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建炎戊申年二月甲子日に何七秀才が流年を占う(『口鑑』)

清 · 程树勋 · 第2巻 / 50

作盤ガイド: 大六壬起課, 金口訣起課

建炎戊申年二月甲子日亥將午時,何七秀才壬申生三十七歲占流年。《口鑑》。方本作占家宅。

南宋建炎戊申年二月甲子日、亥将を取り午時に加えて課を起こす。何七秀才は壬申年生まれで三十七歳、この年の流年の吉凶を占った。この例は『口鑑』に見える。『方本占案』はこれを家宅の占いとして記している。

合朱蛇貴  戌亥子丑 合常蛇空 父 甲子 蛇 勾酉 寅后 戌巳子未 子 己巳 常 青申 卯陰 巳子未甲 財  戌 合 ◎  未午巳辰  空虎常玄

課盤。亥将を午時に加えると、天盤は地盤より五位進む:戌が地盤の巳に加わり、亥が午に、子が未に、丑が申に、寅が酉に、卯が戌に、辰が亥に、巳が子に、午が丑に、未が寅に、申が卯に、酉が辰に加わる。十二天将は貴人が丑に乗るところから起こる——丑はこの時地盤の申位に臨み、陰に属すので逆行する:螣蛇は子に乗り、朱雀は亥に、六合は戌に、勾陳は酉に、青竜は申に、天空は未に、白虎は午に、太常は巳に、玄武は辰に、太陰は卯に、天后は寅に乗る。中間の四課は右から左へ:第一課、日干甲の寄宮は寅で、寅の上に未を見、天空が乗る。第二課、未の上に子を見、螣蛇が乗る。第三課、日支の子の上に巳を見、太常が乗る。第四課、巳の上に戌を見、六合が乗る。右側の三伝:初伝は子で父母爻、遁干は甲、螣蛇が乗る。中伝は巳で子孫、遁干は己、太常が乗る。末伝は戌で財爻、六合が乗り、戌は旬空に値するので「◎」を標す。日干上の未はちょうど甲木の墓庫で、下文にいう「墓干」「天獄」は皆ここから説き起こす。

邵彥曰:歲內眷屬人來,必成大獄。天罡加日本,名天獄故也。鄭體功先生曰:占流年以行年為主,行年上未來墓干,故主一年之事皆不橫亨通。其事為何?體用:體是天獄課,用是子與未六害,故以官訟等事斷之。訟起六月者,未為六月建也。

邵彦和が断じて言う:この一年の内に親眷が門を訪れ、必ず一場の大きな官司にまでなる。天罡の辰が日辰の本位に加わり、課名は「天獄」となるからである。鄭体功先生が言う:流年を占うには行年を主とする。この人の行年の上に「未」を見、未はちょうど日干甲の墓庫で、来て日干に墓住するので、この年諸事が皆通暢しないことを主す。では何事か。体と用を合わせて見るべきである:課体は天獄課で、発用は子、子は未と六害を成すので、官司訴訟の類の事と断じた。官司が六月に起こると断ったのは、「未」がちょうど六月の月建だからである。

愚按:《指掌賦》云:太常乘破碎為孝服,加天獄螣蛇生災致訟,法本於此。破碎作太常入宅,主有喪服人歸來分撓,被他爭屋。以行年與身作一處,蓋未交生,行年尚在丑,丑加申命,故曰行年與身作一處。只是今年事。末後須添一口,又見分灶也。蓋未加甲乃墓神,未為眷屬,天空為平地起堆之象。初傳子為父母,未為眷屬而作六害害人也,螣蛇擾人也。傳歸入宅,卻是兩重破碎,巳為廚灶,必主分灶不寧也。

程樹勳按:『指掌賦』に「太常が破碎の神に乗れば孝服を主り、さらに天獄・螣蛇を加えれば災を生じて訟を招く」とあり、鄭先生の断法はまさにこれに本づく。破碎の神が太常に乗って宅位に入るのは、孝服を着た人が帰って来て攪擾し、さらに彼と家を争うことを主す。いわゆる「行年と本命が一処に並ぶ」とは、この人の生日がまだ至らず、行年はなお丑の上にあり、丑がちょうど本命の申の位置に加わるので、行年と身が一処に合するという——これはただ今年の内の事に限る。最後に家に一口の人を添え、また竈を分け別炊する象を見る:未が甲の上に加われば墓神であり、未は類神の上でまた眷属を主り、天空は平地に土堆を起こす象である。初伝の子は父母爻で、未は眷属でありながら子と六害を成すのは人を害する象、螣蛇は人を攪擾する象である。三伝は最後に宅位に帰入し、また二重の破碎で、巳は類神の上で厨竈を主るので、必ず竈を分かち家中が安寧でない。

何秀才兄弟五人,最小者與姊為子,父母在日家產已作四股均分,當年四月其姑丈死,姑已先亡,家務又已久退,故小弟於六月歸家,諸兄皆不容,遂興訟,州縣斷理撥財產與之,著依舊歸姑家過活,小弟仍不服,直上控至大理寺,始有歸條。自戊申六月興訟,至壬子年十二月方止。

事の経緯はこうである:何秀才は兄弟五人で、最小の一人は姑母に過継されてその子となった。父母が在世の時、家産はすでに四股に分かれ均分されていた。この年の四月に姑丈が逝去し、姑母は先に亡くなっており、姑の家の産業もとうに敗落していたので、小弟は六月に本家に帰って来たが、幾人かの兄たちは皆収留しようとせず、そこで官司を打った。州県は判決して財産の一份を彼に撥し、依然として姑の家に帰って暮らさせた。小弟は服せず、ずっと大理寺まで上控して、やっと結末の条文を得た。戊申年六月に訟を興してから、壬子年十二月まで闘い続けてようやく了結した。

甲以巳為子息,末傳戌刑未,故動而有爭。所謂不沖不發,不刑不動也。戌乘六合,卯與戌合,主進人口,是此子歸來之兆。當年六月興訟,未加甲,蛇撓之。初子與未相害,故興訟。壬子年十一月又見子水克火,制破碎,故寧貼。

日干甲は巳をもって子孫とし、末伝の戌はまた未を刑するので、事が動けばすなわち争端を起こす——これが「冲せずんば発せず、刑せずんば動かず」の道理である。戌の上に六合が乗り、卯と戌は相合し、家に人口を添え入れることを主す——まさにこの過継された兄弟が帰って来る兆である。当年六月に訟を興したのは、未が甲の上に加わり、また螣蛇が攪擾したからである。初伝の子は未と六害を成すので、官司を打った。壬子年十一月に至って、また子水が火を克し、破碎の神を制し得たので、事はやっと安定した。

愚按:此小注惟方本有之,蓋後人所增也。愚按:邵諸課皆以六合為合,此注是也;《直指》以戌刑未字火為填小口,大謬。

程樹勳按:以上のこの段の小注は『方本占案』にのみあり、おそらく後人が添え入れたものである。又按:邵彦和の諸課は皆「六合」を相合の神として用いており、この注釈はまさにその法に合する。『六壬直指』は戌が未を刑する一節を「填小口」と説き、大いに誤っている。

建炎戊申年二月甲子日に徐学士が前程を占う(『方本占案』・『口鑑』)

建炎戊申年二月甲子日亥將巳時。徐學士戊辰生四十一歲,占前程。《方本占案》《口鑑》。

南宋建炎戊申年二月甲子日、亥将を取り巳時に加えて課を起こす。徐学士は戊辰年生まれで四十一歳、自らの功名前程を占問した。この例は『方本占案』と『口鑑』に見える。

朱蛇貴后  亥子丑寅 蛇虎後青 兄 丙寅 后 合戌 卯陰 子午寅申 官 壬申 青 勾酉 辰玄 午子申甲 兄 丙寅 后  申未午巳  青空虎常

課盤。亥将を巳時に加えると、月将と占時がちょうど相冲し、天盤は地盤より六位進み、十二支は二二対冲する——これが「返吟」の課である:亥が地盤の巳に加わり、子が午に、丑が未に、寅が申に、卯が酉に、辰が戌に、巳が亥に、午が子に、未が丑に、申が寅に、酉が卯に、戌が辰に加わる。天将は貴人が丑に乗るところから起こる——丑は地盤の未位に臨み、陰に属すので逆行する:螣蛇は子に乗り、朱雀は亥に、六合は戌に、勾陳は酉に、青竜は申に、天空は未に、白虎は午に、太常は巳に、玄武は辰に、太陰は卯に、天后は寅に乗る。中間の四課は右から左へ:第一課、日干甲の寄宮は寅で、寅の上に申を見、青竜が乗る。第二課、申の上に寅を見、天后が乗る。第三課、日支の子の上に午を見、白虎が乗る。第四課、午の上に子を見、螣蛇が乗る。右側の三伝:初伝は寅で兄弟爻、遁干は丙、天后が乗る。中伝は申で官鬼、遁干は壬、青竜が乗る。末伝はまた寅で、依然として兄弟、遁干は丙で天后が乗る。寅は甲の禄神と徳神で、三伝に二度出現するので、下文は反復して「徳禄」の上から功名を取る。

愚按:寅為德祿,馬作天后為恩澤,寅與戌為三合,故戌年及第,寅既有兩重又生支上午火子孫,故子亦霑恩,但返吟事不悠久,雖有德祿諸吉及第後而即亡也,祿臨絕地,豈能食祿乎。程聖一日此課全在德祿馬上看出功名。鄭體功先生曰兩重祿馬日德官星,當有兩重功名,一重繫占人不待言矣,仍一重看支上是何六親,今支上午為子息故父子同及第。

程樹勳按:寅は日干甲の徳神兼禄神で、駅馬はまた天后に乗り、天后は恩沢を主る神である。寅と戌は三合を成すので、戌年に及第すると断じた。寅は三伝の中に二重に出現し、また日支上の午火の子孫を生じ得るので、息子もともに恩沢を蒙った。ただ返吟課は事が長久しないことを主し、徳・禄の種々の吉象があっても、及第の後すぐに身が亡くなった——禄神が絶地に落ち、どうして長く禄位を享けられようか。程聖一が言う:この一課は全て徳・禄・駅馬の上から功名を見出した。鄭体功先生が言う:二重の禄馬・日徳・官星が俱全するので、二重の功名があるべきである。一重は占問する本人に属し、多言を要さず、もう一重は日支上のどの六親かを見ればよい——いま支上の午は子孫なので、父子が同榜で及第したのである。

邵彥和曰:本主身庚戌年及第,唱名當在第三甲。令郎當亦霑恩。至庚戌年,徐果中,在第三甲,其子習春秋,中在第五甲。徐銓試不中,六月授潭州司戶,七月病死。甲寅年其子亦死。蓋因日上見申,讀書人見之為無後,又是太歲來克干,當年即應不寧。何直至庚戌年中後方死耶?蓋因行年上子水生甲木,宅上午火制申金,且是催官使者,須見官而後死。及至庚戌年,行年在申,甲木臨申金而絕,故死。

邵彦和が断じて言う:主人自身は庚戌年に及第すべく、唱名の名次は第三甲に在るべきである。令郎もともに恩に浴するであろう。庚戌年に至って、徐学士は果たして考中し、まさに第三甲に在り、その息子は『春秋』を攻習して第五甲に中った。その後徐学士は銓試に考中せず、六月に潭州司戸に授けられ、七月に病で故した。甲寅年に至ってその息子も死んだ。これは日干上に申を見るからである——読書人の課に申を見るのは後嗣がないことを主し、いわんや申はまた太歳として来て日干を克するので、当年に不寧の事が応じるべきであった。ではなぜわざわざ庚戌年の考中の後まで延びて死んだのか。行年上の子水が甲木を生じ得、宅位上の午火が申金を制し得、また申は催官の使者で、必ず先ず官职を得て然る後に死ぬからである。庚戌年に至り、行年が申の上に走到し、甲木は申に臨んで即ち絶地に入り、ゆえに死んだ。

初末寅作天后,兩重兩露恩神,在官星之上,甲與寅皆承其恩澤。甲尊也,父也;寅卑也,子也。故俱霑恩。庚戌年身死,甲寅年子死,乃刑沖之故。又行年神克第三課,死神乘白虎入宅,為水所克,又甲木以午為子息,故子必受殃也。

初伝と末伝の寅はいずれも天后に乗り、二重に二度顕露する恩沢の神であり、また官星の上に圧するので、甲と寅はともにその恩沢を承けた。甲は尊であり父であり、寅は卑であり子である。ゆえに父子がともに恩に沾った。庚戌年に本人が身を死し、甲寅年に息子が身を死したのは、刑冲の致すところである。さらに行年の神が第三課を克し、死神が白虎に乗って宅位に入り、また水に克される。甲木は午をもって子孫とするので、息子は必ず殃を受ける。

愚按:此課邵公先未斷出,事後乃推測言之。

程樹勳按:この一課は邵彦和が事前に全部の結果を断出したのではなく、事後に推測を作して補説したものである。

己酉年九月甲子日に樊郎中が項秀才の病を占う(『口鑑』・『方本占案』)

己酉年九月甲子日卯將申時,樊郎中占項秀才病,項丁丑生三十三歲。《口鑑》《方本占案》。

己酉年九月甲子日、卯将を取り申時に加えて課を起こす。樊郎中が項秀才のために病を占い、項某は丁丑年生まれで三十三歳。この例は『口鑑』と『方本占案』に見える。

愚按:寅中有甲,未中有己,甲己相合是以相通,況陰神見酉為色慾也。

程樹勳按:寅の中に甲木を藏し、未の中に己土を藏し、甲と己は相合するので、両下で暗中に相通ずる。いわんや陰神の上に酉を見、酉は類神の上で色欲を主る。

蛇貴后陰  子丑寅卯 后空玄勾 兄 丙寅 后 朱亥 辰玄 寅未辰酉 官 癸酉 勾 合戌 巳常 未子酉甲 財 戊辰 玄  酉申未午  勾青空虎

課盤。九月の卯将を申時に加えると、天盤は地盤より七位進む:子が地盤の巳に加わり、丑が午に、寅が未に、卯が申に、辰が酉に、巳が戌に、午が亥に、未が子に、申が丑に、酉が寅に、戌が卯に、亥が辰に加わる。天将は貴人が丑に乗るところから起こる——丑は地盤の午位に臨み、陰に属すので逆行する:螣蛇は子に乗り、朱雀は亥に、六合は戌に、勾陳は酉に、青竜は申に、天空は未に、白虎は午に、太常は巳に、玄武は辰に、太陰は卯に、天后は寅に乗る。中間の四課は右から左へ:第一課、日干甲の寄宮は寅で、寅の上に酉を見、勾陳が乗る。第二課、酉の上に辰を見、玄武が乗る。第三課、日支の子の上に未を見、天空が乗る。第四課、未の上に寅を見、天后が乗る。右側の三伝:初伝は寅で兄弟爻、遁干は丙、天后が乗る。中伝は酉で日干の官鬼、遁干は癸、勾陳が乗る。末伝は辰で財爻、遁干は戊、玄武が乗る。

邵彥和曰:此病因往妻家有私情,暗中相約,又失去情人所贈之物,遂思慮而得病,久而不治,必成癆怯。丑事固難言然必說明而病乃安矣。當時樊亦庸醫,因聞此斷,假託診脈為名,言其病症,人皆驚異以為神醫。蓋項先與舅嫂通,被妻舅知覺,項遂歸。舅嫂以手帕贈之,後為妻?去,項不敢問,思之成病,肌膚消瘦。妻聞樊言,以帕還之且深戒利害,兼服藥而愈。

邵彦和が断じて言う:この病は妻の娘家に行って人と私情を結び、暗中で相約し、その後情人の贈った物を失い、憂思が病と成ったものである。長く引いて治らず、必ず労瘵虚損に転ずる。醜事は本来啓歯し難いが、言い破らねば病は癒えない。当時樊郎中はもともと医術が平常だったが、この断語を聞き、診脉を仮託して名と為し、病人の病症を言い出したので、衆人は皆驚異し、彼を神医と為した。もともと項秀才は先に妻兄の妻と私通し、妻兄に察覚され、項某は帰って来た。舅嫂はかつて彼に一方の手帕を贈り、後に妻に取り去られた(「為妻?去」の「?」は底本の缺字)。項某は問うことを敢てせず、思うほどに病と成り、人も消瘦した。彼の妻は樊郎中の言を聞き、手帕を彼に返し、かつ鄭重にその中の利害を告戒し、湯薬を配したので、病は癒えた。

蓋此課日干投入四課發用,傳復歸於日之二課,主循環不斷,支為宅,支上未為妻,四課者,宅內也,是妻家矣。今寅投入四課,加妻財上作天后,是與妻家婦人通矣。日上酉為色作勾陳,為思慮,今為日鬼,陰神又見辰,辰為脾,為肌膚,加酉敗氣上是思慮已傷脾,肌膚消瘦。辰作元武兼主走洩,酉為閉口,丑事難言。行年在戌,戌上巳,作太常,常主絲棉,是手帕也。己與酉三合,故主情人之物也。太常加空,故遺失。明說而安者,行年上巳火能制酉金之鬼也。

このように断ずる道理は:本課は日干の神が四課に投入して発用し、三伝はまた日干の第二課に回るので、循環して絶えないことを主す。日支は宅を為し、支上の未はここでは妻であり、第四課は宅内の事に属す——まさに妻家である。いま寅が第四課に投入し、妻財の上に加わりまた天后に乗るのは、妻家の婦人と私通する象である。日干上の酉は色欲を主り、勾陳に乗るのは憂思を主り、この刻それはまた日干の鬼である。陰神にさらに辰を見、辰は人の身で脾を主り肌肤を主り、酉という敗気の上に加わる——憂思がすでに脾胃を傷り、ゆえに肌肤が消瘦する。辰は玄武に乗り、兼ねて走泄を主る。酉の類象は口を閉じるで、この桩の醜事は口に出し難い。行年は戌にあり、戌の上は巳で太常に乗る——太常は絲綿織物を主り、まさに手帕である。巳と酉は三合を成すので、情人の物と断じた。太常が空亡に加臨するので、物は失われた。言い破れば病が安まるのは、行年上の巳火が酉金の鬼を制し得るからである。

乾隆乙卯年子月甲子日に辛亥生まれの女の病を占う(『牧夫占験』)

乾隆乙卯年子月甲子日丑將巳時,某占辛亥女病,二十九歲。《牧夫占驗》

乾隆乙卯年子月(十一月)甲子日、丑将を取り巳時に加えて課を起こす。ある人が辛亥年生まれの二十九歳の婦人のために病を占った。この例は王牧夫の『牧夫占験』から採った。

貴后陰玄  丑寅卯辰 玄龍虎合 財  戌 合 ◎ 蛇子 巳常 辰申午戌 子 庚午 虎 ⊙ 朱亥 午虎 申子戌甲 兄 丙寅 后  戌酉申未  合勾龍空

課盤。丑将を巳時に加えると、天盤は地盤より八位進む:丑が地盤の巳に加わり、寅が午に、卯が未に、辰が申に、巳が酉に、午が戌に、未が亥に、申が子に、酉が丑に、戌が寅に、亥が卯に、子が辰に加わる。天将は貴人が丑に乗るところから起こる——丑は地盤の巳位に臨み、陰に属すので逆行する:螣蛇は子に乗り、朱雀は亥に、六合は戌に、勾陳は酉に、青竜は申に、天空は未に、白虎は午に、太常は巳に、玄武は辰に、太陰は卯に、天后は寅に乗る。中間の四課は右から左へ:第一課、日干甲の寄宮は寅で、寅の上に戌を見、六合が乗る。第二課、戌の上に午を見、白虎が乗る。第三課、日支の子の上に申を見、青竜が乗る。第四課、申の上に辰を見、玄武が乗る。右側の三伝:初伝は戌で財爻、六合が乗り旬空で「◎」を標す。中伝は午で子孫、遁干は庚、白虎が乗る。末伝は寅で兄弟、遁干は丙、天后が乗る。三伝は寅・午・戌が三合して火局を成す——下文にいう「炎上」の局である。

王牧夫曰:占病得寅午戌炎上之局。天后在下,上生午火,戌墓蓋之,火不能出,炎上為狂蕩,病由高興太過所致,無礙久而自痊,此數細看,支上申作青龍為夫星,而天后即乘寅,本命上未作天空。申陰神又作華蓋,此與僧人有私,狂蕩太過,有所傷而致病耳。不然何故局得炎上,支得申子相生,子乃婦人,行年上與申會合,種種可疑。後有人道其事,始知數不妄發耳。

王牧夫が断じて言う:病を占うに寅午戌の三合火局を得るは、すなわち「炎上」の象である。天后は下にあり午火を生起し、上にはまた戌の墓が蓋い、火気は出られない。炎上は放縦狂蕩を主り、この病は興頭が過ぎた所致で、妨げはなく、日が久しくなれば自ずから痊愈する。この一課を細かく見ればまた名堂がある:日支上の申は青竜に乗り、丈夫の星であるのに、天后は偏に寅の上に乗る。本命の亥上に「未」を見、未は天空に乗る。申の陰神はまたちょうど「華蓋」に当たる——華蓋は星名で、類神の上で僧道に関聯する。合わせて見れば、僧人と私情があり、縦欲が過ぎて身を傷り病を得たのである。さもなければ、なぜ課局が炎上を成し、日支がまた申子相生を得たか。子は類神の上で婦人であり、行年もまた申と会合し、種々皆疑うべきである。後に人が内情を言い出して、課数は乱発するものでないと初めて知った。

愚按:此課正是蕪淫,所以有姦淫之事也。

程樹勳按:この一課の課象はちょうど「蕪淫」の類に属し、それで奸淫の事があったのである。

十一月甲子日丑将巳時に行人を占う(雪心『行人類証』)

十一月甲子日丑將巳時占行人。雪心《行人類證》

十一月甲子日、丑将を取り巳時に加えて課を起こし、外に出ている人がいつ帰るかを占った。この例は雪心の『行人類証』から採った。

貴后陰玄  丑寅卯辰 玄龍虎合 財  戌 合 ◎ 蛇子 巳常 辰申午戌 子 庚午 虎 ⊙ 朱亥 午虎 申子戌甲 兄 丙寅 后  戌酉申未  合勾龍空

課盤は前の例と同じ:丑将を巳時に加え、天盤は地盤より八位進む——丑が地盤の巳に加わり、寅が午に、卯が未に、辰が申に、巳が酉に、午が戌に、未が亥に、申が子に、酉が丑に、戌が寅に、亥が卯に、子が辰に加わる。天将は貴人が丑に乗るところ(地盤の巳位に臨む)から逆行する:螣蛇は子に乗り、朱雀は亥に、六合は戌に、勾陳は酉に、青竜は申に、天空は未に、白虎は午に、太常は巳に、玄武は辰に、太陰は卯に、天后は寅に乗る。四課は右から左へ:日干甲(寄宮寅)の上に戌を見て六合が乗り、戌の上に午を見て白虎、日支の子の上に申を見て青竜、申の上に辰を見て玄武が乗る。三伝:初伝は戌で財爻、六合が乗り旬空。中伝は午で子孫、遁干は庚、白虎が乗る。末伝は寅で兄弟、遁干は丙、天后が乗る。行人を占うには初伝の加わる位と駅馬を重く見る。甲子日の駅馬はちょうど寅にあり、初伝の戌は恰も寅の上に加わる。

雪心曰:三傳日同初。辰得申加子,占行人,是要來方動。蓋初傳戌加驛馬上也,十二月節至。

雪心が断じて言う:三伝は日干とともに初伝から起こる。日支上は申を得て子の上に加わり、行人を占うに、これはまさに身を動かして帰ろうとする象である。初伝の戌がちょうど駅馬の寅の上に加わるので、行人は十二月の節気の前後に家に着くと断じた。

甲子日に苗叔芳が印宗師の背疽を占う(『一針見血』)

杭州芝寺住持印宗師一日害背病疽甚重,臭至見骨,往求苗叔芳卜醫生,甲子日三傳午卯子。《一針見血》

杭州芝寺の住持・印宗師はある日背疽を生じ、病勢は重く、腐臭して骨が露出するほどであったので、苗叔芳に課を起こすよう請い、どの医者を頼むべきかを問うた。占ったのは甲子日で、三伝は午・卯・子である。この例は『一針見血』から採った。

蛇朱合勾  寅卯辰巳 龍常虎陰 子 庚午 龍 貴丑 午龍 午酉申亥 兄 丁卯 朱 后子 未空 酉子亥甲 父 甲子 后  亥戌酉申  陰玄常虎

課盤。この課は原書に月将と占時を記さず、盤の上から見れば、天盤は地盤より九位進む:寅が地盤の巳に加わり、卯が午に、辰が未に、巳が申に、午が酉に、未が戌に、申が亥に、酉が子に、戌が丑に、亥が寅に、子が卯に、丑が辰に加わる。天将は貴人が丑に乗るところから起こる——丑は地盤の辰位に臨み、陽に属すので順行する:螣蛇は寅に乗り、朱雀は卯に、六合は辰に、勾陳は巳に、青竜は午に、天空は未に、白虎は申に、太常は酉に、玄武は戌に、太陰は亥に、天后は子に乗る。中間の四課は右から左へ:第一課、日干甲の寄宮は寅で、寅の上に亥を見、太陰が乗る。第二課、亥の上に申を見、白虎が乗る。第三課、日支の子の上に酉を見、太常が乗る。第四課、酉の上に午を見、青竜が乗る。右側の三伝:初伝は午で子孫、遁干は庚、青竜が乗る。中伝は卯で兄弟、遁干は丁、朱雀が乗る。末伝は子で父母、遁干は甲、天后が乗る——まさに文中にいう三伝の午卯子である。

苗叔芳曰:無妨,可救,宜向南方求醫。初傳青龍勝光須用火。針一開即愈,後果得南方醫者,用針一開之後卻不潰膿,乃子卯相刑之故。再加一針,膿方出盡。用涼藥敷貼,旬日全愈。此是天醫之驗,加於三傳,病必可治。愚按:此課不載月將正時,若處午,為天醫制鬼而吉,則七月占或十一月占也。

苗叔芳が断じて言う:大事ない、救い得る。南の方へ往いて医を求めるべきである。初伝に青竜を乗せた「勝光」の午火は、火攻の法を用いなければならない。針を下して瘡口を一開すれば癒える。その後果たして南方の医者を請い、針を下して口を開いたが膿が出なかった——これは子と卯が相刑する故である。さらに一針を加えてようやく膿が排尽し、涼性の薬を敷けば十数日で痊愈した。これは「天医」が応験した例である——天医が三伝の上に落ちれば、病は必ず治し得る。程樹勳按:この課は月将と実際の占時を記さない。もし天医がちょうど午の上にあって病鬼を制して吉となすなら、七月か十一月に占ったものであろう。

若三月占則不用晝貴矣,天醫有兩種,一是正月起子順行四仲,一是正月起辰順行十二支。

もし三月に占ったものなら、昼貴人を用いるべきでない。天医の起法には二種ある:一つは正月から子に起こり、ただ子・午・卯・酉の四仲位の上で順行するもの。一つは正月から辰に起こり、十二支に順って挨次に行くものである。

乙丑日

七月乙丑日に某が生産を占う(『方本占案』)

七月乙丑日午將卯申時某占生產。《方本占案》

七月乙丑日、午将を用いて課を起こす。占時は底本の一箇所に「卯申時」と作るが、課盤に推せば申時に当たるべきである。某が産婦の分娩の事を占った。この例は『方本占案』に見える。

合勾青空  卯辰巳午 玄后貴朱 父  亥 后 ◎ 朱寅 未虎 酉亥子寅 官 癸酉 玄 ⊙ 蛇丑 申常 亥丑寅乙 財 辛未 虎  子亥戌酉  貴后陰玄

課盤。午将を申時に加えると、天盤は地盤より二位退する:卯が地盤の巳に加わり、辰が午に、巳が未に、午が申に、未が酉に、申が戌に、酉が亥に、戌が子に、亥が丑に、子が寅に、丑が卯に、寅が辰に加わる。天将は貴人が子に乗るところから起こる——子は地盤の寅位に臨み、陽に属すので順行する:螣蛇は丑に乗り、朱雀は寅に、六合は卯に、勾陳は辰に、青竜は巳に、天空は午に、白虎は未に、太常は申に、玄武は酉に、太陰は戌に、天后は亥に乗る。中間の四課は右から左へ:日干乙の寄宮は辰にあり、第一課、辰の上に寅を見、朱雀が乗る。第二課、寅の上に子を見、貴人が乗る。第三課、日支の丑の上に亥を見、天后が乗る。第四課、亥の上に酉を見、玄武が乗る。右側の三伝:初伝は亥で、乙にとって父母爻、天后が乗り、旬空で「◎」を標す。中伝は酉で日干の官鬼、遁干は癸、玄武が乗る。末伝は未で財爻、遁干は辛、白虎が乗る——未はまたちょうど乙木の墓庫である。

邵彥和曰:此課主母死子存。書云:支是母兮干是兒,今天后被支所克,發傳,中末又歸凶將,白虎乘墓入酉之內門,內門者,產門也,故主母死。愚按:白虎在末傳克天后,亦主母凶。子存者,乙干是兒,乘寅為少陽,朱雀火又臨其上,乙日木旺火相,日干得旺相氣,故主兒存也。

邵彦和が断じて言う:この一課は母が死に嬰児が存活することを主す。書上に「日支は母、日干は児」と言う。いま天后(婦人を主る)が日支に克され、またここから発用する。中伝・末伝は玄武・白虎の二つの凶将に帰る。白虎は乙木の墓神の未に乗り、酉という「内門」に入る——内門とはすなわち産門である。ゆえに産婦の身亡を主す。程樹勳按:白虎が末伝にあって天后を克するも、同じく母に凶あるを主す。嬰児が活き得ると言うのは、日干乙がすなわち児で、寅の上に乗り少陽の気に属し、朱雀の火がまたその上に臨むからである。乙日は七月に木は退気するが、火は相気を得、日干は終に旺相の気を承けるので、嬰児の存活を主す。

乾隆辛巳年七月乙丑日に某が索捕を占う(『牧夫占験』)

乾隆辛巳年七月乙丑日巳將未時某占索捕。《牧夫占驗》

乾隆辛巳年七月乙丑日、巳将を取り未時に加えて課を起こす。某が債の索討・債務者の追捕の事を占った。この例は『牧夫占験』から採った。

合勾青空  卯辰巳午 玄后貴朱 父  亥 后 ◎ 朱寅 未虎 酉亥子寅 官 癸酉 玄 ⊙ 蛇丑 申常 亥丑寅乙 財 辛未 虎  子亥戌酉  貴后陰玄

巳将を未時に加えると、天盤は同じく地盤より二位退するので、課盤は前の例と全く同じ:卯が巳に加わり、辰が午に、巳が未に、午が申に、未が酉に、申が戌に、酉が亥に、戌が子に、亥が丑に、子が寅に、丑が卯に、寅が辰に加わる。天将は貴人が子に乗るところ(地盤の寅位に臨む)から順行する:螣蛇は丑に乗り、朱雀は寅に、六合は卯に、勾陳は辰に、青竜は巳に、天空は午に、白虎は未に、太常は申に、玄武は酉に、太陰は戌に、天后は亥に乗る。四課は右から左へ:乙(寄宮辰)の上に寅を見て朱雀が乗り、寅の上に子を見て貴人、日支の丑の上に亥を見て天后、亥の上に酉を見て玄武が乗る。三伝:初伝は亥で父母、天后が乗り旬空。中伝は酉で官鬼、遁干は癸、玄武が乗る。末伝は未で財爻、遁干は辛、白虎が乗り、未はまた乙木の墓である。債務の索討を占うに、日支上の亥水が日干を生ずるのは、相手に銭を返す心があること。しかし酉の鬼が玄武に乗って亥の上に圧するのは、家を敗き財を散ずる関口である。

王牧夫曰:此債非其人有心不還,實因好睹好飲,日就衰敗,將來居屋都要賣,賣屋始能得其財,然亦不能全其數矣。問之果然,蓋支上亥水生干是有心要還也,奈陰神酉加亥上,酉乃乙日之鬼,乘元武,酉加亥為酒,元武為嬉戲之神,走?之殺,未乘白虎為賭博呼?而散財也。三傳自生傳鬼,自鬼傳墓,安得不敗壞乎。賣屋者,支為宅,末傳未乘虎沖之也,屋賣而末傳見財,為干之財庫,故尚有也。不全者,白虎臨於其上耳。

王牧夫が断じて言う:この債は債者が心を蓄えて返さないのではなく、実に彼が賭を好み酒を好み、家道が日一日と敗落しているのである。将来は住む屋まで売り、屋を売って初めて銭を返し出し、しかも数に足りない。問うて果たしてその通りであった。道理は:日支上の亥水が日干を生じ得るのは、まさに相手に返す心があること。あいにく陰神の酉が亥の上に加わり、酉は乙日の鬼で、また玄武に乗る——酉が亥に加わるは酒を主り、玄武は嬉遊の神であり、また走失耗散の殺でもある(原文「走?之殺」の「?」は底本の缺字)。末伝の未は白虎に乗って賭博呼盧を主り(「呼?」の処も一字缺く)、銭財を散尽する。三伝は長生から官鬼に伝わり、官鬼からまた墓庫に伝入する。どうして敗落せずにいられようか。屋を売ると言うのは、日支が宅であり、末伝の未が白虎に乗って来てそれを冲するからである。屋を売却して末伝にまた財爻を見、未はちょうど日干の財庫なので、銭は終に若干ある。数に足りないと言うのは、白虎がちょうどこの財庫の上に圧するからである。

六月乙丑日午将未時に来意を占う(『一字玉連環』)

六月乙丑日午將未時占來意。《一字玉連環》

六月乙丑日、午将を取り未時に加えて課を起こし、「来意」を占い、来人の心中の問いを推しはかる。この例は『一字玉連環』から採った。

勾龍空虎  辰巳午未 后貴朱合 父 甲子 貴 合卯 申常 亥子寅卯 父  亥 后 ◎ 朱寅 酉玄 子丑卯乙 財  戌 陰 ◎⊙  丑子亥戌  蛇貴后陰

課盤。午将を未時に加えると、天盤は地盤より一位退する:辰が地盤の巳に加わり、巳が午に、午が未に、未が申に、申が酉に、酉が戌に、戌が亥に、亥が子に、子が丑に、丑が寅に、寅が卯に、卯が辰に加わる。天将は貴人が子に乗るところから起こる——子は地盤の丑位に臨み、陽に属すので順行する:螣蛇は丑に乗り、朱雀は寅に、六合は卯に、勾陳は辰に、青竜は巳に、天空は午に、白虎は未に、太常は申に、玄武は酉に、太陰は戌に、天后は亥に乗る。中間の四課は右から左へ:日干乙の寄宮は辰、第一課、辰の上に卯を見、六合が乗る。第二課、卯の上に寅を見、朱雀が乗る。第三課、日支の丑の上に子を見、貴人が乗る。第四課、子の上に亥を見、天后が乗る。右側の三伝:初伝は子で父母爻、遁干は甲、貴人が乗る。中伝は亥で、これも父母、天后が乗り旬空。末伝は戌で財爻、太陰が乗り、同じく旬空。「天魁」とはすなわち戌、「神后」とはすなわち子で、下文の断語が用いるのはまさにこの二つの六壬神名である。

徐次賓曰:來意事干西北方承繼姓王人財產也。相托一屬鼠有官人。九月內定見成就,又目下西南方虛望外財,道路有所畏隔,不敢往也。蓋末傳天魁為日干之財,天魁臨亥主王宇,發用神后為日干三合,上見天乙為貴人,又子屬鼠,故知承繼姓王人財產而得屬貴人力也。九月成就者,歸計戌為九月建也。又言西南虛望外財者,末時為日干之財,陰神見天空主虛詐,又值事門上見白虎主道路,白虎金也,為日之鬼,故知畏而不敢往也。

徐次賓が断じて言う:来人の心事は、西北の方で姓王の人に過継され、その財産を承受することである。この事は鼠に属する官职ある人に托して办らせ、九月の内に必ず成る。また目下は西南の方に一筆の外財を指望しているが、ただ道路上に畏懼阻隔があり、敢て前に往かない。道理は:末伝の「天魁」戌は日干の財爻で、天魁は亥の上に臨み、亥の字形は「王」の字と相関するので姓王を主す。発用の「神后」子は日干と三合を成し、上にまた天乙貴人を見、子は生肖の上で鼠に属するので、姓王の人の財産を承継し、しかも鼠に属する貴人の力を借りると断じたのである。九月に成ると言うのは、帰計門上の戌がちょうど九月の月建だからである。西南の方に一筆の外財を空しく指望するというのは、末位の神が日干の財でありながら、その陰神の上に天空を見、天空は虚詐を主るからである。さらに値事門上に白虎を見、白虎は道路を主り、白虎は金に属しまた日干乙の鬼なので、来人が畏懼を存して敢て往かないと知ったのである。

乾隆戊辰年閏七月乙丑日に風水を占う(『牧夫占験』)

乾隆戊辰年閏七月乙丑日巳將巳時占風水。《牧夫占驗》

乾隆戊辰年閏七月乙丑日、巳将を取り巳時に加えて課を起こす——月将と占時が同じで「伏吟」の課である。占ったのは墳地の風水。この例は『牧夫占験』から採った。

龍空虎常  巳午未申 蛇蛇勾勾 財 戊辰 勾 勾辰 酉玄 丑丑辰辰 財 乙丑 蛇 合卯 戌陰 丑丑辰乙 財  戌 陰 ◎⊙  寅丑子亥  朱蛇貴後

課盤。巳将を巳時に加えると、天盤と地盤は完全に重合し、十二支は各々本位に帰る——「伏吟」の課である。天将は貴人が子に乗るところから起こる——子はちょうど地盤の子位にあり、陽に属すので順行する:螣蛇は丑に乗り、朱雀は寅に、六合は卯に、勾陳は辰に、青竜は巳に、天空は午に、白虎は未に、太常は申に、玄武は酉に、太陰は戌に、天后は亥に乗る。中間の四課は右から左へ:日干乙の寄宮は辰、第一課、辰の上に依然として辰を見、勾陳が乗る。第二課、辰の上に辰を見、勾陳が乗る。第三課、日支の丑の上に丑を見、螣蛇が乗る。第四課、丑の上に丑を見、螣蛇が乗る。右側の三伝:初伝は辰で財爻、遁干は戊、勾陳が乗る。中伝は丑で財爻、遁干は乙、螣蛇が乗る。末伝は戌で財爻、太陰が乗り旬空。風水を占うには勾陳をもって山と為し、螣蛇をもって地脉の起伏と為す。太陰が末伝にあってまた日干を冲し日支を刑する——この数ヶ所が下文の断語の着眼点である。

王牧夫曰:庸實七兄為以寧侄子容溪隱汰看風水,已定向封固命,餘占是何向。以占數字精粗,餘以前人看來龍山向法,用干支上神合者斷之曰,祖龍從西南坤上來,落脈在巽上,立乙山辛向加卯酉。以寧侄拆封閱之,果符所?。七兄曰龍脈山向如見,此地可扦葬否。余曰勾陳居辰,為山。山高峻穴卻在中平處,以蛇居中傳丑為平土故也。此課雖伏吟靜象卻不可葬。以太陰在末沖干刑支戌中又懷暗鬼耳。穴乘丁,雖有情活潑,惟此處亦曾葬,有人來不然丑乃鬼墓壘壘,在支上何故。以寧侄曰此地名程家墳,一一果符所占,遂共歎服。

王牧夫が記して言う:庸実七兄が以寧の甥に替わって子容溪の隠汰で風水を見、すでに坐向を定めてそれを封じ、私に課を起こして何の向きか占わせ、課数の精粗を試そうとした。私は前人の来龍を見・山向を定める法に依り、日干上神と日支上神の相合する者をもって断じ、言うには:祖龍は西南の坤方から来り、落脉は巽方にあり、立てたのは乙山辛向に卯酉を兼ねるものである、と。以寧の甥が封条を拆いて見れば、果たして私の断じた所に符合した(「所?」の処は底本に一字缺く)。七兄が言う:龍脉山向をまるで親しく見たようだ。ではこの地は葬り下すことができるか。私が言う:勾陳は辰に居り、辰は山を為す。山は高峻なれど、穴は半山の平緩な処にある——螣蛇が中伝の丑に居り、丑は平土だからである。この課は伏吟の静象なれど、葬るべからず。太陰が末伝にあり、日干を冲しまた日支を刑し、戌の中にはまた暗鬼を懐くからである。穴上は丁神に乗り、情あって活溌なれど、ここは従前にも人を葬った所である。さもなければ、丑は鬼墓で、墳塚が累々として日支の上に圧するのは、また何の故か。以寧の甥が言う:この地は程家墳と呼ばれる。占った所が一々符合し、衆人はここに嘆服した。

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