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山河両戒を論ず

明 · 徐善继、徐善述 · 第4巻 / 56

作盤ガイド: 玄空飛星の作盤, 暦注(黄暦)

按:唐一行以天下山河之象存乎兩戒。北戒自三危、積石,負終南地絡之陰,東及太華,逾河,並雷首、底柱、王屋、太行,北抵常山之右,乃東循塞垣,至濊貊、朝鮮,是謂北紀,所以限戎狄也。

按:唐代の一行禅師は天下の山河の形象は南北「両戒」に存在すると認めた。「北戒」は三危山・積石山より起こり、終南山の地絡の北面を背負い、東は太華山に至り、黄河を越え、雷首山・砥柱山・王屋山・太行山に連上し、北は常山の右側に抵達し、さらに東は長城の塞垣に沿って、一直線に濊貊・朝鮮に至る。此の一条を「北紀」と呼び、用いるは戎狄の界限を划断するためである。

南戒自岷山、嶓冡,負地絡之陽,東及太華,連商山、熊耳、外方、桐柏,自上洛南逾江、漢,攜武當、荊山,至於衡陽,乃東循嶺徼,達東甌、閩中,是謂南紀,所以限蠻夷也。故《星經》謂“北戒為‘胡門’,南戒為‘越門’。”

「南戒」は岷山・嶓塚山より起こり、地絡の南面を背負い、東は太華山に至り、商山・熊耳山・外方山・桐柏山に連上し、上洛より南は長江・漢水を越え、武当山・荊山を帯びて、一直線に衡陽に至り、さらに東は五嶺の辺徼に沿って、東甌・閩中に通ずる。此の一条を「南紀」と呼び、用いるは蛮夷の界限を划断するためである。だから『星経』は言う「北戒は『胡門』、南戒は『越門』」と。

河源自北紀之首,循雍州北徼,達華陰,而地絡相會,並行而東,至太行之曲,分而東流,與涇、渭、濟瀆相為表裡,謂之“北河”。江源自南紀之首,循梁州南徼,達華陽,而與地絡相會,並行而東,及荊山之陽,分而東流,與漢水、淮瀆相為表裡,謂之“南河”。

黄河の源頭は「北紀」の開端に起こり、雍州の北辺の徼外に沿って、華陰に到達し、あそこで地絡と相会し、一幷に東して行く。太行山の弯曲の処に至り、分かれて東に流れ去り、涇水・渭水・済水と互いに表裏と為る。此の一段を「北河」と称する。長江の源頭は「南紀」の開端に起こり、梁州の南辺の徼外に沿って、華陽に到達し、あそこで地絡と相会し、一幷に東して行く。荊山の南面に至り、分かれて東に流れ去り、漢水・淮水と互いに表裏と為る。此の一段を「南河」と称する。

故於天象則弘農分陜為西河之會,五服諸侯在焉。自陜而西為溱涼。北紀山河之曲為晉、代,南紀山河之曲為巴、蜀。皆負險用武之國也。自陜而東,三川、中嶽用為成周。西距外方、大伾,北至於濟,南至於淮,東達鉅野,為宋、陳、鄭、蔡。河內及濟水之陽為都、衛;漢東濱淮水之陰為東隨。皆四戰用文之國也。

だから天象の分野の上では、弘農・陝地一帯は西河の交会する処で、五服の諸侯は皆そこにいる。陝地より西は秦・涼であり、北紀の山河が弯曲する処は晋・代、南紀の山河が弯曲する処は巴・蜀である。これらは皆険要を憑恃し、武力を以て立国した処である。陝地より東は、三川と中岳一帯が成周と為り、西は外方山・大伾山に至り、北は済水に至り、南は淮水に至り、東は巨野に至る。この一帯は宋・陳・鄭・蔡である。黄河以内と済水之北は邘・衛であり、漢水之東・淮水之南は東随である。これらは皆四面敵を受け、ただ文徳を以て立国するほかない処である。

北紀之東,至北河之北,為邢、趙。南紀之東,至河南之南,為荊、楚。自北河下流,南距岱山,為三齊,夾右碣石為北燕。自南河下流,北距岱山,為鄒、魯。南渉江、淮,為吳、越。皆負海之國,貨殖之所阜也。自河源循塞垣北,東及海,為戎狄。自江源循嶺徼南,東及海,為蠻越。觀兩河之象,與雲漢之所終始,而分野可知矣。

北紀以東、直ちに北河以北に至るは、邢・趙である。南紀以東、直ちに黄河以南の南辺に至るは、荊・楚である。北河の下游より起こり、南は泰山に抵るは三斉である。右に碣石を挟むは北燕である。南河の下游より起こり、北は泰山に抵るは鄒・魯である。さらに南して長江・淮水を渡るは呉・越である。これらは皆大海を背負う国で、貨物貿易の興盛して富庶なる処である。黄河の源頭より塞垣に沿って北し、東して直ちに海辺に至るは戎狄である。長江の源頭より五嶺の辺徼に沿って南し、東して直ちに海辺に至るは蛮越である。南北両河の形象、および天上の銀河の起訖の位置を観察すれば、各地の星野の帰属は推知することができる。

三大干龍を論ず

朱子曰:天下有三處大水,曰黃河,曰長江,曰鴨緑江。今以輿圖考之,長江與南海夾南條,盡於東南海。黃河與長江夾中條,盡於東海。黃河與鴨緑江夾北條,盡於遼海。按:鴨緑江,近時使朝鮮諸臣至其地見之。回,謂其源甚短淺,必別有一水來送北幹。然荒溟莫之能考矣。

朱熹は言う。天下に三処の大水あり、すなわち黄河・長江・鴨緑江である。いま地図を以て覈対すれば、長江と南海は「南条」の干龍を挟み、東南の海に止まる。黄河と長江は「中条」の干龍を挟み、東海に止まる。黄河と鴨緑江は「北条」の干龍を挟み、遼海に止まる。按:鴨緑江は、近く朝鮮に出使した諸大臣があそこに至りて親しく見、帰りて言うに、その源頭は甚だ短く浅いという。然らば必ず別に一条の水ありて北干龍を送るのであろう。ただあの一帯は荒遠渺茫で、考究する由なし。

此則自其水原極遠者言之耳。若其分幹之條猶多,難以盡舉。如以江淮河漢四瀆論,則中幹又自分三條。大扺河源極長,江次之,淮漢又次之。故有三條四列之說,不過概論其大而已。

上面に講ずるところは、ただ水源の最も遠いあの几条に就いて言っただけである。もし分出する干支を論ずれば、条数はなお多く、一々に列挙しがたい。譬えば長江・淮水・黄河・漢水の四涜に按じて論ずれば、中干龍は自身また三条に分かれる。大体言えば、黄河の源頭が最も長く、長江はこれに次ぎ、淮水と漢水はまたこれに次ぐ。だからこそ「三条四列」の説があるも、概括的に一つの大勢を講じたに過ぎない。

南条干龍の脈絡を論ず

按廖氏金璧玄文云:“大江以南之龍,其脈起自岷山在茂州岷山縣。遶行向西,自西而南,至雲南之境,又東趨夜郎,踰桂嶺,至零陵,為九疑山,入桂連。”《撼龍經》云“五嶺分星入桂連”是也。過大庚嶺,出南雄山汀,從邵武抵信走徽,東行為天目。

廖氏の『金璧玄文』に按ずれば言う。「長江以南の龍は、脈は岷山より起こり(茂州岷山県にあり)、繞行して西に向かい、再び西より南に転じ、雲南の境内に至り、また東して夜郎に趨き、桂嶺を越え、零陵に至りて九疑山と為り、桂陽・連州に入る。」楊筠松の『撼龍経』の言う「五嶺分星して桂連に入る」は、講ずるはまさにこの一段である。それは大庾嶺を経過し、南雄・汀州一帯に出で、邵武より信州に抵達し、徽州に走向し、東して行きて天目山と為る。

一枝為錢塘。《經》云“一枝分送入海門”凡稱經者,即楊公三龍經。後仿此,又云“海門旺氣連閩粵,南隴支龍交相纏。此是海門南脈絡,貨財文武交相錯”是也。一枝為建康今南京應天府,盡江陰。《經》云“幹龍盡在江陰濱”是也。一枝逆長江盡鄱湖。其水源,自蜀岷山至於九江,會彭蠡,下而過秣陵,出京口,以入於海。

その中の一支は銭塘と為る。『撼龍経』は言う「一枝分かれて送りて海門に入る」(凡そ『経』と称するは、皆楊筠松の三部龍経を指す。以下これに同じ)、また言う「海門の旺気は閩粤に連なり、南隴の支龍は交相纏う。これは海門の南脈絡で、貨財・文武は交相錯う」、講ずるはまさにこの一支である。もう一支は建康と為る(すなわち今の南京応天府)、江陰に止まる。『経』の言う「干龍は尽く江陰の浜にあり」とはそれを指す。さらに一支あり、長江に逆らって行き、鄱陽湖に止まる。この一帯の水源は、四川の岷山より九江に流れ、鄱陽湖の水と会合し、下りて秣陵を流れ過ぎ、京口に出でて大海に注入する。

中条干龍の脈絡を論ず

大河以南,大江以北,乃中條幹龍。其脈起自西傾在洮州臨草縣,行隴右,《經》云“山來龍右尖如削,盡是貪狼更高卓”是也。過鳯翔,《經》云“行行退卻大散關在鳯翔府寳雞縣,百二山河在此間。大纏大護到函谷在宏農縣,水遶黃河如玦環”是也。為長安。

黄河以南・長江以北のものは、「中条」の干龍である。その脈は西傾山より起こる(洮州臨潭県にあり)、隴右を行経する。『撼龍経』の言う「山の来たる龍右は尖りて削ぐが如く、尽く是れ貪狼の更高卓」とはこの一段を指す。鳳翔を経過す。『経』は言う「行行退却して大散関(鳳翔府宝鶏県にあり)、百二山河は此間に在り。大纏大護は函谷に至り(弘農県にあり)、水は黄河を繞らして玦環の如し」、講ずるはまさにここである。さらに下りてすなわち長安と為る。

一枝出熊耳在高州,《經》云“低平漸漸出熊耳,萬里平洋漸如砥”是也。為嵩嶽,為汴,《經》云“大梁形勢亦無山,到此尋龍何處是?若無河流與淮水,渺渺茫茫不見山”是也。此處脈亂於河,《經》云“河流沖決山斷絶,又無石骨又無脈。君若到彼說星峰,一句不容三寸舌”是也。

その中の一支は熊耳山より出づ(虢州にあり)、『経』は言う「低平として漸々熊耳を出づ、万里の平洋は漸く砥の如し」とはそれを指す。さらに嵩山と為り、汴梁と為る。『経』は言う「大梁の形勢もまた山なし、此に至りて龍を尋ぬれば何れの処か是れ。若し河流と淮水なからんには、渺渺茫茫として山を見ず」、講ずるはまさにこの一帯である。この一処の龍脈は黄河に攪乱せられたり。『経』は言う「河流は冲決して山は断絶す、また石骨なくまた脈なし。君若し彼に至りて星峰を説かば、一句も三寸の舌を容れず」、説くはまさに此地である。

出兗為泰嶽,《經》云“黃河在北大江南,兩水夾行勢不絶。行到魯齊忽起峰,兗州東嶽揷天雄。分枝擘脈鍾靈氣,聖賢多在魯邦中”是也。一枝盡於滄棣,一枝盡於登萊。其水源則濟水出綘州垣曲縣,至孟州溫縣入河。復出河之南,溢而為滎。又東北,至於青州入海。自宋元以來,河水穿淮,黃河故道淤,而東嶽泰山今在河北矣。

兗州一帯に出でて東岳泰山と為る。『経』は言う「黄河は北に在り大江は南、両水は挟行して勢い絶えず。行きて魯斉に到り忽ち峰を起こし、兗州の東岳は天に插して雄し。分枝擘脈して霊気を鍾め、聖賢は多く魯邦の中に在り」、講ずるはまさにここである。別に一支ありて滄州・棣州に止まり、一支は登州・莱州に止まる。この一帯の水源は、済水は絳州垣曲県より出で、孟州温県に至りて黄河に注入し、また黄河の南岸より冒出し、漫溢して滎沢と為り、さらに東北して青州に至りて海に入る。宋元以来、黄河は淮を奪いて行き、旧黄河の河道は淤塞した。これにより東岳泰山はいま却って黄河の北面にある。

又一枝自嶓冡西行湄州、漢水之間,出武闗,由裕過唐,抵信陽,行淮水之南,趨廬,行淮水之東,為揚,盡於通。其水源,漢水出嶓冡,至漢陽縣入江。淮水出桐柏山在唐州桐柏縣,至淮安入海。此中幹分而為二,故曰三條四列。

また一支ありて嶓塚山より西に行き、湄州と漢水の間を走り、武関に出で、裕州より唐州を経過し、信陽に抵達し、淮水以南に沿って行き、廬州に趨き、さらに淮水以東に沿って行き、揚州と為り、通州に止まる。この一帯の水源は、漢水は嶓塚山より出で、漢陽県に至りて長江に注入する。淮水は桐柏山より出で(唐州桐柏県にあり)、淮安に至りて大海に注入する。これが中干龍のまた二支に分かれる所以で、だから「三条四列」と言うのである。

北条干龍の脈絡を論ず

大河以北之龍,其脈起自崑崙。《經》云“崑崙山腳出闐顏闐音田,西戎國名,只只都是破軍山。連綿走入瀚海北北海名,風俗強悍人粗頑。生兒五歲學騎射,骨鯁方剛是此間”是也。至白登山名,在大同府白登縣,西一枝為壺口在隰州吉鄉縣、太嶽在晉州霍邑。

黄河以北の龍は、脈は崑崙より起こる。『撼龍経』は言う「崑崙山の脚は闐顔に出に出づ(「闐」は田と読む、西戎の国名)、只只皆破軍の山。連綿として走り入る瀚海の北(北海の名)、風俗は強悍にして人は粗頑。児を生じて五歳にして騎射を学ぶ、骨鯁方剛は此間なり」、講ずるはまさにこの一段である。白登に至り(山名、大同府白登県にあり)、西面の一支は壷口と為り(隰州吉郷県にあり)太岳と為る(晋州霍邑にあり)。

次一枝南出為析城在澤州陽城縣、而又西折為雷首在河中府河中縣。又次一枝為太行在懐夢河內,北至幽州,九嶺綿亙一十二州之界,有八陘。又次一枝為恆山在定州曲陽縣。又次一枝為燕山,盡於平灤碣石山在平州廬縣。《經》云“若以幹龍論大盡,太行碣石至海堧 ”是也。其水源則汾水,出管州管涔山,至綘州入於海。

第二支は南に伸出して析城山と為る(沢州陽城県にあり)、また西に折れて雷首山と為る(河中府河中県にあり)。第三支は太行山と為る(懐慶河内にあり)、北は幽州に至り、九道の山嶺は綿亙して十二個州の地界に亙り、中間に八条の陘道ありて通ず。第四支は恒山と為る(定州曲陽県にあり)。第五支は燕山と為り、平州・灤州の碣石山に止まる(平州盧竜県にあり)。『経』は言う「若し干龍を以て大尽を論ぜば、太行・碣石は海堧に至る」、講ずるはまさにここである。この一帯の水源は汾水で、管州管涔山より出で、流れて絳州に至りて河海に注入す。

以上中國諸山,皆始崑崙,分脈四列,以遍九州島。北條出河北,入雲中,過雁門、代郡,復回南而太原帝邱,循太行、恆山,派九河。東北渡遼海以入於海,為冀燕之分。中條出河南,自秦、隴、三輔入豐、沛、汾、晉,派伊、洛,東而淮泗,以入於海,為雍、豫、青、徐之分。南條出江南,自陜右分出西鄙,回巴蜀,踰荊衡,入黔中。東而匡阜,南極嶺。復東北,渡閩粵,跨三吳,自浙右以入於海。為梁、荊、揚之分。此三干之佈於九州島也。

以上に講ずる中国の衆山は、皆崑崙より起こり、四列の脈絡に分かれて九州に遍布する。「北条」は河北より出で、雲中に入り、雁門・代郡を経過し、再び折れ返して南面し太原・帝丘に至り、太行山・恒山に沿って行き、九河を分出し、東北して遼海を渡りて海に入る。冀州・燕地の分野に属す。「中条」は河南より出で、秦地・隴地・三輔より豊・沛・汾・晋に入り、伊水・洛水を分出し、東して淮水・泗水を経て海に入る。雍・豫・青・徐の分野に属す。「南条」は江南より出で、陝右より西部辺地を分出し、繞回して巴蜀に入り、荊山・衡山を越え、黔中に入る。東して廬山に至り、南して五嶺の尽きる処に至り、再び折れて東北し、閩粤を渡り、三呉を横跨し、浙西一帯より海に入る。梁・荊・揚の分野に属す。これが三大干龍の九州に分布する大勢である。

三干之龍,中幹為最尊。次北幹,又次南幹。歷代以來,如漢高祖之泗上,漢光武之白水村,宋太祖之夾馬營,我太祖之鍾離鄉,我世宗肅皇帝之龍飛承天,皆在中幹。而唐虞之君,俱為北產。南幹至宋高宗南渡來,運氣方興,萃產朱子,為萬世儒宗。而邇來人物,東南頗多,其最長者為金陵,我國朝根本重地,太祖高皇帝龍興之畿也。

三条の干龍の中では、中干が最も尊貴で、其次は北干、再次は南干である。歴代以来、漢高祖は泗上より出で、漢光武帝は白水村より出で、宋太祖は夾馬営より出で、本朝太祖は鍾離郷より出で、本朝世宗粛皇帝は承天に龍飛した。皆中干に在り。而して唐堯・虞舜の両君主は、皆北干に出産した。南干は宋高宗の南渡以後に至りて気運が興起し、鍾聚して朱熹を生出し、万世の儒者の宗と為した。近く来る人物もまた東南一一帯に較べて多い。南干の最長の一処の結作は金陵で、あれは本朝の根本の重地、太祖高皇帝の龍興した畿輔の地である。

中幹之最長者盡東泰,翻身顧祖,東海外蕩,河江前回。萃產孔聖,及賢貴凝聚。宋末河徙,截其來脈者三,會通河復加截之,其力遂微。而中幹之旺氣乃萃於四州鳯陽。我皇朝熙祖仁祖二陵在焉。

中干の最長の一支は東岳泰山に止まり、あそこで翻身して回頭して祖山を朝顧し、東海は外面に蕩漾し、黄河と長江は前面に回繞す。ここに霊気を鍾聚して孔聖人を生出し、歴代の賢人・貴人もまた此に凝聚す。宋朝の末年黄河は改道し、その来脈を截断すること三処、後に会通河を開凿してまた一道を加截した。その力量はここにおいて転弱した。而して中干の旺気は便ち泗州・鳳陽一帯に鍾聚し、本朝の熙祖・仁祖の両座の陵寝はあそこにある。

按王文祿《龍興慈記》云:“泗州有楊家墩,墩有窩。熙祖嘗臥其中,有二道士過,指臥處曰:‘若塟此,出天子。’其徒曰:‘何也?’曰:‘此地氣暖。試以枯枝栽之,十日必生葉。’告煕祖起曰:‘汝聞吾言乎?’熙祖佯睡。乃以枯枝揷之去。熙祖候之十日,果生葉。熙祖拔去,另以枯枝揷之。二道士復來。其徒曰:“葉何不生?”是時熙祖在傍,睨之。道士指曰:‘此必人拔去矣。’熙祖知不能隱。道士謂之曰:‘汝有福,歿後當塟此,出天子。’

王文禄の『龍興慈記』に按ずれば言う。「泗州に楊家墩というのがあり、墩の上に凹窩がある。熙祖はかつてその中に躺いていた時、二人の道士が経過し、彼の躺卧した処を指して言う。『若しここに葬らば、天子を出さん。』徒弟が問う。『何の故ぞ。』師は言う。『この処は地気が温暖なり。試しに枯枝を一根插し入れよ、十日に必ず葉を長ぜん。』また熙祖を叫び起こして言う。『汝はわが言を聞きしか。』熙祖は睡るを仮装した。道士は便ち枯枝を插し下ろして去った。熙祖は十日を待ち、あの枯枝は果たして葉を生じ、それを拔き去り、別に枯枝を一根插し上げた。両人の道士はまた来たり、徒弟は言う。『葉はどうして長ぜざる。』当時熙祖は旁に在りて斜めに眼で看ていた。道士は指して言う。『これは必ず人に拔き去られたなり。』熙祖は瞞し得ざるを知った。道士は便ち彼に対して言う。『汝は福気あり。死後は応にここに葬るべし。天子を出さん。』」

熙祖語仁祖。後果得塟,塟后土自壅為墳。半載,陳太后孕太祖,皆言此墩有天子氣。仁祖徙鳯陽,生太祖於盱眙縣鍾離靈鄉,方圓丈許,至今不生草木。仁祖崩,太祖奉神柩至中途九龍崗,風雨大作,索斷,土自壅成墳。人言塟九龍頭上。”

熙祖はこの言を仁祖に告げた。後に果たしてあそこに葬り、葬り下ろした後泥土は自ら壅起して墳と為った。半年を過ぎ、陳太后は便ち太祖を懐妊し、人々は皆この土墩に天子の気ありと言った。仁祖は鳳陽に遷り、盱眙県鍾離の霊郷に太祖を生む。あの地は方円一丈ほど、今に至るまで草木を長ぜず。仁祖の去世の時、太祖は霊柩を奉じて半路の九龍崗に至り、忽然として風雨大作し、繩索は断え、泥土は自ら壅起して墳と為った。人々は皆これは九龍の頭上に葬りたるなりと言う。」

按松江徐長谷大地圖云:“熙祖陵龍脈發自中條,王氣攸萃。前瀦水成湖作內明堂。淮河、黃河合襟作外明堂。淮上九峰揷天,為遠案。黃河西遶。元末,東開會通河復遶之,而聖祖生矣。”仁祖陵即吳景鸞獻宋室者。宋不能用,葢天留以待我皇朝之厚福無疆也,豈偶然哉?

松江の徐長谷の『大地図』に按ずれば言う。「熙祖陵の龍脈は中条干龍より発し、王気は皆あそこに鍾聚す。陵の前に水を積みて湖と為し、以て「内明堂」と為す。淮河と黄河は交合して襟と為し、以て「外明堂」と為す。淮河の上流の九座の山峰は天に插して立ち、以て遠処の「案山」と為す。黄河は西面より環繞す。元朝の末年に東面に会通河を開凿し、また一重を環繞した。ここにおいて聖祖は降生した。」仁祖陵のあの地は、すなわち当年呉景鸞が宋朝皇室に進献したあの一処である。宋朝は福なくして享用せず、大概は上天が留めて本朝のあの無窮無尽の厚福を待たせたのであろう。これ豈に偶然ならんや。

北幹最長,為燕京,今京師也。朱子曰:“冀都是正天地中間,好個大風水。山脈從雲中發來。雲中正高脊處,自脊以西之水,則西流入於龍門、西河;自脊以東之水,則東流入於海。前面黃河環遶。右畔是華山聳立,為虎。自華來至中為嵩山,是為前案。遂過去為泰山,聳於左,是為龍。淮南諸山是第二重案,江南諸山及五嶺南安大庾嶺、桂陽騎田嶺、九眞都龐嶺、臨賀萌治嶺、治安越城嶺是也。又為第三四重案。”正謂此也。

北干の最長の一処の結作は燕京で、すなわち今日の京師である。朱熹は言う。「冀都は正に天地の中間に当たり、好ましい大なる風水なり。山脈は雲中より発来し、雲中は正に最高の山脊なり。山脊以西の水は西に流れて龍門・西河に入り、山脊以東の水は東に流れて大海に入る。前面に黄河の環繞あり。右は華山の聳立し、以て「白虎」と為す。華山より過ぎ来りて中間は嵩山、以て前面の「案山」と為す。さらに過ぎ去るは泰山、左に聳立し、以て「青龍」と為す。淮南の衆山は第二重の案山、江南の衆山および五嶺(南安の大庾嶺・桂陽の騎田嶺・九真の都龐嶺・臨賀の萌渚嶺・始安の越城嶺)はまた第三・第四重の案山を作る。」講ずるはまさにここである。

吳興唐子鎮以燕京為枝結,謂朱子所論冀都指作堯都,非也。彼葢未考舜分冀東為幽州,而幽燕古通稱冀耳。徜如所指,則朱子又何復曰“堯都中原,風水極佳,左河東太行諸山相繞,海島諸山亦皆相向”云云?此不待辨說而明矣。故邱文莊公《循義補》直以朱子所稱為今京師,誠確見也。其以燕京為枝結者,不為妄談乎?

呉興の唐子鎮は燕京はただ旁支の結ぶところと認め、朱熹の論ずる冀都は堯都を指すと言う。これは誤りである。彼は大概考察せざるなり。虞舜は冀州の東部を划分して幽州を設け、而して幽燕は古代に本来就に冀と通称した。倘若まことに彼の指すが如くならば、朱熹は何の故にまた別に「堯は中原に都し、風水極佳なり。左は河東・太行の諸山は環繞し、海島の諸山も皆それに朝向す」というような言を為したか。この一点は辯説せずとも甚だ明白である。だから丘濬(文荘公)の『大学衍義補』は徑直に朱熹の言う冀都を以て今日の京師と為す。実に確切の見解である。燕京をただ旁支の結作と為すあの種の説は、豈に妄談ならずや。

夫南幹正結為南畿,及我大祖高皇帝孝陵在焉。中幹正結為我熙祖泗州、仁祖鳯陽二陵。中結為我承天獻宗皇帝顯陵。北幹正結為今日京師暨天壽山昌平州列聖陵寢。三干之盡,惟我朝獨會其全。回視唐虞以來,或得正幹之一,或得分幹之一者,亦能衍數百年之基,則我皇朝三大干之全福力量,眞億萬斯年可預卜於茲也。草茅之士,躬逢其盛,寍不為聖朝之深慶哉。

南干の正結は南京の畿輔で、本朝太祖高皇帝の孝陵はすなわちあそこにある。中干の正結は本朝熙祖の泗州陵・仁祖の鳳陽陵、中間の一結は承天の献宗皇帝の顕陵。北干の正結は今日の京師および昌平州天寿山の列位聖君の陵寝である。三条の干龍の尽結の処は、ただ本朝だけがその全を独得した。唐堯虞舜以来を回頭して見れば、或るはただ正干の中の一処を得、或るはただ分干の中の一処を得たのみでも、なお数百年の基業を開くことができた。然らば本朝の兼ねて三大干龍の全部の福沢の力量を得たるは、真にここに億万年の国祚を預卜すべきである。我がごとき一介の草野の士、身を以てこのような盛世に趕え遇う、何ぞ聖朝のために深く慶幸せざらん。

重刊『人子須知』資孝地理心学統宗 巻一之下

此一冊専論天下古今帝都及星垣所合形勢。頋草茅之士何敢僭議及此?且非人子求風水者之事。但欲論地,必先識大幹龍。而大幹龍之所鍾,必天下大都會大垣局,亦君子所當知者,爰輯其大概於左。

この一冊は専ら天下古今の帝都および天上の星垣と相合する形勢を論ずる。しかし我一介の草野の士、どうして敢えて僭越してこの一層に議論を及ぼさんや。況んやこれもまた人の子の為に風水を求める人の所需の事に非ず。ただ地を論ぜんと要すれば、必ず先ず大干龍を認識せねばならず、而して大干龍の鍾聚する処は、必ず天下の大都会・大垣局なり。これもまた君子の応に知るべきところ、ここにおいて大概の情形を下面に彙輯す。

帝都を論ず

夫地理之大,莫先於建都立國。稽古之先哲王,將營都邑,罔不度其可居之地以審其吉凶。如公劉將居豳也,其《詩》曰:“於胥斯原”。太王將居岐也,其《詩》曰:“聿來胥宇。”武王將居鎬京,其《詩》曰:“宅是鎬京。”成王將營洛邑,《書》曰:“召公既相宅。”衛文公將營楚丘,其詩曰:“升虛望楚。”見於經者如此,則宅都誠不可不重也。

地理の中の最大の事は、都を建て国を立つるより優先するはなし。古代のあの明哲なる先王を考察するに、凡そ都邑を営建せんとすれば、可居の地を度量してその吉凶を審察せざるはなし。譬えば公劉が将に豳地に定居せんとするや、『詩経・公劉』は言う「于胥に斯の原」(この原野を察看す)。太王が将に岐山に定居せんとするや、『詩経・綿』は言う「聿た来たりて宇を胥く」(来たりて住処を相看す)。武王が将に鎬京に定居せんとするや、『詩経・文王有声』は言う「是の鎬京に宅す」。成王が将に洛邑を営建せんとするや、『尚書』は言う「召公すでに宅を相す」(召公はすでに宅地を相看した)。衛文公が将に楚丘を営建せんとするや、『詩経・定之方中』は言う「虚に升りて楚を望む」(故城に登りて楚丘を眺望す)。経書に見るところこの如し。これを知れば国都を選定することは実に鄭重ならざるべからず。

雖然,張子微有云:“帝王之興也,以德而不以力;其守也,以道而不以地。”堯舜聖人,其所建立,未必慮及於風水之說。但聖人之興,自合造化,聖人所作,動為法則,風水固不拘,而密協於龜卜,即天造地設之自然者也。故《易》曰:“王公設險以守其國”,此理固先天地而有,即風水之攸始矣。

話は然りとはいえ、張子微はかつて言った。「帝王の興起は、徳に靠り武力に靠らず。帝王の守成は、道に靠り地利に靠らず。」堯舜は聖人で、彼らの都を建て国を立つるは未必風水の説を考慮したとはいえぬ。ただ聖人の興起は本来就に造化に暗合し、聖人の作為は動けば法則と為る。風水に拘束せらるることなしとはいえ、却って亀卜の結果と暗暗の中に相合す。これは正に天造地設の自然の理である。だから『周易』は言う「王公は険要を設置してその国を守る」。この道理は本来就に天地より先んじて存在し、すなわち風水の開端である。

予嘗稽諸歷代建都之地,得正龍之所鍾而合天星之垣局者,則傳代多,歷年久;非其正龍而不合星垣者,則皆隨建隨滅,豈非地理之明徵乎。謹將歷代建都之所詳録以備參考云爾。

私はかつて歴代の都を建てた処を考察した。凡そ「正龍」の鍾聚を得てしかも天上の星垣の格局に合うは、伝世の代数は多く、国を享くる年数は久しい。凡そ正龍に非ず、また星垣に合わざるは、皆剛に建立してすなわち滅亡す。これ豈に地理の霊験の明白な証拠ならずや。いま謹んで歴代の都を建てた処を詳細に記録し、以て参考に備えん。

歴代の帝都考

伏羲都陳今河南開封府陳州,在位一百一十五年。神農都陳河南,徙曲阜今山東兗州府曲阜縣,在位一百四十年。黃帝都涿鹿今北直隸涿州,傳四世,共三百九十年。堯都平陽今山西平陽府,在位七十二年。舜都蒲坂今山西蒲州,在位六十一年。禹都安邑今山西安邑縣,傳十七世,共四百五十八年。湯都亳今河南歸德府,傳二十八世,共六百四十四年。周都鎬闗中,東遷洛陽,傳三十七世,共八百七十三年。

伏羲は陳に都を建てたり(今の河南開封府陳州)、在位一百一十五年。神農は陳に都を建てたり(河南にあり)、後に曲阜に遷都す(今の山東兗州府曲阜県)、在位一百四十年。黄帝は涿鹿に都を建てたり(今の北直隸涿州)、四代を伝え、共に三百九十年。堯は平陽に都を建てたり(今の山西平陽府)、在位七十二年。舜は蒲坂に都を建てたり(今の山西蒲州)、在位六十一年。禹は安邑に都を建てたり(今の山西安邑県)、十七代を伝え、共に四百五十八年。商湯は亳に都を建てたり(今の河南帰徳府)、二十八代を伝え、共に六百四十四年。周は鎬に都を建てたり(関中にあり)、後に東遷して洛陽に至り、三十七代を伝え、共に八百七十三年。

秦都咸陽今陜西西安府,傳三世,共稱帝一十五年。西漢都闗中今陜西西安府,傳十二世,共二百一十四年。東漢都洛陽今河南府,傳十二世,共一百九十六年。三國漢都成都四川,二主,四十三年;魏都鄴,五主,四十六年;吳都建康,四主,五十二年。西晉都洛陽今河南府,傳四世,共三十七年。東晉都建康今應天府,傳十一世,共一百四年。南朝宋、齊、梁、陳皆都建康,宋八帝,五十九年;齊五主,二十三年;梁四主,五十六年;陳五主,三十三年。

秦は咸陽に都を建てたり(今の陝西西安府)、三代を伝え、帝と称すこと共に十五年。西漢は関中に都を建てたり(今の陝西西安府)、十二代を伝え、共に二百一十四年。東漢は洛陽に都を建てたり(今の河南府)、十二代を伝え、共に一百九十六年。三国の時期、蜀漢は成都に都を建てたり(四川にあり)、两位の君主、四十三年。曹魏は鄴に都を建てたり、五位の君主、四十六年。孫呉は建康に都を建てたり、四位の君主、五十二年。西晋は洛陽に都を建てたり(今の河南府)、四代を伝え、共に三十七年。東晋は建康に都を建てたり(今の応天府)、十一代を伝え、共に一百四年。南朝の宋・斉・梁・陳は皆建康に都を建てたり。宋は八位の皇帝、五十九年。斉は五位の君主、二十三年。梁は四位の君主、五十六年。陳は五位の君主、三十三年。

隋都長安今陜西,傳三世,共三十八年。唐都長安,傳一十八世,共二百六十九年;昭宗徙洛陽,傳二世,共十八年。宋都汴今河南,傳九世,共一百六十七年;高宗徙杭,傳九世,共一百五十三年。元都燕今京師順天府,傳九世,共八十八年。明太祖高皇帝都金陵今南京應天府,成祖文皇帝徙燕今京師即元故都。

隋は長安に都を建てたり(今の陝西)、三代を伝え、共に三十八年。唐は長安に都を建てたり、十八代を伝え、共に二百六十九年。昭宗は洛陽に遷都し、二代を伝え、共に十八年。宋は汴京に都を建てたり(今の河南)、九代を伝え、共に一百六十七年。高宗は杭州に遷都し、九代を伝え、共に一百五十三年。元は燕京に都を建てたり(今の京師順天府)、九代を伝え、共に八十八年。本朝太祖高皇帝は金陵に都を建てたり(今の南京応天府)、成祖文皇帝は燕京に遷都せり(今の京師、すなわち元朝の旧都)。

帝都は必ず星垣に合することを論ず

夫帝都者,天子之京幾,萬方之樞會。於以出政行令,蒞中國,撫四夷,宰百官,統萬民,天下至尊之地也。地理之大,莫先於此。必上合天星垣局,下鍾正龍王氣,然後可建立焉。葢在天為帝座星宮,在地為帝居都會,亦天象地形自然理耳。楊公云:“大抵山形雖在山,地有精光屬星次。體魄在地光在天,識得星光眞精藝。”故為地學,奚直俯察地理已哉!又須仰觀天文,始盡其奧。

いわゆる帝都は、天子の京畿・万方の枢紐会聚の地である。ここに政令を発布し、中国に君臨し、四夷を安撫し、百官を統領し、万民を統治す。天下の最も尊貴の処である。地理の中の最大の事は、これより優先するはなし。必ず上は天上の星垣の格局に合し、下は「正龍」の王気を鍾聚し、然る後に以て都を建つべし。天上においては帝座の所在する星宮なれば、地上においてはすなわち帝王の居住する都会なり。これもまた天象と地形の自然に相応ずる理である。楊筠松は言う。「大抵山形は山に在りとはいえ、地に精光ありて星次に属す。体魄は地に在り光は天に在り、星光を識得せば真の精芸なり。」だから地学を研究するは豈にただ俯して地理を察するのみで足らんや。必ずまた仰いで天文を観、以てその奥妙を窮尽するを要す。

按《天文志渾象》:中外官星凡二百四十六名,千二百八十一星。微星萬一千五百二十,分佈中外為垣者,曰紫薇、太薇、天市。垣之中皆有帝座,凡建都處,山川形勢,須與此合。楊公云:“要識垣中有帝星,皇都坐定甚分明。”廖氏云“帝都必要合星垣,紫薇在中天。其次太微與天市,皆有帝座位”是也。

『天文志・渾象』に按ずれば、中官と外官の星は共に二百四十六の名目・一千二百八十一顆の星あり、別に細微の小星一万一千五百二十顆あり。中外に分布して「垣」と為るは、紫微垣・太微垣・天市垣である。三垣の中に皆「帝座」あり。凡そ都を建てる処は、山川の形勢は必ずこれと相合せねばならぬ。楊筠松は言う。「要するに垣中に帝星あるを識れ、皇都の坐定するは甚だ分明なり。」廖瑀は言う「帝都は必ず要して星垣に合せよ、紫微は中天に在り。その次は太微と天市、皆帝座の位あり」、講ずるはまさにこの道理である。

今以三垣天星地形述後。外少微垣為士大夫權天帝文章之府。天苑、天園為天子養獸植菓之所。雖亦有垣,而無帝座正位,地形縱合,亦非統一寰宇,享有久遠之都在。

いま三垣の天星と相応する地形を後面に叙述す。此の外にさらに少微垣あり。あれは士大夫が天帝の文章を掌る府署である。天苑・天園はすなわち天子が禽獣を畜養し果木を種植する処である。この几処は垣を成すとはいえ、帝座の正位なし。地形は縦ひこれと相合するも、天下を統一し国を享くること長久の都城の所在に非ず。

按《天文志》,中天北極紫薇星垣,天皇之宸極,太乙之常居也。北極五星正臨亥地,為天帝之最尊,所以南面而治者也。三光迭運,極星不移。孔子所謂“北辰居其所而眾星拱之”是也。

『天文志』に按ずれば、中天北極の紫微星垣は、天皇の宸極の所在・太乙神の常住する処である。北極の五星は正しく地上の亥位に対し、天帝の中最も尊貴なり。だから北に坐し南に向かいて天下を治理す。日月星の三光は輪転して息まず、独り極星のみ岿然として動かず。これは正に孔子の言う「北辰はその所に居りて衆星これを拱く」である。

後有四輔四星居壬,勾陳六星居幹,天綱八星居戌,華葢九星居北,閣道五星居癸,咸池五星居丑,八轂八星居艮,天將軍四星居寅,內陛六星居甲,司命六貴人在震,三師三星在乙。

その後ろには四輔の四星が壬位にあり、勾陳の六星が乾位にあり、天綱の八星が戌位にあり、華蓋の九星が北面にあり、閣道の五星が癸位にあり、咸池の五星が丑位にあり、八穀の八星が艮位にあり、天将軍の四星が寅位にあり、内陛の六星が甲位にあり、司命等の六貴人が震位にあり、三師の三星が乙位にある。

又有天理四星居辰,五諸侯五星居巽,內廚二星居巳,四貴人四星臨丙,帝座二星居午,大理二星居丁,天槍三星居未。天床三星居坤。天梧五星居申,陽德、陰德二星居庚。內屏二星居兌。天乙、柱史、女史三星居辛。而有左衛七相、右衛七將以藩屏帝室。泰階、六符輔治北斗七政以翼垣。此紫微垣星局之懸象於天者也。

また天理の四星が辰位にあり、五諸侯の五星が巽位にあり、内厨の二星が巳位にあり、四貴人の四星が丙位に臨み、帝座の二星が午位にあり、大理の二星が丁位にあり、天槍の三星が未位にあり、天床の三星が坤位にあり、天梧の五星が申位にあり、陽徳・陰徳の二星が庚位にあり、内屏の二星が兌位にあり、天乙・柱史・女史の三星が辛位にある。別に左衛の七相・右衛の七将があり、以て帝室を屏衛する。泰階・六符は北斗七政の治理を輔佐し、以て星垣を護翼する。これがすなわち紫微垣の星局の天上に懸かる形象である。

《步天歌》:中元北極紫微宮,北極五星在其中。大帝之座第二珠,第三之星庶子居。第一號曰為太子,四為後宮五天樞。左右四星是四輔,天以太乙當門路。左樞右樞夾南門,兩面營衛一十五。上宰少尉兩相對,少宰上輔次少輔。上衛少衛次上丞,後門東邊大讚府。門西喚作一少丞,以次卻向前門數。

『歩天歌』は唱えていう。中元は北極の紫微宮、北極の五星はすなわちその中にあり。天帝の座位は第二顆、第三の星は庶子の位、第一顆を太子と呼び、第四顆は後宮、第五顆は天枢。左右の四星は四輔、天上は太乙を以て門路に当たる。左枢・右枢は南門を挟み、両側には共に営衛の十五顆の星あり。上宰と少尉は両々相対し、続くは少宰・上輔・少輔。さらに続くは上衛・少衛・上丞、後門の東は大賛府、門の西は少丞と呼ぶ。順次さらに前門へ数えて往け。

陰德門裡兩黃聚,尚書以次其位五。女史柱史各一戶,御女四星五天柱。大理兩星陰德邊,勾陳尾指北極顛,勾陳六星六甲前。天皇獨在勾陳裡,五帝內座後門是。華蓋並槓十六星,槓作柄象蓋傘形。蓋上連連九個星,名曰傳舍如連丁。垣外左右各六珠,右是內階左天廚。階前八星名八轂,廚下五個天棓宿。

陰徳門の裏に二顆の黄星が聚まり、尚書は順次排列して共に五顆。女史・柱史は各々一位を占め、御女の四星・天柱の五星。大理の両星は陰徳の旁にあり、勾陳の尾巴は北極の頂端を指し、勾陳の六星は六甲の前にあり。天皇の一星は独り勾陳の内に処り、五帝の内座はすなわち後門のあそこにあり。華蓋は杠星を連ねて共に十六顆、杠は柄を作り蓋は傘形を作る。蓋の上に連綿と九顆の星、名を伝舎と呼び、排ばれて「丁」の字の如く相連なる。垣外の左右に各々六顆の星あり、右は内階、左は天厨。内階の前の八顆の星を八穀と呼び、天厨の下の五顆の星は天棓。

天床六星左樞右,內廚二星右樞對。文昌斗上半月形,稀疏分明六個星。文昌之下曰三公,太尊只向三公明。天牢六星太尊邊,太陽之守四勢前。一個宰相太陽側,更有三公相西偏。即是天戈一星圓,天理四星斗裡暗。輔星近著闓陽淡,北斗之宿七星明。第一主宰名樞精,第二第三璇璣星,四曰權星第五衡,闓陽搖光六七星,搖光左三天槍明。

天床の六星は左枢の右にあり、内厨の二星は右枢と相対す。文昌は北斗の上に半月形を呈し、稀疏にして分明なる六顆の星。文昌の下を三公と呼び、太尊はただ三公に向かいて亮す。天牢の六星は太尊の旁にあり、太陽守は四勢の前にあり。一顆の宰相星は太陽守の側面にあり、別に三公相がありて西辺の偏処にあり、あれはすなわち渾円の天戈の一星。天理の四星は斗魁の裏に暗暗として蔵れている。輔星は開陽に緊く挨り、光色は較べて淡し。北斗の七宿は皆明亮、第一顆の主宰を枢精と呼び(天枢)、第二・第三は璇・璣、第四を権と呼ぶ(天権)、第五は衡(玉衡)、第六・第七は開陽・揺光。揺光の左の三顆の天槍星もまた甚だ明亮である。

左紫微垣列形於地之局勢大略也。楊公云:“紫微垣外前後門,華蓋三臺前後衛。中有過水名御溝,抱城屈曲中間流。”又云“直朝射入紫垣氣”。廖氏云“紫垣西藩星有七,東藩八星出。華蓋槓星在後門,天床前面陳。中央一水直朝入,抱城九回屈。萬山簇擁晝朝迎,拱極不虛稱”是也。

以上は紫微垣が地上に排列成形する局勢の大略である。楊筠松は言う。「紫微垣の外に前後門、華蓋三台は前後衛す。中に過水ありて名を御溝と呼び、城を抱いて屈曲し中間に流る。」また言う「直朝して紫垣の気を射入る」。廖瑀は言う「紫垣の西藩の星は七あり、東藩の八星出づ。華蓋・杠星は後門にあり、天床は前面に陳す。中央の一水は直朝して入り、城を抱きて九回屈す。万山は簇擁して昼朝迎え、極を拱するは虚称に非ず」、講ずるは皆この格局である。中央に要して一条の水ありて直朝して流入し、城池を環抱して屈曲九転し、四囲の万山が簇擁朝迎してこそ、「衆星極を拱く」という説に当たる。

右南宮太微星垣,三光之庭,天帝受釐告功之室也。中有五帝座,正居北地。太乙、五尚書正居巽地。內有郎官、即位、三公、謁者、九卿、五侯以輔導帝極。

其次は南宮の太微星垣。あれは日月星の三光の庭院で、また天帝が祭余の福胙を受け、功成を宣告する殿室である。垣中に五帝座あり、正しく地上の北方に当たる。太乙と五尚書は、正しく地上の巽位に当たる。垣内に郎官・即位・三公・謁者・九卿・五侯等の星あり、以て帝座を輔佐引導する。

前有明堂三星居巳,靈臺三星居午,常陳為耳目之官,西將、東相各四星為藩垣。東華、西華為門掖。掖左右二星為執法。後有太陽守、太陰守各二星,為衛。前有張、翼、軫三宿為侍,此太微垣星局之懸象於天者也。

垣前に明堂の三星が巳位にあり、霊台の三星が午位にある。常陳星は天帝の耳目の官。西辺の将星・東辺の相星は各々四顆、充てて藩籬の囲垣を作す。東華・西華は両側の掖門で、掖門の左右の二顆の星は執法の官。垣後に太陽守・太陰守各々二星ありて充てて衛士を作す。垣前に張宿・翼宿・軫宿の三宿ありて充てて侍従を作す。これがすなわち太微垣の星局の天上に懸かる形象である。

《步天歌》:上元天庭太微宮,昭昭列象在蒼穹。端門只是門之中,左右執法門西東。門左皂衣一謁者,以次則是烏三公。三黑九卿公背旁,五黑諸侯卿後行。四個門星主後屏,五帝內座於中正。倖臣太子並從官,烏列帝后從東定。郎將虎賁居左右,常陳郎位屈其後。常陳七星勿相誤,郎位陳東一十五。兩面宮垣十星布,左右執法是其數。宮外明堂布政宮,三個靈臺候雲雨。

『歩天歌』は唱えていう。上元の天庭は太微宮、明亮の星象は蒼穹に羅列す。端門はすなわち正門の当中にあり、左右の執法は分かれて門の西東に居す。門の左の黒色の一顆は謁者、順次過ぐるは三公の三顆の黒星。九卿の三顆の黒星は三公の背後にあり、諸侯の五顆の黒星はまた九卿の後に排す。四顆の門星は後面の屏障を主管し、五帝の内座は端居して正中にある。幸臣・太子および従官を連ね、几顆の黒星は帝座の後に排し、東辺より定位を為す。郎将と虎賁は分かれて左右に居り、常陳と郎位は屈曲してそれらの後ろにあり。常陳の七星は錯るなかれ、郎位は常陳の東に共に十五顆。両面の宮垣には十顆の星を布き、左右の執法はすなわちこの数の裏に算入る。宮外の明堂は布政の宮、三顆の霊台星は専ら雲雨を候す。

右太微垣列形於地之局勢大略也。楊公云“方正之垣號太微”。又云“橫城水繞太微勢”。又云“東華西華門水橫,水外四圍列峰位。此是垣前執法星,卻分左右為兵衛。”廖金精《洩天機》云“太微垣局最方正,左右執法並。西藩上將次將先,次相上相連。東藩上相及次相,次將與上將。兩藩九門分十星,一水繞城橫”是也。

以上は太微垣が地上に排列成形する局勢の大略である。楊筠松は言う「方正の垣を太微と号す」、また言う「横城水は太微の勢を繞らす」、また言う「東華・西華の門水は横たわり、水外の四囲に峰位を列ぬ。これは垣前の執法星、却って左右を分かちて兵衛と為る。」廖金精の『泄天機』は言う「太微垣局は最も方正、左右の執法は並び立つ。西藩の上将・次将は先んず、次相・上相は連なる。東藩の上相および次相、次将と上将。両藩の九門は十星を分かち、一水は城を繞って横たわる」、講ずるは皆この格局である。垣形は方正を要し、両側は対峙して執法の如く、一条の水は横たわりて城前を繞る。

右東府天市星垣,天帝泉貨之府也。中有帝座,正臨艮地。有秤、斗、車、舟、府庫、市樓、市肆以貫其中,貫索、宗人、左右侍衛。匡衛《列國分野二十二星》曰:宋、南海、燕、東海、徐、吳越、齊、中山、九河、河間、晉、鄭、周、秦、巴、蜀、梁、楚、韓、西河等藩以列四方。

再次は東府の天市星垣。あれは天帝が銭財貨物を掌管する府庫である。垣中に帝座あり、正しく地上の艮位に当たる。垣内に秤・斗・車・舟・府庫・市楼・市肆等の星ありてその間を貫串し、また貫索・宗人および左右の侍衛あり。『列国分野二十二星』の載する所に拠れば、宋・南海・燕・東海・徐・呉越・斉・中山・九河・河間・晋・鄭・周・秦・巴・蜀・梁・楚・韓・西河等の藩国の星は四方に羅列し、環衛して拱護す。

貴人一星旁照庚地,為捍衛庫之宮。司命一星正臨丁位,為五福壽命之司。此天市垣星局之懸象於天者也。

貴人の一星は旁に在りて庚位を照臨し、是れ府庫を護衛する宮位。司命の一星は正しく丁位に当たり、五福と寿命を主管す。これがすなわち天市垣の星局の天上に懸かる形象である。

《步天歌》:下元一宮名天市,兩扇垣牆二十二。當門六個黑市樓,門左兩星是車肆。兩個宗正四宗人,宗星一雙亦依次。帛度兩星屠肆前,侯星還在帝座邊。帝座一星常光明,四個微茫宦者星。以次兩星名列肆,斗斛帝前依其次。斗是五星斛是四,垣北九個貫索星。索口橫者七公成,天紀恰似七公形。數著分明多兩星,紀北三星名女床。此座還依織女旁,三元之象無相侵。二十八宿隨其陰,火水木土並與金,以次別有五行吟。

『歩天歌』は唱えていう。下元の第一宮は名を天市と呼び、両扇の垣牆は共に二十二顆の星。正しく門口に当たる六顆の黒色は市楼、門左の二顆の星は車肆。宗正は両顆、宗人は四顆、宗星の一対もまた順次排列す。帛度の両星は屠肆の前にあり、侯星はなお帝座の旁にあり。帝座の一星は常に光明し、四顆の微茫なるは宦者星。順次の両顆は名を列肆と呼び、斗と斛は帝座の前に順次排し開く。斗は五顆の星、斛は四顆の星。垣北に九顆の貫索星あり、貫索の口上に横列するは七公、天紀の形状は恰似して七公の如く、数えて分明に多く出づること二顆。天紀の北の三顆の星は名を女床と呼び、この一座はなお織女の旁に靠る。三元の星象は各々相犯せず、二十八宿はそれらの陰位に随って排布し、火・水・木・土に金を加え、順次別に『五行吟』ありて歌詠す。

右天市垣列形於地之局勢大略也。楊公云“垣有四門號天市。”又云“百源來聚天市垣。”廖公云“天市垣星二十二,名參國與地。國地中間有四門,東西南北分。眾水分流來此聚,大河在東注。帝座居北市樓南,垣局總為祥”是也。

以上は天市垣が地上に排列成形する局勢の大略である。楊筠松は言う「垣に四門ありて天市と号す」、また言う「百源は来たり聚まりて天市垣」。廖瑀は言う「天市垣の星は二十二、名は国と地に参ず。国地の中間に四門あり、東西南北を分かつ。衆水は分流して此に来たり聚まり、大河は東に在りて注ぐ。帝座は北に居り市楼は南、垣局は総て祥と為る」、講ずるは皆この格局である。四面に門あるを要し、衆水は分流してここに汇聚し、大河は東面に在りて注入し、このような垣局は総て吉祥である。

已上三垣天星之圖則本於《天文志》,地形之圖則本於廖氏《金璧玄文》,茲特合而一之,庶易於考索。然亦不必深泥圖局形象,膠柱鼓瑟。但依經文,以山形水勢取之。

以上の三垣は、天上の星象の図は『天文志』より取り、地上の形勢の図は廖瑀の『金璧玄文』より取った。ここに特に両者を合併して一と為し、以て査考に便ならしむ(底本のここにはもと紫微・太微・天市の三垣の星図と地形図の対照あり、いまはただ文字の叙述を存し、図形はすでに見るべからず)。ただしまた必ずしも図上の局形星象を死に抠ることなく、琴柱を膠住せしめて瑟を弾くがごとく拘泥せず、ただ経文に依りて、山の形状・水の走勢を以て取合すればよいのである。

如曰“紫微垣外前後門”,“華蓋三臺前後衛”,“方正之垣號太微”,“垣有四門號天市”。又曰“直城射入紫微氣”,“橫城水繞太微勢”,“百源來聚天市垣”之類,則以山水形勢之大象言之,楊筠松固已說得明白。其它星宿形象,又不必盡泥也。

譬えば「紫微垣の外に前後門」「華蓋三台は前後衛す」「方正の垣を太微と号す」「垣に四門ありて天市と号す」と言い、また「直城は射入りて紫微の気」「横城水は太微の勢を繞らす」「百源は来たり聚まりて天市垣」という類の言は、皆山水の形勢の大象に就いて講じたもので、楊筠松は本来すでに甚だ明白に説きたり。紫微は前後の門戸と衛護あるを要し、太微は垣形方正・横水が城を環るを要し、天市は四門俱備・百源の汇聚を要す。その余のあの星宿の具体の形象に至っては、样样皆死に套するに及ばぬ。

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