右者,謂之華表捍門。一皆輔弼推類之易名也。其或邊有邊無,邊多邊少,邊高邊低,邊大邊小,則不合此格,貴又差輕矣。
此の類の夾侍の山は、位置同じからざれば名称も随いて改換す。後龍の左右に長ずるは、「天乙太乙」と呼ばれ、底本此処は「天以太乙」と作る。過峽の左右に長ずるは、「天角」「天弧」と呼ばれ、前面朝山の左右に長ずるは、「金吾」「執法」と呼ばれ、明堂の左右に長ずるは、「天関」「地軸」と呼ばれ、水口の左右に長ずるは、「華表」「捍門」と呼ばる。これ全て皆輔弼の一類より推衍して出でて名目を換えたるのみ。倘若一辺ありて一辺なく、一辺多くして一辺少なく、一辺高くして一辺低く、一辺大にして一辺小なれば、則ち此の格局に合せず、貴気もまた少なからず折扣を打つべし。
天門地戸を論ず
天門地戶,亦名三門五戶。在法天門欲其開闊,地戶欲其閉密。卜氏云:“垣局雖貴,三門逼窄不須觀。形穴雖奇,五戶不關何足取。”又云:“所貴者五戶閉藏,所忌者三門緊窄。”蓋穴之左右,不問青龍白虎,但水來一邊謂之天門,水去一邊謂之地戶。
「天門」「地戸」はまた「三門五戸」と呼ばる。法度に按ずれば、天門は開闊敞亮を要し、地戸は関閉緊密を要す。卜応天のいわく、垣局尊貴と雖も、三門若し逼仄狭窄なれば看るに足らず。形穴奇特と雖も、五戸若し関鎖せざれば何の取る可きかあらん、と。彼またいわく、貴ぶ可きは五戸の蔵閉し得るにあり、忌む可きは三門の緊窄にして開けざるにあり、と。ここにいう天門地戸とは、指すは穴場の左右両側にして、それが青龍たると白虎たるとを管せず、凡そ水の流れ来るあの一辺を則ち天門と呼び、水の流れ去るあの一辺を則ち地戸と呼ぶ。
趙緣督云:“水從左來流右去,左邊為天門,右邊為地戶;水從右來流左去,右邊為天門,左邊為地戶。不拘青龍白虎,但水來一邊要開闊寬暢,山明水秀,水去一邊,要高帳緊密,閉塞重疊,不見水去為吉。合此則結作眞,力量大,發福速,運祚遠。若天門當開而反閉塞,地戶當閉而反寬曠,乃是山水不相交會,此處決無眞龍結作,不必尋索穴場也。”
趙縁督のいわく、水左辺より来たり右辺に往くは、則ち左辺は天門・右辺は地戸なり。水右辺より来たり左辺に往くは、則ち右辺は天門・左辺は地戸なり。それを青龍と呼ぶと白虎と呼ぶとを管せず、ただ水の来るあの一辺の開闊寛敞・山明水秀を看るのみ。水の去るあの一辺は高大の帳幕ありて緊緊遮攔し・層層閉塞し、穴上に立ちて水の流出するを見えざるを要してこそ吉利。此の条件に合すれば、結作すなわち真にして、力量大・発福快・家運長久なり。反対に、もし天門開くべきに却って閉塞し、地戸閉ずべきに却って空曠なれば、則ち山と水の相い交会せざるなり。此の地方は決して真龍の結作あらず、穴場を尋ねるに及ばず、と。
世俗有誤執白虎不宜高昂,而不察水之來去者,是未獲眞訣,而以白虎為眞虎耳。殊不知青龍白虎,乃術家假借此名,以稱左右之砂而已。只要收水一邊山勢強盛有力,收得水住,使氣便融聚。董氏德彰謂“下砂收盡源頭水,兒孫買盡世間田”是也地戶與下手及水口之砂同推。既曰下手砂,又何可拘青龍白虎?
世俗或る人ありて「白虎不宜高昂」あの句を死守し、却って水の来去の方向を察看せず、これは真訣を得ず、白虎を以て真の老虎と成して怕るるなり。彼らは青龍・白虎はただ術家の借来の名目にして、以て穴場左右両辺の砂を称呼するのみなるを知らず。真正要緊なるは、水を収るあの一辺の山勢強盛有力にして、水を収住し得、気こそ凝聚して散ぜざらん。董德彰のいわく「下砂収尽源頭水・児孫買尽世間田」、正に此の意なり。地戸と「下手砂」「水口砂」の推法は完全に一様なり。既に下手砂と呼ぶ以上、又怎んぞそれが青龍なるか白虎なるかに拘泥することを得んや。
且極大之地,秉生殺權,為都邑省郡者,右砂強勝。如京師之西山,南畿之雞籠、石頭城,福建之虎頭,江西之西山,浙江之西湖諸山,莫不皆然。此又以右勝為威武之權耳。第尋常小可之地,又不可以此為法也。
況んやそれら極大の地・生殺の権を掌握し都城省郡を結成するは、反って多くは右辺の砂の左辺に強過ぐるなり。京師の西山・南京の鶏籠山・石頭城・福建の虎頭山・江西の西山・浙江西湖一帯の諸山の如き、此の如しならざるなし。これは右辺を以て左辺に圧過して威武の権を象徴するなり。不過これはただ大格局に適用し、尋常の小地方は、この樣子を以て套るべからず。
羅城垣局を論ず
羅城垣局,即前朝後托相連於周圍者也。要重重疊疊,高聳周迴,層層級級,盤旋圍遶,補缺帳空,如城之有女牆垛者,故曰羅城。又如天文三垣星象,各有圍垣之星以衛帝座,故又謂之垣局。垣局者,即羅城也。
「羅城垣局」とは、指すは前面の来朝・後面の托護の衆山彼此相い連なりて、四周に圍成して一圈を成すなり。それらの重々畳畳・高聳して一周を環繞し・層層級級盤旋包囲し・缺口あるの処を補い・空隙の処を遮るを要し、城墙上の女墙と垛口あるが如く、ゆえに「羅城」と呼ぶ。それまた天文上の紫微・太微・天市の三垣星象に好比して、各々一圈の圍垣の星ありて帝座を護衛し、此に因りてまた「垣局」と呼ぶ。垣局と羅城は、本是一回事なり。
卜氏云:“紛紛拱衛紫微垣,尊居帝座;重重包裹紅連瓣,穴在花心。”又曰:“山外山稠疊,補缺幛空。”又曰:“華表捍門居水口,樓臺鼓角列羅城。”賴氏曰“四神八將應位起”,楊氏曰“外山百里作羅城”,皆善言垣局之情狀者也。大抵欲其寬大周圓,不知水從何出。朱子曰:“拱揖環抱無空缺處,宛然自一乾坤。”乃羅城之上吉也。
卜応天のいわく、衆山紛紛として拱衛し、紫微垣の尊貴の帝座を拱衛するが如く、層層包裹して紅蓮花瓣の如く、穴は花心の上に点ぜらる、と。彼またいわく、山外なお山あり・稠密重畳して缺口を補斉し空処を遮住す、と。またいわく、華表・捍門は水口に守り、楼台・鼓角は羅城を排成す、と。頼布衣は四神八将各々方位に按じて峰を起こすといい、楊筠松は百里の外の外山もまた来たりて羅城を充てるという、これらの話皆垣局の情状を講ずること甚だ到位なり。総の要求は寛大周円にして、穴上に立ちて水の究竟何処より流出するを看出せざるなり。朱熹のいわく、群山拱手作揖して環抱一周にして空缺なく、宛然として自ら一天地を成す、と。あれこそ羅城中の最上等の吉格なり。
重刊人子須知資孝地理心学統宗 巻五上之三 徳興山人徐善継述同著
楽山を論ず
樂,喜好也。橫龍之穴,喜有此山托帳於後。樂山者,穴後樂托之山,正應穴場而蓋托者是也。撞背來龍結穴,及穴星起頂者,皆不論樂。惟是橫龍穴,及凹腦、側腦、沒骨等穴,必要樂山貼身蓋應,方為眞穴。廖氏云:“橫龍結穴必要鬼,樂山宜後峙。”吳公云:“擔凹攀鞍要樂山,切須貼背應穴場。”故樂山為枕穴之砂,不可不審。
「楽」の字はここに喜好・楽しみて依靠するの意なり。横龍の結ぶ所の穴は、最も背後に此の如き一座の山ありて帳幕を張開して之を托住することを喜ぶ。いわゆる「楽山」とは、すなわち穴後の倚托と為すの山にして、正対して穴場し・覆蓋しかつ托護するもの。凡そ来龍直撞して穴背を結ぶ、および穴星本身高々と頂を起こすは、皆楽山を講究せず。ただ横龍の結ぶ穴、および「凹脳」「側脳」「没骨」此の幾類の穴は、必ず楽山ありて貼身覆蓋照応してこそ、真穴と算す。廖金精のいわく、横龍結穴は必ず鬼星を要し、楽山は当に聳立して後に在るべし、と。呉景鸞のいわく、担凹・攀鞍此の類の穴は楽山を要し、務めて背後に貼りて穴場を照応すべし、と。これを見れば楽山は穴場に枕头を当たる砂にして、仔細審察せざるべからざるなり。
然樂有三格,曰特樂、曰借樂、曰虛樂。特樂者,遠遠特來,挺然貼穴;借樂者,雖非特來,而橫帳貼穴,不令空曠;虛樂者,既非特來,又不橫遶,而低陷躲閃,散亂遠曠,枕穴不著者也。特樂為上,借樂為次,虛樂不可用矣。
楽山は三个の等级に分かつ。一は「特楽」、二は「借楽」、三は「虚楽」なり。特楽とは、遠処に山ありて専程奔来し、挺然として穴後に貼す。借楽とは、専程の来たりと為さざると雖も、横列の帳幕ありて穴背を貼住し、背後を空曠ならしめず。虚楽とは、則ち専程の来たりにも非ず・横向の環繞もなく、ただ低陥し躲閃し、散乱して遥かに空曠にして、穴場根本に枕靠せざるなり。三者の中、特楽最上、借楽これに次ぎ、虚楽は則ち用いる能わず。
其於形象,皆不必拘。惟以端然卓立,高闊帳護,不令空缺為吉。且樂星亦不拘定是本身山,只客山亦可。若得樂下之水流到穴前,最為至貴。又穴上回頭便見樂山,或明堂中見者最吉。皆須貼背,不宜遠曠。
楽山の具体の形状については、拘るに及ばず。ただそれ端正挺立し・帳幕高大寛闊にして穴背を護住し・空缺を留めざれば、吉利と算す。而且楽山もまた必ずしも本身龍脈上の山を限定せず、外来の客山同じく充てることを得。もし楽山の脚下の水の流れて穴前に来たること能わば、則ち最も尊貴なり。另外、穴上に立ちて一回头すれば則ち楽山を見、或いは明堂の中に在りてもそれを望見するは、皆最吉なり。総て楽山は必ず穴背に貼して、離るること太も遠く太も空なるを宜しとせず。
特樂圖。借樂圖。虛樂圖。此遠山特來,挺然貼穴應樂者,至吉,主驟發富貴,大旺人丁,康寧長壽。此橫幛貼穴,不空缺,正樂應,亦有力,是吉地眞穴,福祉於特樂。此穴後空虛,無正樂,雖有小山,偏旁低閃,不枕穴場,是凶地假地。
ここに元来三幅の図あり、図題は依次に「特楽図」「借楽図」「虚楽図」、如今ただ図題と図下の説明文字のみ存し、図形は已に存せず。第一幅の説明は、遠山専程奔来し、挺然として穴背を貼住して楽山と為す、最も吉利にして、暴発富貴・人丁大旺・安康長寿を主る。第二幅の説明は、横列の帳幕は穴背を貼住し・空缺を留めず、正面の楽山照応する所有り、また力ありと算す、これは吉地真穴にして、福気は特楽に次ぐのみ。第三幅の説明は、穴後空虚・正対の楽山なく、些小の山あると雖も、偏って旁に在り・低伏躲閃し、穴場を枕托せず、これすなわち凶地仮穴なり。
右地在浮梁縣北鄉,金探花公達葬父地也。其龍甚遠。將作穴,開帳中落出脈,連起數節文星,落下平坡,成盧鞭嫋、落地梅花之格。兩畔小埠夾從,正脈中行,壘壘復起文星,跌斷結咽,入首結天才凹腦之穴。後樂貼背,撐頓有力。
右図この地は浮梁県北郷に在り、金探花金達の父を安葬せる墳地なり。その来龍は非常に遠し。結穴せんとするに快く、帳幕を張開し、正中に落下して脈を出し、接続して幾節の「文星」を聳起し、然る後平坡に落ち、「芦鞭裊」と「落地梅花」両種の格局を形成す。両旁に小土埠ありて夾きて相随い、正脈は中間より行き、一畳一畳また文星を起こし、跌断の後収束して「咽喉」を成し、「入首」の処に至りて「天財凹脳」の穴を結ぶ、底本此処は「天才」と作る。穴後の楽山は穴背に緊貼し、撑頓力あり。
前面堆堆疊疊,奇峰朝拱。明堂湖田融注,下關抱衛有情,曜氣壇褥,證應明白。繫艮龍入首,扦巳丙相探花公春秋二榜,皆在丙科,是其驗也,卯水朝入。以攀鞍穴後樂撐貼,取作躍馬赴敵形,屯軍案,眞特樂有力,催官之格也。嘉靖辛丑年卜葬,後六年丙午,公乃發魁。又十年丙辰,會元及第。今富貴方隆。
穴前の山巒は堆々畳々、奇峰来たりて朝拱す。明堂の裏に湖水と田水汇聚して散ぜず、下関の砂は環抱護衛して甚だ情あり。「曜気」は発露して壇の如く褥の如く、各種の応証清清楚楚。此の条の龍は艮方より入首し、巳丙一線の向を立て、探花公両次の郷試会試皆丙科の榜上に在るは、正に此の向の応験なり。卯方の水は穴に朝して入る。是れ「攀鞍」の穴を為し、背後に楽山の撑貼あり、ゆえに喝形を「躍馬赴敵」と為し、「屯軍」形の山を以て案と為す、確かに特楽有力・催官速発の格局なり。嘉靖辛丑年に日を擇びて安葬し、六年後の丙午年、金公は便ち郷試解元に中り、再び十年を過ぎて丙辰年に至り、また会元を以て登第す。如今家門富貴正に盛んなり。
左地在廣昌縣西一里,土名桃竹坑。繫縣龍分結。分後五峰中出,逶迤頓伏。將入穴,乃束氣起天財土星,橫脈結穴。穴完又起星峰,踴躍以去。立穴處似過脈狀。只是後有御屏特樂,撐貼有力,證得情眞。穴前一字文星及蛾眉為案。案外奇峰獻秀,下關逆抱包裹。前鋪官星,大河遶帶,局勢完密,眞貴地也。
左図この地は広昌県城西一里に在り、小地名は桃竹坑、県城主龍の分出して結成せるものなり。脈を分けし後、五座の山峰の当中より正脈を抽出し、逶迤起伏す。穴場に到らんとするに将に、気を束ねて一座の「天財」土星を聳起し、脈横に来たりて結穴す。穴結成せし後、龍身はまた星峰を起こし、一路踊跃して前に往く、ゆえに点穴の処は看去甚だ一段の過脈に似たるのみ。全く背後の「御屏」形の特楽の撑貼有力を靠りて、ここに情勢の真なるを証明するを得たり。穴前は「一字文星」と「蛾眉」形の山を以て案と為し、案外の奇峰は秀色を争献し、下関の砂は水に逆らいて抱攏包裹す。穴前に「官星」を鋪出し、大河環繞して帯の如く、整个の局勢完整緊密にして、実に貴地なり。
吏部公文淵父以疫卒洪武丙寅,抬柩至此遇雨,遂葬,今鄉稱天葬地。公時方半歲,乙丑生,後登永樂戊寅進士,累官至吏部尚書。子喬新,官至刑部尚書,諡敏肅。玄孫曰源,進士;曰濤,元解;曰沆,解元。子曰孔陽,諸公連登科甲,富貴方隆。
吏部尚書何文淵の父は洪武丙寅年に時疫に死し、棺を擡げてここを経過するに雨に遇い、就地にて安葬し、如今郷里は之を「天葬地」と称す。何公当時纔かに半歳、乙丑年の生人にして、後来永楽戊寅科進士に考中し、一路吏部尚書に做到せり。その子何喬新は、官は刑部尚書に至り、謚号は敏粛。玄孫何源は進士、何濤は解元、何沆も亦た解元、再び下一輩に何孔陽あり。此の幾位は接続して科第に考中し、家門富貴正に盛んなり。
右在邑北一里,土名鄭沖元,乃縣龍分結。自分脈後,過分水嶺峽,頓起丫山,開大帳,仙橋出脈,走弄數十節。入局頓起飛蛾鶴騰翼格,中垂嫩脈,落平坡,為太陰轉面開窩。窩間微乳,兩畔微鉗,穴情甚巧。前吐坦氈,左右盤纏,龜蛇捧抱,橫脈落穴。
右図この地は県城北面一里に在り、小地名は鄭冲元、亦た県城主龍の分出して結成せるものなり。脈を分けし以後、分水嶺の峽口を越え、猛然として丫山を聳起し、大帳を張開し、「仙橋」形の山上より脈を出し、一路盤桓して数十節を走る。本局に入りし後「飛蛾」「鶴騰翼」一類の星格を聳起し、正中に一条の嫩脈を垂下し、平坡に落ち、「太陰」星の面を転じて開出せる窩穴を成る。窩中微々として一点の乳突を隆起し、両旁また微々として鉗口を形成し、穴情十分精巧なり。穴前に平坦の氈褥を吐出し、左右盤繞纏護し、亀形と蛇形の両山は旁に捧抱し、脈横に来たりて穴を落とす。
後樂一峰,挺然特聳,取作仙人跨鶴形。明堂、朝對、下關、水口皆美,董德彰先生下,課云:“鶴騰亥脈出仙橋,卯向分明艮水朝。一峰西兌撐天柱,兩峰辰巽貼雲霄。左右龜蛇盤足下,面前丹詔列功曹。人間富貴渾閒事,定有天書詔譽髦。”
穴後の楽山はただ一峰あり、挺然独聳し、此に因りて喝形を「仙人跨鶴」と為す。明堂・朝対の山・下関の砂・および水口、様々皆美なり。この地は董德彰先生の点じたるもの、彼の断語にいわく、鶴形騰起し、亥方より脈を出し・仙橋を経て来たり、卯向を立て、分明に艮方の水の前来朝拱するあり。西辺兌位の一峰は天柱を撑起し、東南辰巽両峰は雲霄に高貼す。左右亀蛇二山は脚下に盤伏し、面前丹詔形の山は功曹の如く排列す。人間の富貴はここに在りて尋常小事と算し、将来必ず天子の詔書の来たりて傑出の士を徴召するあらん、と。
左地在豐城長安之蠏坑。其龍起孤山作祖,行數十里來,踴躍奔騰,磊磊落落。將入局,頓起九腦芙蓉大帳。帳中落脈,大斷過峽,重疊迎送。復起飛蛾,中出一脈,走弄成盧鞭三嫋貴格。結咽入首,為平面太陰文星開窩之穴。橫脈結作,借樂立穴。
左図この地は豊城長安郷の蟹坑に在り。その龍は孤山を以て祖山と為し、数十里を走りて来たり、一路踊跃奔騰・磊磊落落。入局せんとするに快く、猛然として一座の「九脳芙蓉」大帳を張開す。脈は帳中より落下し、大断一次して峽を過ぎ、迎送の山重々畳畳。接続して「飛蛾」形の星峰を聳起し、中間より一脉を抽出し、盤桓行きて「芦鞭三裊」の貴格を成す。収束して咽喉を成して入首し、平面「太陰文星」の窩を開く穴を結ぶ。これは横脈の結作にして、「借楽」を靠りて穴を立つ。
喜有後山高帳,樂托有力,正應其穴,所以為吉。且左右龍虎均勻,當面天馬雙峰正案,田源潮水聚堂,下關水口交固,眞可稱貴地。葬後孫氏溥發解嘉靖壬子,兄弟聯登科甲。惜乎來龍山上挖取煤炭,傷洩龍氣,故未可云盡美也。上樂砂姑出此三格,辨其眞偽,以定取舍耳。其有左樂、右樂、中樂、長樂、高樂、低樂等格,則詳於樂山證穴之下,茲不重及也。
可喜なるは穴後に高大の帳幕の山あり、楽山托護有力、また正対して穴場し、ゆえに吉利。加えて左右龍虎両砂匀稱し、当面に「天馬」双峰ありて正案を作り、田間源頭の水は明堂に涌聚し、下関と水口は交鎖牢固にして、確かに貴地と称すに足る。安葬の後、孫家の孫溥は嘉靖壬子年に解元に中り、兄弟もまた接続して科第に考中せり。可惜後来或る人ありて来龍の山上にて煤炭を開挖し、龍気を傷損泄漏し、ゆえに未だ十全十美と言う能わず。以上楽山の砂を講ず、姑く此の三種の格局を挙出し、人に真偽を辨别せしめて以て取舍を定めんとす。此外なお左楽・右楽・中楽・長楽・高楽・低楽等の名目あり、皆已に「楽山証穴」一節の裏に講ずること甚だ詳細にして、ここに再び重複せず。
