開元占經(唐・瞿曇悉達奉敕撰)
開元占經(唐・瞿曇悉達奉敕撰)
綜合類典籍
通読するより工具書として引くほうが実用的である。他の門類で分からない暦法術語に出会ったら、たいていここで出所をたどれる。
《四庫全書總目》提要
唐瞿曇悉達撰。《唐書·藝文志》載一百十卷。《玉海》引《唐志》亦同。又注云:《國史志》四卷,《崇文目》三卷。此本一百二十卷,與諸書所載不符,當屬後人分卷之異。自一卷“天占”至一百十卷“星圖”,均占天象。自一百十一卷“八穀占”至一百二十卷“龍魚蟲蛇占”,均占物異。或一百十卷以前為悉達原書,故與《唐志》及《玉海》卷數相符。其後十卷,後人以雜占增附之歟?
本書は唐代の瞿曇悉達が編纂したものである。《新唐書・芸文志》には一百一十卷と著録され、宋の王應麟《玉海》が引く《唐志》の卷数も同じである。《玉海》はさらに注を加え、《国史志》は四卷、《崇文總目》は三卷と記すとしている。ところが現存するこの本は一百二十卷で、上記の各家の書目の記載と合わず、後人が卷を分け直したことによる相違であろう。卷一の「天占」から卷一百一十の「星圖」まではいずれも天上の星象を占うもの、卷一百一十一の「八穀占」から卷一百二十の「龍魚蟲蛇占」まではいずれも物類の異常変異を占うものである。おそらく卷一百一十以前が瞿曇悉達の原書であり、だからこそ卷数が《唐志》《玉海》と合致するのであろう。その後の十卷は、後人が種々の雑占を増補して附け加えたものであろうか。
卷首標銜,悉達曾官太史監事。考《玉海》開元六年詔瞿曇悉達譯《九執曆》,則悉達之為太史監,當在開元初。卷首又標奉敕撰,而奉敕與成書年月皆無可考,惟其中載歷代曆法止於唐《麟德曆》,且雲李淳風見行《麟德曆》。考唐一行以開元九年奉詔創《大衍曆》,以開元十六年頒之,其時《麟德曆》遂不行,此書仍雲見行《麟德曆》,知其成於開元十六年以前矣。
卷首に記された官衔からは、瞿曇悉達が「太史監」の職にあったことが分かる。《玉海》の記載を調べると、開元六年に朝廷が詔を下して瞿曇悉達にインドから伝来した《九執曆》を翻訳させたというから、彼が太史監に任じられたのは開元初年であろう。卷首にはまた本書が「奉敕撰」と明記されているが、詔を奉じた時期も成書の年月ももはや考証のしようがない。ただ書中に載る歷代の曆法は、最も遅くても唐代の《麟德曆》までしか記されておらず、しかも李淳風の定めた《麟德曆》が当時施行中の曆法であるとしている。唐の僧一行が開元九年に詔を奉じて《大衍曆》を創製し、開元十六年にそれが天下に頒行されると、その時《麟德曆》は廃止された。この書がなお《麟德曆》を現行の曆としていることから、開元十六年以前に成書したことが分かる。
所言占驗之法,大抵術家之異學,本不足存。惟其中卷一百四、一百五全載麟德、九執二歷。《九執曆》不載於《唐志》,他書亦不過標撮大旨。此書所載,全法具著,為近世推步家所不及窺。又《玉海》載《九執曆》以開元二年二月朔為歷首。今考此書,明雲今起明慶二年丁巳歲二月一日以為歷首,亦足以訂《玉海》所傳之誤。
書中に説く占卜驗應の法は、おおむね術數家の異端の學に属し、本来なら保存に値しない。貴重なのは、その中の卷一百四・卷一百五に《麟德曆》と《九執曆》という二つの曆法が完全に收録されていることである。《九執曆》は《唐書・芸文志》の著録に見えず、他書が言及しても大旨を掇めるにすぎない。ところが本書の記載は算法の全體を具えて記録しており、近世の天象を推算する曆算家でさえ窺い知ることのできなかったものである。また《玉海》は《九執曆》が開元二年二月初一を曆元の起算點とするとしているが、今この書を核すると、「今起明慶二年丁巳歳二月一日以為曆首」と明記されており、これもまた《玉海》の傳えた誤りを訂正するに足る。
至《麟德曆》雖載《唐志》,而以此書較之,多有異同。若推入蝕限術、月食所在辰術、日月蝕分術諸類,《唐志》俱未之載。又此書載章歲、章月、半總、章閏、閏分歷、周月法、弦法、氣法、曆法諸名,與《新唐書》所載全不合。其相合者,惟辰率、總法等目。蓋悉達所據當為《麟德曆》,見行本《唐志》遠出其後,不無傳聞異詞。又是可訂史傳之訛,有裨於考證不少矣。
《麟德曆》については、《唐書・芸文志》に著録があるものの、この書と照らし合わせると異同が多い。日月が食限に入ることを推算する術、月食がいずれの時晨に起こるかを推算する術、日月食の食分の多少を推算する術といった類は、《唐志》にはいずれも記載がない。またこの書は「章歳」「章月」「半總」「章閏」「閏分曆」「周月法」「弦法」「氣法」「曆法」という名目を列挙しているが、《新唐書》の記載とは全く合わず、符合するのは「辰率」「總法」など少数の條目だけである。おそらく瞿曇悉達が依據したのは當時施行されていた《麟德曆》の原本であり、《唐志》の成書ははるかに後のことで、傳聞が実を失い説が一致しないのも無理はない。これによってまた史傳の誤写を訂正することができ、考證の學への助けは少なくない。
又徵引古籍,極為浩博。如《隋志》所稱緯書八十一篇,此書尚存其七八,尤為罕見。然則其術可廢,其書則有可採也。卷首有萬曆丁巳張熙識語,謂是書歷唐迄明,約數百年,始得之挹元道人。鉤沉起滯,非偶然已。
この書が徵引する古籍はきわめて浩博である。例えば《隋書・經籍志》に挙げられた讖緯の書八十一篇のうち、この書にはその十分の七八が保存されており、まことに得がたい。このように見れば、そこに説く占術は廃して用いなくてもよいが、この書そのものには大いに取るべきところがある。卷首には明代の萬曆丁巳年に張煕が書いた識語があり、この書が唐代から明代まで數百年を傳わり、始めて挹元道人から得たという。久しく埋没していた舊籍を再び掘り起こせたのも、偶然のことではないのであろう。
開元占經 卷一
天地名體
天體渾宗
按後漢河間相張衡《靈憲》曰:“昔在先王,將步天路,用定靈軌,尋考本元。先準之於渾體,是為正儀、立度,而皇極有由建也,樞運有由稽也。乃建乃稽,斯經天常。聖人無心,因茲以生心。故《靈憲》作興。
東漢に河間相を務めた張衡は、天文著作《靈憲》の中で言う。昔の先王は、日月星辰の運行する道を推歩し、天體運行の法則を定め、天地の本原を追尋するにあたり、つねにまず「渾體」(渾圓の天球模型)を準據として、これによって儀器を校正し度數を劃定した。こうして「皇極」――帝王が統治する大中の道――に建樹の依據が生まれ、天體の樞軸の運轉にも考察の憑據が生まれた。準則を樹立することができ、運轉を考察することができてこそ、天の恒常の規律を把握したことになる。聖人にはもともと固執する心がなく、まさにこれらの天象に憑って治世の心を生じさせた。だからこそ《靈憲》という書が時に應じて作られたのである。
曰:太素之前,幽清玄靜,寂漠冥默,不可為象。厥中惟虛,厥外惟無,如是者永久焉,期謂溟涬,蓋乃道之根也。道根既建,自無生有。太素始萌,萌而未兆,並氣同色,混沌不分。故道志之言云:‘有物混成,先天地生。’其氣體固未可得而形,其遲速固未可得而紀也。如是者又永久焉,斯謂龐鴻,蓋乃道之干也。
張衡は言う。「太素」(元氣が初めて萌す段階)以前、宇宙は幽深にして清虛、玄遠にして沈靜、寂寞として聲なく、昏冥として光なく、いかなる形象をもってしても描寫し得ない。その内はただ一面の「虛」であり、その外はただ一面の「無」であって、この狀態がきわめて久遠の時間つづいた。これを「溟涬」といい、まさに「道」の根である。道の根がすでに立定すると、「無」から「有」が生じた。太素が萌動し始めたが、萌動してはいるもののなお兆しが見えず、氣と色は渾然一體で混沌として分かちがたい。だから道を説く典籍《老子》に「物有りて混成し、天地に先だちて生る」とある。その時元氣の形體にはまだ形狀というべきものがなく、その運行の遲速も記すすべがなかった。この狀態がまたきわめて久しくつづいた。これを「龐鴻」といい、まさに「道」の軀幹である。
道干既育,有物成體。於是元氣剖判,剛柔始分,清濁異位。天成於外,地定於內。天體於陽,故圓以動;地體於陰,故平以靜。動以行施,靜以合化,堙鬱構精,時育庶類,斯謂天元,蓋乃道之實也。
道の軀幹がすでに長成すると、萬物に形體が備わった。そこで元氣が剖開し、剛と柔とが分離を始め、清と濁とがそれぞれの位についた。天は外に生成し、地は内に定位した。天は陽を體とするので形狀は渾圓で運轉が止まらず、地は陰を體とするので形狀は平展で安靜に動かない。天は運動をもって氣化を施布し、地は安靜をもって生成に協和し、二氣が鬱積交感して精華を構結し、時に應じて萬類の生物を孕育した。これを「天元」といい、まさに「道」が結んだ果實である。
在天成象,在地成形。天有九位,地有九域。天有三辰,地有三形。有象可效,有形可度。情性萬殊,旁通感薄,自然相生,莫之能紀。於是人之精者作聖,實始紀綱而經緯之。
天にはさまざまな星象が凝成し、地にはさまざまな形體が凝成した。天には九つの方位があり、地には九つの區域がある。天には日・月・星の三辰があり、地には山・川・原隰の三類の地形がある。天上の星象は摹畫することができ、地上の形體は丈量することができる。萬物の情性は千差萬別で、互いに旁通交感し、迫り相激して、自ずから相生相成するが、誰も一々記すことはできない。そこで人の中で最も精明な者が聖人となり、始めてこの一切に綱紀を建て、經緯を區劃したのである。
八極地維,徑二億三萬二千三百里,南北則短減千里,東西則廣增千里。自地至天半丁八極,則地之深亦如之。通而度之,則是渾也。將覆其數,用重差鉤股,懸天之景,薄地之儀,皆移千里而差一寸得之;過此而往,未之或知也。未之或知者,宇宙之謂也。宇之表無極,宙之端無窮。
大地の八方の盡頭のあいだの直徑は、二億三萬二千三百里である。南北方向は一千里短く、東西方向は一千里多い。地面から天までの高さは、八極の直徑の半分に等しく、地の下への深さもまたこの數である。上下四方を通算すれば、全體は一個の渾圓の球となる。これらの數字を核算するには「重差」と「句股」の算法を用いなければならない。天上に懸かる太陽の投じる影の長さを量り、地面に緊貼して立てた表儀と照らし合わせるのであるが、いずれも「相距ること一千里なら日影は一寸相違する」という比例から推し求めたものである。この範圍を超えた外側は、知るすべがない。知るすべがないというのは、まさに「宇宙」のことである。「宇」は空間でその外に際涯がなく、「宙」は往古來今でその兩端に窮盡がない。
天有兩儀,以舞道中。其可觀樞星,是謂之北極。在南者不著,故聖人弗之名焉。其世之遂九分而減二。陽道左廻,故天運左行。有驗於物,則人氣左嬴,形右繚也。
天には南北二つの樞極があり、天道の正中で旋轉し舞い動く。そのうち見えるほうの樞紐の星を「北極」と呼び、南にある一つは隱れて顯れないので、聖人はそれに名を立てなかった。「其世之遂九分而減二」の一句は、底本の文字に訛脫があるようであるが、大意は周天の度數を九分して二分を減じて計算するということである。陽氣の道は左に旋轉するので、天體の運行も左行である。このことは萬物の身上で驗證することができる。人の身の氣は左に偏り充實し、形體は右に纏繞する。
天以陽廻,地以陰淳。是故天致其動,稟氣舒光。地致其靜,承施候明。天以順動,不失其中,則四時順至;寒暑不減,致生有節,故品物用生。地以靈靜,作合承天,清化致養,四時而後育,故品物用成。
天は陽氣によって旋轉し、地は陰氣によって凝厚となる。だから天はその動を極め、元元氣を稟受して光明を舒展し、地はその靜を極め、天の施與を承けて光照を俟つ。天は時に順って動き中正を失わないので、四季は順序どおりに至り、寒暑は損なわれず、生養に節度があるので萬物は生發を得る。地は虛靈沈靜をもって天に配承し、清和の氣化をもって萬物を致養し、四季の運行を終えて萬物成熟するので、萬物は完成を得る。
凡至大者莫如天,至厚者莫若地,至質者曰地而已。至多莫若水,水精為漢,漢周於天而無列焉,思次質也。地有山嶽,以宣其氣,精鍾為星。星也者,體生於地,精成於天,列居錯峙,各有由屬。
天下で最大のものは天に過ぎず、最も厚いものは地に過ぎず、最も質實なのもまた地だけである。最も多いものは水で、水の精華は昇って「天漢」(銀河)となる。天漢は天空全體を環繞するが星宿に列しないのは、その質地が一等劣るからである。地上には山嶽があり、地中の氣を宣泄するのに用いられ、地氣の精華が凝聚すれば星となる。いわゆる星とは、形體は地に生じ、精氣は天に凝り、羅列錯落として對峙分布し、それぞれに統屬がある。
紫宮為皇極之居,太微為五帝之延。明堂之房,大角有席,天市有座。蒼龍連踡於左,白虎猛據於右,朱雀奮翼於前,靈龜圈首於後,黃神軒轅於中。六擾既畜,而狼蚖魚鱉,罔有不具。在野象物,在朝象官,在人象事,於是備矣。
紫微宮は天帝の居する宮室、太微垣は五方の天帝が群臣を接見する朝堂である。天には「明堂」の房室があり、「大角」星には席位が設けられ、「天市」垣には座次が設けられている。東方の蒼龍は蜷曲盤繞して左にあり、西方の白虎は威猛雄踞して右にあり、南方の朱雀は前に振翅し、北方の靈龜は後に回首し、中央には黃帝の神たる軒轅がいる。馬・牛・羊・豕・犬・雞の六種の馴畜がすでに備わり、狼・蜥蜴・魚・鱉の類も無きにあらず。星象は野においては各種の物類に對應し、朝廷においては各種の官職に對應し、人間においては各種の事務に對應し、ここに至って完備である。
懸象著明,莫大乎日月。其徑當天周七百三十六分之一,地廣二百四十三分之一。日者,陽精之宗,積而成鳥,象烏,有三趾,陽之類,其數奇。月者,陰精之宗,積而成獸,象兔,陰之類,其數偶。
空中に懸かり光明顯著な天象で、太陽と月より大きいものはない。日月の直徑は周天の七百三十六分の一に相當し、大地の闊さの二百四十三分の一に相當する。太陽は陽精の宗主で、陽精が積聚して鳥形と化し、その象は烏であり、三隻の脚を生じ、陽の類に屬するので奇數を取る。月は陰精の宗主で、陰精が積聚して獸形と化し、その象は玉兔であり、陰の類に屬するので偶數を取る。
其後有馮焉者,羿請無死之藥於西王母,姮娥以之奔月。將往,枚筮之於有黃,有黃占之曰:‘吉,翩翩歸妹,獨將西行,逢天晦芒,毋驚毋恐,後且大昌。’姮娥遂託身於月,是為蟾蜍。
後になってまた月に憑附する傳說がある。后羿が西王母に不死之藥を求めて得ると、姮娥(すなわち嫦娥)は藥を服して月宮に奔った。行くに先だち、彼女は有黃という巫者に蓍草で占卜させた。有黃の斷辭は「吉。翩翩として去る歸妹、獨り西に行く。途中天の色が暗く光がなくとも、慌てるな、懼れるな、後將に大いに昌んあらん」といった。姮娥はそこで身を月に托し、蟾蜍と化した。
夫日譬猶火,月譬猶水,火則外光,水則含景。故月光生於日之所照,魄生於日之所蔽,當日則光盈,就日則光盡也。眾星被耀,因水轉光。當日之沖,光常不合者,蔽於地也。是謂暗虛。在星星微,月遇則食。
太陽は譬えば火、月は譬えば水である。火は外に向かって光を發し、水は影像を內に含む。だから月の明光は太陽に照らされる部分に生じ、月魄(暗い部分)は太陽に遮られる部分に生じる。太陽と正對するとき月光は圓滿し、太陽に近づくとき月光は消盡する。衆星は日光の照曜を受け、また水面のようにその光を轉射する。太陽と正對するその一處には光がつねに照り込まないが、それは大地に遮られているのであり、これを「暗虛」と呼ぶ。星宿が暗虛に入れば光芒は微弱となり、月が暗虛に遭えば月食が起こる。
日之薄地,暗其明也。繇暗視明,明無所屈,是以望之若大。方於中天,天地同明。繇明視暗,暗還自奪,故望之若小。火當夜而揚光,在晝則不明也。月之於夜,與日同而差微。星則不然,強弱之差也。
太陽が地平線に貼近するとき、四周は昏暗でそれ自身は明亮である。昏暗の處から明亮の物を見れば、その明亮は抑壓を受けないので、見上げれば大きく見える。太陽が中天に昇れば、天上地下ともに同じく明亮となり、明亮の處から見れば、その暗淡はかえって自身の明亮に奪われるので、見上げればかえって小さく見える。火が夜に光焰を揚げても、晝になれば明亮が顯れないのは、まさにこの理である。月の夜間の情形は太陽と同じだが、差別はやや小さい。星はこのようではなく、星の大小明暗はただその光芒の強弱の差別にすぎない。
眾星列布,其以神著,有五列焉,是謂三十五星。一居中央,謂之北斗。動變定占,實司王命。四佈於方,為二十八宿。日月運行,歷示吉凶,五緯更次,用告禍福,則天心於是見矣。
衆星は羅列分布し、神異なるがゆえに顯著であり、五つの行列があり、所謂「三十五星」である。そのうち一列は中央に居り、北斗と呼ばれる。北斗の動靜變化は占斷を決定し、實に帝王の命運を掌る。殘る四列は東南西北の四方に分布し、これが二十八宿である。日月はその間を運行して吉凶を順次顯示し、金木水火土の五星は各宿を輪番に經歷して禍福を預告する。天の心の意はここに於て顯現する。
中外之官,常明者百有二十四,可名者三百二十,為星二千五百,而海人之占未存焉。微星之數,蓋萬一千五百二十。庶物蠢動,咸得繫命。不然何以總而理諸。
中宮と外宮の星官のうち、常年明亮なものは一百二十四個、名を呼べるものは三百二十個、合わせて二千五百の星であり、航海する人の占う南方の星象はなおその中に含まれない。あの微細な暗星の數は、およそ一萬一千五百二十顆である。天下の萬物は蠢然として動き、みな星にその命數を繫げている。そうでなければ、何をもってそれらを統攝し治理することができようか。
夫三光同形,有似珠玉,神守精存,麗其職而宣其明。及其衰,神歇精斁,於是乎有隕星。然則奔星之所墮,至則石矣。
日・月・星の三種の光體は形質が同じで、いずれも珠玉のごとくであり、神明が守護し精氣が存留して、それぞれの在る職位に附麗して光明を放つ。それらが衰敗するに及び、神明は歇滅し精氣は敗壞する。そこで星の隕落がある。だから流星の墜ちたところ、地に落ちて石となるのである。
文耀麗乎天,其動者七,日、月、五星是也。周旋右廻。天道者,貴順也。近天則遲,遠天則速,行則屈,屈則留廻,留廻則逆,逆則遲,迫於天也。行遲者觀於東,觀於東屬陽;行速者觀於西,觀於西屬陰,日與月以配合也。攝提、熒惑、地候見晨,附於日也。太白、辰星見昏,附於月也。二陰三陽、參天兩地,故男女取焉。
光耀の文彩は天に附麗しているが、その中で移動するものは七つ、すなわち太陽・月と金木水火土の五星である。それらは天體を環繞して右に旋行する。天道は順行を貴ぶからである。天殼に近いものは行きが遲く、天殼に遠いものは行きが速い。行進の中に屈折があり、屈折すれば停留回旋が現れ、停留回旋すれば逆行に轉じ、逆行すればなお遲い。これはみな天體の運轉に逼迫される故である。行きの遲いものは東方に見え、東方に觀るのは陽に屬し、行きの速いものは西方に見え、西方に觀るのは陰に屬する。これはまさに太陽・月と相配合する。攝提(歳星、すなわち木星)・熒惑(火星)・地候(鎮星、すなわち土星)は清晨に現れて太陽に依附し、太白(金星)・辰星(水星)は黃昏に現れて月に依附する。二つは陰に屬し三つは陽に屬し、「參天兩地」の數理に合うので、男女の別もまたこれに取法するのである。
方星巡鎮,必因常度,苟或盈縮,不逾於次。故有列司作使,曰老子四星,周伯、王逢、絮芮各一,錯乎五緯之間,其見無期,其行無度,實妖經星之所,然後吉凶宣周,共詳可盡。”
四方の星は巡行鎮守して、必ず固定の度數に依循し、たとえ超前落後の盈縮があっても本來の位次を越え出ることはない。このほかに屬官・使者の類を充てる星があり、「老子」の四星と呼ばれ、また「周伯」「王逢」「絮芮」が各一顆あって、五星のあいだに錯雜している。それらの出現には定期がなく、運行に常度がなく、實に經星(恒星)の區域を攪擾する妖異の星である。これらがあることで、吉凶の徵兆が宣示周遍し、天象の詳細が窮盡できるのである。
張衡《渾儀註》曰:“渾天如雞子,天體圓如彈丸,地如雞子中黃,孤居於內。天大而地小,天表裡有水。天之包地,猶殼之裹黃。天地各乘氣而立,載水而浮。
張衡《渾儀注》にいう。渾天の形狀は一個の雞卵のごとく、天體は渾圓で彈丸のようであり、大地は卵の中の黃のようで、孤零零として中間に處っている。天は大にして地は小、天の表裏にはみな水がある。天は地を包裹すること、卵殼が卵黃を裹むごとし。天と地はそれぞれ氣に乘じて立定し、水上に托載されて漂浮している。
周天三百六十五度四分度之一;又中分之則一百八十二度八分之五覆地上,一百八十二度八分之五繞地下。故二十八宿,半見半隱,其兩端謂之南北極。
周天は合わせて三百六十五度四分の一である。中間から平分すれば、一百八十二度八分の五が地面以上を覆い、一百八十二度八分の五が地面以下を環繞する。だから二十八宿はつねに半分が見え、半分が隱沒して見えない。天球の旋轉が依托するあの二つの端點を、南極と北極と呼ぶ。
北極,乃天之中也。在正北,出地上三十六度,然則北極上規,徑七十二度,常見不隱。南極,天之中也。在南,入地三十六度,南極下規七十二度,常伏不見。兩極相去一百八十二度半強。
北極は天の中樞で、正北方に位置し、地平面より三十六度高い。こうして北極を心として畫く「上規」の圓圈の直徑は七十二度となり、圈内の星は常年可見で隱沒しない。南極もまた天の中樞で、正南方に位置し、地平面より三十六度低い。南極を心として畫く「下規」の圓圈の直徑も同じく七十二度で、圈内の星は常年潛伏して見えない。南北の兩極は一百八十二度半余り離れている。
天轉如車轂之運也,周旋無端,其形渾渾,故曰渾天也。赤道橫帶,天之腹;去南北二極,各九十一度十九分度之五。(橫帶者,東西圍天之中要也。然則北極小規去赤道五十五度半,南極小規亦去赤道五十五度半,並出地、入地之數,是故各九十一度半強也。)
天の旋轉は車輪の轂が轉動するようで、周而復始して起訖がなく、形體は渾然一團である。だから「渾天」と呼ぶ。赤道は一は一條の帶のように天の腰腹に橫束し、南北の兩極よりそれぞれ九十一度十九分の五である。(原書小注:所謂橫帶とは、東西方向に天體の正中を環繞するあの要束のことである。このように算すれば、北極の小規圈は赤道より五十五度半、南極の小規圈も赤道より五十五度半で、さらに北極の地に出る・南極の地に入る三十六度を合わせるので、兩邊それぞれ九十一度半余りとなる。)
黃道斜帶,其腹出赤道表裡各二十四度。(日之所行也,日與五星行黃道,無虧盈。月行九道:春行東方青道二,夏行南方赤道二,秋行西方白道二,冬行北方黑道二,四季還行黃道,故月行有虧盈。東西南北隨八節也。
黃道は斜めに天腹に束ねられ、赤道の内外にそれぞれ二十四度を伸出している。(原書小注:黃道とは太陽の行く道である。太陽と五星はみな黃道に沿って運行し、偏出偏入の盈虧がない。月は九條の道を行く。春は東方の青道二條、夏は南方の赤道二條、秋は西方の白道二條、冬は北方の黑道二條を行き、四季の末に黃道に歸るので、月の運行には盈虧がある。東西南北のこの四組の道路は、立春・春分など八つの節氣に隨って更換される。)
日最短,經黃道南,在赤道外二十四度,是其表也。日最長,經黃道北,去赤道內二十四度,是其裡,故夏至去極六十七度而強,冬至去極百一十五度亦強。
白晝が最も短いとき、太陽は黃道の最も南の一段を經て、赤道以外二十四度にあり、これが所謂「表」である。白晝が最も長いとき、太陽は黃道の最も北の一段を經て、赤道以内二十四度にあり、これが所謂「裏」である。したがって夏至の日に太陽は北極より六十七度余り、冬至の日に太陽は北極より一百十五度もまた余りある。
日行而至斗二十一度,則去極一百一十五度少強,是故日最短,夜最長,景極長,日出辰、入申,晝行地上一百四十六度強,夜行地下二百一十九度少強。夏至日在井二十五度,去極六十七度少強。是故日最長,夜最短,景極短,日出寅,日入戌,晝行地上二百一十九度少強,夜行地下一百四十六度強。)
太陽が南斗宿の二十一度に行き當たるとき、北極より一百十五度やや多く、だからこのとき白晝は最も短く黑夜は最も長く日影は最も長い。太陽は辰の位(東南偏東)より昇り、申の位(西南偏西)に落ち、晝は地面以上を一百四十六度余り行き、夜は地面以下を二百一十九度やや多く行く。夏至には太陽は井宿の二十五度にあり、北極より六十七度やや多く、だからこのとき白晝は最も長く黑夜は最も短く日影は最も短い。太陽は寅の位(東北偏東)より昇り、戌の位(西北偏西)に落ち、晝は地面以上を二百一十九度やや多く行き、夜は地面以下を一百四十六度余り行く。)
然則黃道斜截赤道者,即春、秋分之去極也。(斜截赤道者,東西交也。然則春分日在奎十四度少強,西交於奎也。秋分日在角五度弱,東交於角也。在黃赤二道之交中,去極俱九十一度少強,故景居二至長短之中,奎十四、角五,出卯入酉,日晝行地上,夜行地下,俱一百八十二度半強,故晝夜同也。)
このように見れば、黃道が斜めに赤道を截るあの二處は、まさに春分・秋分のとき太陽が北極に距る所在である。(原書小注:所謂斜截赤道とは、黃赤二道が東・西の兩邊で相交することである。春分に太陽は奎宿十四度やや多くあり、これは西邊で奎宿に交わることである。秋分に太陽は角宿五度やや弱くあり、これは東邊で角宿に交わることである。太陽が黃赤二道の交點に處るとき、北極よりいずれも九十一度やや多いので、日影の長短はちょうど冬至・夏至の二つの極端の間に居る。奎宿十四度・角宿五度のこの二處では、太陽は卯の位の正東より昇り、酉の位の正西に落ち、晝は地面以上・夜は地面以下を、それぞれ一百八十二度半余り行くので、晝夜が相等しい。)
張衡《渾儀圖注》曰:“今此春分去極九十一度少強,秋分去極九十一度少強者,就夏曆景去極之法以為率也。是以作小渾,盡赤道、黃道,乃各調賦三百六十五度四分之一,從冬至所在始起,令之相當值也。
張衡《渾儀圖注》にいう。今春分は北極より九十一度やや多く、秋分は北極より九十一度やや多いと講ずるのは、夏曆に依って日影で去極の度數を推求する方法で定めた比率である。そこで一具の小型渾象を製作し、赤道と黃道をともに畫き備え、さらに二條の道にそれぞれ三百六十五度四分の一を均配し、冬至の在る位置から起算して、黃赤兩道の度數を彼此對應させる。
取北極及衡,各針穿之為軸,取薄竹篾穿其兩端,令兩穿中間與渾半等以貫之,令察之與渾相切摩,乃從減半起,以為八十二度八分之五,盡衡減之半焉。
北極と玉衡(南極)の二處には、それぞれ鍼で穿透して轉軸とする。さらに一條の薄竹篾を取り、その兩端に孔を穿ち、兩孔のあいだの距離をちょうど渾象の半周に等しくして、それを兩軸に套貫し、竹篾を渾象の表面に貼り滑動させる。それから半減の處より起算し、八十二度八分の五と定め(この數は底本が「一百」の二字を脫したようで、一百八十二度八分の五と作るべきである)、玉衡のあの一端の半減の處に至るまで算える。
又中分其篾,拗去其半,令其半之際,正直與兩端減半相直,令篾半之際,從冬至起一度一移之,視篾之半際多少,黃赤道幾也。其所多少,則進退之數也。從北極數之,則去極之度也。
さらにこの竹篾を正中より分かち、その半分を折去して、折斷したあの半分の處がちょうど兩端の半減の處と一直線を成すようにする。竹篾の半分の處を冬至點から起こり、一度ずつ移して行き、半分の處の指す度數の多少を見れば、黃道と赤道がその處でどれほど相違するかが分かる。相違の多少は、すなわち黃道進退の數目であり、北極より數えれば、すなわちその點の極に距る度數である。
各分赤道、黃道為二十四氣,一氣相去十五度十六分之七,每一氣者,黃道進退一度焉。所以然者,黃道直時去南北極近,其處地少而橫行,與赤道且等,故以篾度之,於赤道多也。
赤道と黃道をそれぞれ二十四の節氣段に劃分し、每一節氣のあいだは十五度十六分の七を距り、一節氣を過るごとに黃道は一度進退する。そのようにする所以は、黃道がまさに南北二極に近いあの一段に當たるとき、占める位置が小さく橫行に近く、ほぼ赤道と平行なので、竹篾をもって量れば赤道上に量り得た度數が多く見えるからである。
設一氣令十六日皆常率,四日差少半也。令一氣十五日,不能半耳。故使中道三日之中差少半,三氣一節,故四十六日而差今三度也。至乎差三之時而五日同率者一,其實一節之間不能四十六日也。今殘日居其策,故五日同率也。其率雖同,先之皆強,後之皆弱,不可勝記耳。
仮に一個の節氣を十六日と算して、みな同一の比率で推算すれば、四日で差が半度に滿たない。もし一節氣を十五日と算すれば、差數はなお半度に足らない。だから中間のあの三日のうちに相差を半度に滿たなくする。三節氣を一節に合して、四十六日で差が三度に滿つ。差が三度に滿つとき、連なる五日が同一の比率を用いる情形が現れるが、實は一節のうちに四十六日に滿たず、今は餘る零日をも策數の中に算入するので、五日同率の現象がある。これらの比率は同じと謂うものの、前のものはみな強く偏り、後のものはみな弱く偏り、細微の出入は記すに勝えないほど多い。
至於三而復有進退者,黃道稍斜於橫行,不得度故也。春分、秋分所以退者,黃道始起更斜矣,於橫行不得度故也。亦每氣一度焉。故三氣一節亦差三度也。至三氣之後,稍遠而直,故橫行得度而稍進也。
差が三度に滿ちた後また進あり退あるのは、黃道が次第に橫行の方向に斜めとなり、應有の度數を量り足らないからである。春分・秋分の退る所以は、黃道がここより轉じてなお斜めとなり、橫行に照らして量れば度數を量り足らず、これも每一節氣に一度差し、だから三節氣を一節に合して同じく三度差す。三節氣を過ぎた後、黃道は次第に極を離れ遠ざかり平直に趨き、橫に量れば度數を量り足るので、また次第に進むのである。
立春、立秋橫行稍退矣,而度猶雲進者,以其所退減其所進,猶有盈餘未盡故也。立夏、立冬橫行稍進矣,而度猶雲退者,以其所進增其所退,猶有不足未畢故也。以斯言之,日行非有進退也,而以赤道量度黃道使之然也。本二十八宿相去度數,以赤道為強耳,故黃道亦有進退也。
立春・立秋の前後には橫行の度數がすでに次第に退いているが、なお「進」と謂うのは、退けたものをもって先に進んだものを抵減し、なお抵い盡くさない盈餘があるからである。立夏・立冬の前後には橫行の度數がすでに次第に進んでいるが、なお「退」と謂うのは、進んだものをもって先に退けたものを補い、なお補い足らない虧欠があるからである。このように講ずれば、太陽の運行には本來進退というものはなく、ただ赤道の尺度をもって黃道を丈量したために、進退が顯れたのである。本來二十八宿の彼此相距の度數は赤道によって定められており、赤道の量りが強く偏るので、黃道上にもまたこれに隨って進退があるのである。
冬至在斗二十一度少半,最遠時也,而此歷斗二十度,俱一百一十五度強矣,冬至宜與之同率焉;夏至在井二十一度半強,最近時也。而此歷井二十三度,俱六十七度強矣,夏至宜與之同率焉。”
冬至に太陽は斗宿二十一度少半にあり、これは北極に距ること最も遠いときである。しかるにこの曆法は斗宿二十度に定め、兩者とも去極は一百十五度余りで、冬至はまさにこの比率に照らして推すべきである。夏至に太陽は井宿二十一度半余りにあり、これは北極に距ること最も近いときである。しかるにこの曆法は井宿二十三度に定め、兩者とも去極は六十七度余りで、夏至もまたこの比率に照らして推すべきである。
漢靈帝時議郎蔡伯喈於朔方上書曰:“論天體者有三家:《宣夜》之學,絕無師法。《周髀》術數具存,考驗天狀,多所違失。唯渾天近得其情。今史官所用候臺銅儀,則其法也。立八尺圓體而具天地之形,以正黃道,占察發斂,以行日月,以步五緯,精微深妙,百世不易之道也。”
漢の靈帝の時の議郎蔡邕(字は伯喈)は朔方に流される間に上書していう。天體を議論する者は合わせて三家の學說がある。「宣夜」の一派は、全く師傳の法度の依憑すべきものがない。《周髀》の一派は、推算の術數は俱にあるものの、それをもって天象の實況を考驗すれば、違失が多い。ただ渾天の説が比較的實情に近い。今史官の用いる觀候台のあの銅渾儀は、まさに渾天の法に憑る。八尺高い圓形の儀體を立て、天地の形狀をみなその上に具え、それをもって黃道を校正し、太陽南北進退の「發斂」を觀測し、日月の度數を推行し、五星の位置を推歩する。その精微深妙は、百代も更改しない道理である。
蔡氏《月令章句》曰:“天者純陽精剛,轉運無窮。其體深而包地,地上者一百八十二度八分之五,地下亦如之。其上中北偏出地三十六度,謂之北極,極星是也。史官以玉衡,長八尺,孔徑一寸,從下端望之,此星常見於孔端,無有移動,是以知其為天中也。
蔡邕《月令章句》にいう。天は純陽の氣が凝った精剛の體で、運轉は永く窮盡しない。その形體は深廣にして地を包裹する。地面以上に露れるのは一百八十二度八分の五で、地面以下に藏れるのもこの數である。天の上中の方は北に偏り、地面より三十六度高く、これを「北極」と呼ぶ。北極星はまさにそこにある。史官は玉衡をもって測量するが、玉衡は長さ八尺、孔徑一寸で、下端より望み入れば、この星は終始孔のあの一端に現れて、絲毫も移動が見えない。これによってそれが天の中樞と斷定する。
其下中南偏,入地亦三十六度,謂之南極,從上端望之,當孔下端是也。此兩中者,天之輻軸所在,轉運所由也。
天の下中の方は南に偏り、地下に沒入するのもまた三十六度で、これを「南極」と呼ぶ。玉衡の上端より望み入れば、まさに孔の下端に正對するあの一處がそれである。南北のこの二つの中樞は、天という大きな車輪の輻條と軸心の在るところであり、天全體の旋轉はみなそれらより生ずる。
天左旋出地上而西,入地下而東,其繞北極徑七十二度,常見不伏,圖內赤小規是也。繞南極徑七十二度,常伏不見,圖外赤大規是也。據天地之中,而察東西,則天半見半不見,圖中赤規截婁、角者是也。”
天は左に旋轉し、地面に露出すれば西に行き、地下に沒入すれば東に行く。北極を環繞して直徑七十二度のあの一圈は、星辰が常年可見で隱伏せず、すなわち星圖の裏面のあの紅色の小規圈である。南極を環繞して直徑七十二度のあの一圈は、星辰が常年隱伏して見えず、すなわち星圖外圍のあの紅色の大規圈である。天地の正中に立って東西の兩方を觀察すれば、天は半分可見・半分不可見であり、あれが圖上婁宿と角宿を橫截するあの紅色の規圈である。
後漢末吳人陸公紀《渾天》曰:“先生之道,存乎治曆明時,本之驗著,在於天儀。夫法象莫若渾天,渾天之設久矣。昔在顓頊,使南正重司天。而帝嚳亦序三辰,堯命羲和,欽若昊天,曆象日、月、星辰。舜之受禪,在璇璣玉衡,以齊七政。以是數者言之,曩時已立渾天之象明矣。
東漢末の吳の人陸績(字は公紀)は《渾天》の一書にいう。先聖の道は、曆法を制定し時令を明らかにすることに落實する。その根本の驗證と彰顯は、天を觀る儀器にある。天の形象に取法するには、渾天ほど相宜なるものはなく、渾天儀の設立は由來すでに久しい。昔顓頊の世に、南正の重を任命して天事を掌らせた。帝嚳も日・月・星の三辰の次序を整理した。堯は羲氏・和氏に命じて恭敬に上天に順い、日月星辰の運行を觀測推算させた。舜は禪讓を受けた後、「璇璣玉衡」という儀器を用いて日月五星の七政の行度を校正した。この數事に就いて言えば、はるか早い時にすでに渾天儀象を立てていたことは、極めて明白である。
周公序次六十四卦,兩者相承,反覆成象,以法天行,周而復始,晝夜之義,故《晉卦象》曰:“晝日三接。”《明夷象》曰:“初登于天,後入于地。”仲尼說之,曰:“明出地上,晉進而麗乎大明,是以晝日三接,明入地中。”明夷夜也,先晝後夜,先晉後明夷,故曰初登于天,照四國也。後入于地,失則也。日月麗乎天,隨天轉運,出入乎地,以成晝夜也。渾天之義,蓋與此同。
周公は六十四卦の次序を排定し、相鄰る兩卦は彼此相承し、正看反看して卦象を成し、もって上天の運行に取法し、周而復始して、その中に晝夜の道理を含ませた。だから《晉卦》の象辭に「晝に三たび天子に接見す」といい、《明夷卦》の象辭に「初め天空に升り、後に地下に沈む」という。孔子は解釋していう。「光明が地より出る、これが晉卦である――上進して大明に附麗し、ゆえに白晝のうち三たび接見する。光明が地に沈む、それが明夷である」と。明夷は夜を謂う。先に白晝があり後に黑夜があるので、先に晉卦を排し後に明夷卦を排する。ゆえに「初め天空に升る」とは四方の國を照臨することをいい、「後に地下に沈む」とは常則を失うことをいう。日月は天に附麗し、天に隨って旋轉し、大地のあいだに出没して、晝夜を形成する。渾天説の義理は、おおむねこれと同じである。
仲尼歿,大道乖,諸子穿鑿妄作,乃有蓋天之說。其以虛偽,較然可知,又曰:“渾天以日出地上則晝,故《易》曰:‘明出地上,晝日三接。’又曰:晉,晝也。日入於地則夜,夜則明傷。故《易》曰:‘明夷,傷也。”又曰:“‘初登于天,照四國也。後入于地,失則也。’《尚書》:‘寅賓出日,寅餞納日。’以此言之,知出入於地,審矣。若日不出於地,則何緣得有晝、夜、明、暗乎。
孔子が去世した後、大道は乖違し、諸子百家は穿鑿附會して妄りに新説を立て、そこで「蓋天」の論があった。その虛妄不實は顯然として見抜くことができる。陸績はまたいう。渾天説は太陽が地面を升出すれば白晝とする。だから《周易》に「光明が地より出る、晝に三たび接見す」といい、また「晉とは白晝である」という。太陽が地下に沈入すれば黑夜で、夜は光明が損傷する。だから《周易》に「明夷とは損傷である」という。又いう。「初め天空に升るは四方の國を照臨す。後に地下に沈むは常則を失う」。《尚書・堯典》に「恭敬に日出を迎接し、恭敬に日沒を送別す」の言がある。これに據って論ずれば、太陽が確かに大地に出入することが知られ、これは明白で疑いない。もし太陽が地下より升出しないなら、何をもって晝と夜・明と暗の分別があらんや。
天半覆地上,半周地下,繞地而運。故二十八宿半見半隱,如天半右覆地上,半周地下,二十八宿何故再見更隱乎。由此言之,天乃裹地而運,信矣。此是昏明之大術也。
天は半分が地面以上を覆い、半分が地面以下を繞行し、大地を圍んで轉動する。だから二十八宿はつねに半分可見・半分隱沒である。もし蓋天家のように講じ、天はただ斜めに半分地上を覆い半分地下を繞るだけなら、二十八宿がどうして一再出现し一再隱沒することがあろうか。ここから言えば、天は地を包裹して運轉するのであり、この點は確かに信じられる。これが昏晓明暗の大道理である。
天之形狀,圓周渾然,運於無窮,故曰渾。《易》曰:‘乾為天,為圜。’又曰:‘先甲三日,後甲三日,終則有始。’天行也,此之謂矣。天大地小,天統地;半覆地,上半周地下,譬如卵白,白繞黃也。”
天の形狀は、圓周渾然一體で、運轉永く窮盡しないので、「渾」と呼ぶ。《周易・説卦》に「乾は天、圓なり」という。《蠱卦》にまた「甲日より先に三日、甲日より後に三日、終結してまた重ねて始まる」という。これはまさに天の運行を講じ、この道理を説いたものである。天は大にして地は小、天は地を統攝する。半分は地上を覆い、半分は地下を繞ること、あたかも蛋白の卵黃を圍裹するがごとし。
揚子雲《太玄經》曰:“天穹隆而周乎下,地旁薄而向乎上,故知天裹地下。周天三百六十五度四分度之一,一百八十二度八分度之五覆地上,一百八十二度八分度之五周地下,故二十八宿半見半隱,日月出入以成昏明也。
西漢の揚雄(字は子雲)は《太玄經》の中にいう。天穹は隆起して下向に環繞し、地は廣大平鋪して上向に承接する。ゆえに天が地の下面をも一倂せに包裹していることが知れる。周天は三百六十五度四分の一、そのうち一百八十二度八分の五が地上を覆い、一百八十二度八分の五が地下を繞る。だから二十八宿は半分可見・半分隱沒で、日月はその間に出入し、昏晓明暗を形成する。
北極星北方偏出於地三十六度,南極中偏入於地亦三十六度,南極、北極天軸所在,轉運所由,譬車之有輪,所以自行也。眾星皆移無常,惟北極守中不易,是以知其為天中也。天傾,故極在中北。仲尼曰:‘譬如北辰,居其所而眾星共之。’”
北極星は北方にあって地面より三十六度偏出し、南極は正中より南に偏って地下に沒入するのもまた三十六度である。南極・北極は天軸の在るところで、天の旋轉はみなこれより生ずる。あたかも車に輪軸があり、よって自ら轉動し得るがごとし。衆星はみな移動して位置に常がないが、ただ北極のみが中樞を守って一動も移らない。ゆえにそれが天の中心であることを知る。天は傾斜しているので、極點は正中より北に偏った位置にある。孔子はいう。「たとえば北極星、その位置に安居し、衆星はみな環繞してそれを拱衛する」と。
又《太玄經》曰:“天圓地方,極樞中央,動以歷靜,時乘十二,以建七政。’是以《堯典》曰:‘在璇璣玉衡,以齊七政。’此之謂也。繞南極七十度,常在地下不出地。周天一百七萬一千里,東西南北徑三十五萬七千里,立徑亦然。”自外諸說,度次交會,與蔡氏、張衡同,故略雲。
《太玄經》はまたいう。天は圓にして地は方、極軸は中央に居り、運動をもって靜止を經歷し、十二辰に依って順次運轉し、もって日月五星七政の行度を確立する。だから《尚書・堯典》に「璇璣玉衡をもって七政を校正す」というのは、まさにこの意味を講じたものである。南極を環繞する七十度のあの一片は、つねに地下にあって地面に露出しない。周天の長さは一百七萬一千里、東西南北の直徑は三十五萬七千里、上下の直徑もまたこの數である。このほか各家の説法があり、度數の次第と黃赤の交會を講じるものはいずれも蔡邕・張衡の説と同じなので、省略する。
吳將廬江王蕃《渾天象說》曰:‘幽平之後,周室遂卑,天子不能頒朔,魯曆不正,百有餘年;以建申之月為建亥,而怪蟄蟲不伏也。曆紀廢壞,道術浸亂,渾天之義,傳之者寡,末世之儒,或不聞見,各以私意,為天作說;故有《周髀》、《宣夜》之論。《宣夜》絕無師法。《周髀》見行於世,考驗天伏,多所違失。
三國の吳の將領で廬江の人王蕃は《渾天象説》の中でいう。周の幽王・平王以後、周王室は日に日に衰微し、天子はもはや諸侯に曆朔を頒布することができず、魯國の曆法は錯亂して正しからず、前後一百余年に及んだ。ついには建申の月(夏曆七月)を建亥の月(夏曆十月)と當て、なお蟄蟲がなぜ土に入り潛伏しないかを怪しむ始末であった。曆法の綱紀は廢壞し、天文の學は次第に紊亂し、渾天の義理を傳授する者はごく少なかった。末世の儒生はある者は聞くことすらしたことがなく、各々私意に憑って天のために一套の説法を造り、そこで《周髀》と「宣夜」の兩派の議論があった。宣夜説には全く師傳の法度がなく、《周髀》の説は世に流行したが、それをもって天象の出没伏見を考驗すれば、違失が多かった。
依劉洪《乾象曆》之法而論渾天曰:‘前儒舊說,天地之體,狀如鳥卵,天包地外,猶殼之裹黃也。周旋無端,其形渾渾然,故曰渾天也。周天三百六十五度五百八十九分度之百四十五,東西南北,辰轉周規,半覆地上,半在地下,故二十八宿半見半隱;以赤儀準之,其見者常百八十二度有奇,是以知其半覆地上,半隱地下,其二端謂之南極、北極,天之中也。
王蕃は劉洪《乾象曆》の算法に依って渾天を論じていう。前代の儒者の舊説は、天地の形體は鳥卵のようで、天は地の外を包み、あたかも卵殼が卵黃を裹むごとしとする。それは周旋運轉して起訖がなく、形體は渾然一團なので、渾天と呼ぶ。周天は三百六十五度五百八十九分の一百四十五で、東西南北は十二辰に按じ圓規に依って運轉し、半分は地上を覆い、半分は地下にある。だから二十八宿は半分可見・半分隱沒である。赤道儀をもって校準すれば、可見の部分はつねに一百八十二度余りであり、これによって半分が地上を覆い半分が地下に隱れることが知れる。その二つの端點を南極・北極と呼び、あれは天の中樞である。
北極在正北,出地三十六度。南極在正南,入地亦三十六度。兩極相去一百八十二度半強。眾星皆移,而北極不徙,猶車輪之有釭軸也。繞北級徑七十二度,常見不隱,謂之上規。繞南極七十二度,常隱不見,謂之下規是也。上規去南極,下規去北極,皆一百四十度半強。以二規於渾儀。
北極は正北方にあって地面より三十六度高く、南極は正南方にあって地下に沒入するのもまた三十六度であり、兩極は一百八十二度半余りを距る。衆星はみな移動するが、獨り北極のみ遷移せず、あたかも車輪に軸管と車軸があるがごとし。北極を環繞して直徑七十二度の一圈は、星辰が常に見えて隱沒せず、「上規」と呼ばれる。南極を環繞して直徑七十二度の一圈は、星辰が常に隱れて出現せず、「下規」と呼ばれる。上規の南極よりの距り・下規の北極よりの距りは、いずれも一百四十度半余りである。この二つの規圈はいずれも渾儀の上に標すべきものである。
為中規赤道帶天之紘,去兩極各九十一度少強。黃道,日所行也。半在赤道外,半在赤道內,與赤道東交於角五弱,西交於奎十四少強。其出赤道外極遠者,去赤道二十四度,斗二十一度是也。其入赤道內極遠者,入赤道二十四度,井二十五度是也。
居中のあの規圈がすなわち赤道で、一條の冠帶のように天の正中に束ねられ、南北兩極よりそれぞれ九十一度やや多い。黃道は太陽の行く道で、半分は赤道以外に、半分は赤道以内にある。それは東邊で赤道と角宿五度やや弱に交わり、西邊で赤道と奎宿十四度やや多に交わる。赤道以外に伸出して最も遠いところは赤道より二十四度で、すなわち斗宿二十一度である。赤道以内に深入して最も遠いところもまた赤道に入ること二十四度で、すなわち井宿二十五度である。
日南至斗二十一度,去極百一十五度少強,是日最南,去極最遠,故景最長。黃道斗二十一度,出辰、入申,故日亦出辰、入申,晝行地上百四十六度強,故日短;夜行地下二百一十九度少弱,故夜長。
冬至に太陽は南行して斗宿二十一度に至り、北極より一百十五度やや多く、この日太陽は最も南に偏り北極より最も遠いので、日影が最も長い。黃道上斗宿二十一度のこの點は辰の位より昇り申の位に落ちるので、太陽もまた辰の位より昇り申の位に落ちる。晝は地面以上を一百四十六度余り行くので白晝が短く、夜は地面以下を二百一十九度やや弱行くので黑夜が長い。
自南至之後,日去極稍近,故景稍短;日晝行地上度稍多,故日稍長;夜行地下稍少,故夜稍短;日行度稍北;故日出入稍北;以至於夏至日在井二十五度,去極六十七度少強,是日最近北,去極最近,故景最短。
冬至以後、太陽は北極に距ることが次第に近くなるので日影は次第に短くなり、晝に地面以上を行く度數が次第に多くなるので白晝は次第に長くなり、夜に地面以下を行く度數が次第に少なくなるので黑夜は次第に縮まり、太陽の行く度數が次第に北に偏るので日出日沒の方位も次第に北に偏る。夏至に至るまでに、太陽は井宿二十五度にあって北極より六十七度やや多く、この日太陽は最も北に寄り北極に最も近いので、日影は最も短い。
黃道井二十五度出寅、入戌,故日亦出寅、入戌,日晝行地上二百一十九度少弱,故日長;夜行地下百四十六度強,故夜短;自夏至之後,日去極稍遠,故景稍長;日晝行地上度稍少,故日稍短;夜行地下度稍多,故夜稍長;日所在度稍南,故日出入稍南;以至於南至,而復初焉。斗二十一度,井二十五度,南北相應四十八度。
黃道上井宿二十五度のこの點は寅の位より昇り戌の位に落ちるので、太陽もまた寅の位より昇り戌の位に落ちる。晝は地面以上を二百一十九度やや弱行くので白晝が長く、夜は地面以下を一百四十六度余り行くので黑夜が短い。夏至以後、太陽は北極に距ることが次第に遠くなるので日影は次第に長くなり、晝に地面以上を行く度數が次第に少なくなるので白晝は次第に縮まり、夜に地面以下を行く度數が次第に多くなるので黑夜は次第に長くなり、太陽の在る度數が次第に南に偏るので日出日沒の方位も次第に南に偏る。冬至に至れば、また初めの狀態に回復する。斗宿二十一度と井宿二十五度は南北に遙かに對應し、四十八度を相差する。
春分日在奎十四少強,秋分日在角五少弱;此黃赤二道之中交也。去極俱九十一度少強,南北處斗二十一、井二十五之中,故景居二至長短之中,奎十四、角五,出卯、入酉,故日亦出卯、入酉,日晝行地上,夜行地下,俱百八十二度半強,故日見之漏五十刻,不見之漏五十刻,謂之晝夜同。
春分に太陽は奎宿十四度やや多くにあり、秋分に太陽は角宿五度やや弱にあり、この二處はまさに黃赤二道の相交する中點である。二處とも北極より九十一度やや多く、南北の方位はちょうど斗宿二十一度と井宿二十五度の正當中にあるので、日影の長短もまた冬至・夏至の二つの極端の間に居る。奎宿十四度・角宿五度のこの二點は卯の位より昇り酉の位に落ちるので、太陽もまた正東の卯位より昇り正西の酉位に落ちる。晝は地面以上・夜は地面以下を、それぞれ一百八十二度半余り行くので、太陽の可見の漏刻は五十刻、不可見の漏刻もまた五十刻、これを晝夜相等しいと呼ぶ。
夫天之晝夜,以日出入為分;人之晝夜,以昏明為限。日未出二刻半而明,日入後二刻半而昏。故損夜五刻,以增晝刻。是以春秋分之漏,晝五十五刻。
天のいう晝夜は太陽の地平への出入を分界とし、人のいう晝夜は天亮天黑を界限とする。太陽がまだ升出しない以前二刻半に天はすでに發亮し、太陽が落下して後二刻半に天はようやく昏黑する。だから夜の刻數より五刻を減じて白晝の刻數に加える。したがって春分・秋分に漏壺に按じて計れば、白晝は五十五刻である。
