綱領二・《易》道の精蘊と経伝の義例を論ず
司馬氏遷曰:《易》本隱以之顯,《春秋》推見至隱。
司馬遷はいう:《易》は幽隠な天道から出発し、推衍して顕明な人事に及ぶ。《春秋》は顕明な史事から入手し、推究して幽隠な義理に入る。
班氏固曰:六藝之文,《樂》以和神,《詩》以正言,《禮》以明體,《書》以廣聽,《春秋》以斷事。五者蓋五常之道,相須而備,而《易》為之原,故曰“《易》不可見,則乾坤或幾乎息矣”。言與天地為終始也。
班固はいう:六経の文字は、《楽》は人の精神を調和させ、《詩》は人の言辞を端正させ、《礼》は人の身份体統を明確にし、《書》は見聞を広く開き、《春秋》は是非を裁断する。この五者は正に仁・義・礼・智・信の五常の道に対応し、互いに相須いてはじめて完備となるが、《易》はそれらの共同の本原である。だから《系辞伝》は「《易》が人に見られなければ、乾坤はおそらくまさに止息しようとしている」という。《易》が天地と相終始するという意味である。
王氏弼曰:夫《彖》者何也?統論一卦之體,明其所由之主者也。故六爻相錯,可舉一以明也。剛柔相乘,可立主以定也。自統而尋之,物雖眾,則知可以執一御也。由本以觀之,義雖博,則知可以一名舉也。故舉卦之名,義有主矣。“觀其彖辭,則思過半矣”。
王弼はいう:「彖」とは何か。一卦の整体を総論し、この卦が成立する所以の主爻を指明するものである。だから六爻は交錯していても、その中の一爻を挙げて全卦を説明できる。剛爻柔爻は互いに乗じ合っていても、一つの主爻を立定して卦義を判定できる。統摂するところから求めれば、事物は多くとも、一を執って衆多を御できることを知る。根本から観察すれば、義理は広くとも、一つの名目をもって概括できることを知る。だから卦名を挙げさえすれば卦義は帰主を得る。これ正に《系辞伝》のいう「その彖辞を見れば、すでに半ば余りを思い得る」である。
一卦五陽而一陰,則一陰為之主。五陰而一陽,則一陽為之主。夫陰之所求者陽也,陽之所求者陰也。陽苟一焉,五陰何得不同而歸之?陰苟只焉,五陽何得不同而從之?故陰爻雖賤,而為一卦之主者,處其至少之地也。或有遺爻而舉二體者,卦體不由乎爻也。繁而不優亂,變而不憂感,約以存博,簡以濟眾,其唯《彖》乎!
一卦の中に五陽一陰であれば、その一つの陰爻が全卦の主である。五陰一陽であれば、その一つの陽爻が全卦の主である。陰の求めるところは陽、陽の求めるところは陰。陽はただ一つしかないのに、五つの陰爻がどうして一斉にそれに帰向せずにいられよう。陰はただ一つしかないのに、五つの陽爻がどうして一斉にそれに追随せずにいられよう。だから陰爻は地位こそ低賤だが、一卦の主となることができる。まさに数量最も少ない位置に居るからである。爻を撇き開いて上下両体のみを挙げて立論するものもあるが、それはその卦の卦体が某一爻に取决まらないからである。頭緒は繁多でも紛乱を虞れず、変化は不定でも迷惑を虞れない。簡約をもって広博を保存し、簡易をもって衆理を済助する。これができるのは、おそらく《彖》だけであろう。
夫爻者何也?言乎變者也。變者何也?情偽之所為也。是故“情偽相感”,遠近相追,“愛惡相攻”,屈伸相推。“非天下之至變,其孰能與於此哉!”是故卦以存時,爻以示變。
「爻」とは何か。変化を講ずるものである。変化はまた何に縁って起きるか。人事の真情と虚偽が造成するのである。だから《系辞伝》は「真情と虚偽が互いに感応し」、遠と近が互いに追逐し、「相愛と相憎が互いに攻撃し」、屈と伸が互いに推移すると言う。「天下で最も変動に善いものでなければ、誰がこの境に参与できよう」。だから卦は一つの時局を保存するために用いられ、爻はその中の変化を顯示するために用いられる。
夫卦者時也,爻者適時之變者也。時有否泰,故用有行藏。卦有小大,故辭有險易。
卦の代表するものは一つの時局、爻の代表するものはこの時局に適応する種々の変化である。時局には閉塞と通泰の分別があるので、人の作為には出でて道を行うことと退いて身を蔵することの不同がある。卦には陰柔を主とする「小」と陽剛を主とする「大」があるので、卦爻辞には険難と平易の差異がある。
一時之制,可反而用也。一時之吉,可反而凶也。故卦以反對,而爻亦皆變。尋名以觀
ある一つの時局に適用する法則は、時局を換えればかえって逆用されうる。ある時局中の吉は、時局を換えればかえって凶となりうる。だから六十四卦は両々「反対」(一卦を倒転すれば即ち別の一卦となる)し、相応する爻もこれに随ってすべて変換する。卦名に循って考察すれば——ここで底本に脱文がある。
夫象者,出意者也;言者,明象者也。盡意莫若象,盡象莫若言。言生於象,故可尋言以現象。象生於意,故可尋象以觀意。意以象盡,象以言著。故言者所以明象,得象而忘言。象者所以存意,得意而忘象。存言者,非得象者也;存象者,非得意者也。
「象」は心中の意を表出するためのもの、「言」は象を闡明するためのものである。意を窮尽して表すには、象より善いものはない。象を窮尽して表すには、言より善いものはない。言は象から生ずるので、言に循って象を見ることができる。象は意から生ずるので、象に循って意を観察できる。意は象に靠って無遺に表され、象は言に靠って分明に彰される。だから言の作用は象を闡明することにあり、象を得れば言を忘れるべきである。象の作用は意を保存することにあり、意を得れば象を忘れるべきである。言に死守して放さない者は、実は象を得ていない。象に死守して放さない者は、実は意を得ていない。
象生於意而存象焉,則所存者乃非其象也。言生於象而存言焉,則所存者乃非其言也。
象はもともと意から生じた。もし象のみに死守すれば、守っているものはすでに真の象ではない。言はもともと象から生じた。もし言のみに死守すれば、守っているものもすでに真の言ではない。
然則忘象者,乃得意者也;忘言者,乃得象者也。爻苟合順,何必坤乃為牛?義苟應健,何必乾乃為馬?而或者定馬於乾,案文責卦,有馬無乾,則偽說滋漫,難可紀矣。互體不足,遂及卦變。變又不足,推致五行。一失其原,巧喻彌甚。縱復或值,義無所取。
このように見れば、象を忘れられる者こそ真に意を得た者であり、言を忘れられる者こそ真に象を得た者である。爻義がただ柔順に合すれば、何も必ず《坤》でなければ牛の象を取れないわけではない。卦義がただ剛健に応ずれば、何も必ず《乾》でなければ馬の象を取れないわけではない。ところが或る人は「馬」を《乾》に死に物狂いで繫ぎ、経文に照らして卦象を追究し、辞中に馬があり卦中に《乾》がないと、虚妄の解説が層出して記し難いほど多くなる。「互体」で講じ通じなければ「卦変」を持ち出し、卦変でもなお講じ通じなければ一路「五行」にまで推し進める。いったん根本を失えば、巧妙な比附はいよいよ离谱する。たとえ偶々一処に当たっても、義理の上では取るべきところが少しもない。
蓋存象忘意之由也。忘象以求其意,義斯見矣。
これらはみな卦象を死守して本意を遺忘したことの招く弊害である。反対に、象を忘れてその表そうとする意を求めれば、卦爻の義理は自ずから顕現する。
按象無初上得位失位之文,又《繫辭》但論三五、二四同功異位,亦不及初上,何乎?唯《乾》上九《文言》云“貴而五位”,《需》上六云“雖不當位”。若以上為陰位邪?則《需》上六不得云“不當位”也。若以上為陽位邪?則乾上九不得云“貴而無位”也。陰陽處之,皆云非位,而初亦不說當位失位也。
王弼また按ずる:《象伝》の中に初爻・上爻の「得位」「失位」を講じた文字はいまだかつてなく、《系辞伝》も三と五・二と四の「同功而异位」のみを討論して、同様に初・上両爻に渉らない。これは何の故か。ただ《乾》卦上九の《文言》に「地位は尊貴だが職位がない」(底本の「五位」は「无位」の誤り)とあり、《需》卦上六に「位に当たらないが」とあるのみである。もし上位を陰位と算するなら、《需》卦上六は陰をもって陰に居るのだから「不当位」と言うべきでない。もし上位を陽位と算するなら、《乾》卦上九は陽をもって上に居るのだから「貴而无位」と言うべきでない。これで見れば陰爻・陽爻とも上位に居ればいずれも「位」でないと言われ、初爻も同様に当位・失位を講じない。
然則初上者,是事之終始,無陰陽定位也。故乾初謂之“潛”,過五謂之“無位”,未有處其位而云“潛”,有位而云“無”者也。歷觀眾卦,盡亦如之。初上無陰陽定位,亦以明矣。位者,列貴賤之地,待才用之宅也。爻者,守位分之任,應貴賤之序者也。
このように見れば、初爻と上爻は一事の開端と終結を代表し、もともと固定の陰陽の位がない。だから《乾》卦の初爻は「潜」と称し、五爻を超えた後は「无位」と称す。身にその位に居ないのに「潜伏」といい、すでに職位があるのに「ない」ということはない。各卦を遍く見れば、情形はすべてこのとおりで、初・上両爻に固定の陰陽の位がないこともまた明らかである。いわゆる「位」とは貴賤を排列する場所であり、人が才能をもって充任するのを待つ処所である。いわゆる「爻」とはこの職分を守る担当者であり、貴賤の次序に相応するものである。
位有尊卑,爻有陰陽。尊者陽之所處,卑者陰之所履也。故以尊為陽位,卑為陰位。去初上而論位分,則三五各在一卦之上,亦何得不謂之陽位?二四各在一卦之下,亦何得不謂之陰位?初上者,體之終始,事之先後也。故位無常分,事無常所,非可以陰陽定也。
位には尊卑の別があり、爻には陰陽の分がある。尊いところは陽の居処するところ、卑しいところは陰の履行するところ。だから尊位を陽位と算し、卑位を陰位と算する。初・上両爻を撇いて位分を討論すれば、三爻・五爻は各々下卦・上卦の上端に処する。どうして陽位と称さずにいられよう。二爻・四爻は各々下卦・上卦の下端に処する。どうして陰位と称さずにいられよう。初爻と上爻に至っては、全卦卦体の起点と終点、一事の開頭と結尾である。だからその位分に常規がなく、主る事に定所がなく、陰陽をもって規定できない。
尊卑有常序,終始無常主,故《繫辭》但論四爻功位之通例,而不及初上之定位也。然事不可無終始,卦不可無六爻,初上雖無陰陽本位,是終始之地也。統而論之,爻之所處則謂之位。卦以六爻為成,則不得不謂之六位時成也。
尊卑の間には固定の次序があるが、終と始には固定の主宰がない。だから《系辞伝》は二・三・四・五の四爻の功用と位次の通例のみを討論し、初・上両爻の定位に渉らない。しかし事は開頭結尾なくしてありえず、卦も六爻を足さずにはありえない。初・上は陰陽の本位がないとはいえ、畢竟終始の所在の地である。総べて言えば、爻の処する所を「位」と呼ぶ。卦は六爻から構成される以上、「位」と称さざるをえず、《乾・彖伝》のいう「六位時成」(六位時に応じて成る)である。
凡《彖》者,統論一卦之體者也。《象》者,各辯一爻之義者也。故《履》卦六三為兌之主,以應於乾;成卦之體,在斯一爻。故《彖》敘其應,雖危而亨也。《象》則各言六爻之義,明其吉凶之行。去六三成卦之體,而指說一爻之德,故危不獲亨而見咥也。《訟》之九二,亦同斯義。
大凡《彖伝》は一卦の整体を総論するもの、《象伝》(これは《小象》を指す)は一爻ごとの含義を分別辨析するものである。だから《履》卦六三は下体《兌》の主爻で、上は《乾》に応じ、全卦が卦を成す所以の鍵はこの一爻にある。ゆえに《彖伝》はそれが上体と相応することを叙述し、危険に処しても終に亨通しうると言う。《象伝》は六爻各々の義理を分別して講じ、それらの吉凶の走向を指明する。六三の成卦の整体的作用を撇いて、単にこの一爻自身の徳性を説く。ゆえに険に処して亨通を得ず、かえって老虎に咬まれると言う。《訟》卦九二の情形もまた同じ理である。
一卦之體,必由一爻為主,則指明一爻之美,以統一卦之義,《大有》之類是也。卦體不由乎一爻,則全以二體之義明之,《豐》卦之類是也。
一卦の卦体がもし確かに某一爻に主られていれば、この一爻の美善を指明し、それをもって全卦の意義を統摂する。《大有》卦六五が一陰をもって五陽を統するのはこの類に属する。卦体が某一爻に取决まらなければ、全く上下両体の意義をもって説明する。《豊》卦の離明が下にあり震動が上にあるのはこの類に属する。
薛收問一卦六爻之義,王氏通曰:卦也者,著天下之時也。爻也者,效天下之動也。
薛収が師に一卦六爻の意義を請うと、王通(隋代の大儒、門人が私諡して文中子という)は答えていう:いわゆる卦は天下の時勢を顯示するもの、いわゆる爻は天下の動向を摹擬するものである。
趨時有六動焉,吉凶悔吝所以不同也。收曰:敢問六爻之義。曰:六者非它也,三才之道?誰能過乎?
時勢に順って行動する方式に六種あり、これが各爻の吉・凶・悔・吝の各々相同じでない所以である。薛収がまた問う:六爻の具体的な含義を請う。王通はいう:六爻は他のものではなく、天・地・人の「三才」の道が各々二爻を占めるだけである。誰がこの範囲を超出できようか。
孔氏穎達曰:《易》者,變化之總名,改換之殊稱。自天地開闢,陰陽運行,寒暑
孔穎達はいう:いわゆる「易」とは、変化の総名称であり、更改替換の別名である。天地が開闢して以来、陰陽は運行して息まず、寒来暑往——ここで底本に脱文がある。
乾坤者,陰陽之本始,萬物之祖宗,故為上篇之始而尊之也。離為日,坎為月,日月之道,陰陽之經,所以始終萬物,故以坎離為上篇之終也,《咸》、《恆》者,男女之始,夫婦之道,人道之興,必由夫婦,所以奉承祖宗,為天地之主,故為下篇之始而貴之也,《既濟》《未濟》為最終者,所以明戒慎而全王道也。以此言之,則上下二篇,文王所定。
《乾》《坤》両卦は陰陽の本原開端、万物の祖宗であるから、上経の首に置いて尊崇を示す。《離》は日であり《坎》は月である。日月運行の道は即ち陰陽の常軌で、万物はこれによって終わりまた始まる。だから《坎》《離》をもって上経の收尾とする。《咸》《恒》両卦は男女交感の始と夫妻長久の道を講ずる。人倫の興起は必ず夫妻から始まり、これによって上は祖宗を承け、下は天地間の主人となる。だから下経の首に置いて看重を示す。《既済》《未済》をもって最末の両卦とするのは、戒惧謹慎・王道を保全する意を申明するためである。これより言えば、《易》が上下二篇に分かれるのは文王の定めたところである。
周子曰:聖人之精,畫卦以示;聖人之蘊,因卦以發。卦不畫,聖人之精不可得而見;微卦,聖人之蘊殆不可悉得而聞。《易》何止五經之原,其天地鬼神之奧乎!
周敦頤はいう:聖人の心中最も精微な所得は、卦を画くことを通じて顯示された。聖人の胸中に蘊蓄する道理は、卦象に憑藉して発揮された。もし卦が画かれなかったなら、聖人の精微なところは見る由もない。卦がなければ(底本の「微卦」は「无卦」の意)、聖人の蘊蓄する道理もおそらく完整に聞くことができない。《易》は五経の本原であるばかりか、まさに天地鬼神の幽深奥秘の所在である。
邵子曰:天變而人效之,故“元亨利貞”。《易》之變也,人行而天應之,故“吉凶悔吝”。《易》之應也,以“元亨”為變,則“利貞”為應。以“吉凶”為應,則“悔吝”為變。元則吉,吉則利應之。亨則凶,凶則應之以貞。悔則古,吝則凶,是以變中有應,應中有變也。
邵雍はいう:天道が変化して人がこれを効法するので、「元・亨・利・貞」の四徳がある。これは《易》の講ずる「変」である。人が行動を為せば天がこれに回応するので、「吉・凶・悔・吝」の四者がある。これは《易》の講ずる「応」である。「元亨」を変とすれば「利貞」は応、「吉凶」を応とすれば「悔吝」は変である。元始において吉を得、吉を得れば利をもって応じる。亨通が極処に至ればかえって凶を致し、凶に遇えば正を守るをもって応じる。悔は吉に転じうる(底本の「古」は「吉」の誤り)、吝は終に凶に趨る。これで見れば変の中に応が含まれ、応の中に変が含まれる。
變中之應,天道也,故元為變,則亨應之;利為變,則應之以貞。應中之變,人事也,故變則凶,應則吉,變則吝,應則悔也。悔者吉之先,而吝者凶之本,是以君子從天不從人。
変の中の応は天道に属する。だから元は変であり、亨が来て相応じる。利は変であり、貞が来て相応じる。応の中の変は人事に属する。だから一変動すれば凶に趨り、一回応すれば吉を得る。一変動すれば吝を生じ、一回応すれば悔を生ずる。悔は吉の先兆、吝は凶の根苗である。だから君子は事に処して、寧ろ天道の自然に順従し、人の私意に迁就しない。
易有意象,立意皆所以明象。統下三者,有言象,不擬物而直言以明事;有像象,擬一物以明意;有數象,“七日”“八月”“三年”“十年”之類是也。
邵雍またいう:《易》の中にいわゆる「意象」がある。凡そ一意を立てるのはみな卦象を闡明するためで、それは以下の三類を総摂する。一は「言象」:ある具体的事物に比拟せず、直接言語をもって一事を説明する。二は「像象」:ある実物に比拟して用意を表明する。三は「数象」:爻辞中の「七日」「八月」「三年」「十年」といった類の、数目をもって象を取る言い方である。
張子曰:大《易》不言有無,言有無,諸子之陋也。
張載はいう:偉大なる《易》道はただ陰陽の屈伸往来を講ずるのみで、従来「有」と「無」を分説しない。口を開けば有無を争弁するのは、諸子百家(特に老荘の一路)の見識浅陋なところである。
《易》為君子謀,不為小人謀。故撰德於卦,雖爻有小大,及繫辭其爻,必告以君子之義。
《易》は君子のために筹划するのであって、小人のために筹划しない。だから卦中に徳行を撰述する際、各爻に陰柔の「小」・陽剛の「大」の分別があるとはいえ、これらの爻に文辞を繫ぐとき、必ず君子の循るべき道理をもって人を告戒する。
程子曰:有理而後有象,有象而後有數。得其義,則象數在其中矣。必欲窮象之隱微,盡數之毫忽,乃尋流逐末,術家之所尚,非儒者之所務也,管輅、郭璞之學是也。
程頤はいう:まず理があり、然る後に象がある。まず象があり、然る後に数がある。義理を把握しさえすれば、象と数は自然にその中に含まれる。もし必ず物象中の最も隠微な角落を窮究し、数目裡の最も細小な分毫を算尽しようとすれば、それは支流に順って末節を追逐するもので、術数家の崇尚するものであり、儒者の心を用いるべきところではない——三国の管輅・晋代の郭璞の一路の占験の学が正にこの類に属する。
理無形也,故因象以明理。理見乎辭矣,則可由辭以觀象。故曰:得其義,則象數在其中矣。
理それ自体には形体がない。だから卦象を借助してそれを闡明する。理はすでに卦爻辞の中に顕現しているから、反って文辞によって卦象を観察できる。だからいう:義理を把握しさえすれば、象と数は自然にその中にある。
看《易》且要知時,凡六爻人人有用,聖人自有聖人用,賢人自有賢人用,眾人自有眾人用,學者自有學者用,君有君用,臣有臣用,無所不通。
《易》を読むにはまず「時」を知らなければならない。六爻は何人にも用处がある:聖人には聖人の用法があり、賢人には賢人の用法があり、普通百姓には普通百姓の用法があり、読書人には読書人の用法があり、君主たる者には君主たる者の用法があり、臣子たる者には臣子たる者の用法があり、往かざるにして通ぜざるはない。
作《易》者,自天地幽明,至於昆蟲草木之微,無一而不合。
《易》を作った聖人は、上は天地の間の幽暗と光明の大化から、下は昆虫草木の類の細微な物に至るまで、卦爻の理と相契合しないものは一つもない。
陰之道,非必小人也,其害陽則小人,其助陽成物則君子也。利非不善也,其害義則不善也,其和義則非不善也。
陰の一路は必ずしも小人ではない:陰が陽を妨害すれば、それでやっと小人と算する。陰が陽を輔助して万物を成就すれば、それは君子である。「利」もまたそれ自体不善ではない:利が義を妨害すれば、それが不善である。利が義と相調和すれば、不善ではない。
《傳序》云:《易》,變易也,隨時變易以從道也。其為書也,廣大悉備,將以順性命之理,通幽明之故,盡事物之情,而示開物成務之道也。聖人之憂患後世,可謂至矣。
程頤《伊川易伝》の自序はいう:《易》とは変易であり、時勢に随って変易して道に順従するものである。この書は広博宏大で備わらざるなく、その用意は性命の理に順応し、幽冥と顕明の両界を貫通する故を知り、事物の実情を窮尽し、もって人に万物を開通し事業を成就する門路を指示することにある。聖人の後世を憂慮する深さは、極に至ったといえる。
去古雖遠,遺經尚存。然而前儒失意以傳言,後學誦言而忘昧。自秦而下,蓋無傳矣。
古代からの距離は遠久いが、先聖の遺留した経書はなお在る。しかし前代の儒者は本意を把握せずに自分の説を伝え、後の学者は文句のみを誦読して茫然としてその義を解しない。秦代以下、《易》の真伝はおそらくすでに断絶した。
予生千載之後,悼斯文之湮晦,將俾後人沿流而求源,此《傳》所以作也。 “《易》有聖人之道四焉,以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。”吉凶消長之理,進退存亡之道備於辭,推辭考卦,可以知變,象與占在其中矣。
私は千載の後に生まれ、この学問の湮没して明らかでないことを痛惜し、後人が流脈に順って本源を求められるようにしたい。これが私の《伊川易伝》を作った縁由である。《系辞伝》はいう:「《易》には聖人の道が四条ある。言を立てるに用いる者はその文辞を重んじ、行動するに用いる者はその変化を重んじ、器物を制作するに用いる者はその物象を重んじ、卜筮するに用いる者はその占断を重んじる」。吉凶消長の道理・進退存亡の門径はみな文辞の中に具備する。文辞を推尋し卦体を考察すれば、変化を知ることができ、象と占もその中に含まれる。
“君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占。”得其辭,不達其意者有矣。未有不得於辭,而能通其意者也。至微者理也,至著者象也,體用一源,顯微無間。觀會通以行其典禮,則辭無所不備。故善學者求言必自近,易於近者,非知言者也。予所傳者辭也。由辭以得其意,則在乎人焉。
《系辞伝》はいう:「君子は平居のときは卦象を観察し卦爻辞を玩味し、行動のときは爻変を観察し占断を玩味する」。文辞を読み解してもその中の意旨に通達できない者はいるが、文辞さえ読み通せずにかえってその意に通暁できる者は断じていない。最も幽微なのは理、最も顕著なのは象。しかし体と用は同一の源に出て、顕と微の間に間隔はない。事理の会合貫通するところを観察し、これに拠って典章礼法を推行すれば、卦爻辞の中に備わる道理は有らざるなし。だからよく学を為す者は文辞を解き求めるに必ず切近のところから入手し、切近のところをあまりに容易く見る者は文辞を知るに足らない。私の伝えて来たものは文辞だけである。文辞によってその本意を把握できるかどうかは、読者自身に存する。
《易》之為書,卦爻彖象之義備,而天地萬物之情見,聖人之憂天下來世其至矣。
《易》という書は、卦・爻・彖・象の各層の意義がみな斉備し、天地万物の真実の情態もこれに随って呈現する。聖人の天下と後世を憂慮する深さは、真に極に至っている。
先天下而開其物,後天下而成其務。是故極其數,以定天下之象;著其象,以定天下之吉凶。六十四卦,三百八十四爻,皆所以順性命之理,盡變化之道也。散之在理,則有萬殊;統之在道,則無二致。所以“易有太極,是生兩儀”。“太極”者道也,“兩儀”者陰陽也。陰陽一道也,“太極”無極也。
聖人は天下人に先んじて万物の理を開通し、天下人に後れて衆人の事を成就する。だから蓍策の数を推極して天下の物象を確定し、これらの物象を顕明にして天下の吉凶を判定する。六十四卦・三百八十四爻は、みな性命の理に順応し変化の道を窮尽するために用いられる。散らかして理に就いて言えば千差万別があり、統べて道に就いて言えば両样はない。だから《系辞伝》は「易に極があり、太極が両儀を生ず」という。いわゆる「太極」は即ち道、いわゆる「両儀」は即ち陰陽である。陰陽を合わせれば依然として一つの道であり、太極自体はまた無形無方の「無極」である。
萬物之生,“負陰而抱陽”,莫不有太極,莫不有兩儀,絪縕交感,變化不窮,形一受其生,神一發其智,情偽出焉,萬緒起焉,《易》所以定吉凶而生大業。故《易》者,陰陽之道也;卦者,陰陽之物也;爻者,陰陽之動也。卦雖不同,所同者奇偶。爻雖不同,所同者九六。
万物の生成は、みな《老子》のいう「陰を負いて陽を抱く」がごとく、各々一つの太極を具備し、各々陰陽両儀を具備しないものはない。二気が絪縕交感し、変化に窮尽がない。形体がいったん禀受して生じ、精神がいったん発動して智を生じれば、真情と虚偽はこれによって生じ、万般の頭緒はこれによって興る。《易》は正に吉凶を判定し大業を開くために用いられる。だからいう:《易》は陰陽の道理、卦は陰陽の形体、爻は陰陽の運動である。卦は各々相同じでないが、相同じなのは奇画と偶画である。爻は各々相同じでないが、相同じなのは九と六である(陽爻を九と称し、陰爻を六と称す)。
是以六十四卦為其體,三百八十四爻互為其用。遠在六合之外,近在一身之中。暫於瞬息,微於動靜。莫不有卦之象焉,莫不有爻之義焉。至哉《易》乎!其道至大而無不包,其用至神而無不存。時固未始有一,而卦亦未始有定象。事固未始有窮,而爻亦未始有定位。
したがって六十四卦をもって体とし、三百八十四爻の交互をもって用とする。遠くは天地四方の外に至り、近くは自己一身の中に在る。短暫は一瞬一息のごとく、細微は一動一静のごときも、各々相応する卦象が有らざるなく、各々相応する爻義が有らざるなし。偉大なりや、《易》!その道は極めて広大にして包まざるなく、その用は極めて神妙にして在らざる所なし。時局はもともと一種に固定したことがなく、卦もまた一成不変の象を有したことがない。事情はもともと窮尽がなく、爻もまた一成不変の位を有したことがない。
以一時而索卦,則拘於無變,非易也。以一事而明爻,則窒而不通,非易也。知所謂卦爻彖象之義,而不知有卦爻彖象之用,亦非易也。故得之於精神之運,心術之動,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶,然後可以謂之知《易》也。
ある一つの時局をもって卦に死に物狂いで套せば、拘泥して変通を知らず、それは《易》ではない。ある一件の具体の事をもって某一爻を講定すれば、滞塞して講じ通じず、それも《易》ではない。卦・爻・彖・象の意義を知るだけで、卦・爻・彖・象にまだ活きた用法があることを知らなければ、同様に《易》ではない。だから精神の運行・心思の萌動の間において体会し、天地と合してその徳を同じくし、日月と合してその明を同じくし、四時と合してその序を同じくし、鬼神と合してその吉凶を同じくするに至ってはじめて、《易》を知ると称するに足る。
雖然,《易》之有卦,易之已形者也。卦之有爻,卦之已見者也。已形已見者,可以言知。未形未見者,不可以名求。則所謂《易》者果何如哉?此學者所當知也。
とはいえ、《易》には卦がある。それは《易》がすでに成形した部分である。卦には爻がある。それは卦がすでに顕現した部分である。すでに成形しすでに顕現したものは、なお言語をもって認知できる。まだ成形せずまだ顕現しないものは、名相に靠って追求できない。ではいわゆる「易」とは究竟何ものか。これ正に《易》を学ぶ者が自ら体認すべきところである。
朱子曰:《漢書》“易本隱以之顯,《春秋》推見至隱”。易與《春秋》,天人之道也。
朱熹はいう:《漢書》は司馬遷の言を引き、「《易》は幽隠から顕明へ推し、《春秋》は顕明から幽隠へ推す」という。《易》と《春秋》のこの二書が講ずるのは、正に天道と人道である。
《易》以形而上者,說出在那形而下者上。《春秋》以形而下者,說上那形而上者去。
《易》は形而上の道理を、形而下の具体的事物に落実して講ずる。《春秋》は形而下の具体的史事に就いて、推し説き上げて形而上の義理を講ずる。
問:《易》有“交易”,“變易”之義如何?曰:“交易”是陽交於陰,陰交於陽,是卦圖上底,如“天地定位,山澤通氣”云云者是也。“變易”是陽變陰,陰變陽,老陽變為少陰,老陰變為少陽,此是占筮之法,如晝夜寒暑屈伸往來者是也。
或る人が問う:《易》に「交易」「変易」の二義があるが、どう理解すべきか。朱熹はいう:「交易」とは陽と陰が相交り、陰と陽が相交ることで、卦位図上の事に属する。《説卦伝》の講ずる「天地定位、山沢通気」(天地は位を定め、山沢は気を通ず)といった言がそうである。「変易」とは陽が陰に変じ、陰が陽に変じ、老陽が少陰に変わり、老陰が少陽に変わることで、占筮の揲蓍の方法に属する。昼夜の交替・寒暑の推移・一屈一伸・一往一来のようなものである。
聖人作《易》之初,蓋是仰觀俯察,見得盈乎天地之間,無非一陰一陽之理。有是理,則有是象。有是象,則其數便自在這裡。非特河圖、洛書為然,而圖書為特巧而著耳。於是聖人因之而畫卦。卦畫既立,便有吉凶在裡。
聖人が最初に《易》を作ったのは、おそらく頭を挙げて天を観、頭を低うして地を察し、天地の間に充満するものは一陰一陽の道理に外ならないことを見出したのである。この理があれば、相応する象がある。この象があれば、その中の数は自然にその中にある。「河図」「洛書」のみがこうなのではなく、ただ図書のこの両者が格別巧妙顕著なだけである。ここにおいて聖人はそれに依拠して卦を画き出した。卦画がいったん立てば、吉凶はすでにその中に含まれていた。
蓋是陰陽往來交錯於其間,其時則有消長之不同。長者便為主,消者便為客。事則有當否之或異,當者便為善,否者便為惡。即其主客、善惡之辨,而吉凶見矣。故曰“八卦定吉凶”。吉凶既決定而不差,則以之立事,而大業自此生矣。此聖人作《易》,教民占筮,而以開天下之愚,以定天下之志,以成天下之事者如此。
これは陰陽が卦の中で往来交錯し、時勢に就いて言えば消と長の差別があるからである:まさに生長する方が主となり、まさに消退する方が客となる。事情に就いて言えば得当と不得当の差異がある:得当なのが善、不得当なのが悪である。まさにこの主と客・善と悪の分辨の中において、吉凶が顕現する。だから《系辞伝》は「八卦が吉凶を判定する」という。吉凶はすでに決断されて差錯なく、これに拠って事を行えば、偉大な功業はこれによって生ずる。聖人が《易》を作り、百姓に卜筮を教えたのは、天下人の蒙昧を開発し、天下人の心志を安定し、天下人の事業を成就するためであり、その道理はこのようである。
自伏犧而下,但有此六畫,而未有文字可傳。到得文王、周公,乃繫之以辭。故曰“聖人設卦觀象繫辭焉而明吉凶”、大率天下之道,只是善惡而已,但所居之位不同,所處之時既異,而其幾甚微,只為天下之人不能曉會,所以聖人因占筮之法以曉人,使人居則觀象玩辭,動則觀變玩占,不迷於是非得失之途。
伏羲以下、この六画の卦があるのみで、まだ文字が流伝しなかった。文王・周公に至り、はじめて卦爻に文辞を繫いだ。だから《系辞伝》は「聖人は卦体を設立し、物象を観察し、文辞を繫いで、もって吉凶を闡明した」という。大体言えば、天下の道理はただ一つの善と悪だけである。ただ人の処する地位が同じでなく、遇う時勢が各々異なり、しかも善悪転關の苗头が極めて細微で、天下人が領会できないので、聖人は占筮の方法を借りて衆人を点醒した。人が平居のときに象を観て辞を玩し、行動のときに変を観て占を玩し、是非得失の歧路において方向を迷失しないようにするためである。
所以是書夏商周皆用之,其所言雖不同,其辭雖不可盡見,然皆太卜之官掌之,以為占筮之用。自伏犧而文王周公,雖自略而詳,所謂占筮之用則一。蓋即占筮之中,而所以處置是事之理,便在裡了。故其法若粗淺,而隨人賢愚皆得其用。
だからこの書は夏・商・周三代ともこれを用いた。三代の講ずるところは同じでなく、文辞もいま全く見ることはできないが、いずれも太卜の官に掌管され、占筮の用を為した。伏羲から文王・周公に至るまで、内容は簡略から詳密に変わったが、いわゆる占筮に供するという点は一致していた。まさに占筮の中において、この事を処置する拠り所とする道理がすでにその中に含まれていたからである。だからこの一套の办法は粗浅に見えても、人が賢明であろうと愚鈍であろうと各々その用を得ることができた。
雖是有定象,有定辭,皆是虛說此個地頭,合是如此處置,初不黏著物上。故一卦一爻,足以包無窮之事,此所以見《易》之為用,無所不該,無所不遍,但看人如何用之耳。易如鏡相似,看甚物來。
卦に定象があり爻に定辞があるとはいえ、それらはみな虚に一つの地步を設け、こういう境地に処すればこう処置すべきだと説明するだけで、もともと某一件の具体の事物に粘着しない。だから一卦一爻は、窮尽なき事情を涵蓋するに足りる。これで見れば《易》の功用は賅らざるなく遍らざるなく、ただ人がどのようにそれを用いるかを見るだけである。《易》はちょうど一面の鏡のようなもので、どんな物が照らし来ても——
都能照得。如所謂“潛龍”,只是有個“潛龍”之象,自天子至於庶人,看甚人來都使得。孔子說作龍德而隱,便是就事上指殺說來。然會看底,雖孔子說也活,也無不通。
どんな物でも照らし出せる。たとえばいわゆる「潜龍」は、ただ一つの「潜龍」の象を立てたにすぎず、上は天子から下は平民まで、どんな人が用いても用いられる。孔子が《文言》でそれを「龍の徳性を有して隠居して出ない」と講じたのは、具体的人事に落として固定したものである。ただし読み解ける人は、孔子のような言い方を読んでもなお生きており、処々に講じ通る。
不會看底,雖文王周公說底也死了。須知得他是假託說,是包含說。假託,謂不惹著那事。包含,是說個影像在這裡,無所不包。
読み解けない人は、文王・周公の繫いだ辞であっても、彼の手にかかれば死句となる。卦爻辞は「仮托」して言い、「包含」して言うものだと知らなければならない。いわゆる仮托とは、それが某一件の具体の事を指定しないこと。いわゆる包含とは、ただ一つの大致の影像をここに摆出するので、したがって包まざるがないことである。
易之有象,其取之有所從,其推之有所用,非苟為寓言也。然兩漢諸儒,必欲究其所從,則既滯泥而不通。王弼以來,直欲推其所用,則又疏略而無據。二者皆失之一偏,而不能闕其所疑之過也。
《易》の中に象がある。その取象には各々来歴があり、その推衍には各々用处があり、でたらめに寓言を設けて済ますものではない。しかし両漢の儒者はひたすら各象の来歴を追究しようとして、結果拘泥して講じ通じなかった。王弼以来の人はまたひたすら象の用处を推求しようとして、結果疏略で根拠がなかった。この二種の做法はともに偏頗に失し、ともに疑わしいところをしばらく空しようとしない病を犯した。
且以一端論之,乾之為馬,坤之為牛,《說卦》有明文矣。馬之為健,牛之為順,在物有常理矣。至於案文責卦,若《屯》之有馬而無乾,《離》之有牛而無坤,《乾》之六龍,則或疑於震,坤之“牝馬”,則當反為乾,是皆有不可曉者。
しばらく一端を挙げて言おう。《乾》は馬を象と取り、《坤》は牛を象と取る。《説卦伝》に明文がある。馬の性は剛健、牛の性は柔順で、物性の上でも常理である。しかしいったん経文に照らして卦象を追究すれば、《屯》卦辞に馬があるのに卦体中に《乾》がなく、《離》卦辞に牛があるのに卦体中に《坤》がないことに気づく。《乾》卦は「六龍」を講じ、龍はまた《震》の象のようであり、《坤》卦は「牝馬」を講じ、馬は乾に属する按ずればまた反って《乾》と算すべきである。これらはみな講じ明らめられないところがある。
是以漢儒求之《說卦》而不得,則遂相與創為互體、變卦、五行、納甲、飛伏之法。參互以求,而幸其偶合。其說雖詳,然其不可通者,終不可通。其可通者,又皆傅會穿鑿,而非有自然之勢。唯其一二之適然而無待於巧說者,為若可信,然上無所關於義理之本原,下無所資於人事之訓戒,則又何必苦心極力以求於此,而欲必得之哉!
ゆえに漢代の儒者は《説卦伝》の中に根拠を見出せず、共同で「互体」「変卦」「五行」「納甲」「飛伏」といった方法を創出し、交錯参配して推求し、偶然の凑合を指望した。これらの説は細密だが、講じ通じないものは結局講じ通じない。たとえ講じ通じるものも、みな牽強附会・生硬穿鑿であって、自然にして然るべき勢理がない。ただその中の一二箇所がたまたま吻合し、巧弁に頼らずとも説き通せるものは、見れば信ずべきようだが、上は義理の本原と毫も関連せず、下は人事への訓誡に少しも助けがない。それならば何のために苦心気力を費やして追求し、求め得ずにはいられない必要があろうか。
故王弼曰:義苟應健,何必乾乃為馬;爻苟合順,何必坤乃為牛?而程子亦曰:理無形也,故假象以顯義。此其所以破先儒膠固支離之失,而開後學玩辭玩占之方,則至矣。然觀其意,又似直以《易》之取象,無復有所自來,但如《詩》之比興,孟子之譬喻而已。如此則是《說卦》之作,為無所與於易。而“近取諸身遠取諸物”者,亦剩語矣。
だから王弼はいう:卦義がただ剛健に応ずれば、何も必ず《乾》でなければ馬を象に取れないわけではない。爻義がただ柔順に合すれば、何も必ず《坤》でなければ牛を象に取れないわけではない。程頤もまたいう:理には形体がないので、卦象を借りて義理を顕明にする。この両氏が前代学者の膠柱支離の病を打破し、後学に辞を玩し占を玩する門径を開いたことは、極めて功があったといえる。ただし彼らの意を体会すれば、また《易》の取象にはもともと来歴がなく、《詩経》の比・興や《孟子》の譬喩のようなものにすぎないと干脆と認めているようでもある。このように講ずれば、《説卦伝》の写作は《易》と毫も相干らず、《系辞伝》のいう「近くは人身に象を取り、遠くは万物に象を取る」も余分な言葉となる。
故疑其說亦若有未盡者,因竊論之,以為《易》之取象,固必有所自來,而其為說,必已具於太卜之官,顧今不可復考,則姑闕之。而直據辭中之象,以求象中之意,使足以為訓戒,而
だから私は彼らの説法にもまだ尽きないところがあると疑い、ここに私に議論する:《易》の取象には必ずその来歴があり、これらの取象を講解する条例も当初必ず太卜の官の手に完備して握られていたのであろう。ただ今はもう査考する由がない。ならばしばらく空しておく。目下はただ卦爻辞中の現成の象に依拠して、象の中に含まれる意旨を尋ね求め、それをもって訓誡に充当するに足るようにする——ここで底本に脱文がある。
《易》之象似有三樣:有本畫自有之象,如奇畫象陽、偶畫象陰是也;有實取諾物之象,如乾坤六子,以天地雷風之類象之是也;有只是聖人自取象來明是義者,如“白馬翰如”、“載鬼一車”之類是也。
《易》の象は三類あるようだ。一は卦画それ自体が帯びる象。奇画は陽を象徴し、偶画は陰を象徴する類。二は確かに具体的事物から取った象。《乾》《坤》と震・巽・坎・離・艮・兌の「六子」が、それぞれ天・地・雷・風の類をもって取象する類。三は聖人が臨時に自ら一つの物象を取りてある意を闡明するもの。《賁》卦の「白馬翰如」、《睽》卦の「載鬼一車」の類である。
易有象辭,有占辭,有象占相渾之辭。
《易》の文辞は三種に分けられる:物象を専ら講ずる「象辞」、吉凶を専ら断ずる「占辞」、そして象と占が混合した辞がある。
問:王弼說初上無陰陽定位,如何?曰:伊川說陰陽奇偶,豈容無也?《乾》上九“貴而五位”。《需》上六不當位,乃爵位之位,非陰陽之位,此說最好。
或る人が問う:王弼は初爻・上爻に固定の陰陽の位がないと言うが、この言はどうか。朱熹はいう:程頤は爻位に奇偶があると講じた。どうして陰陽がなかろう。《乾》卦上九の「貴而无位」(底本の「五位」は「无位」の誤り)、《需》卦上六の「不当位」——あそこで言う「位」は爵禄職位を指し、陰陽の位ではない。程頤のこの説が最もよい。
