Libo

扛夾

明 · 徐善继、徐善述 · 第10巻 / 56

作盤ガイド: 玄空飛星の作盤, 暦注(黄暦)

凡脈從中過,兩旁客山或本山特起,高卓相應者謂之扛。外山隔水遠來護峽而相夾映者,謂之夾。凡扛、夾之山,最喜成形,如前所謂太陰、太陽、金箱、玉印、龜蛇、旗鼓之類,左右俱有極吉。若左右兩峰高聳峙立,又名曰天弧、天角,《經》云“天弧天角龍欲渡。”此本山扛峽,吉格。此外山扛峽,吉格。此外山隔水遠來扛峽,最吉格。此不成格,非峽。

凡そ脈は中間より過ぎ去るに、両旁に外来の客山或いは本身の山ありて特地聳起・高卓相対呼応するは、「扛」と呼ぶ。外山は水を隔てて遠処より趕え来たりて峡口を護住し・彼此夾峙映照するは、「夾」と呼ぶ。凡そ扛山・夾山は最も能く形象を構成するを好しと為す。前面に説いた太陰・太陽・金箱・玉印・亀蛇・旗鼓の類の如く、左右皆あるは極吉。若し左右の両峰は高聳対峙せば、また「天弧」「天角」と呼ぶ。『撼龍経』は言う「天弧天角 龍将に渡らんと欲す」。以下の几図はただ説明を存す。此一式は本身の山の峡を扛ぐ、吉格。此一式は外山の峡を扛ぐ、吉格。此一式は外山の水を隔てて遠く来たりて峡を扛ぐ、最も吉の格。此一式は格局を成さず、峡と算えず。

蔡西山先生の峡格

雙魚峽。如此乃為正出之峽,吉格。如此乃偏出脈,非峽。此偏出脈,非峽,亦謂之來去魚,主凶。垂珠峽。如此乃為正出之峽,吉。如此亦為正出之峽,吉。如此乃為偏出,不得為峽,主凶。如此則為偏寒,不吉,不可言峽。左右同。如此雖是峽,亦係偏斜,主奸險。

「双魚峡」、今ただ図題と断語を存す。此一式は脈の正中より出づるの峡、吉格に属す。此一式は脈の偏出、峡と算えず。此一式もまた偏出の脈、峡と算えず、また「来去魚」と呼び、凶を主す。「垂珠峡」。此一式は正出の峡、吉。此一式もまた正出の峡、吉。此一式は偏出、峡と算う能わず、凶を主す。此一式は偏にして孤寒、不吉、峡と称すべからず。左辺右辺の情形は相同じ。此一式は峡と算うるといえども、しかし偏斜、人の奸詐陰険を主す。

大凡峽,欲其脈從中出,而兩畔護送停均。如脈雖中出,而兩畔護山不勻,或邊有邊無,邊長邊短,邊多邊少,皆同偏論,有吉有凶。蓮化心峽。如此眞蓮花心峽,最為至貴。如此即小偏,力量輕減。如此全是偏斜,不可言峽。左右同。如此乃眞峽,極貴格。如此亦可言峽。如此亦可言峽。如此偏出,不可言峽矣。如此亦不可言峽,無用之龍耳。

大凡峡は、皆脈の正中より出で・而して両旁の護送の山の勻称相当するを希望す。假如脈は中より出づるといえども、両旁の護山は却って勻ならず、或いは一辺あり一辺なし、一辺長し一辺短し、一辺多し一辺少なし。皆「偏」を按じて論ずるを要す。その中に吉ありまた凶あり。「蓮花心峡」、今ただ図題と断語を存す。此一式は真正の蓮花心峡、最も貴重。此一式は稍稍偏り、力量は便ち減軽す。此一式は完全に偏斜、峡と算えず。左右両辺の情形は相同じ。此一式は真峡、極貴の格。此一式もまた以て峡と算う可し。此一式もまた以て峡と算う可し。此一式は偏出、すなわち峡と算う能わず。此一式は同じく峡と算う能わず、ただ一条の无用の龍。

迎送峽。如此則眞為有迎有送,至貴之峽。如此迎送尤佳,乃眞峽也,至貴。如此亦是眞峽,結貴地。如此即為偏出,非峽也。如此乃為交互迎送,半吉。如此全是偏出,大凶。如此極為偏枯,大凶。

「迎送峡」、今ただ図題と断語を存す。此一式は確かに迎あり送あり、是れ極貴の峡。此一式は迎送さらに好し、是れ真峡、極貴。此一式もまた真峡、能く貴地を結ぶ。此一式は偏出に属し、峡と算えず。此一式は交互迎送、半吉。此一式は完全に偏出、大凶。此一式は偏枯すること極点に至り、大凶。

玉井欄峽。如此眞玉井欄峽格,吉。如此名交互玉井欄,亦吉。如此亦是井欄迎送正格,吉。如此名右旋井欄,亦為正格吉。左旋同。如此係偏斜下品。如此名方旋井欄,亦為正格,吉。如此係偏出凶脈。如此乃迎接井欄,亦為正格,吉。

「玉井欄峡」、今ただ図題と断語を存す。此一式は真正の玉井欄峡格、吉。此一式は「交互玉井欄」と呼び、もまた吉。此一式もまた井欄迎送の正格、吉。此一式は「右旋井欄」と呼び、同じく正格、吉。左旋の情形は相同じ。此一式は偏斜、下品に属す。此一式は「方旋井欄」と呼び、もまた正格、吉。此一式は偏出の凶脈。此一式は「迎接井欄」と呼び、もまた正格、吉。

方脈峽。如此乃脈從中出,謂之正峽,吉。如此乃偏出,不可言峽,左右同。如此乃中出正峽,吉。如此為偏出,不得言峽,凶。飛絲峽。此但為飛絲脈,亦是偏出,不吉。此偏出之脈,不可言峽。飛絲雖從中出,兩旁不勻,亦不是峽。

「方脈峡」、今ただ図題と断語を存す。此一式は脈は正中より出で、正峡と称し、吉。此一式は偏出、峡と算う能わず。左右両辺の情形は相同じ。此一式は中出の正峡、吉。此一式は偏出、峡と算う能わず、凶。「飛糸峡」。此一式はただ飛糸脈と算うる能うのみ、しかもまた偏出、不吉。此一式は偏出の脈、峡と算う能わず。此一式は飛糸は中間より出づるといえども、可なりしも両旁は不勻称、同じく峡に非ず。

三臺飛電峽。此三臺飛電之峽,第一上格。此偏出之脈,非峽也。金魚佩峽。此為正峽,主一品侯王,極貴。此為偏出之脈,不可言峽,大凶。此亦是脈從中出之峽,大凶。流星峽。此眞流星峽也,至貴,主出神童。此偏出之脈,不可言峽,大凶。此亦不謂之峽。此為偏出之脈,不謂之峽。

「三台飛電峡」、今ただ図題と断語を存す。此一式は三台飛電の峡、第一等の上格。此一式は偏出の脈、峡に非ず。「金魚佩峡」。此一式は正峡、一品侯王を出すを主り、極貴。此一式は偏出の脈、峡と算う能わず、大凶。此一式はもまた脈の中より出づる峡なるも、却って大凶と断ず。「流星峡」。此一式は真流星峡、極貴、神童を出すを主す。此一式は偏出の脈、峡と算う能わず、大凶。此一式もまた峡と称す能わず。此一式は偏出の脈、同じく峡と算えず。

釵股峽。此乃正釵股峽格也,吉。此為偏出,不可言峽。玉帶峽。此為玉帶峽正格,主貴。此偏尤甚,何可言峽?此偏脈,極凶。方城峽。此為正峽,最貴。此亦正峽,最貴。此偏出之龍,不問左右,皆凶。玉池峽。此池當脈,至貴。此脈從池中過,兩畔皆水,大貴。此脈偏出,不可謂峽,凶。

「釵股峡」、今ただ図題と断語を存す。此一式は正釵股峡格、吉。此一式は偏出、峡と算う能わず。「玉帯峡」。此一式は玉帯峡の正格、貴を主す。此一式は偏ることさらに厳害、怎んぞ峡と呼ぶ能わんや。此一式は偏脈、極凶。「方城峡」。此一式は正峡、最も貴。此一式もまた正峡、最も貴。此一式は偏出の龍、偏左偏右を論ぜず、皆凶。「玉池峡」。此一式は池塘は正しく脈前に当たり、極貴。此一式は脈は池中より穿り過ぎ、両辺皆水、大貴。此一式は脈の偏出、峡と称す能わず、凶。

按:蔡西山曰:“峽之為格,其名不一,茲但舉其形體與正格相類,而脈從旁落者辨明之。大抵迴環如峽,而脈從中出,則乃所謂峽也。若迴環如峽,而脈從峽兩旁出,則是偏行之龍,不可謂之峽。今世俗之見,不問脈在中及在左右,但形體如峽,即以峽名,何其謬耶!夫所謂峽者,謂關峽之類。峽以蔽龍,關以收局。今脈在旁而猶謂之峽,則是兩旁惟一旁有蔽,一畔孤露風寒,何以謂之峽與?故錄諸格以見其旨焉。”

我が按ずるに、蔡元定は言う。峡の格式名目は一ならず、ここはただあの形体は正格と相似て而して脈は却って旁边より落下するの例を挙げて以て辮明を加う。大体言えば、両旁は回環して個の峡の如くして、而して脈は中間より出づれば、これ才かにいわゆる峡。若し両旁は回環して峡の如くして、脈は却って峡の両旁より出づれば、あればすなわち偏行の龍、峡と呼ぶ能わず。如今世俗の見は、脈の中間に在るや左右に在るやを問わず、ただ形体は峡の如くあればすなわちそれを峡と呼ぶ。何の荒謬ぞ。いわゆる「峡」は、本是れ関峡の一類のもの。峡は以て龍を遮蔽し、関は以て局面を収攏す。如今脈は旁边に在りてなおそれを峡と呼べば、すなわち両旁にただ一旁のみ遮蔽あり、別の一辺は孤零零として風に当たり寒を受くるに等し。怎んぞ峡と称する能わんや。だからこれらの格式を記録し、好くその中の旨意を顕明せんとす。

張子微の峡訣

子微《峽訣》共二十格圖。幕內美女照妝臺,出皇后、貴妃及一品夫人。出臺鼎大貴。此出神仙、清高貴人,吉。出大貴。此至貴。主大富貴,王侯地位。出內相翰苑才名。出豪貴。出將入相,先斬後奏。至貴。出禁穴。出王侯。濁富。大貴大凶。出妖術賊將等,大凶。出草冦大盜,極凶。主貴。半吉。半吉。大凶。

張子微の『峡訣』は共に二十格の図。今ただ各図の断語を存す。その一:帳幕の内、美女は妆台に対して鏡を照らす。皇后・貴妃および一品夫人を出すを主す。その二:宰輔台鼎一級の大貴を出す。その三:神仙と清高貴人を出す、吉。その四:大貴を出す。その五:極貴。その六:大富大貴・位は王侯に至るを主す。その七:内廷の宰輔・翰林院の文名の士を出す。その八:豪門の顕貴を出す。その九:将を出でて相に入り、先斬後奏の権あり。その十:極貴。その十一:皇家の禁穴を出す。その十二:王侯を出す。その十三:富みて清からず、濁富に属す。その十四:大貴にして却って大凶。その十五:妖術の士・盗賊の将領等を出す、大凶。その十六:草寇大盗を出す、極凶。その十七:貴を主す。その十八:半吉。その十九:半吉。その二十:大凶。

上張子微《峽訣》二十格,皆以左右護峽之形狀吉凶,定峽之美惡者也。以上峽圖,載為式耳。山形變化,豈止於斯?智者察其情性之眞,觸類而長之可也。夫蔡氏之論龍脈者,固有偏中之正,正中之偏,有似偏而實正,似正而實偏。有正出而偏落,有偏出而正落,有前偏而後變於正者,前正而後變於偏者。有脈雖偏於一邊,而外山照應親切,不至風吹者。有星頂正於左邊,而脈則出於右畔者。有星體偏於右邊,而左邊枝腳反多者。有雙脈相合者,有三脈五脈隱怪難明者,有石脈奇異及閃跡偷蹤偏正難辨者,有微而至於無形者,豈圖之所能盡哉!

以上の張子微の『峡訣』二十格は、皆左右の峡を護る山の形状の吉凶に凭りて、以て峡の美悪を判定す。前面に載する各種の峡図も、不过是れ范式と作すのみ。山形の変化は、豈にこれらのみに止まらんや。聡明の人はただその性情の真偽を体察し、触類旁通すればよい。蔡元定の論ずる所の龍脈は、本来より偏中の正・正中の偏あり、看似偏にして其の実正・看似正にして其の実偏なるあり。正出にして偏落するあり、偏出にして正落するあり。前段は偏にして後段は変じて正なるあり、前段は正にして後段は変じて偏なるあり。脈はたとい一辺に偏するも、而して外山の照応は親切にして風を受けるに至らざるあり。星頂は端にして正に左辺に在りて、脈は却って右辺より出づるあり。星体は右辺に偏して、左辺の枝脚は却って多きあり。双脈の相合するあり。三脈五脈の隠晦古怪にして看明し難きあり。石脈の奇異・および踪を閃かし跡を偷し・偏正辮じ難きあり。さらに細微にして几んど形なきに至るあり。これらは何れぞ几幅の図の窮尽し得る所ならんや。

其張子微之論護山者,則有不切之弊。如所謂玄魚、圭璧之吉應於兩旁,而或龍脈偏枯死弱,豈可以圭璧而謂之吉哉!蓋必以蔡氏為主,而子微之說兼之可也。大抵山形之微妙無窮,龍脈之變化不一,可以理推,難以形定。固有似吉而凶,似凶而吉者,有半吉半凶及可吉可凶者,有先吉後凶,有先凶後吉者。毫釐之間,禍福所繫,豈按圖索驥者可窺測哉!神而明之,存乎其人。

張子微の専ら護山を論ずるあの一套に至っては、すなわち切実ならざるの毛病あり。譬えば両旁に「玄魚」「圭璧」の形あれば便ち吉に応ずべしと説くも、万一龍脈の本身は偏枯死弱ならば、豈に圭璧の形に凭りてすなわち吉と断ず能わんや。だから応に蔡元定の説を以て主と為し、兼ねて張子微の説を采るを以て才かに对と為す。大体、山形の微妙は無窮無尽、龍脈の変化は一种に止まらず。ただ理を以て推求する能く、形状に凭りて死定し難し。確かに看似吉にして実凶・看似凶にして実吉なるあり、半吉半凶・吉たる可く凶たる可きあり、先吉後凶あり、もまた先凶後吉あり。毫厘の差、禍福はすなわちその間に繋がる。何れぞ図に照らして按図索驥する人の窺測し得る所ならんや。能く神会して洞明するや否やは、全く各人の自己に在り。

龍の枝脚橈棹を論ず

龍有貴賤美惡之不同,觀其枝腳橈棹而可見。蓋枝腳橈棹,龍之分氣也,其形體各以類從。故龍之長遠者,其枝腳橈棹亦長遠;龍之短小者,其枝腳橈棹亦短小。龍之吉者,其發為枝腳亦起星辰,帶貴氣;龍之凶者,其見於枝腳亦必惡陋,類凶形。是蓋龍氣吉凶不同,故迸露發洩於枝腳橈棹間,美惡情狀亦自不可掩耳。

龍に貴あり賤あり、美あり悪あり。その「枝脚」「橈棹」を看ればすなわち分辮する能う。枝脚橈棹は龍の分出せし気、形体は各々その類に按ず。だから龍は走ること長遠なれば、枝脚橈棹もまた長遠。龍は短小なれば、枝脚橈棹もまた短小。龍は吉なれば、発出する枝脚の上にもまた星辰を聳起し、貴気を帯ぶ。龍は凶なれば、枝脚の上に顕現するは必定醜悪鄙陋、形状は凶形に近し。これは龍気の吉凶同じからざるを以て、一旦枝脚橈棹の間より迸露発泄して出づれば、美悪の情状は自然に掩蔵し得住ず。

姑就易見者論之,如枝腳之山廣袤起伏,蕃衍擁從,或如倉如庫,如劍如印,如旗如鼓,或成天乙、太乙而侍立兩邊,或成御屏、展帳而蓋樂於後,或帶金箱玉印,或帶簡笏牙刀,或結天關地軸,或如武將文官,或類天馬貴人,或類龜蛇獅象,或如玉帶金章,或如玎璫珂佩,或拔若文筆,或連如串珠,或圓如覆釜傾鍾,或方若列屏貯櫃,或森若排衙唱喏,或擁如隊仗儀從,或濟濟如子孫丁壯之繁,或簇簇如奴僕畜養之眾,雲從霧集,侍衛森嚴,護定我身,不敢他往,此皆吉氣之發見者也。

姑く容易に看る得る方面に就いて言えば。枝脚の山は若し広濶綿延・起伏致あり、繁茂に簇擁随従し、或いは倉の如く庫の如く・剣の如く印の如く・旗の如く鼓の如し。或いは「天乙」「太乙」を成して両旁に侍立す。或いは「御屏」「展帳」を成して背後に於いて蓋山・楽山を作す。或いは金箱玉印を帯び、或いは簡笏牙刀を帯ぶ。或いは「天関」「地軸」を結成す。或いは武将文官の如く、或いは天馬貴人の如く、或いは亀蛇獅象の如し。或いは玉帯金章の如く、或いは叮当作響の玉佩の如し。或いは挺拔して文筆の如く、或いは相连して串珠の如し。或いは圓くして倒扣の釜・傾側の鐘の如く、或いは方くして排列の屏風・貯物の櫃の如し。或いは森然として衙役の排班唱喏の如く、或いは簇擁して儀仗随従の如し。或いは済済として子孫壮丁の衆多の如く、或いは密密として奴僕畜養の成群の如し。雲霧の如く聚拢して来たり、侍衛は森厳、龍身を護定し、他去るを敢てせず。これらは皆吉気の顕発して出づるの表現。

《明山寶鑑》云:“天以太乙者,富貴之本原;天祿天馬者,富貴之任用;文官武庫者,富貴之應驗;左輔右弼者,富貴之維持;男倉女庫者,富貴之設施。”廖氏云:“惟有本身枝腳重,隊仗眞得用。”大凡好砂,列於前者是客山,眾人所共。其在本身枝腳者,乃自家之物,一己之受用親切者也。故傅伯通云:“不貴其見而貴其不見”。廖氏云:“誰知不見乃為奇,福應沒差移。”

『明山宝鑑』は言う。天乙・太乙の二星は富貴の本原。天禄・天馬は富貴の任用。文官・武庫は富貴の応験。左輔・右弼は富貴の維繋。男倉・女庫は富貴の鋪陳。廖金精は言う。ただ本身の枝脚の厚重あるのみ、この一套の儀仗は才かに真に用い得上る。大凡好砂は、穴前に排するは客山に属し、是れ衆人の共有。本身の枝脚の上に長ずるは才かに自家のもの、是れ自己の貼身受用。だから傅伯通は言う。見る得るを以て貴と為さず、而して見えざるを以て貴と為す。廖金精は言う。誰か知らん、見えざるが却って奇特なるを、福報の応験は分毫差えず。

其或龍無枝腳橈棹者,謂之奴;雖有枝腳,不踴躍拔卓者,謂之弱;散漫委靡而無收拾者,謂之虛;反背無情而不顧本身者,謂之逆;凶惡尖利而反射本身者,謂之殺;拖拽太重而奔走東西者,謂之刦;及有枝腳不均,或邊有邊無,邊長邊短,邊順邊逆,邊美邊惡者,謂之病。

反対に、龍は若し根本に枝脚橈棹なければ、「奴」と呼ぶ。枝脚あるも踴躍挺拔せざれば、「弱」と呼ぶ。散漫萎靡にして收拾し得住ざれば、「虚」と呼ぶ。反背无情・本身を顧みざれば、「逆」と呼ぶ。凶悪尖利にして却って来たりて本身を刺射すれば、「殺」と呼ぶ。拖拽は過重にして東奔西走すれば、「劫」と呼ぶ。さらに枝脚の不均勻なるあり、或いは一辺あり一辺なし、一辺長し一辺短し、一辺順なり一辺逆なり、一辺美なり一辺悪なり、「病」と呼ぶ。

又或兩旁垂落,如拋槍揷竹、臥尸提籮,如繩如刀,如斬指斷頭,如茅葉之亂,死蛇之靡,灰囊投算、鵝頭鴨頸,種種不吉之形,皆凶氣之發見者也。似此龍神,縱有形穴,皆為不吉。若誤下之,主長病癆瘵而枉死少丁,或瘟癀災火而莫可援救,或官訟連年而田產退盡,或淫亂風聲而敗壞人倫,亦各以其類而應也。故橈棹枝腳為龍身發洩吉凶之驗,詎不信夫!具圖於後。

再び両旁に垂落して下る枝脚の、拋出の槍・插着の竹の如く、躺倒の尸首・提着の籮筐の如く、繩子の如く・刀の如く、斬断せる手指・砍下の頭顱の如く、乱茅葉の如く・死蛇の癱軟の如く、投擲の灰袋算籌の如く、鵝頭鴨頸の如き。種種の不吉の形は、皆凶気の顕発して出づるの表現。このような龍神は、たとえ形あり穴あるも、また一概に不吉。若しその中に誤葬せば、すなわち長年の疾病・癆瘵の身に纏いて年軽の者の枉死を主り、或いは瘟疫火災にして救援するに由なく、或いは官司連年にして田産は敗尽し、或いは淫乱の名の伝出して人倫を敗壊す。もまた各々その形状類別に按じて一一応験す。だから橈棹枝脚は正に龍身の吉凶を泄露するの憑証。怎んぞ信ぜざるを得んや。図は後面に列す。

此龍身枝腳間所帶諸貴格之略也。傅國師云:“凡後龍節節枝腳垂落處,要起星辰,成形像,如天馬、倉庫、交床、旌鼓、劍印、展帳、列屏、天乙、太乙、文官、武將等件,而順護龍身,前去必結大地。”《一粒粟》云“不貴其見而貴其不見”者,乃此謂矣。天乙、太乙主位居臺閣,日月、輔弼主位至公孤,玉佩、文武主王侯極品,男倉、女庫主人財富盛,展旗、頓戟主威武,左右侍從主尊榮,旗旄、誥軸、御屏、錦帳、馬旗、相臺主出將入相,印笏主神童狀元。

此図(図形は已に佚)の示す所は、是れ龍身の枝脚の間に帯ぶる所の各種の貴格の大略。傅国師は言う。凡そ後龍の節節の枝脚垂落の処は、皆星辰を聳起し形象を構成するを要す。天馬・倉庫・交床・旌鼓・剣印・展帳・列屏・天乙・太乙・文官・武将等々の如く、しかも勢に順いて龍身を護れば、前に往きて必定大地を結ぶ。『一粒粟』の言う所の「その見ゆるを貴ばずしてその見えざるを貴ぶ」、正にこれを指す。各形象の応験は。天乙・太乙は位の台閣に居るを主す。日月・輔弼は位の三公三孤に至るを主す。玉佩と文武の形は王侯極品を主す。男倉・女庫は人丁財貨の豊盛を主す。展旗・頓戟は威武を主す。左右の侍従は尊栄を主す。旗旄・誥軸・御屏・錦帳・馬旗・相台は将を出でて相に入るを主す。印笏は神童状元を出すを主す。

右龍身枝腳所帶諸凶之大略也。《快捷方式》云:“凡後龍枝腳節節垂落處,或尖利帶殺,或瘦弱崚嶒,或臃腫醜惡,反背走攛,或拖拽太重,或大小無倫,或長硬如槍,或細繞如索,或如重尸,或如斷頭,或如煙包,或如投算,種種丑形,則為凶惡,縱有形穴,亦不可下。

右図(図形は已に佚)の示す所は、是れ龍身枝脚の帯ぶる所の各種の凶形の大略。『捷径』は言う。凡そ後龍の枝脚節節垂落の処は、若し尖利にして殺を帯び、或いは痩弱嶙峋、或いは臃腫醜悪・反背して竄走し、或いは拖拽過重、或いは大小失倫、或いはまた長くまた硬くして一杆の槍の如く、或いは細細として纏繞して一条の索の如く、或いは重畳の尸首の如く、或いは断掉の頭顱の如く、或いは煙包の如く、或いは拋擲の算籌の如き。種種の醜形は皆凶悪に属す。縱然形あり穴あるも、また下葬すべからず。

左回龍顧祖之地,本身秀氣呈露於前,作我朝對。《經》云“未作穴時先作朝”是也。前謂“不貴其見而貴其不見”,若此者,見又何害?大抵貴通活變,莫泥陳言可也。以上所論龍身枝腳吉凶大概,皆以垂落之形言之,未及自身發出均勻、長短、有無之親切也。並述於後。

左図(図形は已に佚)は是れ回龍顧祖の地。本身の秀気は前方に呈露し、正に好く自己の朝山対案を充当す。『撼龍経』の言う「未だ穴を作さざる時先ず朝を作す」、すなわち此の種の情形。前面に講ずる「見る得るを以て貴と為さず、而して見えざるを以て貴と為す」、しかし此のような地の如きは、見る得るはまた何の妨げかある。総じて貴ぶは通達活変、成説に死守するなかれ。以上の討論する龍身枝脚の吉凶の大概は、皆枝脚垂落の形状に就いて説く。まだ枝脚自身の発出する時の均勻の与否・長短如何・有無怎様のこれらのさらに貼身の問題に談じ至らず。一併に後面に叙述す。

右龍身枝腳對節均勻之格,至貴。蓋龍身枝腳,貴其對節生出,兩邊均勻,有無、長短、大小相同,正脈中出,乃為上格。術家名曰梧桐枝。張子微曰“停均惟有梧桐枝,雙送雙迎兩平勢。對節分生作穿心,祖宗兒子都相類”是也。

右図(図形は已に佚)はこの条の龍、枝脚は節に対して生じ両辺均勻の格局、極めて貴重。龍身の枝脚は、貴ぶは成対にして同一の節上より生出し、両辺均勻。有無相同じ・長短相同じ・大小相同じ、正脈はまた中間より穿出す。これ才かに上格。術家はこれを「梧桐枝」と称す。張子微は言う。真正勻称のはただ梧桐枝、双送双迎、両辺の形勢は平斉。節に対して分生して正脈は心を穿る、祖宗と児孫の形貌は皆彼此相類す。説くは正にこの一格。

蔡西山云:“龍之所以貴其枝腳對生,如梧桐枝為龍中第一貴者,其理易見。今不問名花卉木,對生為貴。凡野生草木花卉,若對節間生枝發葉者,皆可為醫藥,用以拯疾。此可見天地間凡對生者,皆受天地之靈氣。人之手足筋骨,鳥獸之足翼,皆對生者也。其有藥中木瓜、荳蔻、縮砂、大黃、黃連、黃芩等,皆不對生,然卻有奇處,終與凡草有異。龍之奇者亦然。故之玄屈曲,與特地聳拔,又皆不可以穿心論。此惟圓機通變,知識過人者可與語此。”余按:西山此論精當明切,論龍枝腳之妙思過半矣。

蔡元定は言う。龍の枝脚の対生を以て貴と為す所以は、梧桐枝の如くして龍中の第一貴格と為る、道理は甚だ看明白し易し。如今何の名花草木を論ぜず、皆対生を以て貴と為す。凡そ野生の草木花卉は、若し是れ対節の処に枝を生じ葉を発すれば、大多は以て薬に入れて病を治す可し。これに由りて見る可し、天地の間は凡そ対生するは、皆天地の霊気を禀受せり。人の手足筋骨・鳥獣の双足双翼も、また皆是れ対生。薬材の中の木瓜・豆蔻・縮砂・大黄・黄連・黄芩等は並びに対生せざるといえども、却って自ら奇特の処あり、終に尋常の草木と同じからず。龍裏のあの奇特なるもまた此の如し。だから「之」の字「玄」の字の如く屈曲の龍・および格外聳拔の龍は、皆穿心の与否を拿りて以て衡量し去る能わず。この一層は、ただ心思の圓活通変・見識の人に過ぐる者のみ談じ得来る。我が按ずるに、蔡元定のこの番の議論は精当明白、龍枝脚の妙処を論じて、已に大半を講通せり。

右龍身枝腳橈棹雖長短不對,而交互停均,脈卻穿心,術家名曰芍藥枝格也。張子微云“一等名為芍藥枝,左右相生亦相似。分處光圓有枝葉,交互亦有停均理”是矣。愚謂此龍格枝腳雖長短不同,然左股或先一節長,必後一節短;右股雖先一節短,必後一節長。兩相抵對,卻有停均之理。況節節正脈穿心,雖左右長短不齊,不害其為貴龍也。

右図(図形は已に佚)はこの条の龍、枝脚橈棹は長短対を成さざるといえども、却って交錯して大致勻称、正脈は仍旧として心を穿りて出づ。術家は「芍薬枝」格と称す。張子微は言う。別に一種ありて芍薬枝と呼ぶ、左右相生の様子もまた彼此相似。分枝の処は光潤圓整、枝葉を帯び、交互の間は同じく勻称の道理あり。我は此の種の龍格の枝脚は長短一ならざるといえども、但し左辺の一股は若し前一節長ければ、後一節は必定短し。右辺の一股は若し前一節短ければ、後一節は必定長し。両相抵補し、仍お勻称の理ありと認む。況んや節節皆正脈穿心、たとえ左右の長短不斉なるも、またそれの貴龍と為るを妨げず。

左圖龍身枝腳雖不對節,而左右交互停均,術家名曰蒹葭葉。子微云:“左有右無過一節,右有左無本非異。此名原是蒹葭樣,但要星辰得地位。”愚按:此與梧桐枝對節力量殊異,而與芍藥枝頗同,其枝葉亦是來去開枝,但枝末多生丫丫,帶力差重者也。此蒹葭葉枝末無丫,故力輕耳。然力量雖有不同,融結本無二理,烏可以其力輕而棄之?

左図(図形は已に佚)はこの条の龍、枝脚は対節を成さざるといえども、可なりしも左右は交錯して大致勻称。術家は「蒹葭葉」と称す。張子微は言う。左辺あり右辺なし、一節を過ぎてまた反す。右辺あり左辺なし、本来もまた怪と算えず。この名目は原よりすなわち蒹葭様と呼ぶ。ただ星辰の処する方位の得当なればよい。我が按ずるに、この一格は梧桐枝対節と相較べて力量は大いに同じからず、而して芍薬枝と頗る接近す。芍薬枝の枝葉もまた一来一去に開出し、ただ枝梢の上に小杈を多生す。だから帯ぶる力量は略々重き些。蒹葭葉の枝梢は小杈なし。ここにおいて力量は軽し。ただし力量は大小あるといえども、結作の道理は本来並びに両样なし。怎んぞそれの力軽きを因として棄置して用いざるを得んや。

右龍一邊有枝腳而長,一邊微有枝腳之狀,術家名曰楊柳枝。子微:“又有偏生楊柳枝,邊有邊無極乖異。”又謂:“若有形穴,纏送山周密,亦可下。”愚謂此等龍,公位不均,一位富足多子,一位貧寒廢疾絕嗣,偏枯太甚,縱有形穴,亦不可下。公位雖不必泥,然若此者,計子孫利害之重,亦當審擇可也。

右図(図形は已に佚)はこの条の龍、一辺は枝脚ありしかも長し、別の一辺はただ略々一点の枝脚の様子のみ。術家は「楊柳枝」と称す。張子微は言う。また一種の偏生の楊柳枝あり、一辺あり一辺なし、極めて乖異。彼はまた言う。若し是れ形あり穴あり、纏護送従の山は周密なれば、もまた以て下葬す可し。我は此の類の龍は各房の福分を不均ならしむと認む。一房は富足多子、別の一房は貧寒残疾にして以て嗣を絶つに至る。偏枯するや太く厳害。たとえ形あり穴あるも、また下葬すべからず。「公位」の説は必ずしも死摳せざるも、但し此の種の情形に遇えば、子孫の利害重大を考慮し、も応に慎重選択すべし。

左龍一邊有枝腳,一邊全無枝腳,乃是奴龍,不結地也。其有腳邊乃為山面,以顧乎主,無腳邊乃為山背耳。張子微謂此格合柳星亦能出貴,但公位偏枯。愚謂此等龍是奴僕之山,決無融結道理。雖合柳星,有形穴,亦當棄置,不可下也。子微雖或有見,予不敢附和耳。

左図(図形は已に佚)はこの条の龍、一辺は枝脚あり、別の一辺は完全になし。これは「奴龍」、地を結ぶ能わず。脚あるあの一辺は山の正面、以てその侍奉する所の主龍を照顧す。脚なきあの一辺はただ山背のみ。張子微はこの一格は若し「柳星」に合せばもまた能く貴を出すと認むも、ただ各房の福分は偏枯。我は此の種の龍は本是れ奴僕の山、決して結作の道理なし、たとえ柳星に合し看て形あり穴あるも、も応に棄置して用いず、下葬すべからずと認む。張子微は或いは自ら彼の見地あらん、我は却って附和を敢てせず。

大抵龍之枝腳,貴於均勻為美。如人手足,如鳥獸之翼腳,缺一邊則不能飛走,其不至於廢棄也寡矣。此理勢之必然,不待智者而後知也。地理之與物理,相為流通者也,奚可以差殊觀哉!

大体、龍の枝脚は均勻を以て美と為す。これは人の手足・鳥獣の翅膀と腿脚の如し。一辺を缺けばすなわち飛び動かず走る能わず、廃棄の地步に落ち至らざるは尠し。これは事理の必然此の如く、聡明の人の点破を待つを必とせず。地理の道は万物の理と本来より彼此相通ず。怎んぞ以て両回事と作して看るを得んや。

右龍枝腳一邊長一邊短,本自不均。卻是節節中出,其枝短一旁又有一大枝纏送到頭,亦為貴格。術家謂之捲簾殿試格。張子微云“卻有偏生極貴龍,名為捲簾登殿試,不問偏斜,黃甲及第”是也。

右図(図形は已に佚)はこの条の龍、枝脚は一辺長く一辺短く、本来不均勻。しかしそれは節節皆正中より脈を出で、しかも枝脚短きあの一側に別に一条の大枝ありて一路纏護して頭に送る。だから仍お貴格と算う。術家は「巻簾殿試」格と称す。張子微は言う。もまた一種の偏生の極貴の龍あり、名は巻簾登殿試。その偏斜の与否を管せず、照样に能く金榜題名す。説くは正にこの一格。

右龍雖一邊枝腳長,一邊枝腳短,本自不均。然短邊卻傍祖山,貼身障護,又不可以長短不均論也。諺云“一祖當千山”,如人之奴僕、護從雖多,不若祖宗之庇廕福澤所及為大也。

右図(図形は已に佚)はこの条の龍、たとい一辺の枝脚長く一辺の枝脚短く、本来不均勻なれども、但し短きあの一辺は正に祖山に靠り、祖山は身に貼いて遮擋護衛す。すなわち再び長短不均を拿りて来たりて評論する能わず。諺語は言う「一祖は千山に当たる」。譬えば一個人の奴僕随従は再び多しとも、また祖宗の庇蔭の帯来する所の福沢の深厚に比べ及ばざるが如し。

左龍枝腳一畔美一畔惡也。大凡龍神枝腳,欲其兩邊均勻為美。若一邊好,一邊不好,或邊有邊無,邊長邊短,邊順邊逆,邊多邊少,皆為不吉,縱有形穴,亦不可下。龍之枝腳橈棹,亦如人之手足,固宜其長而忌其短。然亦有短而吉者,須是節節均勻,從中出脈,兩邊護山貼身纏從方可。即術家所謂蜈蚣節龍格也(如右圖)。張子微云:“兩旁有護,極清極貴。”《發揮》云:“此格腳短,必假外山纏護周密,而後可以極其清貴。”愚謂此等龍須要到頭穴星開窩開鉗,有龍有虎,不假外山護衛而穴場自暖方可。否則不吉,不可下也。

左図(図形は已に佚)はこの条の龍、枝脚は一辺美なり一辺悪なり。大凡龍神の枝脚は皆両辺均勻を以て美と為す。若し一辺好く一辺好からず、或いは一辺あり一辺なし、一辺長し一辺短し、一辺順なり一辺逆なり、一辺多し一辺少なし。皆不吉に属す。縱然形あり穴あるも、また下葬すべからず。龍の枝脚橈棹は人の手足に譬う。本応に長を以て宜と為し短を以て忌と為す。ただしもまた短にして吉なるあり、あれは必ず節節均勻・脈は正中より出で・両旁また護山ありて身に貼いて纏随して才かに行く。これがすなわち術家の言う所の「蜈蚣節」龍格(右図の如し)。張子微は言う。両旁に護衛あり、極清極貴。『発揮』は言う。この一格は枝脚短し、必ず外山の纏護周密を借助して、然る後に才かにその清貴を極むる能う。我は此の類の龍はさらに必ず頭に到る処の穴星は能く窩を開き鉗を開き、本身に青龍白虎あり、外山の護衛を借せずして穴場は自然に温暖ならんことを要して、才かに合格と算うと認む。否然ればすなわち不吉、下葬すべからず。

左龍全身活動擺折,如生蛇出洞、仙帶飄空,即蘆鞭嫋、之玄龍、九天飛帛等格也。此等龍不論枝腳,但要纏從周密,又必起頂結穴,有本身龍虎,不藉外山而穴自暖,乃為眞結。此格最貴。若出自臺屏帳蓋之下者,主神童狀元,才名冠世。

左図(図形は已に佚)はこの条の龍は通身霊活擺折、活蛇の洞を出づるが如く、仙人の飄帯の凌空舞動するが如く、すなわち「芦鞭嫋」「之玄龍」「九天飛帛」の此一類の格局。此の種の龍は必ずしも枝脚を論ぜず、ただ纏護随従周密にして、しかも必定頂を起ちて結穴し、本身に青龍白虎あり、外山に靠らずして穴場は自然に温暖なれば、才かに真結作と算う。この一格は最も貴重。若しそれは台・屏・帳・蓋の一類の貴格の下より出づれば、すなわち神童状元を出すを主り、才名は当世に冠絶す。

以上所論龍身枝腳橈棹之美惡,及均勻、長短、有無等說,姑就淺近者言耳。至於大龍,又難如此拘執。蔡文節公曰:“迎送、交互、手腳、橈棹,此看龍之常法也。然大龍漸近融結處,多是單行,無手腳橈棹可見。其逶迤轉折,平行低度,狀如流水。或忽然斷絕,無蹤可尋;或小如引線,不認悠往。

以上は龍身枝脚橈棹の美悪、および均勻・長短・有無等の説法を討論し、姑くただ浅近の処に就いて言う。大龍に至っては、すなわちこのように成規に死守し難し。蔡元定(文節と諡す)は言う。迎送・交互・手脚・橈棹、これらは是れ龍を看るの常法。しかし大龍は愈々結作の処に接近すれば、多半は単身独行、何の手脚橈棹をも見えず。それは逶迤転折し、低平地に一路行き去り、形状は流水の如し。或る時忽然断絶し、蹤あって尋ぬる可からず。或る時細小なること一条の引線の如く、人をしてそれが悠悠として何の処に向かい去るを認め出さしめず。

其低平之處,或為平田曠野,橫闊多至數十里。或為溝池田疇,或為人煙園塹,或為小關墟市。或迥無人居,彌望無際;或渺茫沙阜,不堪步履;或隱隱隆隆,忽似黿鼉;或堆堆累累,忽如古墓。前去則逢瀰漫巨浸,江湖交會,然無山可依,無形可辨。此大龍之大盡處也。巨眼見此,知為大地,或可為京畿,或可為藩鎮。從頭檢點,來龍分明,纏護無缺,之玄曲屈,手足擺佈,無不具備,特人不識造化之廣狹耳。”

それの低平なるあの一段は、或いは平田曠野、横寛は常に幾十里に達す。或いは溝渠池塘田疇、或いは人家園圃壕塹、或いは小関口と墟集市鎮。或るものは荒れて人煙なく、一望に辺なし。或るものは渺茫の沙丘、脚も踏み上ぐる能わず。或るものは隠隠隆隆、忽然として一只の大黿大鰐の如し。或るものは堆堆累累、忽然として一座の古墓の如し。再び前に往けばすなわち浩渺の大水に遇い、江湖交会す。しかし再び依傍す可き山なく、分辮す可き形状なし。これがすなわち大龍の大尽頭。眼力大なる人は此の種の処を見れば、すなわち是れ大地なるを知り、或いは以て京畿を作す可く、或いは以て藩鎮を作す可し。頭より細細として査点すれば、来龍分明、纏護は缺口なく、之字玄字の如く屈曲し、手足枝脚の布置は一として備わらざるなし。ただ常人は造化格局の広狭を識得せざるのみ。

愚按:此論大龍,不可以枝腳橈棹常法拘之,最為切當。子微亦云:“且如龍行看送迎,手腳交接如蟹動。”不知大龍百十里,或數十里,俗眼以常法拘之,豈能識此?是故龍身橈棹枝腳之說,又須辨認龍之枝幹大小,而後始盡其微妙。若徒以常法拘之,則未免坎蛙之見矣。

我が按ずるに、この段の大龍は枝脚橈棹の常法を拿りて去りて拘泥する能わずを論ずるは、最も切当。張子微もまた言う。龍の行走を看るは迎送を看るを要し、手脚の交接は螃蟹の爬動の如し。しかし人々は大龍は一走ればすなわち百十里・幾十里なるを知らず、俗人の眼光はただ常法を用いて去りて套す。怎んぞ認め出さんことを能くせんや。だから龍身橈棹枝脚に関する種種の説法は、さらに必ず先ずこの条の龍の究竟是れ枝か干か・是大か小かを辮明して、然る後に才かにその中の微妙を窮尽する能う。若し一味に常法を用いて去りて死套せば、すなわち井底の蛙の見識を免れ難し。

龍の護送を論ず

《黑囊經》云:“龍要有蓋送,蓋送龍神重。”《發揮》云:“貴龍全在護從多。”卜氏云:“德不孤,必有鄰,看他護從。”《龍經》云:“眞龍身上多護衛,山水有情來拱揖。”又云:“只有眞龍坐局內,亂山卻在外為纏。”又云:“纏多不許外山走,那堪長遠作水口?送從托山若兩全,富貴雙全眞罕有。”是皆言眞龍融結,必有護從迎送諸山以衛區之。

『黒嚢経』は言う。龍は蓋山送山あるを要し、蓋送あれば、龍神は才かに厚重。『発揮』は言う。貴龍は全く護従の山の多きに在り。卜応天は言う。徳ある人は孤单せず、必定隣居の相伴するあり。看るはすなわちその護従。『撼龍経』は言う。真龍の身上は護衛甚だ多く、山水は皆情を含みて前に来たりて拱手作揖す。又言う。ただ真龍は局内に端坐し、雑乱の群山は却って外面に於いて纏護を充当す。又言う。纏護多ければすなわち外山の走散を許さず、況んやさらに遠く去りて水口を作さんをや。送従の山と背後の托山は若し能く両全せば、富貴双倶の地は実に少有。これらの話は皆説く、真龍の結作する時は必定護従迎送の諸山ありて来たりてこの一片の区域を衛護す。

如大貴人出入,必前呼後擁,行者辟易,觀者環堵。居則侍妾數百人,或兵卒數千輩,披堅執銳,以護衛之。張子微云:“王侯簇衛須隨從,出入坐起多迎送。”又云:“萬卒影從成禁衛,千官環列是朝廷。”莫非取諭眞龍有眾山之擁從耳。

これは大貴人の出行に譬うれば、必定前呼後擁、路人は紛紛として避譲し、熱鬧を看るは一堵の墻を圍成す。居家すれば則ち侍妾数百人あり、或いは士卒数千名あり、身は堅甲を披り手は利刃を執りて彼を護衛す。張子微は言う。王侯の身辺に簇擁する衛隊は必ず随従あり、出入起居は皆許多の迎送あり。又言う。万名の士卒は影の如く形に随えば便ち禁衛を成し、千名の官員は側に環列すれば便ち朝廷なり。これらは無非是れ拿りて来たりて真龍に群山の擁護随従あるを比喻するのみ。

其單獨孤寒之龍,如貧賤之人,家徒四壁,室如懸磬,妻子且無,況奴僕使令者乎?及其出外,遍國中無與立談者,況隨從呵殿者乎?故單寒之龍,最為無用,前去多作神壇社廟而已。楊公云:“若是孤行無護衛,定作神祠佛道宮。”張子微云:“孤生獨活無人伴,只好焚香作廟居。”

あの孤单寒素の龍に至っては、すなわち貧賤の人の如し。家裏はただ四堵の墻を剩し、屋中は空きて掛起せる磬の如く、妻子児女すらなし。況んや使喚に供する奴僕をや。彼は門を出でて外に在れば、満城に一個の肯んじて站住して彼と説話する人を找し得ず。況んや前呼後擁の随従をや。だから孤寒の龍は最も用处なし。前に往けば多半ただ神坛社廟を作すのみ。楊筠松は言う。若し孤零零として走りて護衛なければ、一定ただ神祠仏寺道観を作す。張子微は言う。孤生独活して伴侣なければ、只好く人をしてあそこに於いて香を焚き廟を建てしむ。

然龍固貴於有護從,尤貴於護從多。蓋護從多則地愈大。《經》云:“護從多愛到穴前,三重五重福綿延。一重護衛一代貴,護衛十重宰相地。兩重亦主典專城,一重只出丞簿尉。”又云:“尋龍千萬看纏山,一重纏是一重關。關門若有十重鎖,定有王侯居此間。”

龍は固然より護従あるを以て貴と為し、さらに護従多きを以て貴と為す。護従は愈々多ければ、地はすなわち愈々大なるを以て。『撼龍経』は言う。護従の山は最も好きは皆穴前に伸び来たり、三重五重あれば、福沢はすなわち綿長。一重の護衛は一代の貴を出し、十重の護衛は便ち宰相の地。両重もまた一城の政を執掌するを主り、ただ一重のみあればすなわちただ県丞・主簿・県尉の此の類の小官を出す能うのみ。又言う。龍を尋ぬるは千万纏護の山を看るを要し、一重の纏護はすなわち一重の関口。関門若し十重の鎖閉あれば、あそこは一定王侯住む。

范越鳳云:“大富大貴之地,如大官行衙,前呼後擁之多。小地如小官出入,從者不過數人而已。”又有長短大小之分。龍大則纏護山亦大,龍長則纏護山亦長。短小之龍,纏護之山亦只短小而已。《經》云“護纏亦自有大小,大小隨龍長短來。龍長纏護亦長遠,龍短纏護亦近挨”是也。

范越鳳は言う。大富大貴の地は、好比は大官の出巡して衙を開く、前呼後擁の人は極めて多し。小地は好比は小官の出入、随従は不过几个人のみ。此の外さらに長短大小の分あり。龍大なれば、纏護の山もまた大。龍長ければ、纏護の山もまた長し。短小の龍は、纏護の山もまたただ短小のみ。『撼龍経』は言う「護纏もまた自ら大小あり、大小は龍の長短に随いて来たる。龍長ければ、纏護もまた長遠。龍短ければ、纏護もまたただ身旁に貼近す」、すなわちこの意思。

枝龍必須纏護周密,朝迎秀異,送從齊整,下手重疊,方有結作。不可以一山有情而取之。《經》云:“枝龍身上亦可裁,半是虛花半是開。若是虛花無朝應,若是結實護纏回。護纏定要觀疊數,一疊回來龍身顧,莫便將為眞實看,恐是護龍葉交互。三重五重抱回來,此就枝龍身上做。”

枝龍は必ず纏護周密・朝迎の山秀麗出衆・送従の山斉整・下手砂重重叠叠にして、才かに結作あり。ただ一座の山の有情に凭りてすなわちそれを選定すべからず。『撼龍経』は言う。枝龍の身上もまた以て穴場を裁取する可きも、ただ一半是れ虚花・一半是れ真開。若し虚花に属せば、すなわち朝山の呼応なし。若し是れ真結なれば、護纏の山は便ち回環して内に向かう。護纏を看るは一定要ずそれに几重あるを数えるを要す。ただ一重の回抱・龍身を顧るのみあれば、すなわち真と作すを要せず。恐らくはただ龍を護る枝葉の彼此交錯するのみ。必ず三重五重の抱転して回るありて、あれ才かに枝龍の身上に做り出す真結なり。

幹龍則取遠迎遠送、大纏大護,在眼界寬闊中認之。張子微云:“大地迎送隔江水。”又云:“大龍行到水盡頭,或作州縣回迤逞。必有高山作外纏,不在身旁數十里。”《龍經》云:“不知幹長纏亦長,外州外縣山為伴。”又云:“大凡幹龍行盡處,外山隔水來相顧。”

干龍は則ち遠処の迎送・大範囲の纏護を取るを要し、必ず開濶の視野の中に於いて辮認するを要す。張子微は言う。大地の迎送は江水を隔つ。又言う。大龍は水の尽頭に走り至れば、或るものは州治県治を結成し、回環舒展す。必定高山ありて外圍に於いて纏護を作し、しかも身旁に在らず、往往として遠く幾十里の外に在り。『撼龍経』は言う。人々は干龍長きを知らず、纏護もまた長し、外州外県の山は皆来たりて伴を作す。又言う。凡そ干龍は尽頭に走り至るの処、外山は水を隔てて前に来たりて相互照顧す。

《玉髓經》云:“大龍迎送、倉庫,皆非本身自帶。如大官出入,自有部封屬境,節次措辦供帳、次舍、倉庫、委積,以候其求,而貴人不過隨帶騶從而往耳。”每經過處,無不聚起觀瞻,翕集迎送。大龍之行,無以異此。小龍如小官出入,凡需用之物,莫不自帶。又如富人出入,器皿帷幙,莫不畢備。然皆自己之物,不容取於他人。但車馬齊整,人從偉燁,經過未嘗不起觀瞻,或有莊佃參覿也。

『玉髄経』は言う。大龍の迎送の山と倉庫の砂は、皆本身自帯に非ず。好比は大官の出行、沿途は自ら所属の州县あり、站次に按じて預め帳幕・館舎・倉儲・物資を備辨し、彼の随時取用を待つ。而してこの位の貴人は不过幾名の随従騎手を帯びて前に往くのみ。彼は一処を経過する毎に、衆人の聚集観看・紛紛迎送を引致せざるなし。大龍の行走の情形はこれと毫も二致なし。小龍は則ち小官の出行の如く、凡そ需用の物は無くして自ら帯びざるなし。また富人の出門の如く、器皿帷幕は样样斉備すといえども、可なりしもあれは皆自家のもの、別人に索取する能わず。ただ車馬は斉整、随従は光鮮、経過する時もまた未だ嘗て人の観看を引かざるなし、或いは荘戸佃客ありて前に来たりて参見す。

大小龍之別如此,故大龍迎送、纏護諸山,各有龍脈奔來,與正龍隔水相會以為用。然不可一概取遠者為護,而於空曠受風處,亦指遠山為侍從。竊恐無識者睥睨大地,被野師所誑,而以單獨凶龍為結大地,強指遠山作纏護,執《玉髓》之說以藉其口。是又為圖大所惑也,切要入穴不受風為眞。

大龍小龍の分別はすなわち此の如し。だから大龍の迎送と纏護の諸山は、各自別に龍脈ありて奔湧して来たり、水を隔てて正龍と会合し、正龍の取用に供す。ただしもまた一概に遠山を把りて皆護従と当て、甚至くは空曠受風の処に於いても遠山を指して侍从と説くべからず。我の擔心するは、見識なき人は大地を妄想し、江湖術士に騙されて、孤单の凶龍を説きて大地を結ぶと為し、硬く遠山を指して纏護を作し、さらに『玉髄経』の説法を搬出して来たりて以て借口と当つ。あればすなわちまた「図大」の二字に迷惑せらる。最も緊要の一条は、穴に入るの処は風を受けずして、才かに真と算う。

故凡護山,必有近者為侍為從,而又有遠者為纏為迎方可。且其緊要過峽關節去處,必以近者為準。譬如奴僕,近在身側,則驅使得力。若去身已遠,則呼喚未及,使令不便,安能得其力哉!又須稍高大,不可太低小,如幼童侍衛我旁。彼幼無知,不能勝我驅使之任矣;然亦不可太高大,有奴來欺主之狀。只宜相稱於大小高低遠近之間,斯盡其妙。智士胸中自當有活潑之機也,豈筆端所能悉哉!

だから凡そ護山を講ずるは、必ず近処に山ありて侍従を作し、遠処また山ありて纏護迎接を作して、才かに完備と算う。しかも峡を過ぐるの此の類の緊要関節の処に於いては、一定要ず近処の護山を以て準と為す。これは奴僕に譬うれば、身辺に近ければ才かに使喚し動かす得。若し身を離るるや已に遠ければ、招呼は及ばず・差遣は方便ならず。怎んぞ彼の助力を得んや。護山はさらに必ず稍稍高大なるを要し、太く低小なるべからず。否然ればすなわち幼童をして旁に侍立せしむるが如し。彼は年幼無知、我の駆使に供するの職責を擔い起す能わず。然而るにまた太く高大なるべからず。あれはまた奴僕の欺圧主人の様子と成る。ただ応に大小・高低・遠近の間に於いて彼此相称して、才かにその中の妙処を窮尽すと算う。聡明の人は心中自ら一副の活溌の機変あり。これは何れぞ筆墨の説き尽し得る所ならんや。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.