Libo

北龍の結ぶ帝都の垣局を論ず

明 · 徐善继、徐善述 · 第5巻 / 56

作盤ガイド: 玄空飛星の作盤, 暦注(黄暦)

北龍有燕山,即今京師也。以燕然山脈盡於此,故曰燕山。昔昭王築黃金臺以招賢者,因又稱金臺。古冀州地。舜分冀東北為幽州,故又謂之幽都。按邱文莊公《大學衍義補》云:“虞夏之時,天下分為九州島。冀州在中國之北,其北最廣,舜分冀為幽、並、滎,故幽與並、滎皆冀境也。”

北龍に燕山あり、すなわち今日の京師である。燕然山の脈絡がここに至りて終止するを以て、だから燕山と呼ぶ。当年燕昭王がここに黄金台を筑きて賢士を招攬したを以て、ここにおいてまた金台と称す。ここは古代の冀州の地界である。虞舜は冀州の東北部を划分して幽州を設けた。だからまた幽都と呼ぶ。丘濬(文荘公)の『大学衍義補』に按ずれば言う。「虞夏の時、天下を分かちて九州と為す。冀州は中国の北面にあり、その北部は最も広し。舜は冀州を分かちて幽州・幷州・営州と為したり。だから幽州と幷州・営州は皆冀州の地界に属す。」

楊公云“燕山最高象天市”,蓋北幹之正結。其龍發崑崙之中脈以華夷共視為中原,蓋鴨綠江外又有大干為護,綿亙數千里,至於闐,歷瀚海,之玄屈曲,出夷入貊。又萬餘里,始至燕然山,以入中國,為燕雲北京為山前曰燕,大同為山後曰云。復東行數百里,起天壽山,乃落平洋,方廣千餘里。

楊筠松は言う「燕山は最高くして天市を象る」。これを見ればここは北干龍の正結である。その龍は崑崙の中脈より発出す(若し華夏と夷狄を合わせて見れば、この一帯は正に中原である)、鴨緑江の外にさらに別に大干龍ありて護衛を作すを以ての故である。龍脈は綿亙して几千里、于闐に至り、瀚海を経過し、「之」の字「玄」の字の如く屈曲盤旋し、夷地に出で貊地に入り、また走ること一万余里にして、初めて燕然山に至りて中国に入り、「燕雲」と為る(北京は山の前にありて燕と呼び、大同は山の後にありて雲と呼ぶ)。さらに東行すること几百里、聳起して天寿山と為り、然る後に平洋に落入り、方円一千余里。

遼東、遼西兩枝開截黃河,前繞鴨綠,後纏而陰、恆、太行諸山,與海中諸島相應。近則灤河、潮河、桑河、易河並諸無名小水,夾身數源,界限分明。以地理之法論之,其龍勢之長,垣局之美,幹龍大盡,山水大會,帶黃河,扆天壽。鴨綠纏其後,碣石錀其門,最是合風水法度。

遼東・遼西の两支は張開し、黄河は中より截断し、前面に鴨緑江の環繞あり、後面に陰山・恒山・太行の諸山の纏護あり、また海中の島嶼と遥かに相呼応す。近処にはすなわち灤河・潮河・桑干河・易水および許多の無名の小水あり、龍身の両側に挟まりて几処かの水源を構成し、界限は分明なり。地理の法度を以て衡量すれば、ここの龍勢の長・垣局の美は、正に干龍の大尽頭・山水の大会合の処である。帯に黄河を腰とし、背に天寿山を屏とし、鴨緑江は後ろに纏繞し、碣石山は門戸を鎖す。最も風水の法度に合す。

又按《衍義補》云:“《朱子語錄》:‘冀都,天地間好個大風水!脈從雲中發來,前面黃河環繞,泰山聳左為龍,華山聳右為虎,嵩山為前案,淮南諸山為第二重案,江南五嶺諸山為第三重案。故古今建都之地,皆莫過於冀都。’”就朱子所謂風水之說觀之,謂無風以散之,有水以界之也。冀州之中,三面距河處,是為平陽、蒲坂,乃堯舜建都之地。其所分東北之境,是為幽州。

また『大学衍義補』の引く『朱子語録』に按ずれば言う。「冀都は真に天地間の好ましい大なる風水なり。山脈は雲中より発来し、前面は黄河が環繞し、泰山は左に聳立して「青龍」を作し、華山は右に聳立して「白虎」を作し、嵩山は前面の「案山」を作し、淮南の諸山は第二重の案山を作し、江南の五嶺の諸山は第三重の案山を作す。だから古今の都を建てた処、冀都に超過するはなし。」朱熹の講ずる風水に就いて見れば、説くは風の来たりて吹散するなく、水の来たりて界断するあるなり。冀州の中の三面河に臨む処は、平陽・蒲坂で、あれは堯舜の都を建てた地である。冀州より分出した東北の一境は、すなわち幽州である。

太行自西而來,演迤而北,綿亙魏、晉、燕、趙之境,東而極於醫無閭。重開疊阜,鸞鳯峙而蛟龍走,所以擁護而圍繞之者,不知幾千萬里也。形勢全,風氣密,堪輿家所謂藏風聚氣者,此地有之。其東一帶,則汪洋大海。稍北,乃古碣石淪入海處。稍南則九河既通,所歸宿之地,浴日月而浸乾坤,所以界之者,又如此其直截而廣大焉。堪輿家所謂“得水為上”者是也。

太行山は西辺より過ぎ来りて、逶迤として北し、魏・晋・燕・趙の境内に綿亙し、東は一直線に医無閭山に至りて止まる。重重の山巒・叠叠の岡阜、鸞鳳の対峙し蛟龍の奔走するが如く、用いてこの地を擁護環繞するは、几千里あるや知らざるなり。形勢は完備し、風気は緊密し、堪舆家の言う「風を蔵し気を聚む」は、ここに全く備わる。その東面の一帯は汪洋の大海である。稍や北はすなわち古代碣石の海中に沈んだところ。稍や南はすなわち九河の匯通し水流の帰宿する処で、海水は日月を沐浴し乾坤を浸潤す。用いてこの地を界断するは、またこのように直截にして広大なり。堪舆家の言う「水を得るを上と為す」は、正にこの種の局面を指す。

按:此皆以風水之美言之也。若以形勝論,則幽、燕自昔稱雄,左環滄海,右擁太行,南襟河濟,北枕居庸,蘇秦所謂天府百二之國,杜牧所謂王不得不可為王之地。楊文敏謂西接太行,東臨碣石,鉅野亙其南,居庸控其北,勢拔地以崢嶸,氣摩空而崱屴。又云:燕冀內跨中原,外控朔漠,眞天下都會。桂文襄公謂形勝甲天下,扆山帶海,有金湯之固。

按:以上は皆風水の美に就いて言うのである。若し「形勝」より論ずれば、幽燕は古より雄を称す。左は滄海を環し、右は太行を擁し、南面は黄河・済水を以て襟帯と為し、北面は居庸関を枕とす。これはすなわち蘇秦の言う「百二の険の天府の国」、杜牧の言う「王者はここを得ざれば王を為し成さざるの地」である。楊士奇(文敏)はそれが西は太行に接し東は碣石に臨み、巨野はその南に横亙し、居庸はその北を控扼し、山勢は地を抜きて崢嶸、気象は空を摩して高峻と言う。また燕冀は内は中原に跨拠し外は朔漠を控制し、真に天下の大都会なりと言う。桂萼(文襄公)はその形勝は天下第一、山を以て屏と為し海を以て帯と為し、金城湯池のごとき堅固ありと言う。

蓋眞定以北至永平,闗口不下百十,而居庸、紫荊、山海、喜峰、古北、黃花鎮,險隘尤著。會通漕運便利,天津又通海運,誠萬世帝王之都。自昔之都燕者,始於召公,而極於金元。然召公諸侯也,金元乃夷狄雜氣,皆不足以當其大。惟我皇朝,得國之正,同乎堯舜;拓地之廣,過於漢唐。功德隆盛,上當天心,下乘地氣,眞萬世不拔之洪基也。

真定以北より永平に至るまで、関口は下すこと百十処ならず、その中の居庸・紫荆・山海・喜峰・古北・黄花鎮の几处の険隘は尤も著名である。会通河は漕運を便利にし、天津はまた海運に通ず。実に万世の帝王の都である。古より来たりて燕地に都を建てたるは、最早は召公、最盛は金・元である。然而るに召公はただ諸侯、金・元は不过是れ夷狄の駁雑の気、皆この地の大格局に当たるに足らず。ただ本朝のみ国を得るの正は堯舜と同じく、疆土を開拓するの広は漢唐に超過し、功徳は隆盛、上は天心に応じ、下は地気に乗ず。真に万世動摇すべからざる宏大の基業である。

而議者乃謂北太近胡,距塞不二百里,無藩籬之固,而天子自為守。不知今之四夷,北虜為急,倏忽來去,邊備須嚴。若畿甸去遠而委守將臣,則非居重馭輕之道矣。故我成祖文皇帝,睿意建都於此,良謨遠猷,豈凡愚之所能及哉!

しかれども議論する人は却って京師は北方の胡地に太く靠近し、辺塞に距ること二百里に満たず、藩籬のごとき屏障なく、天子が親しく辺を守るに等しいと言う。彼らは知らず、当今の四方の夷狄の中、北方の虜患は最も急にして、来去は倏忽、辺防は必ず厳密を要することを。倘若京畿の離るること太く遠くして防守を全く将帥大臣に托付せば、すなわち「重を以て軽を馭る」の道理に合わず。だから成祖文皇帝は英明にしてここに都を建つことを決断した。その深遠の謀略は、豈に平庸愚昧の人の企及し得る所ならんや。

然當時未必慮及風水之說,而默契若此,是蓋聖王之興,動與法合,天地造化,有自然相符之理。昔堯舜禹三聖之都皆北龍。今我朝畿甸亦北龍,而形勝與風水法度又皆邁之,宜其駕唐虞,迫二代,全盛如此,是固我列聖之茂德神功鴻休駿烈之不可及。然地理之應亦或然也。愚何幸,躬逢其盛。

ただし当時は未必風水の説を考慮せざりしも、却ってこの地步に暗合した。これは正に聖王の興起は、一挙一動が自然に法度に合し、天地造化は本来自然に相符するの理あるを以てである。従前の堯・舜・禹の三位の聖人の都城は皆北龍にあり、いま本朝の京畿もまた北龍にあり、而して形勝と風水の法度はまた皆彼らに超過す。凌駕して唐虞を超え夏商に逼るに、全盛してこの地步に至るは怪しむに足らず。これは固然より列位の聖君の盛美の徳行・神奇の功業・宏大の休烈は人の及ぶ能わざるなれども、地理上の感応は、或いはまた確かにその事あるや。我は何ぞ幸いなるかな、身を以てこのような盛世に趕え遇うことを。

北龍之次,有平陽、蒲坂、安邑,亦冀境,乃堯舜所都之地。按:朱子曰:“河中地形極好,乃堯舜禹故都。今晉州河中府是也。左右多山,黃河繞之,嵩河列其前。”又曰:“河東、河北皆繞太行山,堯舜禹所都,皆在太行山下。”又曰:“上黨,太行山之極高處。平陽、蒲阪,山之盡頭。”

北龍の中の次一等のは、平陽・蒲坂・安邑あり、また冀州の地界に属し、堯舜の都を建てた処である。按:朱熹は言う。「河中一帯の地形は極好、堯・舜・禹の故都で、すなわち今日の晋州河中府である。左右に山多く、黄河は環繞し、嵩山と黄河は前面に羅列す。」また言う。「河東・河北は皆太行山を繞り、堯・舜・禹の建てた都城は皆太行山の下にあり。」また言う。「上党は太行山の最高き処、平陽・蒲坂はすなわち山の尽頭である。」

又曰:“堯舜都中原,風水極佳。左河東、太行諸山相繞,海島諸山亦皆相向。右河南繞,直至泰山湊海。第二重自蜀中出湖南,出廬山諸山。第三重自五嶺至明、越。又黑水之類,自北纏繞,至南海。”此皆以其大形勢而言之也。

朱熹はまた言う。「堯舜は中原に都を建て、風水極佳なり。左に河東・太行の諸山の環繞あり、海島の諸山も皆それに朝向す。右は黄河が南に環繞し、一直線に泰山に至りて大海に逼る。第二重は蜀中より湖南に出で廬山に出でるこの一帯の山。第三重は五嶺より明州・越州に至る。此の外さらに黒水の類の水あり、北面より纏繞し、一直線に南海に至る。」これらは皆その大形勢に就いて講じたものである。

張子微曰:“河中之地,右則西河,左則東河,前則南河。逾河而為壺口,近河而為覃懷,入河而為衡漳。三面距河,一面背山,所背恆山,相去甚遠,逶迤而下,其平如砥。方廣千里,夾水之外,四面皆有名山巨鎮迎送護衛。但堂局寬闊,非凡俗所能檢點。

張子微は言う。「河中のこの地は、右は西河、左は東河、前は南河。河を越え去るは壷口、河に靠近するは覃懐、河に注入するは衡漳。三面は河に臨み、一面は山を背負う。背負う所の恒山は相隔たること甚だ遠く、山勢は逶迤として下り、地面は平坦にして磨刀石の如く、方円一千里。挟水の外は、四面に皆名山大鎮ありて迎送護衛す。ただ明堂の格局は過度に寛濶にして、尋常の輩の一々検点し清め得る所に非ず。」

若兩腋無水夾截,即是水不交會,大龍如何得住?故夾身之左有小東河,右有西恆河。南有小南河闗截於內,而大河經之,龍將焉往?其它橈棹手腳,得無名之水界夾分明者,又不可數計。但眼目難於檢點,舉其堂局,形勢可以周知。此則以其親近者而言之也。雖然,堯舜禹聖人,道化天下,未必繫於風水。然天造地設,亦自然默契之理,有不可誣者。但今風水變遷,王氣銷竭,無復可都矣。

もし両腋に水の挟截なければ、すなわち水の交会せざるなり。然らば大龍は何を以て停駐せんや。だから龍身の両側は、左に小東河あり、右に西恒河あり、南面に小南河ありて内関に於いて拦截し断え、外面にまた大河の流経あり。龍はなお何処に往くことを得んや。その余のあの船桨・手脚の如き枝脚は、無名の小水に界挟せられて分明なるは、さらに数え勝たざるなり。ただ眼力は一々検点しがたく、その堂局を挙出すれば、形勢はすなわち大致知るべし。」これは近処の細部に就いて講じたものである。話は然りとはいえ、堯・舜・禹は聖人、道を以て天下を化育し、未必しも風水に係わらざりき。然而るに天造地設、また自ずから暗中契合の道理ありて、抹殺すべからざるなり。ただいまあそこは風水変遷し、王気は消竭し、再び都を建つべからず。

中龍の結ぶ帝都の垣局を論ず

中龍有關中曰豐、曰鎬、曰咸陽、長安,皆今陜西地,通曰關陜,古雍州也。楊公云“關中原是太微垣”,又曰“長安落在垣宿中。”蓋中幹之尊也。其龍發於崑崙。《經》曰:“黑水綿絡西河,橫山始起祖宗,轉滎、貊、澤,自西而東,盡於雍州。”

中龍に関中一帯あり、豊・鎬・咸陽・長安を包括し、皆今日の陝西の地界に在り、通称して関陝、古代の雍州である。楊筠松は言う「関中は元は太微垣」、また言う「長安は垣宿の中に落つ」。これを見ればここは中干龍の最も尊貴の結作である。その龍は崑崙より発す。『撼龍経』は言う。「黒水は綿絡して西河、横山より始めて祖宗を起こし、滎・貊・沢を転じ、西より東し、雍州に尽く。」

張子微曰:“長安之龍起於橫山,其山皆黃石,綿亙八百餘里,不生草木。及至雍州之地,涇水出安定,在雍州之西,自西而南入渭水。而北是為渭、汭。渭水出鳥鼠同穴,西為雍州之西山。至涇水所屬之地則為北。惟此依山挾水,號為天府之國。”

張子微は言う。「長安の龍は横山より起こり、あそこの山は皆黄石で、綿亙八百餘里、草木を長ぜず。雍州の境内に至りて、涇水は安定より出で、雍州の西面に在りて、西より南して渭水に注入す。而して北面は便ち渭・汭の一帯。渭水は鳥鼠同穴山より出で、あそこより西は雍州の西山。涇水の属する地界に至れば便ち北面と算う。惟だ独りこの一帯は山に依り水を挟み、天府の国と号称す。」

又曰:“秦都咸陽,非長安。以宮屬渭,跨渭為飛橋複道,以象天闕道而屬阿房。如驪山溫泉,又長安之枝龍也。長安之下則有岐、梁、荊諸山為護,灃、涇、漆、沮、河水界限為衛。”蔡文節公曰:“咸陽之地,龍合之玄格,前後左右,諸山包護。”此皆謂其風水之美也。

張子微はまた言う。「秦朝は咸陽に都を建て、長安に非ず。それは宮殿を渭水に連接し、渭水を跨ぎて飛橋複道を架け、以て天上の閣道を象徴し、一直線に阿房宮に通ず。驪山温泉のあの一帯の如きは、また長安の枝龍。長安の下に岐山・梁山・荊山の諸山ありて護衛を作し、灃水・涇水・漆水・沮水・黄河ありて界限護衛を作す。」蔡元定(文節公)は言う。「咸陽のこの地は、龍脈は「之」の字「玄」の字の盤曲の格局に合し、前後左右に皆衆山の包裹護衛あり。」これらの講ずるは皆その風水上の美処である。

若以形勝言之,則婁敬所謂“被山帶河,四塞為固。”張良所謂“左殽函,右隴蜀,沃野千里。南有巴蜀之饒,北有胡宛之利,阻三面而守,獨以一面東制諸侯,乃金城千里,天府之國”者是也。故史稱關中“阻山帶河,四塞之險,東有函關,西有散關,南有武關,北有蕭關。”呂成公亦謂關中是形勢之地。欲據形勢,須都關中。桂文襄公謂其山河四塞,形勢甲天下。《易》曰“天險不可升”。地險山川丘陵,王公設險以守其國,惟此為然耳。

若し「形勝」より来たりて言えば、すなわち婁敬の講ずる「山を披き河を帯び、四面は阻塞して堅固」、張良の講ずる「左は崤山・函谷関、右は隴地・蜀地、沃野千里。南に巴蜀の富饒あり、北に胡地の苑馬の便利あり。三面は険を拠りて固守し、ただ東面の一方を以て諸侯を控制す。これは千里の金城・天府の国」。だから史書は関中を称して「山を阻み河を帯び、四面は阻塞険固。東に函谷関あり、西に大散関あり、南に武関あり、北に蕭関あり」。呂祖謙(成公)もまた関中は形勢あるの地と言い、形勢を憑拠せんと要すれば必ず関中に都を建てよと。桂萼(文襄公)はその山河四塞、形勢は天下第一と言う。『周易』は言う「天険は攀升すべからず」、地険はすなわち山川丘陵、王公は険要を設置して国を守る。ただここだけが当たるに足る。

故關陜之地,形勝全,龍局美,王氣攸萃,而文武周公列聖篤生。自文王都岐徙豐,武王遷鎬京,成王實都於鎬,以據天下形勢。當西周全盛時,特往來朝諸侯於洛邑。至平王避犬戎,始遷都於洛陽,號曰東周,則周日微弱,而雍州王氣為秦得之。

だから関陝一帯は形勝完備し、龍局美好し、王気は鍾聚す。ここにおいて文王・武王・周公等の聖人は接続して誕生す。文王の岐山に都を建てて後に豊に遷りてより、武王は鎬京に遷り、成王は実際に鎬に定都し、以て天下の形勢を占拠す。西周の全盛の時、ただ往来して洛邑に至りて諸侯の朝見を受く。平王の犬戎を避くるに至りて、初めて洛陽に遷都し、東周と号称す。ここより周室は一天天衰微し、而して雍州の王気は便ち秦国に得去られたり。

蓋秦先世有非子者,善育馬,為周孝王主馬。馬大蕃息,分土為附庸,邑居秦。歷三世,至秦仲始大。歷莊襄,犬戎弒周王,襄公救周有功,封為諸侯,賜以西周畿內八百里之地。秦即其地,日以強盛,兼併天下,統一區宇。然無功德,肆暴虐,不足以當其地王氣之大。漢與,以婁敬、張良之議,遂因其故都而都之,傳十二帝,厯二百一十四年。其後,唐又都之,傳十八帝,厯二百六十九年。

秦の先世に非子と呼ばるる人あり、善く馬を養い、周孝王に替わりて馬政を主管す。馬匹は大量に繁殖し、孝王は便ち彼に土地を分け与えて附庸と為し、封邑は秦に在り。三代を伝え、秦仲に至りて才かに強大と為る。後に犬戎は周幽王を殺し、秦襄公は周を救うの功あり、諸侯に封ぜられ、西周の王畿の内の八百里の土地を賜る。秦はこの地を占拠し、一天天強盛し、終に天下を兼幷し区宇を統一す。但し秦に功徳なく、肆行して暴虐、この地の王気の大を担うに堪えず。漢朝の興起は、婁敬・張良の建議を採納し、すなわち秦の旧都を沿用してここに都を建て、十二位の皇帝を伝え、二百一十四年を歴す。後来唐朝またここに都を建て、十八位の皇帝を伝え、二百六十九年を歴す。

宋人亦嘗議欲都此,而以橫山未入版圖,故都大梁,以經營橫山。蓋橫山當宋時,諸戎所依,為戎夏必爭之地,不得之則不可都,故爾。邱文荘公曰:“秦地被山帶河,四塞以為固。所謂金城千里,天府之國,得天下之百二者也。周人初起於邠,繼都豐鎬,天下形勢之地,蓋莫有過焉者也。至平王東遷而棄其地與秦,秦地始大。戰國之世,山東之國六而秦居其一。六者為縱,而秦獨為衡焉。卒能以少制眾,並而有之,非獨人力,亦地勢然也。自高帝用婁敬言,西都關中,後世言形勝者必歸焉。唐起晉陽,亦都於斯。自宋人都汴之後,王氣消歇者五六百年於今矣。”

宋朝の人もかつてここに都を建てんと議論したれど、ただ横山はなお版図に収入せざりしを以て、だから先ず大梁に都を建て、以て横山を経営せんと便にしたり。横山は宋朝の時は各族の戎人の依恃する所で、戎・夏の必ず争う地、それを得ざれば都を建つべからざるを以て、かくの如くなり。丘濬(文荘公)は言う。「秦地は山を披き河を帯び、四面は阻塞して堅固。すなわちいわゆる千里の金城・天府の国、天下の二比百の地利を占有す。周人は最初邠に興起し、続いて豊・鎬に都を建て、天下に形勢あるの地はこれに超過するはなし。平王の東遷してこの地を秦国に丢与するに至りて、秦地は才かに拡大を始む。戦国時代、崤山以東に六国ありて秦はその一を占む。六国は合縦し、秦は独り連横し、終に以て少を以て衆を制し六国を兼幷すること能う。これは単に人力に非ず、また地勢の造成する所なり。漢高帝の婁敬の建議を採納して西して関中に都してより、後世の形勝を談ずるは必ずここに帰す。唐朝は晋陽に起こり、またここに都を建てたり。宋人の汴京に都を建ててより以後、ここの王気は消歇して今日に至るまで已に五六百年なり。」

詳究文莊茲論,確有所見,而議者乃謂漕運不便。不知周與漢唐各數百年,而其儲積豈無其道?且《禹貢》“若雍州,厥田惟上上”,史稱沃壤千里,可以儲貯。而秦號富強,顧所處之如何耳!大抵雍州非直形勢險固,風水融聚為美已也。且其水深土厚,民性質樸,易於從化,尤為可嘉。

仔細に丘文荘のこの番の議論を推究すれば、確かに彼の見地あり。而して議論する人は却って関中は漕運不便なりと言う。彼らは知らず、周と漢唐は各々国を享くること几百年、豈に糧食を儲備するの辦法なからんや。況んや『禹貢』は言う「雍州に至りて、あそこの田地は上上の等」と、史書はその沃土千里を称し、儲積するに足れり。秦国は富強と号称す。これを見れば関鍵はただ人の怎样に経営するに在るのみ。大体言えば、雍州はただ形勢険固・風水融聚の美なるのみならず、しかも水位深く土層厚く、民性は質朴、教化を受け易し。この一点は尤も貴ぶべし。

朱子曰:“岐豐之地,文王用之以興,二南之化,如彼其忠且厚也。秦人用之未幾,而一變其俗,尚氣概,先勇力,忘生輕死,悍然有招八州,朝同列之氣。其故何哉?誠以雍州土厚水深,其民重厚質直,無鄭、衛驕惰浮靡之習。以善道之,則易興起而篤於仁義;以猛驅之,則其強毅果敢之資,亦足以強兵力農而成富強之業,非山東諸國所及也。後世欲為定都立國之計,誠不可不監乎此。而於導民之路,尤不可不慎其所之。旨哉言乎!

朱熹は言う。「岐・豊のこの地は、文王はそれを用いて王業を興し、『周南』『召南』の教化のあのように忠厚なる。秦人はそれを用いること久しからざるに、却って風俗を一変して意気を崇尚し勇力を看重し、生を忘れ死を軽んじ、悍然として八州を招納し同列の諸侯を来朝せしむるの気概あり。これは何の故ぞ。実に雍州は土厚く水深く、あそこの百姓は敦厚質直にして、鄭・衛の地の驕惰浮靡の習気なきを以てなり。善道を以て彼らを引導すれば、彼らはすなわち奮起して篤く仁義を行うに易し。厳猛を以て彼らを駆使すれば、彼らのあの強毅果敢の資質もまた以て兵を強め農を務めて富強の事業を成就するに足る。崤山以東の各国の比ぶ所に非ず。後世に定都立国の打算を作らんと要するは、実にこれを以て鑑とせざるべからず。而して百姓を引導する路径の上に於いては、尤も彼らを導きて何れの処に向かわんとするかを慎重考慮せざるべからず。」この言は説かるること真有見地なり。

中龍之次有洛陽,即周營洛邑之地也。前值伊闕,後據邙山,左瀍右澗,洛水貫其中,以象河漢。此紫微垣局也。張子微曰:“洛邑是飛龍格勢,腳手本自分明,迎送卻從外假合。凡大地,迎送皆取諸外而不取諸本身。所謂本身手腳,一曲屈縈迴輒五六十里,或七八十里,故人不見其為手足。況遠外迎送,其得見乎?此其平夷之地,一望無際,惟審其水源而後識之也。

中龍の中の次一等には洛陽あり、すなわち周朝の営建した洛邑の地である。それは前面は正しく伊闕に対し、後面は邙山に憑拠し、左に瀍水・右に澗水あり、洛水は中間より貫穿して過ぐる。以て天上の銀河を象徴す。これは紫微垣の格局である。張子微は言う。「洛邑は「飛龍」の格勢で、龍の枝脚は本来分明なれど、迎送の砂は却って外面より借合して成る。凡そ大地は、迎送の砂は皆外面より取りて本身より取らず。いわゆる本身の枝脚は、一曲一折し縈回して動けば五六十里、或いは七八十里。だから人はそれがその手脚なるを看出せず。況んや遠く外面に在る迎送の砂を、さらに看出せんや。この一帯は平坦の地、一望の際なく、ただその水源を審察した後にのみ認出し得る。」

然洛邑居天下之中,為大龍之腹,四望平夷,近則熊耳居其右,西京在其左。取諸遠則上洛在其西,太華在其東,終南惇物在其北,內方則在河南。周公所以取制天下之中,猶腹為人身都會之所也。以水而言,則洛水自西而經其前,瀍、澗界其東,汾、 繞其後,伊水陳其面,最合風水法度。

然而るに洛邑は天下の中に居り、大龍の腹部なり。四面を望去れば一片の平坦。近処は熊耳山はその右にあり、西京の長安はその左にあり。遠処より取れば、上洛はその西面にあり、太華山はその東面にあり、終南山・惇物山はその北面にあり、内方山はすなわち河南に在り。周公のそれを取りて天下の中を控制する所以は、正に腹部が人身の各部の会聚する所なるが如し。水に就いて言えば、洛水は西辺よりその前面を流経し、瀍水・澗水はその東面を界断し、汾水等の水はその後面を環繞し、伊水はその正面に陳列す。最も風水の法度に合す。

但以形勝論之,則平夷無險,四面受敵,故周營洛邑,特以宅中圖治,道里適均之故,乃於此以朝諸侯,非建都也。按《大學衍義》,陳大猷曰:“成王實都鎬京,特往來朝諸侯,祀清廟於洛。故鎬京謂之宗周,以其為天下所宗也。洛邑謂之成周,以周道成於此也。

但し「形勝」より論ずれば、ここは平坦にして険なく、四面敵を受く。だから周朝の洛邑を営建するや、ただそれが中に居りて治理に便く、四方の道里の适中なるが故に、ここに於いて諸侯の朝見を受けたので、それを国都と為したに非ず。『大学衍義』に按ずれば、陳大猷は言う。「成王は実際に鎬京に定都し、ただ往来して洛邑に至りて諸侯の朝見を受け、清廟に於いて祭祀を舉行した。だから鎬京を宗周と称す。それが天下の宗仰する所なるを以てなり。洛邑を成周と称す。周朝の王道がここに於いて完成するを以てなり。」

洛邑天下之至中,豐鎬天下之至險。成王於洛邑定鼎,以朝諸侯,所以成天地中和之氣。宅中以蒞四海,其示天下也公。於鎬京定都以壯基本,所以據天下形勝,據上游以制六合,其慮天下也遠。”誠哉言也!後平王避犬戎,徙都於洛,則周室日衰,馴至不可為矣。

洛邑は天下の最も中に居る処、豊・鎬は天下の最も険要の処。成王が洛邑に於いて九鼎を安放し諸侯の朝見を受けたるは、天地中和の気を成就せんがため。中に居りて四海に臨御し、天下に顕示するは一つの「公」の字なり。鎬京に於いて定都して根本を壮固にしたるは、天下の形勝を占拠し、上游に居りて六合を控制し、天下の為に考慮するや長遠ならんがため。」この言は説くこと真に対なり。後に平王が犬戎を避けて洛陽に遷都し、周室は便ち一天天衰落し、終に挽回すべからざるの地步に至りき。

漢初,高祖亦欲都洛,以婁敬、張良之言,都於關中。光武中興,始於洛建都,謂之東都洛陽。卻在周都河南,又隔伊水,有諸水在後,而地方之備差完,頗為可取。然皆平夷,曠洋無蔽,有德易以王,無德易以亡,不可用也。

漢初の高祖もまた洛陽に都を建てんと思うたり。婁敬・張良の進言に因りて、才かに関中に定都す。光武帝の中興は、才かに洛陽に於いて都を建て始め、東都洛陽と称す。その位置は周朝の旧都の河南にあり、また伊水を隔て、後面に几条の水ありて、地方の守備は略々完備、頗る取るべき所あり。然而るに周囲は皆平坦の地、空曠にして遮蔽なく、徳ある人はここに於いて王業を成就し易く、徳なき人もまたここに於いて滅亡し易し。だから採用に宜ならず。

故東周都洛而能延數百年之久者,誠以文武之德,民不忍忘故爾。溫公《厯年圖》曰:“周自平王東遷,日以衰微。至於戰國,又分而為二。其土地人民不足以比強國之大夫。然天下猶尊而事之,以為共主,綿綿然久而不絕,其故何哉?文武之德植,本固而發源深也。不然,以區區數邑,處七暴國之間,一日不可存,況數百年乎?”此確論也。

だから東周が洛陽に都を建ててなお几百年の久を延續し得たるは、実に文王・武王の徳沢の深厚にして、百姓は忍びて遺忘せざるの故なり。司馬光の『歴年図』は言う。「周朝は平王の東遷より、一天天衰微し、戦国に至りてまた分裂して東西の二周と為る。その土地人民はなお強国の一个の大夫に及ばず。然而るに天下は旧にそれを尊奉し事奉し、以て共主と為し、綿延長久にして断絶せず。これは何の故ぞ。文王・武王の種え下したる徳の根基は牢固にして源頭は深遠なるを以てなり。然らざれば、区区幾個の城邑を以て七つの強暴の国の中間に処り、一天も存住せず、況んや几百年をや。」これは確切の論である。

中龍之又其次者,有汴梁。其龍自熊耳至此,平坦萬里。大河在其北,淮河在其南,亦天苑垣也。五代梁、漢、晉、周皆都於此,年代不永。宋都之,傳九帝,厯一百六十七年而南遷臨安。是時汴梁在河之南,猶差可取。今河水沖決而在於河之北,無復當時風水形勝矣。

中龍の再次一等のに、汴梁あり。その龍は熊耳山より過ぎ来り、ここに至りて一片の平坦、綿延万里。黄河はその北面にあり、淮河はその南面にあり、また天苑垣の格局に属す。五代の後梁・後漢・後晋・後周は皆ここに都を建てたり。年代は皆長久ならず。宋朝はここに都を建て、九位の皇帝を伝え、一百六十七年を歴して後に南は臨安に遷れり。あの時汴梁は黄河の南面にあり、なお勉めて取るべき所あり。いま黄河は冲決して改道し、汴梁は却って黄河の北面に落ち、再びあの時の風水形勝なし。

舊黃河在開封城北四十里。宋元以來,河徙穿淮。馴及我朝洪武二十四年,河決原武,東經開封城北五里,又南行至項城,經頴川以入淮。而舊河故道遂淤。正統十三年,又決滎陽,過開封城之西南,而城北之新河又淤。自是汴城在河之北,龍脈經河穿壞,形勝亦無,河繞可恃不可用也。

旧黄河は開封城の北四十里にあり。宋元以来、黄河は改道して淮を奪いて行けり。本朝洪武二十四年に至り、河は原武に决口し、東流して開封城の北五里を経、再び南して項城に至り、潁川を経て淮河に注入し、旧河道はここにおいて淤塞せり。正統十三年、また滎陽に决口し、開封城の西南より流れ過ぎ、而して城北の新河もまた淤塞せり。ここより汴城は黄河の北面に落ち、龍脈は黄河に穿凿破壊せられ、形勝もまたなし。あの黄河環繞して憑恃と為し得る格局は已に再用すべからず。

蓋河源於崑崙星宿海,又入地伏流數百里,不見其派。禹之所導,始於積石,初未曾窮河源也。河至於此,其勢橫放沖溢。外則涇、渭、漆、沮之會於渭、汭,又有伊、洛、瀍、澗、汾、 之會於底柱,所洩惟汝、泗二流。

黄河は崑崙の星宿海に発源し、また地下に潜入りて伏流すること几百里、その支派を見ず。大禹の疏導したるは、積石山より始まる。当初は未だ河源を窮究せざりき。黄河はこの一帯に流れて、水勢は横放して冲溢す。外面に涇水・渭水・漆水・沮水ありて渭・汭に会合し、また伊水・洛水・瀍水・澗水・汾水等ありて砥柱に会合す。而して宣泄し得るはただ汝水・泗水の两条のみ。

內則淡、濟內河,滹沱、恆、洚從而益之,至於九河逆河,勢雖遠而愈勝。故有河患,非人所能制者。自三代已然。由漢、唐、宋、元迄今,頻年沖決,而沿河之民悉魚鱉矣,況可都乎?

裏面にはすなわち淡水・済水等の内河あり、滹沱河・恒水・洚水はまた不断に增添し入り、九河・逆河一帯に至りて、水勢は流るること遠しといえども却って愈々強盛なり。だから黄河の水患は人力の控制し得る所に非ず、夏商周の三代より已にこの如し。漢・唐・宋・元より一直線に今日に至るまで、年年冲決し、沿河の百姓は皆魚鼈と為れり。況んやここに都を建てんや。

南龍の結ぶ帝都の垣局を論ず

南龍有金陵,即今之南畿,我太祖高皇帝建都之地也。戰國楚威王時,以其地有王氣,埋金以鎮之,故稱金陵。漢改曰秣稜。吳曰建業。晉曰建康。其形勢,前輩謂與洛陽同。廖氏云:“建康形勢洛陽同,王氣古云鍾。”蓋紫微垣局,南幹之盡也。

南龍に金陵あり、すなわち今日の南京の畿輔、本朝太祖高皇帝の都を建てた処である。戦国の時楚威王はこの地方に王気あるを以て、黄金を埋下して以てそれを鎮圧し、だから金陵と称す。漢代は改名して秣陵と為し、呉国は建業と呼び、晋代は建康と呼ぶ。その形勢は、前輩は洛陽と同じと言う。廖瑀は言う。「建康の形勢は洛陽と同じ、王気は古より鍾まると云う。」ここは紫微垣の格局に属し、南干龍の尽結の処である。

蘇伯衡謂劉迪簡云:“金陵地脈,自東南朔長江而西,數百里而止。其止也,蜒蜿磅礴,既翕復張。中脊而下,降為平衍。所謂土中於是乎在。西為雞籠、覆舟諸山,又西為石頭城。而鐘山峙其東,大江回抱,秦淮、玄武湖左右映帶,兩淮諸山合沓內向,若委玉帛而朝焉。

蘇伯衡は劉迪簡に対して言う。「金陵の地脈は、東南方より長江に逆らいて西に行き、走ること几百里にして止まる。それの止まり住する処は、蜿蜒磅礴にして、先ず収斂して然る後に展開す。中間の山脊は往々降下して平衍の地と為り、いわゆる『土中』はすなわちここに在り。西面は鶏籠山・覆舟山のこれらの山、さらに西は石頭城。而して鍾山はその東面に聳峙し、長江は回環して抱護し、秦淮河と玄武湖は左右に映帯し、両淮の衆山は重重叠叠として内に向かいて来たり、玉帛を捧げて朝見に来たるが如し。」

諸葛孔明謂鐘山龍蟠,石城虎踞,眞帝王都。昔始皇見金陵有王氣,東遊以壓之。其後三國吳都之,傳四世。東晉又都之,傳十一世,歷百餘年。南朝宋、齊、梁、陳、南唐皆都之,而年代不永,蓋以其雖合垣局,而垣氣多洩,故爾。楊筠松云“長江環外有三結,垣前中水列。垣中已是帝王都,只是垣城氣多洩”是也。

諸葛亮は鍾山は龍の蟠るが如く、石頭城は虎の踞するが如しと言い、真に帝王の都なり。当年秦始皇は金陵に王気あるを見て、特に東巡して以てそれを鎮圧せり。此の後三国の呉国はここに都を建て、四代を伝えたり。東晋またここに都を建て、十一代を伝え、一百多年を歴す。南朝の宋・斉・梁・陳および南唐は皆ここに都を建てたれども、年代は皆長久ならず。大概はそれが垣局に合するといえども、垣気の泄漏するや多きに過ぎるの故なり。楊筠松は言う「長江は環の外に三結あり、垣前に中水を列ぬ。垣中は已に帝王の都、ただ是れ垣城の気の多く泄るる」、講ずるは正にこの一点である。

若以形勝論之,則江限南北,古今恃為天險。朱子曰:“東南論都,必要都建康者,以建康正諸方水道所湊,一望則諸要會地都在面前,有相應處。”劉誠意謂“襟帶長江,勢甚險固。”桂文襄謂“金陵,江北則有徐、穎二州,地跨中原,瓜連數省,並稱雄鎮,為藩離,有控扼之勢。江南則有安慶,當長江委流,西控全楚,為江表門戶。”

若し「形勝」より論ずれば、長江は南北を隔断し、古今は皆それを倚りて天険と為す。朱熹は言う。「東南方に建都を論ずれば、必定建康に都を建てよ。建康は正に各方の水道の汇聚する処、一眼望去れば、各処の要衝の地は皆面前に在り、彼此は呼応する所有りを以てなり。」劉基(誠意伯)はそれを「長江を以て襟帯と為し、形勢は極めて険固」と言う。桂萼(文襄公)は言う。「金陵は江北に徐州・潁州の二州あり、地は中原に跨がり、瓜葛は相連なりて几個の省份、皆雄鎮と称して、その藩籬を作し、控扼の勢あり。江南に安慶あり、正しく長江の下流に当たり、西して全楚を控制す。江表の門戸なり。」

按諸君子所論形勢,是誠英雄用武之地,可以駕馭四方,號令天下而興王業者。我太祖高皇帝以之定鼎,良有以也。但以地理家言之,雖合紫微垣局,奈垣氣多洩,故成祖文皇帝再建燕京,為萬世不拔之基,豈偶然哉!蓋天眷皇朝,故二祖動即合法,而非有意於地理之說也。猗與盛哉!

諸位の先生の論ずる形勢に按ずれば、ここは確かに英雄の用武の地、四方を駕馭し天下を号令して王業を興起すべし。太祖高皇帝がここに定鼎したるは、自ずから彼の道理あり。ただ地理家の眼光を以て見れば、それは紫微垣局に合するといえども、奈んづるに垣気の泄漏するや太だ多し。だから成祖文皇帝は再び燕京を建て、以て万世動摇すべからざる基業と為す。これ豈に偶然ならんや。大概は上天が本朝を眷顧し、だから两位の祖宗の一挙一動はすなわち法度に合したり。有意に地理の説を講究するに非ず。何と盛大なるかな。

南龍之次有臨安今浙江杭州府。其龍脈自天目山入錢塘,而海門有龍赭二山在其中。郭景純紀云:“天目山前兩乳長,龍飛鳳舞到錢塘。海門更點巽風起,五百年間出帝王。”《經》云:“海門環合似天市,天目天池生侍衛。萬里飛來垣外挹,海外諸峰補垣氣。”廖氏云:“大江以南天目峙,海門似天市。”故臨安亦天市垣耳。

南龍の次一等のに臨安あり(今の浙江杭州府)。その龍脈は天目山より銭塘に入り、而して海門に龍山・赭山の两座の山ありてその中に挟まる。郭璞の記文は言う。「天目山の前に両乳長し、龍飛鳳舞して銭塘に到る。海門にさらに巽風の起こるを点ずれば、五百年の間に帝王を出さん。」『撼龍経』は言う。「海門の環合は天市に似たり、天目・天池は侍衛を生ず。万里飛来して垣外に挹み、海外の諸峰は垣気を補う。」廖瑀は言う。「大江以南に天目は峙ち、海門は天市に似たり。」だから臨安もまた天市垣の格局に属す。

若以形勝論之,則僻處一隅,子朱子謂“如入屋角房中,坐視外面,殊不相應。”宋高宗南遷建都於此,其卜相京畿國師,吾邑傳公少華伯通也。有臨安行在表,謂其地只可駐蹕,不宜建都,不過偏安之地。且主奸相弄權,武臣多咎。後宋竟未能恢復,而奸相如秦檜、賈似道諸人迭出,皆操弄國柄,武臣多不善終,果符傅公之言。

若し「形勝」より論ずれば、それは一隅に偏処す。朱熹はそれを「譬えば屋角の小房間に走り入りて、坐して外を看れば、甚だ相応ぜず」と言う。宋高宗は南遷してここに都を建てたるに、彼に替わりて京畿を卜相した国師は、正に我らが県の傅伯通公(号は少華)である。傅公はかつて一道の『臨安行在表』を上し、この地方はただ臨時に駐蹕すべく、都を建てるに宜ならず、不过是れ偏安の地なり、且つ姦相の権を弄し武臣の多く咎害に遭うを主すと言う。後に宋朝は竟に中原を恢復すること能わず、而して秦檜・賈似道のこれらの姦相は接続して出現し、皆国柄を操弄し、武臣は大多善終を得ず。果たして傅公の言に応えたり。

其表畧曰:顧此三吳之會,實為百粵之沖。錢氏以之開數世之基,郭璞占之有興王之運。天目雙峰屹立乎斗牛之上,海門一點橫當乎軫翼之間。臨安集秀氣於軒轅,吳會孕祥光於樞府。會稽、北固,堂堂乎天外之山;京口、姑蘇,眇眇兮域中之澤。四神具足,八景寬容。山勢北來,有朝海拱辰之象;水流東去,無鬼刼凌奪之憂。

あの道の表の大略は言う。ここは三呉の交会の地、実にまた百粤の要衝なり。呉越の銭氏はそれに靠りて几代の基業を開創し、郭璞は占卜してそれに興王の運ありと言う。天目の双峰は高く屹立して斗・牛の二宿の分野の上にあり、海門の一点は横に軫・翼の二宿の間に当たる。臨安は秀气を軒轅の星位に汇集し、呉会は祥光を枢府の星位に孕育す。会稽山・北固山は、堂堂たり天外の名山。京口・姑蘇は、渺渺たり域中の大沢。「四神」(青龍・白虎・朱雀・玄武)は斉全し、八方の景致は寛舒なり。山勢は自ずから北より来たり、朝拱して大海に向かい環衛して北辰するの気象あり。水は東に流れ去り、鬼星の劫奪凌逼するの憂患を被らず。

鳳閣龍樓,正當辛地;捍門華表,恰值星河。上合東宮天市之垣,下接揚州禹貢之域。然而金匱凌雲,雖少府有積年之聚;廉貞妬主,必大臣多持柄之虞。昴日星虧,武臣多咎;鬼金位起,閹寺施權。文曲多山,俗尚虛浮而詐;少微積水,人多文飾而貪。雖云自昔稱雄,實乃形局兩弱。只宜為一方之巨鎮,不宜作百祀之京畿。駐驆暫足偏安,建都難奄九有。

「鳳閣龍楼」の類の貴砂は正しく辛位に当たり、「捍門」「華表」は恰好よく天河に対す。上は東宮の天市垣に合し、下は『禹貢』の划した揚州の地域に接す。然而るに「金匱」は高聳して雲に入り、府庫は多年の積聚を有し得るといえども、「廉貞」は主を妬み、必定大臣の長期に権柄を把持するの憂患あり。昴日星は虧けあり、武臣は多く咎害に遭う。鬼金の位は隆起すれば、宦官は便ち権を弄す。文曲の一帯は山多く、風俗は虚浮と姦詐を崇尚す。少微の星処に水を積めば、人は多く矯飾にして貪婪なり。ここは古より雄を称すとはいえ、実に形勢と格局の両方面ともに弱し。ただ一方の大鎮を作るに適宜、国を享くること百世の京畿を作るに宜ならず。臨時の駐蹕の地を作れば勉めて偏安に足るも、都を建てんと要すれば九州を囊括するを難しとす。

按:傅公表上,乃升杭州為臨安府而稱行在,遂寢建都之義。又數年,秦檜專權,建和議而無恢復之志。當時諸臣亦有議都建康者,竟如檜議,定都臨安。而有宋卒不能克復舊物,令人有餘憾。雖然,天下事莫不有數。《宋史》記徽宗夢吳越武肅錢王鏐入宮而誕生高宗,則臨安之都,豈非數有預定者?吳錢王鏐,唐末封吳越王,梁篡唐,鏐遂據杭州。

按:傅公のこの道の表は上り去った後、朝廷は便ち杭州を升りて臨安府と為し「行在」と称し、ここにおいて都を建てんの打算を擱置したり。また几年を過ぎ、秦檜は権を専らにし、議和を主張して中原を恢復するの志なし。当時また大臣ありて建康に都を建てんと建議したれど、最終は旧に秦檜の意思に照らして臨安に定都せり。而して宋朝は終に旧有の疆土を収復すること能わず、人をして抱憾すること無窮ならしむ。話は然りとはいえ、天下の事は気数の支配を受けざるはなし。『宋史』は宋徽宗が呉越武粛王銭鏐の進宮して後に高宗を生むを夢見たを記載す。然らば臨安に都を建てたるは、豈に気数の早已に預定せしに非ざらんや。(呉越の銭鏐は、唐末に呉越王に封ぜられ、後梁が唐を篡ぬるや、銭鏐は便ち杭州を拠有せり。)

已上建都之地,其概如此。唐虞之都,以河溢為患。周洛邑以備守之難。大梁平夷無險。臨安僻處一隅。金陵形勝雖優,而垣氣多洩。兩淮龍氣大盡,而地勢卑下。東魯中幹雖尊,而已鍾孔聖。且今河水穿龍,皆非建都之宜。他如許昌、成都、南粵等處不足論矣。惟我京師為上,而關中次之,東漢所都之洛又次之。

以上に講ずる各処の都を建てた地は、大概の情形はすなわちこの如し。唐堯虞舜の都城は、黄河の泛濫に苦しむ。周朝の洛邑は、設防固守すること難し。大梁は平坦にして険の守るべきなし。臨安は一隅に偏処す。金陵は形勝好しといえども、惜しむべし垣気の泄漏するや太だ多き。両淮は龍気の大尽頭なるも、地勢は低窪。東魯は中干龍の尊貴の処なるも、霊気は已に鍾聚して孔聖人を生出せり。況んやいま黄河は龍脈を穿破し、これらは皆都を建てるに適宜ならず。その他の許昌・成都・南粤等の処の如きはさらに論ずるに及ばず。惟だ本朝の京師を上と為し、関中はこれに次ぎ、東漢の建都した洛陽はまたこれに次ぐ。

雖然,聖帝明王,要必有所重也。昔魏武侯浮西河而下,中流顧謂吳起曰:“美哉!山河之固,魏國之寶也。”起對曰:“在德不在險。昔三苗氏左洞庭,右彭蠡,禹滅之。桀之居,左河濟,右太華,伊關在其南,羊腸在其北,湯放之。紂之國,左孟門,右太行,恆山在其北,太河經其南,武王殺之。若不修德,舟中之人皆敵國也。”武侯善之。

話は然りとはいえ、聖明の帝王は必定別に看重する所の物あり。当年魏武侯は船に乗りて西河に順い下り、行きて中流に至りて回頭して呉起に対して言う。「真に美なりかな。山河の堅固、これは魏国の宝貝なり。」呉起は回答して言う。「国家の安危は徳に在り、険に在らず。従前三苗氏は左に洞庭あり右に彭蠡ありといえども、大禹はなおそれを滅ぼせり。夏桀の居処は左に黄河・済水あり右に太華山あり、伊闕はその南面に在り羊腸はその北面に在りといえども、商湯はなお彼を放逐せり。商紂の国土は左に孟門あり右に太行あり、恒山はその北面に在り黄河はその南面より流れ過ぐるといえども、周武王はなお彼を殺せり。若し徳を修めざれば、同じ一条の船上の人も皆敵国と変ぜん。」魏武侯は彼の説くを善しと為せり。

愚謂君子不以人廢言。起雖不足道,若斯者誠確論哉!不然,秦、隋嘗都關中矣,金、元嘗都燕京矣,風水之美,形勝之固,何獨於彼不驗哉!是故風水之說在於地,固有國者所當擇。而禍福得喪之機存乎人,尤有國者所當慎也。

私は認む、君子は人品を以てその言を廃棄せず。呉起の为人は称道するに足らずといえども、しかしこのような一番の議論は確かに確切の論なり。然らざれば、秦朝・隋朝は皆かつて関中に都を建て、金朝・元朝は皆かつて燕京に都を建て、風水あのように美にして形勝あのように固く、何の故に偏に彼らの身上に於いて応験せざるか。だから言う、風水の説は地上に落つるは、固然より国ある者の応に選択すべき所なり。而して禍福得失の机括は却って人に係わる。あれはさらに国ある者の応に謹慎すべき所なり。

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