Libo

元を体す

清 · 惠栋 · 第43巻 / 53

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

《說文》曰:「尾,微也。」《易》以下為尾,上為角。《說文》曰:「微,隱行也。《春秋傳》曰:白公其徒微之。」又曰:「妙也,從人從攴,豈省聲。」然則微妙之微當作。

『説文解字』に曰く、「尾」はすなわち「微」なり。恵棟は接続して按断す、『周易』はまさに一卦の最も下の初爻を以て「尾」と為す——『未済』の初六「その尾を濡らす」のごとし。最も上の一爻を以て「角」と為す——『晋』の上九「その角を晋む」のごとし。『説文』はまた曰く、「微」は隠蔽して行うなり——竝びに『春秋左氏傳』の「白公の其徒はこれを微す」を引きて証と為す——白公勝が敗死した後、彼の党徒は尸首を蔵起せり。『説文』は別に一字ありて曰く、あの字は精妙の意思にして、字形は人に従り攴に従り、「豈」字を省筆して声符を作る。恵棟はこれに由りて断定す、「微妙」の「微」はもとより応にあの字と写作すべし。該字(当に「𢕬」なるべし)は源文の両処に於いてすでに脱落せり。今はなお底本の原様に照りて、補写を加えず。

《荀子·致仕》篇曰:「知微而論,可以為師。」《詩·烝民》曰:「人亦有言,德輶如毛,民鮮克舉之。我儀圖之,維仲山甫舉之,愛莫助之。」毛傳曰:「愛,隱也。」隱微之地,故人莫能助。

『荀子·致仕』篇に曰く、幽微を懂得して而もまた能く講説して明白なれば、則ち人師を為すべし。『詩経·大雅·烝民』に曰く、人々に句の老話ありて曰く、徳は軽きこと羽毛のごとく、百姓の中に却って挙げ動す人は少し。我は細々とこの句の話を揣度するに、ただ仲山甫の一人のみ挙げ得るも、可惜隠微の徳は旁人は忙を帮うに及ばず。毛亨の『毛詩故訓傳』は解釈す、「愛」はすなわち隠なり。恵棟は文に随いて申説す、徳行は隠微の地に落る。ゆえに別人は相助けるに由なし。

《中庸》曰:「是故君子篤恭而天下平。《詩》云:予懷明德,不大聲以色。子曰:聲色之於以化民,末也。《詩》曰:德輶如毛。毛猶有倫。上天之載,無聲無臭。至矣。」

『中庸』の末章に曰く、ゆえに君子はただ篤厚恭敬するを須みるのみ、天下は自然に太平なり。それは『詩経·大雅·皇矣』の「我は明徳を懐れ、声を大きくして色を以てせず」を引きて、上天が文王の光明の徳を嘉許して、疾言厲色に靠らざるを言う。また孔子の話を引きて曰く、声音顔色を用いて百姓を教化するは、最も末の一等の手段なり。再び『詩経·大雅·烝民』の「徳は毛のごとく輕し」を引くも、羽毛は畢竟なお形状の比す可きあり。ここにおいて『詩経·大雅·文王』の「上天の載は声なく臭なし」を引きて、上天が万物を化育するは既に声音なくまた気味なしを言う——これこそ算えて極処に講じ到るなれ。

《禮器》曰:「禮有以少為貴者,以其內心也。德產之致也精微,觀天下之物,無可以稱其德者,如此則得不以少為貴乎?是故君子慎其獨也。」案:德產之致也精微,所謂德輶如毛也;觀天下之物無可以稱其德者,故民鮮克舉之也;君子慎其獨,故愛莫助之也。

『礼記·礼器』に曰く、礼に少を以て貴と為すありて、貴とは心を用いて内に在るを以てなり。徳の生成する所の極致は精微にして見難し、天下の器物を遍観するに、一様としてこの種の徳と相称するに配るなし。このごとく看れば、怎麼して「少」を以て貴と為さざるを得ん。ゆえに君子は独り居る時に格外に謹慎す。恵棟の按断に曰く、「徳産の致するや精微なり」は、まさに『詩』句の「徳は毛のごとく輕し」に対応し、「天下の物を観るに其の徳を称る可きなし」は、ゆえに『詩』に「民は鮮くこれを挙ぐる能くす」と言い、「君子はその独を慎む」は、ゆえに『詩』に「愛はこれを助くる莫し」と言う。彼は『礼器』のこの一段を用いて『烝民』の三句を印証し、「慎独」と「微」とを貫通して一を為す。

《管子·白心》曰:「道之大如天,其廣如地,其重如石,其輕如羽。」荀子《不苟》曰:「操而得之則輕。」《詩》曰:「德輶如毛。」輕則獨行,愛莫助之。《莊子·齊物》曰:「天下莫大於秋豪之末而太山為小。」

『管子·白心』に曰く、道は大ききこと天のごとく、広きこと地のごとく、重きこと石頭のごとく、軽きこと羽毛のごとし。『荀子·不苟』に曰く、それを手裏に握れば則ち軽しと覚ゆ。恵棟は『詩経』の「徳は毛のごとく輕し」を以て相い印証し、竝びに勢に順いて申説す、既に軽ければ、ただ独自に往きて行うのみ——ゆえに『詩』は接続して「愛はこれを助くる莫し」と言う。『荘子·斉物論』に曰く、天下に秋毫の末梢より大なるの東西なく、而も泰山は却って小と算う——道の眼光より看れば、大小の分は竝びに執る可からず。

《淮南·原道》曰:「神托於秋豪之末。」高注:「言微妙也。」「而大與宇宙之總。」高注:「宇宙諭天地總合也。」又曰:「貴虛者以豪末為宅也。」高注:「虛者,情無所念慮也;以豪末為宅者,言精微也。」《俶真》曰:「夫秋豪之末淪於無間而復歸於大矣。」高誘注云:「秋豪微妙,故能入於無間。間,孔。言道無形,以豪末比道,猶復為大也。」

『淮南子·原道訓』に曰く、神は秋毫の末梢の上に寄托する可し。高誘の注に曰く、これは言う所はそれが精微なり。原文は引き続き曰く、それはまた大ききこと能く整個の宇宙を総括す。高誘の注に曰く、「宇宙」は天地の総合を指す。『原道訓』はまた曰く、虚静を看重する人は、毫末を以て自己の居所と為す。高誘の注に曰く、いわゆる「虚」とは心裏に念慮を存せず、「毫末を以て宅と為す」とは言う所は彼が精微して極点に到るなり。『俶真訓』に曰く、秋毫の末梢は能く縫隙なきの地方に沈入して、随いて後に広大に回復す。高誘の注に曰く、秋毫は極めて精微なれば、ゆえに能く無隙の処に進入す。「間」はすなわち孔隙なり。これは言う所は道は形体なく、毫末を用いて道を比擬するも、毫末は却ってなお太だ大ききを嫌う。

《意林》引《太公金匱》曰:武王問五帝之戒。太公曰:「道自微而生,禍自微而成。慎終與始,完如金城。」

『意林』は『太公金匱』を引きて記載す、周武王は太公に五帝の留下せる箴戒を請教す。太公は回答して曰く、道は細微の処より生長し、禍もまた細微の処より醸成す。開頭より結尾に到るまでみな謹慎を保持せば、人は金城のごとく完固にして破られず。

三微附

《易乾鑿度》曰:「天氣三微而成著,三著而成體。」鄭注云:「五日為一微,十五日為一著,故五日有一候,十五日成一氣也。冬至陽始生,積十五日至小寒為一著,至大寒為二著,至立春為三著,凡四十五日而成一節,故曰三著而成體也。正月則泰卦用事,故曰成體而郊也。」

緯書の『易乾鑿度』に曰く、天の気は三個の「微」を経過してこそ一個の「着」を形成し、三個の「着」を経過してこそ形体を成就す。鄭玄は注解して曰く、五天を算えて一「微」と為し、十五天を算えて一「着」と為す。ゆえに五天を一候と為し、十五天を一節気と成す。冬至のあの日に陽気は開始して萌生し、積み満ちて十五天して小寒に到るは第一の「着」にして、大寒に到るは第二の「着」にして、立春に到るは第三の「着」にして、一共に四十五天して一節を成す。ゆえに「三着して体を成す」と言う。正月に到れば、『泰』卦は当令して事を用う。ゆえに形体既に成れば郊祭の礼を挙行する可しと言う。

《後漢書·魯恭傳》,恭議奏曰:「孝章皇帝深惟古人之道,助三正之微,定律著令。」注云:「三正,三微也。」《前書音義》曰:「言陽氣始施,萬物微而未著,故曰微。」

『後漢書·魯恭傳』の記載に、魯恭の奏議に曰く、孝章皇帝は深切に古人の道を体察し、三正の陽気初萌の幽微を扶助し、因りて律条を制定し法令を着為せり。唐人の李賢の注に曰く、いわゆる「三正」とはすなわち「三微」なり。『漢書音義』は解釈す、これは言う所は陽気は剛に施化を開始して、万物は還って幽微にして未だ顕著せず。ゆえに「微」と呼ぶ。

《陳寵傳》:漢舊事,斷獄報重常盡三冬之月,是時帝始改用冬初。孝章,十月而已。元和二年,長水校尉賈宗上言,以為斷獄不盡三冬,故陰氣微弱,陽氣發洩,招致災旱,事在於此。帝以其言下公卿議。寵奏曰:「夫冬至之節,陽氣始萌,故十一月有蘭、射干、芸、荔之應。」《易通卦驗》曰:「十一月廣莫風至,則蘭、夜乾生。」《時令》曰:「諸生蕩,安形體。」仲冬一陽爻生,草木皆欲萌動。「天以為正,周以為春。」正、春皆始也。十一月萬物微而未著,天以為正而周以為歲首。「十二月陽氣上通,雉雊雞乳,地以為正,殷以為春。」十二月二陽爻生,陽氣上通。「十三月陽氣已至,天地已交,萬物皆出,蟄蟲始振,人以為正,夏以為春。」十三月,今正月也,萬物皆出於地,人始初見,故曰人以為正。「三微成著,以通三統。」統者,統一歲之事。

『後漢書·陳寵傳』の記載に曰く、漢朝の旧例に按ずれば、死罪を判決し重刑を上報するは照例に冬季の三個月を皆過ぎ了るを待ち、章帝に到りてこそ初冬に改めて辧理す。いわゆる孝章の改も、また過ぎず十月に提前するのみなり。元和二年に、長水校尉の賈宗は書を上して、以て為しく獄を断ずるに冬季三月を用満さず、以て陰気微弱・陽気外泄を致して、旱灾を招来す——症结は則ちここに在り。章帝は彼の話を公卿に交えて討論せしむ。陳寵は奏を上して曰く、冬至のこの節気は、陽気は剛に萌動す。ゆえに十一月に蘭草・射干・芸香・荔挺ありて時に応じて生ず。恵棟はここに緯書の『易通卦験』を引く、十一月に広莫風一たび到れば、蘭と夜干とは則ち長出す。又『時令』を引く、各種の生物は萌動して、形体を安養す。竝びに夾注して曰く、仲冬の時は一個の陽爻は初生して、草木はみな萌動するを要す。陳寵は接続して曰く、この月は天はそれを以て正月と為し、周朝はそれを以て春天と為す。恵棟の注に曰く、「正」と「春」とはみな開始の意思にして、十一月は万物は還って幽微にして顕著せず。ゆえに天はこれを以て正と為し周はこれを以て歳首と為す。陳寵はまた曰く、十二月は陽気は上に向かいて貫通し、野鶏は鳴叫し家鶏は卵を孵し、地はそれを以て正月と為し殷朝はそれを以て春天と為す。恵棟の注に曰く、十二月は両個の陽爻は生成して、陽気は上に通ず。陳寵は再び曰く、十三月は陽気はすでに到りて、天地は交通して万物は尽く出で、蟄伏の虫豸は活動を開始し、人はそれを以て正月と為し夏朝はそれを以て春天と為す。恵棟の注に曰く、いわゆる十三月とはすなわち今天の正月にして、万物はみな地裏より冒出し、人事もまたこそ端倪を初見す。ゆえに人はこれを以て正と為すと言う。陳寵は総括して曰く、三個の「微」は積みて一個の「着」と成り、これに由りて天・地・人の三統を貫通す。旧注に曰く、「統」はすなわち一整年の政事を統攝するの意思なり。

棟案:何休《公羊》注云:「統者,始也。」「周以天元,殷以地元,夏以人元。若以此時行刑,則殷周歲首皆當流血,不合人心,不稽天意。《月令》曰:孟冬之月」——孟冬當作季秋——「趣獄刑,無留罪。明大刑畢在立冬也。秦為虐政,四時行刑;聖漢初興,改從簡易,蕭何草律,季秋論因,俱避立春之月而不計天地之正,二王之春,實頗有違。」言蕭何不論天地之正及殷周之春,實乖正道。「陛下探幽析微,允執其中,革百載之失,建永年之功,上有迎承之敬,下有奉微之惠,三正之月,不用斷獄,敬承天意,奉順三微也。稽《春秋》之文,《春秋》於春每月書王,所以統三統,當《月令》之意,聖功美業不宜中疑。」書奏,帝納之。《白虎通》述三微與此略同。

恵棟の按断に曰く、何休の『春秋公羊解詁』に曰く、「統」はすなわち開始なり。陳寵の奏中は接続して講ず、周は天を以て元と為し、殷は地を以て元と為し、夏は人を以て元と為す。若しこの三個月の裏に刑を行わば、則ち殷・周の歳首はみな血を見るを要し、既に人心に合せず、また天意に合せず。彼は『月令』の「孟冬の月、獄刑を趣かし、罪を留むるなかれ」を引き、恵棟の夾注は指摘して「孟冬」は当に「季秋」と作るべし。見る可く重刑はみな立冬の前に辧了するを要す。秦朝は暴政を施行して、一年四季みな人を殺す。本朝は初めて興りて、改めて簡易に従り、蕭何は律令を起草して、季秋に罪囚を論決すと規定す。みな立春の月を避くるといえども、而も天地の正と殷周両代の春月とに顧及せず——実在に頗る違背あり。恵棟はこの一句を解釈す、言う所は蕭何はただ立春を避くるを知るのみ、天地の正と殷・周の春とを論ぜず——確実に正道に背离せり。陳寵は最後に曰く、陛下は幽隠を探究し精微を剖析して、能く中道を持守し、百年の失誤を革除し、長久の功業を建立す。上に対しては天時を迎承するの恭敬あり、下に対しては三微を奉行するの恩惠あり。三正の月に於いて獄を断ずるを停止するは、まさに天意を敬承し三微に順奉するなり。『春秋』の文法を考察するに、それは春季に於いて毎月にみな一個の「王」字を写す——則ち用いて三統を統攝するにして、これは『月令』の用意と相合す。このごときの聖徳美業は中途に迟疑すべからず。奏章は遞上して、章帝は彼の意見を采纳せり。恵棟は補充す、『白虎通』の三微を論ずるは、この段と大致相同じ。

《白虎通》曰:「正朔有三,何?本天有三統,謂三微之月也。明王者當奉順而承之,故受命各統一正也,敬始重本也。朔者,蘇也,革也,言萬物革更於是,故統焉。」

『白虎通』に曰く、正朔は何を為めて三種ある。根本原因は天に三統ありて、すなわち陽気初萌の三個の「微」月に在り。これは表明する所は受命の王は当に天道を奉順してこれを承接すべし。ゆえに毎一代は受命すれば各自一種の正朔を統用す——敬慎して開端を看重して根本を看重するを為めなり。「朔」に蘇醒・変革の両層の意思ありて、言う所は万物はこの時に到りて更新変革す。因りてそれを以て一統の起点と為す。

《漢書·劉向傳》,向疏曰:「王者必通三統,明天命所授者博,非獨一姓也。」應劭曰:「二王之後與己為三統也。」孟康曰:「天地人之始也。」

『漢書·劉向傳』の載に、劉向は疏を上して曰く、王と為る人は必ず三統を貫通して、用いて天命の授する所は竝びに一姓に局限せずして、而も広く徳ある人に及ぶを表明す。応劭の注に曰く、いわゆる三統とは、前の両代の帝王の後裔と本朝とを合起して算えて三統と為す。孟康の注に曰く、三統とはすなわち天・地・人の三者の開端なり。

微を知りて顕に至る

《中庸》曰:「莫見乎隱,莫顯乎微,故君子慎其獨也。」又云:「知微之顯,可與入德矣。」太史公《史記》贊曰:「《易》本隱以之顯。」愚謂:隱者,乾初九也,至二則顯矣,故云隱以之顯。《文言》釋九二云「閒邪存其誠」,二陽不正,故曰閒邪存誠,謂慎獨也。荀子曰:「不誠則不能獨。」獨則形,隱猶曲也。《中庸》曰:「其次致曲,曲能有誠,誠則形,形則著。」《孝經緯》「天道三微而成著」,皆是義也。「唯天下至誠」謂九五也,「其次致曲」謂九二也。唯天下至誠,誠者也;其次致曲,誠之者也。致曲即孟子思誠。二升坤五,所謂「及其成功一也」。

『中庸』に言う:隠れた処ほど顕れ易いものはなく、幽微なる処ほど明らかになり易いものはない。ゆえに君子は独り居る時に最も慎む。また言う:幽微なるものが終に顕れるを知れば、これを以て徳に入るべし。司馬遷は『史記』の賛に言う:『周易』は隠微より顕著へと推す書なり。恵棟自ら意を申す:いわゆる「隠」とは『乾』卦初九の一爻を指し、九二に升れば顕となる。ゆえに「本隠以之顕」と言う。『文言伝』が九二を「閑邪存其誠」の一句で解するのは、九二が陽を以て陰に居り位正しからざるがゆえに、邪念を防ぎ誠意を存養せねばならず、これ即ち慎独である。荀子に言う:誠ならざれば独を守ること能わず。独を守れば形跡見るべくして、「隠」は即ち『中庸』の言う「曲」に相当す。『中庸』に言う:次なる者は偏曲の一端より功夫し、偏曲の処に於ても誠に至ることを得、誠あれば顕形し、顕形すれば昭著す。『孝経緯』の「天道三微而成著」も、皆同じ理を言う。恵棟更に爻位を以て配す:「唯天下至誠」は九五を指し、「其次致曲」は九二を指す。至誠は生まれながらに誠なる人、致曲は努力して誠を求める人にして、「致曲」は即ち『孟子』の言う「思誠」なり。九二が上升して坤位の五に居るは、正に『中庸』の「成功一となれば則ち一なり」に合す。

乾善九五,坤善六二。乾二中而不正,三正而不中,四不中不正。二養正,三求中,兼之四也。以《中庸》言之,二、三學知利行者也,四困知勉行者也,五生知安行者也,及其知之、及其成功則一也。

『乾』卦は九五を以て最善と為し、『坤』卦は六二を以て最善と為す。『乾』卦の九二は中位に居りて正ならず、九三は正位に当たりて中ならず、九四は中にも正にもあらず。九二は正道を涵養し、九三は中道を追求し、両者を合せて観る者は正に九四なり。『中庸』の説を以て配すれば:九二・九三は「学びて之を知り、利りて之を行う」の一等、九四は「困みて之を知り、勉めて之を行う」の一等、九五は「生まれて之を知り、安んじて之を行う」の一等なり。然れども真に之を知り真に成れば、三者の間に分別なし。

幾

《虞書·皐陶謨》曰:「兢兢業業,一日二日萬幾。」注云:「幾,微也。言當戒懼萬事之微。」又曰:「安女止,惟幾惟康。」注云:「念慮幾微,以保其安。」

『尚書・虞書・皐陶謨』に言う:小心谨慎すれば、一日二日の間に上万件の幾微決すべき事あり。旧注に解す:「幾」とは即ち幽微なり、万事の細微なる苗头に戒惧を懐くべきを言う。『皐陶謨』にまた言う:汝の居る位に安んじ、幾微に留意して安寧を求めよ。旧注に解す:念慮が幾微に在る時に之を省察して、乃ち其の安寧を保つことを得。

又曰:「帝庸作歌曰:勑天之命,惟時惟幾。」注云:「奉正天命以臨民,惟在順時,惟在慎微。」《顧命》,王曰:「思夫人自亂於威儀,爾無以釗冒貢於非幾。」

『皐陶謨』にまた言う:舜帝乃ち歌を作して曰く、上天の命を奉行するは、全く天時に順うに在り、全く幾微を慎察するに在り。旧注に解す:端正なる天命を奉持して百姓を治むるは、一に時に順い、一に微を慎むに在り。『尚書・顧命』に記す:成王臨終に嘱託して曰く、人は往々にして自ら威儀に乱れを出すを思う、汝等決して太子釗をして冒々として幾微の正に合せざる事に陥らしむるなかれ。

幾者吉之先見,非幾不善也。《繫上》曰:「夫易,聖人之所以極深而研機也。」鄭注云:「機當為幾。幾,微也。」包咸注《論語》云:「幾者,微也。」《說文》同。

恵棟『顧命』の「非幾」の二字に順りて解す:「幾」は吉兆最先に顕露する苗头なり、ゆえに「非幾」は即ち不善なり。『繋辞上伝』に言う:『周易』は聖人の以て幽深を窮め幾微を研求する書なり。鄭玄注に言う:「機」の字は「幾」と作るべし、「幾」は即ち幽微なり。包咸の『論語』注にも「幾」は幽微と言い、『説文解字』の訓釈もこれと同じ。

又曰:「子曰:知幾其神乎!君子上交不諂,下交不瀆,其知幾乎!幾者動之微,吉之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。」虞注云:「幾謂陽也,陽在復初稱幾。」王弼曰:「幾者,去無入有。」《易正義》曰:「幾者,去無入有,有理而未形之時。」

『繋辞下伝』にまた言う:孔子講じて曰く、幾を知る者は殆ど神に近からん。君子は上に交るに諂わず、下に交るに慢らず、これを幾を知ると謂う。いわゆる「幾」とは、動向の甫めて萌発する細微の処、吉兆の最先に顕露する端倪なり。君子は幾を見れば即ち行い、一日の終るを待たず。虞翻注に言う:「幾」は陽爻を指し、陽気『復』卦初爻に伏する時を「幾」と称す。王弼に言う:「幾」は無中より出でて有に入る一刹那なり。孔頴達『周易正義』に言う:「幾」は無を去り有に入り、理已に備りて形跡未だ形を成さざる那一段の時なり。

《文言》曰:「知至至之,可與幾也。」述云:至謂初。幾者,動之微,知微知章,故可與幾。《尚書·皐陶謨》曰:「無教佚欲有邦,兢兢業業,一日二日萬幾。」偽孔氏注云:「幾,微也。言當戒懼萬事之微。」荀子云:「善日者王。」又云:「王者敬日。」與《書》義同。

『乾・文言』に言う:到るべき歩を知りて真に其処に至る者、かかる人と「幾」を言うべし。恵棟『周易述』に於て申す:この「至」は初爻を指す。「幾」は動向の甫めて萌発する細微の処、微を知り能く顕を知るゆえに、彼と幾を言うに足る。『尚書・皐陶謨』に言う:諸侯をして嗜欲に放縦せしむること勿れ、小心谨慎して、一日二日の間に上万件の幾微の事あり。旧題孔安国の注に言う:「幾」は幽微なり、万事の細微の処に戒惧を心存すべきを言う。荀子に言う:毎日を善く用うる者は王たることを得。又言う、王者は毎日を敬重す。これ『尚書』の意と正に相合す。

《尚書大傳》曰:「在旋機玉衡,以齊七政。」玉衡,斗也。「旋機者何也?」傳曰:「旋者,還也;機者,幾也,微也。其變幾微而所動者大,謂之旋機。是故旋機謂之北極。」

『尚書大伝』『尭典』の「在璿璣玉衡、以斉七政」を引き、北斗を以て日月五星の運行を校正す。恵棟夾注:「玉衡」は即ち北斗なり。『大伝』問を設く:何をか「旋機」と謂う。答えて曰く:「旋」は回転、「機」は即ち「幾」、すなわち幽微なり。其の自身の変動は極めて細微にして、牽動する処は極めて宏大なり。ゆえに「旋機」と言う。故に「旋機」は即ち北極を指す。

《說文》曰:「幾,微也,殆也,從。」《說文》:「微也,從二么,從戍。戍,兵守也,而兵守者危也。」荀子人心之危與幾同義。

『説文解字』に言う:「幾」は幽微なり、また危殆なり、字形は某字より声を得——其の従う字は源文に於て已に脱落す。『説文』其の字を解して曰く:幽微の義なり、字形は二つの「幺」に「戍」を加えて成る。「戍」は兵を持して戍守するを謂い、兵を持して戍守するは正に危険を意味す。恵棟これに拠りて按断す:荀子の引く「人心之危」の「危」と「幾」とは一つの義なり、見るべし「幾」は幽微と危殆との両層を兼含することを。

邵子《擊壤集》詩云:「何者謂之機?天根理極微。今年初盡處,明日起頭時。此際易得意,其間難下辭。人能知此義,何事不能知。」《孝經鉤命決》曰:「道機合者稱皇。」《文選》注一。

邵雍『伊川撃壤集』に一詩ありて曰く:何をか「機」と謂う。其れ天根の処に在り、理極めて幽微なり。即ち今年将に尽きんとする一刻は、正に明日発端の時なり。この交界の処は最も心に領会し易く、而も最も言語を以て説き難し。人若しこの層の意を識ることを得れば、何事か識らざるあらん。緯書『孝経鉤命決』に言う:道機に契合する者のみ「皇」と称するに足る。此の条は『文選』李善注巻一の引く所に見ゆ。

《荀子·解蔽》篇曰:「《道經》曰:人心之危,道心之微,危微之幾,惟明君子而後能知之。」注云:「幾,萌兆也,與機同。」

『荀子・解蔽』篇古書を引いて曰く:『道経』に講ず、人心は険危にして安んじ難く、道心は幽微にして見え難し。此の危と微との間の「幾」は、明達の君子のみ之を辨識し得。楊倞注に言う:「幾」は即ち萌芽の兆、機の字と相通ず。

虚

《咸·彖傳》曰:「山上有澤,咸,君子以虛受人。」《祭義》曰:「孝子將祭,慮事不可以不豫,比時具物,不可以不備,虛中以治之。」

『咸』卦伝文に言う:山の上に沢あり、これ即ち『咸』なり、君子は之に取法して空虚の心胸を以て他人を納受す。此の語は実に『大象伝』に出づ、恵棟ここに『彖伝』と題す。『礼記・祭義』に言う:孝子将に祭らんとする時、諸事を謀るに預め安排せざるべからず、時至りて祭品を備うるに斉全ならざるべからず、また空明にして雑念なき心を以て此の一切を操办すべし。

《管子·心術》篇曰:「虛無無形謂之道。」又曰:「虛之與人也無閒,唯聖人得虛道。」注云:「虛能貫穿人形,故曰無閒。」又曰:「天之道虛,地之道靜。虛則不屈,靜則不變。」又曰:「虛者萬物之始也。」注云:「有形生於無形也。」

『管子・心術』篇に言う:虚にして形なき者、これを道と謂う。また言う:虚は人に対して間隔なし、唯だ聖人のみこの虚の理を得。『旧注』に解す:虚は人の形体を貫徹し得、ゆえに「無間」と言う。また言う:天の道は虚に在り、地の道は静に在り。虚なれば窮竭せず、静なれば改易せず。また言う:虚は万物の開端なり。旧注に解す:有形の物は无形の中より生出する者なり。

賈子《新書·道術》曰:「道者,所從接物也。其本者謂之虛,其末者謂之術。虛者言其精微也,平素而無設施也。術也者,所從制萬物也,動靜之數也。凡此皆道也。」《韓非子·外儲說》,鄭長者有言曰:「夫虛靜無為而無見也。」太史公《自序》曰:「虛者道之常也。」

賈誼『新書・道術』に言う:道とは、人の以て外物に接応する憑借なり。其の根本を「虚」と謂い、其の末節を「術」と謂う。いわゆる「虚」とは、其れ精微にして見え難く、平淡素朴にして刻意して布置せざるを言う。いわゆる「術」とは、以て万物を制御する者、動静進退の法度なり。此の両様皆道に属す。『韓非子・外儲説』鄭長者の言を引いて曰く:虚静無為にして形跡を顕露せず。司馬遷『太史公自序』に言う:虚は道の常態なり。

《荀子·解蔽》篇曰:「人何以知道?曰:心。心何以知?曰:虛壹而靜。心未嘗不臧也」——臧讀為藏——「然而有所謂虛;心未嘗不滿也」——滿讀為兩——「然而有所謂一;心未嘗不動也,然而有所謂靜。人生而有知,知而有志,志也者臧」——藏——「也。然而有所謂虛,不以所已臧害所將受謂之虛。心生而有知,知而有異,異也者,同時兼知之;同時兼知之,兩也,然而有所謂一,夫不以一害此一謂之壹。心臥則夢,偷則自行,使之則謀,故心未嘗不動也,然而有所謂靜,不以夢劇亂知謂之靜。未得道而求道者謂之虛壹而靜,知道察、知道行、體道者也。虛壹而靜謂之大清明。」

『荀子・解蔽』篇に言う:人は何を以て道を識る。心を以てす。心は何を以て識る。虚・壹・静を以てす。人心に蔵せざるなきこと莫し(荀子の「臧」は「蔵」と読む)而もなお「虚」を講ず。人心に両の認識を同時に容れざるなきこと莫し(「満」は「両」と読むべし)而もなお「一」を講ず。人心に動せざるなきこと莫し而もなお「静」を講ず。人生まれてより知覚あり、知覚あれば記憶あり、記憶は即ち蔵なり。然れどもなお「虚」を講ずるは、已に存する物をして将に受けんとする物を妨害せしめざるなり、これを虚と謂う。心生まれてより知覚あり、知覚あれば差異を分別し得、いわゆる差異とは同時に二事を知るなり。同時に二事を知るは即ち「両」なり、然れどもなお「一」を講ずるは、此の一件をして彼の一件を妨害せしめざるなり、これを壹と謂う。心睡れば則ち夢を為し、放任すれば自ら遊走し、之を役使すれば謀画す、ゆえに心に動せざるなきこと莫し。然れどもなお「静」を講ずるは、夢幻の煩雑をして認知を擾乱せしめざるなり、これを静と謂う。未だ道を得ずして道を求むる者は、虚・壹・静に依りて入門す。能く知り能く道を察し能く道を行い能く道を体する者も、此に由りて成る。虚・壹・静合さりて、これを大清明と謂う。

独

《易·履》初九:「素履」——素,始也——「往無咎。」象曰:「素履之往,獨行願也。」述曰:初微謂之獨,震為行,使四變而已應之,故獨行願。疏云:初為隱為微,隱微於人為獨。

『周易・履卦』初九爻辞に言う:素朴に行い、往前に過ちなし。恵棟夾注:「素」は開始の義なり。『象伝』に言う:素履の往くことを得る所以は、独り自らの心願を践行するなり。恵棟『周易述』に於て申す:初爻は幽微ゆえに「独」と称す。下卦震は行いを為し、九四をして変動せしめて初爻に相応す、ゆえに「独行願」と言う。其の疏文にまた言う:初爻は隠に属し微に属す、隠微の人身に落つるは即ち「独」なり。

《觀》初六曰童觀,馬融注云:「童猶獨也。」《復》六四曰:「中行獨復。」虞注云:「中謂初,震為行,初一陽爻,故稱獨。」

『観卦』初六爻辞の「童観」に、馬融注解す:「童」は「独」に同じ。『復卦』六四爻辞の「中行独復」は、中道を行きて独り返るなり。虞翻注解す:「中」は初爻を指し、下卦震は行を為し、初爻は全卦唯一の陽爻、ゆえに「独」と称す。

《大過》象曰:「君子以獨立不懼。」虞注云:「君子謂乾初,陽伏巽中,體復一爻潛龍之德,故稱獨立不懼。」疏云初為獨。《晉》初六:「晉如摧如,貞吉。」象曰:「晉如摧如,獨行正也。」虞注云:「失位故摧如,動得位故貞吉。初動震為行,初一稱獨也。」《方言》曰:「一,蜀也,南楚謂之獨。」郭注云:「蜀猶獨也。」是獨即一,故云初一稱獨。

『大過・大象伝』に言う:君子は此の卦象に領悟して独立して畏れず。虞翻注に言う:ここの「君子」は乾卦初爻を指し、陽爻巽体の中に潜伏し、『復』卦一阳初生の潜龍の徳を具え、ゆえに「独立不懼」と言う。疏文に言う:初爻即ち「独」なり。『晋卦』初六爻辞:前進してまた挫折し、正を守れば吉。『象伝』に言う:前進挫折の際、仍お独り正道を守りて行う。虞翻注に言う:初六は陰を以て陽に居り其の正位を失う、ゆえに「摧如」と言う。変動の後位を得、ゆえに「貞吉」と言う。初爻一たび動けば震を成し、震は行を為す。初爻は只此の一画、ゆえに「独」と称す。『方言』に言う:「一」を「蜀」と謂い、南楚一帯は之を「独」と称す。郭璞注に言う:「蜀」は即ち「独」なり。見るべし「独」は即ち「一」なり、ゆえに初爻の「一」を「独」と称すると言う。

《詩·思齊》曰:「不顯亦臨,無射亦保。」朱子曰:「言文王雖居幽隱,亦常若有臨之者;雖無厭射,亦常有所守焉。其純亦不已如是。」

『詩経・大雅・思斉』に言う:たとえ人の見るなき暗室に在るも、神明の降るが如くあり。たとえ人の厭棄督責するなきも、依然として持守して懈らず。朱熹解して曰く:これ文王は幽隠の地に処ると雖も、常に人の傍に監臨あるが如くあり。人の之を厭棄するなきと雖も、終始持守する所ありとを講ず。其の純一不已の徳は即ちかくの如し。

《詩·烝民》曰:「人亦有言,德輶如毛,民鮮克舉之。我儀圖之,維仲山甫舉之,愛莫助之。」毛傳曰:「儀,宜也;愛,隱也。」正義云:「毛以為德輶如毛,民寡能舉行之者。我以人之此言實得其宜,乃圖謀之,觀誰能行德。維仲山甫獨能舉此德而行之,其德深遠而隱,莫有能助行之者。山甫既無人助,獨行之耳。」棟謂:德輶如毛言微也,民鮮克舉言慎獨者少。唯仲山甫能慎獨,故克舉之。隱微之中,神明獨運,非人所能助,故云愛莫助之。荀子曰:「能積微者速成。」引此詩為證。又曰:「操之則得之,舍之則失之。操而得之則輕,輕則獨行,獨行而不舍則濟矣。」棟謂:德輶如毛,故操而得之則輕;愛莫助之,故云輕則獨行;行而不舍則至誠也,故云則濟矣。毛公用師說,故訓愛為隱;鄭氏不明古義,改訓為惜。七十子喪而大義乖,康成大儒,猶未免也。

『詩経・大雅・烝民』に言う:人に古語あり、徳は羽毛の如く軽しと雖も、百姓の中に之を挙ぐる能くする者稀なり。我細かに之を揣度するに此の言確かに理あり、唯だ仲山甫一人之を挙げ得、惜しむべし隠微の徳は旁人の助くる能わざるなり。毛亨『毛伝』解す:「儀」は合宜、「愛」は隠なり。孔頴達『毛詩正義』毛義を申発して曰く:徳は毫毛の如く軽しと雖も、真に之を挙げて践行する百姓極めて少なし。我は世人の此の言の最も合宜なるを謂い、乃ち細かに図謀して、孰れか此の徳を践行する能くする者を看る——唯だ仲山甫のみ此の徳を挙げて行い去ることを得、其の徳深遠にして隠蔽し、人の助くる能くする者なし。既に相助ける者なければ、亦た彼が独り行うのみ。恵棟按断す:「徳輶如毛」は幽微を言い、「民鮮克挙」は慎独する能くする者の少なきを言う。唯だ仲山甫のみ慎独する能くすれば、挙げることを得。隠微の中に於て、全く一己の神明を凭りて独り運作し、旁人の手の插る能わざるなり、ゆえに「愛莫助之」と言う。荀子に言う、微細の功夫を積累する能くする者は事を成すこと最も速し、正に此の詩を引きて証と為す。又言う、之を握れば之を得、之を放てば之を失う。握りて得れば則ち軽しと覚え、軽しと覚えれば則ち独り行うのみ。独行して放弃せざれば則ち成る。恵棟再び按ず:正に徳の毛の如く軽きがゆえに、握れば則ち軽しと覚ゆ。正に愛莫助之がゆえに、則ち軽ければ独行と言う。行いて舍てざるは即ち至誠、ゆえに「則済矣」と言う。毛公先師の旧説に沿うて、始めて「愛」を「隠」と訓ぜり。

《禮器》曰:「禮之以少為貴者,以其內心也。」鄭注:「內心,用心於內,其德在內。」「德產之致也精微。」鄭注:「致,緻密也。」盧注:「天地之德所生至精至微也。」「觀天下之物無可以稱其德者,如此則得不以少為貴乎?故君子慎其獨也。」獨則象天。

『礼記・礼器』に言う:礼の少を以て貴しと為す所以有るは、内に於て心を用うるを貴ぶが故なり。鄭玄注:「内心」は即ち心を内裏に用うるなり、徳も内裏に蔵す。原文続けて言う:徳の生成する所の極致精微にして見え難し。鄭玄注:「致」は細密なり。盧植注:これ天地の徳の生ずる最精最微の物なり。原文また言う:遍く天下の器物を観るに、一つとして此の徳を称量するに配する能わざるなし。此の様に観れば、何ぞ少を以て貴しと為さざるを得ん。ゆえに君子は独处の時に格外に慎む。恵棟末に一句の断語を補す:独を守る能くすれば、則ち天に相似たり。

《中庸》曰:「君子戒慎乎其所不睹,恐懼乎其所不聞。莫見乎隱,莫顯乎微,故君子慎其獨也。」

『中庸』に言う:君子は人の見ざる処に於ても戒備謹慎し、人の聞かざる処に於ても恐懼を心存す。隠れた処ほど顕れ易いものはなく、幽微なる処ほど明らかになり易いものはない。ゆえに君子は独り居て人なき時に最も慎む。

《大學》曰:「欲正其心者先誠其意。所謂誠其意者,毋自欺也,如惡惡臭,如好好色,此之謂自謙,故君子必慎其獨也。小人閒居為不善,無所不至,見君子而後厭然,弇其不善而著其善。人之視已如見其肺肝然,則何益矣。此謂誠於中,形於外,故君子必慎其獨也。曾子曰:十目所視,十手所指,其嚴乎!富潤屋,德潤身,心廣體胖,故君子必誠其意。」鄭注云:「嚴乎,言可畏敬也。胖猶大也。三者言實於內,顯見於外。」

『大学』に言う:其の心を正しくせんと欲すれば、先ず意念を誠実ならしめよ。いわゆる意を誠にするとは、自ら欺かず、悪を悪むこと臭悪を悪むが如く、善を好むこと美色を好むが如くす、これを自ら足ると謂う。ゆえに君子は独处の時必ず慎む。小人は閒居して事なき時は如何なる悪事も為し得、一たび君子を見れば掩い蔵し、己の悪を遮りて己の善を摆出す。然れども人の彼を視るは、彼の肺肝を看透したが如し、かくの如く掩飾してまた何の用かあらん。これを内に何か有れば外に何か顕ると謂う、ゆえに君子は必ず独を慎む。曾子に言う:十の目汝を視、十の手汝を指す、これ何の可畏なるや。富は屋を飾る能くし、徳は身を潤う能くし、心広ければ体自ら舒泰す。ゆえに君子は必ず意念を誠実ならしむ。鄭玄注に言う:「厳乎」は可畏可敬を言う。「胖」は即ち舒大なり。以上三処皆内裏充実すれば外に自ら顕現するを言う。

《大學》《中庸》皆言慎獨。荀子曰:「不誠則不能獨。」《大學》釋誠意則言慎獨,不誠則不能獨,此《大學》義疏也。誠,實也;獨,中外一也。《大學》曰:「此謂誠於中形於外。」《中庸》曰:「誠則形。」堯舜率天下以仁而民從之,桀紂率天下以暴而民從之,皆獨之效也,故曰其所令反其所好而民不從。初疑桀紂之民從暴語,及觀王莽、魏閹時而其言始驗。

『大学』と『中庸』と皆慎独を講ず。荀子に言う:誠ならざれば独を守ること能わず。『大学』が誠意を解釈する時は正に慎独を講じ、荀子の「不誠則不能獨」の一句は恰好『大学』の義疏と為すことを得。恵棟随って両字に定義を下す:「誠」は即ち実、「独」は即ち内外如一なり。『大学』に言う:これを内に真誠あれば外に自ら形を顕すと謂う。『中庸』に言う:誠なれば則ち形を顕す。尭・舜は仁を以て天下を引領し、百姓は随って仁を行う。桀・紂は暴を以て天下を引領し、百姓も随って暴を行う。皆「独」の作用する効験なり。ゆえに『大学』に言う、政令と君主自らの好悪と相反せば、百姓は服従せずと。恵棟自述す:彼は初め「桀紂之民從暴」の句に半信半疑なりしが、王莽の漢を篡し、明末魏忠賢の権に当たりし两段の世相を看るに及び、始めて此の言の確かに応験するを知れり。

《荀子·不苟》篇曰:「君子養心莫善於誠」——即正心先誠意之義——「致誠則無他事矣,唯仁之為守,唯義之為行。誠心守仁則形,形則神,神則能化矣;誠心行義則理,理則明,明則能變矣。變化代興謂之天德。天不言而人推高焉,地不言而人推厚焉,四時不言而百姓期焉,夫此有常以至其誠者也。君子至德,嘿然而喻,未施而親,不怒而威,夫此順命」——天命——「以慎其獨者也。善之為道者,不誠則不獨」——不誠則欺,安能獨——「不獨則不形」——誠則形——「不形」——信不由中——「則雖作於心,見於色,出於言,民猶若未從」——其所令反其所好而民不從——「雖從必疑。天地為大矣,不誠則不能化萬物;聖人為知矣,不誠則不能化萬民;父子為親矣,不誠則疏;君上為尊矣,不誠則卑。夫誠者,君子之所守也,而政事之本也。」

『荀子・不苟』篇に言う:君子の心性を修養するに、「誠」より善きは莫し。恵棟夾注:これ正に『大学』の「心を正さんと欲すれば先ず意を誠にせよ」の意なり。荀子続けて言う:誠を致せば則ち他事なく、只だ仁を持守し、只だ義を践行す。誠心を以て仁を守れば徳顕形し、顕形すれば神妙にして、神妙なれば万物を感化すること能くす。誠心を以て義を行えば事条理あり、条理あれば明白にして、明白なれば万事を变革すること能くす。変と化と交代に興起するを、天徳と謂う。天は言わずと雖も人は其の高きを公認し、地は言わずと雖も人は其の厚きを公認し、四時は言わずと雖も百姓は指し望むべきを知る——皆恒常の道有るがゆえに、其の誠を成就す。君子の徳極処に至れば、黙然として語らずして人自ら領会し、未だ恩惠を施さずして人自ら親附し、怒りを発せずして自ら威厳あり。恵棟「順命」の下に「天命」の一字を夾注し、此れ正に慎独に依りて得る所を説明す。荀子また言う:善を以て道と為す者は、誠ならざれば独を守ること能わず(恵棟注:誠ならざるは即ち自欺なり、何ぞ独を言わん)、独を守る能わざれば顕形せず(恵棟注:誠して乃ち顕形す)、顕形せざれば(恵棟注:これ即ち信衷に由らざるなり)、則ち心中に於て発動し、顔色に於て流露し、言語の中に説出すと雖も、百姓依れども随わず(恵棟注:これ即ち「其所令反其所好而民不從」なり)、強いて随うと雖も必ず疑慮を心存す。天地大なりと雖も、誠ならざれば万物を化育すること能わず。聖人智慧なりと雖も、誠ならざれば——

《韓非子·揚權》曰:「道無雙,故曰一,是故明君貴獨道之容。」《淮南·繆稱》曰:「獨專之意樂哉!忽乎日滔滔以自新,忘老之及已也。始乎叔季,歸乎伯孟,必此積也。自少至長,不身遁,斯亦不遁人。」遁,隱。「故若行獨梁」——一木之水橋——「不為無人不競其容。故使人信己者易而蒙衣自信者難。」

『韓非子・揚権』に言う:道に第二なし、ゆえに「一」と曰う。故に明君は彼の独一の道の仪态を重んず。『淮南子・繆称訓』に言う:専一に独守する心意の楽しきや、恍惚の間に日子滔滔として去り、人は日々自ら更新し、衰老の逼るを連れて忘る。排行最末の叔・季より作し起り、最后に居長の伯・孟に帰するは、必ずかくの如き一点一滴の積累に依る。年少より年長に至るまで、自ら蔵躲遮掩せざれば、則ち人を避ることも往かず。恵棟夾注:「遁」は隠なり。原文続けて言う:ゆえに人の独木橋を独り走り渡る時——恵棟夾注:彼れは一根の木頭の架成する水上の便橋なり——四下に人なきを以ても仪容を端正ならしめざることなし。此に由りて見るべし、人をして己を信任せしむるは易く、衣被を蒙りて独处するに仍お自信して欺かざるは真に難し。

《莊子·庚桑》曰:「為不善乎顯明之中者,人得而誅之;為不善乎幽閒之中者,鬼得而誅之。明乎人、明乎鬼者,然後能獨行。」注云:「幽顯無愧於心,則獨行而不懼。」

『荘子・庚桑楚』に言う:光天化日の下に於て悪事を為す者は、人之を惩治すること能くす。幽暗無人の処に於て悪事を為す者は、鬼神之を惩治すること能くす。人に対して明白にして鬼神に対しても明白なる者、然る後に独り世に行事すること能くす。旧注に解す:幽暗の処と顕明の処とを論じず問心に愧なければ、独り行いて畏れずことを得。

《法言·修身》篇曰:「天下有三門:由於情慾,入自禽門;由於禮義,入自人門;由於獨智,入自聖門。」司馬光曰:「生而知之,獨運明智,極深研幾,非常人所能逮。」

揚雄『法言・修身』篇に言う:天下に三道の門あり——情欲に順て走るは、禽獣の門より入るなり。礼義に順て走るは、人の門より入るなり。独到の智慧を凭りて走るは、聖人の門より入るなり。司馬光解して曰く:これ生まれて即ち事理を明白する者を指し、独り明智を運用し、幽深を窮究し幾微を研求す、常人の及ぶ能くするにあらず。

《問神》篇曰:「龍蟠於泥,蚖其肆矣。」龍蟠於泥,獨也,以況君子。肆,恣也。蚖其肆,不慎獨也,以況小人間居為不善也。「蚖哉蚖哉,惡覩龍之志也歟!」寉乎不拔,潛龍之志。

『法言・問神』篇に言う:真龍泥裏に盘伏すれば、蜥蜴の類の小虫則ち放肆起来す。恵棟随文に解説す:龍の泥に盘するは即ち「独」、以て君子に比拟す。「肆」は放縦、蜥蜴の放肆するは即ち慎独する能わざるなり、以て小人の閒居時に為さざる所なきに比拟す。揚雄続けて感嘆す:蜥蜴や蜥蜴、汝何ぞ龍の心志を見るを得ん。恵棟『乾・文言』を以て之を断ず:堅確にして拔動すべからざるは、正に潜龍の心志なり。

《孝至》篇曰:「或曰:何以處偽?曰:有人則作之,無人則輟之,之謂偽。」注云:「道不可須臾離,所以君子慎其獨。」《韓非子·揚權》曰:「道無雙,故曰一,是故明君貴獨道之容。」注云:「道以獨為容。」案:獨道之容即獨也。《大戴禮》武王踐祚帶之銘云:「火滅修容。」《劉子新論》云:「顏回不以夜浴改容。」所謂獨道之容。

『法言・孝至』篇に言う:或る人問う、如何にして「偽」と為す。揚雄答えて曰く:人の在場あれば則ち為し、人の在場なければ則ち手を停む、これを偽と謂う。旧注に解す:道は一刻も離るべからず、ゆえに君子は独を慎む。『韓非子・揚権』に言う:道に第二なし、ゆえに「一」と曰う。故に明君は彼の独一の道の仪态を重んず。旧注に解す:道は「独」を以て其の仪容と為す。恵棟按断す:いわゆる「独道之容」は、講ずる所は正に「独」なり。『大戴礼記』の載する武王の阼に践みし時衣帯に刻せし銘文に言う:灯火熄滅せりと雖も、照様に仪容を整粛す。『劉子新論』に言う:顔回は夜沐浴するを以て端庄の仪态を改易せず。此れら皆「独道之容」の様子なり。

揚子《太玄》曰:「陰不極則陽不生,亂不極則德不形。君子修德以俟時,不先時而起,不後時而縮,動止微章不失其法者,其唯君子乎!」注云:「君子謂陽也,修德於黃泉,候春而興。」案:修德於黃泉即獨也。君子慎獨,有隱德者必陽報,故莫見乎隱,莫顯乎微。

揚雄『太玄』に言う:陰極処に至らざれば陽滋生せず、乱極処に至らざれば徳顕形せず。君子は徳行を修養して時機を待ち、時機の先に抢たんして起たず、時機の後に落ちて退縮せず。動と静・幽微と彰顕と皆法度を失わざるは、殆ど君子のみか。旧注に解す:ここの「君子」は陽気を指し、其れ地下黄泉の中に於て自らを修養し、春天に至りて始めて興起す。恵棟按断す:いわゆる黄泉に於て徳を修めるは即ち「独」なり。君子は独を慎み、暗中に徳を積む者は必ず顕明の報を得。ゆえに『中庸』に言う、隠れた処ほど顕れ易いものはなく、幽微なる処ほど明らかになり易いものはないと。

《老子·道經》曰:「有物混成,先天地生,寂兮寞兮,獨立而不改。」河上公注云:「獨立者無匹雙,不改者化有常。」案:獨即一也。道獨行,故君子慎獨;道不改,故不可須臾離。

『老子』上篇『道経』に言う:一物ありて渾然として成り、天地より先に生出し、寂静にして声なく、空曠にして形なく、独り屹立して永く改まらず。河上公注解す:「独立」は其の匹配対偶なきを言い、「不改」は其の変化に常軌あるを言う。恵棟按断す:「独」は即ち「一」なり。道は独り運行す、ゆえに君子は独を慎む。道は恒常にして改まらず、ゆえに『中庸』に其の一刻も離るべからざると言う。

《淮南·原道》曰:「所謂無形者,一之謂也。所謂一者,無匹合於天下者也。卓然獨立,塊然獨處,上通九天,下貫九野。」

『淮南子・原道訓』に言う:言う所の「無形」は、指す所は「一」なり。言う所の「一」とは、天下に一物として能く之と匹配相合するなきを謂う。其れ高高として独り屹立し、孤然として独り安処し、上は九重の天に貫通し、下は九方の大地に貫穿す。

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