Libo

附 少保都督南塘戚公『正止集』一款

明 · 徐善继、徐善述 · 第3巻 / 56

作盤ガイド: 玄空飛星の作盤, 暦注(黄暦)

嘗觀琥珀繫草,磁石引針之事而怪之。夫琥珀、磁石無知之物也。草既枯死,而針經火煅煉,生意何在?一被引繫,則舉躍動盪如生,而針則鋒鋒相連,可自變量個,墜而復躍。即此,則風水之說,信乎其有。枯骨無知,而未敢以為盡然。然琥珀、磁石其山川乎?針草,其遺骸乎?

私はかつて琥珀が草屑を吸い著け、磁石が鉄鍼を引くことを見て怪しいと思った。琥珀と磁石は皆知覚のない物であり、草はすでに枯死し鍼はまた烈火を経て鍛錬されて、何の生機が言えようか。然るに一たび吸引されれば、草屑は跳動揺蕩して活きたものの如く、鉄鍼は一本接一本に首尾相連なり、数本を連ねることができ、下に墜ちてまた上に跳ね上がる。ただこの一点を見るだけでも、風水の説は確かに根拠がある。枯骨に知覚がないという一層については、私はまだ敢えて完全にその通りとは言わない。ただ琥珀・磁石は山川に相当するのではないか。草屑・鉄屑・鉄鍼は遺骸に相当するのではないか。

謂風水不可信者,蓋以世人不修厥德,惟以是為務,至有傾人身家,忍心害理,專謀風水,以昌子孫者。卻不知地理與天理相為流通,茲一等人,又在天理處責他,而非地理之不驗也。

風水が信じられないと言う者たちは、大概は世人が德行を修めず、ただ風水を頭等の大事と看做し、甚だしきは人の身家性命を傾覆し、狠心して天理に違背し、専ら良い風水を謀って自家の子孫を昌盛せしめんとするのを見たためであろう。彼らは「地理」と「天理」が彼此貫通していることを知らない。この類の人には、上天は天理のあの一頭から彼を責罰するのであって、地理が霊験でないのではない。

曾聞一人謀人葬地,百計覓人訟害。其家諸禍並臻,思所以致之者。彼又買托卜者,向伊妄言曰:“某葬地不佳也,能遷之則安矣。”既而,伊家如其說遷之,彼即謀其故地以葬其父。葬未踰年,所得禍更甚。後疑而遷之,發土至棺,有白蟻蛀木成文曰:“此地若靈,是無天理;此地不靈,是無地理。”夫天產佳地,必待有德者得之,世人遺天理而求地理,惑哉!

かつて或る人が他家の葬地を図謀し、千方百計して人を買通して官司を訴えて相手を陥害したと聞く。あの人家には種種の禍事が接続して来て、ちょうどどう招いたかも分からなかった。図謀する者はまた一人の卜者を買通し、あの家人に胡説して言った。「あなたの家の葬地は良くない、遷し去れば平安である。」後にあの家人はその言の通りに墳を遷した。彼はすぐにあの旧地を手に入れて、用いて自己の父を安葬した。葬って一年に満たぬに、彼の家の遭う禍はさらに重かった。後に彼は疑心を起こしてまた墳を遷そうとし、土を掘り開いて棺木を見ると、ただ白蟻が蛀して成した痕跡が字と成っていた。「此地若し霊ならば、是れ天理無し。此地若し霊ならずば、是れ地理無し。」上天が良い地を生ずるには、必ず徳ある人が来て之を得るを待つ。世人は天理を丟開して地理を求めるとは、実に糊涂である。

按:戚少保所引琥珀吸草、磁石引針之說,與《葬書》“木華於春,栗芽於室;銅山西崩,靈鍾東應”之意相符,皆所謂氣之相感者也。祖父子孫同氣,更復何疑!末引地理本於天理之證,尤所痛快。予兄弟又嘗聞閩人言:朱子之同安,憇於途,見一墳地山水甚美,因問其樵者曰:“是墳子孫何如?”答曰:“先是富貴,今葬後退敗。”公嘆曰:“山有理,水有理,此地不發,是無地理。”樵者告公曰:“此山原是某家業,富家某貪其地占葬之。某貧弱不能爭辨。”公又嘆曰:“山有理,水有理,此地若發,是無天理。”一夕為雷所震。今閩鄉猶有能道其詳者。已上所言,皆慎終者所當先知,故特揭諸首,仰仁孝君子加察雲。

按:戚継光少保の引く琥珀の草を吸い磁石の鍼を引く説は、郭璞『葬書』の講ずる「春の来る時、樹木は花を開き、室内に蔵する栗子もまた芽を発す。西の銅山が崩れれば、東の霊鍾は自ら鳴りて相応ず」と同一の意で、皆いわゆる「気」の相互感応である。祖父と子孫はもともと同一の気脈で、何の疑いがあろうか。文末に引く地理は天理に本づく証拠は、とりわけ痛快に説き尽くしている。我ら兄弟はまたかつて福建人に聞いた。朱熹が同安に行き、路上で歇脚し、一処の墳地の山水が美しいのを見て、傍らの樵夫に問うた。「この墳の人家の子孫はどうか。」樵夫は答えた。「先は富貴でしたが、いま葬った後に敗落しました。」朱熹は嘆じた。「山には山の理、水には水の理がある。この地が若し発せざれば、地理がないのである。」樵夫は彼に告げた。「この山はもと某家の産業でしたが、或る富人がこの地を貪って強占して葬りました。あの家は貧弱で、争いに勝てませんでした。」朱熹はまた嘆じた。「山には山の理、水には水の理がある。この地が若し発せば、天理がないのである。」その晩あの墳は雷に撃たれて毀れた。いま福建の郷間にまだ詳細を言える人がある。以上の説くところは、皆喪事を慎重に執り行う者が先に知るべきもので、だからわざわざ全書の冒頭に揭示し、仁孝の君子に意を加えて省察してくださることを敬って願う。

附 雑説二欵

風水の名義を論ず

地理家以風水二字喝其名者,即郭氏所謂“葬者乘生氣也”。而生氣何以察之?曰:氣之來有水以導之,氣之止有水以界之,氣之聚無風以散之,故曰要得水,要藏風。又曰:氣乃水之母,有氣斯有水。又曰:噫氣惟能散生氣。又曰:外氣橫形,內氣止生。又曰:得水為上,藏風次之。皆言風與水,所以察生氣之來與止聚云爾。

地理家が「風水」という二字を以てこの学問を標擧するのは、郭璞の言う「葬は生気に乗じ接するを要す」を講ずるのである。然らば生気は何を以て察看するか。答えて言う。気の来るは水を以て導き、気の止るは水を以て界断し、気の聚るは風の吹き散らすなきを要す。だから言う、必ず「水を得」必ず「風を蔵」せよ、と。『葬書』はまた言う。気は水の母で、気あって初めて水あり。また言う。吹嘘の気は最もよく生気を吹き散らす。また言う。外気が横過して形を成せば、内気は初めて止蓄して生発し得る。また言う。水を得るを上と為し、風を蔵すること之に次ぐ。これらは皆風と水を講じ、その用意は皆生気がどこから来てどこに止蓄聚集するかを察看するにあるだけである。

總而言之,無風則氣聚,得水則氣融,此所以有風水之名。循名思義,風水之法無餘蘊矣。或曰:天地初分,混沌之始,只有風與水,兩相推蕩,故曰風水。又曰:風所以揚萬物,水所以滋萬物,故曰風水。此則皆不切於葬理。而又有水去則風來,水來則風去之說,益又舛矣。

総じて言えば、風がなければ気は聚り得住り、水があれば気は融結を得る。これが「風水」という名称の来歴である。名称に順って含義を体会すれば、風水の法門にもまた他の余蘊はない。或る人は言う。天地が剛に分かれ混沌が初めて闢けた時、ただ風と水の两样が彼此推蕩したので、だから風水と呼ぶ、と。また或る人は言う。風は万物を揚起し、水は万物を滋潤するので、だから風水と呼ぶ、と。これらの説は皆安葬の道理に相干らない。さらに「水去れば風来たり、水来れば風去る」というような説に至っては、さらに乖謬である。

龍脈穴砂の名義を論ず

地理家以山名龍,何也?山之變態千形萬狀,或大或小,或起或伏,或逆或順,或隱或顯。支壟之體段不常,咫尺之轉移頓異。驗之於物,惟龍為然,故以名之,取其潛、見、飛、躍,變化莫測云爾。

地理家が山を「龍」と称するのは、何の故か。山の変化は千形万状で、大あれば小あり、起あれば伏あり、逆あれば順あり、隠あれば顕あり、平岡と高壟の体段は変動して居らず、咫尺を隔てれば形勢は頓然として異なる。万物を以て対照すれば、ただ龍だけがこの様子である。だから龍を以てそれに命名し、取るのは『周易』乾卦の言う潜・見・飛・躍のあの変化測り難き意である。

曰脈者何也?人身脈絡,氣血所由運行,而一身之稟賦繫焉。凡人之脈,清者貴,濁者賤,吉者安,凶者危。地脈亦然。善醫者,察人之脈而知其安危壽夭;善地理者,審山之脈而識其吉凶美惡,此不易之論也。然龍與脈兩者相因,有龍則有脈,無脈則無龍。但龍兼指乎形之顯著,而脈又專主乎氣之隱微,故曰山尤難於認脈。

然らば「脈」と呼ぶのはまた何か。人の身の脈絡は気血の運行する通道で、一身の稟賦は皆その上に係わる。凡そ人の脈は、清なるは貴を主り、濁なるは賤を主り、吉は平安を主り、凶は危険を主る。地脈もまた同じである。高明な医は人の脈を診ればその安危寿夭を知り、高明な地師は山の脈を審察すればその吉凶美悪を識別できる。これは更易すべからざる道理である。ただ龍と脈とは両者互いに因依する。龍あれば脈あり、脈なければすなわち龍なし。ただ「龍」は兼ねて山形の顕露して見える部分を指し、「脈」は専ら気機の隠微にして察し難い部分を指す。だから言う、山を看るに最も難きは脈を認めることである、と。

穴者蓋猶人身之穴,取義至精。楊公云:“譬如銅人針灸穴,穴穴宛然方始當。”朱子云:“定穴之法,譬如針灸,自有一定之穴,而不可有毫釐之差。”此皆善狀穴之名義也。沙者,古人授受,以沙堆撥山形,因名沙耳。

いわゆる「穴」は、人の身の上の穴位に譬えるがごとく、その取義は極めて精当である。楊筠松は言う。「譬えば銅人の鍼灸の穴の如く、穴穴宛然として初めて当を得る。」朱熹は言う。「穴を定める方法は、鍼灸に譬えるがごとく、自ずから一定の穴位があり、毫厘の差錯を容れない。」これらは皆よく穴という名称の含義を状写している。「砂」に至っては、古人が師弟伝授する時に沙を積み撥ねて山の形状を作って演示したため、それで砂と呼ぶのである。

重刊『人子須知』資孝地理心学統宗 巻一之上

此一冊専論天下大幹龍。龍居地理四科之首,堪輿家莫要於論龍。論龍而不知天下大干,則所見者近而不遠,所究者淺而不深,所窺者狹而不廣,烏乎可哉?故首論天下大幹龍,庶幾識其大者。

この一冊は専ら天下の「大干龍」を論ずる。「龍」は地理の四大門類(龍・穴・砂・水)の中で首位に居り、堪舆家は龍を論ずるより緊要な事はない。しかし龍を論じて天下の大干龍を知らなければ、それは近処だけを見て遠処を見ず、浅処だけを探究して深く入れず、狭小な一隅だけを窺って視野を放寛できない。これでどうしてよかろうか。だから本書はまず天下の大干龍を論じて、読者にその中の大きな格局を先に認識させるのである。

崑崙を諸山の祖と為すを論ず

《性理大全》臨川吳氏曰:“天下之山脈起於崑崙。”蔡牧堂《發微論》曰:“凡山皆祖崑崙。”陶公《捉脈賦》云:“大智察脈,起自崑崙。”《明山寳鑑》云:“山脈之起,本於崑崙。”郭氏《錦囊經》云:“葬者原其始,乘其止。”誠以地理之法,龍則原其始,穴則乘其止,故不可不審山之起祖處也。

『性理大全』は臨川の呉澄の言を引く。「天下の山脈は崑崙に起こる。」蔡元定(牧堂)の『発微論』は言う。「凡そ山は皆崑崙を以て祖と為す。」陶侃の『捉脈賦』は言う。「大智の人が山脈を察看するには、崑崙より起頭せよ。」『明山宝鑑』は言う。「山脈の起源は、崑崙に本づく。」郭璞の『錦嚢経』(すなわち『葬書』)は言う。「安葬はその起始を推原し、その止息に乗接するを要す。」これは確かに地理の法則である。「龍」を論ずるにはそれがどこから発端したかを追溯し、「穴」を論ずるにはそれがどこに止蓄したかに乗接せねばならず、だから山の起祖の処を審察せざるを得ないのである。

然觀山之所始,必究其水之所起;觀龍之所終,必察其水之所界。今以輿圖考之,天下之水皆原於西北。是可見山起於西北矣。蔡文正公曰:“山水皆原於西北,故禹敘山敘水,皆自西北而東南”是也。或云崑崙在西海戌地,北海亥地,東南接積石圃,西北接北戶之室,東北臨太活之井,西南至城南之谷,亦荒遠莫稽。

ただし山がどこから始まるかを見るには、必ず水がどこから発源するかを探究しなければならない。龍がどこで終止するかを見るには、必ず水がどこで界断するかを察看しなければならない。いま地図を以て覈対すれば、天下の水は皆西北に発源する。これを以て山もまた西北に起こることが見える。蔡沈(文正公)は言った。「山と水は皆西北に発源する。だから大禹が山を叙述し水を叙述するに、皆西北より東南に講じ及んだ。」講ずるはまさにこれである。また或る説は崑崙は西海の戌位・北海の亥位にあり、東南は積石圃に連なり、西北は北戸の室に連なり、東北は太活の井に臨み、西南は城南の谷に至ると称す。これらのところはあまりに荒遠で、査考する由もない。

而楊公又云須彌山生四龍,崑崙山特其南肢。葛溪氏述其說曰:“須彌山是天地骨,中鎭天心為巨物。四肢分作四世界,惟有南龍入中國。南龍入自崑崙山,龍子龍孫皆可別。”雖據佛經,人所罕見,闕之可也。今但以中國山川之可考者論之,則崑崙誠諸山之祖,在中國之西北。九峰蔡氏云:“中國山勢岡脊,大抵皆自西北而來。”蓋可見矣。

而して楊筠松はまた須弥山が四条の龍を生ずると言い、崑崙山は不过その南面の一肢にすぎないと。曽葛溪がこの説を転述して言う。「須弥山は天地の骨で、中に天心を鎮めて巨物と為す。四肢は分かれて四世界を作り、惟だ南龍のみ中国に入る。南龍は崑崙山より入り、龍子龍孫は皆別つべし。」これらは仏経に依拠するが、人の稀に見るところで、存して論ぜずにおけばよい。いまただ中国の山川の中の査考し得る部分に就いて言えば、崑崙は確かに衆山の祖で、中国の西北に位する。蔡沈(九峰)は言った。「中国の山勢の岡脊は、大体皆西北の方向より来たる。」この一点は明白に見える。

《崑崙說》曰:崑崙之山三汲,下曰樊桐,一名板松;二曰玄圃,一名閬風;上曰層城,一名天庭。是謂大帝之居,去嵩高五萬里,地之中也。《禹本紀》與此同。高誘稱河出崑崙,伏流地中萬三千里。禹道而通之,出積石山。按《山海經》,自崑崙至積石,一千七百四十里,自積石出隴西郡至洛,凖地志可五千餘里。

『崑崙説』は講ずる。崑崙山は三級に分かれ、最下の一級を樊桐と呼び、またの名を板松。第二級を玄圃と呼び、またの名を閬風。最上の一級を層城と呼び、またの名を天庭。ここはすなわち天帝の居所で、嵩山より五万里を距り、大地の中心である。『禹本紀』の説もこれと同じである。高誘は黄河は崑崙に発源し、地下に潜流して一万三千里、大禹が疏導して通行せしめ、積石山より流出したと言う。『山海経』に按ずれば、崑崙より積石に至るまで一千七百四十里あり、積石より流出して隴西郡を経て洛陽に至るまで、地理志に比照して推算すればおよそ五千余里である。

又按《穆天子傳》,天子自崑崙入於宗周萬里。西土之數,自宗周瀍水以西,北至於河宗之邦。陽紆之山,三千有四百里。自陽紆西至河首四千里,合七千四百里。外國圖又云,從大晉國正西七萬里得崑崙之墟,諸仙居之。”數說不同。其高萬一千里。《山海經》稱方八百里,高萬仞。郭景純以為自上二千五百餘里。《淮南子》稱高萬一千一百里一十四步二尺六寸。

また『穆天子伝』に按ずれば、周穆王は崑崙より宗周に帰るまで一万里を行った。西方の土地の里数は、宗周の瀍水以西より、北は河宗の邦・陽紆の山に至るまで共に三千四百里、陽紆より西は黄河の源頭に至るまで四千里、合計七千四百里である。『外国図』はまた言う、大晋国の正西より七万里で崑崙の墟に至り、衆仙は皆そこに住む、と。幾種もの説は各々相同じない。その高度に至っては、一説に高さ一万一千里、『山海経』は方円八百里・高さ一万仞と言い、郭璞は山上より算えて二千五百余里あると認め、『淮南子』は高さ一万一千一百里又一十四歩二尺六寸と言う。

中国の山を総論す

朱子曰:“河圖言崑崙為地之中,中國至於闐音田二萬里。于闐貢使自言西去四千三百餘里即崑崙。今中國在崑崙東南,而天下之山祖於崑崙,惟派三干以入中國。其入夷國之山無可考,亦不足論。今以中國言之,其河北諸山,則自北寰武、嵐憲諸州,乘高而來,山脊以西之水,流入龍門西河,脊東之水,流於幽冀,入於東海。

朱熹は言う。「河図は崑崙は大地の中心であると講じ、中国より于闐(「闐」は田と読む)に至るまで二万里ある。于闐より来たる貢使は自ら言う、于闐より西へ四千三百余里がすなわち崑崙であると。いま中国は崑崙の東南にあり、天下の山は皆崑崙を以て祖と為し、ただ三条の「干龍」を分け出して中国に入る。夷狄の国に入るあの山は考察する由なく、また論ずるに及ばない。いま単に中国に就いて言えば、黄河以北の衆山は、北面の寰州・武州・嵐州・憲州一帯より高勢に乗じて来たり、山脊以西の水は龍門の西河に流入し、山脊以東の水は幽州・冀州を流経し、東海に注入する。」

其西一支為湖口泰嶽。次一支包汾晉之原而南出,以為析城、王屋,而又西折為雷首。又一支為恆山,又一支為太行山。太行山一千里,其山高甚。上黨在山脊,河東河北諸州在山支。其最長一支為燕山,盡於平梁。大河以南諸山,則闗中之山,皆自蜀漢而來。一支至長安而盡。闗中一支生下函谷。以至嵩、少,東盡泰山。一支自嶓冡、漢水之北生下,盡揚州江南諸山,皆祖於岷江,出岷山。

その中の西の一支は壷口・太岳であり、第二支は汾水晋地の平原を包んで南に伸出し、析城山・王屋山と為り、また西に折れて雷首山と為る。また一支は恒山、また一支は太行山である。太行山は綿延一千里で、山勢は極めて高く、上党はその山脊の上にあり、河東・河北の各州はその支脈の上にある。その中で最長の一支は燕山で、平梁に止まる。黄河以南の衆山は、関中の山は皆蜀漢一帯より来たる。一支は長安に至りて止まる。関中のもう一支は下りて函谷を生じ、一直線に嵩山・少室山に至り、東は泰山に止まる。また一支は嶓塚山・漢水以北より生下りて、揚州に止まる。江南の衆山は皆岷江を以て祖と為し、岷山より発出する。

岷山夾江兩岸而行,那邊一支,去為江北許多去處。這邊一支,分散為湖南、閩、廣,盡於兩浙、建康。其一支為衡山,而盡於洞庭、九江之西。其一支度桂嶺,則包湘源,而北經袁筠之地,以盡於廬阜。其一支自南而東,則包彭蠡之原,度歙黃山,以盡於建康。又自天目山分一支,盡於浙江西之山,皆自五嶺贛上來,自南而北。閩廣之山,自北而南。一支則又包浙江之原,北首以盡會稽,南尾以盡閩粵。此中國諸山祖宗支派之大綱也。

岷山は長江の両岸を挟んで行く。あの一辺の一支は江北の許多の地方に往き、この一辺の一支は分散して湖南・福建・広東と為り、両浙と建康に止まる。その中の一支は衡山と為り、洞庭湖・九江以西に止まる。一支は桂嶺を越え、湘水の源頭を包んで、北は袁州・筠州一帯を経て、廬山に止まる。一支は南より東に向かい、鄱陽湖の水源を包んで、歙県の黄山を越え、建康に止まる。また天目山より一支を分け出し、浙江以西の山に止まる。これらの山は皆五嶺・贛江の上流より来たり、南より北に向かう。福建・広東の山は北より南に向かう。また一支は浙江の水源を包み、北頭は会稽に止まり、南尾は閩・粤に止まる。これが中国の衆山の祖宗支派の大綱である。

上特舉天下山而言,未及水也。復輯山水總說於後雲。按仁山金氏曰:天地常形,固相為勾連貫通,然亦各有脈絡。自崑崙而東北言之,則自積石而北,為涅水、星海、青海,以至浩亹,皆河源也。入匈奴以東,為陰山。又東南,自代北、雲朔,分而南趨,為北嶽,以至太行,是為河北之脊。壼口、雷首、太嶽、析城、王屋,皆其群峰。汾晉、涿易、滱漳、洹衛,則皆其諸水也。分而東趨者,行幽燕之北,為五闗之險。以至營平而為碣石,此北絡也。

以上はただ天下の山を挙げて言ったので、まだ水に講じ及んでいない。ここにさらに山水の総説を後に彙輯する。按:金履祥(仁山)は言う。天地の固定した形体は、もともと彼此勾連して貫通しているが、然るに各々その脈絡がある。崑崙より東北の方向に言えば、積石山より北は、涅水・星宿海・青海で、浩亹に至るまで、皆黄河の源頭一帯に属する。匈奴の地界に入って東は陰山である。さらに東南に、代北・雲州朔州より分出して南に奔走し、北岳恒山と為り、一直線に太行山に至る。これがすなわち河北の山脊である。壷口・雷首・太岳・析城・王屋は皆その群峰であり、汾水・晋水・涿水・易水・滱水・漳水・洹水・衛水は皆その衆水である。分かれ出でて東に走るあの一支は、幽燕の北を行経し、五関の険要を形成し、営州・平州に至って碣石と為るまで、此の一支を「北絡」と呼ぶ。

自崑崙以東言之,則自西傾而洮水出自北,入河。恆水出其南,入江。又東,為朱圉、鳥鼠諸隴,則為渭之源。以北即夾河源而北。以東,若岍岐,若荊山諸峰,涇水、漆、沮諸源也。自渭以南,即西傾而下諸峰亙為絡,南屹為太華,東北為殽陜,東南為熊耳、方外、嵩高、伊、洛之源。又南,為桐柏、淮源,以達於淮西諸山。此中絡也。

崑崙より正東の方向に言えば、西傾山より起こり、洮水はその北面より流出して黄河に注入し、恒水はその南面より流出して長江に注入する。さらに東は、朱圉山・鳥鼠山などの隴山で、あそこは渭水の源頭である。さらに北はすなわち黄河の源頭を挟んで北行する。東はすなわち岍山・岐山の如く、荊山の諸峰の如く、涇水と漆水・沮水の発源地である。渭水以南は、すなわち西傾山以下の諸峰が連綿として脈絡を成す。南面に高聳するは太華山、東北は崤山・陝地、東南は熊耳山・方外山・嵩高山で、また伊水・洛水の源頭でもある。さらに南は桐柏山と淮水の源頭で、一直線に淮西の衆山に通ずる。この一支を「中絡」と呼ぶ。

又自西傾朱圉而南分,是為嶓冡漢源,夾漢而趨者,北即終南、華、熊諸隴。南則蜀東諸峰。說者謂蜀東諸山皆嶓冡,正謂其岡岫綿亙耳。又東南言之,是為岷山江源,夾江而東者。北支即西傾以南,嶓冡以西之脈,為洹水,西漢水,如江陵諸源。其南支即南趨為蒙蔡諸山,青衣、大流、馬湖、江諸源。

さらに西傾山・朱圉山より南に分かれ出るは、すなわち嶓塚山と漢水の源頭である。漢水を挟んで行くのは、北面は終南山・華山・熊耳山という隴脈、南面は蜀東の諸峰である。或る人は蜀東の各山は皆嶓塚に属すると言うが、まさにそれらの岡巒が連綿として断えないに就いて言うのである。さらに東南の方向に言えば、すなわち岷山と長江の源頭で、長江を挟んで東に走るのは、北支はすなわち西傾山以南・嶓塚山以西の脈で、洹水・西漢水および江陵一帯の諸水の源頭である。南支はすなわち南に走りて蒙山・蔡山等の山と為り、青衣江・大流江・馬湖江等の江の源頭である。

又東包涪、黔,一盤而北,為三峽。其出者包絡九江之源。中盤中為衡山。其再盤而北,為廬阜。其嶺之東出者,又為袁、吉、章、貢、旺信諸江之源。至分水魚梁嶺,三盤而北趨,過新安,峙天目,盡升潤。再盤之間,其水聚洞庭。三盤之間,其水聚彭蠡。三盤以東,則南為閩浙,北為震澤。此南絡也。惟泰山則特起東方,橫亙左右,以障中原。此所以為異與。

さらに東は涪州・黔州を包み、盤繞して一周して北に向かい、三峡を形成する。ここより出でる部分は九江の水源を包絡する。第二次の盤繞の中間は衡山で、第二次の盤繞の後に北は廬山である。この一帯の山嶺が東に伸出するは、また袁江・吉水・章水・貢水・旺水・信江等の江の源頭である。分水嶺・魚梁嶺に至り、第三次に盤繞して北に走り、新安を経て、聳起して天目山と為り、昇州・潤州に止まる。第二次の盤繞の間は、水が聚まりて洞庭湖を成す。第三次の盤繞の間は、水が聚まりて鄱陽湖を成す。第三次の盤繞以東は、南面は福建・浙江、北面は太湖である。この一支を「南絡」と呼ぶ。ただ泰山は東方に特に抜起し、左右に横亙し、以て中原を屏障する。これがすなわちそれの衆と異なるところであろう。

又曰泰山特起東方,為中國水口表鎭。禹貢道水略云:“導河至同,為逆河,入於海。導漾至東,為北江,入於海。導江至東,為中江,入於海。導沇水至東北,會於汶,又東入於海。導淮至東,會於泗、沂,東入於海。導渭至東,過漆、沮入於河。導洛至東,會於伊,又東北入於河。此中國山水大勢也。

金履祥はまた言う。泰山は東方に特に抜起し、中国の「水口」上の標志的な鎮山である。『尚書・禹貢』は導水の大略を講じて言う。「黄河を疏導して同地に至り、逆河と為して大海に注入す。漾水を疏導して東に、北江と為して大海に注入す。長江を疏導して東に、中江と為して大海に注入す。沇水を疏導して東北に、汶水と会合し、さらに東して大海に注入す。淮水を疏導して東に、泗水・沂水と会合し、東して大海に注入す。渭水を疏導して東に、漆水・沮水を経て黄河に注入す。洛水を疏導して東に、伊水と会合し、さらに東北して黄河に注入す。」これがすなわち中国の山水の大勢である。

朱子曰:河圖言:“崑崙者,地之中也。”《素問》曰:“天不足西北,地不滿東南。”《水經》云:“崑崙取嵩山五萬里。”看來不會如此遠。葢中國至於闐二萬里。于闐至崑崙無緣更有三萬里。《文昌雜録》記于闐遣使來貢獻。使者自言其地四千三百餘里即崑崙山。今中國在崑崙之東南,而天竺諸國在其正南。大抵地形如饅頭然,其尖則崑崙也。

朱熹は言う。河図は「崑崙は大地の中心」と講ずる。『黄帝内経・素問』は「天は西北の方向に欠けるところあり、地は東南の方向に満たざるところあり」と言う。『水経』は「崑崙より嵩山に至るまで五万里あり」と言う。見るにそんなに遠くはあるまい。中国より于闐に至るまで才かに二万里で、于闐より崑崙に至るまでなお三万里あるはずがないからである。『文昌雑録』は于闐が使者を派して朝貢に来たことを記載し、使者は自ら言う、彼らのところより西へ四千三百余里がすなわち崑崙山である、と。いま中国は崑崙の東南にあり、而して天竺の各国は崑崙の正南にある。大体言えば、大地の形状は一つの饅頭の如く、その尖頂がすなわち崑崙である。

九峰蔡氏曰:河北諸山,根本脊脈皆自代北寰武、嵐憲諸州乘高而來。其脊以西之水,則西流以入龍門。西河之上流,其脊以東之水則東流而為桑乾、幽冀,以入於海。其西一支,為壼口、泰嶽。次一支,包汾晉之原而南出,以為析城、王屋。而又西折,以為雷首。又次一支,乃為太行,又次一支,乃為恆山。此大河北境之山也。其江漢南境之山,則岷山之脈,其北一支為衡山,而盡於洞庭之西。其南一支度桂嶺,北經袁筠之地,至德安之敷淺源。二支之間,湘水間斷,衡山在湘水西南,敷淺源在湘水東北。

蔡沈(九峰)は言う。河北一帯の衆山は、根本の脊脈は皆代北の寰州・武州・嵐州・憲州より高勢に乗じて来たる。山脊以西の水は、西に流れて龍門に入る。あれは西河の上流である。山脊以東の水は、東に流れて桑干河と為り、幽州・冀州を経て大海に注入する。その中の西の一支は壷口・太岳、第二支は汾水晋地の平原を包んで南に伸出して析城・王屋と為り、また西に折れて雷首と為る。さらに下の一支は太行、さらに下の一支は恒山である。これらは黄河以北の山である。長江漢水以南の山に至っては、すなわち岷山の脈より出づ。北面の一支は衡山と為り、洞庭湖以西に止まる。南面の一支は桂嶺を越え、北は袁州・筠州一帯を経て、徳安の敷浅原に至る。両支の間は湘水に隔て断ぜられる。衡山は湘水の西南にあり、敷浅原は湘水の東北にある。

朱子曰:天下之山,西北最高。自闗中一支生下函谷,以至嵩少,東盡泰山。此是一支。又自嶓冡漢水之北,生下一支,至揚州而盡。江南諸山,則又自岷山分一支,以盡於兩浙、閩廣。又曰:大凡兩水夾行,中間必有山;兩山夾行,中間必有水。江出岷山,岷山夾江兩岸而行,那邊一支去為江北許多去處,這邊一支為湖湘南。又一支為建康,又一支為福建二廣。

朱熹は言う。天下の山は西北を以て最も高しと為す。関中より一支を生出して下りて函谷を経て、一直線に嵩山・少室山に至り、東は泰山に止まる。これは一支である。また嶓塚山・漢水以北より一支を生下りて、揚州に至りて止まる。江南の衆山は、すなわちまた岷山より一支を分け出し、両浙と閩広に止まる。彼はまた言う。大凡そ両条の水が挟んで走れば、その中間に必ず山あり。両座の山が挟んで走れば、その中間に必ず水あり。長江は岷山より出づ。岷山は長江の両岸を挟んで行く。あの一辺の一支は江北の許多の地方に往き、この一辺の一支は湖南湘中一帯と為る。また一支は建康と為り、また一支は福建と両広と為る。

又曰:岷山之脈,其一支為衡山者,已盡於九江之西。其一支又南而東度桂嶺者,則包湘源,而北經袁筠之境,以盡於廬阜。其一支又南而東度庾嶺者,則包彭蠡之源,以北盡於建康。其一支則又東包浙江之原,而北其首以盡會稽,南其尾以盡於閩粵。

朱熹はまた言う。岷山の脈は、その中の衡山と為る一支は、すでに九江以西に止まった。もう一支が南しさらに東して桂嶺を越えたものは、すなわち湘水の源頭を包み、北は袁州・筠州の境内を経て、廬山に止まる。もう一支が南しさらに東して大庾嶺を越えたものは、すなわち鄱陽湖の水源を包み、北に止まりて建康に至る。さらに一支あり、すなわち東して浙江の水源を包み、北頭は会稽に止まり、南尾は閩粤に止まる。

《朱子語録》云:佛經云:崑崙山頂有阿耨大池,水流四面出,東南流入中國者,為黃河。其三方流者,為弱水、黑水之類。《東坡指掌圖》云:西域在匈奴之西,烏孫之南。南北有大山,中央有河,東則接漢。所以玉門、陽闗西,則限以蔥嶺。其南山東出金城,與漢南山屬焉。其河有兩源,一出蔥嶺,一出于闐。于闐在南山下,其河北流,與蔥嶺河合,東注浦昌海。其水停居,冬夏不増減。世皆以為潛行於地下,南出於積石山,為中國河雲。

『朱子語録』は言う。仏経に講ずるに、崑崙山の頂に阿耨達の大池があり、水は四面より流出し、その中の東南に流れて中国に入るものは黄河と為り、その余の三つの方向に流出するものは弱水・黒水の類と為る。蘇軾の『指掌図』は言う。西域は匈奴の西・烏孫の南にあり、南北に皆大山があり、中央に河があり、東は漢地に連接す。だから玉門関・陽関以西は、すなわち葱嶺を以て界と為す。その南面の山は東に伸出して金城に至り、漢地の南山と相連なる。あの河は二つの源頭があり、一つは葱嶺より出づ、一つは于闐より出づ。于闐は南山の脚下にあり、あそこの河は北に流れ、葱嶺より来たる河と会合し、東して蒲昌海に注入す。蒲昌海の水は停蓄して動かず、冬夏も皆増減しない。世人は皆それが地下に潜行して、南は積石山より冒出し、中国の黄河と為ると認める。

臨川吳氏曰:水發自崑崙者,其源為最遠。惟中國之河為然。漢之發源於嶓冡,江之發源於岷山以西,視他水亦可謂遠,而非極于山脈初起之處,則不得與河源並也。故天下有源之水,河為第一。古人祭川,先河後海,重其源也。朱子曰:女眞起處有鴨緑江。傳云:“天下有三處大水,曰黃河,曰長江,曰鴨緑江是也。

臨川の呉澄は言う。水が崑崙に発源するものは、源頭が最も遠く、ただ中国の黄河だけがこれである。漢水は嶓塚山に発源し、長江は岷山以西に発源し、別の水と比べてもまた遠いと算えられるが、皆一直線に上溯して山脈の最初に興起したところには至らない。だから黄河の源頭と並列できない。ここにおいて天下の源ある水は、黄河が第一と排される。古人が河川を祭祀するに、先ず河を祭り後に海を祭るのは、その源頭を重んずるためである。朱熹は言う。女真人の興起したところに鴨緑江がある。伝聞に言う。「天下に三処の大水あり、すなわち黄河・長江・鴨緑江である。」

蔡牧堂曰:凡山皆祖崑崙,分支分脈,愈繁愈細,此一本而萬殊也。凡水皆宗大海,異派同流,愈含愈廣,此萬殊而一本也。臨川吳氏曰:天下之山脈起於崑崙。山脈之所起,即水源之所發也。

蔡元定(牧堂)は言う。凡そ山は皆崑崙を以て祖と為し、一層層支を分かち脈を分かち、分かれば分かるほど繁となり分かれば分かるほど細となる。これは「一本して万殊」である。凡そ水は皆大海を以て宗と為し、不同の支派が同じく一処に帰し、匯すれば匯するほど多くなり匯すれば匯するほど広くなる。これは「万殊して一本」である。臨川の呉澄は言う。天下の山脈は崑崙に起こる。山脈の起頭する処は、すなわち水源の発端する処でもある。

《水經》云:江水出岷山,在蜀氐道縣,大江所出,東南過其縣北。岷山,即瀆山也,水曰瀆水。又謂之文阜山,在徼外,江水所導也。《益州記》曰:大江泉源,即今所聞始發羊膊嶺下。緑崖散漫,小大百數,殆未濫觴矣。東南下百餘里,至白馬嶺而歷天彭闕,亦謂之天谷。秦昭王以李冰為蜀守。冰見氐道縣有天彭山,兩山相對,其形如闕,謂之天彭闕,亦曰天彭門。江水自此以上,至微弱,所謂發源濫觴者。

『水経』は言う。江水は岷山より出づ。蜀地の氐道県にあり、大江の発源地で、東南に流れてその県の北面を過ぐる。岷山はすなわち涹山で、あそこの水を涹水と呼ぶ。またの名を文阜山といい、辺塞の外にあり、江水がここより導出する処である。『益州記』は言う。大江の泉源は、今日聞くところに拠れば、最初は羊膊嶺の下より発し、青崖に沿って散漫に流出し、大大小小上百股で、ほとんど酒杯を浮かべ得る程度にも達しない。東南に下行して一百余里、白馬嶺に至りて天彭闕を過ぐる。あそこはまた天谷とも呼ぶ。秦昭王は李冰を任命して蜀郡太守と為さしめ、李冰は氐道県に天彭山あるを見、両山が相対して形状は門闕の如く、すなわちこれを天彭闕と称し、また天彭門とも呼ぶ。江水はここより上るは、水勢は極めて微弱で、いわゆる「発源濫觴」のあの一段である。

淮水淮水出南陽平氐縣胎簪山東北,過桐栢山。《山海經》曰:淮出餘山,在朝陽東久鄉西。《尙書》“導淮自桐柏。”《地理志》曰:“南陽平氐縣,王莽之平善也。”《風俗通》曰:“南陽平氐縣,桐栢大復山在東南,淮水所出也。”淮,均也。《春秋說題辭》曰:“淮者,均其勢也。”《釋名》曰:“淮,韋也,韋統揚州北界,東至於海也”。

さらに淮水を言う。淮水は南陽平氏県の胎簪山より出で、東北に流れて桐柏山を過ぐる。『山海経』は言う。淮水は余山より出で、朝陽以東・久郷以西にある。『尚書・禹貢』は「淮を導くは桐柏自り」と言う。『漢書・地理志』は言う。「南陽平氏県は、すなわち王莽の時の平善県である。」『風俗通』は言う。「南陽平氏県、桐柏大復山はその東南にあり、淮水の発源地である。」「淮」は均の義である。『春秋説題辞』は言う。「淮とは、すなわちその水勢を均平ならしむることである。」『釋名』は言う。「淮とは、すなわち韋(囲)の義で、それは揚州の北界を囲遶統束し、東は一直線に海に至る。」

河水《春秋說題辭》曰:“河之為言,荷也。”《釋名》曰:“河,下也。隨地下處而通流也。”《考異郵》曰:“河者,水之氣,四瀆之精也。”《孝經援神契》曰:“河者,水之伯,上應天漢。”《新論》曰:“四瀆之源,河最高而長。從高注下,水流激浚,故其流忽。”徐幹《齊都賦》曰:“川瀆則洪河洋洋,發源崑崙;九流分遊,北朝滄淵。驚波沛厲,望海揚奔。”

さらに河水を言う。『春秋説題辞』は言う。「河の字の語源はすなわち荷で、負載の義を取る。」『釋名』は言う。「河はすなわち下で、地勢の低下した処に順って通行流走する。」『考異郵』は言う。「河は水の気で、江・河・淮・済の四涜の精華である。」『孝経援神契』は言う。「河は水中の霸主で、上は天上の銀河に応ず。」『新論』は言う。「四涜の源頭は、黄河が最高く且つ最も長い。高処より傾瀉して下るは、水流は湍急にして深峻、だからその流れは速い。」徐幹の『斉都賦』は言う。「川涜を言えば、すなわち浩蕩の黄河、崑崙に発源す。九条の支流は分頭して奔走し、北に朝会して滄海に至る。驚濤駭浪は汹涌激烈、大海を望んで飛奔して往く。」

《物理論》曰:“河色黃者,眾川之流,蓋濁之也。百里一小曲,千里一曲一直矣。”漢大司馬張仲議曰:“河水濁,清澄一石水,六斗泥。而民競引河溉田。今河不通利,至三月桃花水至,則河決,以其噎不洩也。禁民勿復引河。”是黃河兼濁河之名矣。《述徵記》曰:“盟津、河津恆濁,方河為狹,此淮濟為闊。寒則氷厚數丈。氷始合,車馬不敢過,須要狐行。雲狐善聽,氷下無聲,乃過。人見狐行,方渡。”

『物理論』は言う。「黄河の水色が黄を発するのは、衆多の河川が匯流してそれを濁らせたからである。それは百里毎に一つの小弯があり、千里毎に一弯一直である。」漢代の大司馬張仲は建議して言う。「河水は渾濁し、一石の河水を澄清すれば六斗の泥が沈下する。而して百姓は争って黄河水を引いて田を灌ぎ、いま河道が暢通せず、三月桃花汛の来るに至って河は決口する。水が壅塞して排出されざるを以ての故である。応に百姓が再び黄河水を引くを禁止すべし。」これを見れば黄河はまた兼ねて「濁河」という名称を有す。『述征記』は言う。「孟津・河津の水は常年渾濁する。河面に就いて言えばここは較べて窄く、淮水・済水に比べれば寛いと算えられる。天が冷える時は結氷の厚さ数丈に達す。氷が剛く合攏する時は車馬も敢えて過ぎず、必ず狐狸が先に走るを待たなければならない。説に狐狸は善く声を聴き、氷下に水声なきを聞いて初めて過ぐるを肯んず。人は狐狸の走り過ぐるを見て、初めて敢えて渡る。」

又《河水說》、《山海經》曰:“河水出渤海。”又海水西北入。禹所導積石山,山在隴西郡河間縣西南羌中。余考群書,咸言河出崑崙源,潛發淪於蒲昌,出於海水。故《洛書》曰:“河自崑崙出於重野。”謂此矣。經積石而為中國河,故成公子安《大河賦》曰:“覽百川之弘北,莫尙美於黃河。潛崑崙之峻極,出積石之嵯峨。”釋氏《西域傳》曰:“河自蒲昌潛行地下,南出積石。”而經文在此似乎不同。積石宜在蒲昌海下矣。

別に『河水説』と『山海経』は言う。「河水は渤海より出づ。」また言う。海水は西北より灌入す、と。大禹の疏導した積石山は、隴西郡河間県西南の羌人の地界にある。私は種種の書籍を考察するに、皆黄河は崑崙に発源し、蒲昌海に潜流沈没し、さらに海水の中より出づと言う。だから『洛書』は言う。「河は崑崙より重野に出づ。」講ずるはまさにこの事である。それは積石山を経過して中国の黄河と為る。だから成公綏(子安)の『大河賦』は言う。「遍く百川の浩蕩として北に向かうを覧るに、黄河より壮美なるはなし。それは崑崙の極高の処に潜行し、積石の嵯峨の間に湧出す。」仏家の『西域伝』は言う。「河水は蒲昌海より地下に潜行し、南は積石山より流出す。」而して経文のここの説はこれと異なるらしい。理に照らせば積石は応に蒲昌海の下游にあるべきである。

漢水漾水,即漢水發源也。漾水出隴西氐道縣嶓冡山東,至武都沮縣為漢水。又東南,至廣魏白水縣西。又東南,至葭萌縣東北,與漾水合,沔水即漢水。沔出武都沮縣東狼谷中,沔水一名沮水。闞駰曰:“以其初出沮洳然,故曰沮水。此縣之受名焉。導源南流,泉街水注之。出河池縣東南,流入沮縣,會於沔。沔水又東南,徑沮水成而東南流,注漢。而沮口所謂沔漢者也。

さらに漢水を言う。漾水はすなわち漢水の発源である。漾水は隴西氐道県嶓塚山の東面より出で、流れて武都郡沮県に至ればすなわち漢水と呼ぶ。さらに東南は広魏郡白水県以西に至る。さらに東南は葭萌県東北に至り、漾水と会合す。沔水もまたすなわち漢水で、武都沮県東面の狼谷の中より出づ。沔水はまたの名を沮水という。闞駰は言う。「それが剛に流出する時地面は沮洳潮湿するを以て、だから沮水と呼ぶ。沮県の名称はここより来たる。それは源を導きて南に流れ、泉街水がその中に注入す。泉街水は河池県東南より出で、沮県に流入し、沔水と会合す。沔水はさらに東南し、沮水の匯成する処を経て東南に流れ、漢水に注入す。而して沮口はすなわちいわゆる沔漢である。」

《尙書》曰:“嶓冡導漾東流為漢。”《山海經》所謂漢出鮒賂山也。東北流,得獻水口。庚仲雍云:是水南至闗城,合西漢水。漢水又東,北合沮口,同為漢水之源也。故如湻曰:“此方為漢水,為沔水。”故孔安國曰“漾水東流為沔”,葢與沔合也。至漢中為漢水,是互相通稱矣。濟水濟出王屋山,今孟州。始禹導水流而為濟,截河南渡,東流與汶水會。又北,東入於海。兗州在濟河之間,濟發源為名。今濟州乃發源也。濟水自王莽時入河,同流入海,濟河之地無濟水矣。

『尚書』は言う。「嶓塚山は漾水を導出し、東に流れて漢水と為る。」これはすなわち『山海経』の言う漢水は鮒賂山より出づということである。それは東北に流れ、献水口に至る。庚仲雍は言う。この水は南は関城に至り、西漢水と会合す。漢水はさらに東して、北辺で沮口と会合し、共に漢水の源頭を構成す。だから如淳は言う。「ここに至って初めて漢水と算え、初めて沔水と算える。」だから孔安国は「漾水は東流して沔と為る」と言う。それが沔水と会合したを以ての故である。漢中の一段に至ればすなわち漢水と呼ぶ。これを見れば二つの名称は互いに通用するのである。さらに済水を言う。済水は王屋山より出づ。すなわち今日の孟州である。当初大禹が水流を疏導して済水と為したは、黄河を横截して南に渡り、東流して汶水と会合し、さらに北、さらに東して大海に注入す。兗州は済水と黄河の間にあり、済水の発源を以て名を得た。今日の済州はすなわちその発源地である。済水は王莽の時より黄河に併入し、同じく流れて海に入り、ここより済河一帯はすなわち済水なし。

九州の山鎮川沢を論ず

按《周禮職方氏》曰:東南曰揚州,其山鎭曰會稽,其澤藪曰具區五湖也,在吳南,其川三江,其浸五湖。正南曰荊州,其山鎮曰衡山,其澤藪曰云夢,其川江漢,其浸穎湛湛未聞。河南曰豫州,其山鎮曰華山,其澤藪曰莆田在中牟,其川熒雒,其浸波音播溠。

『周礼・職方氏』に按ずれば言う。東南方を揚州と呼び、その鎮山は会稽山、その沼沢は具区(すなわち五湖、呉地の南面にある)、その河川は三江、その浸潤の水は五湖である。正南方を荊州と呼び、その鎮山は衡山、その沼沢は雲夢、その河川は長江・漢水、その浸潤の水は潁水と湛水(湛水の所在は詳らかならず)である。黄河以南を豫州と呼び、その鎮山は華山、その沼沢は莆田(中牟にある)、その河川は滎水・洛水、その浸潤の水は波水(「波」は播と読む)と溠水である。

正東曰青州,其山鎮曰沂山蓋在沂水所出,其澤藪曰望諸在睢陽,其川淮泗,其浸沂沐沐出東浣。河東曰兗州,其山鎮曰岱山,其澤藪曰大野在鉅野,其川河泲,其浸盧維盧維昔為雷雍,《禹貢》雷夏、雍沮是也。雷夏在城陽。正西曰雍州,其山鎮曰嶽山吳嶽也,在沂,其澤藪曰弦在汧蒲,其川涇在涇陽、汭在豳地,其浸渭、洛洛出懐德。

正東方を青州と呼び、その鎮山は沂山(大概沂水の発源処にある)、その沼沢は望諸(睢陽にある)、その河川は淮水・泗水、その浸潤の水は沂水と沭水(沭水は東莞より出づ)である。黄河以東を兗州と呼び、その鎮山は岱山(泰山)、その沼沢は大野(巨野にある)、その河川は黄河・済水、その浸潤の水は盧水・維水(盧維は従前雷雍と呼ばれ、すなわち『禹貢』の言う雷夏・雍沮である。雷夏は城陽にある)である。正西方を雍州と呼び、その鎮山は岳山(すなわち呉岳、汧地にある)、その沼沢は弦蒲(汧地にある)、その河川は涇水(涇陽にある)と汭水(豳地にある)、その浸潤の水は渭水・洛水(洛水は懐徳より出づ)である。

東北曰幽州,其山鎭曰醫無閭在遼東,其澤藪曰貕養在長廣,其川河、泲,其浸菑出萊蕪、時出般陽。河內曰冀州,其山鎭曰霍山在彘,其澤藪曰陽紆所在未聞。其川漳拙長,其浸汾出汾陽、潞出歸德。正北曰幷州,其山鎮曰常山在上曲陽,其澤藪曰昭餘祁在鄔,其川呼池出滷城、嘔夷出平舒,其浸淶出廣昌、易出故安。注曰:此九州島川界。揚、荊、豫、兗、雍、冀,與禹貢略同。青州則徐州之地,幽並則冀州之地,獨無樑雲。

東北方を幽州と呼び、その鎮山は医無閭山(遼東にある)、その沼沢は貕養(長広にある)、その河川は黄河・済水、その浸潤の水は菑水(萊蕪より出づ)と時水(般陽より出づ)である。黄河以内を冀州と呼び、その鎮山は霍山(彘地にある)、その沼沢は陽紆(所在詳らかならず)、その河川は漳水、その浸潤の水は汾水(汾陽より出づ)と潞水(帰徳より出づ)である。正北方を幷州と呼び、その鎮山は常山(上曲陽にある)、その沼沢は昭余祁(鄔地にある)、その河川は呼沱水(鹵城より出づ)と嘔夷水(平舒より出づ)、その浸潤の水は涞水(広昌より出づ)と易水(故安より出づ)である。注文は言う。これは九州の河川の分界である。その中の揚・荊・豫・兗・雍・冀の六州は『禹貢』と大致相同じ、青州は『禹貢』の徐州の地界、幽州・幷州は『禹貢』の冀州の地界で、ただ梁州がない。

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