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説卦伝・第七章 八卦の性情

清 · 李光地 · 第80巻 / 87

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

上經始於《乾》、《坤》,有生之本也;下經始於《咸》、《恆》,人道之首也。《易》之興也,當殷之末世,有妲己之禍,當周之盛德,有三母之功,以言天不地不生,夫不婦不成,相須之至,王教之端,故《詩》以關睢為國風之始,而《易》於《咸》、《恆》,備論禮義所由生也。《朱子語類》:問:“禮義有所錯”,“錯”字陸氏兩音,如何?曰:只是作“措”字,謂禮義有所設施耳。

上経は《乾》《坤》より始まり、あれは万物生成の根本である。下経は《咸》《恒》より始まり、あれは人倫の道の開端である。《周易》が興起したとき、まさに殷商の末世に当たり、妲己の招来した禍乱あり。まさに周朝の徳業隆盛に当たり、太姜・太任・太姒の三位の賢母の功労あり。これはすなわち、天は地なくんば万物を生出し得ず、丈夫は妻なくんば家室を成し得ず、両者が相互に依待して極処に至るをいい、これもまた王者教化の起点である。ゆえに《詩経》は《関雎》を《国風》の首に置き、《周易》は《咸》《恒》の両卦のうちにて礼義がなんにより生ずるかを詳論す。集説にまた《朱子語類》を引く:ある人が問うた、「礼義有所錯」の「錯」の字に、陸徳明は二つの読音を注したが、どう読むべきか。朱熹は答えた:ただ「措」の字として用いよ。礼義に安放施行する処あるをいうのみ。

吳氏澄曰:此言《咸》所以為下經之首也,夫婦謂《咸》卦,先言天地萬物男女者,有夫婦之所由也,後言父子君臣上下者,有夫婦之所致也,有夫婦,則其所生為父子,由家而國,雖非父子也,而君尊臣卑之分,如父子也,由國而天下,雖非君臣,而上貴下賤之分,如君臣也,禮義所以分別尊卑貴賤之等。錯,猶置也。《乾》、《坤》、《咸》不出卦名者,以其為上下經之首卦,特別言之。

集説に呉澄の言を引く:この一段は《咸》卦がなぜ下経の首に排せられたかを講ずる。いわゆる「夫婦」とは、《咸》卦を指す。先に天地、万物、男女を言うは、夫婦がなんより来たるかを交代し、後に父子、君臣、上下を言うは、夫婦あってまたなにを引き出すかを交代す。夫婦あれば、彼らの生む所はすなわち父子。一家より一国に推せば、君臣は父子に非ざるといえども、君尊臣卑の名分は父子のごとし。一国より天下に推せば、君臣に非ざるといえども、上貴下賤の名分は君臣のごとし。礼義はまさに尊卑貴賤の等級を分別するに用いる。「錯」の字は、「安置」の置と意近し。《乾》《坤》《咸》の三卦が卦名を標出せざるは、それらが上下経の首卦なるがゆえに、ことさら説法を換えて講ずる。

物不可以久居其所,故受之以《遯》。遯者,退也。物不可以終遯,故受之以《大壯》。物不可以終壯,故受之以《晉》。晉者,進也。進必有所傷,故受之以《明夷》。夷者,傷也。傷於外者必反其家,故受之以《家人》。集說 郭氏忠孝曰:“傷乎外者必反其家”,蓋行有不得於人,則反求諸己。

《序卦伝》の正文にいう:事物は長久に一つの地方に停まる能わず。ゆえに後に受くるは《遯》卦。遯はすなわち退避である。事物はつねに退避し続ける能わず。ゆえに後に受くるは《大壮》卦。事物はつねに強壮し続ける能わず。ゆえに後に受くるは《晋》卦。晋はすなわち前進である。前進すれば必ず損傷を受く。ゆえに後に受くるは《明夷》卦。夷はすなわち損傷である。外にて傷を受けたるは必ず自己家に帰る。ゆえに後に受くるは《家人》卦。集説に郭忠孝の言を引く:いわゆる「傷乎外者必反其家」とは、行事が他人の処にて回応を得ざれば、反りて自己身上にて縁由を尋ねるをいう。

閻氏彥升曰:知進而已,不知消息盈虛,與時偕行,則傷之者至矣,故受之以《明夷》,以利合者,迫窮禍患害相棄也,以天屬者,迫窮禍患害相收也,《明夷》之傷,豈得不反於家人乎。何氏楷曰:《晉》與《漸》皆進,進必有歸者,先以艮,進必有傷者,先以壯也。

集説に閻彦升の言を引く:ただ一味の前進を知りて、消長盈虚が時勢に随って行うを解せざれば、損傷が来る。ゆえに後に受くるは《明夷》卦。利害を憑って結合する人は、一たび困窮禍患に遇えば互相に拋棄す。天性骨肉を憑って相連なる人は、一たび困窮禍患に遇えばかえって互相に収容す。《明夷》の受くる損傷は、なんぞ家人の身辺に帰らざるを得んや。集説にまた何楷の言を引く:《晋》と《漸》とはみな前進を講ず。なぜ《漸》は進めば必ず帰する所有りといい、《晋》は進めば必ず傷する所有りというか。《漸》の前が艮の止なるがゆえに、《晋》の前は《大壮》の強壮なればなり。

家道窮必乖,故受之以《睽》。睽者,乖也。乖必有難,故受之以《蹇》。蹇者,難也。物不可以終難,故受之以《解》。解者,緩也。集說 周子曰:家人離必起於婦人,故《睽》次《家人》,以二女同居而志不同行也。

《序卦伝》の正文にいう:家道が尽頭に走り至れば必ず乖離す。ゆえに後に受くるは《睽》卦。睽はすなわち乖違である。乖違すれば必ず患難を生出す。ゆえに後に受くるは《蹇》卦。蹇はすなわち艱難である。事物はつねに艱難し続ける能わず。ゆえに後に受くるは《解》卦。解はすなわち舒緩である。集説に周敦頤の言を引く:一家人の離散は、必ず婦人の身上より起因す。ゆえに《睽》は《家人》の後に緊接す。《睽》卦はまさに二個の女子が一屋に同住して心志が各々一方に奔る。

項氏安世曰:凡言《屯》者,皆以為難,而《蹇》又稱難者,卦皆有《坎》也,然《屯》“動乎險中”,行乎患難者也,《蹇》見險而止,但為所阻難,而不得前耳,非患難之難也,故居《屯》者,必以經綸濟之,遇《蹇》者,待其解緩而後前。

集説に項安世の言を引く:およそ《屯》に講ずるに至りては、みなそれを難と当作す。而して《蹇》もまた難と称す。これは両卦がみな《坎》を含むがゆえに。ただし《屯》は「動乎険中」で、人はまさに患難の裏面を走る。《蹇》は険阻を見て停下す。ただ挡住せられて過ぎ得ざるのみで、患難のあの難ではない。ゆえに《屯》に身を処する人は、必ず経営籌画を憑って渡過せねばならず。《蹇》に碰上する人は、険阻の緩解するを待って再び前に往くを要す。

緩必有所失,故受之以《損》。損而不已必益,故受之以《益》。益而不已必決,故受之以《夬》。夬者,決也。決必有所遇,故受之以《姤》。姤者,遇也。集說 朱氏震曰:益久必盈,盈則必決,堤防是已,故次之以《夬》。胡氏一桂曰:《咸》、《恆》十變為《損》、《益》,亦猶《乾》、《坤》十變為《否》、《泰》也。

《序卦伝》の正文にいう:松緩し下れば必ず損失する所有る。ゆえに後に受くるは《損》卦。減損が停まらざれば必ず轉じて增益と為る。ゆえに後に受くるは《益》卦。增益が停まらざれば必ず潰決せんと要す。ゆえに後に受くるは《夬》卦。夬はすなわち決断潰決である。潰決の後は必ず遭遇する所有る。ゆえに後に受くるは《姤》卦。姤はすなわち不期而遇である。集説に朱震の言を引く:增益久しければ必ず満溢し、満溢すれば必ず潰決す。堤壩はまさにこのようである。ゆえに《夬》は《益》の後に接ぐ。集説にまた胡一桂の言を引く:《咸》《恒》が十次の変換を経て《損》《益》と為るは、《乾》《坤》が十次の変換を経て《否》《泰》と為るに譬えるがごとし。

俞氏琰曰:損益盛衰,若循環然,損而不已,天道復還,故必益,益而不已,則所積滿盈,故必決,此乃理之常也。《損》之後繼以《益》,深谷為陵之意也,《益》之後繼以《夬》,高岸為谷之意也。

集説に俞琰の言を引く:減損と增益、興盛と衰敗は、圏を轉ずるがごとし。減損が停まらざれば、天道は自ら回還す。ゆえに必ず轉じて增益と為る。增益が停まらざれば、積む所は満溢す。ゆえに必ず潰決す。これはもとより常理である。《損》の後に《益》を接ぐは、《詩経》のいう深谷が変じて丘陵と為るの意を取る。《益》の後に《夬》を接ぐは、高岸が塌陷して深谷と為るの意を取る。

物相遇而後聚,故受之以《萃》。萃者,聚也。聚而上者謂之升,故受之以《升》,升而不已必困,故受之以《困》。困乎上者必反下,故受之以《井》。集說 崔氏憬曰:冥升在上則窮,故言“升而不已必困”也。張氏栻曰:天下之物,散之則小,合而聚之,則積小以成其高大,故“聚而上者”為“升”也。

《序卦伝》の正文にいう:事物が彼此相遇してしかるのちに聚集す。ゆえに後に受くるは《萃》卦。萃はすなわち聚集である。聚攏してまた上に往くを升と呼ぶ。ゆえに後に受くるは《升》卦。上昇が停まらざれば必ず困頓す。ゆえに後に受くるは《困》卦。上にて困頓に陥るは必ず退回して下に至る。ゆえに後に受くるは《井》卦。集説に崔憬の言を引く:《升》卦の上六に「冥升」という。昏昏として頂点に升れば走投無路となる。ゆえに「升而不已必困」という。集説にまた張栻の言を引く:天下の事物は、散じて開けば小を顕す。合攏聚集すれば、少を積みて多を成して高大と為り得る。ゆえに「聚而上者」を便ち「升」と呼ぶ。

項氏安世曰:物相遇而聚者,彼此之情交相會也,以眾言之也,比而有所畜者,繫而止之也,自我言之也,畜有止而聚之義,聚者不必止也。井道不可不革,故受之以《革》。集說 朱氏震曰:井在下者也,井久則穢濁不食,治井之道,革去其古井者而已。

集説に項安世の言を引く:事物が相遇して一処に聚まるは、彼此の情意が交わりて会合する、これは衆人の一面に就いて講ず。親附して蓄積する所有るは、それを系住して留める、これは自己の一面に就いて講ず。「畜」は止めて併せて聚めるの意を含み、「聚」は必ずしも止むを要せず。《序卦伝》の正文にいう:井の道理は変革を加えざるべからず。ゆえに後に受くるは《革》卦。集説に朱震の言を引く:井は下に処するもので、用いること久しければ污濁して再び飲む能わず。井を整治するの法は、あの旧井を革除して翻新するに過ぎず。

革物者莫若鼎,故受之以《鼎》。主器者莫若長子,故受之以《震》。震者,動也。物不可以終動,止之,敵受之以《艮》。艮者,止也。物不可以終止,故受之以《漸》。漸者,進也。進必有所歸,故受之以《歸妹》。得其所歸者必大,故受之以《豐》。豐者,大也。集說 閻氏彥升曰:晉者進也,進必有所傷,漸者進也,進必有歸,何也?曰:晉所謂進者,有進而已,此進必有傷也,漸之所謂進者,漸進而已,烏有不得所歸者乎。

《序卦伝》の正文にいう:物の質性を変革し得るに鼎より甚だしきはなし。ゆえに後に受くるは《鼎》卦。宗廟の祭器を主持するに長子より合適なるはなし。ゆえに後に受くるは《震》卦。震はすなわち動である。事物はつねに動き続ける能わず、総じてそれを止むを要す。ゆえに後に受くるは《艮》卦(底本は「故」を「敵」と誤る)。艮はすなわち止である。事物はつねに止まり続ける能わず。ゆえに後に受くるは《漸》卦。漸はすなわち漸進である。前進すれば必ず帰宿する所有る。ゆえに後に受くるは《帰妹》卦。帰宿を得るは必ず盛大す。ゆえに後に受くるは《豊》卦。豊はすなわち大である。集説に閻彦升の言を引く:《晋》は進と訓すれども、進めば必ず傷する所有りという。《漸》もまた進と訓すれども、進めば必ず帰する所有りという。これはなぜか。回答は:《晋》のいう進は、ただ一味に前に衝くのみ。このようの進は難なく傷を受くるを免れず。《漸》のいう進は、次序に循いて慢慢と前進す。なんぞ帰宿を得ざるあらんや。

朱氏震曰:前曰“與人同者物必歸焉,故受之以《大有》 ”,此曰“得其所歸者必大”,《大有》次《同人》者,處大之道也,《豐》次《歸妹》者,致大之道也。窮大者必失其居,故受之以《旅》。旅而無所容,故受之以《巽》。巽者,入也。

集説に朱震の言を引く:前に「與人同者物必歸焉、故受之以大有」といい、ここに「得其所歸者必大」という。《大有》が《同人》の後に排せられるは、盛大の時に身を処してどう自処すべきかを講じ、《豊》が《帰妹》の後に排せられるは、いかに事業を盛大に推し至るかを講ずる。《序卦伝》の正文にいう:盛大を窮極に推すは必ずその安身の処を失う。ゆえに後に受くるは《旅》卦。羇旅して外に在りて容身する処なし。ゆえに後に受くるは《巽》卦。巽はすなわち入である。

集說 郭氏雍曰:動極而止,止極復進,進極必傷,進以漸則有歸,歸得其所則大,窮其大則必失,蓋非有大以謙故也。張氏械曰:旅者“親寡”之時,“無所容”也,唯巽然後得所入,故受之以《巽》,而巽者入也。俞氏琰曰;大而能謙則豫,大而至於窮極,則必失其所安,故《豐》後繼以《旅》。

集説に郭雍の言を引く:動き極処に至れば止み、止み極処に至ればまた前進する。一味猛進して極処に至れば必ず傷を受く。もし循序漸進すれば帰宿あり、帰りてその所を得れば盛大となる。盛大を窮極に推せば便ち必ず失う。これはみな富みてまた謙退することを致さざるがゆえに。集説にまた張栻の言を引く:《旅》はまさに「親寡」のときで、どこに行っても容身する処なし。ただ柔順謙遜にして、しかるのちに進むべき処あり。ゆえに後に受くるは《巽》、而して巽はすなわち入である。集説にまた俞琰の言を引く:盛大にして能く謙退すれば安楽し、盛大が窮極に至れば、必ず安身の所を失う。ゆえに《豊》の後に接ぐは《旅》。

入而後說之,故受之以《兌》。兌者,說也。說而後散之,故受之以《渙》。渙者,離也。集說 張氏栻曰:入於道故有見而說,故巽,而受之以《兌》。唯說於道,故推而及人,說而後散,故受之以《渙》。項氏安世曰:人之情,相拒則怒,相人則說,故人而後說之。

《序卦伝》の正文にいう:入り得てしかるのちに喜悅す。ゆえに後に受くるは《兌》卦。兌はすなわち喜悅である。喜悅の後はそれを散布し出さんとす。ゆえに後に受くるは《渙》卦。渙はすなわち離散である。集説に張栻の言を引く:道に入り入ったゆえに領会する所有りて喜悅す。これにより《巽》の後に《兌》を接ぐ。まさに道において喜悅する所有るゆえに、推し広げて傍人に及ぼす。喜悅の後に随いて散布す。ゆえに後に受くるは《渙》。集説にまた項安世の言を引く:人の性情は、彼此抵触すれば発怒し、彼此接納すれば喜悅す。ゆえに「入而后説之」という。

物不可以終離,故受之以《節》。節而信之,故受之以《中孚》。有其信者必行之,故受之以《小過》。集說 韓氏伯曰:孚,信也。既已有節,則宜信以守之,守其信者,則失貞而不諒之道,而以信為過,故曰《小過》也。

《序卦伝》の正文にいう:事物はつねに離散し続ける能わず。ゆえに後に受くるは《節》卦。節制あって誠信を以てそれを守る。ゆえに後に受くるは《中孚》卦。己の誠信を抱定すれば必ずそれを実行に付す。ゆえに後に受くるは《小過》卦。集説に韓康伯の言を引く:孚はすなわち信である。すでに節度あれば、誠信を以てそれを守るべし。しかるに一味に信約を死守すれば、便ち「貞而不諒」のあの通達の道理を失い、守信を弄して頭を過ぐ。ゆえに《小過》と呼ぶ。

項氏安世曰:有其信,猶《書》所謂有其善,言以此自負而居有之也,自恃其信者,其行必果而過於中。吳氏澄曰:過者行動而踰越之也,故《大過》云動,《小過》云行,凡行動未至其所為未及,既至其所為至,既至而又動又行,則為踰越其所至之地而過也。

集説に項安世の言を引く:「有其信」のこの説法は、《尚書》の講ずる「有其善」のごとく、これ一点を以て自負し、それを自己の私有と當成するをいう。信あるを自恃する人は、行事必ず果決にして中道を超出す。集説にまた呉澄の言を引く:いわゆる過とは、行動して界限を越過する。ゆえに《大過》は「動」といい、《小過》は「行」という。およそ行動してまだあの地方に走到せざるを「未及」と呼び、すでに走到したを「至」と呼ぶ。すでに走到してなお再び動き再び走るは、すなわち該到の処を越出して「過」と為る。

蔡氏清曰:節而信之,必立為節制於此,上之人當信而守之,下之人當信而行之,故受之以《中孚》。有其信者必行之,若果於自信,則於事不加詳審,而在所必行矣,能免於過乎。有過物者必濟,故受之以《既濟》。物不可窮也,故受之以《未濟》。終焉。集說 韓氏伯曰:行過乎恭,用過乎儉,可以矯世勵俗,有所濟也。

集説に蔡清の言を引く:いわゆる「節而信之」とは、すでにここに節制を立下したれば、上位に在る人は誠信を以てそれを守り、下位に在る人は誠信を以て照辦すべし。ゆえに後に受くるは《中孚》。いわゆる「有其信者必行之」とは、もし一味果決に自信すれば、事を辧るに再び詳しく審察せず、およそ想到する所はなさざるべからずとす。これにてなんぞ頭を過ぐるを免れんや。《序卦伝》の正文にいう:行事に常人を超過する処あるは必ず事を成し得る。ゆえに後に受くるは《既済》卦。事物は窮尽して頭に至る能わず。ゆえに最後に《未済》卦を接ぎ、全伝はここにて終わる。集説に韓康伯の言を引く:居喪して行事に恭敬をやや過し、用度に節儉をやや過すは、世風を矯正し風俗を激励し得て、亦た成済する所有りと算う。

項氏安世曰:《大過》則踰越常理,故必至於陷。《小過》或可濟事,故有濟而無陷也。坎離之交,謂之《既濟》,此生生不窮之所從出也,而聖人猶以為有窮也,又分之以為《未濟》,此即咸感之後,繼之以恆久之義也。蓋情之交者,不可以久而無弊,故 總論 王氏通中說贊《易》至《序卦》曰:大哉時之相生也,達者可與幾矣,至《雜卦》曰:旁行而不流,守者可與存義矣。

集説に項安世の言を引く:《大過》は常理を越過するゆえに、必ず陥溺に落ち至る。《小過》はなおいくばくかの事を辧成し得るゆえに、ただ成済ありて陥溺なし。坎と離と相交わるを《既済》と呼ぶ。これは生生して窮まらざるの源頭である。しかれども聖人はなおそれに窮尽の一天あると認め、また坎離を分けて《未済》と立つ。これはちょうど《咸》が交感を講じた後に接いで《恒》を用いて長久を講ずる道理のごとし。情意を憑って交感結合するは、日子一たび久しければ弊病なかるべからず。ゆえに……(底本はここに脱文あり。)総論に王通の《中説》を引き、《周易》を讃えて《序卦伝》に講ずるときに曰く:時勢が相生相续するは、真に偉大なり。通達の人は彼と幾微を談論し得る。《雑卦伝》に講ずるときに曰く:変化して旁通して放蕩失守せず。能く持守する人は彼と存養義理を談論し得る。

邵子曰:《乾》、《坤》天地之本,《坎》、《離》天地之用,是以《易》始於《乾》、《坤》,中於《坎》、《離》,終於既《未濟》,而《泰》、《否》為上經之中,《咸》、《恆》為下經之首,皆言乎其用也。又曰:《乾》、《坤》、《坎》、《離》為上篇之用,《兌》、《艮》、《震》、《巽》為下篇之用也,《頤》、《中孚》、《大過》、《小過》為二篇之正也。

総論にまた邵雍の言を引く:《乾》《坤》は天地の本体で、《坎》《離》は天地の功用である。ゆえに《周易》は《乾》《坤》を以て開頭とし、《坎》《離》を以て居中とし、《既済》《未済》を以て収尾とす。而して《泰》《否》は上経の中段に位居し、《咸》《恒》は下経の開頭に位居し、講ずるはみな天地の功用である。邵雍がまたいう:《乾》《坤》《坎》《離》は上篇の功用の在所で、《兌》《艮》《震》《巽》は下篇の功用の在所で、《頤》《中孚》《大過》《小過》はすなわち両篇のうちの翻轉して変わらざる正対の卦である。

又曰:自《乾》、《坤》至《坎》、《離》,以天道也,自《咸》、《恆》至《既濟》、《未濟》,以人事也。程子上下篇又曰:《乾》、《坤》天地之道,陰陽之本,故為上篇之首。《坎》、《離》陰陽之成質,故為上篇之終。《咸》、《恆》夫婦之道,生育之本,故為下篇之首。

邵雍がまたいう:《乾》《坤》より《坎》《離》に至るは、天道を講ず。《咸》《恒》より《既済》《未済》に至るは、人事を講ず。総論にまた程頤の上下篇を論ずるを引く:《乾》《坤》は天地の大道、陰陽の根本ゆえに上篇の開頭に列す。《坎》《離》は陰陽交合して成る形質ゆえに上篇の収尾に列す。《咸》《恒》は夫妻の道、生育の根本ゆえに下篇の開頭に列す。

《未濟》坎離之合,《既濟》坎離之交,合而交則生物,陰陽之成功也,故為下篇之終。二篇之卦既分,而後推其義以為之次,《序卦》是也。卦之分則以陰陽,陽盛去居上,陰盛者居下。所謂盛者,或以卦,或以爻,卦與爻取義有不同,如《剝》以卦言,則陰長陽剝也。以爻言,則陽極於上,又一陽為眾陰主也。如《大壯》以卦言,則陽長而壯,以爻言則陰盛於上,用各於其所,不相害也。

これは程頤の《上下篇義》が上下経の分篇を論ずる一段である。《未済》は坎離両卦の会合で、《既済》は坎離両卦の交通である。すでに会合しまた交通すれば、万物便ちここにより生成す。これがまさに陰陽功用の完成である。ゆえにこの両卦を下篇の最末に排す。上下両篇の卦がすでに分定して、しかるのちに再びそのうちの義理を推求して先後次第を安排す。これがすなわち《序卦伝》の為す所の事である。分篇の標準は陰陽に在り。陽気の旺盛なる卦は上篇に帰入し、陰気の旺盛なる卦は下篇に帰入す。いうところの「盛」とは、あるときは整卦の卦体に就いて看、あるときは某一爻に就いて看、卦と爻の両種の取義は並びて相同じからず。たとえば《剥》卦、卦体より言えば、陰気が増長して陽気を剥落す。爻位より言えば、すなわちあの一画の陽爻が最上に高踞し、また五陰が共に奉ずる一陽の主である。またたとえば《大壮》卦、卦体より言えば、陽気が増長して強壮す。爻位より言えば、すなわち陰爻が上位にて旺盛である。両種の取義は各々その適合する所に用い、彼此並びて妨げず。

乾父也,莫亢焉,坤母也,非乾無與為敵也,故卦有《乾》者居上篇,有《坤》者居下篇。而《復》陽生,《臨》陽長,《觀》陽盛,《剝》陽極,則雖有《坤》而居上,《姤》陰生,《遯》陰長,《大壯》陰盛,《遯》陰極,則雖有《乾》而居下,其餘有乾者皆在上篇,《泰》、《否》、《需》、《訟》、《小畜》、《履》、《同人》、《大有》、《無妄》、《大畜》也。

乾は父で、それより高亢なるはなし。坤は母で、乾を除いてそれと相匹敵し得るはなし。ゆえにおよそ卦体のうちに乾を含むは上篇に編入し、坤を含むは下篇に編入す。ただし《復》は一陽の初生、《臨》は陽気の漸長、《観》は陽気の已盛、《剥》は陽気の窮極。この四卦は坤体を帯ぶるといえども、なお上篇に列す。《姤》は一陰の初生、《遯》は陰気の漸長、《大壮》は陰気の上位に盛ん、《夬》は陰気の窮極(底本はここに誤って《遯》の字を重出す)。この四卦は乾体を帯ぶるといえども、なお下篇に列す。これらを除くのほか、およそ乾体を帯ぶるはみな上篇に在り。すなわち《泰》《否》《需》《訟》《小畜》《履》《同人》《大有》《无妄》《大畜》のこの十卦である。

有坤而在上篇,皆一陽之卦也,卦五陰而一陽,則一陽為之主,故一陽之卦皆在上篇,《師》、《謙》、《豫》、《比》、《復》、《剝》也,其餘有坤者,皆在下篇,《晉》、《明夷》、《萃》、《升》也。卦一陰五陽者,皆有乾也,又陽眾而盛也,雖眾陽說於一陰,說之而已,非如一陽為眾陰主也。王弼云,一陰為之主,非也,故一陰之卦,皆在上篇,《小畜》、《履》、《同人》、《大有》也。

坤体を帯びてなお上篇に列するは、みな「一陽之卦」である。一卦のうち五爻が陰にしてただ一爻が陽なるとき、あの一画の陽爻は便ち全卦の主宰と為る。ゆえに一陽の卦はみな上篇に編む。すなわち《師》《謙》《豫》《比》《復》《剥》の六卦。其余の坤体を帯ぶるはみな下篇に編む。すなわち《晋》《明夷》《萃》《升》の四卦。一陰五陽の卦に至っては、みな乾体を帯び、しかも陽爻衆多にして気勢旺盛である。衆陽がみなあの一画の陰爻を喜悅すというも、ただそれを喜悅するに過ぎず、一陽の卦のごとく一陽によりて衆陰の主宰を為すには似ず。王弼はこの類の卦は「一陰為之主」という。この講法は正しからず。ゆえに一陰の卦もまたみな上篇に編む。すなわち《小畜》《履》《同人》《大有》の四卦。

卦二陽者,有坤則居下篇,《小過》雖無坤,陰過之卦也,亦在下篇,其餘二陽之卦,皆一陽生於下而達於上,又二體皆陽,陽之盛也,皆在上篇,《屯》、《蒙》、《頤》、《習坎》也。

卦のうちにただ両画の陽爻あるは、もし坤体を帯ぶれば下篇に帰入す。《小過》は坤体を含まざるといえども、陰気過盛の卦で、また下篇に帰入す。其余の二陽の卦は、みなあの一画の陽爻が下体に生じて能く上体に通達し、しかも上下の両三画卦がみな陽卦に属す。これは陽気の旺盛である。ゆえにみな上篇に編む。すなわち《屯》《蒙》《頤》《習坎》の四卦。

陽生於下,謂震坎在下,震生於下也,坎始於中也,達於上,謂一陽至上,或得正位,生於下而上達,陽暢之盛也,陽生於下而不達於上,又陰眾而陽寡復失正位,陽之弱也,《震》也《解》也,上有陽而下無陽,無本也,《艮》也,《蹇》也,《震》、《坎》、《艮》以卦言,則陽也,以爻言,則皆始變微也,而震之上艮之下無陽,坎則陽陷,皆非盛也,唯習坎則陽上達矣,故為盛。

いわゆる「陽生于下」とは、震卦・坎卦が下体に居るを指す。震の一陽は最下の一画に生じ、坎の一陽は中間の一画より起こる。いわゆる「達于上」とは、あの一画の陽爻が上体に上行し得る、あるいは当位の正位を取得するを指す。下体に生じて能く上に通達するは、これは陽気の暢達の盛象である。これに反して、陽気が下体に生じて上体に通ぜず、また陰爻衆多、陽爻稀少にしてしかも正位を失うに碰上すれば、それは陽気の衰弱である。《震》卦、《解》卦はまさにこのようである。上体に陽ありて下体に陽なきは、根本なきに等し。《艮》卦、《蹇》卦はまさにこのようである。震・坎・艮の三卦は卦体に就いて言えばみな陽に属すれども、爻位に就いて言えばみな剛に起変して勢頭微弱である。而して震卦の上体、艮卦の下体はいずれも陽爻なく、坎卦の陽爻はまた両陰のあいだに陥る。みな旺盛と算し得ず。ただ《習坎》の一卦のみ陽気が上達し得るゆえに、はじめて盛と算す。

卦二陰者,有乾則陽盛可知,《需》、《訟》、《大畜》、《無妄》也,無乾而為盛者,《大過》也,《離》也,《大過》陽盛於中,上下之陰弱矣。陽居上下,則綱紀於陰,《頤》是也。

卦のうちにただ両画の陰爻あるは、もし乾体を帯ぶれば、陽気の盛んなる自ずから知り得べし。すなわち《需》《訟》《大畜》《无妄》の四卦。乾体を帯びずしてなお旺盛と算するは、《大過》と《離》である。《大過》は四陽が中間に聚集して、上下の両画の陰爻は便ち衰弱を顕す。陽爻が上下両端に分居すれば、便ち綱紀のごとく中間の陰爻を統束し得る。《頤》卦はまさにこのようである。

陰居上下,不能主制於陽而反弱也,必上下各二陰,中唯兩陽,然後為勝,《小過》是也,《大過》、《小過》之名可見也,離則二體上下皆陽,陰實麗焉,陽之盛也,其餘二陽之卦,二體俱陰,陰盛也,皆在下篇,《家人》、《睽》、

これに反して、陰爻が上下両端に分居すれども、中間の陽爻を主宰制約すること能わず、かえって自身の軟弱を顕出す。必ず上下各々両画の陰爻ありて、中間にただ両画の陽爻を余せば、陰はじめて勝ち取るを算す。《小過》卦はまさにこのようである。《大過》の「大」、《小過》の「小」のこの両卦名も、すなわち強弱の別を顕示し出づる。《離》卦は上下両体の首末がみな陽爻で、陰爻は実実にそのうちに附麗し、なお陽気の盛に属す。其余の二陰の卦は(底本は「二陽」と誤る)、上下両体みな陰卦で、あれは陰気旺盛なり。ゆえにみな下篇に編む。すなわち《家人》《睽》……底本はここに脱文あり、列する卦名は挙げ尽くさず、下面に直ちに項安世の言を接ぐ。

項氏安世曰:上經言天地生萬物,以氣而流形,故始於《乾》、《坤》,終於《坎》、《離》,言氣化之本也,下經言萬物之相生,以形而傳氣,故始於《咸》、《恆》,終於《既濟》、《未濟》,言夫婦之道也。蔡氏清曰:《序卦》之義,有相反者,有相因者,相反者,極而變者也,相因者,其未至於極者也,總不出此二例。

項安世がいう:上経は天地が万物を化生するを講じ、気によりて流布して形体を成す。ゆえに《乾》《坤》より開頭し、《坎》《離》に至って収尾す。講ずるは気化の根本である。下経は万物が彼此相生するを講じ、形体によりて気機を伝遞す。ゆえに《咸》《恒》より開頭し、《既済》《未済》に至って収尾す。講ずるは夫婦の一倫の道である。蔡清がいう:《序卦伝》の卦を排する義例は、一は相反相成、一は相因相续。相反するは、事勢が極点に走り至りて便ち反転を発生す。相因するは、まだ極点に走り至らずして勢いに順い推衍し下る。全篇の次第は、総じてこの両種の体例を跳び出さず。

雑卦伝

集說 孔氏穎達曰:《序卦》依文王上下而次序之,此《雜卦》,孔子更以意錯雜而對,辨其次第,不與《序卦》同。《朱子語類》云:卦有反有對,《乾》、《坤》、《坎》、《離》是反,《艮》、《兌》、《震》、《巽》是對,《乾》、《坤》、《坎》、《離》,倒轉也只是四卦,《艮》、《兌》、《震》、《巽》倒轉則為《中孚》、《頤》、《小過》、《大過》,其餘皆是對卦。

集説:孔穎達がいう、《序卦伝》は文王の定めたる上下経の次序に依りて排列する。こちらの一篇《雑卦伝》はすなわち孔子が別に自己の用意を按じ、六十四卦を錯雑して両々対挙し、そのあいだの条理を辨明す。《序卦》の排法とは並びて相同じからず。《朱子語類》にいう:卦に「反」あり「対」あり。《乾》《坤》《坎》《離》は「反」に属す。《艮》《兌》《震》《巽》は「対」に属す。《乾》《坤》《坎》《離》は上下を倒轉すれば、なおただこの四つの卦形である。《艮》《兌》《震》《巽》は両々倒轉して相重なれば、便ち《中孚》《頤》《小過》《大過》のこの類いの倒して形体変わらざる卦を成す。この幾つかを除くのほか、六十四卦はみな両々相対して偶を成す。

又云:八卦便只是六卦,《乾》、《坤》、《坎》、《離》是四正卦,《兌》便是翻轉底《巽》,《震》便是翻轉的《艮》,六十四卦,只八卦是正卦,餘便只二十四卦,翻轉為五十六卦,《中孚》是個雙夾底離,《小過》是個雙夾的《坎》,《大過》是個厚畫底《坎》,《頤》是個厚畫底《離》。

《朱子語類》がまたいう:八つの三画卦は実はただ六つの卦形に等しい。《乾》《坤》《坎》《離》は四つの正卦で、倒してもなおそれ自身である。《兌》はすなわち《巽》の翻轉した様子、《震》はすなわち《艮》の翻轉した様子。六十四卦のうちただ八つが倒轉して変わらざる正卦で、其余は実際ただ二十八个の卦形(底本は「二十四」と作る、當に伝写の誤りなるべし)、一々に翻轉し開けばすなわち五十六卦。《中孚》は離卦の中間のあの一画の虚爻を両辺より夾み起こした様子、《小過》は坎卦の中間のあの一画の実爻を両辺より夾み起こした様子、《大過》は坎卦の陽画を加厚した様子、《頤》は離卦の陰画を加厚した様子。

又云:三畫之卦,只是六卦,即六畫之卦,以正卦八,加反卦二十有八,為三十有六,六六三十六也,邵子謂之暗卦,小成之卦八,即大成之卦六十四,八八六十四也,三十六與六十四同。

《朱子語類》がまたいう:三画の小成卦はただ六つの異なる形体あり、六画の大成卦もまた同じ道理である。倒轉して変わらざる正卦の八つを以て、両々倒轉して一形に合する反卦の二十八个を加え、合わせて共に三十六。まさに六乗じて三十六を得る。邵雍はこの三十六个を「暗卦」と称す。小成の卦は八つで、重ねて拡充して大成の卦と為ればすなわち六十四个。まさに八乗じて六十四を得る。三十六と六十四とは数目同じからざるといえども、包むところの卦体は実は同一の批である。

乾剛坤柔,比樂師憂。集說 蘇氏軾曰:有親剛樂,動眾則憂。朱氏震曰:此得位而眾從之,故樂,師犯難而眾比之,故憂,憂樂以天下也。臨觀之義,或與或求。本義 以我臨物曰“與”,物來觀我曰“求”,或曰:二卦耳有與求之義。集說 郭氏雍曰:《臨》與所臨,《觀》與所觀,二卦皆有與求之義,或有與無求,或有求無與,皆非《臨》、《觀》之道。

《雑卦伝》にいう:「乾剛坤柔、比楽師憂。」集説:蘇軾がいう、親附あれば便ち和楽し、大衆を興動すれば便ち憂労す。朱震がいう、《比》卦の九五は尊位を得て衆人が彼に帰附す。ゆえに和楽す。《師》卦の九二は危難を冒して衆人が彼に依附す。ゆえに憂労す――この憂と楽とはみな天下を念と為すの憂楽である。《雑卦伝》がまたいう:「臨観之義、或與或求。」本義:我より往きて外物に臨撫するを「與」と呼ぶ。すなわち施予である。外物が前に来りて我に仰観するを「求」と呼ぶ。すなわち求取である。別の一つの講法は、この両卦が各々「與」と「求」との両重の意を兼ねる。集説:郭雍がいう、《臨》卦に能く臨む一方と臨まれる一方あり、《観》卦に能く観る一方と観られる一方あり。両卦とも「與」「求」の二義を兼含す。もし施予あるのみにして求む所なし、あるいは求取あるのみにして施す所なければ、みな《臨》《観》の正道に合せず。

屯見而不失其居,蒙雜而著。本義 《屯》震遇坎,震動故“見”,坎險不行也,《蒙》坎遇艮,坎幽昧,艮光明也。或曰,《屯》以初言,《蒙》以二言。集說 蘇氏軾曰:“君子以經綸”,故曰“見”。“盤桓利居貞”,故曰“不失其居”。蒙以養正,蒙正未分,故曰“雜”。童明,故曰“著”。龔氏原曰:不見則不足以濟眾,不居則不足以為主。柴氏中行曰:在蒙昧之中,雖未有識別,而善理昭著。

《雑卦伝》にいう:「屯見而不失其居、蒙雑而著。」本義:《屯》卦は震が下に在りて坎が上に遇う。震は動を主る。ゆえに「見」という。すなわち顕現である。坎は険陥を為す。ゆえに軽率に前行せず。まさに「不失其居」である。《蒙》卦は坎が下に在りて艮が上に遇う。坎は幽暗で、艮は光明である。ゆえにすでに「雑」にしてまた「著」。別の一つの講法は、《屯》は初九の一爻に就いて義を取り、《蒙》は九二の一爻に就いて義を取る。集説:蘇軾がいう、《屯》卦の《大象》は「君子以経綸」を講ず。ゆえに「見」という。初九の爻辞は「盤桓、利居貞」を講ず。ゆえに「不失其居」という。《蒙》卦の《彖伝》は「蒙以養正」を講ず。蒙昧のうち正と不正とがいまだ分判せず。ゆえに「雑」という。一旦童蒙が開明すれば、是非自ずから見ゆ。ゆえに「著」という。龔原がいう、顕現せざれば衆人を救済するに足らず、安居して正を守ること能わざれば衆人の主を為すに足らず。柴中行がいう、人が蒙昧のうちに処るに、まだ明確の識別能力なきといえども、善の道理はすでに昭然として見ゆ。

震,起也。艮,止也。損益,盛衰之始也。集說 虞氏翻曰:《震》陽動行,故起。《艮》陽終止,故止。朱氏震曰:陽起於《坤》而出《震》,則靜者動,陽止於《艮》而入《坤》,則動者靜。郭氏雍曰:損已必盛,故為盛之始,益已必衰,故為衰之始,消長相循,在道常如是也。俞氏琰曰:《損》、《益》蓋未至於盛衰,而盛衰自此始也。

《雑卦伝》にいう:「震、起也。艮、止也。損益、盛衰之始也。」集説:虞翻がいう、《震》は陽気が発動して運行す。ゆえに「起」と呼ぶ。《艮》は陽気が頭に到りて停住す。ゆえに「止」と呼ぶ。朱震がいう、陽気は坤中より萌発して震に出づ。静なるは便ち轉じて動と為る。陽気は艮に到りて止住し、復た坤に帰す。動なるは便ち轉じて静と為る。郭雍がいう、減損が尽頭に至れば必然として轉盛す。ゆえに《損》は轉盛の開端である。增益が尽頭に至れば必然として轉衰す。ゆえに《益》は轉衰の開端である。消と長とは互相に循環す。天道は向來このようである。俞琰がいう、《損》《益》の両卦は自身まだ盛あるいは衰の地步に走り至らず、ただ盛衰の勢頭がここより起始するのみ。

錢氏志立曰《損》、《益》、《否》、《泰》,為盛衰反覆之介,《易》所最重者也,《雜卦》於它卦分舉,而《損》、《益》、《否》、《泰》則合舉之,以明盛衰之無常,反覆之甚速也。《周易》自《乾》、《坤》至《否》、《泰》十二卦,自《咸》、《恆》至《損》、《益》十二卦,此除《乾》、《坤》外,自《比》、《師》至《損》、《益》十卦,自《成》、《恆》至《泰》、《否》十卦。

銭志立がいう:《損》《益》《否》《泰》の四卦は盛衰反復の関節の在所で、また《周易》の最も看重する所である。《雑卦伝》は別の卦に対してはみな一卦一卦分かれて挙出すれども、ただ《損》《益》《否》《泰》に対しては合併して挙出す。まさに盛衰に常態なく、反復轉換の極めて迅速なるを表明せんと欲す。《周易》経文の次序に就いて見れば、上経は《乾》《坤》より数えて《否》《泰》に至り共に十二卦、下経は《咸》《恒》より数えて《損》《益》に至りまた共に十二卦。而してこちらの一篇《雑卦伝》は《乾》《坤》を除いて計せず、《比》《師》より数えて《損》《益》に至り共に十卦、《咸》《恒》より数えて(底本は《成》と誤る)《泰》《否》に至りまた共に十卦。前後ちょうど相當す。

大畜,時也。無妄,災也。本義 止健者,時有適然,無妄而災自外至。集說 郭氏雍曰:“君子藏器於身,待時而動”,然則“多識前言往行以畜其德”,亦以待時也,《無妄》之謂災,其餘自作孽而已,故《無妄》“匪正有眚”。

《雑卦伝》にいう:「大畜、時也。无妄、災也。」本義:剛健の力量を止住し得るは、時勢がちょうどこのようである。《无妄》はすなわち本身に虚妄なきも、禍患が外面より降臨す。集説:郭雍がいう、《繋辞伝》に「君子蔵器于身、待時而動」を講ず。それならば《大畜・大象》の「多識前言往行、以畜其徳」も、同じく時機を待つが為である。《无妄》の遇う所こそ真に「災」と称するに配す。其余の禍患はただ自己の造孽して招来するに過ぎず。ゆえに《无妄》の卦辞に「其匪正有眚」という――正道に循わざりて生ずる過失は、ただ「眚」と呼ぶ可く、「災」と呼ぶ能わず。

萃聚而升不來也,謙輕而豫怠也。集說 郭氏雍曰:謙輕己,豫怠己也,以樂豫,故心怠,是以君子貴知幾。《朱子語類》云:“輕”是不自尊重,卑少之義,“豫”是悅之極,便放倒了,如上六“冥豫”是也。項氏安世曰:自以為少,故“謙”。自以為多,故“豫”,小故“輕”,多故“怠”。柴氏中行曰:謙者視己若甚輕,豫則有滿盈之志而怠矣。張氏振淵曰:《萃》有聚而尚往之義,《升》有莊而不反之義。

《雑卦伝》にいう:「萃聚而升不來也、謙輕而豫怠也。」集説:郭雍がいう、《謙》は自己を軽く看、《豫》は自己を怠惰ならしむ。歓楽安逸に耽るにより、心志便ち松懈し下る。ゆえに君子は「知幾」を看重し、苗頭が初めて現るるに便ち警覚する所有り。《朱子語類》にいう:「軽」は自ら重く看ず、自ら処りて卑微なるの意である。「豫」は喜悅が極処に到りて、人便ち松垮し放倒す。《豫》卦の上六の「冥豫」のごときがすなわちこのようである。項安世がいう、自己に不足を覚ゆゆえに能く《謙》し、自己に有余を覚ゆゆえに《豫》に流る。自己を小と看ゆゆえに「軽」という。自ら以て多しと為すゆえに「怠」という。柴中行がいう、謙虚の人は自己を看るに極めて軽微なるがごとく、安豫の人はすなわち満盈の志を懐いて怠惰を生ず。張振淵がいう、《萃》に聚合してなお前に趨往するの意あり、《升》に一味上行して再び回返せざるの意あり。

噬嗑,食也。賁,無色也。本義 白受采。集說 郭氏雍曰:《賁》以白賁無咎,故無色則質全,有天下之至賁存焉。項氏安世曰:物消曰“食”,噬者合,則強物消矣。案 此二語之義,即所謂“食”取其充腹,衣取其蔽體者也,若飫於膏梁,則噬之不能合,而失飲食之正,若競於華美,則目迷五色,而非自然之文。

《雑卦伝》にいう:「噬嗑、食也。賁、无色也。」本義:白色の底子はじめて彩飾を承受し得る。集説:郭雍がいう、《賁》卦の上九は「白賁」を講じて過咎あらず。見るべし、雑色を施さざれば本質完全なり。天下最高の文飾はちょうどここに在り。項安世がいう、物が消去せらるるを「食」と呼ぶ。「噬」は上下が咬合す。一たび咬合し上れば、再び堅硬なるものも消掉せらる。案ずるに:この両句話の意は、すなわち常にいう飲食はその肚腹を填飽するを取り、衣服はその身体を遮蔽するを取る。假如一味に肥甘厚味を飽食せば、それは咬んでも合わず呑んでも下らず、飲食の正道を失う。假如一味に華美を競逐せば、それは五色が人眼を迷乱し、また自然本有の文采と算し得ず。

兌見而巽伏也。本義 《兌》陰外見,《巽》陰內伏。集說 何氏楷曰:《巽》本以陰在下為能巽也,《彖傳》乃為“剛異乎中正而志行,柔皆順乎剛”。《兌》本以陰在上為能說也。《彖傳》乃謂“剛中而柔外,說以利貞”,蓋終主陽也云爾。

《雑卦伝》にいう:「兌見而巽伏也。」本義:《兌》のあの一画の陰爻は外に顕露し、《巽》のあの一画の陰爻は下に潜伏す。集説:何楷がいう、《巽》はもとより陰爻を以て下位に居り、能く陽に俯就す。はじめて「巽」と呼ばれ、順入の義を取る。しかるに《巽・彖伝》はかえって「剛巽乎中正而志行、柔皆順乎剛」という(底本は「巽」の字を「異」と誤る)。《兌》はもとより陰爻を以て上位に居り、能く和悦を外露す。はじめて「兌」と呼ばれ、喜悅の義を取る。しかるに《兌・彖伝》はかえって「剛中而柔外、説以利貞」という。見るべし、《彖伝》の説を立つるは、根底に帰して結局はなお陽剛を主と為す。

隨,無故也。蠱,則飭也。本義 《隨》前無故,《蠱》後當飭。集說 俞氏琰曰:故,謂故舊,與革去故之故同,隨人則忘舊,《蠱》則飭而新也。案 無故,猶莊子言去故,人心有舊見,則不能隨人,故堯舜舍己從人者無故也。

《雑卦伝》にいう:「随、无故也。蠱、則飭也。」本義:《随》は前に往きて随順して旧事の牽绊なし。《蠱》は事がすでに後に敗壊して整整治すべし。集説:俞琰がいう、「故」は旧有の一套を指し、《革》卦の「革去故」の「故」と同義。人に随从すればすなわち自己の旧見を忘掉せねばならず、《蠱》卦はすなわち整飭を加えてそれを更新せしむるを要す。案ずるに:「无故」の説法は、《荘子》の講ずる「去故」のごとし。人心のうちに成見を存すれば、他人に随顺すること能わず。ゆえに堯・舜は能く自己の成見を舎棄して別人に聴従す。まさに「无故」の様子である。

剝,爛也。復,反也。集說 項氏安世曰:剝,爛盡。復,反生也。凡果爛而仁生,物爛而蠱生,木葉爛而根生,糞壤爛而苗生,皆《剝》、《復》之理也。徐氏幾曰:剝爛則陽窮於上,復反則陽生於下,猶果之爛墜於下,則可種而生矣。

《雑卦伝》にいう:「剥、爛也。復、反也。」集説:項安世がいう、「剥」は爛れて尽頭に至り、「復」は爛れ尽きた後に重新生発す。およそ果実が爛れて果仁が萌生し得、物体が腐爛して蠹虫が滋生し得、樹葉が爛れて根株が長養し得、糞土が腐熟して禾苗が生発し得るは、みな《剥》《復》が相续する道理である。徐幾がいう、剥落腐爛すれば、陽気は便ち上に窮尽す。復帰返生すれば、陽気は便ち重新して下に生ず。ちょうど果実が爛熟して墜落して地に至り、かえって以て下種して重新長出し得るがごとし。

晉,晝也。明夷,誅也。本義 誅,傷也。井通而困相遇也。本義 剛柔相遇而剛見掩也。集說 張子曰:澤無水,理勢適然,故曰“相遇。”朱氏震曰:往來不窮,故曰“井通”,遇陰則見掩而困,唯其時也。郭氏雍曰:“往來井井”,則其道通,田遇剛掩,所以為《困》。項氏安世曰:自《乾》、《坤》至此三十卦,正與上經之數相當,而下經亦以《咸》、《恆》為始,以此見卦雖以雜名,而《乾》、《坤》、《咸》、《恆》上下經之首,則未嘗雜也。

《雑卦伝》にいう:「晋、昼也。明夷、誅也。」本義:「誅」はすなわち損傷である。またいう:「井通而困相遇也。」本義:陽剛と陰柔とが相遇い、而して陽剛がかえって陰柔に掩蔽せらる。集説:張載がいう、《困》卦の《大象》は「沢无水」を講ず。水が沢の下に漏るるは、事理情勢もとよりこのようである。ゆえに「相遇」という。朱震がいう、井水は往来して汲取するも窮竭せず。ゆえに「井通」という。陽剛は一たび陰柔に遇えば便ち掩蔽せられて困頓す。これはただ処する時位がこのようであるのみ。郭雍がいう、《井》の卦辞は「往来井井」を講ず。見るべし、その路は通ず。《困》はすなわち陰柔が陽剛を掩蔽するに遇上るにより(底本は「因」を「田」と誤る)、ゆえに《困》を成す。項安世がいう、《雑卦》は《乾》《坤》より数えてここに至ってちょうど三十卦で、上経の卦数と相當す。而して後半はまたなお《咸》《恒》を以て頭を起こす。これにより見るべし、この一篇は「雑」を以て名とするといえども、《乾》《坤》と《咸》《恒》とが上下経の首に分居する位置は、從來かつて打乱せられたことなし。

咸,速也。恆,久也。本義 咸速,恆久。集說 蔡氏淵曰:有感則應故速,常故能久。蔡氏清曰:“咸”非訓速也,天下之事,無速於感通者,故曰“咸速”。渙,離也。節,止也。解,緩也。蹇,難也。睽,外也。家人,內也。否泰,反其類也。集說 虞氏翻曰:渙散故“離”,節制度數故“止”。

《雑卦伝》にいう:「咸、速也。恒、久也。」本義:《咸》は迅速の義を取り、《恒》は長久の義を取る。集説:蔡淵がいう、感ずる所有れば応ずる所有り。ゆえに迅速。能く常を守りて改めず。ゆえに能く長久。蔡清がいう、「咸」の字は本身「速」と訓するではない。ただ天下の事に感応相通ずるより速きはなきがゆえに「咸速」という。《雑卦伝》がまたいう:「渙、離也。節、止也。解、緩也。蹇、難也。睽、外也。家人、内也。否泰、反其類也。」集説:虞翻がいう、《渙》は水風が渙散す。ゆえに「離」と呼ぶ。《節》は節制度数してこれに限あらしむ。ゆえに「止」と呼ぶ。

張子曰:天下之難既解,故安於佚樂,每失於緩。《蹇》者“見險而止”,故為“難”。項氏安世曰;《渙》、《節》正與《井》、《困》相反,《井》以木出水,故居塞而能通,《渙》則以水浮木,故通之極而至於散也。《節》以澤上之水,故居通而能塞,《困》為澤下之水,故塞之極而至於困也。徐氏幾曰:《睽》者疏而外也,《家人》者親而內也。俞氏琰曰:《渙》、《節》皆有坎水,風以散之則離,澤以瀦之則止。徐氏在漢曰:外,猶言外之也,非內外之外,以情之親疏為內外也。

張載がいう:天下の患難がすでに解除せられれば、人は逸楽に安んじ、往々にして松弛怠緩に失す。ゆえに《解》は「緩」と訓す。《蹇》卦の《彖伝》は「見険而能止」を講ず。ゆえに《蹇》は「難」と訓す。項安世がいう:《渙》《節》の両卦はまさに《井》《困》の両卦と相反す。《井》は巽木が下、坎水が上で、木桶を用いて水を提げ出す。ゆえに閉塞の地に身を処して能く流通す。《渙》は坎水が下、巽木が上で、水を以て木を浮載す。ゆえに通ずること極処に至りてかえって流散す。《節》は兌沢が下、坎水が上で、水が沢の上面に蓄えらる。ゆえにもとより流通の地に処りて能く節制阻塞す。《困》は坎水が下、兌沢が上で、水が沢の下面に漏る。ゆえに塞がること極処に至りて便ち困窮と為る。徐幾がいう:《睽》は情意が疏远して彼此見外し、《家人》は情意が親密にして彼此相内す。俞琰がいう:《渙》《節》の両卦はみな坎水を含む。風に吹き散ぜられれば便ち「離」、沢に蓄え住せられれば便ち「止」。徐在漢がいう:この「外」の字は相手を外人と看るに等しくいうので、内卦外卦のあの「外」ではなく、情意の親疏を以て内外を分かつ。

大壯則止,遯則退也。本義 止,謂不進。集說郭氏雍曰:壯不知止,小人之壯也。君子之壯,則有止。《遯》之退,《大壯》之止,則克己之道。趙氏玉泉曰:《大壯》以“壯趾”為“凶”,“用壯”為“厲”,欲陽之知所止也,《遯》以“嘉遯”為“吉”,“肥遯”為“利”,欲陽之知所處也。何氏楷曰:壯不可用,宜止不宜躁,遯與時行,應退不應進,止者難進,退者,易退也。

《雑卦伝》にいう:「大壮則止、遯則退也。」本義:「止」は再び前に進まざるをいう。集説:郭雍がいう、強壮にして収止を知らざるは、あれは小人の強壮である。君子の強壮は、必ず止まる所有るを解す。《遯》卦の退避と《大壮》卦の収止とは、同じく自己を克制するの功夫である。趙玉泉がいう、《大壮》の初九は「壮于趾」を以て「凶」と為し、九三は「小人用壮」を以て「厲」と為す。まさに陽剛にどこに止まるべきかを知らしめんと欲す。《遯》卦の九五は「嘉遯」を以て「吉」と為し、上九は「肥遯」を以て「无不利」と為す。まさに陽剛にどこに処るべきかを知らしめんと欲す。何楷がいう、強壮は仗恃すべからず。止まるべきときは躁進すべからず。退避は時に随いて行うを要す。退くべきときは前進すべからず。能く止まる人はもとより軽進を肯ぜず、能く退く人は自然に抽身し易し。

本義 既明且動,其故多矣。集說 朱氏震曰:《大有》六五,柔得尊位而有其眾,有其眾則眾亦歸之,故曰大有眾也。《同人》六二,得中得位而同乎人,同乎人則人亦親之,故曰“同人親也”。潘氏夢旂曰:物盛則多故,旅寓則少親。

底本はここに《雑卦伝》の「大有、衆也。同人、親也。……豊、多故也、親寡旅也」の一節の本文を脱し、ただ下面の解説のみ余る。本義:《豊》卦は離明が下、震動が上で、すでに明察にしてまた行動すれば、遇上る変故は自然に多し。集説:朱震がいう、《大有》の六五は柔爻を以て尊位に居りて衆陽を擁す。能く衆人を擁すれば、衆人もまた彼に帰附す。ゆえに「大有、衆也」という。《同人》の六二はすでに中道を得また正位に當たりて人と和同し得る。能く人と和同すれば、別人もまた彼を親しむ。ゆえに「同人、親也」という。潘夢旂がいう、事物は一たび興盛に到れば変故多し。人は一たび羇旅して外に在れば、親しむべき人少なし。

離上而坎下也。本義 火炎上,水潤下。小畜,寡也。履,不處也。本義 不處行進之義。集說 龔氏原曰:柔為君,故《大有》則眾,柔為臣,故《小畜》則寡。案 寡者,一陰雖得位而畜眾陽,其力寡也,不處者,一陰不得位而行乎眾陽之中,不敢寧處也。

《雑卦伝》にいう:「離上而坎下也。」本義:火性は上に向かって燃焼し、水性は下に向かって浸潤す。またいう:「小畜、寡也。履、不処也。」本義:「不処」は停留を肯ぜず、ただ前行を管するの意である。集説:龔原がいう、同じく一陰五陽なるに、あの一画の陰爻が第五爻の君位に居るゆえに《大有》は「衆」といい、第四爻の臣位に居るゆえに《小畜》は「寡」という。案ずるに:いわゆる「寡」とは、《小畜》の六四のこの一陰は位に當たるといえども、衆陽を畜止せんと要して力量単薄なるをいう。いわゆる「不処」とは、《履》卦の六三のこの一陰は正位を得ず、なお衆陽のあいだを行走して、安然として停留すること敢えせざるをいう。

需,不進也。訟,不親也。集說 李氏舜臣曰:乾上離下為《同人》,火性炎上而趨乾,故曰“同人親也”。乾上坎下為《訟》,水性就下,與乾違行,故“不親也”。大過,顛也。姤,遇也,柔遇剛也。漸,女歸待男行也。頤,養正也。既濟,定也。歸妹,女之終也。未濟,男之窮也。夬,決也。剛決柔也。君子道長,小人道憂也。本義 自《大過》以下,卦不反對,或疑其錯簡,今以韻協之,又似非誤,未詳何義。

《雑卦伝》にいう:「需、不進也。訟、不親也。」集説:李舜臣がいう、乾が上、離が下なるは《同人》で、火性は上に向かって燃えて乾に趨就す。ゆえに「同人、親也」という。乾が上、坎が下なるは《訟》で、水性は下に向かって流れ、乾の上行と背道して馳す。ゆえに「不親也」という。《雑卦伝》の末の一節にいう:「大過、顛也。姤、遇也、柔遇剛也。漸、女帰待男行也。頤、養正也。既済、定也。帰妹、女之終也。未済、男之窮也。夬、決也、剛決柔也。君子道長、小人道憂也。」本義:《大過》以下のこの幾卦は、再び前のごとく両々倒轉相対せず。ある人は竹簡の次序が錯乱したと疑う。ただし韻脚を以て核対すれば、また錯簡には似ず。一体なんの用意を含むか、いまだ弄明白せず。

集說 韓氏伯曰:剛柔失位,其道未濟,故曰”窮也”。《朱子語類》云:女待男而行,所以為漸。又云:《雜卦》以《乾》為首,不終之以它卦,而必終之以夬者,蓋《夬》以五陽決一陰,決去一陰,則《復》為純《乾》矣。

集説:韓康伯がいう、《未済》の一卦は陽剛陰柔ともに位に當たらず、事情の路はいまだ走り通ぜず。ゆえに「男之窮也」という。《朱子語類》にいう、女子の出嫁は男方が前に来りて迎娶するを待ってはじめて動身す。ゆえに《漸》に「女帰待男行」の漸進の義あり。またいう、《雑卦伝》は《乾》を以て開頭とし、末尾に別の卦を以て収束せず、必ず《夬》を以て収束と為すは、《夬》が五陽を以てあの一画の陰爻を共決し、この一陰を決し去れば、卦体は便ち純陽の《乾》に回復するがゆえに。

項氏安世曰:《大過》之象,本未俱弱,而在雜卦之終,聖人作《易》,示天下以無終窮之理,教人以撥亂反正之法,是故原其亂之始生於《姤》,而極其勢之上窮於《夬》,以示微之當防,盛之不足畏。自《夬》而《乾》,有終而《復》始之義也。

項安世がいう:《大過》の卦象は四陽が中間に聚り、首尾の両画の陰爻はみな軟弱で、本も末も牢靠せず。それを《雑卦伝》の最後の一節に安排せり。聖人が《易》を作るは、天下に終結窮尽なきの道理を昭示し、人に乱を撥いて正に反るの办法を教えんと欲するに在り。ゆえに禍乱の萌生を推原すれば《姤》に在り――一陰が初めて下に生ず。またその形勢を推極すれば《夬》に上窮す――一陰が孤懸して上に在りて衆陽に決し去らる。これはすなわち人に告ぐるなり:細微のときこそまさに預防すべく、気焔盛大なるはかえって畏憚するに足らず。《夬》よりさらに一歩進めばすなわち純陽の《乾》で、終わりて復た始まり、循環して絶えざるの意を含む。

又曰:自《大過》以下,特皆以“男女”為言,至《夬》而明言之曰:“君子”“小人”,然則聖人之意,斷可識矣。胡氏炳文曰:本義謂自《大過》以下,或疑其錯簡,以韻協之,又似非誤。愚竊以為“雜物撰德,非其中爻不備”,此蓋指中四爻互體而言也。先天圖之左,互《復》、《頤》、

項安世がまたいう:《大過》以下のこの一段は、ことさら一律に「男」「女」を用いて措辞し、《夬》卦に到りてはじめて明白に「君子」「小人」を点出す。それならば聖人の用意は、完全に見て取って清楚たり得る。胡炳文がいう:《本義》に《大過》以下はある人が錯簡を疑うと講ずるが、韻脚を以て核対すれば、また誤りあるに似ず。私くしに以為すらく、《繋辞伝》の「雑物撰徳、辨是与非、則非其中爻不備」は、指す所はまさに二至五のこの四爻が互体して卦を成すの現象である。先天図の左半辺は、互体して得る所は《復》《頤》……底本はここに脱文あり、胡氏の挙げたる互卦の名目は列せ尽くさず、下面に直ちに朱熹《易学啓蒙》の自序を接ぐ。

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