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開元占經(唐・瞿曇悉達奉敕撰)

唐 · 瞿昙悉达 · 第2巻 / 119

作盤ガイド: 暦注(黄暦), 万年暦

渾天遭周秦之亂,師傳斷絕,而喪其文,唯渾儀尚在,臺是以不廢,故其詳可得言。至於纖微委屈,闕而不傳,周天裡數,無聞焉爾。而《洛書軌曜度》、《春秋考異郵》皆云:周天一百七萬一千里。至以日景驗之,違錯甚多,然其流行,布在眾書,通儒達士,未之考正。是以不敢背損舊術,獨據所見。故按其數,更課諸數,以究其意也。

渾天の學は周末・秦代の動亂に遭い、師徒の傳授は中斷し、典籍は散失し、ただ渾儀のみが留存して觀候台はゆえに廢棄されなかったので、その大略はなお講じ出すことができる。其中の細微曲折の處に至っては、殘缺失傳であり、周天が究竟幾何の里あるかは、さらに聞くすべもない。しかるに讖緯の書《洛書甄曜度》と《春秋考異郵》はいずれもいう、周天は一百七萬一千里と。日影をもって驗證すれば違誤錯亂の處が多いが、しかしこの説は流傳きわめて廣く、各種の書に散布し、通達の儒者學士はいずれも考正を加えたことがない。だから私は舊有の算法を背棄削減して一己の見のみに憑ることを敢えてせず、ここにこの數字に依って、改めて各項の數據を核算し、もってその本意を推究した。

古歷皆云周天三百六十五度四分度之一,皆分一百七萬一千里數為一度闊二千九百三十二里七十一步二尺七寸四分大強;斗下分為七百三十三里一十七步五尺一寸八分大弱。三光之行,不必有當,術家以算,追而求之;故諸家之歷,各有異同,

古代の曆法はいずれも周天を三百六十五度四分の一とし、いずれも一百七萬一千里という總數を度に按じて分け、一度の闊さを二千九百三十二里七十一步二尺七寸四分強と得た。その零餘の四分の一度(曆家は「斗下分」と呼ぶ)は七百三十三里一十七步五尺一寸八分弱に折合する。日月五星の運行は必ずしもちょうどこれらの數目に相當せず、曆算家は推算をもって追尋求取するしかないので、各家の曆法は彼此同あり異ありである。

漢靈帝之末,四分曆與天違錯,時會稽東部都尉太山劉洪,善於推候,乃考術史官自古至今曆法,原其進退之行,察其出入之驗,視其往來,度其終始。課斗下分不能四分之一,減以為五百八十九分之一百四十五,更造《乾象曆》,以追日、月、五星之行。比於諸家,最為精密,今史官所用,則其歷也。

漢の靈帝の末年、四分曆は天象と合わなかった。当時の會稽東部都尉で泰山の人劉洪は推算候驗に擅長し、そこで史官の自古以來の各種の曆法を考核し、日月進退の行度を推原し、それらの出没の驗證を考察し、往復を觀察し始終を度量した。斗下分が四分の一度に足らないことを核算し出し、それを五百八十九分の一百四十五に減定して、別に《乾象曆》を造り、もって日月五星の運行を追算した。各家の曆法と比べて、この一部が最も精密であり、今史官の使用するのがこの曆である。

故所作渾象諸,分度節次及昏明中星,皆更以《乾象》法作之,擊天一百七萬一千里,以《乾象》法分之,得二千九百三十二里八十步三尺九寸五分弱,斗下分為七百二十一里二百五十九步四尺五寸地二強。《乾象》全度長古歷全度九步一尺二寸少弱,斗下分減古歷斗下分十一里五十八步六寸六分弱,其大數俱一百七萬一千里,斗下分減,則全度純數使其然也。

だから私が渾象を製作するとき、各項の分度の節次および黃昏・平旦に南中天の星は、みな《乾象曆》の算法に改照して重定した。周天一百七萬一千里を取り、《乾象曆》の度數に按じて分ければ、一度は二千九百三十二里八十步三尺九寸五分弱に合し、斗下分は七百二十一里二百五十九步四尺五寸二分強に合す(底本は「四尺五寸地二強」と作るが、文字に訛誤があるようである)。《乾象》の一整度は古曆の一整度より九步一尺二寸やや弱長く、《乾象》の斗下分は古曆の斗下分より十一里五十八步六寸六分弱少ない。兩者の總數は同じく一百七萬一千里であり、斗下分の減少した所以は、まさに整度の實數の加大が造り出したものである。

又陸績云:‘周天一百七萬一千里,東西南北徑三十五萬七千里,立徑亦然。’此蓋天黃赤道之徑數也。渾天蓋天黃赤道周天度同,故績取以言耳。此言周三徑一也。

陸績はまたいう。「周天一百七萬一千里、東西南北の直徑三十五萬七千里、上下の直徑も同じ」と。これは實は蓋天家が黃赤道を推算して得た直徑の數である。渾天と蓋天の兩家の用いる黃赤道の周天度數は相同じなので、陸績はここに取って引用したのである。これは「圓周三・直徑一」の古い比率に按じて算え出したものである。

古歷術日率圓周三,中徑一,臣更考之徑一不翅周三率;周百四十二,而徑四十五,以徑率乘一百七萬一千里,以周率約之,得徑三十二萬九千四百一里一百二十二步二尺二寸一分七十一分分之十,東西南北及立徑皆同,半之得十六萬九千七百里二百一十步一尺六寸百四十二分分之八十一,地上去天之數也。

古代の曆算の法は圓周の長さ三・中徑の長さ一と説く。私が重ねて考訂すれば、直徑を一とするとき圓周はなお三に止まらない。圓周率一百四十二・直徑率四十五を取り、直徑率をもって一百七萬一千里に乘じ、さらに圓周率をもって除すれば、直徑三十二萬九千四百一里一百二十二步二尺二寸一分又七十一分の十を得る。東西・南北の直徑および上下の直徑はみな相同じ。その半分を取れば、十六萬九千七百里二百一十步一尺六寸又一百四十二分の八十一を得、これが地面より天までの距離である。

夫周徑固前定物,為蓋天者,尚不考驗,而乃論天地之外,日月所不照,陰陽所不至,日精所不及,儀術所不測,皆為之說虛誕無證,是亦鄒子瀛海之類也。

圓周と直徑はもともと眼前に測定し得るものであるが、蓋天説を主張する者はこのことさえ考驗せず、かえって天地以外のことを大いに談ずる。あれらは日月の照らさず、陰陽の到らず、日光の射及ばず、儀器算術の測り出せないところであるのに、一々それらのために説法を編み出し、虛誕にして憑證がない。これはすなわち戰國の鄒衍が九州の外に大瀛海ありと講じたあの類の空談と大差ない。

臣謹更以晷景考周天裡數,按《周禮大司徒》之職云:‘土圭之法,測土深,正日景,以求地中。日南則景短多暑;日北則景長多寒;日東則景夕多風;日西則景朝多陰。日到之景,盡有五寸,謂之地中。’鄭玄云:‘土圭之長,尺有五寸,以夏至立八尺表,其景適與圭等,謂之地中,今潁川陽城地為然。’鄭玄云:‘凡日景於地,千里而差一寸。景尺有五寸者,南戴日下萬五千里也。’

私は謹んで再び日影をもって周天の里數を考求する。《周禮・大司徒》にこの官職の職守を講じていう。「土圭の法を用いて地の遠近を測量し、日影を校正して、もって大地の中央を求む。南に偏するの地は日影短く暑熱多く、北に偏するの地は日影長く寒冷多く、東に偏するの地は日影が傍晚のごとく風多く、西に偏するの地は日影が早晨のごとく陰多い。夏至の日中の投ずる影が、恰好一尺五寸なるを、地中と呼ぶ」と。鄭玄の注にいう。「土圭は長さ一尺五寸、夏至のこの日に八尺高き表を一條立て、その影子はちょうど土圭と長さを等しくすれば、地中と呼ぶ。今潁川郡陽城縣のあの地がまさにこのようである」と。鄭玄はまたいう。「およそ日影の地に投ずるや、相距ること一千里にして一寸を相差す。影の長さ一尺五寸は、この處が太陽の正下に當たる地點を離れて南に一萬五千里あるを説明す」と。

誠以八尺之表,而有尺五寸景,是立八十而旁十五也;南萬五千里而當日下,則日當去其下地八萬里矣。從日斜射陽城,則天徑之半也,天體圓如彈丸,地處天之半,而陽城為中,則日春、秋、冬、夏、明、晝、夜,去陽城皆無盈縮矣,故知從日斜射陽城為天徑之半也。

すでに八尺高き表が一尺五寸の影子を投ずるは、すなわち竪直八十・橫向十五の比例である。南に一萬五千里すれば便ち太陽の正下に當たる地點に到るならば、太陽のその下の地面に距るは應に八萬里ならん。太陽より陽城に斜射するあの線は、すなわち天球の半徑である。天體は渾圓にして彈丸のごとく、大地は天の正中に處り、しかも陽城はまた大地の中心ならば、太陽は春・秋・冬・夏を論わず、天明・白晝・黑夜を論わず、陽城に距るに遠近の增減なし。ゆえに太陽より陽城に斜射するあの線がまさに天球の半徑なることを知る。

以勾股法言之,旁萬五千里勾也。立八萬里,則股也。從日斜射陽城,則弦也。以勾股求弦法入之,得八萬一千三百九十四里三十步五尺三寸六分,天徑之半,而地上去天之數也。倍之,得十六萬二千七百八十八里六十一步四尺七寸二分,天徑之數也。以周率乘之,徑率約之,得五十一萬三千六百八十七里六十八步一尺八寸二分,周天之數也。

句股法をもって講ずれば、橫向の一萬五千里は句、竪直の八萬里は股、太陽より陽城に斜射するあの線は弦である。句股より弦を求める算法に代入すれば、八萬一千三百九十四里三十步五尺三寸六分を得、これは天球の半徑、すなわち地面より天までの距離である。一倍を加えれば、十六萬二千七百八十八里六十一步四尺七寸二分を得、これは天球の直徑である。さらに圓周率をもって乘じ直徑率をもって除すれば、五十一萬三千六百八十七里六十八步一尺八寸二分を得、これが周天の長さである。

減《甄曜度》《考異郵》五十五萬七千三百一十二里有奇,一度凡一千四百六里百二十四步六寸四分十萬七千五百六十五分分之萬九千四十九,減舊度千里五百二十五里二百五十六步三尺三寸二十一萬五千一百三十分分之十六萬七百三十分。

この數は《洛書甄曜度》《春秋考異郵》の説くところより五十五萬七千三百十二里余り少ない。これに照らして算えば、周天一度は一千四百六里一百二十四步六寸四分又十萬七千五百六十五分の一萬九千四十九に合し、舊説の每一度より一千五百二十五里二百五十六步三尺三寸又二十一萬五千一百三十分の十六萬七百三十を減少せり(底本の「千里五百二十五里」の句は衍誤があるようである)。

夫末世之儒,多妄穿鑿,補增《河洛》,竊作讖緯,其言浮虛難悉,據用六官之職,周公所制勾股之術,目前定數,晷景之度,事有明驗,以求推之,近為詳矣。

末世の儒生は多く妄誕の穿鑿を好み、《河圖》《洛書》を增補し、私に讖緯を造る。その言は浮泛虛妄にして、盡く信じがたい。今《周禮》六官の職守に依據し、周公の制した句股算法を用い、眼前に確定し得る數目・日影の量り得る尺度に憑り、事毎に明白の驗證あり、これに據って推求してこそ、始めて比較的詳實と算える。

黃赤道相與交錯,其間相去二十四度。以兩遊儀準之,二道俱三百六十五度有奇,是以知天體圓如彈丸。而陸績造渾象,其形如鳥卵;然而黃道應長於赤道矣。績云:‘東西南北徑三十五萬七千里。’然則績亦以天形正圓也。而渾象為鳥卵,則為自相違背。

黃道と赤道は彼此交錯し、兩者の相距る最も遠きは二十四度である。二つの游儀をもって校準すれば、二條の道はいずれも三百六十五度余り、これによって天體の渾圓にして彈丸のごときを知る。しかるに陸績の渾象の製作は鳥卵の形狀を成した。あのようであれば、黃道は赤道より長からねばならぬ。陸績自らまた「東西南北の直徑三十五萬七千里」と謂うは、彼が實にもまた天形の正圓なるを認めたを見る。然るに造る所の渾象は鳥卵形にして、これすなわち自相矛盾なり。

月行二十七日有奇而周天,其行半出黃道外,半入黃道內;在內謂之陰道,在外謂之陽道,其行陰陽道極遠者不過六度。黃道無常,諸家各異,各依其歷。節氣所行宿度,《尚書》、《月令》、《太初》、《三統》、《四分》、《乾象》各不同,昏明亦異,日行蹉跌,不遵常之所為也。

月は二十七日余りで天を一周り繞り、その路程は半分は黃道の外に出で、半分は黃道の内に入る。内にあるを「陰道」と呼び、外にあるを「陽道」と呼び、陰陽二道を出入する最も遠きも六度を過ぎず。黃道の定法に一定なく、各家彼此相同じからず、いずれも各自自家の曆法に依據す。節氣に太陽の在る宿度は、《尚書》《禮記・月令》および《太初曆》《三統曆》《四分曆》《乾象曆》の記す所各々相同じからず、黃昏と平旦の中星にも差異あり。これは太陽の運行がもともと參差錯落ありて、全く一成不變の常規に遵循せざるがゆえである。

夫三光之行,雖有盈縮,天地之體,常然不變,故諸家之歷,皆不著渾象,唯黃道當各隨其歷而錯之。而今臣所施黃道,《乾象》法也,審校先代諸儒,於春秋二分多差,而冬夏二至恆在;二分限中,蕃按渾象之法,地當在天中,其勢不便故,反觀其形。地為外匡,於已解者,無異在內。詭狀殊體,而合於理,可謂奇巧。

日月星の三光の運行は盈あり縮ありといえども、天地の形體は恒常に變わらず。ゆえに各家の曆法はいずれも別に渾象を造るを要せず、ただ黃道のみ各々自家の曆法に依って嵌置すべきなり。今私の安放する所の黃道は、《乾象曆》の法を用う。仔細に前代諸儒の成説を校核するに、彼らは春分・秋分の二處に多く差誤あり、而して冬至・夏至の二處は始終移らず、差誤はみな二分の範圍の内に落つ。我が王蕃は渾象の制法に按じて考う。地はもともと天球の正中に放つべきなれど、あのようになれば形勢觀看に不便なり。ゆえに反って外よりその形象を觀る――地を外なる方框と作る。すでに其中の道理を明白せる人に對しては、これと地の天内にあると分別なし。形狀奇詭・體制特別なれど、道理に合し、巧妙と謂うべし。

古舊渾象,以二分為一度,周七尺三寸半分。漢張衡更制,以四分為一度,凡周一丈四尺六寸一分。臣以古制局小,以布星辰,相去稠概,不得了察;而張衡所作,又復傷大,難可轉移。前表間以三分為一度事,許令臣新作周一丈九寸五分四分分之三,長古法三尺六寸五分四分分之一,減張衡亦三尺六寸五分四分分之三,渾象法黃道、赤道各廣一度有半,故今所作渾象,黃、赤道各廣四分半、相去七寸二分。渾儀中筒為璇璣,外規為玉衡。(吳太史令陳卓所作《渾天論》與王蕃大同。)

古の舊有の渾象は、二分の長をもって一度とし、全周七尺三寸半分なり。漢の張衡は別に改制し、四分の長をもって一度とし、全周合わせて一丈四尺六寸一分なり。私は古制の格局が小さすぎて、星辰を布けば彼此挨りあい密にして看清らかならずと思い、而して張衡の造る所はまた大きすぎるを失し、搬動轉旋しがたし。先前に上表して三分の長をもって一度と改用するの事を提出し、蒙りて私に一具を新造することを准許せり。全周一丈九寸五分又四分の三、古法より三尺六寸五分又四分の一長く、張衡のより三尺六寸五分又四分の三減少せり。渾象の定法に按ずれば、黃道・赤道各々闊きこと一度半。ゆえに今造る所の渾象は、黃道・赤道各々闊きこと四分半、兩道の相距るは七寸二分。渾儀の當中の圓筒を「璇璣」と呼び、外の規環を「玉衡」と呼ぶ。(原書小注:吳國太史令陳卓の作れる《渾天論》は、王蕃の説く所と大体相同じ。)

姜岌《渾天論答難》曰:“渾天之說,天體包裹,地在其中。七曜躔麗,道有常率。天體旁倚,故日道南高而北下;運轉之樞,南下而北高。二樞為轂,日道為輪,周廻運移,終則復始。北樞謂之北極,出地上三十六度,故天北際七十二度,常見而不伏。南樞謂之南極,入地下亦三十六度,故天南際七十二度常伏而不見。

十六國時期の天文曆算家姜岌は《渾天論答難》の中にいう。渾天の説は、天體は外に包裹し、大地は天の中間に處るとする。日月五星七曜はその上に附麗して運行し、各々恒常の行度あり。天體は側倚せるがゆえに、太陽の行く道は南高く北低し。而して天體の旋轉の樞軸は卻って南低く北高し。南北兩樞は車轂に譬え、太陽の行く道は車輪に譬え、周而復始して旋轉移動す。北の樞軸を「北極」と呼び、地面より出づること三十六度。ゆえに天の北邊七十二度の一片は常年可見にして隱伏せず。南の樞軸を「南極」と呼び、地下に沒入するもまた三十六度。ゆえに天の南邊七十二度の一片は常年隱伏して見るを得ず。

或云:火,陽也,故外照。金、水,陰也,故內景。日為陽精,故為外照;月為陰之宗,應內景。而月復能外照,何也?對曰:月光者,日曜之所生,是故外景如日照也;是故瑩金、澄水得日之照,照物亦有景。

或る人問う。火は陽に屬し、ゆえに外に向かって照射す。金と水は陰に屬し、ゆえにただ内里に影像を含む。太陽は陽の精華、ゆえに外に向かって照射す。月は陰の宗主、理の宜しくただ影像を内含すべきに、然るに月もまた能く外に向かって照射するは、これ何の故ぞ。答えていう。月の光は太陽の照射する所より生じ出づるがゆえに、それが外に投出する光は太陽の照射するがごときなり。ちょうど光亮の金屬・澄清の水面が日照を受けて、亦能く光を他の物體に反照して影像を映出するがごとし。

又曰:月無虧盈,虧盈由人也;日月之體,形如圓丸,各徑千里,月體向日,常有光也。月之初生,日曜其西,人處其東,不見其光,故名曰魄。魄一日之後,微東而南,故明生焉。八日正在南方,半之故見其弦也。望則人處日月之間,故見其圓也。

姜岌はまたいう。月は本身圓缺なく、圓缺は觀看する者の處する位置より成る。日月の形體はみな圓球のごとく、各々直徑一千里。月の太陽に朝るあの一面は、終始光あるなり。月初新生のとき、太陽はその西面を照らし、人は卻ってその東面に立ち、あの一面の光を見ず。ゆえに「魄」と呼ぶ。「魄」の一日を過ぐるに至り、月は稍や東移して南に偏り、明の部分は便ち出現す。初八に至れば、月はまさに南方に在り、明の部分は恰好一半、ゆえに見る所は弦月なり。望日に至れば、人はまさに日月の間に處り、ゆえに見る所は滿圓なり。

假使月初生時,移人在日月之間,東向以視,則月光圓若望也。夏至之日,日入戌,月初生時,則西北近日有光。及出於寅,未閱三日,以視月,則東北近日處光滿也。研之於心,驗之於目,月體向日,有光而形圓矣。

假使月初新生のとき、人を日月の間に挪して、東に向かって望ましめば、則ち見る所の月光は同じく圓滿にして、望日と同じからん。夏至のこの日に太陽は戌の位に落つ。月初新生のとき、月の西北方の太陽に靠近する一側は光あるなり。太陽が寅の位より昇起するを待つに至り、なお三日に滿たず、再び月を觀れば、便ちその東北方の太陽に靠近するあの一側の光すでに滿つるを見ん。心思をもって研究し、眼睛をもって驗證すれば、月の太陽に朝るあの一面はつねに光あり、しかも形狀渾圓なるを知るべし。

難者又云:日曜星月,明乃生焉。然則月望之日,夜半之時,日在地下,月在地上,其間隔地,日光何由得照月,暗虛安得常日沖?對曰:日之曜天,不以幽而不至;不以明而不及。赫烈照於四極之中,明光曜煥乎宇宙之內,循天而曜星月,猶火之循突而升,及其光曜,無不周矣。惟沖不照,名曰暗虛,蓋日及天體,猶滿面賁鼓矣。

責難する者はまたいう。星月は太陽の照射に依って光明を生ずる。しかるに望日の夜半に至れば、太陽は地下にあり月は地上にあり、中間に大地を隔て、日光は何をもって月に照り得るや。「暗虛」はまたどうしてつねに太陽に正對するのか。答えていう。太陽は天空を照耀し、地が幽暗なるをもって到らざるなく、地が明亮なるをもって及ばざるなし。それは熾烈に四極の内に照り滿ち、光輝明亮に宇宙の中に映徹し、天體に沿って星月を照亮すること、火の煙突に沿って上に昇るがごとく、その光の到る所、周遍せざるなし。ただ太陽に正對するあの一點のみ照らず、名づけて「暗虛」という。これは日光が天體全體に遍及すること、あたかも鼓面の滿滿に绷られたるがごときによる。

日之光炎,在地之上,礙地不得直照而散,故薄虧,而照則近;在地之下,聚而直照,故滿盈,而照而遠。以斯言之,則日光應曜星月,有何礙哉?《易傳》:‘日夜食則星亡。’無日以曜之故也。

太陽の光焰は、地面以上に處るとき大地に阻碍されて直射すること能わず四外に散開し、ゆえに稀薄虧缺に顯れ照及の距離も近し。地面以下に處るときは則ち聚攏して直射し、ゆえに滿盈に顯れ照るも遠し。このように講ずれば、日光はもともと星月を照亮すべきものにして、何の妨碍かあらん。《易傳》にいう、「白晝夜のごとき日食の發生するとき、星は便ち隱沒す」と。あれはまさに太陽のそれらを照耀するものなきがゆえである。

難雲地上不得直照而散,故薄虧而照近。檢先望一日,日未入地而月已出,相去三十餘萬里,日在地上,散而直照,不應及月,而使月全明者,何也?對曰:薄虧而照則近,是言礙地光難周耳。水流溼,火就燥,類相從也。月星者,類也。日光散照,雖不及月,譬之燃燭,一燭在上,一燭在下,滅下燭使煙相當,則上滅之談,循煙而下,燃下燭矣。此類相從也。

また或る人責難していう。すでに日光が地面以上にあっては直射すること能わず外に向かって散開し、ゆえに稀薄虧缺にして照ること近しと講ずるならば、則ち望日の前一日を查すに、太陽なだ落下せずして月すでに昇起し、兩者の相距る三十余萬里、この時太陽は地面以上にあり、光は散開にして直射にあらず、本當に月に照るべからず。然るに月は全明なり、これ何の故ぞ。答えていう。所謂稀薄虧缺・照ること近しとは、不過大地に阻碍されて光の周遍しがたきを説くのみ。水は濕處に流れ、火は乾處に燒き、同類の物は自然に相從す。月と星は、まさに日光と同類の物なり。日光の散照は月に及ばずといえども、點燈の蠟燭をもって比方を為さん。一支の蠟燭は上にあり、一支の蠟燭は下にあり、下面のあの支を吹滅して、煙を上面のあの支に正對せしめれば、則ち上面の蠟燭の火焰(底本のここ「上滅之談」の四字は訛あり)は煙に順って下に走り、下面のあの支を重ねて點燃せん。これがすなわち同類相從の道理なり。

難者又曰:日夜食則眾星亡。按月體不大於地,今日在地下,月在地上,地體大尚不能掩日使不照月,月體小於地,安能掩日使不照曜星也。對曰:上元之初,日月如疊璧,五星如連珠,故曰重光。重光者,日在上,月次之,星居下。地在宿內,故掩日月光,星月存而曜亡也。月在星宿之外,故掩日,日光不得照星也。”

責難する者はまたいう。白晝夜のごとき日食の發生するとき衆星は便ち隱沒す。しかるに月の形體に按ずれば地より大ならず。今太陽は地下にあり、月は地上にあり、體積のより大なる地ですら太陽を遮って月に照らさしめざること能わざるに、月體は地より小、またどうして太陽を遮って星に照らさしめざること能わんや。答えていう。曆元の開始のとき、日月は玉璧の相疊するがごとく、五星は珠子の相連なるがごとし。ゆえに「重光」と呼ぶ。所謂重光とは、太陽最上にあり、月はこれに次ぎ、星は最下に在り。地は星宿の裏面に處り、ゆえにそれが日月の光を遮蔽するとき、星月は在るといえども光芒見えず。月は星宿の外面に處り、ゆえにそれが太陽を遮るとき、日光は便ち星に照らざるなり。

梁武帝《嘗儀》云:“月體不全光,星亦自有光,非受明於日。若是日曜月所以成光,去日遠則光全,去日近則光缺。五星行度亦去日有遠近,五星安得不盈虧?當知不然。太陽之精,自有光景,但異於太陽,不得渾赫。星月及日,體質皆圓,非如圓鏡,當如丸矣。”

梁の武帝は《嘗儀》の中にいう。月の形體は通體發光するにあらず、星もまた自らその光あり、太陽の所より光明を領受するにあらず。もし月が太陽の照射に依ってその光明を成すと謂わば、則ち太陽を離るること遠きとき月光は圓滿すべく、太陽に近きとき月光は虧缺すべし。五星の運行の度數も同じく太陽を離近の不同あり、五星はどうして盈虧に隨わざらんや。これによって事はあのようにあらざるを見る。太陽の精華は自らその光影あり、ただ星月の光は太陽と同じからずして、太陽のごとく赫赫盛大なること能わざるなり。星・月と太陽の體質はみな圓なり。圓鏡のごとき扁平の圓面にあらずして、彈丸のごときに當るべし。

祖暅曰:“姜岌此言非也,星猶月,稟日之光,然後乃見。若星在日裡,則應盈魄,今既不然,故知星在日表而常明也。按星體自有光曜,非由稟日始明,今星宿有時食,月在魄中,分明質見,則是星行亦在月裡,不專在表。又姜岌承二燭為喻,理亦迂廻,非實驗也。”

祖暅はいう。姜岌のこの話は當らず。星は月と同じく、みな日光を承受して然る後に見られるなり。もし星が太陽の内側に處らば、則ち月魄のごとく明あり暗あり・時に圓時に缺あるべし。今すでにこのようにあらず。星は太陽の外側に在りて、よって常明なるを知る。ただしまた見るべし、星體は自身もともと光芒あり、日光を承受して始めて發亮するにあらず。今星宿の或いは掩食せられるや、月がまさに暗魄のあの一半に處るとき、星の形質はなほ分明に見ゆ。これによって星の運行にもまた月の内側に處るあるを見る。專ら外側に在るにあらず。さらに言えば姜岌の沿うて用いる兩支の蠟燭の比喻、道理もまた迂曲繞遠にして、實測より得たるにあらず。

晉侍中劉智《論天》曰:“凡含天地之氣而生者,人其最貴而有靈智者也。是以動作營為,皆應天地之象。古先聖王,觀靈曜,造算數,準辰極,制渾儀,原性理,考徵詳。贊其幽義,而作歷術焉。

晉の侍中劉智は《論天》の中にいう。およそ天地の氣を含受して生ずるは、人をもって最も尊貴にして靈性智慧を具うるを數う。ゆえに人の一舉一動・一切の經營作為は、いずれも天地の物象と相應せねばならず。古の先聖先王は、日月星辰の光耀を觀察し、算術を創造し、北辰を準據とし、渾儀を製作し、萬物の性理を推原し、徵驗の詳情を考核し、其中の幽深の義理を闡發し、ここにおいて曆法の學あり。

渾儀象天之圓體,以含地方,輪轉周匝,中有二端,其可見者,極星是也,謂之北極。在南者,在地下不見,故古人不名。陰陽對合為群生,父母精象在於五星,其於共成天地之功也,則日月為政,五星為緯,天以七紀,七曜是也。

渾儀は天の渾圓の體に取象し、方正の大地をその内に包含し、一周を轉動して周遍に遺漏なし。當中に二つの端點あり。見え得るあの一つはすなわち極星、北極と呼ぶ。南邊のあの一つは地下に處り見えず。ゆえに古人はそれに命名せず。陰陽は相對配合して萬類を化生し、父母の精の物象は五星に體現す。それらが共に天地の功を成就するに就いて言えば、日月は「政」、五星は「緯」なり。天は七者をもって綱紀とし、すなわちこれ七曜なり。

北極不過為眾星之君,命政指授,以斗建時。斗有七星,與曜同精,而布節氣於下者也。晦朔分於東西,消息辨於南北,取以定四方,天地配合,方氣有常,天以七紀,方修其政。故方有七宿,二十八星是也。

北極は不過衆星の君主にして、號令を發し政事を指授し、北斗の斗柄の指す所に依って時令を確定す。北斗に七つの星あり、七曜と同じく精氣の凝れる所にして、下に向かって節氣を布散す。晦朔の交替は東西兩方に分見し、陰陽消長の變化は南北兩方に辨察し、これに據って四方を確定す。天地相配し、各方の氣は各々常規あり、天は七をもって綱紀とし、四方もまた各々その政を修む。ゆえに每一方に七宿あり、合わせてすなわち二十八宿なり。

天有常度,日月成象。眾星有宮分,方物有體類,在朝十八星是也。天有常度,日月成象。眾星有宮分,方物有體類,在朝象官,在野象物,在人象事,理自然也。眾星定位,七曜錯行,盈縮有期節,故曆數立焉。

天に恒常の度數あり、日月は凝って顯著の物象を成し、衆星は各々屬する所の宮分あり、各方の物は各々形體種類あり、朝廷の上においては十八星に對應す。(この數句は底本重出す。今錄に照らす。)天に恒常の度數あり、日月は凝って顯著の物象を成し、衆星は各々屬する所の宮分あり、各方の物は各々形體種類あり。朝廷に對應して百官、原野に對應して萬物、人事に對應して各種の事情。これ自然の道理なり。衆星は各々定位あり、七曜は交錯運行し、行度の盈縮はいずれも一定の期限節次あり。ゆえに曆數の學はこれに就いて建立起る。

日,太陽也;施溫萬物生,施光則陰以明,眾所稟為倡先者也。君,尊之象也。月,太陰也。稟照於陽,虧盈隨時,有所稟受,臣卑之道也。五星象五常,托四時,成五事。

太陽は、すなわち太陽の精なり。それが溫暖を施布すれば、萬物は便ち生長す。それが光明を施布すれば、陰暗の物もまた隨って顯明となる。萬物の稟受する所にして倡導領先の位に居るをもって、ゆえに君主尊貴の象徵なり。月は、すなわち太陰の精なり。それは陽より照耀を接受し、時に隨って虧あり盈あり、凡事稟受する所有り。これまさに臣下卑順の道なり。五星は仁義禮智信の五常を象徵し、四時の中に寄托し、貌・言・視・聽・思の五事を成就す。

舊說日譬猶火也,月譬猶水也,火則施光,水則含景。故月光生於背日,當日則光盈,近日則明滅。然則月為臣象可知矣。又曰:當其衝月食者,陰性毀損,不受光也。群臣不等強,日月不等明。陰在於上,不自抑損,陽必侵之。望在交度,其應必食。故《詩》云:‘披月而食,則維期常。’道勢然也。侵甚,則既虛之象也。

舊説は太陽を火に比し、月を水に比す。火は外に光明を施放し、水は影像を含蓄す。ゆえに月光は太陽に背くあの一面に生じ、太陽に正對すれば月光圓滿し、太陽に靠近すれば明光熄滅す。このように見れば、月は臣下を象徵すること、明白なりと謂うべし。舊説はまた講じていう。まさに日月の相冲に當って月食を發生するは、あれは陰の本性が毁損を受けて、光明を接受すること能わざるなり。群臣の強弱は並び齊らず、日月の明暗も相等しからず。陰が上位に居りて自ら抑損するを知らざれば、陽は必定に來りてそれを侵犯せん。望日が恰好黃白二道の交點の度數に落つれば、相應して必定に月食を發生す。ゆえに《詩經》にいう、「月の虧食を發生する、あれはなほ尋常の事と算す」と。これ道理と形勢の然らしむるなり。侵犯すること厲しければ、便ち月全食のごとき虧盡の象と成る。

日,尊君象也。月,卑臣象也。晦朔之會,交則同道。同道則形相蔽。天道君為尊,臣由臣道,雖度相值,月不掩日,卑下尊也。不由臣道,月掩日體,卑凌尊也。是故太平之時,交而不食,尊卑道順。”

太陽は尊貴君主の象徵、月は卑下臣子の象徵なり。晦朔の交に日月相會し、もし交點に正當れば便ち一道を同行す。一道に同在すれば、形體は便ち互相遮蔽せん。天道に按ずれば君は至尊を為す。臣子もし臣道を守れば、縱令度數正相值すとも、月は太陽を掩わざるなり。あれは卑者の尊者の下に甘居するなり。もし臣道を守らざれば、月は便ち日體を掩わん。あれは卑者の尊者を凌犯するなり。ゆえに天下太平のとき、日月は相交するといえども日食を發生せず、尊卑の道は各々その順を得るなり。

或問云:“顓頊氏造渾儀,黃帝為蓋天,其遺說雲蓋天象笠,極在其中,日月遠近,以為晦明。渾儀以天裹地,地載於氣,天以廻轉,而日月出入,以為晦明。二說誰其得之?”

或る人問道していう。顓頊氏は渾儀を創制し、黃帝は蓋天を作れり。蓋天の遺留する説は講じていう、天は一頂の斗笠のごとく、極は笠の正中にあり、日月は人と遠あり近あり、よって昏晓明暗を形成すと。渾儀の説は則ち講じていう、天は地を包裹し、地は氣の上に承載され、天は旋轉して停まらず、日月は其間に出没し、よって昏晓明暗を形成すと。この二種の説法、究竟いずれか説對せるや。

劉智曰:“蓋天之論謬矣,以春秋二分,日出卯入酉,若天象車蓋,極在其中,日、月、星辰,廻還藏明,二分之時,當晝短夜長。今以漏刻數之,則晝夜分等。以日入較之,則出卯入酉,此蓋天之說不通之驗也。然此二器,皆古之所制,但傳說義者,失其用耳。

劉智答えていう。蓋天の説法は錯なり。春分・秋分のこの二日、太陽は卯位の正東より昇起し酉位の正西に落下するをもってなり。もし天が車蓋のごとく、極が正中にあり、日月星辰はただ蓋頂を繞り回旋して遠きに轉ずれば便ち光明を隱去すとせば、則ち二分の日は應に白晝短く黑夜長かるべし。今漏刻に按じて計數すれば、晝夜恰好相等し。さらに日出日落の方位をもって比較すれば、また確かに卯より出で酉に入る。これがすなわち蓋天の説の講じ通らざる驗證なり。ただし蓋天の器と渾儀のこの兩樣の物は、いずれも古人の制する所にして、ただ後來その義を傳述する者がそれが本來の用途を失掉せしのみ。

昔者,聖王治曆明時,作圓蓋,以圖列宿,極在其中。廻之以觀天象,未可正昏、明,分晝,夜;故作渾儀也。象天體,亦以極為中,而朱規為赤遊周環,去極九十一度有奇。考日所行,冬夏去極遠近不同,故復畫為黃道;夏至去極近,冬至去極遠,二分之際,交於赤道;二道有表裡,以定宿度之進退,為術乃密。

從前聖王は曆法を制定し時令を明らかにするに、先ず一個の圓蓋を做り、二十八宿をその上に畫き、極を正中に在らしめ、それを轉動して天象を觀察せり。しかるにあのようではなほ昏旦を校正し晝夜を劃分すること能わず。ゆえにまた渾儀を造れり。渾儀は天體に取象し、また極をもって中心と為し、朱色をもって赤道游環を畫き一周を環繞し、極を距ること九十一度余り。太陽の行く所の道を考察すれば、冬夏は極を距る遠近同じからず。ゆえにまた黃道を畫出せり。夏至は極を距ること近く、冬至は極を距ること遠く、二分の際に黃道は赤道と相交わる。黃赤二道に内外の別あり、もって宿度の進退を確定し、推算の術はここに始めて周密なり。

至漢順帝時,南陽張衡,考定進退。靈帝時,太山劉洪,步月遲疾。自此之後,天驗愈詳。自司馬遷、劉向、劉歆、揚雄、賈逵、張衡、蔡邕、劉洪、鄭玄,此九君者,不但精於算步,皆博索沈綜,才思弘遠,而不合論渾蓋之用。明定日行四時之道,雖或精考,雅有所得,亦或出心裁,失其本旨。人之不同,處意各異;道之難盡,效於斯矣。”

漢の順帝の時に至り、南陽の人張衡は黃道進退の度數を考定せり。靈帝の時、泰山の人劉洪は月行の遲疾を推歩せり。これ以後、天象の驗證はなほいよいよ詳密なり。司馬遷・劉向・劉歆・揚雄・賈逵・張衡・蔡邕・劉洪より鄭玄に至る、この九位の先生は、推算步驗に精なるのみならず、しかもみな博采深思・才思宏遠なり。ただ彼らの渾天・蓋天兩種の器具の用途に對する議論は一致せざるなり。太陽の四時中の運行する道路を判定するに至っては、あるいは考核精審・確かに心得ある者あり、あるいは自己の臆斷より出でて本旨を失掉せる者もあり。人は各々同じからず、用心各々異なり。道理の窮盡しがたきは、ここに於て便ち見え出づるなり。

或問曰:“古歷論月食,或雲陰損,則不受明。或雲暗虛,暗虛所在。值月則月食,值星則星亡。今子不從,何也?”劉智曰:“言暗虛者,以為當日之沖,地體之蔭,日光不至,謂之暗虛。凡光之所照,光體小於所蔽,則蔭大於本質。今日以千里之徑,而地體蔽之,則暗虛之蔭,將過半矣。星亡月毀,豈但交會之間而已哉。由此言之,陰不受明,近得之矣。”

また或る人問道していう。古代の曆家の月食を講ずるや、あるいは陰氣が損傷を受けて、よって光明を接受せずという。あるいは「暗虛」の所在という――暗虛は月に碰うれば便ち月食を發生し、星に碰うれば便ち星を隱沒せしむと。今您が後の一種の説法を採らざるは、何の故ぞ。劉智答えていう。暗虛を講ずる人は認めていう、まさに太陽の對衝處に當るは大地の投下する陰影にして、日光の到らざる所、便ちこれを暗虛と呼ぶと。およそ光の照射するや、發光體は被遮蔽の物體より小なれば、則ち影子は本體よりなお大ならん。今太陽の直徑は千里にして、而して地體はそれを挡住すれば、則ち暗虛の陰影は將に半個の天空より大ならんとし、星の隱沒・月の虧損は應に交會のときのみ發生すべからざるなり。これよりして言えば、なほ「陰は光を受けず」の説法が比較的事實に近し。

又問曰:“若如所論,必有大蔭,月在日沖,何由有明?”劉智曰:“夫陰含陽面明,不待陽光明照之也。陰陽相應,清者受光,寒者受溫,無門而通,雖遠相應。是故觸石而雲出者,水氣之通也。相向而相及,無遠不至,無隔能塞者,至清之質,承陽之光,以天之圓,面向相背,側正不同,光魄之理也。陰陽相承,彼隆此衰,是故日月有爭明,日微則晝見,若但以形光相照,無相引受之氣,則當陽隆乃陰明隆;陽衰則陰明衰。二者之異,無由生矣。”

また問うていう。您の論に照らせば、必定に甚だ大なる陰影ありて、月は太陽と相冲の位置に處り、何を憑ってなほ光あるを得んや。劉智答えていう。陰は陽に朝向する一面を含んで明を生じ、必ずしも陽光の直接それに照到するを要せず。陰陽は彼此感應す。清明のは光を接受し、寒冷のは溫を接受し、通道なくしても能く相通じ、相隔たること遠くとも能く相應ず。ゆえに山石一觸して雲氣涌出するは、あれは水氣相通ずるの故なり。彼此相向すれば便ち相及ぶことを得、再び遠くとも到り得、再び隔たるとも塞ぐべからず。月は至清の質にして、陽の光輝を承受す。天體の圓なるに由りて、月面の朝向あるいは背向・側著あるいは正著は各々同じからず。これがすなわち明と魄の形成の道理なり。陰陽は互相承接し、此れ盛んなれば彼れ衰え、ゆえに日月のあいだに爭明の現象あり。太陽光弱きとき、白晝にも能く星月を見ることを得。假使ただ形體と光の互相照射のみにして、而して互相牽引承受の氣あらざれば、則ち應に陽盛きとき陰の明もまた盛んに、陽衰るとき陰の明もまた衰うべし。今この兩者の差異は、便ち產生するに從うべからざるなり。

後魏太史令晁崇,修渾儀以觀星象。按其儀以永興四年歲次困敦創造,傳至後魏末,入齊往周,隨至於大唐。歷年久遠,儀蓋日以傾墜。太史者,歷正也。

後魏の太史令晁崇は、渾儀を修造してもって星象を觀測せり。查するにこの具の儀器は永興四年・歳次困敦(子年)のあの年に創制せられ、一直に流傳して後魏の末年に至り、後來北齊に入り、また轉じて北周に歸し、隨って大唐に傳われり。年代久遠にして、儀器の頂蓋は日々に傾斜墜損せり。所謂「太史」とは、すなわち曆法を掌管する正官なり。

自景雲三年奉敕重令修造,使銀青光祿大夫、檢校將作少監楊務廉;與銀青光禪大夫、行太史令瞿曇悉達;正議大夫、行太史令李仙宗;試太史令殷知易;荊州都督兼秘書監、兼右衛率薛玉;銀青光祿大夫、檢校秘書監吳師道;正議大夫、行秘書少監閻朝隱等,首末共營,各盡其思。至先天二年,歲次赤備若,成其銘曰:“周天三萬七千里,分寸無敗;成歲三百六十日,盈縮有期。敬之敬之,以授人時。”今史司見用測候。

景雲三年に詔を奉じて重ねて修造するより、銀青光祿大夫・檢校將作少監楊務廉、銀青光祿大夫・行太史令瞿曇悉達、正議大夫・行太史令李仙宗、試太史令殷知易、荊州都督兼祕書監・兼右衛率薛玉、銀青光祿大夫・檢校祕書監吳師道、正議大夫・行祕書少監閻朝隱などの人を派し、頭より尾に至るまで共同に經營し、各々その智思を盡くせり。先天二年・歳次赤奮若(丑年)に至り、この具の儀器を造成せり。刻する所の銘文にいう、「周天三萬七千里、分寸毫厘差あらず。一歳三百六十日を成し、盈縮自ら定期あり。恭敬なるかな恭敬、これをもって百姓に時令を頒授せん」と。今史官衙署はまさにこれを用いて候驗を觀測す。

守太子率更令何承天《論渾象體》曰:“詳尋前說,因觀渾儀,研求其意。有悟天形正圓,而水居其半。地中高處卑,水周其下。言四方者,東曰暘谷,日之所出。西日濛汜,日之所入。莊子又云:‘北溟有魚,化而為鳥,將徒於南溟。’斯亦古之遺記,四方皆水證也。

守太子率更令何承天は《論渾象體》の中にいう。仔細に前人の説法を尋繹し、また渾儀に對して觀察し、其中の道理を研求して、よって天の形體の正圓にして、而して水はその半分を占むるを領悟せり。大地は中間高く四周低く、水はその下面を環繞す。四方を講ずれば、東邊を「暘谷」と呼び、太陽の昇起する所なり。西邊を「蒙汜」と呼び、太陽の落下する所なり。《莊子》はまたいう、「北海に一條の魚あり、鳥に變化して、將に南海に遷徙せんとす」と。これもまた古代の留する所の記載にして、四方みな水なるを證明するに足る。

四方皆水,謂之四海。凡五行相生,水生於金;是故百川發源,皆自山出,由高趨下,歸注於海。日為陽精,光曜炎熾,一夜入水,所以焦竭。百川歸注,足以相補。故旱不為減,浸不為增。”

四方みな水なれば、便ちこれを「四海」と呼ぶ。五行相生の道理に按ずれば、水は金より生ず。ゆえに百川の發源は、みな山中より流出し、高處より低處に趨向し、最後に海に歸注す。太陽は陽の精華にして光焰熾烈、一夜に到れば便ち水中に沒入し、よって海水を烤りて焦干耗損せしむ。而して百川は斷えず歸注して、足りて失する所を補足す。ゆえに大旱の年にも海水の減少を見ず、久涝の年にも海水の增多を見ず。

又云:“周天三百六十五度三百四分之七十五。天常西轉一日一夜過周一度。南北二極,相去一百一十六度三百四分度之六十五強,即天徑也。黃道斜帶赤道,春分交於奎七度,秋分交於軫十五度,冬至斗十四度半強,夏至井十六度半弱。從北極抉天而南五十五度強,則居天四維之中最高處也,即天頂也。其下即地中也。”自外與王蕃大同。

何承天はまたいう。周天は三百六十五度又三百四分の七十五なり。天はつねに西に向かって旋轉し、一晝一夜に一度多く轉ず。南北二極の相距るは一百十六度又三百四分の六十五やや多く、これがすなわち天の直徑なり。黃道は斜めに赤道を束ね、春分は奎宿七度に交わり、秋分は軫宿十五度に交わり、冬至は斗宿十四度半余りにあり、夏至は井宿十六度半弱にあり。北極より天穹を穿りて南に向かって五十五度余り量れば、あそこはすなわち天球四維の中で最も高き處、すなわち天頂なり。その正下方は、すなわち大地の中心なり。このほかの説法は王蕃と大体相同じ。

徐爰《宋書》云:“元嘉十三年有詔太史令錢樂之,依舊說鑄渾天銅儀。徑六尺八分,周一丈八尺二寸六分。地在天內,立黃、赤二道、南、北二極,規佈列二十八宿、北斗、極星。五分為一度,置日、月、五星於黃道之上。置立漏刻,以水轉儀,昏明中星,與天相符。

徐爰《宋書》にいう。元嘉十三年、朝廷は詔を下して太史令錢樂之に命じ、舊説に依って渾天銅儀を鑄造せしめたり。直徑六尺八分、周長一丈八尺二寸六分。地を天の裏面に放ち、黃道・赤道の兩道と南極・北極の兩極を立て、規圈に依って二十八宿・北斗と極星を羅列す。五分の長をもって一度と為し、日月五星を黃道上に安置す。また漏刻を設置し、水力をもって儀器を帶動して旋轉せしめ、黃昏と平旦に南中天の星は、みな實際の天象と相符せり。

到十七年,又被敕作小渾天。徑二尺二寸,周六尺六寸。二分為一度,二十八宿、中外宮星備具,以白色珠及青黃三色珠為三家星。日、月、五星悉居黃道。”

元嘉十七年に至り、錢樂之はまた敕を奉じて小渾天を製作せり。直徑二尺二寸、周長六尺六寸。二分の長をもって一度と為し、二十八宿および中官・外官の星はみな齊備し、白色の珠子と青・黃など三種の顏色の珠子を用いて、分別して石申・甘德・巫咸の三家の定めたる星を代表せしめたり。日月五星は全て黃道上に安放せり。

梁奉朝請祖暅《渾天論》曰:“自古論天者多矣,而群氏紛紜,互相非毀。竊覽同異,稽之典經。仰觀辰極,傍矚四維。睹日、月之升降,察五星之見狀。校之以儀象,覆之以晷漏。則渾天之理,信而有徵。輒遺眾說附渾儀雲《考靈曜》,先儒求得天地相去十七萬八千五百里,以晷景驗之,失之於過多。既不顯求之術,而虛設其數,蓋誇誕之辭,非聖人之旨也。學者多因其說,而未之革,豈不知尋其理歟?抑未能求其數故也。

梁の奉朝請祖暅は《渾天論》の中にいう。自古以來天體を議論する人甚だ多く、各家紛紜一致せず、互相攻訐詆毀す。私は竊かに各家の異同を遍覽し、經典を用いて稽考し、頭を擡げて北辰天極を觀察し、旁ら四方を視て、日月の昇起降落を看、五星の出没の形狀を察し、儀象を用いて校驗し、晷影漏刻を用いて覆核すれば、則ち渾天の道理は確かに信じるべくして徵驗あり。そこで衆説を撇開し、專ら渾儀に就いて講ず。讖緯書《尚書考靈曜》および前代の儒者の推得る天地相距十七萬八千五百里は、日影をもって檢驗すれば、過多を失す。彼らはすでにこの數を求得る算法を明示せんと肯んぜず、また憑空にこの數字を設出せり。あれは不過夸大虛誕の辭にして、聖人の本意にあらざるなり。後來の學者は多くこの説法に沿襲して改正を加えず。豈に其中の道理を尋求するを懂得せざらんや。恐らくはあの數を求め得ざるの故ならん。

王蕃所考校之前說,不啻減半。雖非揆格所知而求之以理,誠未能遙趣其實,蓋近密乎。輒因王蕃天高數以求冬至、春分日高,及南戴日下去地中數法;令表高八尺與冬至景長一丈三尺各自乘並而開方除之為法,天高乘表高為實,實如法;得四萬二千六百五十八里有奇,即冬至日高也。以天高乘冬至景長為實,實如法;得六萬九千三百二十里有奇,即冬至南戴日下去地中數也。

王蕃の考訂する所の數目は前人の舊説より半分を減ずるに止まらず。揆度推格の完全に知曉し得る所にあらざるといえども、道理に按じて求むれば、雖にいえどもなほ遠く實情に逼近すること能わざるも、大概は總じて比較的精密に接近すると算うべし。私はここに王蕃の定めたる天高の數目に依って、冬至・春分のときの太陽の高度および太陽の正下に當る地の地中を距る里數を求めんとす。算法は、表高八尺と冬至影長一丈三尺を各々平方し、相加えたる後に平方を開きて、除數と為す。天高を用いて表高に乘じて被除數と為し、被除數は除數に照らして除せば、四萬二千六百五十八里余りを得。これすなわち冬至の太陽の高度なり。さらに天高を用いて冬至影長に乘じて被除數と作り、除數に照らして除せば、六萬九千三百二十里余りを得。これすなわち冬至のとき太陽の正下に當る地の地中を距る里數なり。

求春秋分數法,令表高及春秋分景長五尺三寸九分各自乘,並而開方除之為法;因冬至日高實而以法除之,得六萬七千五百二里有奇,即春秋分日高也。以天高乘春秋分景長實,實如法而一,得四萬五千四百七十九里有奇,即春秋分南戴日下去地中數也。南戴日下,所謂丹穴也。

春分・秋分の數目を求める算法は、表高と春秋分影長五尺三寸九分を各々平方し、相加えたる後に平方を開きて除數と為す。冬至日高を求むるときの被除數を沿用し、この除數を用いて除せば、六萬七千五百二里余りを得。これすなわち春秋分の太陽の高度なり。さらに天高を用いて春秋分影長に乘じて被除數と作り、除數に照らして一を除得れば、四萬五千四百七十九里余りを得。これすなわち春秋分のとき太陽の正下に當る地の地中を距る里數なり。所謂太陽の正下に當るの地とは、すなわち古書のいう所の「丹穴」なり。

推北極裡數法;夜於地中表南傳地遙望北辰細星之末,令與端參合,以人目去表數及表高各自乘,並而開方除之為法,天高乘表高數為實,實如法而一,即北極細星高地數也。天高乘人目去表為實,實如法;即去北辰極下之數也。北戴斗極為空桐,日去赤道表裡二十四度,遠寒近暑而中和。

北極里數を推算する算法は、夜に地中に立つる所の表の南邊に在り、地面に沿って北辰細星の末端を遠望し、視線を表端と相參合せしむ。人眼より表に至る距離と表高を各々平方し、相加えたる後に平方を開きて除數と為す。天高を用いて表高に乘じて被除數と作り、除數に照らして一を除得れば、すなわち北極細星の地を距る高度なり。さらに天高を用いて人眼より表に至る距離に乘じて被除數と作り、除數に照らして除せば、すなわち北辰極の正下方あの一點に到る距離なり。北斗・北極を正頂くあの片の地方を「空桐」と呼ぶ。太陽は赤道内外に出入すること各々二十四度、離るること遠ければ寒冷に、離るること近ければ暑熱に、居中なれば寒暑調和す。

二分之日,去天頂三十六度,日去地中,冬、夏、春、秋、晨、昏、晝、夜,皆同度也。而有寒暑者,地氣上騰,天氣下降故遠日下而寒,近日下而寒,非有遠近也。猶火居上,雖遠而炎;在旁,雖近而微。視日,在旁而大,居上而小者,仰矚為難,平視為易也。由視有夷險,非遠近之效也。今懸殊於百仞之上,或置之於百仞之前,從而觀之,則大小殊矣。先儒弗斯取驗取給,用繁翰墨,夷途頓轡,雄辭折辯,不亦迂哉。

二分の日に太陽は天頂より三十六度を距る。太陽の地中に距るは、冬・夏・春・秋を論わず、清晨・黃昏・白晝・黑夜を論わず、度數はみな一樣である。しかるに仍然として寒あり暑あるは、地氣が上騰し天氣が下降するの故なり。太陽の正下を離るること遠き處は便ち冷え、太陽の正下に近き處は便ち熱し(底本の下の一「寒」の字は「暑」と作るべし)、太陽が本身遠あり近ありにあらず。譬えば火が頭頂の上にあれば、遠しといえども炎熱を覺え、火が旁邊にあれば、近しといえども反って微弱を覺ゆ。太陽を看るに、旁邊にあって地平に靠近するとき大きく顯れ、頭頂に昇るとき小さく顯れるは、仰頭して看れば費力し平視すれば省力する、視看の難易が造り出したにして、遠近の效驗にあらざるなり。今一件の物を百仞の上に高懸し、あるいは百仞の前に擺して、走りて之を看れば、大小は便ち同じからずと顯る。前代の儒者はここより驗を取り就近して解を求めず、卻って大いに筆墨を費やし、平坦の路上で馬頭を勒し、雄辯の辭を用いて爭辯す。迂闊なること甚だしきにあらざるか。

今大寒在冬至後二氣者,寒積而未消也。大暑在夏至後二氣者,暑積而未歇也。寒暑均和乃在春秋分後二氣者,寒暑積而未平也。譬之火始下室,而未甚溫,弗事加薪,久而愈熾,既已遷之,猶有餘熱也。月行有中道,有陰道,有陽道。

今大寒は冬至以後の兩個の節氣に落つ。あれは寒は寒氣の積累して未だ消散せざるなり。大暑は夏至以後の兩個の節氣に落つ。あれは暑氣の積累して未だ歇止せざるなり。寒暑の均平調和は春分・秋分以後の兩個の節氣に落つ。あれは寒暑の積累して未だ平復せざるなり。これは譬えば火が剛く屋裏に生じて、なほ甚だ暖かならず、もし斷えず柴を添えば、時間久しければいよいよ熾熱なり。火を移去るに及んで、屋裏は仍然餘熱を留む。月の運行に中道あり、陰道あり、陽道あり。

如姜岌說《周髀》云:‘日徑千二百五十里。’蓋天乖謬,已詳前識,無足採焉。以渾象言之,失於過大矣。張衡日、月其徑,當周天七百三十六分之一,地廣二百四十二分之一。按此而論,天周分數圓周率也。廣分數圓徑率也。以八約之,得周率九十二,徑率二十九;其率傷於周多徑少,衡之疏也。

姜岌の引く所の《周髀》の「太陽の直徑は一千二百五十里」と謂うに至っては、蓋天の説の乖謬は前面すでに辨析明白にして、採信するに値せず。渾象に就いて講ずれば、この數は過大を失す。張衡は日月の直徑は應に周天の七百三十六分の一・大地の闊度の二百四十二分の一たるべしと説く。これに按じて論ずれば、周天の分數はすなわち圓周率、闊度の分數はすなわち圓徑率なり。八を用いて約簡すれば、周率九十二・徑率二十九を得。この比率の毛病は周の多すぎて徑の少なすぎるにあり、張衡の疏失なり。

衡以日月之徑居一度之半,又言八極之維徑二億三萬二千三百里。既非考定日月徑又不明其理,飾辭華說,不足窮= 者也。望日月法,立於地中,以人目屬徑寸之管而望日月,令日月大滿管孔;及定管長,以管徑乘天高,管長除之,即日月徑也。

張衡は日月の直徑は一度の半分を占むと認め、また八極四維の直徑は二億三萬二千三百里と謂う。彼はすでに日月の眞實の直徑を考定せず、また其中の道理を講じ清らかにせず、ただ華麗の辭藻を用いて文飾を加うるに、事理を窮究するに足らず(この句の底本に訛字を夾む)。日月を測望する方法は、地中に立ち、眼睛を一條の内徑一寸の管子に貼住して日月を望み、日月をちょうど管孔に充滿せしむ。然る後管長を量定し、管徑を用いて天高に乘じ、さらに管長を用いて除せば、所得はすなわち日月の直徑なり。

月,陰精也。其形圓,其質稟日之光而見。其體日光不照則謂之魄。故月望之日,日月相望,人居其間,盡觀其質,故形圓也。二絃之日,日照其側,人觀其旁,故半魄半明也。晦逆之日,月照其表,人在其裡,故形不見。舊說日月半魄半明也。晦朔之日,月照其表,人在其裡,故形不見。舊說日月行九道,斯蓋未究月行之變,而假為其說。

月は陰の精華にして形狀渾圓、その質體は日光を承受して見られんことを要す。形體上に日光の照到せざる部分を便ち「魄」と呼ぶ。ゆえに望日のあの日に日月相對し、人は兩者の中間に處り、それが光を受くる一面を完全に見到すれば、ゆえに形狀は圓なり。上下弦のあの兩日は、太陽はその側面を照らし、人は旁邊より看れば、ゆえに半魄半明を呈現す。晦朔の日は、月の光を受くる一面は外に朝って人に背き、人はその暗面の一側にあり、ゆえにその形體を見る能わず。(底本は「舊説日月半魄半明也」以下數句重出す。今錄に照らして刪らず。)舊説は日月の運行に九道ありと講ず。あれは未だかつて月行變化の實情を推究せずして假立した説法なり。

謹按:著作郎張東對三道九行曰:‘按《漢天文志》:日有三道,月有九行者,謂日、月行黃道,為得其正,或行黃道外,或行黃道內,內、外及正行,因名三道。故曰:房有四表三道。日、月經房星南門即為旱,經房星北門即為水。日有三道者,但內外差及正行之道也。

謹んで按ず。著作郎張東は「三道九行」に關する提問に回答していう。《漢書・天文志》に據れば、太陽に三道あり月に九行ありとは、日月が黃道上に行けば走行端正と算し、或いは黃道の外に行き、或いは黃道の内に行くを謂う。内・外に正行を加えれば、よって三道と呼ぶ。だから房宿に四表三道ありと説く。日月が房宿南邊の門を經過すれば便ち旱を主とし、房宿北邊の門を經過すれば便ち水を主とす。所謂太陽に三道ありとは、ただ内外の偏差に正行の道を加えたのみなり。

月有九行,謂青道二,出於黃道東;赤道二,出於黃道南;白道二,出在黃道西;黑道二,出於黃道東;赤道二,出於黃道南;白道二,出在黃道西;黑道二,出在黃道北。故鄭玄注《月令》,立春、春分,日行青道,月為之佐;立夏、夏至,日行赤道,月為之佐;立秋、秋分,日行白道,月為之佐;立冬、冬至,日行黑道,月為之佐。

月に九行ありとは、青道二條、黃道の東より出で、赤道二條、黃道の南より出で、白道二條、黃道の西より出で、黑道二條、黃道の北より出ず(底本は「黑道二、出於黃道東」以下數句重出して並びに訛字あり。今錄に照らす)。だから鄭玄の《禮記・月令》を注するにいう。立春・春分に太陽は青道を行き、月はそれが輔佐を為す。立夏・夏至に太陽は赤道を行き、月はそれが輔佐を為す。立秋・秋分に太陽は白道を行き、月はそれが輔佐を為す。立冬・冬至に太陽は黑道を行き、月はそれが輔佐を為す。

故月之九行,非為黃道外別有九道,交橫綿絡,貫於躔舍,但為日月,既為動物,不能不小有盈縮,或行黃道內外。又按:日、月以立春合宿在營室,即北方之星,色當言黑。春分合宿在奎,奎為西方之宿,色當言白。而鄭云:立春、春風,日行青道者,考以歲起於春,春在東方,東方色青,故起青號。

ゆえに月の九行は、黃道の外に別に九條の道路ありて交橫綿絡し、日月の經る所の宿次を貫穿するにあらず。ただ日月はみな運動の物にして、些微の盈縮あること能わざれば、或いは黃道の内に行き、或いは黃道の外に行くのみによるなり。また按ず。日月は立春に營室宿に會合し、營室は北方の星にして、顏色は本當に黑と説くべし。春分に奎宿に會合し、奎は西方の宿にして、顏色は本當に白と説くべし。然るに鄭玄は卻って立春・春分に太陽は青道を行くと謂う。あれは一年の春に起り、春は東方にあり、東方の色は青を為すを考慮して、ゆえに便ち青字を用いて標名と為したるなり。

南、西及北,三方準此方,故日、月共有三道,實無九行。但以因八節之差,順四時之色,曲為九名,故月行言九;直舉其實,故日道稱三;三道九行,其義一也。則夫日之三道,躔於二十八宿,月之九行,經於八節也。

南方・西方と北方のこの三方もまたこの辦法に照らして比擬す。ゆえに日月は實に三道あるのみにして、眞正の九行あるにあらず。ただ八節の推移に隨って差別あり、四時の顏色に順い、曲折して九個の名目を立出するが故に、ゆえに月行九ありと説く。直截にその實情を講ずれば、ゆえに日道は三と稱す。三道と九行は、その義理はもともと一回事なり。このように見れば、太陽の三道は二十八宿の間に行き、月の九行は則ち八個の節氣に分配せらる。

染武帝支:‘自故以來,談天者多矣,皆是不識天象,各隨意造;家執所說,人著異見,非直毫釐之差,蓋實千里之謬。戴盆而望,安能見天,譬猶宅蝸牛之角,而欲論天之廣狹;懷蚌螺之南寧,而欲測海之多少;此可謂不知量矣。

梁の武帝はいう(底本の「染武帝支」の四字は「梁武帝云」の訛なり)。自古以來、天を談ずる人甚だ多く、みな天象を認識せずして各々己意に憑って編造す。每家は自己の説法を守り、人人は別に異見を立て、これは毫厘の差のみならず、實に千里の謬なり。頭上に盆子を頂いて天を望まば、どうして天を見得んや。譬えば蝸牛角の上に住して天の廣狹を議論せんと欲し、蚌殼瓢勺のあの點の容量を懷いて海水の多少を測量せんと欲するがごとし。これは自ら量らずと謂うべし。

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