Libo

先天図説・邵子語録と李光地按語

清 · 李光地 · 第83巻 / 87

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

又曰:坎離者,陰陽之限也,故離當寅,坎當申,而數常逾之者,陰陽之溢也。然用數不過乎中也。此更宜思。離當卯,坎當酉,但以坤為子半可見矣。

邵雍がまたいう:「坎」と「離」の両卦は、陰と陽とが各々界限の在所である。ゆえに十二辰に配するれば、「離」は「寅」に配当すべく、「坎」は「申」に配当すべし。しかるに実際推算するとき得る数はつねにこの界限を越過す。あれは陰陽の気が有余にして外溢するの縁故である。しかるに真に取用する数は、終じて中道を超出せず。この一層はなおさらに細細と体会するを須む。もし別の一種の配法に換えれば、「離」は「卯」に配当すべく、「坎」は「酉」に配当すべし。これはただ先天図の上に「坤」がまさに子時の半ば(子半)の処に當たるを看れば、便ち明白にし得べし。

又曰:先天學,心法也,故圖皆自中起,萬化萬事,生於心也。又曰:圖雖無文,吾終日言而未嘗離乎是,蓋天地萬物之理,盡在其中矣。

邵雍がまたいう:「先天之学」が講ずるは心法である。ゆえに先天の諸図はみな図の正中より算を起こす。天下の千変万化の事事物物は、みなこの一点の心上より生まれ出づ。邵雍がまたいう:先天図の上には一个字も写さざるといえども、我は終日に講説して、而して講ずる所は一句としてそれを離れ得るなし。天地万物の道理は、全くこの張の図の裏に包含せられて就くればなり。

案自孔子既沒,易道失傳,義理既巳差訛,圖象尤極茫渺,唯《大傳》“帝出乎震”一條,所載八卦方位,顯然明白,故學者有述焉。其餘如“卦氣”“月候”之屬,皆漢儒傅會,非聖人本法也,至宋康節邵子,乃有所謂“先天圖”者,其說有六十四卦生出之序,則今之橫圖,自一畫至六畫,一每分二者是已,有八卦方位,則今之小囤圖,乾南坤北離東坎西者是已,有六十四卦方位,則今之大圓圖,始《復》、《姤》、終《乾》、《坤》者是巳,大圓圖中自方圖,又所以象天地之相函也。

李光地が按ずる:孔子が去世してのち以来、《易》道の伝授は便ち中断したり。義理の一面はすでに偏差訛誤を出現し、図と象の一面はさらに渺茫として考え難し。ただ《大伝》の裏の「帝出乎震」のこの一条(《説卦伝》に見る)は、記する八卦方位が明明白白ゆえに、後世の学者はなお依拠する所有りて講じ得る。其余の「卦気」「月候」のこの一類のごときは、みな漢代の儒者が牽強附会して出だしたで、並びて聖人本有の法度に非ず。宋代の康節先生邵雍に到りて、はじめていわゆる「先天図」あり。彼のこの套の学説の裏に、六十四卦が生出する次序を講ずるは、すなわち今天見るところの「横図」で、一画より排して六画に至り、毎一画がみな一を二に分かつあの一张である。八卦方位を講ずるは、すなわち今天見るところの「小円図」で、乾が南、坤が北、離が東、坎が西のあの一张である。六十四卦方位を講ずるは、すなわち今天見るところの「大円図」で、《復》《姤》より起こり、《乾》《坤》に至って止まるあの一张である。大円図の當中にはなお一張の「方図」を套する。あれは天地が互相に包含涵攝するを象徴するに用いる。

諸圖之義,廣大高深,信非聖人不能造作,然當邵子之時,伊川程子則未之見,龜山楊氏見而未之信,唯明道程子,稍見其書,而括以加倍之一言,然則當時知邵子者,明道一人而已。南渡之後,如林栗袁樞之徒,攻邵者尤眾,雖象山陸氏,亦以為先天圖非聖人作《易》本指。獨朱子與蔡氏,闡發表章,而邵學始顯明於世,五百年來雖復有為異論者,而不能奪也。

この幾張の図の意義は広大高深で、確かに聖人に非ざれば制作し出す能わず。しかるに邵雍が世に在るとき、伊川程頤は並びてこれらの図を見たことなく、亀山楊時は見て信ずるを肯ぜず、ただ明道程顥のみ略々彼の書を看過して、「加一倍法」の一句話を以てそれを概括して住めり。このよう看れば、当時真に邵雍を解したは、ただ程顥の一个人に過ぎず。宋室が南渡して以後、林栗・袁枢のこの一班の人のごときは、邵雍を攻撃するさらに多く、象山陸九淵に連なりてもまた「先天図」は聖人の《易》を作るの本意に非ずと認めたり。ただ朱熹と蔡元定父子のみ之に闡発表彰を加えて、邵氏の学ははじめて世上に顕明となれり。五百年のあいだ仍お不断に異議を提出する人有るといえども、終じてそれを動揺する能わず。

顧朱子之意,以為孔於之後諸儒不能傳授,而使方外得之,故其流為丹灶小術,至康節然後返之於易道。今以《參同契》諸書觀之,其六卦月候,蓋即“納甲”之法,其十二闢卦主歲,蓋即“卦氣”之流,所為始於震復者,與先天偶同爾,似未足為先天傳受之據。

ただし朱熹の意思は、孔子以後の儒者はこの套の学問を伝え下ること能わず、かえって方外の士に得させ去りて、これにより炼丹焼竈の一類の小技に流れ、邵雍の手裏に至ってはじめてそれを《易》道の上に拉し回したと認む。如今《周易参同契》のこの一類の書を以て看れば、それの六卦を以て月候に配するを講ずるは、実はすなわち「納甲」の方法である。十二辟卦を以て一歳に分主するを講ずるは、実はすなわち「卦気」の一路の支流である。それが《震》《復》を以て起点と為すに至っては、ただ先天図と偶然相合するに過ぎず。まだ足りてそれを以て先天図が確かに師承授受あるの憑据と當作し難しに似たり。

唯揚雄作《太玄》,其法始於三方,重於九洲,又重於二十七部,又重於八十一家,則與先天極儀象卦加倍之法相似也。流行之序,始於中羨從,中於更晬廓,終於減沈成,則與先天始《復》終《乾》,始《姤》終《坤》之序相似也。首用九九,策閒六六,則與先天卦用八八,策用七七之數相似也。

かえって揚雄が《太玄》を作るは、その体例は先に「三方」を立て、重畳して「九州」と為し、再び重畳して「二十七部」と為し、また重畳して「八十一家」と為す。これはすなわち先天図の太極よりして両儀、而して四象、而して八卦、一を二に分かち層層加倍するの办法と相似す。それの推移流行の次序は、「中」「羡」「從」の三首に起こり、中間に「更」「晬」「廓」を歴て、「減」「沈」「成」に終わる。これはすなわち先天図の《復》に起こりて《乾》に終わり、《姤》に起こりて《坤》に終わるの次序と相似す。それの首を立てるに九九八十一の数を用い、策を用いればすなわち六六三十六のあいだに在り。これもまた先天図の卦に八八六十四を用い、策に七七四十九を用いるの数目と相似す。

意者康節讀揚雄之書而心悟作《易》之本與,然非揚雄之時,《易》傳未泯,則雄亦無自而依仿之,故康節深服《太玄》,以為見天地之心,蓋其學所啟發得力處也。然白邵書既出,則《太玄》為僭經,為汨陰陽之敘,與邵書迥乎如蒼素之不相侔矣。

このようのごとく推想すれば、あるいは康節先生が揚雄の書を読み、因りて心裏に聖人の《易》を作るの根本を悟り出したのであろう。しかるにもし揚雄のあの時代に《易》の伝授がまだ泯滅せざりしかば、揚雄もまた自ら依傍摹倣する術なからん。ゆえに邵雍は甚だ《太玄》に佩服し、それが天地の心を見たと認む。あれは大概まさに彼の学問が啓発を受け得力したの在所であろう。しかるに邵雍の書が出でて以来、《太玄》は便ち僭擬して経書と為すの作と成り、陰陽次序を攪乱するの書と成り、邵書と一比すれば、相去ることの遠きは、青と白の両色がもとより相提して並論し得ざるがごとし。

觀明道程子之意,蓋以為康節能自得師,故於希夷之傳,揚雄之書,皆有取焉,而其純一不雜,汪洋浩大,則非揚陳之所能及也,故曰堯夫之數,似玄而不同。又曰:穆李皆得之希夷者,而其言與行事,概可見矣,堯夫特因其門戶而入者爾,程子之言至當,後之學者,欲考先天之傳,不可以不知。

再び明道程顥の意思を看れば、大概は康節が能く自ら師承を尋ね得たと認め、ゆえに陳摶希夷の一脉の伝授に対し、揚雄の書に対し、みな採取する所有り。而して彼の学問の純一にして雑らず、汪洋浩大なるは、しかし揚雄・陳摶の趕得上する所に非ず。これにより程顥がいう:堯夫(邵雍の字は堯夫)の数学は、《太玄》に似て而して《太玄》に同じからず。程顥がまたいう:穆修・李之才はみな陳摶のあそこより得たるで、それらの言論行事は大略看り出し得べし。堯夫はただこの一道の門戸により走り入ったに過ぎず。程顥のこの幾句話は最も恰當なり。後来の学者が先天の学の伝授源流を考察せんと要するは、知らざるべからず。

文王八卦方位図説(《説卦伝》「帝出乎震」章)

震,東方也。齊乎巽,巽,東南也。齊也者,言萬物之潔齊也。離也者,明也,萬物皆相見,南方之卦也。聖人南面而聽天下,嚮明而治,蓋取諸此也。坤也者,地也,萬物皆致養焉,故曰致役乎坤。兌,正秋也,萬物之所說也,故曰說言乎兌。戰乎乾,乾,西北之卦也,言陰陽相薄也。

《説卦伝》は接いで解説していう:「震」は東方に属す。いわゆる「斉乎巽」は、「巽」は東南に在り。「斉」は万物がこのときに到りてみな長じて潔浄斉整となるをいう。「離」の意思は光明で、万物がこのときに到りて彼此みな顕現して見え、それは南方の卦である。聖人は南方に面して天下を聴治し、光明の方向に朝かって政教を施行す。大概はここに取象したのであろう。「坤」はすなわち大地で、万物はみなそれに憑りて養育せらる。ゆえに「致役乎坤」といい、万物は坤のここにて力を效め養いを受く。「兌」はまさに秋分の時に當たり、万物が成熟して欣悦するのときである。ゆえに「説言乎兌」という。いわゆる「戦乎乾」は、「乾」は西北の卦で、陰気と陽気とがここにて相迫り相争うを説く。

坎者,水也,正北方之卦也,勞卦也,萬物之所歸也,故曰勞乎坎。艮,東北之卦也,萬物之所成終而所成始也,故曰成言乎艮。神也者,妙萬物而為言者也。動萬物者莫疾乎雷,撓萬物者莫疾乎風,燥萬物者莫熯乎火,說萬物者莫說乎澤,潤萬物者莫潤乎水,終萬物始萬物者莫盛乎艮。故水火相逮,雷風不相悖,山澤通氣,然後能變化既成萬物也。

「坎」はすなわち水で、正北方の卦で、また「労卦」である。万物が一年を労作してここに到りてみな帰蔵休息す。ゆえに「労乎坎」という。「艮」は東北の卦で、万物はここにてすでに一歳の終結を完成し、また新一輪の生発を開啓す。ゆえに「成言乎艮」という。いわゆる「神」とは、それが能く微妙に万物を運化するに就いて立つる名である。万物を鼓動するに雷より迅疾なるはなし。万物を揺撼するに風より迅疾なるはなし。万物を烘干するに火より炙熱なるはなし。万物を取悦するに沢より能く物を欣悦せしむるはなし。万物を滋潤するに水より能く物を潤すはなし。能く万物を終結しまた万物を開啓するに「艮」より盛大なるはなし。ゆえに水と火とは相互に逮及して相滅せず、雷と風とは相互に激蕩して相違背せず、山と沢とは気息相通ず。こうしてはじめて変化運行して万物を成就し得るなり。

邵子曰:此一節明文王八卦也。又曰:至哉文王之作《易》也,其得天地之用乎。故乾坤交而為《泰》,坎離交而為《既濟》也。乾生於子,坤生於午,坎終於寅,離終於申,以應天之時也。置乾於西北,退坤於西南,長子用事,而長女代母,坎離得位,而兌艮為偶,以應地之方也。王者之法,文王也其盡於是矣。

邵雍がいう:《説卦伝》のこの一節が講ずるは文王の八卦で、すなわち後天方位である。邵雍がまたいう:偉大なり、文王の《易》を作るは、大概は天地の功用を得着したのであろう。ゆえに「乾」「坤」が相交わって《泰》卦を成し、「坎」「離」が相交わって《既済》卦を成す。「乾」は子位に生じ、「坤」は午位に生じ、「坎」は寅位に終わり、「離」は申位に終わる。これは以て上天の時序に応合す。「乾」を西北に安置し、「坤」を西南に退居せしめ、長子「震」に出でて令を當たり事を用いらしめ、長女「巽」に母に代わりて操持せしめ、「坎」「離」は各々その正位を得、「兌」「艮」の両卦は相対して偶を為す。これは以て大地の方位に応合す。王者と為って天下を治理するの法度は、文王のここに至りて窮尽して遺なしと算し得べし。

此言文王改《易》伏羲卦圖之意也。蓋自乾南坤北而交,則乾北坤南面為《泰》矣。自離東坎西而交,則離西坎東而為《既濟》矣。乾坤之交者,自其所已成,而反其所由生也。故再變則乾退乎西北,坤退乎西南也。坎離之變者,東自上而西,西自下而東也。故乾坤既退,則離得乾位,而坎得坤位也。震用事者,發生於東方,巽代母者,長養於東南也。

朱熹が解説していう:これは文王が伏羲の卦図を改動するの用意を講ず。原先の先天図は乾が南、坤が北で、両者が一たび交換すれば、すなわち乾が北、坤が南と為る。まさに《泰》卦の上坤下乾の象に合す。原先は離が東、坎が西で、両者が一たび交換すれば、すなわち離が西、坎が東と為る。まさに《既済》の上坎下離の象に合す。乾坤の交わる所以は、それらのすでに成形した位置より、それらの由りて生ずる所の本原に返回到せんと欲するに在り。ゆえに再び一たび変じて、乾は便ち西北に退り、坤は便ち西南に退る。坎離の変動は、すなわち東辺のは自上より西に行き、西辺のは自下より東に行く。乾坤すでに四隅に退居すれば、「離」は便ちもとの乾の南方の位を占め、「坎」は便ちもとの坤の北方の位を占む。「震」が出でて令を當たり事を用いるは、東方において生機を発動す。「巽」が母に代わって事を行うは、東南において万物を長養す。

案 邵子言乾坤交而為“泰”者,釋“先天”變為“後天”之指也。先天之位,乾南坤北,今變為乾北坤南,故曰“交”。然邵子盲乾生於子,坤生於午,今按圖考之,則乾在西方,乃亥而非子,坤在西南,乃未而非午,其故何也?曰:陽自靜以之動,故氣肇於子。然自亥月而已聯兆胚胎,故古人以亥為陽月,言天道於是始也。陰自動以之靜,故功著於午。然至未而後育養蕃庶,故古人以未為中央,言土德於是,王也。

李光地が按ずる:邵雍の「乾坤相交而成泰」というは、先天図が後天図に変ずるの意旨を解釈するに在り。先天の方位は乾南坤北で、如今変じて乾北坤南と為る。ゆえに「交」と呼ぶ。しかるに邵雍がまた「乾生于子、坤生于午」というに、如今後天図を以て核対すれば、乾は明明と西北に在り、配する地支は亥にして子に非ず。坤は西南に在り、配する地支は未にして午に非ず。これはなんの縁故か。回答は:陽気は静よりして動に轉向す。ゆえに気機は子に起こる。しかるに亥月より起れば、すでに暗に胚胎の苗头を結成し居り。ゆえに古人は亥を「陽月」と呼び、天道がここより開端すという。陰気は動よりして静に轉向す。ゆえに功用は午に顕著す。しかるに未月以後に至ってはじめて真に養育繁盛す。ゆえに古人は未を以て中央の位と看、土徳がここにて王に當たるという。

亥字從草為蓑,從木為核,皆聯兆胚胎之意。未從日為昧,言日於是始向昧谷,而萬物將西成也。樂律黃鐘子為天統,然自應鐘亥而陽氣已應於內,故曰應鐘。林鐘未為地統,故班固引“西南得朋”釋之,下至納甲星命淺術,亦以亥為天門,未為坤始,疑皆本於後天以為說也。若乃火雖始於東而盛於南,水雖始於西而盛子北,雷霆之氣,雖動於寅,

「亥」の字に草頭を加えて「荄」と写し、木旁を加えて「核」と写すは、みな萌兆胚胎の意を取る。「未」の字に日旁を加えて「昧」と写すは、太陽がここより西方の昧谷に轉向し始め、而して万物はまさに西方にて成熟せんとするをいう。楽律の上では黄鍾を以て子に配して「天統」と称す。しかるに応鍾を以て亥に配して起れば、陽気はすでに内裏にて感应し居り。ゆえにあの一律を「応鍾」と呼ぶ。林鍾は未に配して「地統」と称す。ゆえに班固は《坤》卦の「西南得朋」を引きてそれを解釈す。下って納甲・星命のこれら浅近の術数に至るまでも、またみな亥を以て「天門」と為し、未を以て坤の始と為す。看ればみな後天図に本づいて説を立つるなり。火は東に発端するといえども南に盛んなり、水は西に発端するといえども北に盛んなり、雷霆の気は寅に発動す――と説くに至っては、ここの処底本に脱文あり、この一段の按語は下面残缺して全からず。

又曰:《易》者,一陰一陽之謂也。震兌始交者也,故當朝夕之位,坎離交之極者也,故當子午之位,巽艮不交而陰陽猶雜也,故當用中之偏,乾坤純陽純陰也,故當不用之位也。

邵雍がまたいう:いわゆる《易》とは、すなわち一陰一陽が交互往来する。「震」「兌」は陰陽が剛に交接し始めるの卦ゆえに、朝夕相対する東西の位に安排す。「坎」「離」は陰陽が極処に交わるの卦ゆえに、子午相対する南北の位に安排す。「巽」「艮」は陰陽がかつて正交せずして両者なお相夾雑するの卦ゆえに、用中に在るといえども偏隅に居るの位置に安排す。「乾」「坤」は純陽純陰にして交接する所なし。ゆえに令を當たり事を用いざるの位置上に安排す。

又曰:兌離巽,得陽之多者也,艮坎震,得陰之多者也,是以為天地用也。乾極陽,坤極陰,是以不用也,、又曰:震兌橫而六卦縱,《易》之用也。

邵雍がまたいう:「兌」「離」「巽」の三卦の得るところは陽爻多く、「艮」「坎」「震」の三卦の得るところは陰爻多し。まさに陰陽にこのような多寡参差ありて、はじめて天地の施用の工具と為り得る。「乾」は陽が極処に到り、「坤」は陰が極処に到りて、純にして雑なし。ゆえにかえって令を當たり事を用いず。邵雍がまたいう:図の上に「震」「兌」は東西に一横に相対し、其余の六卦は縦向に相配す。これがまさに《易》道の運用する在所である。

嘗考此圖而史為之說曰:震東兌西者,陽主進,故以長為先而位子左,陰主退,故以少為貴而位乎右也。坎北者,進之中也,離滷者,退之中也,男北而女南者,互藏其宅也。四者皆當四方之止位,而為用事之卦,然震兌妨而坎離終,震兌輕而坎離重也。

朱熹はかつてこの張の図を考究し、それに解説を作りていう:「震」が東に居り「兌」が西に居るは、陽が前進を主とするがゆえに、年長なるを以て先と為して左辺に列す。陰が退譲を主とするがゆえに、年少なるを以て貴と為して右辺に列す。「坎」が北に居るは、陽が中途に進む。「離」が南に居るは、陰が中途に退る。男卦が北に在りて女卦が南に在るは、彼此互いにその宅を蔵し、陽のうちに陰あり、陰のうちに陽あり。この四卦はみな四方の正位に正當し、令を當たり事を用いるの卦である。ただし「震」「兌」はその始に在りて「坎」「離」はその終に在り、「震」「兌」は分量軽くして「坎」「離」は分量重し。

乾西北坤西南者,父母既老而遲居不用之地也,然母親順父尊,故砷猶半用頁乾全下用也。艮東北巽東南者,少男進之後而長女退之先,故亦皆不用也,然男未就傅,女將在行,故巽稍向用,而艮全未用也。四者皆居四隅不正之位,然居東者耒用而居西者不復用也。故下文歷舉“六子”而不數乾坤,至其水火雷風山澤之相偶,則又用伏羲卦云。

「乾」が西北に在り「坤」が西南に在るは、父母が年事已に老いて、事を用いざる処に退居する。ただし母親は親順を主とし、父親は尊厳を主とす。ゆえに「坤」はなお半ばその事を用い、而して「乾」はすなわち全然用いず。「艮」が東北に在り「巽」が東南に在るは、「艮」は少男で、進むの最末に排す。「巽」は長女で、退くの最先に排す。ゆえにまたみな令を當たり事を用いず。ただし少男はいまだ外に出でて師に従い学ばず、長女はしかし将に出嫁して事を行わんとす。ゆえに「巽」は稍々用に偏向し、而して「艮」はすなわち完全に用いず。この四卦はみな四角の正しからざる位に居る。しかるに東方に居るはまだ用に輪到せざるで、西方に居るはすでに用過ぎて再び用いざる。ゆえに《説卦伝》の下文は一々に「六子」を挙出して「乾」「坤」を数えず。水火・雷風・山沢が両々相偶するを講ずるに至っては、あれはまた伏羲先天卦の説法を用いる。

集說 邵子曰:乾統三男於東北,坤統三女於西南。

集説 邵雍がいう:後天図の上に、「乾」は「震」「坎」「艮」の三個の男卦を統領し、みな東北の一帯に布す。「坤」は「巽」「離」「兌」の三個の女卦を統領し、みな西南の一帯に布す。

案 邵子之言,可蔽圖之全義,《周易》、《坤》,《蹇》、《解》諸卦彖辭,皆出於此也,大抵先天則以東南為陽方,西北為陰方,故自陽儀而生之卦,皆居東南,自陰儀而生之卦,皆居西北也。後天則以北東為陽方,南西為陰方,故凡屆陽之卦,皆居東北,屬陰之卦,皆居西南也。然先天陽卦雖起於東,而其重之以敘卦氣,則所謂“復見天地心”者。仍以北方為始,後天陽卦雖起於北,而其播之以合歲序,則所謂“帝出乎震”者,仍以東方為先。蓋兩義原不可以偏廢,必也參而互之,則造化之妙,《易》理之精,可得而識矣。

李光地が按ずる:邵雍のこの両句話は、整張の図の意義をみな概括して住め得べし。《周易》の裏の《坤》卦、《蹇》卦、《解》卦の幾処の彖辞が「西南」「東北」の利と不利との話を講ずるは、みなここより出づ。大体に言えば、先天図は東南を以て陽方、西北を以て陰方と為す。ゆえにおよそ陽儀より生出した卦はみな東南に居り、およそ陰儀より生出した卦はみな西北に居る。後天図はすなわち北・東を以て陽方、南・西を以て陰方と為す。ゆえにおよそ陽に属する卦はみな東北に居り、陰に属する卦はみな西南に居る。しかるに先天図の陽卦は東方に起こるといえども、それを重畳して卦気を排列するときは、いわゆる「復卦見天地之心」は、なお北方を以て開端と為す。後天図の陽卦は北方に起こるといえども、それを鋪展して一歳の時序に合するときは、いわゆる「帝出乎震」は、なお東方を以て最先と為す。見るべし、この両層の意思はもとより偏廃すべからず。必ず彼此参照して互看せば、造化の微妙、《易》理の精深は、はじめて真に認識し到り得るなり。

歲始於東,終於北,而西南在其間,後天圖意主乎陽以統陰,故自震而坎而艮者,以陽終始歲功也,自巽而離而兌者,以陰佐陽於中也。震陽生,故直春生之令,以始為始也,乾則以終為始,而莫得其端,乃《傳》所謂“大始”者也,所謂“不可為首者”也,兌陰成,故畢西成之事,陰功之終也,坤則致役以終事,而不居其成,乃《傳》所謂“作成”者也。所謂“無成而代有終”者也,是故陽居終始,而陰在中間,乃天地萬物之至理。

一年は東方より起始して、北方に至って終結し、而して西南はちょうどそのあいだに在り。後天図の立意は、陽を以て陰を統攝するに在り。ゆえに「震」より「坎」に至り再び「艮」に至るは、陽気を用いて一歳の功用を終始す。「巽」より「離」に至り再び「兌」に至るは、陰気を用いて中間にて陽気を輔佐す。「震」は陽気の初生ゆえに、まさに春天の発生する時令に正當す。これは開始を以て開始と為す。「乾」はしかし終結を以て開始と為し、人をしてその端緒を尋ね得ざらしむ。まさに《繋辞伝》のいう「大始」で、すなわち《乾》卦の用九のいう「不可為首」である。「兌」は陰功の告成ゆえに、秋天西成の事を了結す。あれは陰功の終点である。「坤」はしかし労役を承擔して終にその事を成すも自らその功に居らず。まさに《繋辞伝》のいう「作成物」で、すなわち《坤》卦の《文言》のいう「无成而代有終」である。ゆえに陽気は首尾の両端に居りて陰気は中間に処る。これは天地万物の最も根本の道理である。

如草木之種實,陽也;華葉,陰也。人類之父子,陽也;妻妾,陰也。始於植種,終於成實,而其間華葉盛焉,始於有父,終於有子,而其間嫡媵繁焉,實生於華,子生於母,此陰佐陽之驗,然而實成、則為來歲之種矣,子生則為它日之父矣,此又所謂以終為始者,而元陽之生生不已,其首尾端倪,真不可得而窺矣。謝氏良佐論一起於震,發生也。又曰:一起於乾,探本也,其有得於後天之精意者與。

たとえば草木は、種子と果実とは陽に属し、花と葉とは陰に属す。人類のうちは、父と子とは陽に属し、妻と妾とは陰に属す。種を下すより始まり、実を結ぶに終わるまで、中間はまさに花葉の最も盛んなるときである。父あるより始まり、子あるに終わるまで、中間はまさに嫡妻媵妾の繁衍するのときである。果実は花に生じ、児子は母に生ず。これがすなわち陰が陽を輔佐するの明証である。しかるに果実が一たび成れば、また来年の種子と為る。児子が一たび生まれれば、また他日の父親と為る。これはまたいわゆる終を以て始と為す。元陽は生生して息まず、その首尾の端緒は、実に窺測する術なし。謝良佐が後天図を論じて、「一切は《震》より頭を起こす」というは、あれは発生の処に就いて講ず。また「一切は《乾》より頭を起こす」というは、あれは本を探る処に就いて講ず。彼は大概後天図の精微の用意を領会し到ったのであろう。

程子曰:凡陽在下者動之象,在中者陷之象,在上止之象,陰在下者入之象,在中者麗之象,在上說之象。

程頤がいう:およそ一陽爻が三画卦の最下の一位に居るは、「動」の象を取る。それはすなわち「震」。一陽が中位に居るは、「陥」の象を取る。それはすなわち「坎」。一陽が上位に居るは、「止」の象を取る。それはすなわち「艮」。およそ一陰爻が最下の一位に居るは、「入」の象を取る。それはすなわち「巽」。一陰が中位に居るは、「麗」すなわち附着の象を取る。それはすなわち「離」。一陰が上位に居るは、「悦」の象を取る。それはすなわち「兌」。

八卦取象・遠取諸物と近取諸身

乾為馬,坤為牛,震為龍,巽為雞,坎為豕,離為雉,艮為狗,兌為羊。此遠取諸物之象。

《説卦伝》にいう:「乾」は馬に象を取り、「坤」は牛に象を取り、「震」は龍に象を取り、「巽」は鶏に象を取り、「坎」は猪に象を取り、「離」は雉鶏に象を取り、「艮」は狗に象を取り、「兌」は羊に象を取る。朱熹の注:この一節は聖人が自身以外の遠処にて、鳥獣万物の身上より取り来たる卦象である。乾は健行して息まざるゆえに馬を取り、坤は柔順にして重を載するゆえに牛を取り、震は奮動して起こるゆえに龍を取る。其余の各卦もまたみな物性と卦徳との相合する処に就いて取り来たるなり。

乾為首,坤為腹,震為足,巽為股,坎為耳,離為目,艮為手,兌為口。此近取者身之象。

《説卦伝》がまたいう:「乾」は頭に象を取り、「坤」は腹に象を取り、「震」は足に象を取り、「巽」は大腿に象を取り、「坎」は耳に象を取り、「離」は眼に象を取り、「艮」は手に象を取り、「兌」は口に象を取る。朱熹の注:この一節はすなわち近処に人の自己身上より取り来たる卦象である。頭は最上に居りて形円ゆえに乾に属し、腹は能く包容するゆえに坤に属し、足は動を主るゆえに震に属し、手は執持して止を主るゆえに艮に属す。其余もまたみな類推し得べし。

集說 《朱子語類》云:伏羲畫八卦,只此數畫該盡天下萬物之理,學者於言上會得者淺,於象一亡會得者深,王輔嗣伊川皆不信象,伊川說象只似譬喻樣說,郭子和云,不獨是天地雷風水火山澤謂之象,只是卦畫便是象,亦說得好。鄭東卿專取象,如以鼎為鼎,革為爐,小過為飛鳥,亦有義理,但盡欲如此牽合傅會便疏脫,學者須先理會得正當道理,然後於此等另碎處收拾以相資益,不為無補。

集説 《朱子語類》にいう:伏羲が八卦を画くに、ただこの幾画を以てすれば便ち天下万物の道理を包羅して浄尽す。学者もしただ文辞の上に領会すれば、得る所浅し。もし能く卦象の上に領会すれば、得る所深し。王弼(字は輔嗣)と程頤とはみな卦象を相信せず。程頤が象を講ずるもただ比喩を打つに當作して説くに過ぎず。郭忠孝(字は子和)がいう:単に天・地・雷・風・水・火・山・沢のこれらのみが象と呼ばれるにあらず、卦画それ自身がすなわち象である――この話もまた説き得て好し。鄭東卿は専ら取象を講ず。たとえば《鼎》卦を一只の鼎と看成し、《革》卦を一座の炉と看成し、《小過》を飛鳥と看成すは、また義理なきに非ず。ただ件件にみなこのよう牽合附会せんと要すれば、すなわち未免疎漏脱空なり。学者は必ず先に正大の道理を理会し明白にして、しかるのちにこれらの零碎の処において收拾采択し、以て相互に補益するに用いれば、かえってまた幇助なきに非ず。

乾,天也,故稱乎父。坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男;巽一索而得女,故謂之長女。坎再索而得男,故謂之中男;離再索而得女,故謂之中女,艮三索而得男,故謂之少男;兌三索而得女,故謂之少女。

《説卦伝》にいう:「乾」は天ゆえにそれを父と称し、「坤」は地ゆえにそれを母と称す。「震」は第一次に求索して男を得、ゆえに長男と呼ばる。「巽」は第一次に求索して女を得、ゆえに長女と呼ばる。「坎」は第二次に求索して男を得、ゆえに中男と呼ばる。「離」は第二次に求索して女を得、ゆえに中女と呼ばる。「艮」は第三次に求索して男を得、ゆえに少男と呼ばる。「兌」は第三次に求索して女を得、ゆえに少女と呼ばる。

今按坤求於乾,得其初九而為震,故曰“一索而得男”,乾求於坤,得其初六而為巽,故曰“一索而得女”。坤再求而得乾之九二以為坎,故曰“再索而得男”。乾再求而得坤之六二以為離,故曰“再索而得女”。坤三求而得乾之九三以為艮,故曰“三索而得男”。乾三求而得坤之六三以為兌,故口“三索而得女”。

朱熹の按語にいう:坤が乾に向かって求索し、乾の初九の一陽を取得して自己最下の一爻に放れば、すなわち「震」と成る。ゆえに「一索而得男」という。乾が坤に向かって求索し、坤の初六の一陰を取得して自己最下の一爻に放れば、すなわち「巽」と成る。ゆえに「一索而得女」という。坤が第二次に求索し、乾の九二を取得して中爻に放れば、すなわち「坎」と成る。ゆえに「再索而得男」という。乾が第二次に求索し、坤の六二を取得して中爻に放れば、すなわち「離」と成る。ゆえに「再索而得女」という。坤が第三次に求索し、乾の九三を取得して上爻に放れば、すなわち「艮」と成る。ゆえに「三索而得男」という。乾が第三次に求索し、坤の六三を取得して上爻に放れば、すなわち「兌」と成る。ゆえに「三索而得女」という。

凡此數節,皆文王觀於已成之卦,而推其未明之象以為說,邵子所謂後天之學,人用之位者也。

以上の「乾為馬」「乾為首」「乾称乎父」のこの幾節は、みな文王がすでに画成した卦に就いて観察を加え、そのうちのいまだ闡明せざる物象を推尋して説を立つるなり。すなわち邵雍のいうところの「後天之学」で、人事施用の一路の方位に属す。

案 邵子既以“天地定位”一章為先天之《易》,因以“帝出乎震”以下為後天之《易》,先羲後文,其序既可信,而先天圖易簡渾涵,得畫卦自然之妙,後天圖精深切至,於《周易》義例合者為多,其理尤可信也:,然後天所以改置先天之意,朱子之說頗略,其見於答袁樞書者,可以得先賢慎重之盛心矣。

李光地が按ずる:邵雍はすでに《説卦伝》の「天地定位」の一章を先天の《易》と判じ、ここにおいてまた「帝出乎震」以下を後天の《易》と判ず。伏羲を先にし文王を後にす。この先後次第はもとより信ずべし。しかも先天図は平易簡約にして浑然涵括し、卦を画くときの自然生成の妙処を得着す。後天図は精深切実にして、《周易》の義例と相合する処最も多し。道理の上に就いて言えばさらに信ずべし。ただ後天図がなぜ先天図の位置を改動したかは、朱熹の講ずる所かなり簡略で、彼の袁枢に答えたあの信の裏のいうところの話は、まさに前賢が論を持して慎重にして臆断することを肯ぜざる一片の苦心を見るべし。

諸家以五行為說者,亦有條理,然今即八卦之象求之,則唯坎水離火巽木坤土,合於本象耳。金者乾之一象,而不足以盡乾也。蒼筤竹者震之一象,而不足以盡震也。艮山之為土,猶可假借,兌則絕無為金之義也,況《易》之為書,不言五行,而《說卦》解釋圖體,亦與五行生剋,邈不相涉,

各家が五行を用いて八卦方位を解説するも、また自ずから一套の条理あり。しかるに八卦それ自体の取象に就いて查考すれば、ただ「坎」の水、「離」の火、「巽」の木、「坤」の土のこの四項のみ本象に合するに過ぎず。金はただ「乾」の衆多の象のうちの一項で、並びて「乾」を概括するに足らず。青翠の竹はただ「震」の衆多の象のうちの一項で、また「震」を概括するに足らず。「艮」の山と為して土と算するは、なお勉强借用し得べし。「兌」はしかし絶えて金に配するの道理なし。何況や《易》のこの部書は通篇五行を講ぜず、《説卦伝》が卦図を解釈するの体例もまた五行生剋と全く相干らざるをや。

御纂周易折中巻第二十・啓蒙下

明蓍策第三

大衍之數五十。

《繋辞上伝》にいう:天地之数を推衍して筮法を行うに、用いる蓍策は総じて五十である。この一句は揲蓍して卦を成すの全部方法の総綱で、下文のいう虚一・分二・掛一・揲四・帰奇の諸節は、みなこの五十の数より生発して出づ。

《河圖》、《洛書》之中數皆五,衍之而各極其數以至於十,則合為“五十”矣。《河圖》積數五十五,其“五十”者,皆因五而後得,獨五為“五十”所因,而自無所因,故虛之則但為“五十”。又五十五之中,其四十者,分為陰陽老少之數,而其五與十者無所為,則又以五乘十,以十乘五,而亦皆為“五十”矣。《洛書》積數四十五,而其四十者,散佈於外,而分陰陽老少之數,唯五居中而無所為,則亦自含五數,而併為“五十”矣。

朱熹が解説していう:《河図》と《洛書》との居中の数はみな五で、この五を推衍し出せば、各々極処に推して便ち十。五と十と相乗じてまさに「五十」と合成す。《河図》の各数を相加えて共に五十五、そのうちの五十はみな先に中央の五ありてしかるのちに随いて得る。ただこの五のみが五十の依托する根本で、それ自身はしかし別に依る所なし。ゆえにそれを空け出して用いず、余る便ちただ「五十」のみ。さらに五十五のうち、四十ありては分かちて陰陽老少の数と為して用いるに作すれども、五と十の両個の数は並びてその事に参与せず。ここにおいて五を以て十を乗じ、十を以て五を乗ずれば、得数もまたみな「五十」。《洛書》の各数を相加えて共に四十五、そのうちの四十は外囲に散布し、分かちて陰陽老少の数と為す。ただ五のみ中に居りてその事に参与せず。この居中の五は本身にまた一個の五を含み、両個の五を合わせ起こせば、またまさに「五十」である。

案 《洪範》曰:“卜五占用二衍忒。”衍者,推衍也。忒者,過差也。卜筮所以推衍人事之過差,故揲蓍之法,謂之“大衍”。大音太,如太卜太筮之比,乃尊之之稱,非如先儒小衍大衍之說也。五十之數,說者不一,唯推本於圖書者得之,《河圖》之數則贏五,數之體也。《洛書》之數則虛五,數之用也。大衍者,其酌河洛之數之中,而兼體用之理之備者與。

李光地が按ずる:《尚書・洪範》に「卜五、占用二、衍忒」という。「衍」は推衍の意、「忒」は過失差錯の意。卜筮はまさに人事の過差得失を推衍するに用いる。ゆえに揲蓍の法を「大衍」と呼ぶ。「大」は「太」と読み、「太卜」「太筮」の用法と同じく、それを尊崇するの称呼で、並びて前代の儒者のごとく「小衍」「大衍」と分かち出して講ずるには似ず。五十のこの数目に至っては、解説する人各々一詞を執り、ただ《河図》《洛書》より本を推し源を求めるのみが根子の上に説き至ったと算す。《河図》の数は五十より五を多出す。あれは数の本体である。《洛書》の数は五十より五を少去す。あれは数の功用である。いわゆる「大衍」は、大概は河洛の両数のうちを斟酌して、体・用の両層の道理を兼備するのであろう。

大衍之數五十,而菁一根百莖,可當大衍之數者二,故揲菁之法,取五十莖為一握,置其一不用,以象太極,而其當用之策,凡四十有九,蓋兩儀體具而未分之象也。

朱熹が解説していう:大衍の数は五十で、而して一株の蓍草は一根が百茎を生じ得て、恰も両個の大衍の数に抵當す。ゆえに揲蓍の方法は、五十茎を取りて手中に握り、先にそのうちの一茎を抽出して一辺に搁きて用いず、以て太極を象徴す。真に取りて使用する策は共に四十九で、これがまさに両儀の体がすでに具備してまだ分かれざるの象である。

集說 崔氏憬曰:“其用四十有九”者,法長陽七七之數也,六十四卦,既法長陰八八之數,故四十九蓍,則法長陽七七之數,蓍圓而神象天,卦方而智象地,陰陽之別也,舍一不用者,以象太極虛而不用也。

集説 崔憬がいう:《繋辞伝》の「其用四十有九」を講ずるは、老陽の七七四十九の数を取法す。六十四卦はすでに老陰の八八六十四の数を取法するなれば、それならば四十九根の蓍草は便ち老陽の七七四十九の数を取法す。蓍草は円通にして神妙、天を象徴す。卦体は方正にして智あり、地を象徴す。これがすなわち陰と陽との分别である。一根を抽出して搁きて用いざるは、以て太極の虚静にして自ら作為せざるを象徴す。

邵子曰:蓍之用數,“掛一以象三”,其餘四十八,則一卦之策也。四其十二為四十八也,十二去三而用九,四三十二,所去之策也,四九三十六,所用之策也;十二去五而用七,四五二十,所去之策也,四七二十八,所用之策也;十二去六而用六,四六二十四,所去之策也,四六二十四,所用之策也;十二去四而用八,四四十六,所去之策也,四八三十二,所用之策也。是故七九為陽,六八為陰,九者陽之極數,六者陰之極數,數極則反,故為卦之變也。

邵雍がいう:蓍草の用数は、先ず「掛一以象三」にして、余り四十八策を余る。すなわち一卦を成すに用いる策である。四に十二を乗ずればちょうど四十八。十二の裏より三を去りて九を用いる:四に三を乗じて十二を得、これは去られた策。四に九を乗じて三十六を得、これは用いられる策。これは老陽。十二の裏より五を去りて七を用いる:四に五を乗じて二十を得、これは去られた策。四に七を乗じて二十八を得、これは用いられる策。これは少陽。十二の裏より六を去りて六を用いる:四に六を乗じて二十四を得、これは去られた策。四に六を乗じてなお二十四を得、これは用いられる策。これは老陰。十二の裏より四を去りて八を用いる:四に四を乗じて十六を得、これは去られた策。四に八を乗じて三十二を得、これは用いられる策。これは少陰。ゆえに七と九とは陽に属し、六と八とは陰に属す。九は陽の極数、六は陰の極数で、数は極処に到れば回頭して返轉するを要す。ゆえに老陽老陰は便ち卦爻の変動する在所と為る。

又曰:奇數極於四而五不用,策數板於九而十不用,故去五十而用四十九也。

邵雍がまたいう:揲余の奇零の数は最多四に到り、五に到れば取用せず。毎爻の策数は最多九に到る。すなわち四九三十六の裏のあの九、十に到れば取用せず。まさにこの道理のゆえに、五十の数の裏に一策を抽去し、実際ただ四十九を用いる。

分而為二以象兩,掛一以象三,揲之以四,以象四時,歸奇於扐以象閏,五歲再閏,故再扐而後掛。

《繋辞上伝》にいう:四十九策を手に随いて両份に分かち、以て天地両儀を象徴す。一策を取出して指のあいだに夾み、以て天・地・人の三才を象徴す。毎に四策を一組としてそれを数え、以て一年四時を象徴す。数え余る零数を手指の縫に夾み、以て閏月を象徴す。五年のうちに二回閏するを要す。ゆえに両回零数を夾み過ごしたのち、再び重新して策を掛げて下一変に入る。

掛者,懸於小指之間。揲者,以大指食指間而別之。奇,謂余數,扐者,抽於中三指之兩間也,蓍凡四十有九,信手中分,各置一手,“以象兩儀”;而掛右手一策於左手小指之間,以象三才,遂以四揲左手之策,“以象四時”;而歸其:餘數於左手第四指間,“以象閏”;又以四揲右手之策,而再歸其餘數於左手第三指間,“以象再閏”;五歲之象,掛一一也,揲左二也,扐左三也,揲右四也,扐右五也,是謂一變。其掛扐之數,不五即九。

朱熹が解説していう:いわゆる「掛」とは、一策を小指のあいだに懸夾するをいう。いわゆる「揲」とは、大指と食指とを用いて策を一組一組に分数し出すをいう。いわゆる「奇」とは、数え余る零数を指す。いわゆる「扐」とは、零数を中間の三指の指縫に抽夾するをいう。蓍策は共に四十九根で、信手にそのうちより両份に分かち作り、左右の手各々一份を持ち、以て「両儀を象る」に用いる。再び右手より一策を取りて左手の小指の縫間に夾み、以て三才を象るに用いる。接いで四策を一組として左手の策を数え、以て「四時を象る」に用いる。数え余る零数を左手の第四指の指縫に夾み、以て「閏を象る」に用いる。再び四策を一組として右手の策を数え、また余る零数を左手の第三指の指縫に夾み、以て「再閏を象る」に用いる。いわゆる五年の象とは、すなわち掛一を第一、揲左を第二、扐左を第三、揲右を第四、扐右を第五と為す。このよう一遍下りて「一変」と呼ぶ。一変の後、掛と扐とを合わせ起こした数目は、五ならざればすなわち九である。

案 《河圖》之中宮,太極也。《洛書》之中宮,人極也。故大衍之數,其虛一者,既以象太極之無為,其掛一者,又以象人極之參贊,虛一之後,繼以分二者,明乎分陰分陽,造化之本也。掛一之後,繼以揲四歸奇者,明平定時成歲,人事之綱也。分二掛一,則天地設位,而人立焉,而二才之體具欠。揲四歸奇,則四氣交運,五行參差,百物生焉,萬事起焉,而三才之用行矣,大衍之數,所以為酌河洛之中,而兼體用之備者如此。

李光地が按ずる:《河図》の中宮は五と十とが並居す。あれは「太極」である。《洛書》の中宮はただ一個の五のみ独居す。あれは「人極」で、すなわち《洪範》のいうところの「皇極」である。ゆえに大衍の法は、一策を虚去して用いざるは、太極の作為する所なきを象徴す。一策を掛げ起こすは、また人極が天地の化育に参賛するを象徴す。虚一の後に接いで分二するは、分陰分陽こそ造化の根本なるを顕明せんと欲す。掛一の後に接いで揲四・帰奇するは、四時を定め一歳を成すこそ人事の綱領なるを顕明せんと欲す。分二してまた掛一すれば、便ち天地が各々その位を正しくして人がそのうちに立ち、三才の形体すでに斉備す。揲四してまた帰奇すれば、便ち四時の気が交相に運行し、五行が錯落参差して、百物はここにより生じ、万事はここにより起こり、三才の功用はここにおいて施行す。大衍の数が河洛の両数のうちを斟酌して体・用を兼備すと称し得る所以は、道理はここに在り。

得五者三,所謂奇也。五除掛一即四,以四約之為一,故為奇,即兩儀之陽數也。一變之後,除前餘數,復合其見存之策,或四十,或四十四,分掛揲歸如前法,足凋再變,其掛仂者不四則八。

一変して掛扐が五を得るは、共に三種の分法あり。これをすなわち「奇」と呼ぶ。五のうちに起初に掛げた一策を除去せば便ち四を余す。四を用いてそれを約すれば一を得。ゆえに「奇」と算す。すなわち両儀の裏の陽に属する数である。一変の過後、先前に夾出した零数を撇き開いて算せず、重新して眼下になお存留する策を合攏すれば、あるいは四十、あるいは四十四。前面の办法に照らして再び分二・掛一・揲四・帰奇す。これを「再変」と呼ぶ。再変の掛払する数目は、四ならざればすなわち八である。

得四者二,所謂奇也。不去掛一,餘同前義。得八者二,所謂偶也。不去掛一,餘同前義。再變之後,除前兩次餘數,復合其見存之策,或四十,或三十六,或三十二,分掛揲歸如前法,是謂三變,其掛扐者如再變例。三變既畢,乃合三變,視其掛肋之奇偶,以分所遇陰陽之老少,是凋一爻。

再変して掛扐が四を得るは、共に両種の分法あり。これをすなわち「奇」と呼ぶ。この一変は再び掛一の策を除去するを須みず。其余の道理は前面と相同じ。再変して掛扐が八を得るは、共に両種の分法あり。これをすなわち「偶」と呼ぶ。同じく掛一の策を除去するを須みず。其余の道理は前面と相同じ。再変の過後、前後両次に夾出した零数を撇き開き、重新して眼下になお存留する策を合攏すれば、あるいは四十、あるいは三十六、あるいは三十二。前面の办法に照らして分二・掛一・揲四・帰奇す。これを「三変」と呼ぶ。三変の掛払する数目は、再変の成例と相同じ。三変を做み了れば、すなわち三変の掛扐を合わせて看、その奇なり偶なりを視、拠りて遇う所の陰なり陽なり、老なり少なりを分辨し、こうしてはじめて一爻を定め出す。

右(即左圖)三奇為老陽者凡十有二,掛扐之數十有三,除初掛之一為十有二,以四約而三分之,為一者三,一奇象圓而圍三,故三一之中各復有三。而積三三之數則為九,過揲之數三十有六,以四約之,亦得九焉。掛扐除一,四分四十有八而得其一也,一其十二而三其四也,九之母也。過揲之數四分四十八而得其三也,三其十二而九其四也,九之子也。皆徑一而圍三也,即四象太陽居一含九之數也。

上辺のこの一図の列する所、三変ともに「奇」を得て老陽を成すは、一共に十二種の分法あり。それの掛扐の数は十三で、起初に掛げた一策を除去せば便ち十二。四を用いて約し、再び三等分して、毎份を一と為し、共に三個の一。一個の「奇」は円形を象りて周長は三。ゆえにこの三個の一のうちに各々また三を含み、累積して三個の三は便ち九を得。過揲の数は三十六で、四を用いて約すれば、またまさに九を得。掛扐が掛一を除去してのち余る所の十二は、四十八を四等分してそのうちの一份を取る。すなわち一個の十二、三個の四。これは九の母数である。過揲の三十六は、四十八を四等分してそのうちの三份を取る。すなわち三個の十二、九個の四。これは九の子数である。両者とも「径一囲三」の比例に合す。すなわち四象のうち太陽が第一位に居りて九の数を含むなり。

右(即下左圖)兩奇一偶,以偶為主,為少陰者凡二十有八,掛扐之數十有七,除初掛之一為十有六,以四約而三分之,為一者二,為二者一,一奇象圓而用其全,故二一之中各復有三。二偶象方而用其半,故一二之中復有二焉。而積二三一二之數則為八,過揲之數三十有二,以四約之亦得八焉,掛扐除一,四其四也,自一其十二者而進四也,八之母也,過揲之數,八其四也,自三其十二者而退四也,八之子也,即四象少陰居二含八之數也。

下面左辺の一図の列する所、三変のうちに両個の「奇」と一個の「偶」とを得、而してあの一個の偶を以て主と為し、これにより少陰と成るは、一共に二十八種の分法あり。それの三変掛扐の総数は十七で、起初に掛げた一策を除去せば便ち十六。四を用いて約し、再び三等分を作して、両個の一、一個の二を得。一個の「奇」は円形を象りてその数を全く用いる。ゆえにあの両個の一のうちに各々また三を含む。一個の「偶」は方形を象りてただその一半を用いる。ゆえにあの一個の二のうちにまた二を含む。両個の三と一個の二とを累加し起こせば便ち八を得。それの過揲の数は三十二で、四を用いて約すれば、またまさに八を得。掛扐が掛一を除去して以後余る所の十六は、四個の四で、一個の十二に比べて四を進む。これは八の母数である。過揲の三十二は、八個の四で、三個の十二に比べて四を退る。これは八の子数である。母数子数は彼此相応ず。すなわち四象のうち少陰が第二位に居りて八の数を含むなり。

右(即前右圖)兩偶一奇,以奇為主,為少陽者凡二十,掛扐之數二十有一,除初掛之一為二十,以四約而三分之,為二者二,為一者一,二偶象方而用其半,故二二之中各復有二。一奇象圓而用其全,故一三之中,復有三焉。而積二二一三之數則為七,過揲之數二十有八,以四約之亦得七焉。掛抽除一,五其四也,自兩其十二者而退四也,七之母也,過揲之數,七其四也,自兩其十二者而進四也,七之子也,即四象少陽居三含七之數也。

前面右辺の一図の列する所、三変のうちに両個の「偶」と一個の「奇」とを得、而してあの一個の奇を以て主と為し、これにより少陽と成るは、一共に二十種の分法あり。それの三変掛扐の総数は二十一で、起初に掛げた一策を除去せば便ち二十。四を用いて約し、再び三等分を作して、両個の二、一個の一を得。両個の「偶」は方形を象りてただその一半を用いる。ゆえにあの両個の二のうちに各々また二を含む。一個の「奇」は円形を象りてその数を全く用いる。ゆえにあの一個の一のうちにまた三を含む。両個の二と一個の三とを累加し起こせば便ち七を得。それの過揲の数は二十八で、四を用いて約すれば、またまさに七を得。掛扐が掛一を除去して以後余る所の二十は、五個の四で、両個の十二に比べて四を退る。これは七の母数である。過揲の二十八は、七個の四で、両個の十二に比べて四を進む。これは七の子数である。母数子数は彼此相応ず。すなわち四象のうち少陽が第三位に居りて七の数を含むなり。

右(即左圖)三偶為老陰者四,掛扐之數二個有五,除初掛之一為二十有四,以四約而三分之,為二者三,二偶象方而用其半,故三二之中各復有二,面積三二之數則為六,過揲之數亦二十有四,有四約之亦得六焉,掛扐除一,六之母也,過揲之數,六之子也,四分四十有八而各得其二也,兩其十二而六其四也,皆圍四而用半也,即四象太陰居四含六之數也。

上辺のこの一図の列する所、三変ともに「偶」を得て老陰を成すは、ただ四種の分法のみ。それの掛扐の数は二十五で、起初に掛げた一策を除去せば便ち二十四。四を用いて約し、再び三等分して、三個の二を得。「偶」は方形を象りてただその半を用いる。ゆえにこの三個の二のうちに各々また二を含み、累加して三個の二は便ち六を得。過揲の数もまた二十四で、四を用いて約すれば、同じく六を得。掛扐が掛一を除去して以後余る所は、六の母数である。過揲の数は、六の子数である。両者とも四十八を四等分して各々そのうちの両份を取る。すなわち両個の十二、六個の四。みな「囲四用半」の比例に合す。すなわち四象のうち太陰が第四位に居りて六の数を含むなり。

集說 蔡氏元定曰:蓍之奇數,老陽十二,老陰四,少陽二十,少陰二十八,合六十有四。三十二為陽,老陽十二,少陽二十;三十二為陰,老陰四,少陰二:十八;其十六則老陽老陰也,老陽十二,老陰四;其四十八則少陽少陰也,少陽二十,少陰二十八。老陽老陰,乾坤之象也,二八也,少陽少陰,“六子”之象也,六八也。

集説 蔡元定がいう:三変の掛扐の得る奇偶の分法は、老陽に十二種あり、老陰に四種あり、少陽に二十種あり、少陰に二十八種あり、合計すればちょうど六十四種で、六十四卦の数と相當す。そのうち陽に属するは三十二種で、老陽の十二に少陽の二十を加う。陰に属するは三十二種で、老陰の四に少陰の二十八を加う。またそのうち十六種は老陽と老陰で、すなわち老陽の十二に老陰の四を加う。四十八種は少陽と少陰で、すなわち少陽の二十に少陰の二十八を加う。老陽老陰は「乾」「坤」の両卦の象で、恰も二乗じて八の一十六の数に合す。少陽少陰は「六子」の象で、恰も六乗じて八の四十八の数に合す。

凡此四者,皆以三變皆掛之法得之,蓋經曰“再抽而後掛”,又曰“四營而成易”,其指甚明,註疏雖不詳說,然劉禹鍋所記僧一行、畢中和、顧彖之說,亦已備矣。近世諸儒,乃有前一變獨掛,後二變不掛之說,考之於經,乃為六仂而後掛,不應“五歲再閏”之義,且後兩變又止三營,蓋已誤矣。

以上の老陽・少陰・少陽・老陰のこの四種は、みな「三変みな掛一を要す」の旧法に依りて推し出したるなり。経文に「再扐而后掛」といい、また「四営而成易」という。意旨十分に明白である。注疏は細講せざるといえども、しかるに劉禹錫の記載する所の僧一行・畢中和・顧彖の幾家の説法は、もまたすでに甚だ完備せり。近世にある儒者はかえって頭の一変は掛一、後の両変は掛げずと主張す。経文を以て核対すれば、それならばすなわち六次の零数を夾み過ごしてはじめて掛げると成り、「五歳再閏」の意思に合せず。しかも後の両変はただ三営のみ余る。見るべし、この説法はすでに錯えり。

且用舊法,則三變之中,又以前一變為奇,後二變為偶,奇故其餘五九,偶故其餘四八。餘五九者,五三而九一,亦圍三經一之義也。餘四八者,四八皆二,亦圍四用半之義也。三變之後,老者陽饒而陰乏,少者陽少而陰多,亦皆有自然之法象焉。蔡元定集說 蘇氏軾曰:唐一行之學,以為三變皆少,則乾之象也,乾所以為老陽,而四數其揲得九,故以九名之;三變皆多,則坤之象也,坤所以為老陰,而四數其揲得六,故以六名之;三變面少者一,則震坎艮之象也,震坎艮所以為少陽,而四數其揲得七,故以七名之;三變而多者一,則巽離兌之象也,巽離兌所以為少陰,而四數其揲得八,故以八名之。故七八九六者,因揲數以名陰陽,而陰陽之所以為老少者,不在乎是,而在乎三變之間,八卦之象也,此唐一行之學也。

況んや旧法に依れば、三変のうち前の一変を「奇」と算し、後の両変を「偶」と算す。奇を為すがゆえに、余数は五ならざればすなわち九。偶を為すがゆえに、余数は四ならざればすなわち八。余数の五と九とは、五を得るに三種の分法あり、九を得るにただ一種ありて、またまさに「囲三径一」の比例に合す。余数の四と八とは、四を得八を得各々両種の分法ありて、またまさに「囲四用半」の比例に合す。三変の後、老の一路は陽多くして陰少なく、少の一路は陽少なくして陰多し。この裏頭にもまたみな自然而然の法象あり。以上は蔡元定の説である。集説 蘇軾がいう:唐代の僧一行の学説は、三変の得る所がみな「少」なれば、すなわち「乾」の象で、乾の老陽と称する所以なり。四を用いてその過揲の策を数えて九組を得。ゆえに九を以てそれを命名す。三変の得る所がみな「多」なれば、すなわち「坤」の象で、坤の老陰と称する所以なり。四を用いてその過揲の策を数えて六組を得。ゆえに六を以てそれを命名す。三変のうちただ一変のみ「少」を得れば、すなわち「震」「坎」「艮」の象で、この三卦の少陽と称する所以なり。四を用いてその過揲の策を数えて七組を得。ゆえに七を以てそれを命名す。三変のうちただ一変のみ「多」を得れば、すなわち「巽」「離」「兌」の象で、この三卦の少陰と称する所以なり。四を用いてその過揲の策を数えて八組を得。ゆえに八を以てそれを命名す。見るべし、七・八・九・六は過揲の数に就いて陰陽の名を定めるなり。陰陽が老少に分かる所以に至っては、並びてこの幾つの数の上に在らずして、三変のあいだに顕出する八卦の象の上に在り。これがすなわち唐代の僧一行の学説である。

《朱子文集》曰:初一變得五者三,得九者一,故曰餘五九者,五三而九一。後二變得四者二,得八者二,故曰餘四八者,四八皆二。三變之後,為老陽者十有二,老陰四,故臼陽饒而陰乏,少陽二十,少陰二十八,故曰陽少而陰多。

《朱子文集》にいう:頭の一変の裏に掛扐が五を得るに三種の分法あり、九を得るにただ一種のみ。ゆえに「余数五与九、五占三、九占一」という。後の両変の裏に掛扐が四を得るは各々両種あり、八を得るもまた各々両種あり。ゆえに「余数四与八、四与八都各占両種」という。三変過ぎてのち、老陽を成すに十二種あり、老陰を成すにただ四種のみ。ゆえに「陽多而陰少」という。少陽を成すに二十種あり、少陰を成すに二十八種あり。ゆえに「陽少而陰多」という。

沈氏《筆談》云,《易》象九為老陽,七為少陽,八為少陰,六為老陰,其九七八六之數,皆有所從來,得之自然,非意之所配也,凡歸餘之數,有多有少,多為陰,如爻之偶,少為陽,如爻之奇。

沈括の《夢渓筆談》にいう:《易》象は九を以て老陽、七を以て少陽、八を以て少陰、六を以て老陰と為す。この九・七・八・六の幾つの数目はみな各々来歴ありて、揲蓍の法の裏より自然に推し出したるで、並びて人意を憑って随えに配し上げたに非ず。およそ帰余の夾む所の掛扐の数は、多きあり少なきあり。多きは陰に属し、ちょうど爻画の中間断开する偶のごとし。少なきは陽に属し、ちょうど爻画の一道に連成する奇のごとし。

三少,乾也,故曰老陽,,九揲而得之,故其數九,其策三十六;兩多一少,則一少為之主,震坎艮也,故皆謂之少陽,少在初為震,中為坎,末為艮,皆七揲而得之,故其數七,其策二十有八;三多,坤也,故曰老陰,六揲而得之,故其數六,其策二十有四;兩少一多,則一多為之主,巽離兌也,故皆謂之少陰,多在初謂之巽,中為離,未為兌,皆八揲而得之,故其數八,其策三十有二。

三変ともに「少」を得るは、「乾」である。ゆえに老陽と呼ぶ。その過揲の策は四を以て数えて九組を得。ゆえにその数は九、その策は三十六。両変が「多」を得一変が「少」を得るは、すなわちあの一個の「少」を以て主と為し、「震」「坎」「艮」を成す。ゆえにみな少陽と呼ぶ。あの「少」が頭の一変に出現すれば便ち「震」、第二変に在れば便ち「坎」、第三変に在れば便ち「艮」。みな四を以て過揲を数えて七組を得。ゆえにそれらの数は七、策は二十八。三変ともに「多」を得るは、「坤」である。ゆえに老陰と呼ぶ。四を以て過揲を数えて六組を得。ゆえにその数は六、策は二十四。両変が「少」を得一変が「多」を得るは、すなわちあの一個の「多」を以て主と為し、「巽」「離」「兌」を成す。ゆえにみな少陰と呼ぶ。あの「多」が頭の一変に出現すれば「巽」と呼び、第二変に在れば「離」、第三変に在れば「兌」。みな四を以て過揲を数えて八組を得。ゆえにそれらの数は八、策は三十二。

諸家揲蓍說,唯《筆談》簡而盡。孔穎達非不曉揲法者,但為之不熟,故其言之易差,然其子大數亦不差也。畢中和視疏義為詳,柳子厚詆劉夢得以為膚末於學者,誤矣!畢論三揲皆掛一,正合“四營”之義,唯以三揲之掛仂分措於三指間為小誤,然於其大數亦不差也。其言餘一益三之屬,乃夢得立文太簡之誤,使讀者疑其不出於自然,而出於人意耳。此與孔氏之說,不可不正,然恐亦不可不原其情也。

各家が揲蓍を講ずる説法は、ただ《夢渓筆談》のみ簡明にして周備なり。孔穎達は並びて揲法を解らざるに非ざるも、ただ做り熟せざれば、ゆえに話を説き得て差錯を出し易し。しかるに彼の挙げた大数目はかえって差えず。畢中和は《周易正義》に比べて詳細に講ず。柳宗元が劉禹錫を譏諷し、その学問ただ皮毛末梢に至るのみというは、あれは錯怪せり。畢中和が三変ともに掛一するを主張するは、まさに「四営」の意思に合す。ただ三変の掛払する策を分かちて三個の指縫のあいだに夾むは、これは小さい毛病で、しかし大数目の上においてはまた差えず。彼の「余一益三」の一類の話を講ずるは、実は劉禹錫が行文するに太り简略にして致したるの失誤で、読者をしてこれらの数目は自然生成に非ずして人意の安排に出づと疑心せしむ。この一処と孔穎達の説法とはみな訂正を加えざるべからず。しかるにまたおそらく彼らの当時の実情を体諒せざるべからず。

蔡氏所謂以四十九蓍虛一分二掛一揲四者,蓋謂虛一外,止用四十八。分掛揲之餘,為奇偶各二,老陽老陰變數各八,少陰少陽變數各二十四,合為六十四,八卦各得八焉,然此乃奇偶對待加倍而得者,體數也,著天三地二衍而為五十者,用數也,蓋體數常均,用數則陽饒面陰乏也,此正造化之妙,若陰陽同科,老少一例,是體數,非用數也。

蔡元定のいうところの「四十九根の蓍策を拿して虚一・分二・掛一・揲四す」とは、意思は一策を虚去するのほか、実際ただ四十八策を用いる。分二・掛一・揲四の後に余る所は、奇と偶と各々両種あり。老陽と老陰との変数は各々八で、少陰と少陽との変数は各々二十四で、合わせ起こせば共に六十四、八卦は毎卦各々八を得。ただしこれは奇偶が両々相対し、逐層加倍して得たる数で、「体数」に属す。「参天両地」に依りて三と二とを推衍して五十と成すに至っては、あれは「用数」である。体数は総じて均斉に平分す。用数はすなわち陽多くして陰少なし。これがまさに造化の微妙の処である。倘若陰陽を以て一様と看、老少を等量斉観せば、便ちあれは体数で、用数に非ざるなり。

若用近世之法,則三變之餘,皆為圍三徑一之義,而無復奇偶之分。三變之後,為老陽少陰者皆二十七,為少陽者九,為老陰者一,又皆參差不齊,而無復自然之法象,此足以見其說之誤矣。至於陰陽老少之所以然者,則請復得而通論之。蓋四十九策,除

もし近世のあの前の一変は掛げ、後の両変は掛げざるの办法を采用すれば、三変の余数はすなわち一律に「囲三径一」の意思と成り、再び奇偶を分かち出す能わず。三変の後、老陽を成すと少陰を成すとはみな二十七で、少陽を成すはただ九のみ、老陰を成すはただ一のみ、またみな参差斉からず、再び自然の法象の言う可きなし。これを以てすれば足りてあの説法の錯誤を見るべし。陰陽老少のこのようなる所以の縁由に至っては、請う容れて再び通盤に論じ一論せん:大概四十九策は、除く――ここの処底本に脱文あり、下面の議論は接続して下らず。

集說 歸氏有光曰:九具於揲,則三奇見於餘;六具於揲,則三偶見於餘;七具於揲,則二偶一奇見於餘;八具於揲,則二奇一偶見於餘。不必反觀其在揲之數,而已舉其要矣!

集説 帰有光がいう:過揲の数が九を具足するは、掛扐の余数の上に便ち三個の「奇」を現出す。過揲の数が六を具足するは、余数の上に便ち三個の「偶」を現出す。過揲の数が七を具足するは、余数の上に便ち両個の「偶」一個の「奇」を現出す。過揲の数が八を具足するは、余数の上に便ち両個の「奇」一個の「偶」を現出す。このようであれば、必ずしも回頭して再び在揲の策数を数え往かずして、すでに要領をみな挙げ出したり。

其曰“乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四”“二篇之策萬有一千五百二十”,何也?掛扐雖舉其要,而七八九六之數,仍以在揲之策為正,七八九六者,自揲之以四而取也,若掛仂之策,因過揲而見者也。故曰“揲之以四以象四時”,又曰“當期之日”,而歸奇以象閏。

然らば経文はなぜまた「乾之策二百一十有六、坤之策百四十有四」といい、「二篇之策一万一千五百二十」というや。掛扐は要領を挙げ出し得るといえども、しかし七・八・九・六のこれらの数は、仍旧在揲の策数を以て正と為すを要す。七八九六は「揲之以四」の當中のうちより取り出したるなり。掛扐の策に至っては、ただ過揲あるに因りて連帯して顕現し出づるに過ぎず。ゆえに経文に「揲之以四以象四時」といい、また「当期之日」といい、而して帰奇はただ以て閏を象るに過ぎず。

何氏楷曰:案翼言“揲四以象四時,歸奇以象閏”。四時,正也,閏餘也。下文云:“乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四。凡三百有六十,當期之日,二篇之策,萬有一千五百二十,當萬物之數也。”皆以七八九六起數,明乎用正數而不用餘數矣。案 歸氏何氏之說,亦可與朱子相參酌。

何楷がいう:《易伝》の「揲之以四以象四時、帰奇于扐以象閏」を講ずるを按ずるに、四時は一歳の正数で、閏月はすなわち正数の以外に多出する余数である。下文にまた「乾之策二百一十六、坤之策一百四十四、合共三百六十、正当一周年之日数、上下二篇之策合共一万一千五百二十、正当万物之数目」という――これらはみな七・八・九・六を拿して算を起こす。すなわち過揲の策を以て主と為す。見るべし、筮法の取用するは正数にして余数に非ざるを。李光地が按ずる:帰有光と何楷のこの両家の説法は、また朱熹の説と互相に参酌し取舍し得べし。

邵子曰:五與四四,去掛一之數,則四三十二也,九與八八,去掛一之數,則四六二十四也,五與八八,九與四八,去掛一之數,則四五二十也,九與四四,五與四八,去掛一之數,則四四十六也,故去其三四五六之數,以成九八七六之策,此之謂也。一爻已成,再合四十九策,復分掛揲歸以成一變,每三變而成一爻,並如前法。

邵雍がいう:三変の掛扐が五と両個の四とを得るは、掛一の数を去れば、余るまさに四乗じて三の一十二。九と両個の八とを得るは、掛一の数を去れば、余るまさに四乗じて六の二十四。五と両個の八とを得、あるいは九と一個の四一個の八とを得るは、掛一の数を去れば、余るまさに四乗じて五の二十。九と両個の四とを得、あるいは五と一個の四一個の八とを得るは、掛一の数を去れば、余るまさに四乗じて四の一十六。ゆえに三・四・五・六のこの幾組の数を去りて、はじめて九・八・七・六の策数を成就す。説くはこの道理である。朱熹が接いでいう:一爻すでに成就せば、再び四十九策を合攏し、重新して分二・掛一・揲四・帰奇して以て一変を成し、毎三変にして一爻を成す。みな前面の办法に照らして弁ず。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.

Hexagrams in this volume