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郢中重刻自序

明 · 徐善继、徐善述 · 第2巻 / 56

作盤ガイド: 玄空飛星の作盤, 暦注(黄暦)

不侫曩以先人襄事,與季兄究心堪輿家,間有一得,筆之為書,名曰《人子須知》。鉛山見溪王君、書林餘氏雖嘗兩刻,病其未備,每欲再訂,弗暇也。辛巳夏,中丞王公、太史李公召入郢。明年春,又知遇司空曾公,客郢兩寅,頗多隙日。乃取前書緒正之。會季兄亦自荊南來,更相與討論潤色,刪繁補遺,較昔所著,合者十又四五。錄成,司空不鄙,校梓廣傳。

私は以前、先人の喪事を執り行ったことから、兄とともに堪舆の学を専心研究し、その間偶々心得るところがあれば、筆録して書と成し、名を『人子須知』と取った。鉛山の見溪王君と書林余氏が先後して二度刻したが、私はつねにその不完備を嫌い、屢々改めて訂正しようと思いながら工夫を抽出できなかった。万暦九年辛巳の夏、中丞王公と太史李公が私を郢中に召した。第二年の春、また司空曽公の知遇を蒙った。郢中に客居すること二年、空閑の日が頗る多く、そこで旧書を取り出して整理訂正を加えた。折しも兄も荊南から駆けつけ、兄弟は改めてともに討論潤色し、繁冗を刪去し遺漏を補い、従前の著述と比べて、なお相合するのは十分の四五にすぎなかった。整理して稿を成すと、曽司空は鄙陋を嫌わず、校訂して付梓し流伝を広めた。

第蠡測管窺,極知不可以為訓。念吾兄弟,自少遨遊四方,今顛毛種種矣。三十年間,心力盡在此編。敝帚千金,不忍遽棄耳。或誚余嘗從薦紳談性命之學,何屑屑於此,迷而不返?余謂西山先生父子及草廬吳公,皆儒者宗,嘗著《發微論》,發揮《玉髓》,刪定《葬書》,君子不以此少之。即朱子所上《山陵議狀》,有味哉其言之也!

ただ私のこの見識は瓢を以て海を量り管の中から天を窺うにすぎず、訓条を立てるに足らないことはよく知っている。思うに我ら兄弟は幼少より四方に奔走し、いま頭髪はすでに斑白にして稀疏となった。三十年の間、一生の心力を皆この書に費やした。自家の破れた箒は千金より重く見るもので、実に棄てると言うに忍びない。或る人が私を譏笑した。あなたはかつて士紳たちと性命の学を談じたのに、どうしてこの種の小道に斤斤とし、執迷して返らないのか、と。私は答えた。蔡西山先生父子と草廬呉澄先生は皆儒者の中の宗師であり、彼らは『発微論』を著し『玉髄真経』を発揮し『葬書』を刪定したが、君子はこれを以て彼らを看軽しない。朱熹の上した『山陵議状』に至っては、その中の言葉も甚だ分量があって味わい深いではないか。

且送終,人子大事,而付之庸師之手,天親之謂何?餘為此舉,凡以共子職而已。天下豈有無親之人哉!敬與為人子者共之。高明之士,竄定紕繆,出特見以相長,尤所願也。萬曆癸未春月吉旦山人徐善述書於郢中之陽春書屋。

まして送終は人子の大事であり、これを庸俗な地師の手に交すなら、天倫骨肉の親を何物と看做すか。私がこの事を為すのは、ほかならず子の職分を尽くすためである。天下に父母のない人があろうか。私は恭しくこの書を取ってすべての子たる者とともに分かち享く。もし高明の士があってその中の疏漏錯誤を改正し、独得の見解を提出して彼此切磋して長進できたなら、それはさらに私の盼望するところである。万暦十一年癸未春月吉日、山人徐善述が郢中の陽春書屋にて書す。

引用諸名家堪舆書目

《青囊經》秦之隱君子體易而作,陳希夷註釋稱《天機書》。按:世言堪輿家為青囊術,蓋祖此耳。《青烏經》秦青烏子著。《搜山記》漢朱桃仙著。《赤霆經》漢留侯張子房著。《六甲配卦圖》漢京房著。《狐首經》按:曾葛溪謂得之沈氏萬卷樓中,無作者名氏。郭璞《葬書》所引之《經》即一也。《錦囊經》即《葬書》,晉叅軍河東郭璞著,宋西山蔡文節公訂定,草廬吳文正公刪定。《捉脈賦》晉太尉長沙公鄱陽陶侃著。侃將葬母,失牛,遇異人指牛眠穴,位至三公。今催官說始此。

『青嚢経』は、秦代の一人の隠居した君子が『易』理を体察して作ったもので、陳摶がそれに注を作った時『天機書』と称した。按:世が堪舆を「青嚢術」と称するのは、源がこの書にある。『青烏経』は秦代の青烏子が著した。『捜山記』は漢代の朱桃仙が著した。『赤霆経』は漢代の留侯張良が著した。『六甲配卦図』は漢代の京房が著した。『狐首経』は、按:元の曾葛溪がこの書は沈氏の万巻楼より得たと言い、作者の姓名がない。郭璞『葬書』の引くところの「経に曰く」と称するあの経は、これである。『錦嚢経』はすなわち『葬書』で、晋代の参軍・河東人の郭璞が著し、宋代の蔡西山(文節公)が訂定し、元代の呉澄(草廬・文正公)が刪定した。『捉脈賦』は晋代の太尉・長沙公・鄱陽人の陶侃が著した。陶侃が母を安葬しようとした時牛を走失し、異人に遇って「牛眠穴」一処を指し示され、後に官は三公に至った。今言うところの「催官」の説はここから始まる。

《小卷陰陽正要》唐司天李淳風著。《大衍曆分度》唐內供奉一行禪師著。《理氣心印》唐亞父聞喜丘延翰著。《雪心賦》唐昭文館學士章貢卜則巍著。《疑龍經》、《撼龍經》、《畫筴圖》、《筴四大穴法》、《立錐賦》、《撥砂圖》、《胎腹經》、《望龍經》、《倒杖法》俱贛州楊筠松著。筠松名益,號救貧仙,南唐時人,曾文辿師也。《心鏡》、《尋龍記》、《陰陽問答》雩都曾文辿著。《一粒粟》楊筠松著,劉誠意伯批註。《游氏家傳啟蒙》南唐僉判新安遊潛著。潛,國師何令通婿也。《金鎖秘訣》五代陳摶著。摶,字圖南,豪州人,受業曾文辿,隱居西華山。宋徵不起,賜號希夷先生。

『小巻陰陽正要』は唐代の司天監李淳風が著した。『大衍暦分度』は唐代の内供奉一行禅師が著した。『理気心印』は唐代の亜父・聞喜人丘延翰が著した。『雪心賦』は唐代の昭文館学士・章貢人卜則巍が著した。『疑龍経』『撼龍経』『画筴図』『筴四大穴法』『立錐賦』『撥砂図』『胎腹経』『望龍経』『倒杖法』は、皆贛州の楊筠松の著したところである。楊筠松は名は益、号は救貧仙、南唐の時の人で、曽文辿の師である。『心鏡』『尋龍記』『陰陽問答』は雩都の曽文辿が著した。『一粒粟』は楊筠松が著し、明代の誠意伯劉基が批注を作った。『游氏家伝啓蒙』は南唐の僉判・新安人游潜が著した。游潜は国師何令通の女婿である。『金鎖秘訣』は五代の陳摶が著した。陳摶は字は図南、亳州の人で、曽文辿に受業し、西華山に隠居した。宋朝が彼を徴召したが出仕を肯んじず、朝廷は号を希夷先生と賜った。

《黑囊經》五代范越鳳著。一雲楊筠松著。《洞林秘訣》、《尋龍入式歌》范越鳳著。《葬經》六卷隋肅吉著。《龍經》三卷左仙著。《太華經》太華眞人許亮著。《撥沙經》陳亞和著。《吳氏家傳口訣》五代德興吳克誠著。誠,南唐國師吳法旺子,受業陳希夷先生。《玉髓眞經》宋國師張子微著。子微名洞玄天師,張道陵三十三代孫。蔡西山先生增發揮。《吳公解義》批註心印。《龍格通玄歌》、《吳氏秘訣》俱宋國師景鸞著。克誠子。

『黒嚢経』は五代の范越鳳が著し、一説に楊筠松の著という。『洞林秘訣』『尋龍入式歌』は范越鳳が著した。『葬経』六巻は隋代の蕭吉が著した。『龍経』三巻は左仙が著した。『太華経』は太華真人許亮が著した。『撥沙経』は陳亜和が著した。『呉氏家伝口訣』は五代徳興人呉克誠が著した。呉克誠は南唐国師呉法旺の子で、陳摶希夷先生に受業した。『玉髄真経』は宋代の国師張子微が著した。張子微は名は洞玄天師、張道陵の三十三代孫で、蔡西山先生がかつてそのために増補発揮した。『呉公解義』は『理気心印』のために作った批注である。『龍格通玄歌』『呉氏秘訣』は皆宋代の国師呉景鸞の著すところである。呉景鸞は呉克誠の子である。

《洩天機》前廖瑀著。按:元曾葛溪《俯察要覽》云:“有兩廖瑀,前廖樂平人,後廖雩都人,俱號金精,術俱神。《洩天機》本前廖著,因餘芝孫增入後廖《地課》及《入式歌》,增首尾衍文,世遂莫知有前廖禹矣。”今考前廖著述,重巒頭;後廖著述,重天星。後廖乃張公道明為虔倅時拔者,卒傳吳氏學。

『泄天機』は前廖瑀が著した。按:元の曾葛溪『俯察要覧』は言う「歴史上に二人の廖瑀がある。前廖は楽平人、後廖は雩都人で、ともに金精と号し、術数は皆神験であった。『泄天機』はもともと前廖の著したところで、余芝孫が後廖の『地課』と『入式歌』を増補して入れ、また首尾に衍文を添加したため、世人はそこでもう一人の前廖瑀があることを知らなくなった。」いま考察するに、前廖の著述は「巒頭」に偏り重し、後廖の著述は「天星」に偏り重い。後廖は張道明公が虔州通判に任じた時選抜し出した者で、最終的に伝承したのは呉氏一派の学問である。

《陰契陽符》、《師門心法》、《金精口訣》、《懷玉經》、《赤人圖》後廖禹著。《司馬頭陀水法》馬仙著。荊門州馬仙觀有臺基尚存,即其成道之所也。《發徵論》宋閩蔡牧堂先生著。觧注十數家,惟明鄱陽方伯余佑注本最善。《囊金》一名《心經》,上牢劉謙著,新安謝子期批註。《光明大照圖》司馬大士著。《催官篇》、《旅寓集》宋賴文俊著。俊官建陽,棄職浪遊,號布衣子。後修眞太乙峰下,世傳仙去。《玄樹經》宋浙右方斗南著。《海底眼》劉白頭著。《分金斷訣》厲伯韶著。《三寳經》珏齋謝子逸著。

『陰契陽符』『師門心法』『金精口訣』『懐玉経』『赤人図』は後廖禹が著した。『司馬頭陀水法』は馬仙が著した。荊門州の馬仙観には今なお台基が残っており、彼が道を成したところである。『発微論』は宋代福建の蔡牧堂先生が著した。それに解注を作った者は十数家あるが、明代鄱陽の方伯余佑の注本だけが最も良い。『嚢金』はまたの名を『心経』といい、上牢の劉謙が著し、新安の謝子期が批注した。『光明大照図』は司馬大士が著した。『催官篇』『旅寓集』は宋代の頼文俊が著した。頼文俊はかつて建陽で官をし、後に職を棄て浪游し、号は布衣子、晩年太乙峰の下で修真し、世は彼が仙と成りて去ったと伝える。『玄樹経』は宋代浙西の方斗南が著した。『海底眼』は劉白頭が著した。『分金断訣』は厲伯韶が著した。『三宝経』は珏斎謝子逸が著した。

《陰陽正源》宋德興紫瓊張眞人著。《堪輿要約》南宋國師德興傅伯通著。《大理歌》南宋國師鄒仲容著。容,名寬,德興人,與伯通同師廖金精。《祝氏秘鉗》宋觀物先生祝秘著。《堪輿微義》元齋易巖著。《俯察元機》元學士傅文懿公立著。立,伯通玄孫,祝觀物甥,精皇極數,學通天文地理。《革象新書》元德興趙緣督眞人友欽著。《俯察要覽大全》元曾葛溪著。《平沙玉尺經》元太師劉秉忠著,明誠意伯劉伯溫解釋,賴敬迪補註,為當世所宗。《地理件目》吳折著。一名集解,又名眞指、快捷方式、指南。折,景鸞裔也。《金斗訣葬法》、《一掌金》云外老人傅地著。地,傅伯通後裔。《金函經》、《天玉經》俱未詳所著。

『陰陽正源』は宋代徳興の紫瓊張真人が著した。『堪舆要約』は南宋の国師・徳興人傅伯通が著した。『大理歌』は南宋の国師鄒仲容が著した。鄒仲容は名は寛、徳興人で、傅伯通とともに廖金精に師として拝した。『祝氏秘箝』は宋代の観物先生祝秘が著した。『堪舆微義』は元代の斎易岩が著した。『俯察元機』は元代の学士傅立(文懿公)が著した。傅立は傅伯通の玄孫・祝観物の外甥で、皇極数に精通し、学問は天文地理に貫通した。『革象新書』は元代徳興の趙友欽(縁督真人)が著した。『俯察要覧大全』は元代の曽葛溪が著した。『平沙玉尺経』は元代の太師劉秉忠が著し、明代の誠意伯劉基が解釈を作り、頼敬迪が補注して、当世に推崇される。『地理件目』は呉折が著し、またの名を『集解』といい、また『真指』『捷径』『指南』とも呼ぶ。呉折は呉景鸞の後裔である。『金斗訣葬法』『一掌金』は雲外老人傅地が著した。傅地は傅伯通の後裔である。『金函経』『天玉経』はいずれも作者が誰であるか明らかでない。

《分金瀛海經》明德興董德彰注。《四神秘訣》、《天卦》、《青囊》、《南針論》《分金解》董德彰注。《三易三元編》李玄緒著。《叢珠素書》陳彥繹著,遊潛湄齋註疏。《何家沙法》明豐城南塘何德宏著。《地理摘奇》樂平洪理著。《大地圖》松江徐長谷著。《陰陽定論》泰和周視著。《陰陽決疑》蜀太守南泉羅青霄著。《堪輿正要》泰和龍巖樵著。《堪輿管見》閩副憲雙湖謝延桂著。以下俱不詳著者姓名:《昏衢炬燭》、《萬萬山心法》、《趙緣督瑣錄》、《祝氏神龍經》、《水經》、《張落魄口訣》、《空山老人穴法》、《天涯海角經注》、《寸金穴法》、《四十字穴法》、《沙竹圖穴法》、《銅人穴法》、《相山骨髓》、《三式全書》《地脈經》《地理指南》、《堪輿指南》、《山海經》。

『分金瀛海経』は明代徳興の董徳彰が注を作った。『四神秘訣』『天卦』『青嚢』『南針論』『分金解』は皆董徳彰が注を作った。『三易三元編』は李玄緒が著した。『叢珠素書』は陳彦繹が著し、游潜(湄斎)が注疏を作った。『何家沙法』は明代豊城南塘の何徳宏が著した。『地理摘奇』は楽平の洪理が著した。『大地図』は松江の徐長谷が著した。『陰陽定論』は泰和の周視が著した。『陰陽決疑』は四川太守南泉羅青霄が著した。『堪舆正要』は泰和の龍岩樵が著した。『堪舆管見』は福建副憲双湖謝延桂が著した。以下の各書は皆作者の姓名が明らかでない。『昏衢炬燭』『万万山心法』『趙縁督瑣録』『祝氏神龍経』『水経』『張落魄口訣』『空山老人穴法』『天涯海角経注』『寸金穴法』『四十字穴法』『沙竹図穴法』『銅人穴法』『相山骨髄』『三式全書』『地脈経』『地理指南』『堪舆指南』『山海経』。

瑣言凡そ十条

一 地理を知らざるべからず

孔子曰“卜其宅兆而安厝之”。程子曰:“卜其宅兆者,卜其地之美惡也。地之美者,則神靈安,子孫盛。若培植其根而枝葉茂。”又曰:“祖父子孫同氣,彼安則此安,彼危則此危。”朱子曰:“葬之為言藏也,所以藏其祖考之遺體也。以子孫而藏其祖考之遺體,則必致其謹重誠敬之心,以為安固久遠之計。使其形體全而神靈得安,則其子孫盛而祭祀不絕。”

孔子は言った「墓地を卜択して妥く安葬せよ」と。程頤は言った「いわゆる其の宅兆を卜すとは、その地の善悪を卜択することである。地が良ければ先人の神霊は安寧し、子孫は興盛する。これは樹根を培壅すれば枝葉がおのずから茂盛するが如し」と。また言った「祖父と子孫は同一の気脈で、彼方が安ければ此方が安く、彼方が危なければ此方が危ない」と。朱熹は言った「葬という字の義は蔵であり、祖先の遺体を蔵するを要する。子孫たる者は祖先の遺体を蔵するからには、必ず郑重誠敬の心を出して、長久安固の打算を作さなければならない。遺体を保全して神霊を安んずれば、子孫は興盛して祭祀は断絶しない」と。

又曰:“其或擇之不精,地之不吉,則必有水泉、蟻螻、地風之屬以賊其內,使其形神不安,而子孫亦有死亡絕滅之憂,甚可畏也。”陸象山曰:“通天地人曰儒。地理之學雖一藝,然上以盡送終之孝,下以為啟後之謀,其為事亦重矣。親之生,身體髮膚皆當保愛,況親之歿也,奉親之體厝諸地,固乃付之庸師俗巫,使父母體魄不得其安,則孝安在哉!”

朱熹はまた言った「もし択ぶこと精審ならず、その地が不吉ならば、必ず水泉・螻蟻・地風の類がその中にあって侵害し、遺体と神霊とがともに安寧を得ず、而して子孫にも死亡絶滅の憂患がある。甚だ恐るべきものである」と。陸九淵は言った「天・地・人の三者を貫通し得てこそ儒と称するに配る。地理の学はただ一門の技芸にすぎないが、上に説けば送終の孝を尽くし、下に説けば後人のために打算を作すのであって、この事もまた重大と算えられる。父母が生きている時は、身体髪膚も皆保護愛惜すべきで、まして父母が世を去った後に、父母の遺体を土の中に安放するのに、竟にこれを庸俗な地師・市井の巫者に交付して、父母の体魄を安寧ならしめずとは、孝はどこにあるか」と。

夫觀聖賢所論如此,則擇地殯親之道,誠仁人孝子之不可忽者。若平居視地理為末務,而不之問,一旦有大故,則不免倉卒苟且為之,幸得吉地,固所願矣;不幸而置親體於蟻泉沙礫中,無異委之於壑坵,不孝孰甚?故人子須於平時講明其說,庶幾他日臨事不悞,而親魄得安於地下矣。

聖賢たちの議論がこの地步に至るのを見れば、地を択んで父母を安葬する道は、実に仁人孝子の軽忽すべからざるものと見える。もし平日に地理を末節小事と看做して、従来これを過問せず、一旦家中に大喪があれば、倉促草率に執り行わざるを得ない。僥倖して吉地を得れば、固より願うところである。不幸にして父母の遺体を蟻穴・泉眼・沙礫の中に置くならば、それは親を山溝土丘の裏に抛つのと分別がなく、これより不孝なるものがあろうか。だから人子たる者は必ず平日にこの套の道理を弄明白にしておき、こうすれば将来事に臨んで失誤に至らず、父母の魂魄は地下に安んずることを得るのである。

雖然,三折臂然後稱明醫,地之理又非膚淺及鮮傳者所能究竟也。苟曰予既已知之矣,而自用自專,悞凶為吉,牢不可破,則其害奚異於庸師俗巫哉!噫,萬鎰之玉,必付之玉人而後可也。

とはいえ、古語に腕を三度折って初めて良医と称するに足ると言い、地理という道理もまた浅く嘗めて輒に止め、真伝に欠ける者の窮究し尽くせるものではない。もし或る人が私はすでに懂ったと言い、そこで剛愎自用して独断専行し、凶地を誤って吉地と認め、なお固執して誰が言っても動かせないならば、彼の造る禍害は庸俗な地師・市井の巫者と何の両様があろうか。ああ、価値万鎰の美玉は、結局これを専門の琢玉の匠人に交付して処理せしめなければならないのである。

二 柩を停めて葬らざるべからず

司馬溫公曰:“今人有喪親者,往往久而不葬。問之,曰歲月未利也。又曰未有吉地也。遊宦遠方未得歸也。貧未能辦葬具也。至有終身累世而不葬,遂有棄失尸柩不知其處者。嗚呼!可不令人深嘆愍哉!人所貴於身後有子孫者,為能藏其形骸也。其所為乃如是,曷若無子孫死於道路,猶有仁者見而殣之耶。

司馬光は言った「今日の人は父母が死ぬと、往々にして久しく引き延ばして下葬しない。その故を問えば、年月が吉利でないと言い、またまだ良い地を見つけていないと言い、また自己が遠方で官をしていて帰れないと言い、また家が貧しくて葬葬の用具を置き办えられないと言う。甚だしきは一生を終えても下葬せず、数代に累及する者さえあり、棺柩が丢失してどこにあるかも知らないに至る。ああ! これはどうして人をして深く嘆息し憐憫せしめないことがあろうか。人が身後に子孫があることを重んずる所以は、人があって自己の形骸を安蔵し得るためのものである。所作所為が竟にこの地步に至るならば、むしろ子孫がなく路辺に死するに如かず、なお仁厚な人が見て彼のために掩埋してくれるであろう。」

且先王制禮,葬期遠不過七月,自王公以下,皆三月而葬。又禮,未葬不變服,食粥,居倚廬,哀親之未有所歸也。既葬,然後漸有變除。今之人背禮違法,未葬而除喪,從宦四方,食稻衣錦,飲酒作樂,於心安乎?”吳草廬曰:“喪不即舉,年代已遠,或子孫參差而人事不齊,或罹兵亂而水火不測,或貧病兼併而不能舉,或是非爭兢而害成,或官事牢獄而不可為,或日怠日忘而竟成棄置,皆停喪久遠而變見多端也。”

まして先王が礼法を制定するに、下葬の期限は最も遠くても七ヶ月を過ぎず、王公以下は皆三ヶ月で下葬する。礼制はまた規定して、下葬しなければ喪服を改換せず、稀粥のみ食し、牆に倚りて搭した草廬に住み、父母がまだ帰宿を得ないことを哀傷する。下葬した後に及んで、初めて漸々更変除服することがある。今日の人は礼法に違背し、まだ下葬しないうちに先に喪服を除き、四处して官を為し、好飯を食い錦衣を着て、飲酒作楽するが、心は過意なく過ごせるのか。」呉澄は言った「喪事を時に及んで執り行わなければ、年代が久しくなると、あるいは子孫が各自分散して人事が湊り合わず、あるいは兵乱に遭遇して水火が料り難く、あるいは貧病が交加して執り行うに起こせず、あるいは是非争執に因りて禍害を生じ、あるいは官司牢獄に摊上がって办理の法なく、あるいは一日一日怠慢遗忘して竟に完全に抛置するに至る。これは皆喪を停めること久しくて変故が百出する故である。」

愚按:二公所言,極其痛切。蓋今時之俗,平居多不講夫地理,及有變故,則懵無所措,停柩以侍擇地。初心雖切,久必因循,遂至醉夢過時,不知為天地間極大罪人。有子不能葬其父,有孫不能葬其祖,至於年代深遠,誠有如二公之所慮者。嗚呼!為人子者可不懍懍然而知所戒懼乎?

私按するに、司馬光・呉澄の両氏の言うところは、極めて痛切である。今日の風気は平日に大抵地理を講求せず、家裏に喪事が出るに及んで、懵懂として手足の措き所なく、やむを得ず棺柩を停めて地を択ぶのを待つ。起初の心意は懇切であっても、日子が長くなれば必ず因循拖沓し、終に渾渾噩噩のうちに時機を錯過し、自己はまだ知らず、すでに天地間の大罪人と成っている。子たる者が父を安葬できず、孫たる者が祖父を安葬できず、年深日久に拖到すれば、果たして両先生の憂慮したあの種の後果が現れる。ああ! 子たる者は能く心に戒惧を存し、警惕を知らざるべきか。

三 祖塚に侵葬すべからず

夫地理之法雖繁,而“葬乘生氣”一言,足以盡其肯綮。故千里來龍入首,惟融八尺之穴。諺云“陰地一線”是也。祖冢既已乘乎一線生氣,則其左右上下皆為死氣,葬之徒為蟻穴泉窟而已。不惟新葬之柩將為禍患,且又洩祖宗之生氣,驚祖宗之體魄,其為害不小也。

地理の法門は繁多であるが、「葬は生気に乗ず」という一句だけで、すでにその要害を説き尽くすに足る。だから千里より来たる「来龍」が「入首」の処に至っても、ただ八尺見方の一つの穴に凝聚する。俗に言う「陰地はただ一線」はまさにこの意である。祖墳がすでにこの一線の生気を占住したからには、その左右上下は全て死気であり、葬り入れてもただ自家の親人のために蟻穴泉窟を一つ見つけたにすぎない。こうすれば新たに葬る棺柩が禍患を出すばかりでなく、しかも祖宗の生気を泄漏し祖宗の体魄を驚動して、為害は小さくない。

或曰:中州之地,始葬者南面,後竁左右昭穆而殯,謂之族葬。有一穴安數十冢者,有一冢安十數柩者,似於侵葬,未聞其禍何也?予曰:中州之地,千里平洋,水深土厚,若得一穴,可安十數柩者有之,可安十數冢者有之。張子微所謂“也有一龍十數穴,也有一穴十數塋”者是耳。東南山叢,水駛土薄,易泉而多石,螻蟻生之,安可與中州比也?

或る人が問うた。中原一帯の規矩では、最も先に下葬した者が北に坐り南に向かい、後に壙を開く者は昭穆の次序に按って左右に分列して安葬するのを「族葬」と呼ぶ。一つの穴に数十座の墳を安下するものもあり、一つの墳に十数具の棺柩を安下するものもあり、見れば皆侵葬に似ているが、禍事が出たとは聞かない。これはなぜか。私は答えて言う。中原の地は千里平洋で、水位は深く土層は厚く、もし一つの穴を得れば、十数具の棺柩を安んじ得るものもあり、十数座の墳を安んじ得るものもある。張子微の言う「或いは一龍に十数穴あり、或いは一穴に十数塋あり」とは、まさにこの種の情形を説くのである。東南一帯は山巒が叢集し、水流は湍急で土層は淺薄く、水が出やすく石が多く、螻蟻が滋生して、どうして中原と比べられようか。

或又曰:附葬祖側,及父母必合葬,皆古禮,有不可議者。答曰:禮貴通變。附葬既有侵祖之嫌,而合葬或不得已,亦不必拘。予兄弟嘗遊閩至考亭,拜文公朱夫子遺像。及徧觀其先世坵壟,文公之祖退翁,名森,字良材,墓在政和縣感化裡護國寺西。父韋齋先生,名松,諡獻靖,墓在崇安縣上梅里寂歷山。母祝氏夫人,墓在建陽崇泰裡寒泉嶺仰天湖形。文公墓在建陽嘉禾裡九峰山下,風吹羅帶形。

また或る人が問うた。祖墳の傍らに附葬し、および父母が必ず合葬するのは、皆古礼であって、非議すべきでない、と。私は答えて言う。礼は通権達変を貴ぶ。附葬はすでに祖墳を侵犯する嫌疑があり、また合葬に已むを得ない情形があれば、必ずしも拘泥する必要はない。我ら兄弟はかつて福建を遊歴して考亭に至り、朱熹先生の遺像を拝謁し、また他家先世の墳塋を遍く見た。朱熹の祖父の退翁は名は森・字は良材で、墓は政和県感化里護国寺の西にある。父の韋斎先生は名は松・諡号は献靖で、墓は崇安県上梅里寂歴山にある。母の祝氏夫人の墓は建陽崇泰里寒泉嶺にあり、「仰天湖」の形である。朱熹本人の墓は建陽嘉禾里九峰山の下にあり、「風吹羅帶」の形である。

退翁以前墓皆在徽婺源,去考亭固已甚遠。而退公、韋齋、文公之墓,又各在一縣,去考亭皆百餘里,何嘗拘於附近祖冢之說?又,考文公葬父,亦嘗三遷,而最後遷處,與葬母同年按文公年譜,乾道六年正月葬母,八月改葬父,亦未嘗拘於父母合葬。噫!此見我文公先生燭理之明,不狃於俗,足可為法矣!

退翁以前の数代の墳墓は皆徽州婺源にあり、考亭からはすでに遠い。而して退翁・韋斎・朱熹の三代の墓はまた各々一つの県にあり、考亭から皆一百余里あって、何嘗祖墳に必ず近づかなければならないという説に拘泥したことがあろうか。さらに考えるに、朱熹が父を安葬するにも、かつて三度遷移し、而最後の遷葬は母を安葬したのと同じ年であった(『朱文公年譜』に拠れば、乾道六年正月に母を葬り、八月に父を改葬した)。これを見れば、父母が必ず合葬せねばならないにも拘泥しなかったのである。ああ! これを以て朱熹先生の事理に洞察した明白さ、流俗に迁就せず、足りて法式を立てることができることを見るに足る!

按:《文公年譜》云:紹興十四年,葬韋齋於西塔山,其後改葬於寂歷山中峰之原。及考韋公,《遷韋齋墓記》曰:初,府君將殆,欲葬崇安之五夫。卒之明年,遂定於靈梵院側。時熹幼未更事,卜地不詳。懼體魄之不安,乾道六年,遷於白水之鵝峰山下。又考文公慶元五年撰《韋齋行狀》云:公卒之明年,熹奉其柩葬於崇安縣之五夫。然公所藏,地勢卑溼,懼非久計,乃奉而遷武夷鄉上梅里寂歷山中峰僧舍之北。即此而觀,乃是三遷葬也。見《建寧郡志》。

按:『朱文公年譜』は言う、紹興十四年に韋斎先生を西塔山に葬り、後に寂歴山の中峰の原に改葬した、と。さらに朱熹の作った『遷韋斎墓記』を考えるに言う。当初父が病危の時、もともと崇安の五夫に葬ろうとし、去世の第二年になって初めて霊梵院の傍らに定まった。その時朱熹は年幼く事を経歴せず、地を卜するに詳審ならず、父の体魄が安寧を得ないことを恐れ、そこで乾道六年に白水の鵝峰山の下に遷った、と。また朱熹が慶元五年に撰した『韋斎行状』を考えるに言う。父が去世した第二年、朱熹は柩を奉じて崇安県の五夫に葬ったが、あの処の葬地は地勢が低窪して潮湿し、長久之計でないことを恐れ、そこで柩を奉じて武夷郷上梅里寂歴山中峰の僧舎の北面に遷った、と。これらの記載に照らせば、確かに三度の遷葬である。この事は『建寧郡志』に見える。

四 旧穴に葬るを図るべからず

曾葛溪曰:“圖葬舊穴,惑之甚也。嘗見一舊穴,雖前已發大貴,子孫不肖鬻之,凡三易主,葬二百餘年,卒無顯者。人但指而言曰:‘此某氏祖冢,徙墎賣與某氏。不利,又轉賣某氏,皆不利’。即此可知,舊穴無重發達之驗。

曽葛溪は言った。「他人が用いた旧穴に葬ろうと打算するのは、糊涂の極みである。私はかつて一処の旧穴を見た。昔は大貴人を出したことがあったが、後に子孫が不肖でそれを売り、前後して三度主を換え、葬って二百年余り、終に顕達な人を出さなかった。人々はただそれを指して言う。『これは某家の祖墳で、棺椁を遷して某家に売った。不吉で、また某家に転売したが、これも皆不吉である』と。この一事だけを見ても、旧穴に再び発達した験がないことが分かる。」

又有葬後風遷水易者,難以殫舉,竟未聞葬舊穴而獲福者。況憑福恃勢,發他人之墳,誅其用心,已不為天所佑,地何能福之哉?且地脈初興,如火之始然;及其既敗,如灰燼已冷。欲於冷灰中求炙手熱,決無是理。此古人謂圖葬舊穴,如求嗣續於鶴髮婦人耳。”

また葬って以後に風向が変わり水路が更易したものは、数え切れないほど多く、竟に旧穴に葬って福を得たとは聞かない。まして自家の金銭と勢力を恃んで他人の墳を掘るのは、心を誅して論ずれば、このような存心はすでに上天の保佑を得られず、土地もまたどうして彼に福を降らせられようか。さらに言えば、地脈が初めて興る時は、火がちょうど点いたばかりのようであり、そのすでに衰敗した時は、灰烬がとっくに冷え透ったようである。冷灰の中に炙手可熱を求めようとは、絶えてこの理がない。だから古人は言う、旧穴に葬るを図謀するのは、白髪の老婦に子嗣を求めるようなものだ、と。」

按:葛溪所論,誠皆切當。蓋人子求地葬親,當先修其德。謀葬已發之穴,徙人之親而葬其親,伐人之冢而為已冢,忍心害德,莫此為甚,縱得地理,天理何在?予嘗謂:人人難保百年墳,徙墎重扦太忍心。莫道天公無報應,後來還有伐墳人。求地者宜知所戒。

按:曽葛溪の議論は、確かに皆切当である。人子たる者が地を求めて父母を安葬するには、まず自己の德行を修養すべきである。すでに福を発した旧穴に葬るを図謀し、他人の先人を遷して自己の先人を安葬し、他人の墳を掘り去って自家の墳を作るとは、心腸の忍びなさ・徳を傷ることの深さ、これより甚だしいものはない。たとい地理を得ても、天理はどこにあるか。私はかつて数句を書いた。「人は皆自家の墳が百年守り満たせることを保ち難く、他人の棺椁を遷して改めて穴を点穴し下葬するのは実に忍びなさすぎる。老天に報応がないとは言うな、後にまた人が来てお前の墳を掘るであろう。」地を求める者は戒警を知るべきである。

五 公位に拘泥すべからず

世俗拘泥公位之說,兄弟眾多,各懐私意,爭論不決,遂有終身不殯其親者。噫!為人父母者,每以子多為幸。今若此,則是不若少子者,無房分之爭,得歸全於土,而免久暴之患矣!是故求地惟當辨眞偽,不可拘泥公位。地誠眞美,而於公位或有不齊,此亦付之子孫緣,不可挾私而久暴其親,亦不可信邪師之言,妄有作為而反壞其地。

世俗は「公位」の説に拘泥し、兄弟が多いと各々私心を懐いて争論が下らず、そこで竟に一生父母を安葬しない者がある。ああ!父母を為す者はつねに子が多いことを福と看做すが、いまこのように成っては、かえって子の少ない家に如かない。房分の間の争執がなく、父母は完整に土中に帰し、長く棺柩を暴露する禍患を免れるのだ。だから地を求めるにはただ真穴・假穴を分弁すべきで、公位に拘泥すべきでない。地がもし確かに真で美ならば、ただ公位の上で各房に均匀に及ばないかもしれないが、これは子孫各自の縁分に帰するほかなく、私心を挟帯して父母を長く暴露させてはならず、また邪師の言を聴信して、胡乱に布置を改動してかえって良い地を弄壊してもならない。

且欲房分之均,不可拘於一穴,宜別求一穴以補襯之,則得均矣。楊公云“豈可一墳分公位,必取眾墳叅互議”是也。大抵公位之說,只可置之勿論。蔡文節公云:“今人動爭公位之說,以致久不葬親,何所見之謬耶!造化者自區處,豈伊人力所能巧計?地不可不擇,當使亡魂安處。至於自求多福,乃在地理以外,非可以徇私為心。

さらに言えば、各房に均しく沾わせたければ、もともと一つの穴に死守する必要はなく、別にもう一つの穴を尋ねて補い襯えれば、これおのずから均しくなる。楊筠松が言う「豈にすべからく一墳をもって公位を分かたん、必ず衆墳を取りて参互に議せ」とは、この意である。大体言えば、公位という套の説は、ただ一辺に擱いて理会しないに限る。蔡元定(文節公)は言った。「今人は動もすれば公位の説を争い、以て久しく父母を葬らない。見識はなんと荒謬なことか。造化には自らその安排があり、どうして人力の巧計の安排し得るところか。地は択ばざるべからず、亡者の魂魄に安処する所を与えなければならない。自己が多福を求めることについては、それは地理の外の事で、徇私の心思を存すべきでない。」

才有私心,其計必左。世人以此誤自己,誤子孫者甚多。及不如意,從而遷徙,愈更愈錯,非地誤人,用心之誤也。”程子曰:“不以奉親為計,而專以利後為謀,非孝子安厝之用心。”誠為至論。故人子但以安親為念可也。若曰期生人之受蔭,冀富貴於將來,但末務耳。況有葬後沙水變易,而公位之說亦多不驗。為人子者,須知大義,豈可專泥於茲乎。

一たび私心があれば、算計は必ず落空する。世人がこれによって自己を耽誤し子孫を耽誤した者は多い。称心如らなくなるに及んで、それについて墳を遷し、改すれば改するほど錯誤する。これは地が人を耽誤したのではなく、用心が錯誤したのである。」程頤は言った。「父母を奉安することを以て打算とせず、専ら後人に利することを謀るのは、孝子が父母を安葬する存心ではない。」まことに至理の論である。だから人子たる者はただ一心に父母を安んずることを思えば足りる。活人が蔭庇を受けることや将来の富貴を盼望するのは、それは不过末節である。まして下葬した後に砂形・水路が変化を生ずるものもあり、公位の説も大抵応験しない。子たる者は大義を懂えなければならず、どうして専らこの一条に死守できようか。

六 軽易に改葬すべからず

孔子曰:“古者不修墓。”非不修墓也,蓋必誠必信已。當葬時而豫為一成不動之計,其慎重尚如此,況舉既葬之親而欲改遷之,何可以慎重不如是乎?今之人有輕信人言,或為富貴而動其念,或為禍患而惕其衷,往往易於改葬,彼其事得已耶?抑不得已耶?如其不得已,而有水蟻及他患也,改之無不可也。然亦有為野師所惑,誤改吉地者,令親體不免暴露,吾恐仁人孝子當不止其顙之有泚矣。

孔子は言った。「古は墓を修せず。」これは墓を修めることを肯んじなかったのではなく、下葬する時に必ず誠に必ず信にしていたと言うのである。当初安葬した時に予め一労永逸・永く変動しない打算を作し、郑重がこのほどであった。ましてすでに葬った父母をまた掘り出して改遷するのに、どうして同じく郑重でなくてよかろうか。今日の人はあるいは他人の言を軽信し、あるいは富貴を求めて墳を遷す念に動かされ、あるいは禍患に遭遇して心が慌て、往々にして軽易に改葬する。彼らのあの事は一体為さなくてもよいのか、それとも為さざるを得ないのか。もし確かに已むを得ず、墳中にすでに水・蟻あるいは他の禍患があれば、改葬は不可ではない。然るに江湖の術士に迷惑されて、もとの吉地を誤って改めてしまった者もあり、父母の遺体を暴露を免れず、私が見るに仁人孝子はあの時、おそらく額の汗ばかりでは済まないであろう。

《青烏經》云:“凡地有五不祥者可改:一冢無故自陷;二冢上草木枯死;三冢有淫亂風聲,少亡孤寡;四男女忤逆顛狂,刼害刑傷瘟火;五人口死絕,家產耗散,官訟不息。改之。如見三祥瑞則勿改:一見生龜蛇生氣物;二見紫藤交結棺木;三有水珠玸色如乳溫暖,或有氣如霧,穴中乾燥無水蟻,並吉。”甚哉,有味乎其言之也!

『青烏経』は言う。「凡そ墳地に五種の不祥の象ある者は改葬すべし。第一に、墳塚が故なく自ずから塌陷する。第二に、墳上の草木が枯死する。第三に、家中に淫乱の風言風語が現れ、あるいは少年が夭亡し孤児寡婦が不断となる。第四に、男女が忤逆・癲狂し、劫害・刑傷・瘟疫・火災に遭う。第五に、人口が死絶し家産が耗散し、官司訴訟が停まない。これらの情形は即ち改葬すべし。もし三種の祥瑞を見れば改めるな。第一に、生きた龜蛇の類の生気あるものを見る。第二に、紫藤が棺木に纏結するを見る。第三に、水珠の色沢が乳の如く温潤なもの、あるいは霧の如き気があり、穴中が乾燥して積水・蟻蛀がない。これらは皆吉象である。」この段の言葉は実に良い。よく反復して体味するに値する!

予茲推廣其意,特立五戒:曰人丁蕃衍者不遷,年代深遠者不遷,無五不祥者不遷,不犯五患者不遷程子曰:“須使他日不為道路,不為城郭,不為溝池窯灶,不為貴勢所奪,不為耕犂所及,家道平康者不遷。誠欲其人之慎之也。

私はここにその意を推広し、わざわざ五条の戒律を立てる。人丁が興旺なら遷さず、年代が久遠なら遷さず、上記五種の不祥の象が現れなければ遷さず、「五患」を触犯しなければ遷さず(程頤は言う「必ず墓地が他日道路に変わらず、城郭に変わらず、溝渠・池塘・窯竈に変わらず、権貴豪勢に奪われず、耕犁に翻されぬようせしめよ」と)、家道が平安康泰なら遷さず。こう戒を立てるのは、実に人に慎重に対待せしめるためである。

雖然,禮有改葬之服緦麻,歷頒啟攢之日,古人亦未嘗不遷。如不得已,須得明師再三商確。大抵地無全美,只當察其輕重緩急。如有財無人,須求溫暖之穴;有人無財,宜尋得水之地。審有其地果勝舊墳,然後議遷。如舊墳無大禍患,可以平穩,則當別求吉地接福於後,未為不可,奚必於改葬哉!是故“慎之”一字,改葬者所當繹思也。

とはいえ、礼制にはもともと改葬の時に緦麻の服を服する規定があり、暦書にも啓攅開壙の吉日を頒布している。これを見れば古人もまた従来墳を遷さなかったわけではない。もし確かに已むを得なければ、必ず高明な地師を請いて再三商定しなければならない。大体言えば、地に十全十美はなく、ただその中の軽重緩急を権衡すべきである。もし家に財があって人丁が興旺でなければ、温暖な穴を求めなければならない。もし人丁が興旺で財がなければ、水を得る地を尋ねなければならない。審察して新しい地が果たして旧墳に勝ることを確認して、然る後に初めて遷を談ずるに足る。もし旧墳に大きな禍患がなく、なお平稳と算えられるならば、別に一塊の吉地を求めて後の福を接続しても、これ未だ嘗て不可ではない。何も必ず改葬しなくてもよいではないか。だから「慎」という一字は、改葬を打算する者が反復尋思すべきものである。

七 専ら大を図るべからず

求地須辨眞偽,不必拘大小。若龍穴眞的,縱力量輕,猶能發越。徒慕大地,而不能辨眞偽,葬於假穴之中,是置親體於水泉蟻穴,求福得禍,顧何益哉!蓋大地難識,且有鬼神司之,不可強求。往往圖大地者,雖小地亦不得,而竟被假地所誤。

地を求めるには必ず真假を分弁すべきで、地の大小に拘泥する必要はない。「龍」が真で「穴」が的(あて)ならば、たとい力量が小さくても、なお福を発することができる。一味に大地を羨慕して真假を分弁できず、假穴の中に葬り入れれば、それは父母の遺体を水泉蟻穴に放り込むようなもので、本は福を求めてかえって禍を得る。何の益があろうか。大地は識別し難く、しかも鬼神がそこに主管しているのだから、強いて求めるべきでないことを知らなければならない。大地を図謀する人は往々にして小地さえも得られず、最後にかえって假地に耽誤される。

彼蓋不知安穩小地,在在有之,易於求索。況小地既眞,數穴併力,亦能致大。楊筠松云:“大地難得小易求,積累不已成山邱,眾墳合力卻成大,人說小地生公侯。”又云:“是眞不必問大小,積小成大最為好。”又云:“圖大不得且思次,此事當與智者議。”旨哉言乎!人子求地,且知辨眞偽,慎毋為圖大所惑。

彼らはおそらく知らないのだ、安穏な小地は到る処にあり、求めやすいことを。まして小地は真であれば、幾つかの穴が合わさって力を使い、大局を成すこともできる。楊筠松は言う。「大地は得難く小は求め易し、積累已まざれば山丘を成す。衆墳が力を合わせて却って大を成し、人は小地に公侯生ずと言う。」また言う。「真ならば必ずしも大小を問わず、小を積んで大を成すが最も良し。」また言う。「大を図って得ざれば且つ次を思え、この事は智者と議すべし。」これらの言葉はなんと道理があることか。人子たる者が地を求めるには、ただ真假を分弁することを懂ればよく、千萬に大地を貪る念に迷惑されてはならない。

八 古格を観ざるべからず

夫地理之學,有道眼,有法眼。道眼生知,不可尚矣。所謂法眼者,必從師授,徧觀名墓,何為而吉,何為而凶,龍穴何為而入格,砂水何為而合局,一一檢點,以之為法,故曰法眼。卜氏云:“追尋仙蹟,看格尤勝看書。”楊氏云:“勸君且去覆舊墳,勝讀十卷撼龍文。”又曰:“見格多時心易曉,見多勝耳千回聞。”又云“若不看格信人說,俗師不曉能惑人”是也。

地理という学問には、「道眼」と「法眼」がある。道眼は生まれながらにして有する悟性で、常人の企及し得るものではない。いわゆる法眼は、必ず師に従って伝を受け、歴代の名墓を遍く見て、どのようなものが吉と算え、どのようなものが凶と算え、「龍」「穴」がどうすれば格に入り、「砂」「水」がどうすれば局に合するかを、一処一処覈対検点し、以てそれを準縄とする。だから法眼と呼ぶのである。卜則巍は言った。「前賢の留めた名穴の遺跡を追尋し、実地の格局を見ることは書を読むより管く用いる。」楊筠松は言った。「君に勧む且く旧墳を覆(くつがえ)せ、十巻の撼龍文を読むに勝れり。」また言う。「格を見ること多ければ心は暁り易し、多く見るは耳の千回の聞に勝れり。」また言う「若し格を看て人の説を信ぜずんば、俗師曉らざる能く人を惑わす」、講ずるは皆この理である。

故將欲營宅兆,必須先去多觀仙蹟名墓,以彼為法,則庶幾心目有主,不被假地所惑,誠一緊要事也。為人子者,當念厝親是平生第一大事,上為親體安寧之謀,下保子孫久遠之計,而不可憚其登渉之勞也。

だから墓地を営造しようと打算する前に、必ず先に多く前賢の留めた名穴の古墓を見に行き、以てそれらを準則としなければならない。こうすれば心の中と眼の裏に主見があり、假地に迷惑されず、これは実に一つの緊要な事である。子たる者は思うべきだ、父母を安葬するのは一生の第一等の大事で、上は父母の遺体の安寧のために打算を作し、下は子孫の長久のために保障を為す。ここにおいて絶えて山に登り水を渉る辛苦を怕れてはならない。

九 良師を択ばざるべからず

曾葛溪曰:“求地必先擇良師,師非其人,為害不淺。”誠哉言也!蓋得地非難,得師為難。得其師,不患不得其地。苟師非其人,毀瓦畫墁,雖有美地,而或扦失其穴;雖得美穴,而或葬乖其法,況欲其尋地乎?故擇師又為求地之先務也。

曽葛溪は言った。「地を求めるには必ず先ず良い地師を択ぶ。地師がもし合適な人でなければ、為害は浅くない。」この言葉は実にその通りである。良い地を得るのは難しくないが、良い地師を得るのが難しい。ただ良い地師を得れば、良い地を得ないことを愁うには及ばない。もし地師があのような人でなければ、人の家の瓦を拆毁し壁に乱塗するようなもので、たとい美好の地があっても、彼は穴を点穴して偏すかもしれない。たとい美穴を得ても、彼は安葬するに法度に違背するかもしれない。まして彼に望んで地を尋ねさせられようか。だから地師を選択することはまた地を求める前の第一の要務である。

然地學之師亦難矣哉,非通儒不能窮理格物以致其知,非眞授受不識榘矱微妙以盡其奧。通儒術,得傳授,苟蔑其德,吾恐指鹿為馬,誑鳥為鸞,而為害尤甚。是故備斯三者,然後始為良師。雖然,師固不可不擇,擇而得其人,又須謁誠以感之,故曰取人以身。

然るに地理の師を為すことも真に難しい。通達の儒者でなければ、物理を窮究し格物致知して真知を得ることができない。真の師承授受がなければ、その中の規矩法度の微妙を認識できず、その深奥を窮尽することができない。しかし儒術に通暁しまた真伝を得たとしても、もし彼に德行がなければ、私は彼が鹿を指して馬と為し野鳥を以て鳳凰と説くことを恐れる。為害はかえって更大きい。だから必ず学問・師承・德行の三者を兼ね備えてこそ、初めて良師と算えられる。とはいえ、地師は固より択ばざるべからざるも、合適な人を択び得たら、さらに誠意を以て門を登って彼を感動せしめなければならない。だから言う「人を取るに身を以てす」と。まず自己を端正して、初めて人才を得ることができるのである。

十 陰徳を修めざるべからず

蔡文節公曰:“積德為求地之本也。凡人慾為子孫永遠計者,當以公心處世,方便行事。一念合理,百神歸向,擇地論穴又其次也。不然,吾德之不修,而徒責効於祖宗父母之遺骨,朝移夕改,愈更愈謬,其悖逆不孝之罪,適足以取誅譴於造物,顧何益哉!”

蔡元定(文節公)は言った。「徳を積むことは地を求める根本である。凡そ子孫のために長遠の打算を作さんとする者は、公心を以て世に処り、人と方便を以て事を行うべきである。ただ一念が天理に合すれば、百神は皆彼に帰し、地を択び穴を論ずるのはなおその次である。そうでなければ、自己の徳行を修養せずして、一味に祖宗父母の遺骨の上に効験を索取し、朝に遷し晩に改め、改すれば改するほど荒謬となる。その悖逆不孝の罪過は、恰好造物の誅責を招来するに足るだけで、何の益があろうか。」

吳文正公曰:“嘗見人家求得吉地,而後不蒙其福,反見凶禍者,何哉?若非立穴之誤,便是立向之差。又有掘鑿大過,傷龍傷穴,變吉成凶。又有已得吉地,又得明師,而乃固執己見,移穴易向。相地者惟務承順,不復執術,遂至防誤。又或術者憸心詭行,不肯盡術。又有既得吉地,葬之不差,而子孫輕信人言,輒遷改,他姓得之,因以獲福。凡此未必盡皆術者之過,往往冥冥中有使然者,由不積德之故也。不積德而求地,譬之不耕而求獲,寧有是理哉!”

呉澄(文正公)は言った。「常に見るに人家が吉地を求め得たのに、後に福報を蒙ることなく、かえって凶禍に遭遇する。これはなぜか。穴を点穴して錯誤したのでなければ、向を立てて偏したのであろう。また開挖しすぎて「龍」を傷り「穴」を傷り、吉を変じて凶と為したものもある。またすでに吉地を得て高明な地師を請けたのに、主家が己見を固執して強いて穴を移し向を改めようとし、地を相する者はただ主家の心意に順うことを求めて、もはや自己の法術を堅持せず、そこで失誤を醸成したものもある。あるいは術士が居心奸邪で行事詭詐で、本领を使い尽くすことを肯んじなかったものもある。またすでに吉地を得て葬りも悪くなかったのに、子孫が他人の言を軽信して動もすれば遷改し、別姓の人家にこの地を得させて、因りて発福したものもある。これらの事は未だ必ずしも全て術士の過錯ではなく、往々にして冥冥の中に何かがこれをさせたもので、根源は徳を積まないにある。徳を積まずして良い地を求めようとするのは、耕種せずして収穫せんとするに譬えて、どうしてこの理があろうか。」

按:二公所論切當。蓋欲陰地好,先要心地好。先大父存耕公嘗勸人不可以勢力營風水,因作詩云:踏破鐵鞋無覓處,得來全不費工夫,牛眠鶴舉獲奇遇,只存方寸地中求詩見《存耕稿》。鄉達松軒葉先生以之為名言。

按:蔡・呉両氏の議論は皆甚だ切当である。「陰地」が良いことを得るには、まず「心地」が良くなければならない。私の祖父の存耕公はかつて人に勧めて勢力を恃んで風水を営謀すべからずと言い、これがために一首の詩を作った。「鉄鞋を踏破すれども覓る処無し、得れば全く工夫を費やさず。牛眠鶴擧に奇遇を獲るも、ただ方寸の地の中に求むるに存す。」(詩は『存耕稿』に見える。)同郷の賢達松軒葉先生はこれを名言と推した。

又宋謙父詩曰:世人盡知穴在山,豈知穴在方寸間。好山好水世不欠,尚非其人尋不見。我見富貴人家墳,往往葬時皆貧賤。迨其富貴力可求,人事極時天理變。故得吉地,必有德可以膺福,然後神以吉地畀之。神之俾以吉地,即天之報善故也。欲求吉地,為祖父宅兆,俾先人之體魄安而後世之榮盛不替者,當先積德以端其本焉。

宋謙父にも詩があり言う。「世人は尽く穴は山に在りと知るも、豈に知らん穴は方寸の間に在ることを。好山好水は世に欠かざるも、なお其の人にあらざれば尋ねて見えず。我見るに富貴人家の墳、往々にして葬る時は皆貧賤なり。其の富貴に迨(およ)び力に求め得るも、人事極まる時は天理変ず。」だから吉地を得る人は、必ず徳行があって福報を承受するに足りて、然る後に神明は初めて吉地を彼に与える。神明が彼に吉地を与える所以は、まさに上天が善行に報答する故である。吉地を求め得て祖父のために墓穴を営造し、先人の体魄を安んじ後世の栄盛を衰えざらしめんとすれば、まず徳を積んで以てこの根本を端正すべきである。

或曰:求地必本於德,則亦修德而已,擇地之術,又焉用哉?予曰:擇地以藏親為計。人子之於親也,固當無所不用其極。苟慮夫親魄之安危,則豈容不慎重而廣擇之哉!修德以竢天,擇地以盡人,並行而不悖,仁人孝子之為心也。

或る人は言う。地を求めるに根本が德行にあるからには、徳を修めれば足りるのであって、地を択ぶ方術は何の用があるか、と。私は答えて言う。地を択ぶのは父母を妥く安蔵するためである。子たる者が父母に対するには、もともと至るところ極致を尽くすべきである。すでに父母の魂魄の安危を顧慮するからには、どうして慎重でなく広く択ぶことを容れられようか。徳を修めるは天意を待つのであり、地を択ぶは人事を尽くすのであり、両者は并行して冲突せず、これこそ仁人孝子の存心である。

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