地陷
《地鏡》曰:“地自陷,天王亡地。”《書緯遠期授》曰:“赤帝亡,五郡陷。”《秘徵篇》曰:“邑之淪,主勢奪。”《運斗樞》曰:“邑之淪,陰吞陽,下相屠。”《潛潭巴》曰:“天子無深鑿地,深則民苦,邑反淪而下。”《保乾圖》曰:“地淪,山亡之兆。亂如塗,禍漫漫。”《地鏡》曰:“地無故自下,天下亂,兵大起。”《易妖占》曰:“地自下,其君亡。”又曰:“家無故宅自陷下,此必人亡其邑君矣。”《地鏡》曰:“地陷沒入,人君為臣下所擒。”
《地鏡》にいう。「地が自ら塌陷するは、天王の國土を失うを主とす」。《書緯遠期授》にいう。「赤帝が敗亡せば、五個の郡は陷落せん」。《河圖祕徵篇》にいう。「城邑の沈陷は、君主の權勢の剝奪せらるるを主とす」。《春秋運斗樞》にいう。「城邑の沈陷は、陰氣の陽氣を吞沒し、下位の者の互相屠戮するなり」。《春秋潛潭巴》にいう。「天子は土地を深く挖るを要せず。挖ること太も深ければ百姓は便ち受苦し、城邑は反って沈陷下去せん」。《孝經保乾圖》にいう。「土地の沈陷は、山嶽消亡の預兆にして、禍亂は泥淖のごとく自拔しがたく、災禍は彌漫して邊なし」。《地鏡》にいう。「地が無故に自ら下陷せば、天下は大亂し、兵事は大いに起らん」。《易妖占》にいう。「地が自ら下陷せば、あの國の君主は將に亡びん」。またいう。「人の家の宅子が無故に自ら陷落すれば、これは必定にあの人がその邑君の位を失掉せんとするなり」。《地鏡》にいう。「地が塌陷して人を埋沒せしめ入れば、君主の臣下に擒獲せらるるを主とす」。
《異苑》曰:“晉武帝太康五年,宗廟地欻陷,無故梁自折,凡宗廟,所以承祖先嗣,承世不利,安居摧陷,是縹絕之徵也。”京房曰:“山無故自下降,天下兵作。”“晉太康八年七月,大雨,殿前陷,方五尺,深數丈,中有破船。”
劉敬叔《異苑》にいう。「晉の武帝太康五年、宗廟の地面は忽然として塌陷し、屋梁は無故に自ら折斷せり。およそ宗廟とは、祖先を承奉し後嗣を傳續するを用いるなり。今傳世利あらず、安居の處は摧折塌陷す。これは國祚斷絶の徵兆なり」。京房はいう。「山嶺が無故に自ら下降せば、天下に兵事を起こさん」。「晉の武帝太康八年七月、天は大雨を降り、殿前の地面は塌陷し、方圓五尺、深さ數丈に達し、裏面に竟に一條の破船あり」。
京房《妖占》曰:“地以正月自下,且有大事。以三月自下,水月火至。以五月自下,不吉,天下有兵,民兵離鄉。以六月自下,大水,且至多不常。以七月自下,天下兵大行。以八月自下,天下大搖,民多行。以九月自下,天下有亡主。以十月自下,天下有兵。以十一月自下,有水且行。以十二月自下,大水,且移者傷。”《地鏡》曰:“春地陷,有大水,魚行人道。夏陷,兵起,國分,有非常水。秋陷,有大兵。冬陷,有兵、水。”
京房《妖占》にいう。「地が正月に自ら下陷せば、將に大事あらん。三月に自ら下陷せば、水災と火災は接踵而至せん。五月に自ら下陷せば、吉ならず、天下に兵事あり、百姓と士卒は鄉里を離れん。六月に自ら下陷せば、大水ありて、しかも來ること多くまた反常なり。七月に自ら下陷せば、天下は大いに兵を舉げん。八月に自ら下陷せば、天下は大いに動搖し、百姓に遷徙多からん。九月に自ら下陷せば、天下に君主の敗亡あらん。十月に自ら下陷せば、天下に兵事あらん。十一月に自ら下陷せば、大水ありて將に泛流せん。十二月に自ら下陷せば、大水ありて、遷徙の人は損傷を受けん」。《地鏡》にいう。「春天に地陷せば、大水ありて、魚は人の行く道路上に游がん。夏天に地陷せば、兵事は興起し、國家は分裂し、異常の水患あらん。秋天に地陷せば、將に大規模の兵事あらん。冬天に地陷せば、兵禍と水災あらん」。
地燃
京房《易傳》曰:“火出地,其國大出水,其君死。”《述異記》曰:“姚興永和十年,華山東界地燃,廣百餘步,草木煙枯,井谷沸竭,置生物皆熟,民殘之徵也。晉惠帝光照元年五月,范陽國北,地燃可爨。至九月而驃騎范陽王司馬虓薨。十一月,惠帝用食而崩。懷帝即位,太傅東海王司馬越殺太宰,河間王司馬顒專柄朝政,又尋死遂沮。永嘉之亂,海淪殪越之亂,副亦皆殄滅。石勒焚越之尸,此其應也。”
京房《易傳》にいう。「火が地の裏より冒出すれば、あの國家に大量に水を出で、それが君主は死せん」。《述異記》にいう。「後秦の姚興永和十年、華山の東界の一帶に地下燃燒し、寬さ一百余步、草木は烟に熏枯せられ、井泉溝谷は沸騰干涸し、活物をその上に放てばみな燙熟せん。これは百姓の將に殘害に遭わんの徵兆なり。晉の惠帝光熙元年(底本は『光照』と作る)五月、范陽國の北面に地下燃燒し、用いて火を燒き飯を做るべし。九月に至り、驃騎將軍范陽王司馬虓は去世せり。十一月、惠帝は食を進みたる後に駕崩せり。懷帝が即位した後、太傅東海王司馬越は太宰を殺掉し、河間王司馬顒は朝政を專擅し、まもなくもまた死去して事敗壞せり。永嘉の亂の中に、司馬越の亂の牽連する所の人もまたみな殲滅せられり。石勒は司馬越の屍首を焚燒せり。これがすなわちあの次の地燃の應驗なり」。
《有秦錄》曰:“初秦之未亂也,關中大然,無火而煙氣大起,月餘不滅。”慕容熙光始四年,遼東新郡地燃,五年八月,為遼西太守邵顏聚徒反,至九月敗,誅熙。建始元年正月,華陽郡地燃,是歲,熙僭號之七年也。其年五月,為尚書郎苻進謀反,事覺誅至,九月熙出逸,妻瘞,進餘黨推之賊高和為主,據城反,熙馳還,不得入,遂逃。不免,為和所誅。後三年,宋高祖平齊,冬,盡坑其眾,二燕並滅,慕容氏殲焉。此皆不祥之應也。”
《有秦錄》にいう。「當初前秦はまだ大亂なかりしとき、關中の一帶は大面積に地下燃燒し、明火なきも然るに烟氣騰騰、一個多月熄まざりき」。後燕の慕容熙光始四年、遼東の新設の郡に地下燃燒せり。光始五年八月、遼西太守邵顔は衆を聚めて造反し、九月に到りて敗亡し、慕容熙に誅殺せられり。建始元年正月、華陽郡に地下燃燒し、この年はまさに慕容熙が僭して帝號を稱する第七年なり。當年五月、尚書郎苻進は造反を圖謀し、事敗露して誅せられ、九月に至り、慕容熙は出逃し、妻子は草草として掩埋せられ、苻進の餘黨は賊首高和を推擧して主と為し、城を據して反叛せり。慕容熙は馬を馳せて趕回すも、城に入ること能わず、逃走するしかなく、終究一死を免れず、高和に殺せられり。此の後三年、宋の高祖劉裕は齊地を平定し、冬にその部衆を全部坑殺し、兩個の燕國は一倂せに覆滅し、慕容氏はここに於て殲盡せられり。これらはみな不祥の兆の應驗なり。
地鳴
《地鏡》曰:“地中哅哅有聲,人君好興兵相致。”《潛潭巴》曰:“地鳴有聲,天子不知國,政任婦人。”“地中有聲洞洞者,邑亡。”京房《易候》曰:“地中訩訩,若嗷嗷,為凶祥,所愛子死,邦有殃。”
《地鏡》にいう。「地下より喧嚷嘈雜の聲音を發出するは、君主の干戈を好み動かし、彼此に戰禍を招引するを主とす」。緯書《春秋潛潭巴》にいう。「地が鳴響を發出するは、天子の治國の道を解せず、政事を婦人に交して辦せしむるを主とす」。またいう。「地下より空洞の響聲を發出せば、あの城邑は覆亡せん」。京房《易候》にいう。「地下に紛紛擾擾、衆人の號叫するがごとき聲音の響起するは、これは凶險の徵兆にして、寵愛する兒子は死し、邦國に禍殃あらん」。
地生毛
《地鏡》曰:“地忽生毛,天下亂,兵起。”《易妖占》曰:“地生毛,百姓勞苦。”《史記》曰:“趙王遷時,人訛言曰:‘秦為笑,趙為號,以為不信,視地之生毛。’後五年,地果生毛,七年而秦滅趙。”
《地鏡》にいう。「地面に忽然と毛を生長せば、天下は大亂し、兵事興起せん」。《易妖占》にいう。「地上に毛を生ずるは、百姓の勞苦を主とす」。《史記》に記載す。趙王遷が位に在るとき、民間に一句の謠諺を流傳していう。「秦國は笑い、趙國は哭く。もし信ぜざれば、地上に毛を生ずるや否やを看よ」と。五年を過ぎて、地上に果して毛を生出し、第七年に到りて、秦國は便ち趙國を滅掉せり。
地嘔血
《地鏡》曰:“地出血,為兵亂,國亡。”“地忽生血,國將虛。”《潛潭巴》曰:“地嘔血,禍之極效也。”《地鏡》曰:“地無故赤如燃,兵大起。”《河圖》曰:“地赤如丹,血流泛泛。”《易妖占》曰:“功臣戮厥,地生血。”王隱《晉書》曰:“祖約為豫州,府內地皆如丹,其後果凶。”京房曰:“地生血,賊必來攻,凶急,去忽留。”
《地鏡》にいう。「地の裏より血を涌出せば、兵亂を主とし、國家は滅亡せん」。またいう。「地上に忽然として血を生出せば、國勢は將に空虛せん」。《春秋潛潭巴》にいう。「大地の嘔血は、禍患の極點に達するの驗證なり」。《地鏡》にいう。「地が無故に紅く燃燒するがごとくなれば、兵事大いに起らん」。《河圖》にいう。「地面の赤紅なること丹砂のごときは、將に鮮血の四處に漫流せん」。《易妖占》にいう。「功ある臣が殺戮に遭えば、地は便ち血を生出せん」。東晉の王隱《晉書》にいう。「祖約が豫州刺史に出任したとき、官府の裏の地面はみな紅く丹砂のごとく、後來果して凶禍に遭えり」。京房はいう。「地の血を生ずるは、敵寇は必定に前來進攻し、凶險急迫にして、應に趕快に離去し滯留すべからず」。
地出光
《地鏡》曰:“地忽生光,如火照,憂國危亡。”《潛潭巴》曰:“地生光,女謁行。”“地忽生光,小人進,賢人滅。”(注云:近驗敬暉桓范等被逐,而小人用事,於時洛陽城東白馬寺側地光如鏡,行者影現。)京房《易候》曰:“不顧骨肉,不親九族,厥德已衰,地出光。”
《地鏡》にいう。「地面に忽然として光亮を發出し、火の照るがごときは、國家の危亡を憂うを主とす」。《春秋潛潭巴》にいう。「地面の光を發するは、女子に借りて請託干政の風氣の盛行を主とす」。またいう。「地面に忽然として光を發せば、小人は進用し、賢人は排斥せらる」。括弧内は原書の小注にしていう。近世の驗證は敬暉・桓彦范などの人の貶逐せられ、而して小人の權を當て事を用いるなり。當時洛陽城東の白馬寺の旁に地面は光を發して鏡のごとく、行人の影子はみなその上に映現せり。(底本は「桓范」と作る。應に桓彦范を指す。)京房《易候》にいう。「君主は骨肉を顧念せず、九族を親近せざれば、彼の德行はすでに衰敗し、地は便ち光を發出せん」。
地自出泉
《地鏡》曰:“地無故自成泉,天下亂,兵起,大水。”《易候》曰:“天不下雨而地自出泉,其國大水,亂從中生。”《地鏡》曰:“湧泉忽出,臣為禍害,或以疾;不過三年,國憂有喪。”“家中庭忽出泉者,當富。”
《地鏡》にいう。「地が無故に自ら涌して泉水と成れば、天下は大亂し、兵事興起して併せて大水あらん」。《易候》にいう。「天上には併せて雨を降らざるに、地の裏に卻って自ら泉水を涌出せば、あの國家は大水に遭い、禍亂は內部より產生せん」。《地鏡》にいう。「泉水の忽然として噴涌而出するは、臣下の禍害を製造するを主とし、あるいは疾疫流行せん。三年を過ぎずして、國家に憂患喪事あらん」。またいう。「人の家の庭院の當中に忽然として泉水の涌出するは、あの家の人は應に致富せん」。
地自長
《明鏡》曰:“地忽自長,在道中,天下不通;地長邑下,其治毀;地長市中,國有利;地長社稷,王者增土;地長洲嶼,上亦增土;地無故自長,如丘隴、室屋,其上或生草木,皆失地,亡民。春長者,吉昌。卒長有生樹,天王安;有死樹,國王亡。地夏長,年中熟。秋長,殺生,易地。冬長,國不安,地上卒息者,大人將起。”
《明鏡》にいう。「地面に忽然として自ら隆起す。道路の當中に隆るは、天下の道路の通ぜざるを主とす。城邑の下に隆るは、あそこの治所の毀壞するを主とす。集市の中に隆るは、國家の利を得るを主とす。社稷壇に隆るは、君王の土地を增廣するを主とす。隆起して洲渚島嶼と成るは、君上もまた土地を增廣するを主とす。地が無故に自ら隆起し、形狀は墳丘あるいは屋室のごとく、上面あるいはなほ草木を生長する、これらはみな土地を喪失し人民を丟掉するを主とす。春天に隆起するは、吉利昌盛なり。忽然として隆起してその上に活きる樹を長ずるは、天王は安寧なり。枯樹を長ずるは、國王は敗亡せん。地が夏天に隆起せば、年成は中等に豐熟せん。秋天に隆起せば、肅殺傷生を主とし、封地を更換せん。冬天に隆起せば、國家は安んぜず。地面に忽然として喘息のごとく起伏するは、大人物の將に興起せんを主とす」。
地自營宮 地生雜物 地生卵
《地鏡》曰:“大澤中地無故自營宮,女患,位卑者暴貴。”《地鏡》曰:“地無故生雜物,天下亂,兵起,大水。”《易傳》曰:“地自生卵,將軍且疾。”
《地鏡》にいう。「大きな湖沼の中に、地が無故に自ら圍みて宮室の形狀と成るは、女子に由りて引起される禍患あり、地位卑下の人は驟然として顯貴なるを主とす」。《地鏡》はまたいう。「地が無故に各種の雜物を生長せば、天下は大亂し、兵事興起して併せて大水あらん」。《易傳》にいう。「地の裏に自ら卵を生出するは、將軍の將に患病せんを主とす」。
地生石
京房《易傳》曰:“地自生石,軍可久居。”《地鏡》曰:“石生平野,庶人逆謀,興兵,臣反,不出三月,齊兵起。”
京房《易傳》にいう。「地の裏に自ら石頭を生長するは、軍隊のここに長久に駐紮すべきを主とす」。《地鏡》にいう。「石頭が平曠の原野の上に生ずるは、平民の叛逆を圖謀し兵を起して亂を作し、臣下の反叛するを主とす。三個月を出でずして、兵事は便ち一齊に興發せん」。
地生穀
京房《易傳》曰:“地自出五穀,將軍得大道,生黃色,將軍得土地。”
京房《易傳》にいう。「地の裏に自ら五穀を生長するは、將軍の大道を踐行し大業を成就し得るを主とす。もし生出したる穀物の黃色を呈せば、將軍の土地を獲得するを主とす」。
開元占經 卷五
日占 一
日名體
張揖《廣雅》曰:“朱明、曜靈、東君,日也。”《兵法》曰:“姓張名長生,字子房;一名子明,字長史,能者知便不畏白刃。”皇甫謐《年曆》曰:“日以晝明,名曰曜靈。”《春秋元命苞》曰:“日之為言實也,節也,含一開度立節,使物咸別,故謂之日。言陽佈散合如一,故其立字四合共一者,為日。望之度尺,以千里立。”(實者周圓缺合一言其身者)
張揖《廣雅》にいう。「朱明・曜靈・東君は、みな太陽の別名なり」。《兵法》にいう。「太陽は姓は張、名は長生、字は子房。また名は子明、字は長史。この一套を懂得する人は事に臨みて機を知り、白刃をも畏懼せず」。皇甫謐《年曆》にいう。「太陽は白晝に光を放つ。ゆえに名づけて『曜靈』という」。緯書《春秋元命苞》にいう。「『日』のこの字は義を『實』に取り、また義を『節』に取る。それは一元を含蘊し、度數を開闢し、節候を確立し、萬物をして各々分別あらしむ。ゆえにこれを日と稱す。これは陽氣の布散開來してまた一に合歸するを説く。ゆえに字を造るとき四面を圍合し中間に一畫を共にする形狀を『日』と寫せり。それを望み上ぐるに一尺の視徑あり。これは千里一寸の比例に按じて推立したるなり」。括弧内は原書の小注。所謂「實」とは、日體の周圓完滿・盈缺合一に就いて言うにして、その形體を講ずるなり。
《春秋元命苞》曰:“天尊精為日,陽以一起,日以發紀。尊故滿,滿故施,施故仁,仁故明,明故精,精故外光,故火日外景,陽精外吐。”《春秋元命苞》曰:“元開陽為天精,精為日,散而分佈為大辰天一。陽成於三,故日中有三足烏。”《淮南天文問詰》曰:“積陽之熱氣生火,火氣之精者為日。日者,陽之主也。故陽燧見日則燃而為火。又曰日者,天之使也。”《河圖》曰:“在天為日月,在地為水火。”
《春秋元命苞》にいう。「天の至尊の精は凝りて太陽と成り、陽氣は『一』より起始し、太陽はこれに由りて紀元を開啓す。至尊なるをもってのゆえに圓滿し、圓滿なるをもってのゆえに施與し能わく、施與するをもってのゆえに仁德あり、仁德あるをもってのゆえに光明し、光明なるをもってのゆえに精純し、精純なるをもってのゆえに外に向かって光を發す。ゆえに火と太陽はみな光を外に向かって射出し、陽氣の精は外に向かって吐露す」。《春秋元命苞》はまたいう。「元氣は陽を開闢出し、天の精と成る。精は凝聚して太陽と為り、散開分布すれば則ち大辰と天一等の星と成る。陽數は三に成る。ゆえに太陽の裏面に三足の烏あり」。《淮南子・天文訓》にいう。「積聚の陽氣の生ずる所の熱氣は化して火と成り、火氣の中最も精の部分は便ち太陽なり。太陽は陽氣の主なり。ゆえに陽燧をもって太陽に對せば、便ち引燃して火を取るべし」。またいう。「太陽は上天の使者なり」。《河圖》にいう。「天上に於ては日月と表現し、地上に於ては水火と表現す」。
楊泉《物理論》曰:“日者,天陽之精也。夏則陽盛,故晝長,夜短;冬則陰盛,故夜長,晝短;春秋則陰陽均,故晝夜等。”張衡《靈憲》曰:“日者,陽精之宗,積而成鳥,象烏有三趾,陽之類,其數奇也。日譬猶火也,月譬猶水也,火則外光,水則含景,故宣明於晝,納明於夜,如是瑕,必露其匿,人君得,仰則焉。”
晉の人楊泉《物理論》にいう。「太陽は天上の陽氣の精華なり。夏天は陽氣旺盛なり。ゆえに白晝長く黑夜短し。冬天は陰氣旺盛なり。ゆえに黑夜長く白晝短し。春秋兩季は陰陽均平なり。ゆえに晝夜相等し」。張衡《靈憲》にいう。「太陽は陽精の宗主にして、陽精は積聚して鳥形と成り、形象は三隻の脚の烏にして、陽の一類に屬す。ゆえに奇數を取る。太陽は火に比すべく、月亮は水に比すべし。火は外に向かって光を放ち、水は影像を含蓄す。ゆえに太陽は白天に光明を宣布し、月亮は夜裏に光明を承受す。日面もし瑕疵あれば、必定にそれが隱藏する所の物を暴露出さん。君主はこれに由りて領會する所有れば、便ち仰觀して法を取るべし」。
石氏曰:“日光旁照十萬二千里,經三十二萬四千里,同一百萬二千里。暉經千里,(周髀曰:經一千二百五十里)周三千里。(徐整長曆曰:“日經千里,周三千里。”周三千里與石氏同也。)張衡《靈憲》曰:“日、月,其當天七百三十分之一。”(徐整長曆曰:日下於天七千里。)
石氏(戰國の魏人石申、古星占學派の宗師)はいう。「日光は四旁に向かって照射すること十萬二千里、直徑三十二萬四千里、合わせて周長一百萬二千里。日輪の本身の光暉は直徑一千里、周長三千里」。其中「《周髀》に曰く、經一千二百五十里」および「徐整《長曆》に曰く、『日經千里、周三千里』。周三千里は石氏と同じなり」は、みな原書の小注にして、《周髀算經》は直徑一千二百五十里と作り、三國の吳人徐整《長曆》は太陽の直徑一千里・周長三千里と説き、その周長三千里の數は石氏と相合す。張衡《靈憲》にいう。「日と月の視直徑は、各々周天の七百三十分の一を占む」。末尾の括弧内もまた原書の小注。徐整《長曆》は太陽の天より低きこと七千里と説く。
日行度
揚雄《方言》曰:“日暈為躔歷行也。”(躔,踐也)《春秋元命包》曰:“日行一度以立序,行三百六十五度四分度之一。”《春秋元命包》曰:“日月左行周天二十三萬里。”《河圖》曰:“天元十一月甲子夜半,朔,日月俱起牽牛初度。推歷考宿,正月在營室;二月在奎;三月在胃;四月在畢;五月在東井;六月在柳;七月在翌;八月在角;九月在房;十月在尾;十一月在斗;十二月在牽牛。”
揚雄《方言》にいう。「日暈を『躔』と呼ぶ。これは太陽の依次に經歷運行するを指す」。括弧内は原書の小注。「躔」とはすなわち踩踏して經行するの意思なり。緯書《春秋元命包》にいう。「太陽は每天に一度を行りて以て次序を確立し、一周は共に三百六十五度また四分の一度を行る」。《春秋元命包》はまたいう。「日月は左に向かって運行し、周天を繞ること一圈は二十三萬里なり」。《河圖》にいう。「天元十一月甲子日の夜半の合朔を以て起算と為し、日月はみな牽牛宿の初度より出發す。曆法を推排し各月の在る所の宿次を核定す。正月は營室に在り、二月は奎に在り、三月は胃に在り、四月は畢に在り、五月は東井に在り、六月は柳に在り、七月は翼に在り、八月は角に在り、九月は房に在り、十月は尾に在り、十一月は斗に在り、十二月は牽牛に在り」。
《河圖》曰:“日月五星同道,過牽牛、女、虛、危、室、璧、奎、婁、胃、昂,皆行其南之九尺;畢北七尺;觜參北一丈三尺;貫東井,出鬼南六尺,出柳北六尺,出七星張北一丈三尺,出翌軫北一丈三尺,貫角亢出氐南一尺,出房左右股間,出心北二尺,出尾北九尺,出箕北一尺,貫南斗,復至牛。此日、月、五星行常道也。
《河圖》にいう。「日・月と五星は一道を同行す。牽牛・須女・虛・危・營室・東壁・奎・婁・胃・昴の各宿を經過するときは、みなこれらの宿の南面の九尺の處より通過す。畢宿を過ぐるときは北面の七尺の處より通過す。觜宿・參宿を過ぐるときは北面の一丈三尺の處より通過す。東井宿を穿過す。輿鬼宿を出づるとき南面の六尺の處に在り、柳宿を出づるとき北面の六尺の處に在り、七星・張宿を出づるとき北面の一丈三尺の處に在り、翼・軫を出づるとき北面の一丈三尺の處に在り。角宿・亢宿を穿過し、氐宿を出づるとき南面の一尺の處に在り。房宿の左右兩股のあいだより穿出す。心宿を出づるとき北面の二尺の處に在り、尾宿を出づるとき北面の九尺の處に在り、箕宿を出づるとき北面の一尺の處に在り。再び南斗を穿過し、牽牛宿に回到す。これがすなわち日・月・五星の運行の常道なり」。
《洛書》曰:“日、月、五星行歷左角內,行左亢外四尺;行歷左氐外;行房兩股間;行心內六尺;行尾內十八尺;行箕內十二尺;行斗柄中一尺;行牛中;行女外四尺;行虛外六尺;行危外十三尺;行室外十六尺;行璧外十三尺;行奎外十三尺;行婁外九尺;行胃外十尺;行井中;行鬼外十四尺;行柳內九尺;行觜內八尺;行參內十八尺;行七星內十五尺;行張內十八尺;翌內十六尺;行軫內十六尺。在上者為北,此日月五星之正也。”
《洛書》にいう。「日・月・五星は運行して左角宿の內側を經過し、左亢宿の外側四尺を經過す。左氐宿の外側を經歷す。房宿の兩股のあいだより通過す。心宿の內側六尺を行る。尾宿の內側十八尺を行る。箕宿の內側十二尺を行る。南斗の斗柄の中の一尺を行る。牽牛宿の正中を行る。須女宿の外側四尺を行る。虛宿の外側六尺を行る。危宿の外側十三尺を行る。營室の外側十六尺を行る。東壁の外側十三尺を行る。奎宿の外側十三尺を行る。婁宿の外側九尺を行る。胃宿の外側十尺を行る。東井の正中を行る。輿鬼の外側十四尺を行る。柳宿の內側九尺を行る。觜宿の內側八尺を行る。參宿の內側十八尺を行る。七星の內側十五尺を行る。張宿の內側十八尺を行る。翼宿の內側十六尺を行る。軫宿の內側十六尺を行る。謂う所の『在上』とは北面を指す。これがすなわち日月五星の運行の正軌なり」。
《易坤靈圖》曰:“王者至德之蔭,則日月若連珠璧。”(鄭玄曰:至德之蔭,謂將興之時;連璧無朔望之異也。)《尚書考靈曜》曰:“天地開闢,曜滿舒元,曆紀名月,首甲子冬至,日、月、五緯,俱起牽牛初,日月若懸璧,五星若連珠。”
緯書《易坤靈圖》にいう。「君王に至高の德澤ありて天下を庇蔭せば、日月の運行は串連したる珠玉璧環のごとく整齊ならん」。括弧内は原書の小注にして、鄭玄の解釋を引く。所謂「至德之蔭」とは、王業の將に興らんとするのときを指す。「連璧」とは日月の並行して朔望盈虧の差異なきを説く。緯書《尚書考靈曜》にいう。「天地開闢の初め、光曜は充盈して元氣を舒展し、曆法紀元は月序を定下し、甲子日の冬至を以て起首と為し、日・月と金木水火土の五緯星はみな牽牛宿の初度より出發す。日月は懸掛の玉璧のごとく、五星は串起の珠子のごとし」。
《淮南天文問詰》曰:“太陰元始,建於甲寅。(大元,初有日月五星之時也)日月俱入營室五度。(日月如連璧,五星如貫珠,皆右行)天一以始,建七十六歲,日月復以正月入營室五度,無餘分,(餘分,少餘也)名曰一紀。天一凡二十紀千五百二十歲大終,日月星辰復始甲寅之元。日月行危一度而歲有奇四分度之一;(危,北方宿也)故四歲而積千四百六十一日而復合故舍,八十歲而復。
《淮南子・天文訓》にいう。「太陰紀年の元始は、甲寅に建つ」。(原書小注:所謂「大元」とは、剛ち日月五星有らんとするのときなり。)「日月はみな營室宿の五度に進入す」。(原書小注:日月は連綴の璧のごとく、五星は貫串の珠のごとく、みな右に向かって運行す。)「天一を以て起點と為し、七十六年を經過して、日月は重新たに正月に營室宿の五度に進入し、更に零餘の分數なし」(原書小注:「餘分」とはすなわち零星の小數なり)、「これを一紀と呼ぶ。天一は共に二十紀、一千五百二十年を以て一大終と為し、日月星辰はまた甲寅のこの元始に回到す。日月は危宿の一度を行經し、一年はなほ四分の一度を多出す」(原書小注:危は、北方の宿なり)、「ゆえに四年は積滿して一千四百六十一日と為りて重新たに原來の宿位に回到し、八十年はまた一個の循環なり」。
故曰子午卯酉為二繩;丑寅、辰巳、未申、戌亥為四鉤。東北為報德之維,西南為倍陽之維,東南為常羊之維,西北為瞦之維。日冬至則井北中繩,陰氣極,陽氣萌,故曰冬至為德。日夏至則斗南中繩,陽氣極,陰氣萌;故曰夏至為刑。陰氣極則北至,北極下至黃泉,故不可以鑿地穿井,萬物閉藏,蟄蟲首穴,故曰德在室。陽氣極則南至,南極上至朱天,故不可以夷邱上屋,萬物蕃息,五穀兆長,故曰德在野。(夷,平也)
「ゆえに子午・卯酉の兩條の直線を『二繩』と呼ぶと説く。丑寅・辰巳・未申・戌亥の四組の方位を『四鈎』と呼ぶ。東北方を報德之維と呼び、西南方を倍陽之維と呼び、東南方を常羊之維と呼び、西北方を『瞦』之維と呼ぶ(底本のここ『瞦』の字の後にはなほ一個の私用區の生僻字符を緊跟す。今本の《淮南子》は『蹏通之維』と作る)。太陽は冬至に到れば便ち東井宿の北面の中繩の上に行到し、陰氣は極點に到り、陽氣は萌生を始む。ゆえに冬至は德に屬すと説く。太陽は夏至に到れば便ち南斗宿の南面の中繩の上に行到し、陽氣は極點に到り、陰氣は萌生を始む。ゆえに夏至は刑に屬すと説く。陰氣が極點に到るはすなわち北至にして、北極の下は深く黄泉に達す。ゆえにこのとき地を掘り井を鑿つべからず。萬物は閉藏し、蟄蟲はみな洞口に縮在す。ゆえに德は室內に在りと説く。陽氣が極點に到るはすなわち南至にして、南極の上は高く朱天に至る。ゆえにこのとき丘陵を鏟平し屋に登り修葺すべからず。萬物は繁衍生息し、五穀は萌發生長す。ゆえに德は野外に在りと説く」。(末句の括弧内は原書の小注:「夷」とはすなわち鏟平なり。)
《漢書天文志》曰:“凡君行急,則日行疾;君行緩,則日行遲;日行不可指而知也。故以二至二分之星為候。日東行,星西轉。冬至昏奎八度中;夏至氐十三度中;春分柳一度中;秋分牽牛三度七創建中;此其正行。七日行疾,則星西轉疾,事勢然也。故過中則疾,君行急之感也。不及中則遲,君行緩之象也。至月行則以晦朔決之;日冬則南,夏則北,冬至於牽牛,夏至於東井。日之所行為中道,月、五星皆隨之。”《禮緯》曰:“天子服中,禮從容中;則日、月、五星不敢縱橫。”京房《別對災異》:“日行房,乘三道,太平上道,癉平中道,霸世行下道雲。”
《漢書・天文志》にいう。「およそ君主の行事急躁なれば、太陽の運行は便ち快く、君主の行事遲緩なれば、太陽の運行は便ち慢し。太陽の行度は直接に指點出すに法なきをもって、ゆえに二至二分のときの中天の星象を以て測候す。太陽は東に向かって行き、星辰は西に向かって轉ず。冬至の黃昏のとき奎宿の八度は南中天に居り、夏至のとき氐宿の十三度は中に居り、春分のとき柳宿の一度は中に居り、秋分のとき牽牛宿の三度は中に居る。これはそれが正常の行度なり。太陽の行くこと快ければ、星辰の西轉もまた快し。事理形勢はもともとこのごとし。ゆえに星宿の應在の中天位置を越過するはすなわち行疾にして、あれは君主の行事急躁の感應なり。應在の中天位置に到らざるはすなわち行遲にして、あれは君主の行事遲緩の象徵なり。月亮の運行に至っては、則ち晦朔を以て判定す。太陽は冬天は南に偏り、夏天は北に偏り、冬至は牽牛宿に到り、夏至は東井宿に到る。太陽の行く所の路線を中道と呼び、月亮と五星はみなそれに跟って走る」。(「秋分牽牛三度七創建中」の「七創建」の三字・「七日行疾」の「七」の字は、均しく底本の傳寫に因って誤を致す。)《禮緯》にいう。「天子の服制は中道に合し、禮儀擧止は從容として度に合せば、あれば日・月・五星は敢えて縱橫に次を失わず」。京房《別對災異》にいう。「太陽の房宿を行經するとき、それが乘る所は三道の中のいずれの道なるかを看るべし。太平の世は上道を走り、衰病不寧の世は中道を走り、霸者の世は下道を走る」。
日晷影
許慎《說文》曰:“晷,日景也。”劉熙《釋名》曰:“晷規也,如規畫也。”《周禮地官司徒》曰:“以土圭之法,測土深,正日景,以求地中。日南則景短多暑;日北則景長多寒;日東則景夕多風;日西則景朝多陰。日至之景,尺有五寸,謂之地中;天地之所合也,四時之所交也,風雨之所會也,陰陽之所和也。”
許愼《説文解字》にいう。「晷とは、すなわち日影なり」。劉熙《釋名》にいう。「晷とはすなわち規にして、圓規を用いて畫き出したるがごとし」。《周禮・地官・司徒》にいう。「土圭の方法を用いて土地の深淺遠近を測量し、日影を校正し、以て大地の中心を求得す。太陽の南に偏る地方は日影短くして暑氣多く、北に偏る地方は日影長くして寒氣多く、東に偏る地方は日影は傍晚のごとくにして風多く、西に偏る地方は日影は早晨のごとくにして陰多し。夏至のあの日に日影の長さ一尺五寸の地點を、便ち『地中』と呼ぶ。あそこは天地の氣の交合し、四時の氣の交接し、風雨の聚會し、陰陽の調和する所在なり」。
(按土圭者,非削土為其圭象,訓為度也。置圭度景,謂之土圭。日南則景短多暑者,謂夏至日躔南方井宿也。日北則景長多寒,謂冬至日躔北方斗宿也。日東則景夕多風者,謂秋分日躔東方角宿也,故秋分祭月也。日西則景朝多陰者,謂春分日躔西方婁宿也,故春分祭朝日也。古來天圖春秋二分並交婁角也。諒知夕者,秋分之異名,朝者,春分之別號。景長稱南至,景短稱北至,今日南則景短,日北則景長者,先論日躔宿也,後論日躔景也。)
この一整段は原書の小注にしていう。所謂「土圭」とは、併せて土を削りて圭の形狀を做成するにあらず。「土」は應に「度」と訓すべく、すなわち測度の意にして、玉圭を放置して日影を量度するを、便ち土圭と呼ぶ。「日南則景短多暑」とは、夏至のとき太陽の南方の井宿を行經するを説く。「日北則景長多寒」とは、冬至のとき太陽の北方の斗宿を行經するを説く。「日東則景夕多風」とは、秋分のとき太陽の東方の角宿を行經するを説く。ゆえに秋分に月を祭る。「日西則景朝多陰」とは、春分のとき太陽の西方の婁宿を行經するを説く。ゆえに春分に清晨に日を祭る。自古以來の天象圖の上に、春分秋分はみな婁宿と角宿に交わる。これに由りて「夕」は秋分の別名にして、「朝」は春分の別稱なるを知るべし。影長きを「南至」と呼び、影短きを「北至」と呼ぶ。ここに卻って日南影短・日北影長と説くは、あれは前の一句の講ずる所は太陽の躔る所の宿次にして、後の一句の講ずる所はこそ太陽の投ずる所の影長なるに因る。
《周髀》曰:“周髀長八尺,其勾之損益,一寸千里。”張衡《靈憲》曰:“懸天之晷,薄地之儀,皆移千里差一寸。”鄭司農曰:“土圭之長,尺有五寸,以夏至日立八尺表,其景適與圭等,謂之地中。今潁川陽城地為然。”(按晉太康《地記》曰:河南陽城縣是謂土中,夏至景尺有五寸,所以為候也。《南越志》曰:南景在日之南,五月立表望之,日在表北,景在表南,交州日景較北三寸,林邑九寸一分地。)鄭玄曰:“凡日景於地千里差一寸,景尺有五寸者,南戴日下萬五千里也。”
《周髀算經》にいう。「周髀の表は高さ八尺にして、それが勾影の增減は、每一寸は一千里に相當す」。張衡《靈憲》にいう。「天上に懸る日影と地面に貼近する圭表は、みな位置の移ること每に一千里、影長は便ち一寸を相差す」。鄭衆(人は鄭司農と稱す)はいう。「土圭は長さ一尺五寸。夏至のこの日に一根の八尺高の表を立て、その影長は恰好圭と相等しければ、あの地方を便ち『地中』と呼ぶ。今潁川郡陽城縣はまさにこのごとし」。括弧内は原書の小注。晉代《太康地記》にいう、河南陽城縣は便ち所謂「土中」にして、夏至の影長一尺五寸、これに據って測候すべし。《南越志》にいう、影子は太陽の南邊に在り、五月に表を立てて觀測せば、太陽は表の北面に在り、影子は表の南面に落ち、交州の日影は北に偏ること三寸、林邑の一帶は北に偏ること九寸一分。鄭玄はいう。「およそ日影は地面上に每に一千里にして一寸を相差す。影長一尺五寸の地方は、正對太陽の處を距ること南面一萬五千里なり」。
《洪範五行傳》曰:“日月之行,則有冬、有夏,而為寒暑;若南失節,晷過而長,則為寒;退而晷短,則為燠。人君急,則晷進疾而寒,舒則晷退遲而燠,故曰急恆燠若。一曰,晷長為潦,晷短為旱,奢者為扶;扶者,邪臣進,正臣疏,君子不足,奸人有餘。”《漢書天文志》曰:“冬至,日南極,晷長,南不極,則溫不害;夏至,日北極,晷短,北不極,則寒為害。故《書》曰:“日月之行,則有冬有夏也;故治變於下,日月運於矣。”
《洪範五行傳》にいう。「日月の運行に冬あり夏あり、よって寒暑を形成す。もし南に向かって節度を失えば、日影は常度を超過して長く變じ、便ち寒と成る。退回りて影短ければ、便ち燠熱と成る。君主の行事急躁なれば、日影は便ち進むこと快くして天氣寒し。君主が寬舒なれば、日影は便ち退くこと慢くして天氣暖し。ゆえに『急則常燠』と説く。別の一種の説法は、影長は水涝を主とし、影短は干旱を主とし、過度のを『扶』と呼ぶ。所謂扶とは、すなわち邪臣は進用し正臣は疏遠し、君子は不足して奸人は有餘なり」。《漢書・天文志》にいう。「冬至に太陽は南極に到り、日影は長し。もし南行して極點に到らざれば、あれば溫暖は便ち害を成すに至らず。夏至に太陽は北極に到り、日影は短し。もし北行して極點に到らざれば、あれば寒冷は便ち害を為さん。ゆえに《尚書》は日月の運行に冬あり夏ありと説く。政治は下に於て變動せば、日月は便ち上に於て相應に運轉す」。
《易緯》曰:“日冬至,人主不出宮室,寢兵聽樂,日擊黃鐘之磬,公卿大夫列奏音侍,則陰陽之晷如度。故夏至之禮,如冬至之禮。”又曰:“冬至之日,樹八尺之表,日中視晷,晷如度者,則其歲美,人民和順;晷不如度者,則其歲惡,人民多偽言,政令為之不平。晷進則水,晷退則旱。進一尺二寸則月蝕,退則日蝕。月食則正王臣之行,日蝕則正人主之道。”
《易緯》にいう。「冬至のこの日、君主は宮室を出でず、兵事を停息して樂を聽き、黃鐘の磬を敲擊し、公卿大夫は依次に樂を奏して侍立す。あらば陰陽の日影は便ち常度に合す。ゆえに夏至の禮儀は、冬至の禮儀と相同なり」。またいう。「冬至のあの日、八尺高の表を立起し、正午のとき日影を觀測す。影長の常度に合するは、あの年の年成好く、人民は和順なり。影長の常度に合せざるは、あの年の年成惡く、人民に虛妄の言多く、政令もまたこれに因って不公なり。日影の超前すれば便ち水涝を主とし、日影の退後すれば便ち干旱を主とす。一尺二寸超前すれば便ち月食發生し、一尺二寸退後すれば便ち日食發生す。月食發生せば、王臣の行為を端正すべく、日食發生せば、君主の治道を端正すべし」。
又曰:“冬至晷長一丈三尺。(按周髀曰:長三尺五寸。劉向曰:長一丈一尺四寸。何承天長一丈三尺。祖暅銅表長一丈三尺。今曆景長一丈尺七寸五分。)當至不至,則旱多溫病;未當至而至,則多病暴逆,心痛,應至夏至。”《易緯》曰:“小寒晷長一丈二尺四分。(按周髀長一丈二尺五寸小分五。何承天長一丈二尺四寸八分。祖暅長一丈二尺四寸三分。今曆景長一丈二尺二寸八分。)當至不至,先小旱後大水,丈夫多病喉痺;未當至而至,多病身熱,來年麻不熟。”
《易緯》はまたいう。「冬至の日影は長さ一丈三尺」。括弧内は原書の小注にして、各家の數值を羅列す。《周髀》は長さ三尺五寸と作り、劉向は一丈一尺四寸と作り、何承天は一丈三尺と作り、祖暅の銅表は一丈三尺と作り、本朝の曆法の測る所の影長は一丈七寸五分と為す。「節氣の應到して到らざれば、便ち干旱多く溫熱病多し。應到せずして卻って提前に到れば、便ち暴逆の症と心痛を患うこと多く、應驗は夏至に到るべし」。《易緯》にいう。「小寒の日影は長さ一丈二尺四分」。(原書小注:《周髀》は一丈二尺五寸小分五と作り、何承天は一丈二尺四寸八分と作り、祖暅は一丈二尺四寸三分と作り、本朝の曆法の測る所は一丈二尺二寸八分と為す。)「節氣の應到して到らざれば、先ず小旱ありて後に大水あり、男子は喉痹を患うこと多し。應到せずして卻って提前に到れば、身熱の症を患うこと多く、來年の麻類は熟せず」。
《易緯》曰:“大寒晷長一丈一尺八分。(按周髀長一丈五寸一分小分四。何承天長一丈一尺三寸四分。祖暅長一丈一尺二寸。今曆景長一丈一尺一寸五分。)當至不至,則先大旱後大水,麥不成,病厥;未當至而至,多病,上氣,[口蓋]腫。”《易緯》曰:“立春晷長一丈一寸二分。(按周髀長一丈五寸二分小分三。何承天長九尺九寸一分。祖暅長九尺八寸。今曆景長九尺六寸二分。)當至不至,兵起,麥不成,病瘧、疾;未當至百至,多病熛疾。”
《易緯》にいう。「大寒の日影は長さ一丈一尺八分」。(原書小注:《周髀》は一丈五寸一分小分四と作り、何承天は一丈一尺三寸四分と作り、祖暅は一丈一尺二寸と作り、本朝の曆法の測る所は一丈一尺一寸五分と為す。)「節氣の應到して到らざれば、先ず大旱ありて然る後に大水あり、麥子は成熟せず、人は厥逆の症を患う。應到せずして卻って提前に到れば、疾病を生ずること多く、氣は逆上し、上腭は腫脹す」。《易緯》にいう。「立春の日影は長さ一丈一寸二分」。(原書小注:《周髀》は一丈五寸二分小分三と作り、何承天は九尺九寸一分と作り、祖暅は九尺八寸と作り、本朝の曆法の測る所は九尺六寸二分と為す。)「節氣の應到して到らざれば、兵事は興起し、麥子は成熟せず、人は瘧疾を患う。應到せずして卻って提前に到れば、熛熱急症を患うこと多し」。
《易緯》曰:“雨水(是今曆啟蟄也)晷長九尺一寸六分。(按周髀長九尺五寸三分小分二。何承天長八尺二寸八分。祖暅長八尺一寸七分。今曆景長八尺七寸。)當至不至,旱麥不熟,多病心痛;未當至而至,多病斃。”《易緯》曰:“驚蟄(是今曆雨水也)晷長八尺二寸。(按周髀長八尺五寸四分小分一。何承天長六尺七寸二分。祖暅長六尺六寸二分。今曆景長六尺五寸四分。)當至不至,則霧稚禾不穗,老人多病疾瘧;未當至而至,多病癰疽,脛腫。”
《易緯》にいう。「雨水(原書小注:すなわち本朝の曆法の稱する所の啓蟄)の日影は長さ九尺一寸六分」。(原書小注:《周髀》は九尺五寸三分小分二と作り、何承天は八尺二寸八分と作り、祖暅は八尺一寸七分と作り、本朝の曆法の測る所は八尺七寸と為す。)「節氣の應到して到らざれば、天は旱し、麥は熟せず、人は心痛を患うこと多し。應到せずして卻って提前に到れば、病死する多し」。《易緯》にいう。「驚蟄(原書小注:すなわち本朝の曆法の稱する所の雨水)の日影は長さ八尺二寸」。(原書小注:《周髀》は八尺五寸四分小分一と作り、何承天は六尺七寸二分と作り、祖暅は六尺六寸二分と作り、本朝の曆法の測る所は六尺五寸四分と為す。)「節氣の應到して到らざれば、便ち大霧を起こし、幼禾は穗を抽かず、老人は瘧疾を患うこと多し。應到せずして卻って提前に到れば、癰疽を生ずること多く、小腿は浮腫す」。
《易緯》曰“春分晷長七尺二寸四分。(按周髀長七尺五寸五分。劉向長七尺二寸六分。何承天長五尺三寸九分。祖暅長五尺三寸七分。今曆景長五尺三寸三分。)當至不至,先旱後水,歲惡禾不熟,多病痺;未當至而至,多病疚,身癢。”《易緯》曰“清明晷長六尺二寸八分。(按周髀長六尺五寸五分小分五。
《易緯》にいう。「春分の日影は長さ七尺二寸四分」。(原書小注:《周髀》は七尺五寸五分と作り、劉向は七尺二寸六分と作り、何承天は五尺三寸九分と作り、祖暅は五尺三寸七分と作り、本朝の曆法の測る所は五尺三寸三分と為す。)「節氣の應到して到らざれば、先ず旱して後に涝し、年成好からず禾稼熟せず、人は痹症を患うこと多し。應到せずして卻って提前に到れば、久病を生ずること多く、身上は癢を發す」。《易緯》は接續していう。「清明の日影は長さ六尺二寸八分」。(原書小注の開頭は作る:《周髀》は長さ六尺五寸五分小分五……)ここの本分片の底本の正文は戛然而止して、清明の一條の小注と占辭はまだ寫き畢わらず。後續の文字は下一分片の中に接續す。
何承天長四尺二寸五分。祖暅長四尺二寸五分。今曆景長四尺三寸四分。)當至不至,菽豆不熟。多病疾試,振寒;未當至而至,多病暴死。”《易緯》曰:“穀雨長晷長五尺三寸二分。(按周髀長五尺五寸五分小分四。何承天長三尺三寸五分。祖暅長三尺二寸六分。今曆景長三尺三寸。)當至不至,水物雜揉,羊不蕃,多病疾瘧,振寒,霍亂;未當至而至,老人多病瘟氣腫。”
(ここは上文の清明の一條の原書小注に承接す)劉宋の何承天の推得したる日影は長さ四尺二寸五分、祖暅の推得したるもまた四尺二寸五分、本朝の現行曆法の實測したる影長は四尺三寸四分と為す。清明の氣は應來して來ざれば、豆類の莊稼は便ち成熟を長せず、人は疾病を生ずること多く、寒を畏れて發抖す。節氣は應來せずして卻って提前に來到せば、人は暴病猝死すること多し。《易緯》にいう。「穀雨のこの日、日影は長さ五尺三寸二分」。(原書小注:《周髀算經》の所載に按ずれば五尺五寸五分また小分四と為し、何承天の推得は三尺三寸五分、祖暅の推得は三尺二寸六分、本朝の現行曆法の實測は三尺三寸。)穀雨の氣は應來して來ざれば、水中の生物は混雜失序し、羊群は繁殖せず、人は瘧疾・寒戰と霍亂を患うこと多し。應來せずして卻って提前に來到せば、老年人は瘟疫の氣の致す所の浮腫を患うこと多し。
《易緯》曰:“立夏晷長四尺三寸六分。(按周髀長四尺五寸七分小分四。何承天長二尺五寸。祖暅長二尺五寸三。今曆景長二尺四寸九分。)當至不至,旱,五穀傷,牛畜病,未當至而至,多病頭痛,腫[口蓋],喉痺。”《易緯》曰:“小滿晷長三尺四寸。(按周髀長三尺三寸八分小分二。何承天長一尺九寸七分。祖暅長一尺九寸九分。今曆景長一尺六寸九分。今曆景長一尺九寸八分。)當至不至,多凶,言有大喪,先水後旱,多病筋急,痺痛;未當至而至,多病赻氣,[口蓋]腫。”
《易緯》にいう。「立夏のこの日、日影は長さ四尺三寸六分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば四尺五寸七分また小分四と為し、何承天の推得は二尺五寸、祖暅の推得は二尺五寸三、本朝の現行曆法の實測は二尺四寸九分。)立夏の氣は應來して來ざれば、天は便ち干旱し、五穀は損を受け、牛馬牲畜は病を生ず。應來せずして卻って提前に來到せば、人は頭痛・上腭腫脹と喉嚨閉塞を患うこと多し。《易緯》にいう。「小滿のこの日、日影は長さ三尺四寸」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば三尺三寸八分また小分二と為し、何承天の推得は一尺九寸七分、祖暅の推得は一尺九寸九分、本朝の現行曆法の實測は一尺六寸九分、別の一處はまた一尺九寸八分と作る。)小滿の氣は應來して來ざれば、凶事多く、大喪あるを主とし、先ず涝して後に旱し、人は筋脈拘急と麻痹疼痛を患うこと多し。應來せずして卻って提前に來到せば、人は「赻氣」の一類の氣血奔迫の病と上腭腫痛を患うこと多し。
《易緯》曰:“芒種晷長二尺四寸四分。(按周髀長二尺五寸九分小分一。何承天長一尺六寸九分。祖暅長一尺六寸九分。今曆景長一尺六寸四分。)當至不至,多凶,主國有枉令;未當至而至,多病厥,頭眩病。”《易緯》曰:“夏至晷長一尺四寸八分。(按周髀長一尺六寸。劉向長一尺五寸八分。何承天長一尺五寸。祖暅長一尺五寸。今曆景長一尺四寸九分。)當至不至,國有大殃,旱,陰陽並傷,草木夏落,有大寒;未當至而至,多病,肩腫。”
《易緯》にいう。「芒種のこの日、日影は長さ二尺四寸四分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば二尺五寸九分また小分一と為し、何承天の推得は一尺六寸九分、祖暅の推得は一尺六寸九分、本朝の現行曆法の實測は一尺六寸四分。)芒種の氣は應來して來ざれば、凶事多く、國家の冤枉不公の政令を頒行するを主とす。應來せずして卻って提前に來到せば、人は昏厥と頭暈目眩の症を患うこと多し。《易緯》にいう。「夏至のこの日、日影は長さ一尺四寸八分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば一尺六寸と為し、劉向の推得は一尺五寸八分、何承天の推得は一尺五寸、祖暅の推得は一尺五寸、本朝の現行曆法の實測は一尺四寸九分。)夏至の氣は應來して來ざれば、國家に大災殃あり、天は旱し、陰陽の二氣は一同に傷を受け、草木は盛夏に落葉し、嚴寒を出現す。應來せずして卻って提前に來到せば、人は病を生ずること多く、肩部は腫脹す。
《易緯》曰:“小暑晷長二尺四寸。(按周髀長二尺五寸九分小分一。何承天長一尺六寸九分。祖暅長一尺六寸九分。今曆景長一尺六寸四分。)當至不至,先小水,後旱,有兵,多病洩注,腹病;未當至而至,多病膨脹。”《易緯》曰:“大暑晷長三尺四寸。(按周髀長三尺五寸八分小分一。何承天長一尺九寸七分,祖暅長一尺九寸七分。今曆景長一尺九寸七分。)當至不至,外兵來,年飢,多病筋痺,胸痛;未當至而至,多病脛痛,惡氣。”
《易緯》にいう。「小暑のこの日、日影は長さ二尺四寸」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば二尺五寸九分また小分一と為し、何承天の推得は一尺六寸九分、祖暅の推得は一尺六寸九分、本朝の現行曆法の實測は一尺六寸四分。)小暑の氣は應來して來ざれば、先ず小水災あり、隨後干旱して併せて兵禍あり、人は瀉下如注・腹中疼痛を患うこと多し。應來せずして卻って提前に來到せば、人は腹部脹滿を患うこと多し。《易緯》にいう。「大暑のこの日、日影は長さ三尺四寸」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば三尺五寸八分また小分一と為し、何承天の推得は一尺九寸七分、祖暅の推得は一尺九寸七分、本朝の現行曆法の實測は一尺九寸七分。)大暑の氣は應來して來ざれば、外敵の兵馬は入侵し、年成は饑荒し、人は筋脈麻痹と胸口疼痛を患うこと多し。應來せずして卻って提前に來到せば、人は小腿疼痛を患うこと多く、併せて穢惡の氣に傷を受く。
《易緯》曰:“立秋晷長四尺三寸六分。(按周髀長四尺五寸七分三。何承天長二尺五寸。祖暅長二尺五寸五分。今曆景長二尺四寸九分。)當至不至,暴風為災,來年歲不稔;未當至而至,多病疾瘧,上氣,咽腫。”《易緯》曰:“處暑晷長五尺三寸二分。(按周髀長三尺五寸六分小分四。何承天長三尺二寸五分。祖暅長三尺二寸六分。今曆景長三尺三寸。)當至不至,國多淫合,兵起,麥不熟;未當至而至,病脹,身熱不汗。”
《易緯》にいう。「立秋のこの日、日影は長さ四尺三寸六分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば四尺五寸七分三と為し、何承天の推得は二尺五寸、祖暅の推得は二尺五寸五分、本朝の現行曆法の實測は二尺四寸九分。)立秋の氣は應來して來ざれば、暴風は災を成し、來年の收成は好からず。應來せずして卻って提前に來到せば、人は瘧疾・氣逆上衝と咽喉腫痛を患うこと多し。《易緯》にいう。「處暑のこの日、日影は長さ五尺三寸二分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば三尺五寸六分また小分四と為し、何承天の推得は三尺二寸五分、祖暅の推得は三尺二寸六分、本朝の現行曆法の實測は三尺三寸。)處暑の氣は應來して來ざれば、國中の男女は淫亂苟合すること多く、兵事は興起し、麥子は成熟し能わず。應來せずして卻って提前に來到せば、人は腹脹を患い、身上は熱を發するも卻って汗を出さず。
《易緯》曰:“白露晷長六尺二寸八分。(按周髀長六尺五寸五分小分五。何承天長四尺二寸五分。祖暅長四尺二寸五分。今曆景長四尺。)當至不至,多病疽疸,洩;未當至而至,多病水腹,閉疝,瘦。”《易緯》曰:“秋分晷長七尺二寸四分。(按周髀長七尺五寸五分。劉向長七尺二寸六分。何承天長五尺三寸九分。祖暅長五尺三寸七分。今曆景長五尺三寸三分。)當至不至,草木復勞,多病溫,悲心痛;未當至而至,多病胸脅腹痛。”
《易緯》にいう。「白露のこの日、日影は長さ六尺二寸八分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば六尺五寸五分また小分五と為し、何承天の推得は四尺二寸五分、祖暅の推得は四尺二寸五分、本朝の現行曆法の實測は四尺。)白露の氣は應來して來ざれば、人は癰疽黃疸と泄瀉を生ずること多し。應來せずして卻って提前に來到せば、人は腹中積水・疝氣閉結と身體消瘦を患うこと多し。《易緯》にいう。「秋分のこの日、日影は長さ七尺二寸四分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば七尺五寸五分と為し、劉向の推得は七尺二寸六分、何承天の推得は五尺三寸九分、祖暅の推得は五尺三寸七分、本朝の現行曆法の實測は五尺三寸三分。)秋分の氣は應來して來ざれば、草木は凋落すべきときに於て反って重新に勞作生長し、人は溫病と悲傷心痛を患うこと多し。應來せずして卻って提前に來到せば、人は胸脅と腹部の疼痛を患うこと多し。
《易緯》曰:“寒露晷長八尺二寸。(按周髀長八尺五寸四分小分一。何承天長六尺七寸二分。祖暅長六尺六寸七分。今曆景長六尺五寸四分。)當至不至,來年穀不成,畜鳥獸被殃,多端正疝瘕,腰痛;不當至而至,多病熱中。”《易緯》曰:“霜降晷長九尺一寸六分。(按周髀長九尺五寸二分小分二。何承天長八尺三寸八分。祖暅長八尺一寸七分。今曆景長八尺七寸。)當至不至,百物大耗,來年多大風,人病腰痛;未當至而至,至病胸脅,肢瞞。”
《易緯》にいう。「寒露のこの日、日影は長さ八尺二寸」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば八尺五寸四分また小分一と為し、何承天の推得は六尺七寸二分、祖暅の推得は六尺六寸七分、本朝の現行曆法の實測は六尺五寸四分。)寒露の氣は應來して來ざれば、來年の穀物は成熟し能わず、家畜と鳥獸は殃に遭い、人は端正疝瘕の一類の積塊病と腰痛を患うこと多し。應來せずして卻って提前に來到せば、人は內熱の症を患うこと多し。《易緯》にいう。「霜降のこの日、日影は長さ九尺一寸六分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば九尺五寸二分また小分二と為し、何承天の推得は八尺三寸八分、祖暅の推得は八尺一寸七分、本朝の現行曆法の實測は八尺七寸。)霜降の氣は應來して來ざれば、百物は大量に損耗し、來年は大風を刮くこと多く、人は腰痛を患う。應來せずして卻って提前に來到せば、人は胸脅疼痛・四肢脹滿を患う。
《易緯》曰:“立冬晷長一丈一寸二分。(按周髀長一丈五寸二分小分二。何承天長九尺九寸一分。祖暅長九尺八分。今曆景長尺尺六寸三分。)當至不至,地氣不藏,立夏寒,早旱晚水,萬物不成;未當至而至,多病擘掌痛。”《易緯》曰:“小雪晷長一丈一尺八分。(按周髀長一丈一尺五寸一分小分四。何承天長一丈一尺三寸四分。祖暅長一丈一尺三寸。今曆景長一丈一尺一寸四分。)當至不至,來年黍麥不熟,多肘腑病;未當至而至,亦為肘腑痛。”
《易緯》にいう。「立冬のこの日、日影は長さ一丈一寸二分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば一丈五寸二分また小分二と為し、何承天の推得は九尺九寸一分、祖暅の推得は九尺八分、本朝の現行曆法の實測は一丈六寸三分。)立冬の氣は應來して來ざれば、地氣は收藏し能わず、來年の立夏に到りて反って寒冷し、年初は旱して年末は涝し、萬物は成熟し能わず。應來せずして卻って提前に來到せば、人は手掌疼痛を患うこと多し。《易緯》にいう。「小雪のこの日、日影は長さ一丈一尺八分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば一丈一尺五寸一分また小分四と為し、何承天の推得は一丈一尺三寸四分、祖暅の推得は一丈一尺三寸、本朝の現行曆法の實測は一丈一尺一寸四分。)小雪の氣は應來して來ざれば、來年の黍と麥はみな成熟せず、人は肘臂の病を患うこと多し。應來せずして卻って提前に來到せば、同じく肘臂疼痛を主とす。
《易緯》曰:“大雪晷長一丈二尺四分。(按周髀長一丈一尺五寸小分五。何承天長一丈二尺四寸八分。祖暅長一丈二尺四寸三分。今曆景長一丈二尺二寸八分。)當至不至,溫氣洩,夏蝗生,大水。多病少氣,五疽,小腫;未當至而至,多病痍疽,應在芒種。”
《易緯》にいう。「大雪のこの日、日影は長さ一丈二尺四分」。(原書小注:《周髀算經》に按ずれば一丈一尺五寸また小分五と為し、何承天の推得は一丈二尺四寸八分、祖暅の推得は一丈二尺四寸三分、本朝の現行曆法の實測は一丈二尺二寸八分。)大雪の氣は應來して來ざれば、本應封藏すべき溫氣は外泄し、來年の夏天に蝗蟲を生じ、大水を發し、人は氣短乏力・五種の癰疽と小處浮腫を患うこと多し。應來せずして卻って提前に來到せば、人は瘡瘍癰疽を生ずること多く、應驗の時間は來年の芒種に在り。
