Libo

遠

清 · 惠栋 · 第48巻 / 53

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

虞注《易》曰:乾為遠。

虞翻『周易』に注して曰く:乾卦は「遠」を取象と為す。乾は上に居りて天道を統摂す、ゆえに高遠の義を含有す。

《老子》德經曰:玄德深矣遠矣。

『老子』徳経に言う:「幽玄の徳は、真に深きかな、真に遠きかな。」深と遠とは、皆道体の測度すべからざるに就きて言うなり。

玄

《文言》曰:夫玄黃者,天地之雜也,天玄而地黃。

『坤卦・文言伝』に言う:いわゆる「玄黄」は、天色と地色と交雑して成るなり。天の色は玄、地の色は黄なり。

《說卦》曰:震為玄黃。虞注云:天玄地黃,震,天地之雜物,故為玄黃。

『説卦伝』に言う:震卦は「玄黄」を取象と為す。虞翻注解して曰く:天色玄にして地色黄なり、震卦は正に天地の気の交雑して成る物なり、ゆえに玄黄を取象と為す。

《考工記》曰:天謂之玄,地謂之黃。《廣雅》曰:乾,玄天也。

『周礼・考工記』に言う:天の色を「玄」と曰い、地の色を「黄」と曰う。『広雅』に言う:乾は、即ち玄色の天なり。

《月令》曰:季冬天子居玄堂右個。蔡邕章句曰:玄,黑也,其堂尚玄。《文選》注八。

『礼記・月令』に言う:季冬の月、天子は明堂北面「玄堂」の右側の一間に居住す。蔡邕『月令章句』に言う:「玄」は即ち黒なり。此の時節の居する所の堂は黒色を尊崇す。恵棟注明す:此の条は『文選』巻八の注文の引く所に見ゆ。

《越語》曰:至於玄月,王召范蠡而問焉。韋昭注云:謂魯哀十六年九月。

『国語・越語』に言う:「玄月」に到り、越王范蠡を召して彼に向かって詢問す。韋昭注解して曰く:ここの玄月は、魯哀公十六年の九月を指す。

《爾雅》月名曰:九月為玄。《乾鑿度》曰:乾漸九月。注云:乾御戌亥在於十月而漸九月,天謂之玄,故九月為玄。

『爾雅』に十二月の月名を記して言う:九月を「玄」と曰う。『易緯・乾鑿度』に言う:乾の気は漸く九月に及ぶ。注解して曰く:乾は戌・亥両位を主管し、本より十月に在るも、而して漸々九月に上溯す。天の色は玄と称す、ゆえに九月は「玄」の名を得。

《夏小正》傳曰:玄九者,黑也。

『大戴礼記・夏小正』の伝文に言う:いわゆる「玄九」は、指す所は即ち黒色なり。

《說文》曰:玄,幽遠也。黑而有赤色者為玄,象幽而入覆之也。

『説文解字』に言う:「玄」は幽深遥遠の意なり。黒色の中に赤色を帯ぶるを、即ち玄と曰う。字形は幽隠にして上に物の覆蓋する象を取る。

《漢書·郊祀志》:年始冬十月,色外黑內赤。服虔曰:十月陰氣在外,故外黑;陽氣尚伏在地,故內赤也。朱氏震曰:坎,北方也,其色玄者,赤黑也;赤者,乾陽也;黑者,坤陰也。棟謂乾御戌亥,戌亥之月乾坤合居,故赤黑為玄。章懷《張衡傳》注云:玄,深也。

『漢書・郊祀志』に記す:一年の開始は冬十月に定め、服色は外面に黒を用い、裏面に赤を用ゆ。服虔注解して曰く:十月陰気は外に在り、ゆえに外面に黒を用ゆ。陽気は尚お地下に潜伏す、ゆえに裏面に赤を用ゆ。宋人朱震に言う:坎卦は北方に属し、其の色は「玄」と称す、即ち赤と黒と相合す。赤は乾の陽、黒は坤の陰なり。恵棟自ら申説す:乾は戌・亥両位を主管す、戌亥の月は乾坤同じく一処に居す、ゆえに赤黒相合すれば便ち「玄」と成る。恵棟また章懐太子李賢『後漢書・張衡伝』注を挙げて曰く:「玄」は即ち深なり。

《考工記》鍾氏曰:三入為纁,五入為緅,七入為緇。鄭注云:染纁者三入而成,又再染以黑則為緅。緅,今禮俗文作爵,言如爵頭色也。又再染以黑乃成緇矣。凡玄色者在緅緇之間,其六入者與。

『周礼・考工記』鍾氏に言う:糸帛を三回染めて「纁」と為り、五回染めて「緅」と為り、七回染めて「緇」と為る。鄭玄注解して曰く:纁を染むるは三回染に入りて乃ち成り、再び黒汁を以て一回染めば則ち緅と成る。「緅」の此の字は、如今礼家の俗写は「爵」と作る、是れ其れ雀頭の色に象るを言う。此の後再び黒汁を以て一回染めば、乃ち緇と成る。凡そ玄色は、皆緅と緇の間に介在し、大概は六回染に入るものならんか。

賈疏云:以緅入黑汁即為玄,六入為玄,但無正文,故此注與《士冠禮》注皆云玄則六入與,更以此玄入黑汁則名七入為緇矣。

賈公彦の疏に言う:緅色を再び黒汁に放ち入れて染めば、則ち玄と成る、即ち六回にして玄と成るなり。只だ経文の裏に明文拠るべき無し、ゆえに鄭玄の此の一条の注と『儀礼・士冠礼』の注とは、皆「玄は大概六回ならんか」の此の様の存疑の説法を用ゆ。再び此の玄色を黒汁に放ち入れて染めば、即ち七回にして緇と成ると曰う。

《文選》注引鍾會注《老子》曰:幽冥晦昧故稱為玄。王弼曰:玄冥,嘿無有也。《文選》十一。

『文選』李善注に鍾会『老子注』を引きて曰く:幽深昏冥・晦暗不明なり、ゆえに之を「玄」と称す。王弼に言う:いわゆる玄冥は、即ち寂黙にして一无所有なり。恵棟注明す:此の条は『文選』巻十一の注文に見ゆ。

桓譚《新論》曰:揚雄作《玄》書,以為玄者天也,道也。言聖賢制法作事皆引天道以為本,統而因附續萬類王政人事法度。故宓犧氏謂之易,老子謂之道,孔子謂之元,而揚雄謂之玄。《解嘲》曰:知玄知默,守道之極。

桓譚『新論』に言う:揚雄『太玄』一書を写す、「玄」を以て即ち天なり、即ち道なりと認む。意は聖賢の法度を制定し事務を挙辦するは、皆天道を援引して根本と為すを要し、此に由りて総統貫串し、万類の事物及び王政人事の種種の法度を附会連綴す。ゆえに伏羲氏は之を「易」と曰い、老子は之を「道」と曰い、孔子は之を「元」と曰い、而して揚雄は之を「玄」と曰う。恵棟また揚雄『解嘲』を挙げて曰く:玄を解し黙を解するは、乃ち道を守るの極致なり。

《老子》道經曰:無名天地之始,有名萬物之母。故常無慾以觀其妙,常有欲以觀其徼。小也。此兩者同出而異名。同出於道。王弼注云:兩者謂始與母也,同出於玄也。異名所施不同也,在首則謂之始,終則謂之母也。訓暢令盡也。

『老子』道経に言う:「無名は、天地の開始なり。有名は、万物の母なり。ゆえに常に無欲に処るを以て、其の微妙を観照せんと要し、常に有欲に処るを以て、其の辺際を観照せんと要す。」恵棟夾注:「徼」は細小の意なり。経文続けて言う:「此の両者は同一の源より出でて名称同じからず。」恵棟夾注:皆道より出づ。王弼注解して曰く:此の両者は「始」と「母」を指す、皆玄より出づ。名称同じからざるは、施用する所の処不同なるに因り、起頭の処に在れば則ち之を「始」と曰い、終成の処に在れば則ち之を「母」と曰う。恵棟夾注:これは文義を訓釈疏暢して、窮尽を務むるを求むるなり。

同謂之玄。玄,天也。玄之又玄。上天之載,無聲無臭。眾妙之門。徼亦妙也,故曰眾妙。

経文続けて言う:「合さりて之を玄と称す。」恵棟夾注:玄は即ち天なり。経文また言う:「玄にして又た玄。」恵棟『詩経・大雅・文王』の「上天の承載する所、声無く味無し」を引きて此の一層を解説す。経文最後に言う:「これは一切の微妙の門戸なり。」恵棟夾注:「徼」も亦た妙に属す、ゆえに合して「衆妙」と称す。

又曰:生而不有,為而不恃,長而不宰,是謂玄德。王弼注云:玄德者,皆有德不知其至,出於幽冥者也。王弼注俱見《文選》注中。

『老子』また言う:「万物を生養して而も己有に拠らず、万物に施為して而も其の能を自恃せず、万物を助長して而も主宰を加えず、これを玄徳と曰う。」王弼注解して曰く:いわゆる玄徳は、皆徳有りて而も其れ何処より来るを知らず、是れ幽深冥暗の中より生じ出る所の者なり。恵棟注明す:以上の王弼の注文は皆『文選』の注の中に見ゆ。

《淮南·原道》曰:舜執玄德於心而化馳若神。高注云:玄,天也;馳,行也。又《覽冥》曰:夫物類之相感玄妙深微。案:陽在地下稱玄,坤上六其血玄黃是。妙,古文眇。眇,小也,猶微也。陽在下,故言深。

『淮南子・原道』篇に言う:舜は幽玄の徳を心中に執守し、教化は推行開展して神の如く速し。高誘注解して曰く:「玄」は即ち天、「馳」は即ち行なり。『淮南子・覧冥』篇また言う:物類の間の相互感応は、玄妙にして深微なり。恵棟按断して曰く:陽気の地下に在る時は「玄」と称す、坤卦上六爻辞の講ずる「其の血玄黄」は即ち此の意なり。「妙」は「眇」の今字なり、「眇」は細小にして即ち微なり。陽既に下に在れば、ゆえに其れを「深」と曰う。

《太玄》曰:天以不見為玄,地以不形為玄,人以心腹為玄。天奧西北,鬱化精也;地奧黃泉,隱魄榮也;人奧思慮,含至精也。

揚雄『太玄』に言う:天は人の之を見ること能わざるを以て玄と為し、地は形跡を顕露せざるを以て玄と為し、人は心腹深処を以て玄と為す。天の奥蔵は西北に在り、彼処に化生の精を鬱結す。地の奥蔵は黄泉に在り、彼処に魄の栄華を隠伏す。人の奥蔵は思慮に在り、彼処に至精の気を含蘊す。

張衡《玄圖》曰:玄者,無形之類,自然之根,作於太始,莫之與先,包含道德,構掩乾坤,橐鑰元氣,稟受無原。《御覽》一。

張衡『玄図』に言う:いわゆる玄は、形体無きの類に属し、自然の根柢なり。其れは太始の時に興起し、其の前に排すべき者無し。其れは道と徳を包容し、乾と坤を籠罩し、風箱の風を鼓すが如く元気を吹蕩し、而して其の自身の禀受する所は却て本原を推尋するに由無し。恵棟注明す:此の条は『太平御覧』巻一に見ゆ。

《老子》道經曰:古之善為士者微妙玄通。河上公注云:玄,天也,言其節志精微與天通也。《文選》注。精微,今作玄妙。

『老子』道経に言う:「古時士を為すに善しき者は、微妙にして玄通す。」河上公注解して曰く:「玄」は即ち天なり。是れ此の種の人の節操心志の精深微妙にして、能く天と相通ずるを言うなり。恵棟注明す:此の文は『文選』注の引く所に見ゆ。其の中の「精微」二字は、今本は「玄妙」と作る。

神

《繫上》曰:神無方而易無體。變化故無方,自微及著故無體。又曰:陰陽不測之謂神。神無方,故不測。又曰:知變化之道者其知神之所為乎。虞注云:在陽稱變。乾五之坤。在陰稱化。坤二之乾。陰陽不測之謂神,知變化之道,故知神之所為。

『周易・繋辞上』に言う:「神は固定の方所無く、易は固定の形体無し。」恵棟夾注:其れ変化に居らざるに因りて、ゆえに方無し。細微より一直に顕著に貫きて、ゆえに体無し。『繋辞上』また言う:「陰陽の運行は測度すべからず、これを神と曰う。」恵棟夾注:神既に方所無ければ、ゆえに測度すべからず。また言う:「変化の道を解する者は、殆ど神の作為を解せんか。」虞翻注解して曰く:陽の一面に在りては「変」と称し、乾九五の爻の往きて坤位に居るを指す。陰の一面に在りては「化」と称し、坤六二の爻の往きて乾位に居るを指す。陰陽測度すべからざるを即ち神と曰い、変化の道を解せば、自然に神の作為を解す。

又曰:易無思也,無為也。虞注云:天下何思何慮,同歸而殊途,一致而百慮,故無為。謂其靜也專。寂然不動。謂隱藏坤初機息矣,專,故不敢動者也。感而遂通天下之故。感,動也,以陽變陰。通天下之故,謂發揮剛柔而生爻者也。

『繋辞上』また言う:「『易』は思慮する所無く、作為する所無し。」虞翻注解して曰く:天下に何の思うべき何の慮るべきかあらん、道路同じからずして帰宿相同じ、思慮百端にして致する所一に帰す、ゆえに其れを「無為」と曰う。経文続けて言う:「其れ安静の時は専一なり。」また言う:「寂然として動かず。」虞翻注解して曰く:これは陽気の坤卦の初爻に隠蔵し、生機暫く止息するを講ず。正に専一なるに因りて、ゆえに敢て妄動せず。経文再び言う:「一たび感応を経れば即ち天下の一切の事故に通達す。」虞翻注解して曰く:「感」は即ち動、即ち陽を以て陰を変ずるに往く。いわゆる「天下の故に通ず」は、剛柔の作用を発揮して爻を生出するを言う。

非天下之至神其孰能與於此。至神謂易隱初入微,知幾其神乎。又曰:唯神也,故不疾而速,不行而至。神謂易也,謂日月。斗在天,日行一度,月行十三度,從天西轉,故不疾而速,是寂然不動。隨天右周,感而遂通,故不行而至者也。

『繋辞上』に言う:「若し天下の最も神妙なる物に非ざれば、誰か此の歩に参与するを能くせん。」恵棟夾注:いわゆる「至神」は、『易』道の初爻に隠蔵し、極細微の処に深入するを言う、正に経文の講ずる所の「幾を知る其れ神なるか」に合す。『繋辞上』また言う:「唯だ其れ神なれば、急促せずして自然に迅速、行走せずして自然に到達す。」注文解説して曰く:ここの「神」は即ち『易』にして、亦た日月を指す。北斗は天に高く懸り、太陽は一昼夜に一度を行き、月亮は一昼夜に十三度を行き、皆天体に随りて西に旋回す、ゆえに急促せずして自然に迅速なり、これ正に「寂然不動」なり。之らまた天に随りて右転周行す、ゆえに行走せずして自然に到達す、これ正に「感而遂通」なり。

又曰:利用出入,民咸用之謂之神。又曰:鼓之舞之以盡神。虞注云:神,易也。陽息震為鼓,陰消巽為舞,故鼓之舞之以盡神。

『繋辞上』また言う:「出入往来に利あり、百姓は日日皆之を用ゆ、これを神と曰う。」また言う:「之を鼓動し之を舞蹈して、以て神の妙用を窮尽す。」虞翻注解して曰く:ここの「神」は即ち『易』なり。陽気生長して震卦と成る、震は鼓動の象あり。陰気消退して巽卦と成る、巽は舞动の象あり。ゆえに「之を鼓し之を舞して以て神を尽くす」と曰う。

《繫下》曰:於是始作八卦,以通神明之德。《漢書》贊曰:易本隱以之顯。張揖曰:作八卦以通神明之德,是本隱也;有天道焉,有地道焉,有人道焉,以類萬物之情,是之顯也。

『周易・繋辞下』に言う:是に於て伏羲始めて八卦を創作し、之を以て神明の徳性を通達す。『漢書』の賛語に言う:『易』は本より隠微より顕著に走向するに由る。張揖解釈して曰く:八卦を創作して以て神明の徳を通達す、これ即ちいわゆる「本隠」なり。其の中に天の道有り、地の道有り、人の道有りて、以て万物の情状を比類す、これ即ちいわゆる「之顕」なり。

又曰:精義入神以致用也。姚信曰:陽稱精,陰為義,入在初也。陰陽在初,深不可測,故謂之神。變為姤復,故曰致用也。

『繋辞下』また言う:義理を精研して神妙の境に深入し、此に由りて実用に推致す。姚信解釈して曰く:陽は「精」と称し、陰は「義」と称す、「入」は初爻に進入するを指す。陰陽初爻の位置に到れば、深くして測るべからず、ゆえに之を「神」と称す。此に由りて『姤』『復』両卦を変出す、ゆえに「致用」と曰う。

《說卦》曰:神也者,妙萬物而為言者也。《說文》神字下云:天神,引出萬物者也。妙萬物者,引出萬物也。

『説卦伝』に言う:いわゆる「神」は、其れ微妙に万物を成就する此の一点に就きて立言するなり。『説文解字』「神」の字の下に言う:神は即ち天神にして、万物を引発生出する者なり。恵棟按断して曰く:いわゆる「妙万物」は、亦た即ち万物を引発生出するの意なり。

《孟子》曰:大而化之謂聖,聖而不可知之謂神。《莊子·外物》曰:聖人之所以駴天下,神人未嘗過而問焉。郭注云:神人即聖人也,聖言其外,神言其內。

『孟子・尽心下』に言う:宏大にして能く万物を化育するを聖と曰い、聖は測知すべからざる歩に到るを即ち神と曰う。『荘子・外物』篇に言う:聖人の以て天下を震動する彼らの作為は、神人従来曾て過問せず。郭象注解して曰く:神人は其の実は即ち聖人なり。「聖」と曰うは其の外在の功業に就きて言い、「神」と曰うは其の内在の境界に就きて言う。

又曰:所存者神。

『孟子・尽心上』また言う:君子心中の存留する所の彼の一点は、便ち神なり。これは上文の「過ぐる者は化す」に承接して言うなり。

《大戴禮·哀公問》,孔子曰:所謂聖人者,知通乎大道,應變而不窮,能測萬物之情性者也。大道者,所以變化而凝成萬物者也;情性也者,所以理然不取舍者也。

『大戴礼記・哀公問』に孔子を記して言う:いわゆる聖人は、智慧大道に通達し、変化に応付して窮竭に至らず、能く万物の情性を測知する人なり。いわゆる大道は、万物を変化せしめて凝聚して形を成さしむる物なり。いわゆる情性は、万物をして各々其の理に依りて自然此の如くならしめて人為の取舍を容れざる物なり。

《呂覽·君守》曰:至神逍遙,倏忽而不見其容;至聖變習移俗而莫知其所從。

『呂氏春秋・君守』篇に言う:最も神妙なる物は逍遥自在にして、倏忽の間に便ち其の形容を見るを得ず。最も聖明の人は習尚を改変し風俗を移易し、而して人々は彼の変化の究竟何処より来るを知らず。

《荀子·儒效》曰:道出乎一。曷為一?曰執神而固。曷謂神?曰盡善浹洽之謂神,萬物莫足以傾之之謂固,神固之謂聖人。又《天論》曰:萬物各得其和以生,各得其養以成,不見其事而見其功,夫是之謂神。

『荀子・儒效』篇に言う:道は「一」に出づ。何をか「一」と曰う。回答して曰く:「神」を持守して而も堅固にして移らざるなり。何をか「神」と曰う。回答して曰く:善は極処に至りて周遍浹洽すれば則ち神と曰い、天下万物は彼を動揺する能くする一様無きを固と曰い、既に神にして且つ固なる人は、則ち聖人と曰う。『荀子・天論』篇また言う:万物は各々陰陽の調和を得て生長し、各々応有の滋養を得て成就す。其れ何事を為すを見ずして、而も其の功效を見るを得、これを神と曰う。

《大戴禮·勸學》曰:神莫大於化道。

『大戴礼記・勧学』篇に言う:神妙の事は、道を以て自身に化入するに比するより大なりと曰う者無し。

《史記·律書》曰:氣始於冬至,周而復生。神生於無形。精微故無形。成於有形。正義曰:天地既分,二儀已質,萬物之形成於天地之間,神在其中。然後數形而成聲。正義曰:數謂天數也,聲謂五聲也,言天數形則能成其五聲也。

『史記・律書』に言う:気は冬至より始まり、周而復始に重新に生発す。神は無形の中に生ず。恵棟夾注:正に精深細微なるに因りて、ゆえに形無し。『律書』続けて言う:而して有形の内に於て成就す。張守節『正義』に言う:天地既に已に剖分し、両儀已に形質を具え、万物の形体は天地の間に生成し、神は便ち其の中に在り。『律書』に言う:然る後に天数は形を成して五声を生出す。『正義』に言う:「数」は天数を指し、「声」は五声を指す。意は天数一たび形を成せば、便ち能く其の五声を成就するを言う。

故曰神使氣,氣就形。形理如類,有可類或未形而未類,或同形而同類。類而可班。班,別也,義與辨同。類而可識。聖人知天地識之別。故從有以至未有。正義曰:從有,萬物形質也;未有,謂天地未形也。以得細若氣,微若聲。正義曰:氣謂大易之氣,聲謂五聲之聲。

『律書』に言う:ゆえに言う、神は気を駆使し、気は形に趨就すと。形と理とは各々其の類に如し、或るは類に帰すべく、或るは尚お未だ形を成さざるに因りて帰すべき類無く、或るは形状相同じきに因りて同じく一類に属す。凡そ類を成せば則ち分班して弁別するを得。恵棟夾注:「班」は即ち分別にして、意義は「辨」と相同じ。『律書』に言う:類を成せば則ち識別するを得。聖人は天地の万物を識別する分際を通暁す、ゆえに能く「有」より一直に「未有」に推す。『正義』に言う:いわゆる「従有」は、万物の形体系質を指す。いわゆる「未有」は、天地の尚お未だ形を成さざるの時を指す。『律書』に言う:此に由りて気の如く細かき、声の如く微かなる物を体賽するを得。『正義』に言う:「気」は大『易』の気を指し、「声」は五声の声を指す。

然聖人因神而存之。因神而存之,故謂之神。雖妙必効。妙,微眇。効猶見也。情核其華,道者明矣。華,榮華,有色貌也。道心之微,故曰榮道。非其聖心以乘聰明,孰能存天地之神而成形之情哉。情核其華道者明,故成形之情。

『律書』に言う:而して聖人は神に凭りて之らを存留せしむ。恵棟夾注:正に神に凭りて存留するに因りて、ゆえに之を神と称す。『律書』に言う:其れ微妙なりと雖も、却て必ず験効見るべき有り。恵棟夾注:「妙」は即ち細微、「効」は「見」に相当す。『律書』に言う:其の中の情実と光華を核実して、道を行う者は是に於て明白す。恵棟夾注:「華」は即ち栄華にして、色沢形貌有るの意なり。道心幽微なり、ゆえに之を「栄道」と称す。『律書』に言う:若し聖人の心の聡明叡智に凭藉するに非ざれば、誰か能く天地の神を存留して有形の物の情実を成就せんや。恵棟夾注:正に其の情実光華を核実して道を明白ならしむるに因りて、ゆえに能く有形の物の情実を成就す。

神者物受之而不能知。日用而不知。及其去來。夫微之顯,故有去來。故聖人畏而欲存之。誠不可弇,故畏而欲存之。唯欲存之,神之亦存。神其神,故神存。其欲存之者,故莫貴焉。積微,月不勝日,時不勝月,歲不勝時,故莫貴焉。孟子曰:所存者神。管子曰:神者至貴也。

『律書』に言う:神の此の物は、万物は之を承受して而も自ら知ること能わず。恵棟夾注:これ即ち百姓の日日之を用いて自覚せざるなり。『律書』に言う:其れ去りて又来るに及べば。恵棟夾注:幽微の処は終に必ず顕現す、ゆえに乃ち去る有り来る有り。『律書』に言う:ゆえに聖人は之を敬畏して之を存留せんと欲す。恵棟夾注:其れ実に遮掩する能わざるなり、ゆえに聖人は敬畏して之を存留せんと欲す。『律書』に言う:只だ之を存留せんと欲せば、神も亦た存留し下る。恵棟夾注:神を以て神と為して之を対待す、ゆえに神は便ち長存するを得。『律書』に言う:彼の之を存留せんと欲する心は、再び宝貴すべきを過ぐる者無し。恵棟夾注:これは細微を積累する功夫なり、一月は一日に抵らず、一季は一月に抵らず、一年は一季に抵らず、ゆえに此より更に宝貴なる無しと曰う。恵棟また『孟子』を引きて曰く:「存する所の者は神なり。」『管子』を引きて曰く:「神は最も尊貴なり。」

《詩泛歴樞》曰:卯酉為革政,午亥為革命,神在天門,出入候聽。宋均注云:神,陽氣,君象也。天門戌亥之間,乾所據者。《郎顗傳》。

『詩緯・泛暦枢』に言う:卯年・酉年に当たりて政令を変革すべく、午年・亥年に当たりて天命を変革すべし。神は天門の上に在り、出入の際に於て静候して聴察す。宋均注解して曰く:ここの「神」は陽気を指し、君主の象徴なり。天門は戌と亥の間に在り、正に乾の拠守する所の位置なり。恵棟注明す:此の条は『後漢書・郎顗伝』に見ゆ。

《墨子·公輸》曰:治於神者眾人不知其功,爭於明者眾人知之。

『墨子・公輸』篇に言う:神妙にして見るべからざるの処に於て施治する者は、衆人は其の功労を看出さず。明処に於て争勝する者は、衆人は反りて皆彼を知る。

《法言·問神》曰:或問神。曰:心。請問之。不知神在心,故復問。曰:潛天而天,潛地而地。如乾之初九。天地神明而不測者也,心之潛也猶將測之,況於人乎?況於事倫乎?敢問潛心於聖。曰:昔仲尼潛心於文王矣,達之;顏淵亦潛心於仲尼矣,未達一間耳。神在所潛而已矣。

揚雄『法言・問神』篇に言う:人有りて何をか「神」と謂うを問う。揚雄回答す:心なり。彼の人曰く:請問す、此の言は如何に講ずる。恵棟夾注:問う者は神の便ち心の裏に在るを明白せず、ゆえに再び一回問う。揚雄曰く:心は天に潜入せば、則ち天と一を為し。地に潜入せば、則ち地と一を為す。恵棟夾注:これは乾卦の初九の彼の様に下に潜蔵するが如し。揚雄続けて言う:天地は神明にして測度すべからず、而して心一たび潜入せば、尚お能く之らを測度す、況んや人を測度するをや、況んや人事の倫理を測度するをや。彼の人また問う:請問す、如何にして心を聖人に潜入せん。揚雄曰く:従前仲尼は心を文王に潜入し、終に通達したり。顔淵も亦た心を仲尼に潜入し、只だ一間の隔を差して未だ通達せざるのみ。見るべし、神は只だ潜入する所の対象に在るのみなりと。

天神天明照知四方,天精天粹萬物作類。乾元用九而天下治。人心其神矣乎,操則存,舍則亡。中庸其至矣乎,民鮮能久。能常操而存者其惟聖人乎。至誠無息。聖人存神索至。注云:存其精神,探幽索微,成天下之大順,致天下之大利,和同天人之際,使之而無間者也。

揚雄続けて言う:天の神明は四方を照察し、天の精粹は万物をして各々其の類を成さしむ。乾元は九数を運用し、天下此に因りて治理を得。人心は殆ど神ならんか、之を握れば即ち存し、之を放てば即ち亡ぶ。中庸は殆ど最高の境界ならんか、惜しむべし百姓は長久に守住するを能くする者少なし。能く常に握住して之を長存せしむるは、殆ど聖人のみあらんか。恵棟夾注:これ即ち『中庸』の講ずる所の「至誠無息」なり。揚雄曰く:聖人は精神を存養し、至理を探索す。注解して曰く:これは自らの精神を保存し、幽隠を探究し精微を搜尋し、天下最大の順暢を成就し、天下最大の利益を招致し、天と人との間の関係を調和し、両者をして毫も隔阂無からしむるを言う。

《先知》曰:先知其幾於神乎。注云:神以知來,先知近於神。

『法言・先知』篇に言う:能く預め知る者は、殆ど神に接近せるか。注解して曰く:『繋辞』は「神以て来を知る」と講ず、能く預め知れば、亦た神に接近す。

揚雄《解嘲》曰:爰清爰靜,游神之庭。

揚雄『解嘲』に言う:是に於て心を清くし、是に於て宁静にして、精神をして其の自らの庭院の中に遨游せしむ。

班固《賓戲》曰:銳思於豪芒之內,潛神默記,恆以年歲。師古曰:豪芒喻纖微也。

班固『答賓戯』に言う:思慮を鋭くして毫芒の如く細微の処に用い、心を潜め神を凝らし、黙々として記誦し、年復一年堅持して輟めず。顔師古注解して曰く:「豪芒」は以て極めて繊細微小なるを比喻するを用いるなり。

《管子·心術》曰:去欲則宣。宣,通也。宣則靜,靜則精,精則獨立矣。獨則明,明則神矣。神者,至貴也。故館不闢除則貴人不舍焉。故曰不潔則神不處。

『管子・心術』篇に言う:嗜欲を去れば、心は便ち通暢す。恵棟夾注:「宣」は即ち通なり。心通暢せば便ち宁静し、宁静すれば便ち精純し、精純すれば便ち能く卓然として自立す。能く自立せば便ち明澈し、明澈すれば便ち神に入る。神は最も尊貴なり、ゆえに館舎を清潔に打掃せざれば、貴人は住み入るを肯んぜず。ゆえに曰う、心の潔浄ならざれば、神は居留するを肯んぜずと。

《內業》曰:一物能化謂之神,一事能變謂之智。化不易氣,變不易智。

『管子・内業』篇に言う:能く一物を変化せしむるを神と曰い、能く一事を改易せしむるを智と曰う。化育する時は并せて其の気を更換せず、変易する時は并せて其の智を更換せず。

《荀子·不苟》曰:誠信生神。注,《中庸》曰:至誠如神。

『荀子・不苟』篇に言う:真誠守信すれば則ち神妙を生出す。注文は『中庸』を引きて曰く:至誠の境界は神の一般なり。

《淮南·泰族》曰:故大人者與天地合德,日月合明,鬼神合靈,與四時合信。故聖人懷天氣,抱天心,執中含和,不下廟堂而衍四海,變習易俗,民化而遷善,若性諸己,能以神化也。《後漢書》,李固上疏曰:臣聞氣之清者為神,人之清者為賢。

『淮南子・泰族』篇に言う:ゆえに偉大の人は、天地と其の徳を合し、日月と其の明を合し、鬼神と其の霊を合し、四時と其の信を合す。此に因りて聖人は天の気を懐抱し、天の心を懐抱し、中道を執守して太和を涵容し、廟堂を下るを必せずして徳沢は四海に流衍し、習尚風俗は之が為に改易し、百姓は感化を受けて善道に遷り、恰も彼れは本より即ち彼ら自身の天性なるが如し、これは聖人の能く神に凭りて化育するに因るなり。恵棟また『後漢書』を挙ぐ、李固上疏して曰く:臣聞く、気の中の清純なる者は神と為り、人の中の清純なる者は賢と為ると。

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