幽賛
《樂記》曰:明則有禮樂,幽則有鬼神。聖人作《易》,其始也幽贊於神明,其終也明贊於天地。幽贊一也,贊天地之化育與天地參,一貫三也。
『礼記・楽記』に言う:顕明の一面に在りては即ち礼と楽有り、幽隠の一面に在りては即ち鬼と神有り。恵棟按断して曰く:聖人の『周易』を創作するは、起初は幽微に神明を賛助し、最終は顕明に天地を賛助す。いわゆる「幽賛」は、講ずる所は正に彼の「一」なり。而して天地の化育を賛助し、天地と并列して三と為すは、講ずる所は則ち「一」を以て「三」に貫通するなり。
幽明附
《繫辭》曰:知幽明之故。幽,北方也,坎也;明,南方也,離也。《尚書·堯典》,宅南郊曰明都,宅朔方曰幽都。《檀弓》曰:葬於北方北首,之幽之故也。《說卦》曰:離也者,明也,南方之卦也。此幽明之故也。
『周易・繋辞上』に言う:「此に因りて幽と明の縁由を通暁す。」恵棟解説す:「幽」は北方を指し、卦に在りては坎なり。「明」は南方を指し、卦に在りては離なり。『尚書・尭典』の裏、南郊に居る所の処を「明都」と曰い、朔方に居る所の処を「幽都」と曰う。『礼記・檀弓』に言う:北方に埋葬して頭は北に朝せるは、幽に帰するの意を取るなり。『説卦伝』に言う:離は、即ち明にして、南方の卦なり。此らは合さりて、即ちいわゆる「幽明之故」なり。
妙
理微謂之妙。妙猶眇也。自《廣雅》訓妙為好而其義始晦。
恵棟開宗明義に言う:義理の精深細微なるを即ち「妙」と曰い、「妙」は「眇」に相当す。『広雅』の「妙」を「好」と訓釈するより、此の字の本義は始めて晦暗不明と為る。
《繫下》曰:子曰,顏氏之子,其殆庶幾乎。虞注云:幾者,神妙也。顏子知幾,故殆庶幾。案:妙,古文眇。眇,小也,猶微也。荀悅《申鑑》曰:理微謂之妙。章懷《後漢書》訓妙為美,此俗訓。
『周易・繋辞下』に言う:孔子講じたり、顔家の彼の子は、殆ど道に接近せるか。虞翻注解して曰く:「幾」は即ち神妙なり。顔子は能く幾を知る、ゆえに其れを「殆庶幾」と曰う。恵棟按断して曰く:「妙」は「眇」の今字なり、「眇」は細小にして即ち微なり。荀悦『申鑑』に言う:義理の精微なるを「妙」と曰う。章懐太子李賢『後漢書』に注して、「妙」を「美」と訓釈す、彼れは只だ通俗の訓解のみ。
《說卦》曰:神也者,妙萬物而為言者也。董遇本妙作眇。眇,小也。《繫》曰:非天下之至神其孰能與於此。又曰:知幾其神乎。虞注云:至神謂易隱初入微。又云:陽在復初稱幾。隱初入微,陰陽不測,故神也者,妙萬物而為言者也。師古《漢書·昭帝紀》注曰:眇,微也。
『説卦伝』に言う:いわゆる「神」は、其れ微妙に万物を成就するに就きて立言するなり。恵棟夾注:董遇本は「妙」の字を「眇」と作る、「眇」は細小の意なり。『繋辞』に言う:若し天下の最も神妙なる物に非ざれば、誰か此の歩に参与するを能くせん。また言う:能く幾微を知れば、殆ど神ならんか。虞翻注解して曰く:「至神」は『易』道の初爻に隠蔵し極微の処に深入するを指す。また言う:陽気の『復』卦初爻に在る時は「幾」と称す。初爻に隠れて至微に入れば、陰陽此に因りて測度すべからず、ゆえに「神」は其れ微妙に万物を成就するに就きて立言すと曰う。恵棟また顔師古『漢書・昭帝紀』注を挙げて曰く:「眇」は即ち微なり。
《中庸》曰:故君子語大,天下莫能載焉;語小,天下莫能破焉。朱子注云:其大無外,其小無內。案:《淮南·精神》曰:無外之外,至大也;無內之內,至貴也。
『中庸』に言う:ゆえに君子は大きき処に講じて、天下之を載るるを能くする者無く、小さき処に講じて、天下之を剖破するを能くする者無し。朱熹注解して曰く:大は外辺無く、小は裏辺無し。恵棟按断して曰く:『淮南子・精神』篇は講ず、外辺無きの外辺は、最大と為す。裏辺無きの裏辺は、最貴と為すと。
高誘注云:言天無有垠,外而能為之外,諭極大也。無內言其小,小無內而能為之內。道尚微妙,故曰至貴。又曰:能知大貴,何往而不遂。高誘注云:大貴謂無內之內,言道至微,能出入於無間。
高誘注解して曰く:これは天の辺際無きを言う、最外の外に在りて尚お能く再び其の外と為る、以て極めて広大なるを比喻す。「無内」は其の小なるを言う、小は裏辺無くして尚お能く再び其の裏と為る。道の崇尚する所は正に微妙なり、ゆえに之を「至貴」と称す。『精神』篇また言う:能く此の種の「大貴」を解せば、何れの処に到りて通行せざる有らんや。高誘注解して曰く:「大貴」は指す所は即ち無内の内なり。意は道は極めて微細にして、能く毫も間隙無きの処に出入するを言う。
《老子》道經曰:常無慾以觀其妙。注云:妙,要也。人常能無慾則可以觀道之要。要謂一也。鍾會注云。《文選》注。妙者,極之微也。
『老子』道経に言う:常に無欲に処り、以て其の微妙を観照す。注解して曰く:「妙」は即ち要領なり。人若し能く常に無欲なれば、則ち以て道の要領を観照するを得。恵棟夾注:いわゆる「要」は、指す所は即ち「一」なり。鍾会の注は則ち曰く:恵棟此の条は『文選』注の引く所に見ゆるを注明す、鍾会に言う「妙」は即ち極致の細微なり。
《莊子·庚桑》曰:夫全其形生之人,藏其身也不厭深眇而已矣。
『荘子・庚桑楚』に言う:彼の能く形体を保全し生命を護養する人は、自らの身を蔵起して、只だ蔵るるの深からざる、幽微ならざるを嫌うのみ。
《淮南·時則》曰:仲夏之月日長至,陰陽爭,死生分。高誘曰:至,極也。陽盡午中而微陰妙重淵矣。此陽陰爭辨之際。
『淮南子・時則』篇に言う:仲夏の月は白昼最も長く、陰陽交争し、死と生とは此処に於て分判す。高誘注解して曰く:「至」は即ち極なり。陽気は午の正中に到れば便ち尽頭に走り、而して細微の陰気は已に幽妙に重々の深淵の下に伏在す。これ正に陽と陰と争持辨分する時節なり。
《漢書·張敞傳》,敞上封事曰:夫心之精微,口不能言也;言之微眇,書不能文也。
『漢書・張敞伝』に記す、張敞密封の奏書を上りて曰く:心思の中の最も精深微妙なる部分は、口は説き出す能わず。言語の中の最も細微幽渺なる部分は、文字も亦た写し下る能わず。
揚雄《解難》曰:抗辭幽說,閎意眇指。師古曰:眇讀為妙。曹大家《幽通賦》注云:眇,微也。
揚雄『解難』に言う:其の辞を高挙し、其の説を幽深にし、其の意を宏闊にし、其の旨を微渺にす。顔師古注解して曰く:「眇」は「妙」と読む。恵棟また曹大家班昭の『幽通賦』注を挙げて曰く:「眇」は即ち微なり。
又曰:聲之眇者不可同於眾人之耳。注同前。
『解難』また言う:声音の中の最も細微なる者は、衆人の耳の裏に持ちて共鳴を求むる能わず。恵棟注明す:此の一条の注解は前の一条と相同じ。
《淮南·齊俗》曰:樸至大者無形狀,道至眇者無度量。
『淮南子・斉俗』篇に言う:質朴は極大に到る物は、描摹すべき形状無し。道は微渺の極処に到る処は、計量すべき尺度無し。
《呂氏春秋·謹聽》曰:賢者之道牟而難知,妙而難見。高誘云:牟猶大也。賢者之道磥落不凡,惟義所在,非不肖所及,故難知也;其仁愛物本於中心精妙幽微,亦非不肖所及,故難見也。
『呂氏春秋・謹聴』篇に言う:賢者の道は宏大にして知ること難く、微妙にして見ること難し。高誘注解して曰く:「牟」は「大」に相当す。賢者の道は磊落不凡にして、只だ義の所在する処を以て帰と為し、不肖の人の企及する能くする所に非ず、ゆえに知ること難し。彼は万物に仁愛し、内心の精妙幽微に根源す、亦た不肖の人の企及する能くする所に非ず、ゆえに見ること難し。
《呂覽·用兵》曰:有巨有微。高誘曰:巨,觕略;微,要妙,覩未萌之萌也。
『呂氏春秋・用兵』篇に言う:兵を用うるに「巨」の一面有り、亦た「微」の一面有り。高誘注解して曰く:「巨」は粗略の一面、「微」は要妙の一面にして、能く萌芽の未だ萌発せざるの時に於て其れを看出す。
誠
《文言》曰:閒邪存其誠。又曰:修辭立其誠。虞注云:乾為誠。
『乾卦・文言伝』に言う:邪僻を防閑して自らの誠を保存す。また言う:言辞を修飭して自らの誠を確立す。虞翻注解して曰く:乾卦は「誠」を取象と為す。
《大學》曰:欲正其心者先誠其意。又曰:所謂誠其意者,毋自欺也,如惡惡臭,如好好色,此之謂自謙,故君子必慎其獨也。小人閒居為不善,無所不至,見君子而後厭然揜其不善而著其善。人之視己如見其肺肝然,則何益矣。此謂誠於中形於外,故君子必慎其獨也。
『大学』に言う:自らの心を端正せんと欲せば、先ず意念を真実無妄ならしめよ。また言う:いわゆる意念を真実にするとは、即ち自ら己を欺騙せざること、譬えば聞き難き気味を悪むが如く、譬えば美好の容色を喜ぶが如し、此乃ち自らの心の裏に踏実すると謂う。ゆえに君子は必ず独処の時に格外に謹慎せんと要す。小人は平居無事の時不善の事を為して、何物も為し出すを得。一たび君子を見れば、乃ち畏縮して自らの不善を掩蔵し、而して故意に自らの善を顕露す。然れども別人の彼を看るは、恰も其の肺肝を見るが如く透徹なり、斯くの如く掩飾してまた何の用処か有らん。これを内心真実必然外に表現すと謂う、ゆえに君子は必ず独処の時に格外に謹慎せんと要す。
《中庸》曰:子曰,鬼神之為德其盛矣乎。視之而不見,聽之而不聞,體物而不可遺,使天下之人齊明盛服以承祭祀,洋洋乎如在其上,如在其左右。《詩》曰:神之格思,不可度思,矧可射思。夫微之顯,誠之不可揜如此夫。
『中庸』に言う:孔子講じたり、鬼神の顕す所の徳性は、真に盛大なり。之を看るに見えず、之を聴くに聞こえず、而して万物の中に体現して遺漏する所無し。天下の人をして斎戒潔浄・盛服を穿上して祭祀を承奉せしむ、彼の気象洋洋然として、恰も頭頂の上に在るが如く、恰も左右の両旁に在るが如し。『詩経・大雅・抑』に言う:「神の降臨は、揣度すること能わざるなり、況んや敢て厭怠の心を生ずるをや。」幽微の物は終に顕現せんと要す、誠は即ち此の如く掩蔵し住むる能わざるなり。
又曰:誠者,天之道也;誠之者,人之道也。誠者不勉而中,不思而得,從容中道,聖人也;誠之者擇善而固執之者也。
『中庸』また言う:誠は、天の道なり。誠を致すに努力するは、人の道なり。天生まれて誠なる人は、勉強を用いずして便ち中道に合し、思索を用いずして便ち所得有り、従容不迫にして自然に道に合す、斯くの如き人は即ち聖人なり。誠を致すに努力する人は、則ち善端を選取して牢牢と守住して放さざる人なり。
又曰:自誠明謂之性,自明誠謂之教。誠則明矣,明則誠矣。
『中庸』また言う:誠によりて自然に事理を明白するを、これを天性と曰う。事理を明白して以て誠を致すを、これを教化と曰う。誠なれば自然に明白し、明白すれば自然に即ち能く誠なり。
又曰:唯天下至誠為能盡其性。能盡其性則能盡人之性,能盡人之性則能盡物之性,能盡物之性則可以贊天地之化育,可以贊天地之化育則可以與天地參矣。
『中庸』また言う:只だ天下の最も誠なる人のみ、乃ち能く自らの本性を完全に実現す。能く自らの本性を完全に実現せば、便ち能く衆人の本性を完全に成全す。能く衆人の本性を成全せば、便ち能く万物の本性を完全に成全す。能く万物の本性を成全せば、便ち以て天地の化育を賛助すべし。能く天地の化育を賛助せば、便ち以て天・地と并列して三と為るべし。
又曰:故至誠無息,不息則久,久則徵,征則悠遠,悠遠則博厚,博厚則高明。
『中庸』また言う:ゆえに最高の誠は永く間断せず。間断せざれば則ち長久を能くし、長久すれば則ち験効顕現有り、験効有れば則ち悠遠に推及するを能くし、悠し、悠遠すれば則ち広博深厚を能くし、広博深厚すれば則ち高大光明を能くす。
又曰:唯天下至誠為能經綸天下之大經,立天下之大本,知天地之化育。夫焉有所倚,肫肫其仁,淵淵其淵,浩浩其天。
『中庸』また言う:只だ天下の最も誠なる人のみ、乃ち能く天下の大経大法を経理し、天下の大根本を確立し、天地の化育の功を通暁す。斯くの如き人は尚お何をか倚靠せんと要するや。其の仁は懇摯厚重にして、其の深沉は深淵の如く、其の広大は蒼天の如し。
荀子曰:養心莫善於誠。又曰不誠則不獨。《大學》言誠意而歸之慎獨,則誠猶獨也。《易乾鑿度》論《易》之義云:移物致耀,至誠專密。鄭注云:移,動也。天確爾至誠,故物得以自動;寂然專密,故物得以自耀也。若然,則存誠猶慎獨,獨即至誠也。
荀子に言う:心性を涵養するは「誠」に比する者無し。また言う:誠ならざれば則ち「独」を談ずるに足らず。恵棟按断して曰く:『大学』は「誠意」を講じて「慎独」に帰結す、見るべし「誠」も亦た即ち「独」に相当す。『易緯・乾鑿度』の『易』の義蘊を論じて曰く:万物を感動して之を光輝に煥発せしむるは、至誠にして専一幽密なるに靠る。鄭玄注解して曰く:「移」は即ち動なり。上天は確然として至誠なり、ゆえに万物は自ら運動するを得。上天は寂然として専一幽密なり、ゆえに万物は自ら光輝を放つを得。此の様に照らして看れば、誠を存するも亦た即ち慎独に相当し、「独」は即ち至誠なり。
《乾鑿度》曰:孔子曰,易者,易也,變易也,不易也。易者以言其德也,虛無感動,清靜照哲,移物致耀,至誠專密。
『易緯・乾鑿度』に言う:孔子講じたり、「易」の此の字は三層の意思を含有す、一は簡易、二は変易、三は不易なり。いわゆる「易」は、其の徳性に就きて言うなり。虚廓無為にして能く万物を感動し、清明寧静にして能く通徹を照察し、万物を感動して之を光輝に煥発せしむるは、凭る所は全是至誠にして専一幽密なり。
《漢書·孔光傳》,光對策曰:《書》曰,天既付命,正厥德。言正德以順天也。又曰:天棐諶辭。諶,誠也。諶辭,至誠之辭也。言有誠道,天輔之也。明承順天,道在於崇德博施加精緻誠孳孳而已。
『漢書・孔光伝』に記す、孔光の対策に言う:『尚書』は講ず「上天既に已に彼に天命を授予せば、則ち其の徳を端正せんと要す」と。これは德行を端正して以て上天に順応するを言うなり。『尚書』また講ず「天棐諶辞」と。恵棟夾注:「諶」は即ち誠、「諶辞」は即ち至誠の言辞なり。これは人に誠実の道有れば、上天は便ち彼を輔助せんと言うなり。孔光続けて言う:明白に上天を承奉順従するは、弁法は便ち德行を崇尚し、恩惠を広施し、再加うるに精心専意・誠敬を竭尽し、孜孜不倦するのみなり。
《孟子》曰:居下位而不獲於上,民不可得而治也。獲於上有道,不信於友,弗獲於上矣。信於友有道,事親弗悅,弗信於友矣。悅親有道,反身不誠,不悅於親矣。誠身有道,不明乎善,不誠其身矣。是故誠者天之道也,思誠者人之道也。此上述其師子思之語。至誠而不動者未之有也,不誠未有能動者也。
『孟子・離婁上』に言う:下位に身处して而して上級の信任を得ざれば、百姓は治理するに由無し。上級の信任を取得するに門径有り:朋友の信任を得ざれば、則ち上級の信任を取るを得ず。朋友の信任を取得するに門径有り:双親を奉事して而して彼らを喜悦せしむる能わざれば、則ち朋友の信任を取るを得ず。双親を喜悦せしむるに門径有り:躬を反りて自問して而して真誠ならざれば、則ち双親を喜悦せしむる能わず。自身を真誠ならしむるに門径有り:何をか善と為すを明白せざれば、則ち自身を真誠ならしむる能わず。ゆえに言う、誠は天の道なり、誠を追求するは人の道なりと。恵棟夾注:以上の此の幾句は、孟子の其の師子思の言を転述するなり。孟子続けて言う:至誠にして而して人を感動する能わざるは、従来曾て有らざるなり。誠ならずして而して人を感動する能くするは、亦た従来曾て有らざるなり。
《韓詩外傳》曰:唐虞之法可得而考也,其喻人心不可及矣。《詩》曰:上天之載,無聲無臭。其孰能及之。
『韓詩外伝』に言う:唐尭・虞舜の法度は尚お查考するを得、然れども彼らの人心を感喩する彼の一份の力量は却て企及するに由無し。『詩経・大雅・文王』に言う:「上天の承載する所、既に声音無く亦た気味無し。」誰か能く斯くの如き境界に企及せんや。
又曰:勇士一呼而三軍皆避,士之誠也。昔者楚熊渠子夜行,寢石以為伏虎,彎弓而射之,沒金飲羽,下視知其為石。石為之開,而況人乎。夫倡而不和,動而不僨,中心有不全者矣。
『韓詩外伝』また言う:勇士一声の呼喝は、三軍皆之が為に退避す、凭る所は此の位の勇士の心中の誠なり。従前楚国の熊渠子は夜に路を趕り、地上に卧する石頭を伏す所の老虎と看為し、弓を張りて射去り、箭鏃は箭羽と連なりて一斉に石の中に没入す。走り近づきて一看すれば、乃ち知る彼れは一塊の石頭なりと。石頭は尚お彼の誠の為に開裂す、況んや人をや。倡導するも而して応和する人無く、行動するも而して奮起する人無きは、是れ心中の誠の尚お欠減有るに因るなり。
夫不降席而匡天下者求之己也。孔子曰:其身正不令而行,其身不正雖令不從。先王之所以拱揖指麾而四海來賓者,誠,德之至也,色以形於外也。《詩》曰:王猷允塞,徐方既來。
『韓詩外伝』続けて言う:能く坐席を下らずして天下を匡正する者は、凭る所は反りて之を自らの身に求むるなり。孔子に言う:自身端正なれば、命令を下さずとも事は照様に推行す。自身正なからざれば、即ち命令を下すと雖も聴従する人無し。先王の拱手作揖・挙手示意するのみ須らくして四海の内は皆来りて帰服する所以は、凭る所は正に「誠」なり。誠は徳の極致にして、自然に容色の上に流露して外に顕形す。『詩経・大雅・常武』に言う:「王の謀略は確かに周遍充実なり、徐方是に於て来りて帰附す。」
《呂覽·精通》曰:人或謂兔絲無根。兔絲非無根也,其根不屬也,伏苓是。屬,連也。慈石召鐵,或引之也。石,鐵之母也。以有慈石,故能引之,石之不慈者亦不能引也。樹相近而靡,或軵之也。
『呂氏春秋・精通』篇に言う:人有りて菟糸子は根無しと言う。菟糸子は并せて根無しに非ず、只だ其の根は自身と相連ならず、彼の根は即ち茯苓なり。高誘注:「属」は即ち相連なり。『精通』篇また言う:磁石は鉄を招引するは、物有りて之を牽引するなり。高誘注:磁石は鉄の母なり、磁石有るに因りて、ゆえに能く鉄を吸引す。石頭若し磁性を帯びざれば、亦た鉄を吸動する能わず。『精通』篇に言う:両棵の樹は靠り近ければ彼此傾靡す、是れ物有りて之らを推動するなり。
聖人南面而立,以愛利民為心。心在利民。號令未出而天下皆延頸舉踵矣,則精通乎民也。精誠通洞於民使之然也。夫賊害於人,人亦然。
『精通』篇に言う:聖人は南面して立ち、百姓を愛護し百姓を利益するを心上に放つ。高誘注:心思は全て利民の上に在り。『精通』篇に言う:号令尚お未だ発出せざるに、天下の人已に首頸を伸長し脚跟を踮起して盼望着了す、これは其の精誠の百姓に通達するなり。高誘注:是れ精誠の透徹に百姓の中間に貫通して、彼らをして此の如くならしむるなり。『精通』篇に言う:人に加害するに至りては、人心の反応も亦た同じ道理なり。
今夫攻者,砥厲五兵,發且有日矣,所被攻者不樂,非或聞之也,神者先告也。非聞將見攻也,神先告之,令其志意愁戚不樂。身在乎秦,所親愛在於齊,死而志氣不安,精或往來也。
『精通』篇に言う:如今彼の進攻せんとする一方は、種種の兵器を磨砺し、出兵已に指日に数うべし、被攻の一方は心の裏便ち先ず痛快ならず、これは并せて人の来りて通風報信する有るに非ずして、神明の預め彼に告知するなり。高誘注:将に攻撃されんとすることを聴説するに非ずして、神明の預め告知して、彼をして心意愁苦憂戚にして不快活ならしむるなり。『精通』篇に言う:人の身は秦国に在りて、親愛する所の人は斉国に在り、彼の辺一たび死去せば、此の辺の志気は便ち安寧を得ず、これは精気の両地に往来するの故なり。
德也者,萬民之宰也。宰,主也。月者,群陰之本也。月望則蚌蛤實。群陰盈。月晦則蚌蛤虛。群陰虧。夫月形乎天而群陰化乎淵,聖人形德乎己而四荒咸飭乎仁。所謂誠乎此而諭乎彼。
『精通』篇に言う:徳は、万民の主宰なり。高誘注:「宰」は即ち主なり。『精通』篇に言う:月亮は、衆陰の根本なり。月は望日に到れば、蚌蛤便ち充実す。高誘注:此の時衆陰盈満す。月は晦日に到れば、蚌蛤便ち空虚す。高誘注:此の時衆陰虧損す。『精通』篇に言う:月亮は天上に顕形して、而して衆陰は便ち深淵の裏に之に随りて変化す。聖人は自身に徳性を顕して、而して四方極遠の地は皆此に因りて仁に整饬す。これ即ち恵棟の言う所の「此の一頭に於て真誠なれば、彼の一頭に於て便ち感通を得」なり。
養由基射虎中石,矢乃飲羽,誠乎虎也。伯樂學相馬,所見無非馬者,誠乎馬也。宋之包丁好解牛,所見無非死牛者,三年而不見生牛,用刀十九年刃若新硏。砥也。順乎理,誠乎牛也。故君子誠乎此而諭乎彼,感乎己而發乎人。
『精通』篇に言う:養由基は老虎を射て而して石頭に射中り、箭は羽に連なりて没し入る、是れ彼の一心の虎の身上に専注するに因るなり。伯楽は相馬を学び、眼中の見る所は馬ならざる一様無し、是れ彼の一心の馬の身上に専注するに因るなり。宋国の庖丁は牛を解くを喜好し、眼中の見る所は已に分解開けたる牛ならざる一様無し、三年の間竟に一頭の活牛を見ず。一把の刀は十九年を用いて、刃口は尚お剛に磨き過ぐるが如し。高誘注:「硏」は即ち磨砺なり。これは彼の牛の肌理に順りて刀を下し、一心は牛の身上に専注するに因るなり。ゆえに君子は此の一頭に於て真誠なれば、彼の一頭に於て便ち感通を得。自らの身上に於て感ずる所有れば、便ち別人の身上に於て効応を発生す。
《莊子·漁父》曰:孔子愀然曰。問漁父。請問何謂真?客曰:真者,精誠之至也。不精不誠,不能動人。故強哭者雖悲不哀,強怒者雖嚴不威,強親者雖笑不和。真悲無聲而哀,真怒未發而威,真親未笑而和。
『荘子・漁父』篇に言う:孔子は神色凄然として発問す。恵棟夾注:これは孔子の漁父に向かって請教するなり。孔子曰く:請問す、何をか「真」と謂う。漁父回答す:いわゆる真は、即ち精と誠との極処に到るなり。精ならず誠ならざれば、則ち人を感動する能わず。ゆえに勉強に哭を作す者は、悲態を装出すと雖も并せて真哀ならず。勉強に発怒する者は、厳容を摆出すと雖も并せて威勢無し。勉強に親熱する者は、笑を帯ぶると雖も并せて和洽ならず。真の悲傷は、声を出さずとも自ら哀意有り。真の憤怒は、未だ発作せざるに已に威勢有り。真の親熱は、未だ笑わざるに已に和洽なり。
真在內者神動於外,是所以貴真也。真者所以受於天也。真即誠也。誠者天之道,故真亦受於天,自然不可易也。
漁父続けて言う:真は内心に存在する人は、神采自然に外に発動す、これ即ち「真」の貴ぶべき所以の縁故なり。真は、上天より禀受して来たるなり。恵棟按断して曰く:「真」は亦た即ち「誠」なり。誠は天の道なり、ゆえに真も亦た天より禀受して来たる、自然に本りて更改すべからず。
《呂覽·具備》曰:三月嬰兒,軒冕在前弗知欲也,斧鉞在後弗知惡也,慈母之愛諭焉,誠也。故誠有又,誠乃合於情。當作精。精有又,精乃通於天。乃通於天,水木石之性皆可動也。中孚信及豚魚。呂梁忠信亦爾。又況有血氣者乎。
『呂氏春秋・具備』篇に言う:三個月の大の嬰児は、高車冠冕を其の面前に摆放すとも、彼は貪求を解せず。斧鉞を其の身後に架すとも、彼は悪を解せず。唯だ慈母の愛のみ彼をして領会せしむるを能くす、凭る所は即ち誠なり。ゆえに誠有るを得て、誠乃ち能く情に合す。恵棟校語を出す:此の「情」の字は当に「精」と作るべし。精有るを得て、精乃ち能く天に通ず。既に天に通ぜば、則ち水・木・石の此ら無知の物の性も皆感動せらるべし。恵棟夾注:『中孚』卦は誠信の豚魚に及ぶを講じ、吕梁丈夫は忠信に凭りて水を蹈んで而も溺れず、亦た同一個の道理なり。『具備』篇に言う:況んや血気有る者をや。
故凡說與治之務莫若誠。以誠說則信,著之以誠,治則化行之。聽言哀者不若見其哭也,聽言怒者不若見其斗也。說與治不誠,其動人心不神。
『具備』篇に言う:ゆえに凡そ游説と治理との要務は、誠より更に要緊なる無し。高誘注:誠を以て游説すれば、人は便ち相信す。誠を顕明に表現出せば、治理に往きて便ち教化を推行するを得。『具備』篇に言う:人の彼が哀傷すると言うを聴くは、親眼に彼の哭するを見るに如かず。人の彼が憤怒すると言うを聴くは、親眼に彼の打斗するを見るに如かず。游説と治理と若し誠より出でざれば、則ち其れ人心を感動するに神効会せざらん。
《淮南·泰族》曰:夫蛟龍伏寢於淵而卵割於陵,螣蛇雄鳴於上風,雌鳴於下風而化成形,精之至也。故聖人養心莫善於誠,至誠而能動化矣。
『淮南子・泰族』篇に言う:蛟竜は深淵の裏に潜伏安寝し、而して其の卵は却て陸上の丘陵の中に孵化開裂す。螣蛇は雄は上風の処に鳴叫し、雌は下風の処に応和し、便ち能く化育して形を成す。此らは皆精気の極処に到るの故なり。ゆえに聖人の心性を涵養するは誠に比する者無し、至誠すれば則ち能く感動して万物を化育す。
又曰:聖主在上位,廓然無形,寂然無聲,官府若無事,朝廷若無人,無隱人,無軼民,無勞役,無寃刑,四海之內莫不仰上之德,象主之指,夷狄之國重譯而至,非戶辨而家說之也,推其誠心施之天下而已矣。《詩》曰:惠此中國,以綏四方。內順而外寧矣。
『泰族』篇また言う:聖明の君主は上位に在り、空廓にして形跡を見るを得ず、寂静にして声音を聴くを得ず、官府の裏は事の办むべき無きが如く、朝廷の上は人の朝する無きが如し。埋没せらるる賢人無く、流散して外に在る百姓無く、繁重の労役無く、冤枉の刑罰無し。四海の内は君上の徳を仰慕せざる者無く、君主の意旨を效法す。即ち夷狄の国も輾転幾重の翻訳して来りて朝貢す。これは并せて挨家挨戸に往きて分弁勧説するの結果に非ず、不過其の彼の顆の誠心を天下に推広施行するのみなり。『詩経・大雅・民労』に言う:「此の中原の邦に恩惠を施して、以て四方を安定す。」内裏順暢すれば、外辺自然に安寧す。
班固《幽通賦》曰:精通靈而感物兮,神動氣而入微。曹大家注云:言人參於天地,有生之最神靈也。誠能致其精誠則通於神靈,感物動氣而入微者矣。
班固『幽通賦』に言う:精気は神霊に通じて外物を感動するかな、神明は気機を鼓動して至微に深入す。曹大家班昭注解して曰く:これは人の天地と并列して三と為るを講じ、有生の物の中の最も神霊に富めるなり。果して能く自らの精誠を極処に推せば、便ち能く神霊に通じ、外物を感動し気機を鼓動して至微に深入す。
養流睇而猿號兮,李虎發而石開。養由基、李廣。非精誠其焉通兮,苟無實其孰信。操末技猶必然兮,矧耽。躭。躬於道真。師古曰:躬,親也。射者微技,猶能精誠感於猿石,況立身種德,親躭大道而不倦者乎。
『幽通賦』に言う:養由基は目光一転して猿猴先ず自ら哀号するかな、李广は石頭を以て虎と為して一箭射去りて石は之が為に裂開す。恵棟夾注:此の両句は養由基と李广の故事を言うなり。賦文続けて言う:若し精誠に非ざれば、豈に能く通達せんや。倘若し真実無ければ、誰かまた相信せんや。末流の技藝を操持する者も尚お且つ必ず此の如し、況んや道の真諦に沈潜する者をや。恵棟夾注:「耽」の字はまた「躭」と写す。顔師古注解して曰く:「躬」は即ち親身なり。射るは只だ微末の技藝に過ぎず、尚お且つ能く精誠に凭りて猿猴と石頭を感動す、況んや身を立て徳を修め、親身大道に沈潜して疲倦を知らざる者をや。
