義例・《易》辞の体例を論ず
時消息盈虛之謂“時”,《泰》、《否》、《剝》、《復》之類是也。又有指事言者,《訟》、《師》、《噬嗑》、《頤》之類是也。又有以理言者,《履》、《謙》、《咸》、《恆》之類是也。又有以象占者,《井》、《鼎》之類是也。四者皆謂之時。
「時」という条例:陰陽の消退生長・盈満虚亏を「時」と呼ぶ。《泰》《否》《剥》《復》の諸卦がこの類に属する。また具体の事情を指して名を立てるものがある。《訟》は争訟を主とし、《師》は興兵を主とし、《噬嗑》は用刑を主とし、《頤》は頤養を主とする類。また義理に就いて名を立てるものがある。《履》は礼を践むを講じ、《謙》は謙退を講じ、《咸》は感応を講じ、《恒》は常を守るを講ずる類。また実物の象を取って占断するものがある。《井》《鼎》の類。この四種の情形をみな「時」と呼ぶ。
位貴賤上下之謂“位”。王弼謂中四爻有位,而初上兩爻無位,非謂無陰陽之位也,乃謂爵位之位
「位」という条例:爻の貴賤高下を「位」と呼ぶ。王弼は中間の四爻には位があり、初・上両爻には位がないと言ったが、これはそれらに陰陽の位がないと言うのではなく、それらに爵禄職位のごとき「位」がないと言うのである——ここで底本に脱文がある。
德剛柔中正不中正之謂“德”。剛柔各有善不善,時當用剛,則以剛為善也;時當用柔,則以柔為善也。唯中與正,則無有不善者。然正尤不如中之善,故程子曰,正未必中,中則無不正也。六爻當位者未必皆吉,而二五之中,則占者獨多,以此故爾。
「徳」という条例:爻の剛柔・中正と不中不を「徳」と呼ぶ。剛と柔は各々善の一面と不善の一面がある:時勢が剛を用いべきなら剛をもって善とし、時勢が柔を用いべきなら柔をもって善とする。ただ「中」と「正」に不善はない。しかし「正」はなお「中」に及ばない。だから程頤はいう:正を得る者は必ずしも中を得ず、中を得る者に正ならざるはない。六爻の中で当位するものが必ずしも皆吉とは限らず、二・五の二つの中位が吉を得る占断が特に多いのは、正にこの故である。
應、比“應”者,上下體相對應之爻也。“比”者,逐位相比連之爻也。《易》中比應之義,唯四與五比,二與五應為最重。蓋以五為尊位,四近而承之,二遠而應之也。然近而承者,則貴乎恭順小心,故剛不如柔之善。遠而應者,則貴乎強毅有為,故柔又不如剛之善。
「応」と「比」のこの二条例:いわゆる「応」は、上下両体の位次が相対する両爻、即ち初と四・二と五・三と上である。いわゆる「比」は、位次が緊く挨ぐ隣接の両爻である。《易》中に比と応を講ずるは、四と五の相比・二と五の相応の二種が最も要緊である。五は尊貴の君位であり、四はそれに緊挨して上に承け、二は遠隔して下に応ずるからである。凡そ身近に承事する者は、恭敬順從・小心謹慎を貴ぶ。だから剛爻は柔爻に如かない。凡そ遠処に相応する者は、剛強果毅・事を任ずるに勇むを貴ぶ。だから柔爻はまた剛爻に如かない。
夫子曰:“二與四,同功而異位,二多譽,四多懼,近也。柔之為道,不利遠者,其要無咎,其用柔中也。”夫言柔之道不利遠,可見剛之道不利近矣。又可見柔之道利近,剛之道利遠矣。
孔子は《系辞伝》の裡でいう:「二と四は同じく陰位だが位次が同じでない:二は誉れを多く得、四は惧れを多く有する。四が君位に靠近するからである。柔の性質は遠処に処るに利せず。その要領は差錯を出さないことにあり、柔順にして中に居ることに靠る」。柔道は遠に利せずと言う以上、反って剛道は近に利せざるを見るべし。また柔道は近に利し、剛道は遠に利するを見るべし。
夫子此條,實全《易》之括例。
孔子のこの一条の言は、実に全部の《易》例を統括し、爻辞を読むに処処に用いられる。
凡比與應,必一陰一陽,其情乃相求而相得。若以剛應剛,以柔應柔,則謂之“無應”。以剛比剛,以柔比柔,則亦無相求相得之情矣。
凡そ「比」と「応」は、必ず一陰一陽が配搭して、両爻の情意がはじめて互いに尋ね求め彼此契合する。もし剛爻をもって剛爻に応じ、柔爻をもって柔爻に応ずれば、「无応」と呼ぶ。同様に、剛爻をもって剛爻に比し、柔爻をもって柔爻に比すれば、あの互いに尋ね求め彼此契合する情意はない。
以此例推之,《易》中以六四承九五者,凡十六卦,皆吉。《比》曰“外比於賢”,《小畜》曰“有孚惕出”,《觀》曰“利用賓于王”,《坎》曰“納約自牖”,《家人》曰“富家”,《益》曰“中行告公從”,《井》曰“井甃無咎”,《浙》曰“或得其桷”,《巽》曰“田獲三品”,《渙》曰“渙其群元吉”,《節》曰“安節亭”,《中孚》曰“月幾望”,皆吉辭也。
この条例に照らして下に推せば、《周易》の裡で凡そ六四のこの柔爻が九五のこの剛爻の下に緊挨して「承」のこの層の関係を構成するものは、全部で十六卦あり、爻辞は全部吉利である。《比》卦六四は「賢に外比す」といい、外に向かい賢明の君主に親附する。《小畜》卦六四は「孚あり惕して出る」といい、誠信を心存して戒惧の中より脱出する。《観》卦六四は「王に賓たるを利しく用いらる」といい、賓客の礼をもって君王の礼遇を受けるに宜しい。《坎》卦六四は「牖より約を納る」といい、窓口より簡約の誠意を進献する。《家人》卦六四は「家を富ます」といい、家道を富足させうる。《益》卦六四は「中行にして公に告げば従わる」といい、中道を守って事を辦し、王公に禀告すれば聴従を得る。《井》卦六四は「井甃して咎なし」といい、井壁を修砌して過ちなし。《浙》卦(「浙」は「漸」とすべし)六四は「或いはその桷を得ん」といい、鴻雁は或いは平穏の枝干に止まり得る。《巽》卦六四は「田に三品を獲る」といい、田猟に三等の猟物を獲得する。《渙》卦六四は「その群を渙し元吉」といい、私党を渙散して大吉。《節》卦六四は「節に安んじて亨」(「亭」は「亨」とすべし)といい、節制に安んじて通達する。《中孚》卦六四は「月幾く望なり」といい、月はまさに円ならんとして未だ円ならず。これらは全部吉利の断語である。
唯《屯》、《需》與《蹇》、則相從於險難之中,故曰“往吉”,曰“出自穴”,曰“來連”。《既濟》則交儆於未亂之際,故曰“終日戒”,亦皆吉辭。
ただ《屯》《需》《蹇》の三卦のみ少し同じからず。この三卦の六四と九五は艱険患難の中において互いに追随する。だから《屯》卦六四は「往けば吉」といい、前往すれば吉祥を得られる。《需》卦六四は「穴より出ず」といい、陥坑より脱身して出られうる。《蹇》卦六四は「来りて連なる」といい、退きて帰り九五と一気に連なる。《既済》卦に至っては、六四と九五は天下がまだ乱を生ぜぬときに彼此警戒する。だから「終日戒む」といい、終日戒備を保つ。この数条も同様にみな吉利の断語である。
以九四承六五,亦十六卦,則不能皆吉,而凶者多。如《離》之“焚如死如棄如”,《恆》之“田無禽”,《晉》之“鼫鼠”,《鼎》之“覆餗”,《震》之“遂泥”,皆凶爻也。《大有》之“匪彭”,《睽》之“睽孤”,《解》之“解拇”,《歸妹》之“愆期”,《旅》之“心未快”,《小過》之“往厲必戒”,雖非凶爻,而亦不純吉。
反対に、九四のこの剛爻をもって六五のこの柔爻を承接するものも十六卦あり、全部が吉利とはいえず、兇険のものがかえって多く居る。《離》卦九四の「焚如・死如・棄如」のごとき、焚かれ・処され・棄てられる。《恒》卦九四の「田に禽なし」のごとき、猟に出でて禽獣を獲られず。《晋》卦九四の「鼫鼠」のごとき、貪婪畏縮の碩鼠のごとし。《鼎》卦九四の「餗を覆す」のごとき、鼎足が折れて鼎裡の食物を傾倒出す。《震》卦九四の「遂に泥る」のごとき、終に泥淖に陥る。これらはみな凶爻である。《大有》卦九四の「彭に匪ず」、《睽》卦九四の「睽孤」、《解》卦九四の「拇を解く」、《帰妹》卦九四の「愆期」、《旅》卦九四の「心未だ快ならず」、《小過》卦九四の「往けば厲必ず戒めよ」に至っては、凶爻と算するには足らないが、純粋の吉利でもない。
唯《豫》之四,一陽而上下應,《噬嗑》之四,一陽為用獄主,《豐》之四,為動主以應乎明,《大壯》之壯,至四而極,《未濟》之未濟,至四而濟,皆卦主也,故得吉利之辭,而免凶咎。
ただ五処の例外がある:《豫》卦の九四は全卦唯一の陽爻で、上下の諸陰が来りてそれに応ずる。《噬嗑》卦の九四は全卦の獄を断じ刑を用いる主爻。《豊》卦の九四は震体の行動の主爻で、上は離体の光明に呼応する。《大壮》卦の講ずる壮盛は九四のこの一爻に至り登峰造極する。《未済》卦の講ずる未だ渡らざるは、九四のこの一爻に至りはじめて渡るに転ず。この五爻はみな各々その卦の裡の「卦主」である。だから吉利の断語を得て、兇険と災禍を避けられる。
以九二應六五者,凡十六卦,皆吉。《蒙》之“子克家”,《師》之“在師中”,《泰》之“得尚于中行”,《大有》之“大車以載”,《蠱》之“幹母蠱”而“得中道”,《臨》之“咸臨吉而無不利”,《恆》之“悔亡”,《大壯》之“貞吉”,《睽》之“遇主于巷”,《解》之“得黃矢”,《損》之“弗損益之”,《升》之“利用禴”,《鼎》之“有實”,皆吉辭也。
さらに遠隔して相「応」する関係を見よう。九二のこの剛爻をもって上に六五のこの柔爻に応ずるものは、全部で十六卦あり、爻辞は全部吉利である。《蒙》卦九二は「子家に克く」といい、息子が家業を撑え得る。《師》卦九二は「師中に在り」といい、身軍中に在りて中道を秉持する。《泰》卦九二は「中行に尚ぶを得る」といい、中正の道に配合し得る。《大有》卦九二は「大車をもって載す」といい、大車のごとく重任を載せ得る。《蠱》卦九二は「母の蠱を干し」て「中道を得る」といい、母輩の遺留した弊事を匡正して中道を失わない。《臨》卦九二は「咸臨みて吉にして利せざるなし」といい、感通の方式をもって下に臨み、吉祥にして不利なし。《恒》卦九二は「悔亡ぶ」といい、悔恨が消失する。《大壮》卦九二は「貞吉」といい、正を守りて吉を獲る。《睽》卦九二は「巷に主に遇う」といい、小巷の裡に自己の君主に遇う。《解》卦九二は「黄矢を得る」といい、田猟に黄銅の箭矢を得る。《損》卦九二は「損せずしてこれを益す」といい、減損せずしてかえって増益ある。《升》卦九二は「禴を用いるを利しくす」といい、薄祭をもって誠敬を表するに宜しい。《鼎》卦九二は「実有り」といい、鼎中に実物が盛満する。これらは全部吉利の断語である。
唯《大畜》之“輿說輹”,則時當止也;《歸妹》“利幽貞”,則時當守也;《未濟》“曳輪貞吉”,則時當待也,亦非凶辭也。
ただ三卦は別論を作る:《大畜》卦九二は「輿輹を説く」といい、車廂と車軸が脱開する。あれは時勢が停止すべきだからである。《帰妹》卦九二は「幽貞に利し」といい、幽静に自守するに宜しい。あれは時勢が持守すべきだからである。《未済》卦九二は「輪を曳きて貞吉」といい、車輪を拖住し正を守りて吉を獲る。あれは時勢が等待すべきだからである。この三条は前面のように顕豁ではないが、兇険の断語でもない。
以六二應九五,亦十六卦,則不能皆吉,而凶吝者有之。如《否》之“包承”也,《同人》之“於宗吝”也,《隨》之“係小子失丈夫”也,《觀》之“窺觀可丑”也,《咸》之“咸其腓凶”也,皆非吉辭也。
六二のこの柔爻をもって上に九五のこの剛爻に応ずるものも十六卦あり、全部が吉利とはいえず、その中に兇険あり、また悔吝あり。《否》卦六二の「承を包む」のごとき、ひたすら包容承順する。《同人》卦六二の「宗に吝」のごとき、ただ本宗族の人と相和同して憾惜ある。《随》卦六二の「小子に繫りて丈夫を失う」のごとき、年幼の小子に牽繫してかえって成徳の丈夫を失う。《観》卦六二の「窺観醜しきべき」のごとき、門縫より偷看して見識狭隘にして羞ずべし。《咸》卦六二の「その腓に咸えて凶」のごとき、感応が小腿に発動して妄動して凶を招く。これらはみな吉利の断語ではない。
《屯》之“屯如遭如”,《遯》之“鞏用黃牛”,《蹇》之“蹇蹇匪躬”,《既 自二五之外,亦有應焉。自四五之外,亦有比焉。然其義不如應五承五者之重也。
《屯》卦六二は「屯如遭如」(通行本は「屯如邅如」と作る)といい、艱難徘徊する。《遯》卦六二は「黄牛をもって鞏める」といい、黄牛の皮をもって牢牢と捆住する。《蹇》卦六二は「蹇蹇として躬に匪ず」といい、国難を解除するため奔走して自身を顧みない。下に《既済》の言葉を挙げて頭が起きたばかりで、ここで底本に脱文がある。接続の文字はいう:二爻が五爻に応ずるのほか、別の爻位の間にも「応」の関係がある。四爻が五爻を承けるのほか、別の爻位の間にも「比」の関係がある。ただしあれらの関係の義理上の分量は、いずれも応五・承五に及ぶほど重くない。
以應言之,四與初,猶或取相應之義,三與上則取應義者絕少矣。其故何也?四,大臣之位也,居大臣之位,則有以人事君之義,故必取在下之賢德以自助,此其所以相應也。上居事外,而下應於當事之人,則失清高之節矣。三居臣位,而越五以應上,則失勿二之心矣。此其所以不相應也。
まず「応」に就いて言おう。四爻と初爻の間には、時に相応する意を取る。三爻と上爻の間に相応の義を取るものは極めて少ない。これは何の故か。四は大臣の位置で、身に大臣の位に居れば、君主のために人才を延攬する職責を負う。ゆえに必ず下位にある賢徳の士を取って自己を輔助させる。これが四と初の相応しうる道理である。上爻はすでに事外に身処している。もしなお下に向かい正当の権を任ずる者に呼応すれば、清高の節操を失う。三爻は臣子の位置に処しながら、九五の君を越えて上爻に呼応すれば、臣は二主に事えない忠心を失う。これが三と上の相応すべからざる道理である。
然四之應初而吉者,亦唯以六四應初九耳。蓋初九為剛德之賢,而六四有善下之美,故如《屯》、《賁》之“求婚媾”也,《頤》之“虎視耽耽”也,《損》之“使遄有喜”也,皆吉也。若九四應初六,則反以下交小人為累,《大過》之“不橈乎下”,《解》之“解而拇”,《鼎》之“折足”是也。
ただし四爻が初爻に応じて吉を得るのも、六四が初九に応ずるこの一種の配搭に限る。初九は剛健有徳の賢人で、六四は己を屈して下に交わる美德があるからである。だから《屯》卦六四・《賁》卦六四はともに「婚媾を求む」といい、自ら求めて親を結ぶ。《頤》卦六四は「虎視耽耽」といい、老虎のごとく専注して下に初九を注視する。《損》卦六四は「遄かにせしめて喜有り」といい、人に急ぎ来りて相助けさせれば喜庆がある。これらはみな吉である。反対に、もし九四が初六に応ずれば、転じて下に小人と交結して牽累を受ける。《大過》卦九四は「下に橈まず」といい、下に向かい弯曲するを肯んじない。《解》卦九四は「而が拇を解け」といい、お前の脚下の大拇指を解脱せよ。《鼎》卦九四は「足を折る」といい、鼎足が折れる。説くのはみなこの一類の情形である。
以比言之,唯五與上,或取相比之義,餘爻則取比義者亦絕少。其故何也?五,君位也,尊莫尚焉,而能下於上者,則尚其賢也,此其所以有取也。然亦唯六五遇上九,乃取斯義。蓋上九為高世之賢,而六五為虛中之主。
さらに「比」に就いて言おう。ただ五爻と上爻の間のみ、時に隣接親比の意を取る。其余の各爻が比義を取るものも極めて少ない。これは何の故か。五は君主の位で、尊貴なること復た加うべきなく、しかも上爻に対して自ら下に居しうる。あれは賢人を尊崇する表現である。だからこの層の関係は取義するに値する。ただし六五が上九に遇上するときのみ、この意を取る。上九は超然として流俗に高出する賢者で、六五は虚懐にして中に居る君主だからである。
故如《大有》、《大畜》之六五、上九,孔子則贊之以“尚賢”;《頤》、《鼎》之六五、上九,孔子則贊之以“養賢”,其辭皆最吉。若以九五比上六,則亦反以尊寵小人為累,如《大過》之“老婦得其士夫”,《咸》之“志末”,《夬》之“莧陸”,《兌》之“孚于剝”,皆是也。獨《隨》之九五下上六,而義有取者,卦義剛來下柔故爾,若初與二,二與三,三與四,則非正應而相比者,或恐陷於朋黨比周之失,故其義不重。
だから《大有》《大畜》両卦の六五と上九のごときは、孔子は伝文の裡で「尚賢」をもって称許した。《頤》《鼎》両卦の六五と上九は、孔子は「養賢」をもって称許した。それらの爻辞はみな最吉である。もし九五に換えて上六に親比せば、転じて小人を尊崇寵信して牽累を受ける。たとえば《大過》卦九五は「老婦その士夫を得る」といい、年老の婦人に年少の男子が配る。《咸》卦九五は「志末なり」といい、心志はただ末梢に落つ。《夬》卦九五は「莧陸」といい、柔脆の莧陸草のごとく決断し難い。《兌》卦九五は「剥に孚む」といい、誤って誠信を陽を剥ぐ小人に交わす。みなこの一類に属する。ただ《随》卦の九五のみ、下に上六に親比して義理上説き通る。あれは《随》卦それ自体の卦義が剛爻が来りて柔爻の下に居る故である。初と二・二と三・三と四のごとき正応に非ずして彼此緊隣の関係に至っては、徒党を結び私を営み互いに勾連する過失に流れるを恐れるのみ。だから義理上では看重しない。
此皆例之常也。若其爻為卦主,則群爻皆以比之、匝之為吉凶焉,故五位之為卦主者,不待言矣。如《豫》四為卦主,則初“鳴”而三“盱”。《剝》上為卦主,則三“無咎”而五“無不利”。《復》初為卦王,則二下仁而四“獨復”。《夬》上為卦主,則三“壯頄”而五“莧陸”。《姤》初為卦主,則二“包有魚”而四“包無魚”。此又《易》之大義,不可以尋常比應之例論也。
以上講じたのはみな通常の条例である。もし某一爻が全卦の「卦主」ならば、其余の各爻はみなそれと相「比」し相「匝」(「匝」は「応」とすべし)する関係をもって吉凶を定める。五位それ自体が卦主に充当する情形に至っては、さらに言うまでもない。たとえば《豫》卦は九四を卦主とし、初六はすなわち「鳴豫」といい、それに随って歓鳴し、六三はすなわち「盱豫」といい、首を仰いで張望する。《剥》卦は上九を卦主とし、六三はすなわち「咎なし」を得て災に至らず、六五はすなわち「不利なし」を得る。《復》卦は初九を卦主とし(「卦王」は「卦主」とすべし)、六二はすなわち下の仁人に親近し、六四はすなわち「独り復る」といい、独り正道に返帰する。《夬》卦は上六を卦主とし、九三はすなわち「頄に壮ん」といい、剛壮が顴骨に顕露し、九五はすなわち「莧陸」という。《姤》卦は初六を卦主とし、九二はすなわち「包に魚有り」といい、厨中にまだ魚を包み、九四はすなわち「包に魚無し」といい、厨中にすでに魚なし。これはまた《周易》の一条の大義で、平常のあの套の「比」「応」の条例をもって衡量できない。
卦主
卦主凡所謂卦主者,有成卦之主焉,有主卦之主焉。成卦之主,則卦之所由以成者。無論位之高下,德之善惡,若卦義因之而起,則皆得為卦主也。主卦之主,必皆德之善,而得時、得位者為之。故取於五位者為多,而它爻亦間取焉。其成卦之主,即為主卦之主者,必其德之善,而兼得時位者也。其成卦之主,不得為主卦之主者,必其德與時位,參錯而不相當者也。
卦主。凡そいわゆる「卦主」は二類に分かれる:一類は「成卦之主」、一類は「主卦之主」である。いわゆる成卦之主とは、この一卦が成立しうる所以・名を得うる所以のあの一爻を指す。それの爻位の高低・徳性の善悪を問わず、ただ整卦の意義がそれによって生ずれば、みな卦主と算しうる。いわゆる主卦之主は、必ず徳性が純善で、しかもその時を得またその位を得る爻でなければ充当できない。ゆえに五位を取って主卦之主とするものが最も多く、別の爻位も偶々取用する。凡そ成卦之主が同時にまた主卦之主であるものは、必ず徳性が純善にして時位を兼得する爻である。凡そ成卦之主であっても主卦之主に当たれないものは、必ずその徳性と時位が彼此錯開して相称しない故である。
大抵其說皆具於夫於之《彖傳》,當逐卦分別觀之。若其卦成卦之主,即主卦之主,則是一主也,若其卦有成卦之主,又有主卦之主,則兩爻皆為卦主矣。或其成卦者兼取兩爻,則兩爻又皆為卦主矣。或其成卦者兼取兩象,則兩象之兩爻,又皆為卦主矣。亦當逐卦分別觀之。
大体これらの説法はみな孔子の作った《彖伝》の裡に具備している(「夫于」は「夫子」とすべし)。卦を逐って分別して体会すべきである。もし一卦の成卦之主が即ち主卦之主ならば、この一卦にはただ一つの卦主がある。もし一卦が別に成卦之主を有し、また別に主卦之主を有すれば、この両爻はともに卦主と算する。時に卦義を構成する憑藉が兼ねて両爻を取れば、その両爻もともに卦主である。時に卦義を構成する憑藉が兼ねて上下両個の卦象を取れば、両象各々の主爻もみな卦主と算する。これは同様に卦を逐って分別して見なければならない。
《乾》以九五為卦主,蓋乾者天道,而五則天之象也。乾者君道,而五則君之位也,又剛健中正。四者具備,得天德之純,故為卦主也。觀《彖傳》所謂“時乘六龍以御天”,“首出庶物”者,皆主君道而言。
《乾》卦は九五をもって卦主とする。乾は天道を代表し、五爻は正に天位の象徴である。乾はまた君道を代表し、五爻は正に君主の位置である。これに加えて九五それ自体は剛にしてしかも健、また中に居り、また位に当たる。剛・健・中・正の四項が斉備し、最も純粋に上天の徳性を体現する。だからそれを立てて卦主とする。《彖伝》のいう「時に六龍に乗じて以て天を御す」——時に随い六条の龍に駕して天道を統御すること、および「庶物の首と出で」——万物の首に居ることは、講ずるところみな君道である。
《坤》以六二為卦主,蓋坤者地道,而二則地之象也。坤者臣道,而二則臣之位也,又柔順中正。四者具備,得坤德之純,故為卦主也。觀彖辭所謂“先迷後得主”“得朋”“喪朋”者,皆主臣道而言。
《坤》卦は六二をもって卦主とする。坤は地道を代表し、二爻は正に地位の象徴である。坤はまた臣道を代表し、二爻は正に臣子の位置である。これに加えて六二それ自体は柔にしてしかも順、また中に居り、また位に当たる。柔・順・中・正の四項が斉備し、最も純粋に大地の徳性を体現する。だからそれを立てて卦主とする。卦辞のいう「先には迷い後に主を得る」——前に搶えば迷失し、後に随えばはじめて主人を見出すこと、および「朋を得」「朋を喪う」——同類を得ることと同類を捨てることは、講ずるところみな臣道である。
《屯》以初九、九五為卦主,蓋卦唯兩陽,初九在下,侯也,能安民者也。九五在上,能建侯 亦指五而言之也。《師》以九二、六五為主,蓋九二在下,“丈人”也;六五在上,能用“丈人”者也。《比》以九五為主,蓋卦唯一陽居尊位,為上下所比附者也。
《屯》卦は初九・九五をもって卦主とする。全卦にただ二つの陽爻があるのみだからである:初九は下にあり、封を受けた諸侯で、百姓を安定し得る。九五は上にあり、諸侯を分封し得る。ここで底本に脱文があり、「亦指五而言之也」(また五を指してこれを言うなり)の一句のみが残り、言うのもまた九五である。《師》卦は九二・六五をもって卦主とする。九二は下にあり、即ち卦辞のいう「丈人」、即ち老成持重の統帥である。六五は上にあり、この「丈人」を任用し得る君主である。《比》卦は九五をもって卦主とする。全卦にただ一つの陽爻が尊位に居り、上下の衆陰が来りて親附する対象だからである。
《小畜》以六四為成卦之主,而九五則主卦之主。蓋六四以一陰畜陽,故《彖傳》曰“柔得位而上下應之”,九五與之合志,以成其畜,故《彖傳》曰“剛中而志行”。《履》以六三為成卦之主,而九五則主卦之主也。蓋六三以一柔履眾剛之間,多危多懼,卦之所以名《履》也。居尊位尤當常以危懼存心,故九五之辭曰“貞厲”,而《彖傳》曰“剛中正,履帝位而不疚”。
《小畜》卦は六四をもって成卦之主とし、九五をもって主卦之主とする。六四が一つの陰爻をもって衆陽を畜止するからである。だから《彖伝》は「柔位を得て上下これに応ず」といい、柔爻が当位に居りて上下の諸陽が来りてこれに応ず。九五はそれと心志相合し、それが畜止の功を成すを助ける。だから《彖伝》はまた「剛中にして志行わる」といい、剛爻が中に居りて心志が推行を得る。《履》卦は六三をもって成卦之主とし、九五をもって主卦之主とする。六三が一つの柔爻をもって衆多の剛爻の中間を行き、処境は多く危険で心裡は多く畏惧する。これ正に卦名が《履》と称する由来である。身に尊位に居る者は特に常に危惧の心を存すべきである。だから九五の爻辞は「貞厲」といい、正を守りて危を知る。《彖伝》は「剛中正、帝位を履みて疚しからず」といい、剛健中正にして帝位を践登して問われて愧じない。
《泰》以九二、六五為主,蓋泰者上下交而志同,九二能盡臣道以上交者也,六五能盡君道以下交者也,二爻皆成卦之主,亦皆主卦之主也。《否》以六二、九五為主,蓋否者上下不變,六二“否亨”,斂德闢難者也。九五“休否”,變《否》為《泰》者也。然則六二成卦之主,而九五則主卦之主也。
《泰》卦は九二・六五をもって卦主とする。泰の意は上下交通して心志相同じくするにあるからである:九二は臣子の本分を尽くして上に君主に交結し得る。六五は君主の本分を尽くして下に臣子に交結し得る。この両爻は成卦之主であると同時に、いずれも主卦之主である。《否》卦は六二・九五をもって卦主とする。否の意は上下隔絶して通ぜず(「上下不変」は「上下不交」とすべし):六二爻辞は「否亨」といい、閉塞の世に才徳を収斂して禍難を躱く。九五爻辞は「否を休む」といい、閉塞の局面を止住し、《否》を《泰》に転変する。このように見れば、六二は成卦之主、九五ははじめて主卦之主である。
《同人》以六二、九五為主,蓋六二以一陰能同眾陽,而九五與之應。故《彖傳》曰“柔得位得中,而應乎乾”。《大有》以六五為主,蓋六五以虛中居尊,能有眾陽。故《彖傳》曰“柔得尊位,大中,而上下應之”。《謙》以九三為主,蓋卦唯一陽,得位而居下體,謙之象也。故其爻辭與卦同,《傳》曰“三多凶”,而唯此爻最吉。
《同人》卦は六二・九五をもって卦主とする。六二が一つの陰爻をもって衆陽と和同し得て、九五がそれと正に相呼応するからである。だから《彖伝》は「柔位を得中を得て、乾に応ず」といい、柔爻がすでに当位でまた中に居り、上に乾体に呼応する。《大有》卦は六五をもって卦主とする。六五が虚懐居中の姿態をもって尊位に占住し、衆多の陽爻を統有し得るからである。だから《彖伝》は「柔尊位を得、大中にして、上下これに応ず」といい、柔爻が尊位を取得し大中に居り、上下の諸爻が来りてこれに応ず。《謙》卦は九三をもって卦主とする。全卦にただ一つの陽爻があり、すでに当位を得、また下体に処る。正に謙退の象徴である。だからその爻辞の「労謙」は卦名と同義である。《系辞伝》は「三は凶多し」といい、三爻の位置は多く兇険があるが、ただ《謙》卦のこの一爻のみが最も吉利である。
《豫》以九四為主,卦唯一陽,而居上位,卦之所由以為豫者。故《彖傳》曰“剛應而志行”。《隨》以初九、九五為主,蓋卦之所以為隨者,剛能下柔也。初五兩爻,皆剛居柔下,故為卦主。《蠱》以六五為主,蓋諸爻皆有事於幹蠱者,至五而功始成,故諸爻皆有戒辭,而五獨曰“用譽”也。
《豫》卦は九四をもって卦主とする。全卦にただ一つの陽爻があり、それが上体の位に居る。正に全卦が「豫」即ち和楽と称しうる根由である。だから《彖伝》は「剛応じて志行わる」といい、剛爻が衆陰の呼応を得て心志が通行する。《随》卦は初九・九五をもって卦主とする。この卦が「随」と呼ばれる所以は、剛爻が柔爻の下に屈居しうるにある。初九と九五のこの両爻は、いずれも剛爻でありながら柔爻の下に処する。だから立てて卦主とする。《蠱》卦は六五をもって卦主とする。各爻がみな積弊を匡正する事に従事し、五爻に至ってはじめて大功が告成するからである。だから其余の各爻はみな警戒の辞を帯びるが、ただ六五のみ「誉れを用う」といい、美誉を得る。
《臨》以初九、九二為主,《彖傳》所謂“剛浸而長”是也。《觀》以九五、上九為主,《彖傳》所謂“大觀在上”是也。《噬嗑》以六五為主,《彖傳》所謂“柔得中而上行”是也。《賁》以六二、上九為主,《彖傳》所謂“柔來而文剛”,“剛上而文柔”是也。《剝》以上九為主,陰雖剝陽,而陽終不可剝也,故為卦主。《復》以初九為主,《彖傳》所謂“剛反”者是也。
《臨》卦は初九・九二をもって卦主とする。即ち《彖伝》のいう「剛浸して長ず」、剛爻が一歩々々浸潤生長する。《観》卦は九五・上九をもって卦主とする。即ち《彖伝》のいう「大観上に在り」、宏大なる観仰の対象が高く上位に居る。《噬嗑》卦は六五をもって卦主とする。即ち《彖伝》のいう「柔中を得て上行す」、柔爻が中位を取得して上に向かい行進する。《賁》卦は六二・上九をもって卦主とする。即ち《彖伝》のいう「柔来りて剛を文る」「剛上りて柔を文る」、柔爻が下りて来て剛爻を文飾し、剛爻が上りて行きて柔爻を文飾する。《剥》卦は上九をもって卦主とする。陰気は一路陽気を剥蝕するが、陽気は終に剥蝕し尽くされない。だからそれを立てて卦主とする。《復》卦は初九をもって卦主とする。即ち《彖伝》のいう「剛反る」、陽剛の気が去ってまた返る。
《無妄》以初九、九五為主,蓋初九陽動之始,如人誠心之初動也:九五乾德之純,如人至誠之無息也。故《彖傳》曰“剛自外來而為主於內”,指初也;又曰“剛中而應”,指五也。《大畜》以六五、上九為主,《彖傳》所謂“剛上而尚賢”者是也。《頤》亦以六五、上九為主,《彖傳》所謂“養賢以及萬民”者是也。
《无妄》卦は初九・九五をもって卦主とする。初九は陽気が活動を始める所で、たとえば人の一片の誠心がまさに発動したばかりのごとし。九五は乾徳の最も純粋なる所で、たとえば人の至誠の心が永く断えないがごとし。だから《彖伝》は「剛自ら外来りて内に主たる」といい、剛爻が外卦より来りて内卦に主となる。指すのは初九である。また「剛中にして応ず」といい、剛爻が中に居りて呼応あり。指すのは九五である。《大畜》卦は六五・上九をもって卦主とする。即ち《彖伝》のいう「剛上りて賢を尚ぶ」、剛爻が高く上位に居りて尊崇を受ける。《頤》卦も同様に六五・上九をもって卦主とする。即ち《彖伝》のいう「賢を養いて万民に及ぼす」、賢人を供養して恩沢を万民に推し及ぼす。
《大過》以九二、九四為主,蓋九二剛中而不過者也,九四棟而不橈者也。《坎》以二五二陽為主,而五尤為主,水之積滿者行也。謂動而能靜,則五尤卦主也。《恆》者常也,中則常矣,卦唯二五居中,而六五之柔中,尤不如九二之剛中,則二卦主也。
《大過》卦は九二・九四をもって卦主とする。九二は剛健にして中に居りて太過に失せず、九四は屋梁のごとく重を承けて弯曲しないからである。《坎》卦は九二・九五の両陽爻をもって卦主とし、その中で九五は特に主である。水は蓄積が満ちてはじめて流行しうるからである。続く「動けて能く静ならば、則ち五尤も卦主なり」(謂動而能静、則五尤卦主也)の一句は、動くことができてまた静であることができるから、五爻が特に卦主と算せられるという。ここで底本に脱文があり、この句の属する卦名はすでに缺失している。《恒》卦の「恒」とは長久である。中を守りえれば長久しうる。この卦は二爻・五爻のみが中に居るが、六五の柔中は終に九二の剛中に及ばない。だから九二が卦主である。
《遯》之為遯以二陰,則初二成卦之主也。然處之盡善者唯九五,則九五又主卦之主也。故《彖傳》曰“剛當位而應,與時行”也。《大壯》之為壯以四陽,而九四當四陽之上,則四卦主也。《晉》以明出地上成卦,六五為離之主,當中天之位,則五卦主也。故《彖傳》曰“柔進而上行”。
《遯》卦が「遯」即ち退避と称する所以は、底下の二つの陰爻が逼りて生じ上って来るからである。だから初六・六二は成卦之主である。ただし退避のこの事を最も完善に処置したのは九五のみである。だから九五はまた主卦之主である。ゆえに《彖伝》は「剛位に当たりて応あり、時とともに行く」といい、剛爻が当位して呼応あり、時勢に順って行動する。《大壮》卦が「壮」と称する所以は、底下の四つの陽爻が壮盛で、九四がちょうど四つの陽爻の最も上に在るからである。だから九四が卦主である。《晋》卦は太陽が地面の上に出るを象に取って卦を成す。六五は離体の主爻で、正に日が中天に在る位置に当たる。だから六五が卦主である。ゆえに《彖伝》は「柔進みて上行す」といい、柔爻が前進して上に向かい行走する。
《明夷》以日入地中成卦,而上六積土之厚,夷人之明者也,成卦之主也。六二、六五皆秉中順之德,明而見夷者也,主卦之主也。故《彖傳》曰“文王以之”、“箕子以之”。《家人》以九五、六二為主,故《彖傳》曰“女正位乎內,男正位乎外”。《睽》以六五、九二為主,故《彖傳》曰“柔進而上行,得中而應乎剛”。
《明夷》卦は太陽が地中に落ち入るを象に取って卦を成す。上六は積土の最も厚い所で、正に他人の光明を傷害する一方である。だから成卦之主である。六二と六五はともに居中柔順の徳性を秉持し、自身は光明でありながら損傷に遭う。だから主卦之主である。ゆえに《彖伝》は「文王これをもってす」「箕子これをもってす」といい、文王と箕子はこの態度をもって困に処したのである。《家人》卦は九五・六二をもって卦主とする。だから《彖伝》は「女は内に位を正しくし、男は外に位を正しくす」といい、女子は内に在ってその正位を守り、男子は外に在ってその正位を守る。《睽》卦は六五・九二をもって卦主とする。だから《彖伝》は「柔進みて上行し、中を得て剛に応ず」といい、柔爻が前進上行し、中に居りて剛爻と相応ずる。
《蹇》以九五為主,故《彖傳》曰“往得中也”。蓋《彖》辭所謂“大人”者,即指五也。《解》以九二、六五為主,故《彖傳》曰“往得眾也”,指五也。又曰“乃得中也”,指二也。《損》以損下卦上畫,益上卦上畫為義,則六三、上九,成卦之主也:然損下益上,所益者君也,故六五為主卦之主。
《蹇》卦は九五をもって卦主とする。だから《彖伝》は「往きて中を得るなり」といい、前往すれば中位を取得できる。卦辞のいう「大人」は、正に九五を指す。《解》卦は九二・六五をもって卦主とする。だから《彖伝》は「往きて衆を得るなり」といい、前往すれば民衆を得られる。指すのは六五である。また「乃ち中を得るなり」といい、これが中道に合する。指すのは九二である。《損》卦は下卦の最上一画を減損し上卦の最上一画を増益するを取義とする。だから六三・上九は成卦之主である。ただし下を損し上を益すとき、増益される対象は君主である。だから六五が主卦之主である。
《益》以損上卦下畫,益下卦下畫為義,則六四、初九,成卦之主也。然損上益下者,君施之而臣受之,故九五、六二為主卦之主。《夬》以一陰極於上為義,則上六成卦之主也。然五陽決陰,而五居其上,又尊位也,故九五為主卦之主。
《益》卦は上卦の最下一画を減損し下卦の最下一画を増益するを取義とする。だから六四・初九は成卦之主である。ただし上を損し下を益すこの事は、君主が施与して臣下が承受するものである。だから九五・六二が主卦之主である。《夬》卦は一つの陰爻が最上に高踞するを取義とする。だから上六は成卦之主である。ただし五つの陽爻が共同してこの一陰爻を決除し、九五はまた衆陽の最も上に処し、自身また尊位である。だから九五が主卦之主である。
《姤》以一陰生於下為義,則初六成卦之主也。然五陽皆有制陰之責,而唯二五以剛中之德,一則與之相切近以制之,一則居尊臨其上以制之,故九五、九二為主卦之主。《萃》以九五為主,而九四次之,卦唯二陽而居高位,為眾陰所萃也。
《姤》卦は一つの陰爻が底下より生じ出るを取義とする。だから初六は成卦之主である。ただし五つの陽爻はみな陰爻を節制する責任を負い、その中で九二・九五のみが剛健居中の徳性を具備する:一つは初六に緊挨して就近くこれを節制し、一つは高く尊位に居りて上より統臨してこれを節制する。だから九五・九二が主卦之主である。《萃》卦は九五をもって卦主とし、九四がこれに次ぐ。全卦にただ二つの陽爻が高位に占居し、衆多の陰爻が聚集依拠する対象だからである。
《升》以六五為主,《彖傳》曰“柔以時升”,六五升之最尊者也。然升者必自下起,其卦以地中生木為象,則初六者巽體之主,乃木之根也,故初六亦為成卦之主。《困》以九二、九五為主,蓋卦以剛掩為義,謂二五以剛中之德,而皆掩於陰也,故兩爻皆成卦之主,又皆主卦之主。
《升》卦は六五をもって卦主とする。《彖伝》は「柔時をもって升る」といい、柔爻が時機に順応して上昇する。六五は正に最も尊貴の位置に上昇したあの一爻である。ただし上昇は総じて底下より起步する。この卦は地中に樹木が生ずるを象に取り、初六は巽体の主爻、即ち樹木の根である。だから初六も同様に成卦之主である。《困》卦は九二・九五をもって卦主とする。この卦は剛爻が掩蔽されるを取義とし、二爻・五爻は剛健居中の徳性を有しながら、ともに陰爻に遮掩されているというのである。だからこの両爻は成卦之主であると同時に、いずれも主卦之主である。
《井》以九五為主,蓋井以水為功,而九五坎體之主也;井以養民為義,而九五養民之君也。《革》以九五為主,蓋居尊位,則有改革之權;剛中正,則能盡改革之善,故其辭曰“大人虎變”。《鼎》以六五、上九為主,蓋鼎以養賢為義,而六五尊尚上九之賢,其象如鼎之鉉耳之相得也。
《井》卦は九五をもって卦主とする。水井は水を出すを功用とし、九五は坎体の主爻だからである。水井はまた百姓を養うを意義とし、九五は正に百姓を養育する君主だからである。《革》卦は九五をもって卦主とする。尊位に身居すれば変革の権柄を握り、剛健中正であれば変革を尽善に致し得るからである。だからその爻辞は「大人虎変す」といい、大人の更新は虎皮の毛が換わるがごとく斑然として観るべきものがある。《鼎》卦は六五・上九をもって卦主とする。鼎は賢人を供養するを意義とし、六五は上九のこの賢者を尊崇する。その形象は鼎耳と鼎を挙げる铉とが互いに配合するがごとし。
《震》以二陽為主,然震陽動於下者也,故四不為主,而初為主。《艮》亦為二陽為主,然艮陽止於上者也,故三不為主,而上為主。《漸》以女歸為義,而諸爻唯六二應五,合乎女歸之象,則六二卦主也。然漸又以進為義,而九五進居高位,有剛中之德,則九五亦卦之主也。
《震》卦は二つの陽爻をもって卦主とするが、震の性質は陽気が下において発動する。だから九四は主と算せず、初九こそ主である。《艮》卦も同様に二つの陽爻をもって卦主とするが、艮の性質は陽気が上において止住する。だから九三は主と算せず、上九こそ主である。《漸》卦は女子の嫁ぐを取義とする。各爻の中で六二のみが上に九五に応じ、女子嫁ぐの形象に合する。だから六二が卦主である。ただし漸はまた循序前進を取義とし、九五は高位に漸進して剛健居中の徳性を具備する。だから九五もまたこの卦の主である。
《歸妹》以女之自歸為義,其德不尊,故《彖傳》曰“‘無攸利’,柔乘剛也”。是六三,上六成卦之主也。然六五居尊,下交,則反變不尊而為尊,化凶而為吉。是六五又主卦之主也。《豐》以六五為主,蓋其彖辭曰“王假之,勿憂,宜日中”,六五之位則王之位也,柔而居中,則日中之德也。
《帰妹》卦は女子が自ら嫁ぐを取義とする。この做法は徳性が端重に足らない。だから《彖伝》は「『攸往利なし』とは、柔が剛に乗ずるなり」といい、何の益もない所以は、柔爻が剛爻の上に凌駕するからである。このように見れば、六三・上六は成卦之主である。ただし六五は尊位に身居しながら下に交結するを肯んじ、かえって尊重せざるを尊重に転じ、兇険を化解して吉利と成す。だから六五はまた主卦之主である。《豊》卦は六五をもって卦主とする。その卦辞が「王これに仮り、憂うる勿れ、日中に宜し」(王が自ら来り臨み、憂慮する必要なく、日の中正のごときが宜しい)と言うからである。六五の位置は即ち君王の位置で、柔順にしてまた中に居り、正に日が中天に在るあの徳性である。
《旅》亦以六五為主,故《彖傳》曰“柔得中乎外”。又曰“止而麗乎明”。五居外體,旅於外 《巽》雖主於二陰,然陰卦以陰為主者,唯離為然,以其居中故也。巽之二陰,則為成卦之主,而不得為主卦之主。主卦之主者,九五也。申命行事,非居尊位者不可。故《彖傳》曰“剛巽乎中正而志行”,指五也。
《旅》卦も同様に六五をもって卦主とする。だから《彖伝》は「柔外に中を得」といい、柔爻が外卦において中位を取得した。また「止まりて明に麗る」といい、静止してまた光明に附麗する。六五は外体に処り、正に羈旅して外に在る形象である。以下、底本に脱文がある。続いて言う:《巽》卦は二つの陰爻をもって主導とするが、陰卦で真に陰爻をもって主とするのは離卦のみである。あれは離の陰爻が中に居る故である。巽卦の二つの陰爻はただ成卦之主と算するのみで、主卦之主には当たれない。主卦之主は九五である。布政令を申し政務を推行するは、尊位に居る者でなければ辦せられない。だから《彖伝》は「剛中正に巽りて志行わる」といい、剛爻が中正の道をもって謙遜に行事して心志が行い得る。指すのは正に九五である。
《兌》之二陰亦為成卦之主,而不得為主卦之主。主卦之主,則二五也。故《彖傳》曰“剛中而柔外,說以‘利貞’”。《渙》以九五為主,蓋收拾天下之散,非居尊不能也。然九二居內以固其本,六四承五以成其功,亦卦義之所重,故《彖傳》曰“剛來而不窮,柔得位乎外而上同”。
《兌》卦の二つの陰爻も同様にただ成卦之主で、主卦之主には当たれない。その主卦之主は九二と九五である。だから《彖伝》は「剛中にして柔外、説びて『貞に利し』」といい、剛爻が中に居りて柔爻が外に在り、喜悦してまた正を守るに利あり。《渙》卦は九五をもって卦主とする。天下の渙散の局面を収拾するに、尊位に居らなければ辦し成せないからである。ただし九二は内卦に守りて根本を穏固にし、六四は上に九五を承けて功業を成就する。これもまたこの卦の看重する意義である。だから《彖伝》は「剛来りて窮まらず、柔外に位を得て上に同ず」といい、剛爻が来りて内卦に居りて困窮に至らず、柔爻が外卦に正位を得て上位と心を同じくする。
《節》亦以九五為主,蓋立制度以節天下,亦唯居尊有德者能之。故《彖傳》曰“當位以節,中正以通”。《中孚》之成卦以中虛,則六三、六四,成卦之主也。然孚之取義以中實,則九二、九五,主卦之主也。至於孚乃化邦,乃居尊者之事,故卦之主在五。《小過》以二五為主,以其柔而得中,當過之時而不過也。
《節》卦も同様に九五をもって卦主とする。制度を訂立して天下を節制するは、尊位に居りてまた徳ある者のみが辦し得るからである。だから《彖伝》は「位に当たりて以て節し、中正にして以て通ず」といい、正位を占拠して節制を施行し、中正にして通達する。《中孚》卦が卦を成すのは中間の空虚に靠る。だから六三・六四は成卦之主である。しかし「孚」のこの字は内心の充実に取義する。だから九二・九五が主卦之主である。誠信を憑って邦国を感化するに至っては、あれは尊位に居る者の事である。ゆえに全卦の主はなお九五に在る。《小過》卦は六二・六五をもって卦主とする。それらは柔順にしてまた中に居り、「過」の時に処しても過分に至らないからである。
《既濟》以六二為主,蓋既濟則初吉而終亂,六二居內體,正初言之時也。故《彖傳》曰“初吉柔得中也”。《未濟》以六五為主,蓋未濟則始亂而終治,六五層外體,正開治之時也。故《彖傳》曰“未濟‘亨’,柔得中也”。
《既済》卦は六二をもって卦主とする。事がすでに渡り済せば、初め吉利にして末に乱を生ずるからである。六二は内体に処り、正に初め吉利なるあの段階に当たる(「初言」は「初吉」とすべし)。だから《彖伝》は「初吉とは柔中を得るなり」といい、初め吉利なるは柔爻が中に居るがゆえである。《未済》卦は六五をもって卦主とする。事がまだ渡り済さざれば、開頭は混乱して末に治定するからである。六五は外体に処り(「層外体」は「居外体」とすべし)、正に治世を開創するあの段階に当たる。だから《彖伝》は「未済『亨』とは、柔中を得るなり」といい、未済にして亨通しうるは、柔爻が中に居るがゆえである。
以上之義,皆可以據《彖傳》、爻辭而推得之。大抵《易》者,成大業之書。而成大業者,必歸之有德有位之人。故五之為卦主者獨多。中間亦有因時義不取五為王位者,不過數卦而已。
以上のこれらの義理は、みな《彖伝》と各爻の爻辞に拠って推求し出せる。大体言えば、《周易》は大事業を成就することを講ずる一部の書である。大事業を成就しうる者は、必ず徳行を有しまた地位を有する人に帰す。だから五爻をもって卦主に充当する情形が特に多い。その間にも一卦の時義が特殊であるがゆえに五爻を君王の位としないものもあるが、あれは少数の数卦にすぎない。
自五而外,諸爻之辭,有曰王者,皆非以其爻當王也,乃對五位而為言耳。如《隨》之上曰“王用亨于西山”,則因其繫於五也。《益》之二日“王用亨於帝”,則因其應於五也。《升》之四曰“王用亨于岐山”,則因其承於五也。皆其德與時稱,故王者簡而用之,以答乎神明之心也。
五爻を除いて、其余の各爻の爻辞の裡にも「王」の字が出現するものがあるが、あれはみなその一爻を君王とするのではなく、五位に相対して言うのである。たとえば《随》卦上六は「王西山に亨す」といい、君王が西山において祭享を挙行する。あれは上六が九五に繫属するがゆえである。《益》卦六二は「王これをもって帝に亨す」といい、君王がそれをもって上帝に祭享する。あれは六二が上に九五に応ずるがゆえである(「二日」は「二曰」とすべし)。《升》卦六四は「王岐山に亨す」といい、君王が岐山において祭享を挙行する。あれは六四が上に九五を承けるがゆえである。この数爻はみな徳行と時勢が相称する。だから君王は選抜して任用を加え、これを借りて神明の心意に回応する。
又上爻有蒙五爻而終其義者,如《師》之上曰“大君有命”,則因五之出師定亂,而至此則奏成功也。《離》之上曰“王用出征”,則因五之憂勤圖治,而至此則除亂本也。皆蒙五爻之義,而語其成效如此。《易》中五上兩爻,此類最多,亦非以其爻當王也。
また別に上爻が五爻の意を承接して、それを講じ尽くす例がある。たとえば《師》卦上六は「大君命有り」といい、天子が冊命を頒下する。あれは九五が兵を出して禍乱を平定し、上六のこの一歩に至りはじめて成功を奏報するがゆえである。《離》卦上九は「王これをもって出征す」といい、君王がこれによって兵を出して征討する。あれは九五が憂労勤勉して治を謀り、上九のこの一歩に至りはじめて禍乱の根本を剷除するがゆえである。これらはみな五爻の意を承接し、進んでその成效を説き出したものである。《周易》の裡で五爻と上爻のこの二つの位置は、この一類の情形が最も多い。同様にあの一爻を君王とするのではない。
