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熒惑犯五諸侯 四十

唐 · 瞿昙悉达 · 第38巻 / 119

作盤ガイド: 暦注(黄暦), 万年暦

巫咸曰:“熒惑入五諸侯,伺其出日而數之,皆二十日,兵發;伺始入處之率,一日期十日,軍罷。”《文曜鉤》曰:“主軟弱,憒愚,則熒惑守五諸侯。”郗萌曰:“熒惑守五諸侯,諸侯有奪地、斬死者。”石氏曰:“熒惑犯五諸侯,諸侯有奪地、斬死者。”

巫咸はいう、熒惑が五諸侯星に入れば(五諸侯五星は東井の北にあり、諸侯の入朝・会見と糾察・挙劾の事を主る)、それが出るあの日を守候してこれより数え起こし、一律に二十日を限とし、期に至って兵事が発動し、またそれが当初入った位置に拠って折算して、一日停留すれば応期十日で、期に至って軍隊は罷散する。《文曜鉤》にいう、君主が軟弱で昏聵・愚昧なれば、熒惑はすなわち来て五諸侯を守る。郗萌はいう、熒惑が五諸侯を守れば、諸侯の中に封地を削奪され斬首・処死される人ありを主る。石申はいう、熒惑が五諸侯を衝犯すれば、諸侯の中に封地を削奪され斬首・処死される人ありを主る。

石氏曰:“熒惑犯五諸侯,若守之,兵大起,將士出,諸侯有憂,若有兵死者,期三年。”(案《宋書天文志》曰:晉太興三年十二月巳亥,熒惑居五諸侯南,踟躕留止三十日。永昌元年三月,王敦攻京師,六軍敗績於是殺周頭刁協戴淵等。)《海中占》曰:“熒惑犯五侯,其國有兵,車騎出行;若貴臣有殃,若有死者。”《玉曆》曰:“熒惑逆行,犯守五諸侯,秦國不以興兵,先起亡,後起昌。”郗萌曰:“熒惑中犯乘守五諸侯,為所中犯乘守者誅,若有殃期,三年兵發。”

石申はいう、熒惑が五諸侯を衝犯するかあるいは五諸侯を守候すれば、兵事の大いに起こるを主り将士は出征し、諸侯に憂いがあり、あるいは兵刃に死する人があり、応期は三年である。(原書小注の按語は《宋書・天文志》を引いていう、東晋元帝太興三年十二月己亥、熒惑は五諸侯の南に停り徘徊・逗留して三十日。永昌元年三月に至って、王敦が兵を挙げて京師建康を進攻し、朝廷の六軍は大敗し、ここにおいて周顗・刁協・戴淵らが殺された。)《海中占》にいう、熒惑が五諸侯を衝犯すれば、その一国に兵事ありを主り車馬・騎兵は出動し、あるいは顕貴の大臣が殃に遭い、あるいは身死する人がある。《玉暦》にいう、熒惑が逆行して五諸侯を衝犯し守候すれば、秦の地の国は先に兵を動かすべからずを主り、先に兵を動かす一方は敗亡し後に兵を動かす一方は昌盛する。郗萌はいう、熒惑が正しく衝き・衝犯し・凌駕し・守候して五諸侯に及べば、それに衝犯・凌守されたあの一位の諸侯は誅に遭うかあるいは殃に遭い、応期は三年以内に兵事が発動する。

開元占経 巻三十六

熒惑占 七

熒惑犯石氏中宮 下

熒惑犯積水 四十一

巫咸曰:“熒惑入積水,大臣誅。熒惑守積水,有大名水出,出入定有水兵。”甘氏曰:“熒惑守積水,兵起,國有水災。”《荊州占》曰:“熒惑入積水,若守之,大小兵起。”巫咸曰:“犯守積水,水物不成,魚鹽貴。一曰以水為敗,糴大貴;民飢,期二年。”

巫咸はいう、熒惑が「積水」星に入れば(積水一星は東井の北にあり、泉水を蓄積し酒醴の祭祀を供給することを主り、水物の儲備の象徴である)、大臣の誅せられるを主る。熒惑が積水を守れば、著名の大川が泛濫して出る者があり、熒惑の一進一出の間に必ず水患と兵事を伴う。戦国の斉国の天文家甘徳はいう、熒惑が積水を守れば、兵事の興起を主り国中に水災が発生する。《荊州占》にいう、熒惑が積水に入るかあるいは積水を守候すれば、大大小小の兵事はいずれも興起するを主る。巫咸はいう、熒惑が衝犯して積水を守候すれば、水中に産する物が長成できず魚と塩の価格は昂貴であるを主る。もう一説には水に因って災を成し米価は大いに騰り百姓は飢餓し、応期は二年である。

熒惑犯積薪 四十二

巫咸曰:“熒惑守積薪,大旱,江河易道,若火事。”石氏曰:“熒惑守積薪,大旱,為火事;庖官以火為憂。”郗萌曰:“熒惑守積薪,多火災,若火事,旱,兵起。”甘氏曰:“熒惑犯守積薪,天下大旱,五穀不登,民飢亡。”

巫咸はいう、熒惑が「積薪」星を守れば(積薪一星は積水の東にあり、柴薪・炭火を儲備し膳食・庖厨の取用を供することを主る)、大旱を主り江河は改道するか、あるいは火災が発生する。石申はいう、熒惑が積薪を守れば、大旱を主り火災に応じ、膳食を掌る庖官は火事のために愁えるべきである。郗萌はいう、熒惑が積薪を守れば、火災の頻発を主り、あるいは火事に応じ、天は旱し兵が起こる。甘徳はいう、熒惑が衝犯して積薪を守候すれば、天下の大旱を主り五穀は歉収し百姓は飢餓・流亡する。

熒惑犯火位 四十三

《荊州占》曰:“熒惑守水位,下田不治。”石氏曰:“熒惑犯守水位,天下以水為害,津關不通;一曰大水入城郭傷人民,皆不出二年。”

《荊州占》にいう、熒惑が「水位」星を守れば(水位四星は東井の東北にあり、水利・渠堰を掌管する都水の官を象徴する——本条の標目は「火位」と作る、当に「水位」の形近の訛りであろう)、低窪の田地は耕治することができないを主る。石申はいう、熒惑が衝犯して水位を守候すれば、天下が水に因って災を成すを主り渡口・関隘は阻斷して通ぜず、もう一説には大水が城郭に灌ぎ入り百姓を傷害するとし、両説とも応期は二年を出ない。

熒惑犯軒轅 四十四

《荊州占》曰:“熒惑犯軒轅、女御,天子僕死。熒惑犯軒轅,所中以官名名之,皆成刑。”(《黃帝占》曰:“成刑者憂喪。”)《文曜鉤》曰:“熒惑入軒轅,主以后妃黨之過亡;一曰用事女當惑之;又曰:曰有白衣兵,期在百三十日。”《荊州占》曰:“熒惑入軒轅,中其端門中而東,大臣出令。”《雒書》曰:“熒惑犯若勾巳軒轅,妃后內亂。”《文曜鉤》曰:“熒惑展轉軒轅中,遠後愛媵。”《春秋緯》曰:“專於妻妃,則熒惑展轉軒轅中。”

《荊州占》にいう、熒惑が軒轅星と女御星を衝犯すれば(軒轅十七星は七星の北にあり、形は騰竜のごとく、黄帝の神・后妃の象で、女御はその中の御女を主管する星である)、天子の近侍・僕従の死亡を主る。熒惑が軒轅を衝犯して、それに衝犯されたのがどの一顆であれ、その星の配する官名を以て指認し、いずれも刑戮に応ずる。(原書小注は《黄帝占》を引いていう、いわゆる「成刑」は、憂患・喪事ありを指す。)《文曜鉤》にいう、熒惑が軒轅に入れば、君主が后妃・親党の過失によって亡ぶを主り、もう一説には権を当にし事を用いる女子がこのために迷惑し害を受けるべきであり、またいう白衣を服する喪兵の事があり、応期は百三十日に在る。《荊州占》にいう、熒惑が軒轅に入って正しくその端門を衝いて後に東に行けば、大臣が擅りに号令を発するを主る。《雒書》にいう、熒惑が軒轅を衝犯するか、あるいは軒轅の間に盤曲して「勾巳」の形を成せば、妃后が宮中に乱を作すを主る。《文曜鉤》にいう、熒惑が軒轅の星間に輾転・往复すれば、君主が皇后を疏远して媵妾を寵愛するを主る。《春秋緯》にいう、君主がある一位の妻妃に偏寵すれば、熒惑はすなわち軒轅の星間に輾転・往复する。

《黃帝占》曰:“熒惑行軒轅中,犯女主;女主失勢,(失勢者,憂喪也。)列大夫有放逐者;五官有不法者;色悴,為憂,為疾,其所中犯乘守者誅,若有罪。”《黃帝占》曰:“熒惑中女御,為女主當之。”石氏曰:“熒惑在軒轅中,有女子謀人君者。”郗萌曰:“熒惑留軒轅,率留一日為十日久以率推之,其在軒轅四方,中央各為其方。”

《黄帝占》にいう、熒惑が軒轅の星の中を行走してその中の女主の大星を衝犯すれば、女主が勢を失うを主る(原書小注:いわゆる「失勢」は、すなわち憂患・喪亡の事あり)——朝列の中の大夫に放逐される者があり、五官の属に法度を触犯する者があり、星色もし憔悴・晦暗なれば、すなわち憂愁を主り疾病を主る。熒惑に正しく衝かれ・衝犯され・凌駕され・守候されたあの星の配する人は誅せられるか、あるいは罪を獲る。《黄帝占》はまたいう、熒惑が正しく女御星を衝けば、女主によってこの凶咎を承当すべきである。石申はいう、熒惑が軒轅の中に処れば、君主を図り謀る女子ありを主る。郗萌はいう、熒惑が軒轅に滞留すれば、おおむね一日停留を以て十日に折合するを准とし、この比率に拠って応期の遠近を推算し、それが軒轅の東西南北の四方に停るか正中に停るかによって、各自に対応するあの一方に応験する。

《黃帝占》曰:“熒惑守軒轅,期五月,兵起。”《元命包》曰:“熒惑守軒轅,貴妾爭。”《春秋緯》曰:“熒惑守貴房側,主亂於色。”石氏曰:“熒惑守軒轅,宮中有放者,期百二十日內赦。”《海中占》曰:“熒惑守軒轅,十五日以上,大兵起,宮人不安,天下亂,國易政,期三年。”

《黄帝占》にいう、熒惑が軒轅を守れば、応期は五か月で兵事が興起する。《春秋元命包》にいう、熒惑が軒轅を守れば、寵を受ける姫妾が互いに争闘するを主る。《春秋緯》にいう、熒惑が尊貴の房闈の一側に守れば、君主が女色に心志を擾乱されるを主る。石申はいう、熒惑が軒轅を守れば、宮中に放逐される人があり、応期は百二十日以内に赦令が頒下されよう。《海中占》にいう、熒惑が軒轅を守って十五日以上に達すれば、大規模の兵事の興起を主り、宮中の人は惶惶として安からず、天下は大いに乱れ国家は政令を更改し、応期は三年である。

郗萌曰:“熒惑守軒轅,女主惡之。(《宋天文志》曰:前廢帝永光元年九月丁西,熒惑入軒轅在女主大星北、明年昭太后崩也。)熒惑守軒轅,天下有慶賀事。赦類也。”(《晉陽秋》曰:“孝武寧康元年七月乙未,火犯軒轅,大星,二年正月癸未,大赦天下。)

郗萌はいう、熒惑が軒轅を守れば、女主は最もこの天象を忌諱する。(原書小注は《宋書・天文志》を引いていう、南朝宋の前廃帝永光元年九月丁酉、熒惑が軒轅に入り、位置は女主の大星の北にあり、第二年に昭太后は去世した。)熒惑が軒轅を守れば、また天下に慶賀に値する事ありを主り、赦宥の類の吉応に属する。(原書小注は孫盛《晋陽秋》を引いていう、東晋孝武帝寧康元年七月乙未、火星が軒轅の大星を衝犯し、寧康二年正月癸未に至って、朝廷は天下を大赦した。)

《荊州占》曰:“熒惑守犯軒轅,地動,又曰御女有誅者。”石氏曰:“熒惑守軒轅,守衛有誅者。”《河圖》曰:“熒惑入軒轅中,復還守,應以善事則已。”《文曜鉤》曰:“熒惑逆行,守軒轅大星,環繞之若成勾巳,天下大亂,后妃當誅,宮破主亡,易其王,期百八十日,遠一年。”

《荊州占》にいう、熒惑が守候して軒轅を衝犯すれば、地震を主り、またいう宮中の御女に誅殺される者あり。石申はいう、熒惑が軒轅を守れば、宿衛の臣に誅殺される者ありを主る。《河図》にいう、熒惑が軒轅の中に入り、去ってまた返りてこれを守れば、ただ君主が善政・善事を以て応えれば、災咎はこれに就いて消解する。《文曜鉤》にいう、熒惑が逆行して軒轅の大星を守り、それを繞り盤旋して環を成すか、あるいは盤曲して「勾巳」の形を成せば、天下の大乱を主り后妃は当に誅せられ、宮室は破敗し君主は敗亡し、君王を改換し、応期は百八十日、遠ければ一年である。

巫咸曰:“熒惑行,犯守軒轅,女主失政,若失勢;一曰大臣當之,若有黜者;期二年。”《荊州占》曰:“熒惑犯乘,守軒轅,主命惡之。”石氏曰:“熒惑入軒轅中乘守之,有逆賊,若水災。熒惑中犯乘守軒轅太民星,大飢,大流,皇太后族有誅者,若有罪;中犯乘守少民星,小飢、小流,皇后之族有誅者,若有罪。”

巫咸はいう、熒惑が運行して軒轅を衝犯・守候すれば、女主が主政の権を喪失するかあるいは勢を失うを主り、もう一説には大臣によってこの凶咎を承当し、あるいは罷黜される人があり、応期は二年である。《荊州占》にいう、熒惑が軒轅を衝犯・凌駕し守候すれば、君主の性命がこの天象に忌まれるを主る。石申はいう、熒惑が軒轅の中に入って凌駕・守候すれば、叛逆の賊臣ありを主り、あるいは水災が発生する。熒惑が正しく衝き・衝犯し・凌駕し・守候して軒轅の太民星に及べば、大飢饉・百姓の大批の流亡を主り、皇太后の一族に誅せられる人があり、あるいは罪を獲る人がある。正しく衝き・衝犯し・凌駕し・守候して少民星に及べば、小飢饉・小規模の流亡を主り、皇后の一族に誅せられる人があり、あるいは罪を獲る人がある。

熒惑犯少微 四十五

郗萌曰:“熒惑犯少微,賢士有讓善者。”石氏曰:“熒惑入少微,君當求賢佐,不求賢佐,則失威嚴,奪勢矣。”石氏曰:“熒惑犯守少微,名士有憂,五者任用小人,忠臣被害,有死者。”《黃帝占》曰:“熒惑入犯乘守少微,宰相易。熒惑中犯乘守少微,女主憂。”石氏曰:“熒惑入中犯乘守少微,五官亂,宰相有憂。”

郗萌はいう、熒惑が少微星を衝犯すれば(少微四星は太微垣の西南にあり、処士・隠逸と在野の賢者を主る)、賢士の中に賢能を推譲し功を争うを肯ぜざる人ありを主る。石申はいう、熒惑が少微に入れば、君主は当に賢能の輔臣を訪求すべく、もし賢を求めるを肯ぜなければ、威厳を失い権勢は人に奪い去られる。石申はいう、熒惑が衝犯して少微を守候すれば、名望ある士人が憂に遭うを主り、君上は小人を任用し忠臣は陥害を受け、甚だしきは身死する人に至る(源文「五者」は当に「主者」の訛り)。《黄帝占》にいう、熒惑が少微に入り・衝犯し・凌駕し・守候すれば、宰相の更換を主る。熒惑が正しく衝き・衝犯し・凌駕し・守候して少微に及べば、女主に憂いありを主る。石申はいう、熒惑が入って正しく衝き・衝犯し・凌駕し・守候して少微に及べば、五官の属の紊乱を主り、宰相に憂患がある。

熒惑犯太微 四十六

郗萌曰:“熒惑犯太微,天下不安。”(《宋書天文志》曰:明帝泰始二年四月壬午,熒惑入太微。犯右執法,其年四方反叛,內兵大出,六師親戎,昭太后後崩,撫軍將軍殷孝祖為南賊所殺。尚書右僕射蔡興宗以熒惑犯右執法自解,不許,後失淮北四州地。彭城、兗州併為虜所沒。)

郗萌はいう、熒惑が太微垣を衝犯すれば、天下の安寧を得ざるを主る。太微垣は天子が政を布く朝庭で、垣中の左執法は廷尉を象徴し右執法は御史大夫を象徴し、ゆえにおよそ熒惑の入犯は、占辞は多く執法の大臣の身に応ずる。(原書小注は《宋書・天文志》を引いていう、南朝宋明帝泰始二年四月壬午、熒惑が太微に入り右執法星を衝犯した。この年、四方の州郡は紛紛として叛乱し、京師の兵は大挙して出動し天子は自ら六軍を統領した。昭太后は随いて去世し、撫軍将軍殷孝祖は南方の叛軍に殺された。尚書右僕射蔡興宗は熒惑が右執法を衝犯したことを以て解職して咎を避けることを請うたが、朝廷は許さず、後に果たして淮北の四州の地を失い、彭城・兗州は一併に北方の敵軍に占没された。)

《帝覽嬉》曰:“熒惑行犯太微左右執法,大臣有憂。”(《宋書天文志》曰:晉成帝咸康四年五年戊戌,熒惑犯右執法,五年七月庚申,丞相王導薨。武帝永初三年九月癸卯,熒惑經太微犯右執法,已未犯左執法。元嘉三年徐羨之及傳亮謝晦悉誅,十六年九月熒惑犯右執法,明年大將軍義康出,徒豫章。誅其黨。《晉陽秋》曰:太元十二年五月丙午,熒惑出端門,犯左執法。十三年正月丙午,左將軍謝玄薨戊辰,冠軍將軍桓石虎薨。)

《帝覧嬉》にいう、熒惑が経行して太微垣の左執法・右執法の両星を衝犯すれば、大臣に憂患ありを主る——左執法は廷尉の職に配し、右執法は御史大夫の職に配し、ゆえに下文の挙げる験例は多く丞相・僕射の級の重臣の身に応ずる。(原書小注は《宋書・天文志》を引いていう、東晋成帝咸康四年・五年戊戌日、熒惑が右執法を衝犯し、咸康五年七月庚申、丞相王導は去世した。宋武帝永初三年九月癸卯、熒惑が太微を経て右執法を衝犯し、己未日にまた左執法を衝犯した。元嘉三年、徐羨之と傅亮・謝晦は全く誅殺された。元嘉十六年九月、熒惑が右執法を衝犯し、第二年に大将軍劉義康は外放して豫章に遷り、その党羽もまた誅除された。また《晋陽秋》を引いていう、東晋太元十二年五月丙午、熒惑が端門から穿ち出て左執法を衝犯し、十三年正月丙午、左将軍謝玄は去世し、戊辰日、冠軍将軍桓石虔は去世した。)

巫咸曰:“熒惑犯太微門右,大將死,門左,小將死。”(《晉陽秋》曰:孝武寧康元年九月癸巳,火入太微、掩西蕃上將,二年正月巳酉,北中郎將徐兗二州刺史刁彝薨,《宋書天文志》曰:晉成帝咸康六年三月甲寅,熒惑順行,犯上將星,四月丁丑,又犯右執法,是時何充為執法。有遣,命避其咎。明年求為中書令,建元二年。庚水死、皆大將執政之應也。是歲正月、征西將軍庚亮薨。穆帝昇平四年八月丙辰,熒惑犯太微西上將星、五年正月北中部郎將郗曇薨。宋前廢帝永興元年熒惑入太微,犯西上將星,其年太宰江夏王義恭尚書令,柳元景僕、射顏師伯等並誅,太尉沈慶之薨,廬陵王敬先、南平王敬猷,南康侯敬淵並賜死。司馬彪《天文志》曰:孝桓延熹八年五月壬午,熒惑入太微,犯右執法,九年九月辛亥,熒惑入太微西門,積五十八日九年十一月,太原守劉瓚荊州刺史李隗等皆棄市。永康元年十二月,太傅陳蕃、大將軍竇武、尚書令尹勳,黃門令山水等皆枉死。)

巫咸はいう、熒惑が太微門の右側を衝犯すれば大将の死を主り、門の左側を衝犯すれば小将の死を主る——太微垣の東西両垣は南より北へ向かって各々上将・次将・次相・上相を列し、左右の応ずる将秩はもと高下の分があり、ゆえに占辞は大将・小将を分けていう。(原書小注は《晋陽秋》を引いていう、東晋孝武帝寧康元年九月癸巳、火星が太微に入り西垣の上将星を掩い、寧康二年正月己酉、北中郎将・徐兗二州刺史刁彝は去世した。また《宋書・天文志》を引いていう、東晋成帝咸康六年三月甲寅、熒惑が順行して上将星を衝犯し、四月丁丑にまた右執法を衝犯した。当時何充は正しく執法の任に居り、人は彼に外放してこの災咎を躲开するよう勧め、第二年に彼はすなわち中書令に出任することを請うた。建元二年に至って庾冰は身死した——これらはいずれも大将と執政の大臣がこの象に応験した例である。この年正月、征西将軍庾亮は去世した。穆帝升平四年八月丙辰、熒惑が太微の西上将星を衝犯し、升平五年正月、北中郎将郗曇は去世した。南朝宋の前廃帝永光元年、熒惑が太微に入り西上将星を衝犯し、この年、太宰江夏王劉義恭・尚書令柳元景・僕射顔師伯らは一併に誅せられ、太尉沈慶之は去世し、廬陵王劉敬先・南平王劉敬猷・南康侯劉敬淵はみな死を賜わった。また司馬彪《続漢書・天文志》を引いていう、東漢桓帝延熹八年五月壬午、熒惑が太微に入り右執法を衝犯し、延熹九年九月辛亥、熒惑が太微の西門に入り、前後に累計して五十八日。九年十一月、太原太守劉瓆・荊州刺史李暠らはみな処決されて棄市された。永康元年十二月、太傅陳蕃・大将軍竇武・尚書令尹勲・黄門令山冰らはみな冤を含んで死んだ。)

郗萌曰:“熒惑犯左右執法,左右執法者,誅若有罪。”陳卓曰:“熒惑犯太微東南陬星,天下大飢,近期一年,遠期五年。”《荊州占》曰:“熒惑道,從太微西蕃北南方星間入,到南蕃東方星間出道;中西蕃直出入者,非道也。”甘氏曰:“熒惑常以十月、十一月入太微天庭受制,而出行列宿,司天道之國,罰無道之君,失禮之臣,若犯左相,左相誅;犯右相,右相誅,守宮三旬,必有赦,期六十日。”

郗萌はいう、熒惑が左執法・右執法を衝犯すれば、左右執法の職を担任する人が誅せられるかあるいは罪を獲るを主る。晋代の天文家陳卓はいう、熒惑が太微垣の東南角上の星を衝犯すれば、天下の大飢饉を主り、近ければ応期一年、遠ければ応期五年である。《荊州占》にいう、熒惑の運行する正道は、太微の西垣の偏北のあの南方の星の間より入り、再び南垣の偏東のあの星の間より穿ち出るものである。もし径直に西垣の正中から出入すれば、それはすなわちそれの走るべき正道ではない。甘徳はいう、熒惑は通常十月・十一月に太微の天庭に入って天子の命を受け、然る後に出て二十八宿を巡行し、天下の道ある国を考察し、道なき君と礼を失する臣を懲罰する。もしそれが左相星を衝犯すれば左相は誅せられ、右相星を衝犯すれば右相は誅せられ、もし太微宮に守って三十日に達すれば、必ず赦令があり、応期は六十日である。

《玄冥占》曰:“熒惑常以十月丙子入太微宮七日,受制而出,行列宿,司無道之國,七日以上成災,如占。”《文曜鉤》曰:“熒惑以戊子日順入太微庭中,受使於天子,不為咎,非其日,災殃如占。”郗萌曰:“熒惑當太微門,為受制;當左執法,為受事左執法;當右執法,為受事右執法;守太微門三日以下為受制;三日以上為兵、為賊、為亂、飢。”

《玄冥占》にいう、熒惑は通常十月丙子日に太微宮に入り、七日停留して天子の命を受けて後に出て、二十八宿を巡行し、道なき国を考察する。もし逗留が七日を超えれば、すなわち災禍を醸成して、占辞のいうところに拠って応験する。《文曜鉤》にいう、熒惑が戊子日に順行して太微庭の中に入るのは、天子の差遣を奉ずるもので災咎と算せず、もしこの日でなくて入れば、災殃はすなわち占辞に拠って応験する。郗萌はいう、熒惑が正しく太微門に対するは、天命を接受するものであり、正しく左執法に対するは、左執法のところより職事を領受するものであり、正しく右執法に対するは、右執法のところより職事を領受するものである。太微門に守ること三日以内は、なお天命を接受すると算し、三日を超えれば、すなわち兵事を主り賊寇を主り変乱を主り飢饉を主る。

《荊州占》曰:“熒惑出東掖門,為相受命東南出,德事也,出西掖門,為將受命西南出,刑事也,期以春夏。”《黃帝占》曰:“熒惑入天庭,色白潤澤,為期百八十日,有赦。”《帝覽嬉》曰:“熒惑入太微,而出端門者,臣不臣。”(司馬彪《天文志》曰:“孝桓就壽元年八月已己,熒惑入守太微二十一日,出端門,為亂臣。是時梁氏專政。)

《荊州占》にいう、熒惑が東掖門から穿ち出れば、丞相が命を受けて東南に出行するを象徴し、徳を施す事に属し、西掖門から穿ち出れば、将帥が命を受けて西南に出行するを象徴し、刑を用いる事に属し、応期は春夏の間に在る。《黄帝占》にいう、熒惑が天庭(すなわち太微垣)に入って星色が潔白にして光沢あれば、応期は百八十日で赦令があろう。《帝覧嬉》にいう、熒惑が太微に入って端門より穿ち出れば、人臣の臣道を守らざるを主る。(原書小注は司馬彪《続漢書・天文志》を引いていう、東漢桓帝建寿元年八月己巳、熒惑が太微に入って併せて二十一日守候し、然る後に端門から穿ち出で、占して乱臣ありと為した。当時は正しく外戚の梁氏が朝政を専擅していた。)

《聖洽符》曰:“熒惑入太微庭中央,帝族相攻伐,天子憂;若守端門,臣謀弒君;若留止門外,大臣戮死。熒惑入太微庭中,天倉閉,婦女不得食,天下饑荒。”郗萌曰:“熒惑入天庭,在屏南出門,扉左,左將死;出門扉左,右將死;直出無為。”《合誠圖》曰:“熒惑入華闕門,臣殺之候也。熒惑入庭中,臣多逆,不軌。”(司馬彪《天文志》曰:孝靈光和五年四月,熒惑在太微中守屏,占曰:熒惑入太微,為亂臣,是時中常侍趙忠、張讓、郭勝,孫璋等並奸亂也。)

《聖洽符》にいう、熒惑が太微庭の正中に入れば、帝室の宗族が自ら相攻伐し天子は憂懼するを主り、もし端門に守れば、臣下が君を弑することを謀劃するを主り、もし門外に停留して進まなければ、大臣が殺されるを主る。熒惑が太微庭の中に入れば、天倉が封閉し婦女は食物を得られず天下は飢饉を鬧すを主る。郗萌はいう、熒惑が天庭に入り屏星の南にて門を穿って出るとき、もし門扇の左辺に偏すれば左将の死を主り、もし門を出るとき門扇の左側に靠れば右将の死を主り、もし筆直に穿ち出れば、すなわち応験する所なし。《合誠図》にいう、熒惑が中華の闕門に入れば、人臣が弑殺する徴候である。熒惑が庭中に入れば、臣下に悖逆・不軌の挙が多いを主る。(原書小注は司馬彪《続漢書・天文志》を引いていう、東漢霊帝光和五年四月、熒惑が太微の中にて屏星を守候し、占辞にいう、熒惑が太微に入れば乱臣ありを主ると。当時、中常侍趙忠・張譲・郭勝・孫璋らは正しくともに権を専らにして乱を作していた。)

石氏曰:“熒惑入太微中華東西門,若左右掖門,而南出端門者,為必有反臣。熒惑入太微西門,出東門,臣謀其主,人君不安,欲求賢佐,有入中華西門,出中華東門,為臣出令;有入太陰西門,出太陰東門,為天下大亂;有喪,若水大。熒惑若入中華西門,天子憂之;若出中華東門,天下大亂,兵大起,期不出二年。”

石申はいう、熒惑が太微の中華東門あるいは中華西門から入るか、あるいは左右の掖門から入って、南に向かい端門より穿ち出れば、必ず反叛の臣がある。熒惑が太微の西門から入り東門より穿ち出れば、臣下が君主を図り謀るを主り、君主は席に坐して安からず賢能の輔佐を急ぎ訪求し、もし中華西門から入り中華東門より穿ち出れば、人臣が擅りに号令を発するを主り、もし太陰西門から入り太陰東門より穿ち出れば、天下の大乱を主り喪事があり、あるいは大水を発する。熒惑もし中華西門から入れば、天子はこれに憂慮し、もし中華東門より穿ち出れば、天下の大乱・兵事の大いに起こるを主り、応期は二年を出ない。

甘氏曰:“熒惑出太微天庭中,有立王;若徙王。”郗萌曰:“熒惑出天庭中,當道而為勾巳天庭,天下更紀。”(《宋天文志》曰:“晉安帝義熙十四年十月癸已熒惑入太微,犯西蕃上將,仍順行至左掖門。留二十日,乃逆行,元熙元年三月五日,出西蕃上將西三尺許。又陡還入太微時填星在太微,繞填星成勾巳。其年四月二十七日丙戍。從端門出,占曰:熒惑填星勾巳天庭,天下更紀。二年六月,晉帝遜位。高祖入宮也。)

甘徳はいう、熒惑が太微の天庭の中より穿ち出れば、主に新王を冊立するか、あるいは旧王を遷徙するべきである。郗萌はいう、熒惑が天庭の中より穿ち出て、ちょうど道を行って天庭の裡に盤曲して「勾巳」の形を成せば、天下が朝代を改め紀元を重ね定めるを主る。(原書小注は《宋書・天文志》を引いていう、東晋安帝義熙十四年十月癸巳、熒惑が太微に入り西垣の上将星を衝犯し、続いて順行して左掖門に至り、二十日停留してやっと転じて逆行と為した。元熙元年三月五日、西垣の上将星の西の三尺ほどに退出し、随いて後に忽然として折り返して太微に入った。当時、土星「填星」は正しく太微の中に在り、熒惑は填星を繞り盤曲して「勾巳」の形を成した。この年四月二十七日丙戌、熒惑は端門から穿ち出た。占辞にいう、熒惑と填星が天庭の中に盤曲して勾巳を成せば、天下は改元・易代するべしと。元熙二年六月に至って、晋恭帝は位を退き国を譲り、宋高祖劉裕は入って宮中に居った。)

郗萌曰:“熒惑入太微西門,犯天庭、出端門,為臣伐主,入西門,而折出右掖門,為大臣假主之威,而不從主命。熒惑入西華門,出端門,為臣詐稱詔。熒惑入太微端門,出東門,為貴者奪威勢。”《荊州占》曰:“熒惑出門微南門,執法用大事;出械掖門,大臣誅。”(司馬彪《天文志》曰:孝安延光二年八月巳亥,熒惑出太微端門,是時大將軍耿寶中常侍江京等譖太子乳母王男,廚監邴吉等,殺之,徙其父母妻子日南也,九月丁酉,廢太子為濟陰王。)

郗萌はいう、熒惑が太微の西門から入り天庭を衝犯して端門より穿ち出れば、人臣が君主を討伐するを主り、西門から入って折れて右掖門より穿ち出れば、大臣が君主の威権を借用して君命に聴従せざるを主る。熒惑が西華門から入り端門より穿ち出れば、人臣が詔書を假造するを主る。熒惑が太微の端門から入り東門より穿ち出れば、権貴が君主の威勢を奪い去るを主る。《荊州占》にいう、熒惑が太微の南門から穿ち出れば、執法の官が重大な案件を処置するを主り、掖門から穿ち出れば、大臣が誅せられるを主る。(原書小注は司馬彪《続漢書・天文志》を引いていう、東漢安帝延光二年八月己亥、熒惑が太微の端門から穿ち出た。当時、大将軍耿宝・中常侍江京らは太子の乳母王男と厨監邴吉らを誣陥して彼らを殺し、また彼らの父母・妻子を日南に流放した。九月丁酉、太子は廃されて済陰王と為った。)

《荊州占》曰:“熒惑入太微宮,為天下驚,一曰有兵。熒惑入天庭,國不安其宮。熒惑入太微庭中,主命無期。熒惑入天庭,君子惡之,又曰大臣死。熒惑入太微,色白無芒,天下大亂,一曰天下大飢。”

《荊州占》にいう、熒惑が太微宮に入れば、天下の震動・驚擾を主り、もう一説には兵事ありとする。熒惑が天庭に入れば、国君が宮中に安んじて居るを得ざるを主る。熒惑が太微庭の中に入れば、君主の寿命の逆料し難きを主る。熒惑が天庭に入れば、位に在る君子は最もこの天象を忌諱し、またいう大臣の死亡を主る。熒惑が太微に入って星色が白に発して芒角なければ、天下の大乱を主り、もう一説には天下の大飢饉とする。

《黃帝占》曰:“熒惑東行入太微庭,出東門,天下有爭兵,(《宋書天文志》曰:安帝義熙十年五月癸卯,熒惑順行入太微,十一月林邑寇交州刺史杜慧度距戰於九真,大敗之。)若守將相丞御史大臣有死者;若入端門,守天庭,大禍至,入南門,出東門,國大旱;若入南逆行,出西南門,有大水,逆行入東門,出西門,大國破亡,若順入西蕃,而留不去,楚國凶殃。”

《黄帝占》にいう、熒惑が東に向かって行って太微庭に入り、再び東門より穿ち出れば、天下に争戦の兵ありを主る。(原書小注は《宋書・天文志》を引いていう、東晋安帝義熙十年五月癸卯、熒惑が順行して太微に入り、十一月に林邑国が入寇し、交州刺史杜慧度は九真に迎撃してそれを大いに敗った。)もしそれが将星・相星・丞星・御史星を守候すれば、大臣の中に死亡する者ありを主り、もし端門から入って天庭を守住すれば、大禍はまさに到來せんとし、南門から入り東門より穿ち出れば、国中の大旱を主り、南面から入って逆行し西南門より穿ち出れば、大水を発するを主り、逆行して東門から入り西門より穿ち出れば、大国の破敗・滅亡を主り、もし順行して西垣に入り滞留して去らなければ、楚の地の国に凶殃ありを主る。

巫咸曰:“熒惑逆行入太微天庭中,為大臣有誅,若諸侯戮死,期二年。”石氏曰:“熒惑逆行太微之中,及出左右掖門者,有逆謀,天子有命將征伐之事,一曰大赦可以解其患。”郗萌曰:“熒惑逆行,入左掖門,為臣劫其主。”(《宋書天文志》曰:晉安帝元興三年正月戊戍,熒惑逆行犯太微西垣,占曰:天子戰于野,上相死,是年二月丙辰,殺桓玄等,桓循劫帝如江陵。)

巫咸はいう、熒惑が逆行して太微の天庭の中に入れば、大臣が誅せられるかあるいは諸侯が殺されるを主り、応期は二年である。石申はいう、熒惑が太微の中で逆行して併せて左右の掖門より穿ち出れば、人に叛逆を図り謀る者ありを主り、天子はまさに将帥を任命して兵を出し征討する事があろうとして、もう一説には大赦を頒行すればこの場の禍患を化解できるとする。郗萌はいう、熒惑が逆行して左掖門に入れば、人臣が君主を脅持するを主る。(原書小注は《宋書・天文志》を引いていう、東晋安帝元興三年正月戊戌、熒惑が逆行して太微の西垣を衝犯し、占辞にいう、天子はまさに野外にて作戦し上相は身死せんと。この年二月丙辰、桓玄らは殺され、後に桓振がまた安帝を脅持して江陵に遷った。)

《荊州占》曰:“熒惑逆行入太微天庭中,為諸侯將有殺上者;至黃座而成,不至黃座而還,有謀不成,以其日入占國。熒惑逆行天庭中不止,有大獄。”郗萌曰:“熒惑入太微宮中,至屏而留,有兵在中。”郗萌曰:“熒惑入天庭中,留十日以上,赦。”

《荊州占》にいう、熒惑が逆行して太微の天庭の中に入れば、諸侯・将帥の中に君上を弑殺せんとする人ありを主り、もしそれが黄帝座に行き至ってやっと停ればその事は必ず成り、もし黄帝座に至らずして折り返れば、すなわち陰謀は成らず、どの国に応じるかはそれが入ったあの日の干支に拠って推断する。熒惑が天庭の中に逆行して止まらなければ、大きな獄訟の事ありを主る。郗萌はいう、熒惑が太微宮の中に入って屏星に行き至ってすなわち停まれば、宮中に兵変ありを主る。郗萌はいう、熒惑が天庭の中に入って十日以上停留すれば、赦令があろう。

《荊州占》曰:“熒惑道南蕃,入留止南門,為大臣有憂。(司馬彪《天文志》曰:光武中元,二年八月丁巳,火犯太微西南角星,相去二寸,太微西南星,為將相、後太尉趙熹,李訴等免官。)熒惑入太微,若從右入,七日以上,為人主有憂。(司馬彪《天文志》曰:孝桓永康元年正月庚寅,熒惑逆行入太微東門,留百日,出端門,其年十二月丁丑。桓帝崩。《宋書天文志》曰:晉簡文咸安元年十二月辛卯,熒惑逆行入大太微二年三月不退。是時帝憂桓玄之逼,常懷憂慘,十二月帝崩也。)熒惑入天庭中二十日以上,延尉坐之,期六月。熒惑留太微庭中,為天下大憂;中央留十日以上,為天下有亡徒為兵者。”

《荊州占》にいう、熒惑が南垣に道を取り、入って来て後に南門に停留すれば、大臣に憂患ありを主る。(原書小注は司馬彪《続漢書・天文志》を引いていう、東漢光武帝中元二年八月丁巳、火星が太微の西南角上の星を衝犯し、相距ること二寸。太微の西南の星は将相を象徴し、後に太尉趙熹・李䜣らはみな免官された。)熒惑が太微に入り、もし右辺から入って七日以上停留すれば、君主に憂患ありを主る。(原書小注は司馬彪《続漢書・天文志》を引いていう、東漢桓帝永康元年正月庚寅、熒惑が逆行して太微の東門に入り、百天停留してやっと端門から穿ち出た。この年十二月丁丑、桓帝は駕崩した。また《宋書・天文志》を引いていう、東晋簡文帝咸安元年十二月辛卯、熒惑が逆行して太微に入り、二年三月に至ってもなお退か去らず、当時簡文帝は桓氏の逼迫を憂慮し常に心に憂戚を懐き、十二月に便ち駕崩した。)熒惑が天庭の中に入って二十日以上停留すれば、廷尉が罪を獲て連坐するを主り、応期は六か月である。熒惑が太微庭の中に滞留すれば、天下に大憂ありを主り、正中に停って十日以上なれば、天下に逃亡の人が聚まって兵と為す者ありを主る。

《黃帝占》曰:“熒惑守太微垣門外之左,延尉有事;守門外之右,丞相御史有事。熒惑守端門中二十日,臣謀反,主出走,期不出百二十日。”(《宋書天文志》曰:“晉海西公太和六年,閏月,熒惑守端門十一月,桓玄廢帝。)甘氏曰:“熒惑守角亢,反守太微,臣有謀兵天子者。”《春秋緯》曰:“熒惑守太微,王者惡之。”

《黄帝占》にいう、熒惑が太微垣門外の左側に守れば、廷尉に事ありを主り、門外の右側に守れば、丞相・御史に事ありを主る。熒惑が端門の中に守って二十日に達すれば、人臣が反を謀り君主が出逃するを主り、応期は百二十日を出ない。(原書小注は《宋書・天文志》を引いていう、東晋海西公太和六年閏月、熒惑が端門を守り、十一月に至って桓氏はすなわち皇帝を廃黜した。)甘徳はいう、熒惑が先に角宿・亢宿を守り、頭を回らしてまた太微を守れば、人臣の中に天子に向かって兵を挙げる図謀ありを主る。《春秋緯》にいう、熒惑が太微を守るは、王者の深く忌む所と為す。

郗萌曰:“熒惑守太微,諸侯及三公謀其上,鈇鑕用,必有斬臣;又曰女主不吉。”(《宋書天文志》曰:晉元康三年四月,熒惑守太微六十日後,賈后陷殺太子,而趙王廢后,又殺之,斬張華,裴顯遂纂位,廢帝為大上皇,天下從此構亂連禍也。)《玄冥占》曰:“熒惑入太微,無所犯守,順度而行,出左右掖門,所之野,天子謀之。”

郗萌はいう、熒惑が太微を守れば、諸侯と三公が君上を図り謀るを主り斧鑕の刑具は用場に派せられ、必ず大臣の斬られる者あり、またいうこれは女主に対して吉利ならず。(原書小注は《宋書・天文志》を引いていう、西晋元康三年四月、熒惑が太微を六十日守り、後に賈后が計を設けて太子を害死させ、趙王司馬倫は賈后を廃して併せて彼女を殺し、また張華・裴頠を斬り、すぐに帝位を簒奪して晋恵帝を廃して太上皇と為し、天下はこれより禍乱が連なった。)《玄冥占》にいう、熒惑が太微に入って衝犯せず守候もせず、ただ常度に依って順行して左右の掖門より穿ち出れば、それの前往する分野を、天子は正しくそこのために籌謀しているのである。

《黃帝占》曰:“熒惑干太微,留守三日以上,為必有兵革,天下赦。”《合誠圖》曰:“熒惑入太微,陵犯留止,後三年,必有喪。”《荊州占》曰:“熒惑入太微天庭,所犯乘守者,若有罪,各以守官名之。熒惑食太微東西蕃,四輔輔臣有誅者。”

《黄帝占》にいう、熒惑が太微を衝撞して滞留・守候すること三日以上なれば、必ず戦事があり、随いて後に天下は赦令を頒行する。《合誠図》にいう、熒惑が太微に入って欺凌・衝犯してまた停留して去らなければ、この後三年以内に必ず喪事がある。《荊州占》にいう、熒惑が太微の天庭に入って、およそそれに衝犯・凌駕・守候された星は、対応する人がすなわち罪を獲て、各々あの星の配する官名に拠って指認する。熒惑が太微の東垣・西垣の星を掩食すれば、四輔の位の輔臣に誅せられる者ありを主る。

熒惑犯黄帝座 四十七

石氏曰:“熒惑犯黃帝座,改政易王,天下亂,存亡半。”甘氏曰:“熒惑入中華門,犯帝座,天下亂,賊臣害主,破宮;期九十日。”《荊州占》曰:“熒惑犯黃帝座,大臣戮死。”《玉曆》曰:“熒惑入太陰西門,犯黃帝座,天子宮破國滅絕嗣,不出二年。”甘氏曰:“熒惑中黃帝座,臣殺其主。”《雒罪級》曰:“熒惑入黃帝座,不吉;強臣弒主。”甘氏曰:“熒惑入黃帝座,大人戮死,朝廷有哭。”

石申はいう、熒惑が黄帝座を衝犯すれば(黄帝座一星は太微垣の正中に居り、天子本人の象徴である)、政令を改換し君王を更易するを主り、天下は大いに乱れ存する者と亡ぶる者は各々半ばを占める。甘徳はいう、熒惑が中華門から入って帝座を衝犯すれば、天下の大乱を主り賊臣は君主を謀害し宮室は攻破され、応期は九十日である。《荊州占》にいう、熒惑が黄帝座を衝犯すれば、大臣が殺されるを主る。《玉暦》にいう、熒惑が太陰西門から入って黄帝座を衝犯すれば、天子の宮室の破敗・国家の覆滅・後嗣の断絶を主り、二年を出ない。甘徳はいう、熒惑が正しく黄帝座を衝けば、人臣が君主を弑殺するを主る。《雒罪級》にいう、熒惑が黄帝座に入れば不吉で、強横の大臣が君を弑するを主る。甘徳はいう、熒惑が黄帝座に入れば、尊貴の人が殺されるを主り朝廷の上に哭声がある。

郗萌曰:“熒惑入天庭直出,期十日,入蕃期二十日,去出尺,期十日,用赦。”《荊州占》曰:“熒惑入帝座,其色白者,為有赦。熒惑入天庭,至黃帝座,有赦。”《荊州占》曰:“熒惑近黃帝座北,諸侯徙,天子辱;若中黃帝座,為大人傷。”甘氏曰:“熒惑近黃帝座,大臣謀,為亂不成。熒惑觸黃帝座,主亡。”《黃帝占》曰:“熒惑守黃帝座,為大人憂。”

郗萌はいう、熒惑が天庭に入ってまた径直に穿ち出れば、応期は十日で、垣墻の内に入れば応期は二十日で、離れ去るとき一尺ほど出れば、応期十日で、期に至って赦宥を施行する。《荊州占》にいう、熒惑が帝座に入って星色が白に発するものは、赦令ありを主る。熒惑が天庭に入って黄帝座に行き至れば、赦令ありを主る。《荊州占》にいう、熒惑が黄帝座の北面に靠近すれば、諸侯の遷徙・天子の辱められるを主り、もし正しく黄帝座を衝けば、尊貴の人が傷害を受けるを主る。甘徳はいう、熒惑が黄帝座に靠近すれば、大臣が心に図謀を懐くを主るが、乱を作すことは成功しない。熒惑が黄帝座に触れれば、君主の敗亡を主る。《黄帝占》にいう、熒惑が黄帝座を守れば、尊貴の人に憂いありを主る。

熒惑犯四帝 四十八

《玉曆》曰:“熒惑入太微,犯四帝,臣有謀,若被誅。”石氏曰:“熒惑犯守四帝,臣謀主,去之一尺,事不成。”石氏曰:“熒惑犯乘守四帝坐,闢憂。”(闢君也。)甘氏曰:“熒惑中犯乘守四帝坐,天下亡。”

《玉暦》にいう、熒惑が太微に入って四帝座を衝犯すれば(黄帝座の四周に蒼帝・赤帝・白帝・黒帝の四座があり、合わせて四帝と称す)、人臣が心に図謀を懐くかあるいは誅せられる人ありを主る。石申はいう、熒惑が衝犯して四帝座を守候すれば、人臣が君主を図り謀るを主り、もしそれが一尺遠く離れれば、事はすなわち成し遂げられない。石申はいう、熒惑が衝犯・凌駕し・守候して四帝座に及べば、君主に憂いありを主る。(原書小注:「辟」はすなわち君主である。)甘徳はいう、熒惑が正しく衝き・衝犯し・凌駕し・守候して四帝座に及べば、天下の敗亡を主る。

熒惑犯屏星 四十九

郗萌曰:“熒惑入太微宮中,至屏而留,為有兵在中。”(《宋書天文志》曰:宋明帝泰始二年正月甲午,熒惑逆行,在屏而南,其年四方及叛,內兵大出,六卿親戎。)甘氏曰:“熒惑犯守屏星,君臣失禮,下謀上,一曰大臣有戮死者。”石氏曰:“熒惑中犯乘守屏星,為君臣失禮,而輔臣有誅者,若免罷去。”

郗萌はいう、熒惑が太微宮の中に入って屏星に行き至ってすなわち停留し下れば、宮禁の内に兵変ありを主る。(原書小注は《宋書・天文志》を引いていう、南朝宋明帝泰始二年正月甲午、熒惑が逆行して位置は屏星の南にあり、この年四方の州郡は叛乱し京師の兵は大挙して出動し六卿は自ら兵を領いた。)甘徳はいう、熒惑が衝犯して屏星を守候すれば(屏星は太微垣の内にあり、帝座を遮蔽する屏障で、君臣の間の礼隔を象徴する)、君臣の間で礼数を失うを主り下位の者が上位の者を図り謀り、もう一説には大臣の中に殺される者ありとする。石申はいう、熒惑が正しく衝き・衝犯し・凌駕し・守候して屏星に及べば、君臣が礼を失するを主り輔政の臣に誅せられる者があり、あるいは免職・罷黜される。

熒惑犯郎位 五十

甘氏曰:“熒惑犯守郎位,輔臣有誅,左右宿衛者為亂,王者宜備之。”

甘徳はいう、熒惑が衝犯して郎位星を守候すれば(郎位十五星は太微の帝座の東北にあり、君主に侍衛する郎官を象徴する)、輔政の臣に誅せられる者ありを主り、君主の左右で宿衛を担任する人が乱を作さんとし、王者は当に予め防備すべきである。

熒惑犯郎将 五十一

巫咸曰:“熒惑守郎將,曰凌,凌則將有誅,若將有憂;一曰大臣為亂,戒慎左右。”《荊州占》曰:“熒惑犯乘守郎將,且有以符節為奸者。熒惑中犯乘守郎將,必有不還之使。”

巫咸はいう、熒惑が郎将星を守れば(郎将一星は郎位の北にあり、郎官を統率する虎賁中郎将を象徴する)、これを「凌」と作す——凌犯すればすなわち将領の誅せられるを主るかあるいは将領に憂いがあり、もう一説には大臣が乱を作し君主は身辺の近侍を警惕すべきであるとする。《荊州占》にいう、熒惑が衝犯・凌駕し・守候して郎将に及べば、人に符節に憑藉して奸邪の事を干す者があろう。熒惑が正しく衝き・衝犯し・凌駕し・守候して郎将に及べば、必ず出使して帰って来ない使臣がある。

熒惑犯常陳 五十二

甘氏曰:“熒惑犯守常陳,守衛有謀,兵起宮中,天子自出行,誅,期百八十日,遠一年。”

甘徳はいう、熒惑が衝犯して常陳星を守候すれば(常陳七星は帝座の北にあり、形は天子の護衛・儀仗のごとく、宿衛・武備を主る)、守衛を担任する人が心に図謀を懐くを主り、宮中に兵変が発生し天子は自ら出面して処置し誅戮を施行し、応期は百八十日、遠ければ一年である。

熒惑犯三台 五十三

《玉曆》曰:“熒惑入犯上臺司命,近臣有罪,若有誅,一曰近臣有逃去者,以五色占:黃白、無故;青黑,憂死喪;期一年。”郗萌曰:“熒惑犯守上臺,宮中禁門燔,太尉病,天子惡之,犯守中臺,司徒、公族、皇后忌;犯守下臺,司空為庶人;皆期百七十二日。”《文曜鉤》曰:“熒惑犯守中臺,司中奸臣有謀,若有誅者,中公當之。”巫咸曰:“熒惑犯守下臺,司祿近臣有罪,若出走;色黑者死。”

《玉暦》にいう、熒惑が入って上台の司命二星を衝犯すれば(三台六星は上・中・下の三階に分かれ、上台は名を司命、中台は名を司中、下台は名を司禄といい、三公の位に分配する)、近臣が罪を獲るかあるいは誅せられるを主り、もう一説には近臣の中に逃亡する者があり、さらに熒惑の五色に拠って分辨する——黄・白色を呈するものは事なし、青・黑色を呈するものは憂愁・死喪を主り、応期は一年である。郗萌はいう、熒惑が衝犯して上台を守候すれば、宮中の禁門が失火し太尉は病を生じ、天子はこの象を忌諱するを主り、衝犯・守候して中台に及べば、司徒・宗室の公族と皇后はまさに忌を犯さんとし、衝犯・守候して下台に及べば、司空は平民に貶められ、これらの数種の応期はいずれも百七十二日である。《文曜鉤》にいう、熒惑が衝犯して中台を守候すれば、司中の位に奸臣の図謀ありを主るかあるいは誅せられる人があり、中台の配する公卿によって承当する。巫咸はいう、熒惑が衝犯して下台を守候すれば、司禄の位の近臣が罪を獲るかあるいは出逃し、もし熒惑の星色が黒に発すれば、あの人はすなわち死ぬべきである。

《黃帝占》曰:“熒惑守三臺三十日,天下大亂,兵起宮中,大臣戮死;若守三臺間,尤甚急,期百八十日。”郗萌曰:“熒惑守三臺三日以上,三公有戮死者。熒惑守三能之中央百二十日,三公皆謀,害國。熒惑入天柱,天下有慶賀之事。熒惑居天柱,兵起,三年乃止。熒惑留繫天柱,地大動,兵大起。”《春秋緯》曰:“天下奮擊,臣子相譖,三公專恣;則熒惑流而觸能。”

《黄帝占》にいう、熒惑が三台を守って三十日に達すれば、天下の大乱を主り宮中に兵変が発生し大臣は殺され、もし三台の各階の空隙の間に守れば、情勢は殊に緊急で、応期は百八十日である。郗萌はいう、熒惑が三台を守って三日以上なれば、三公の中に殺される者ありを主る。熒惑が三台の正中に守って百二十日に達すれば(「三能」はすなわち三台の別名である)、三公が同じく事を謀り国家を危害するを主る。熒惑が天柱星に入れば、天下に慶賀に値する事ありを主る。熒惑が天柱に停居すれば、兵事の興起を主り三年にしてやっと平息する。熒惑が滞留して天柱のそばに糾纏すれば、大地の震動を主り兵事は大いに起こる。《春秋緯》にいう、天下が互いに攻撃し臣子の間で彼此に誣告し三公が権を専らにして恣肆なれば、熒惑はすなわち流移して過って三台を触犯する。

熒惑犯相星 五十四

石氏曰:“熒惑犯相星,輔臣凶。熒惑守相星三十日,大臣為亂,天下兵起,人主有憂。”

石申はいう、熒惑が相星を衝犯すれば(相一星は北斗の南にあり、天子を輔佐する丞相を象徴する)、輔政の臣が凶に遭うを主る。熒惑が相星を守って三十日に達すれば、大臣が乱を作すを主り天下は兵事を興起し君主に憂患がある。

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