Libo

開元占經 卷一百十四

唐 · 瞿昙悉达 · 第111巻 / 119

作盤ガイド: 暦注(黄暦), 万年暦

器服の休咎・城邑宮殿の怪异を占う

器用の休徴

琅玕 白玉 白玉の赤文

《孝經援神契》曰:“神靈孳液,百寶為用,則琅玕景。”(宋均曰:事神明得理,則琅玉有光景也。)《禮稽命徵》曰:“王者得理制,則澤谷之中有白玉出。”《禮稽命徵》曰:“王者制禮作樂,改損祭器,得鬼神之助,則有白玉赤文,像其威儀之狀。”

《孝経援神契》にいう。「神霊が滋育して潤い沢すれば、種々の珍宝が皆人に用いられ、琅玕は光采を発する。」(原書小注:宋均がいう、神明に事えて道理に合えば、琅玕の美玉に光影がある。)《礼稽命徴》(漢代の礼緯の一つ)にいう。「王者が治国の法度を得れば、山沢・溪谷の中に白玉を出す。」《礼稽命徴》がまたいう。「王者が礼楽を制定し、祭器を改易増損して、鬼神の助佑を得れば、赤色の文様を帯びた白玉が現れ、その文様は彼の威儀の形に髣髴とする。」

玉英 玉斝 玉典

《瑞應圖》曰:“王者五常並循,則玉英見。”又云:“王者服飾不侈,則出。”又:“自正飾服,不瑜祭服,乃出。”《孝經援神契》曰:“玉英石華,王者尊卑不失其服,則見。”又曰:“神靈孳液,則有玉英。”(宋均曰:玉有英華也。)《瑞應圖》曰:“玉斝者,師曠時來至,雜紫綬。”又云:“王者慈仁,則玉典見。”

《瑞應圖》にいう。「王者が仁・義・礼・智・信の五常を併せ遵えば、玉英が現れる。」またいう。「王者の服飾が奢侈でなければ、それが現れる。」またいう。「自ら衣飾を端正にし、祭服の規格を僭越しなければ、それこそが現れる。」《孝経援神契》にいう。「玉英と石華という二つの瑞物は、王者が尊卑上下それぞれその服制を失わなければ現れる。」またいう。「神霊が滋育して潤い沢せば、玉英がある。」(原書小注:宋均がいう、玉に光華があるという意である。)《瑞應圖》にいう。「玉斝という瑞器は、師旷の時代に来たり、上にはなお紫色の綬帯を雑えて飾っていた。」またいう。「王者が仁慈であれば、玉典が現れる。」

玉璜

《尚書大傳》曰:“周文至磻溪,見呂尚釣魚,文王拜,尚云:‘望釣得玉璜,剜曰:姬受命,佐撿德,合於令,昌來提。”(鄭玄云:釣得魚,魚中得玉璜也。佐撿,猶助;提者,取也。半璧曰璜。)《瑞應圖》曰:“王者循五常,則出。”

《尚書大傳》にいう。「周の文王が磻渓に来て、呂尚が釣りをしているのを見て、文王は彼に礼を行った。呂尚が言った。『我が呂望は玉璜一つを釣り得て、その上に刻まれていた、「姫氏が天命を受け、彼の徳業を輔佐する者があり、天令に合い、昌(文王の名は昌)が来て取り用いる」と。』」(原書小注:鄭玄がいう、魚を釣り得て、魚の腹の中から玉璜を得たのである。佐捡とは輔助の意、提とは取ることである。半分の玉璧を璜という。)《瑞應圖》にいう。「王者が五常に遵えば、玉璜が現れる。」

玉璧 玉瓮

《瑞應圖》曰:“王者賢良美德,則白玉出。”《中興徵祥說》曰:“王者不隱其過,則玉壁見。愍帝建武元年,江寧民虞迪墾地得白玉麒麟璽一枚,文曰:長壽萬年。安帝義熙十二年,左沖兵陳陽於淮水中得玉璽一枚。”《瑞應圖》曰:“玉甕者,聖人應也。不汲自盈,王者飲食不流離下賤,則出。”

《瑞應圖》にいう。「王者が賢良で美德があれば、白玉が現れる。」《中興征祥説》にいう。「王者が自らの過失を隠諱しなければ、玉璧が現れる。晋の愍帝の建武元年、江寧の百姓の虞迪が土地を墾くとき白玉の麒麟印玺一枚を得て、印文は『長寿万年』であった。安帝の義熙十二年、左衝の兵士の陳陽が淮水の中で玉玺一枚を得た。」《瑞應圖》にいう。「玉瓮は聖人が世に応ずる瑞物である。汲まずして自ずから満ち盈ち、王者の飲食が下賤の所に流散しなければ、それが現れる。」《中興征祥説》はもっぱら東晋一朝の符瑞を記すので、通行の説の後に、また愍帝・安帝の両朝で玉玺を得た実例を挙げたのである。

玄珪

《尚書璇璣鈐》曰:“玄珪則出,刻曰延喜。”(禹功既成,天配以玄珪也。)《瑞應圖》曰:“王者勤苦,以憂天下,厚人薄己,卑宮室而盡力乎溝洫,則玄珪出。禹時天以賜禹。”又云:“四海會同,則玄珪出。”

《尚書璇璣鈐》(漢代の尚書緯の一つ)にいう。「玄珪が現れ、その上に『延喜』の二字が刻まれる。」(原書小注:大禹の治水の功業が既に告成したので、天はこれに配して玄珪を賜った。)《瑞應圖》にいう。「王者が勤労刻苦し、天下人のために憂え、人を厚くして自らを薄くし、簡陋な宮室に住んで全力を尽くして溝渠を疏浚すれば、玄珪が現れる。大禹のとき、まさに天がこれを禹に賜ったのである。」またいう。「四海の諸侯が一同に来朝すれば、玄珪が現れる。」

金車 金勝 銀瓮

《瑞應圖》云:“王孝至孝,仁德廣施,則金車出。舜時見於帝廷。”《孝經援神契》曰:“金勝者,象人所鏤勝而金色,四夷來即出。”《瑞應圖》曰:“世無盜賊凶人,則金勝出。”又曰:“浸潤不行,奸盜靜謐,綈繡不用,則見。”《晉中興徵祥說》曰:“金勝者,仁寶也。不斷自成,光若水月,四夷賓服,則出。穆帝永和元年,陽穀民得金勝一枚,長五寸,狀如織勝,後桓溫平蜀路,此四方來服之應也。”《瑞應圖》曰:“王者宴不及醉,則銀甕出。”

《瑞應圖》にいう。「君王の孝行が極まり、仁徳が広く施行されれば、金車が現れる。虞舜のとき、それはかつて帝王の庭に現れた。」《孝経援神契》にいう。「いわゆる金勝とは、形が人の鏤刻した花勝に似て金色を呈し、四方の夷族が来り帰附するときにそれが現れる。」《瑞應圖》にいう。「世間に盗賊・凶徒がなければ、金勝が現れる。」またいう。「讒言の浸潤が行き通らず、奸邪・盗窃の事が平息し、細綾の繍衣が濫用されなくなれば、それが現れる。」《晋中興征祥説》にいう。「金勝は仁徳の宝である。裁断を経ずして自ずから形を成し、光沢は水中の月のごとく、四方の夷族が賓服すれば、それが現れる。晋の穆帝の永和元年、陽谷の百姓が金勝一枚を得、長さ五寸で、形は織機の花勝に似ていた。後に桓温が蜀への道を平定したが、これこそ四方が来服した応験である。」《瑞應圖》にいう。「王者が宴飲して沉醉に至らなければ、銀瓮が現れる。」

明珠 明月珠 珠英 珠鏡 地珠

《禮記威儀》曰:“君棄金而王,其政象平,則海出明珠。”《援神契》曰:“王者德至淵泉,則海出明珠。”(珠可照間也)《瑞應圖》曰:“明月珠者,介鱗之物,魚鹽之稅,通乎什一,則海出明珠,以給王者。”《禮記威儀》曰:“君棄土而王,其政太平,遠方神獻其珠英。”(有神聖,故以其地所生來獻。

《礼記威儀》にいう。「君主が金徳を承けて王となり、その政事が平正得体であれば、海の中に明珠を出す。」《援神契》にいう。「王者の徳沢が深淵源泉に達すれば、海の中に明珠を出す。」(原書小注:明珠は暗きを照らし得る。)《瑞應圖》にいう。「いわゆる明月珠は、甲介・鱗類が産する物である。魚塩に徴す賦税が十に一つを取る常法に通行すれば、海の中に明珠を出して王者の用に供する。」《礼記威儀》にいう。「君主が土徳を承けて王となり、その政事が太平であれば、遠方の神が珠英を進献す。」(原書小注:かの所に神聖の物あるが故に、その地の出産する物を持ちて来りて進献す……)

舜時西王母獻益地圖、玉琯者是也。)《援神契》曰:“神靈孳液,百寶為用,則珠鏡見。”(事神明得理,則火珠有光耀,可為鏡。)《瑞應圖》曰:“王者以才為寶,則地珠出。”

(前段の原書小注の末句を承ける)指す所はすなわち虞舜が位にあるとき西王母が来りて益地図と玉琯を進献したという類の事である。漢代の緯書《孝経援神契》がいう:神霊の潤沢の気が不断に滋生蕃衍すれば、天下の百物の宝は皆人に用いられ、そこで「珠鏡」という祥瑞が現れる。原書小注の解釈では:神明に奉事することが皆正理に合えば、火珠が光耀を発し、取りて鏡として照らすことができるという。《瑞應圖》はもっぱら歴代の祥瑞を記し、それがいう:君王が人才を真の宝とし、金玉を宝としなければ、地下に「地珠」が生ずる。

大貝

《禮記威儀》曰:“君棄金而王,其政蕩平,則海出大貝。”《援神契》曰:“德至淵泉,則江出大貝。”《運斗樞》云:“先德則江吐大貝。”《瑞應圖》云:“王者不貪財寶,則海出大貝,大可盈車。”又曰:“王者不匱,則出。”

礼緯《礼記威儀》にいう:君王が黄金への貪求を抛ちて徳をもって王と為れば、政事は寛平坦蕩となり、大海は「大貝」を送り出す。漢代の緯書《孝経援神契》にいう:君王の徳沢が深く淵泉の下に達すれば、長江は大貝を湧き出す。漢代の緯書《春秋運斗枢》にいう:凡事徳行を前頭に置けば、長江は大貝を吐き出す。《瑞應圖》にいう:君王が財宝を貪らなければ、大海は大貝を送り出し、大きいこと一輌の車に満つるほどである。《瑞應圖》がまたいう:君王が施与に吝かでなく国用が匱乏しなければ、大貝が現れる。上古は貝をもって貨幣とし、大貝が海より出で人に貪られないとは、まさに「君、聚斂せず」の応験である。

瑠璃碧

《援神契》云:“王者行政,神明得理,則琉璃碧見。”《瑞應圖》曰:“王者不多取妻妾,則碧琉璃見。”

《孝経援神契》にいう:君王が政令を施行し、神明に事えて皆正理に合えば、「瑠璃碧」が現れる。《瑞應圖》にいう:君王が妻妾を広く納れず、女色に沉溺しなければ、碧瑠璃が現れる。瑠璃碧とは青碧色の宝玉で、古人は遠国の産する珍異の物と見なし、緯書はこれを用いて君主の内政清明・後宮有節に応験させたのである。

蘇胡鈎

《援神契》曰:“王者要誓信,則蘇胡鉤出。”《瑞應圖》曰:“王者棄玩好之物,則蘇胡成其鉤而出。”

《孝経援神契》にいう:君王が人と盟約・誓詞を結んで皆信を守り渝らなければ、「蘇胡鈎」という宝器が現れる。《瑞應圖》にいう:君王が玩賞取楽のための奇巧の物を抛棄すれば、蘇胡は自ずから鈎形に結ばれて現れる。蘇胡鈎は緯書に載せられた一種の瑞物で、鈎連相合・信約不解の義を取るので、用いて君王の誠信の徳に応験させるのである。

珊瑚鈎

《瑞應圖》曰:“王者敬信,則珊瑚鉤見。”

《瑞應圖》にいう:君王が身を持して恭敬、人に接して誠信であれば、「珊瑚鈎」が現れる。珊瑚は海底に生え、古人は極めて得難い宝物と認めた。もしまた天然に鈎形を結ぶならば、さらに異瑞に属する。それゆえこれを持ちて君主の敬慎守信という徳目に対応させたのである。

神鼎

《瑞應圖》曰:“神鼎者,質文之精也。知凶知吉,知存知亡,能重能輕,能不炊而沸,不汲而滿,中五味。黃帝作三鼎,象三辰;大禹治水,收天下美銅,以為九鼎,象九州也。王者興則出,衰則去。”

《瑞應圖》にいう:神鼎とは質朴と文采という二つの気数が凝り成した精華である。それは能く凶を知り、能く吉を知り、国の存と亡を予知する。能く自ら重くなり、能く自ら軽くなる。火を生ぜずして自ら沸騰し、水を汲まずして自ら盛り満ち、鼎の中に自ずから五つの滋味を調和させる。黄帝は三つの鼎を鋳造し、もって日・月・星の三辰を象徴させた。大禹は治水の功を成し、天下の精銅を収めて九つの鼎を鋳成し、もって九州を象徴させた。王朝が興盛すれば神鼎は現れ、王朝が衰敗すれば神鼎は隠れ去る。

《說苑》曰:“漢孝武帝時,汾陰得寶鼎而獻甘泉宮,群臣上壽賀,皆曰得周鼎,侍中吾丘壽王曰:‘周德始於后稷,長於公劉,大於太王,成於武王,顯於周公,德澤上暢於天,下漏於泉,上天報應,鼎為周出。今漢自高祖以繼周,昭德顯行,六合和同,至陛下而愈盛,天照有德而寶鼎自至,所以遺漢,此漢鼎,非周鼎也。’上曰:‘善。’群臣皆稱萬歲,賜壽王黃金十斤。”

劉向《説苑》に記す:漢武帝のとき、汾陰の地で宝鼎一つを得て、甘泉宮に進献し、群臣が杯を挙げて寿を祝い賀して、皆これは周朝の九鼎を得たのだと言った。侍中の吾丘寿王だけが言った。「周朝の徳業は后稷に発端し、公劉に滋長し、太王に壮大し、武王に成就し、周公に光顕し、徳沢は上は天に通じ、下は泉壤に滲み、天がこれに報いたので、宝鼎は周朝のために出たのです。今、漢朝は高祖より周徳を接続し、徳業・政教を昭明に著わし、天下六合は和睦して一統し、陛下の手に至ってますます興盛しています。天は有德の君を照鑑し、宝鼎は自ら来たのです。これは天が漢朝に賜ったもので、ゆえにこれは漢の鼎であり、周の鼎ではありません。」武帝が言った。「よく言った。」群臣は皆万歳を呼び、武帝は吾丘寿王に黄金十斤を賞賜した。

《晉中興徵祥說》云:“王德盛則神鼎見。神鼎者,仁器也。不炊而沸,不汲而滿,煙熅之氣,自然而生,世亂則藏於深山,文明則應運而至,故禹鑄寶鼎以擬之。成帝咸康八年,陽穀民劉珪夜見光,取,得鼎一枚,外圍四寸,此文明之應也。”

東晋の祥瑞を記す《晋中興征祥説》にいう:君王の徳業が隆盛であれば、神鼎が現れる。神鼎は仁徳の器である:火を生ぜずして自ら沸き、水を汲まずして自ら満ち、氤氳の霧気が自ずから生ずる。世が昏乱すれば、それは深山に藏匿し、政治が清明で文采あれば、運に応じて来る。ゆえに大禹は宝鼎を鋳造してそれに比擬したのである。晋の成帝の咸康八年、陽谷県の百姓の劉珪が夜に光を望み見て、往きて拾い取り、鼎一只を得、外囲四寸。これこそ政教文明の応験である。

丹甑

《援神契》曰:“丹甑者,不炊而自熱,五穀豐穰則見。”《瑞應圖》云:“王者棄淫汙之物,則丹甑出。”又曰:“化行年豐,即出。”

《孝経援神契》にいう:いわゆる「丹甑」とは、火を焚かずして自ら熱する赤色の蒸器で、五穀が豊収して倉に満つる年にそれが現れる。《瑞應圖》にいう:君王が淫邪汚穢の物を摒弃すれば、丹甑が現れる。《瑞應圖》がまたいう:教化が通行し年成が豊稔であれば、それが現れる。甑はもともと飯を蒸す炊具であり、炊がずして自ら熱するのは、まさに「食、民に足る」の祥兆を取るのである。

瓶瓮

《瑞應圖》云:“瓶甕,不汲自滿,王者清廉則出。”又曰:“接於末賤則出。”

《瑞應圖》にいう:祥瑞としての瓶瓮は、汲みに行かずして自ら盛り満ち、君王が清廉で貪らなければ、それが現れる。《瑞應圖》がまたいう:君王が尊を屈して地位の卑微低賤な人と結び交われば、それが現れる。瓶瓮はもともと日常の水を盛る器であり、自ら満ちて竭きないのは、まさに「上は聚斂せず、下は匱乏せず」の義を取るのである。

白裘

《瑞應圖》曰:“王者以身率先人,惡衣服而致美乎黻冕,則獻白裘。禹時,渠搜民乘白馬來獻。”(《禹貢》渠搜,山名,西夷衣皮,見禹功成,皆來服也。)又云:“王者政本五行,教民種植,以事其先,則獻白裘。”又云:“王者德茂,不恥惡衣,則四夷來獻白裘。黃帝時,南夷乘白鹿來獻白裘。”

《瑞應圖》にいう:君王が自らをもって表率となり衆人の先頭を行き、平日は粗悪な衣服を着て、華美は尽く祭祀の黻衣・冕服に用いれば(《論語》がまさにこの句をもって大禹を称美した)、遠方より白裘を進献す。大禹のとき、渠捜の民が白馬に騎りて来りて進献した。原書小注:《尚書・禹貢》にいう渠捜は山の名で、西方の夷人は獣皮の衣服を着ており、大禹の治水功成を見て、皆来りて帰服したのである。《瑞應圖》がまたいう:君王が施政に五行を根本とし、百姓を教えて時令に依りて種植させ、収成をもって祖先に奉事すれば、遠人は白裘を進献す。またいう:君王が徳業茂盛にして、身に粗衣を着ることを以て恥とせずれば、四方の夷族は来りて白裘を進献す。黄帝のとき、南方の夷人は白鹿に騎りて来りて白裘を進献した。

器服の咎徴

鐘が自ら移る 鐘が自ら鳴る 鐘が鳴らない

《天鏡》曰:“鍾自鳴、移處,君不安,不出年。”《春秋潛潭巴》曰:“天子鍾自鳴,下土動兵。”《兵書》曰:“鍾無音,士卒怒,欲攻戰。”

占候書《天鏡》にいう:鐘が故なく自ら鳴り響き、自ら位置を移すのは、君王の地位が安穩ならざるを主り、応験は一年を出ず。漢代の緯書《春秋潜潭巴》にいう:天子の鐘が自ら鳴れば、下方の州国はまさに兵を興さんとす。《兵書》にいう:鐘を敲いて声出さざるは、士卒の心中に憤懣あり、急ぎて出でて戦い攻めんと欲することを主る。

鼓が自ら鳴る 鼓が鳴らない

《潛潭巴》曰:“庫兵動,鼓自鳴。”《天鏡》曰:“鼓忽夜鳴,有敵人來。”《兵書》曰:“金鼓無故自鳴軍中,當罷且有功名。”《兵書》曰:“金鼓無故忽無音響者,邑且降。”《漢書五行志》云:“李陵擊匈奴,夜擊鼓起士,不鳴。陵曰:‘吾士氣少衰而鼓不起,何耶?軍中是有女子乎?’搜軍中,得卒妻,皆斬之。”

《春秋潜潭巴》にいう:武庫の中の兵器に動の象あれば、鼓は自ら鳴り響く。《天鏡》にいう:鼓が忽然として夜に響くは、敵が来り犯すを主る。《兵書》にいう:軍中の金鉦・戦鼓が故なく自ら鳴り響くは、戦事がまさに罷み休み、かつ功名あるを主る。《兵書》がまたいう:金鉦・戦鼓が故なく忽然として声響を発せざるは、この城邑がまさに降せんとするを主る。《漢書・五行志》に記す:李陵が匈奴を進撃したとき、夜に鼓を撃ちて士卒を召集したが、鼓は擂れども響かなかった。李陵がいう:「我が軍の士気がやや衰え、鼓すら起こせぬとは、これは何の故か。軍中にまさか女子が蔵れているのではないか。」こうして軍中を捜索し、軍に随う士卒の妻子を見出し、ことごとく処斬した。

角が自ら鳴る 角が鳴らない 巾箱の中に鼓角の声あり

《天鏡》曰:“國君角自鳴,有伐者。”《天鏡》曰:“角吹而不鳴,不宜征伐。”《異苑》曰:“晉孝武大元末,每聞巾箱中有鼓吹鼙角之聲。”又曰:“護軍府軍鎧甲錚錚有聲,遭王敦之變。”

《天鏡》にいう:国君の号角が自ら鳴るは、人来りて討伐するを主る。《天鏡》がまたいう:号角を吹いても声を発せざるは、兵を出して征伐するに適わず。劉敬叔《異苑》に記す:晋の孝武帝の太元末年、常に巾箱の中に鼓吹と鼙鼓・号角の声が伝わり出るのを聞いた。又いう:護軍府の中の軍用鎧甲が錚錚と響き、後に王敦の叛乱の変に遭った。

刀剣が自ら抜け自ら鳴る

京房曰:“君刀劍無故自拔,與其室相去,君且殺。”《地鏡》曰:“刀劍無故自拔出,及光有聲者,憂兵傷,若有血汗。”京房云:“君刀劍無故自鳴,他人無聞者,而君獨聞之,妻妾且殺其君。”《兵書》曰:“將軍劍無故自鳴,他人不聞,己獨聞之,此名婦為人殺之象。”

京房がいう:君主の刀剣が故なく自ら鞘を出て、剣鞘を脱離するは、君主がまさに殺害されんとするを主る。占候書《地鏡》にいう:刀剣が故なく自ら抜き出て、しかも光を放ち声あるは、憂慮・兵禍・傷損を主り、あるいは剣上に血のごとき汗漬が滲み出る。京房がいう:君主の刀剣が故なく自ら鳴り響き、旁人は皆聞こえず、唯だ君主のみ聞こえるは、妻妾がまさに君主を謀殺せんとするを主る。《兵書》にいう:将軍の佩剣が故なく自ら鳴り響き、别人は聞こえずして自ら独り聞こえるは、これを「婦のために人に殺さる」の象と謂い、まさに婦人の手に死せんとするである。

豹尾を忘る

《晉中興書》曰:“海西公初即位,忘設豹尾。聖人所以豹變也,而海西豹變之日,非所忘之時。天戒若曰,怠其豹尾,亦不能終也。”

《晋中興書》に記す:海西公(晋の廃帝・司馬奕)が即位したばかりのとき、豹尾を陳設するのを忘れた。豹尾とは天子の鹵簿儀仗の末尾の旗飾である。《周易・革卦》にいう「君子豹変」――聖人はまさにこの焕然たる更新をもって大業を成就するのであり、海西公が「豹変」して改元し、まさに気象を更新すべき日に、豹尾を忘れてよい時であるはずがなかった。天が警を示すはあたかもいうがごとく:自らの豹尾さえ懈怠して遺漏するなら、この位もまた最後まで坐ることはできまいと。後に彼は果たして桓温に廃黜された。

車が奔る

《天鏡》曰:“國君車奔,不出三年,有喪事。”

《天鏡》にいう:国君の乗ずる車駕が故なく驚奔して失控するは、応験三年を出ず、国中に喪事あり。車駕は君主の威儀の寄托する所であり、車奔とはすなわち御者がすでに駕馭し得ないことで、正に上の位ある者がその国を自持し得ないことに対応する。

鼎が淪む

《墨子》曰:“桀無道,九鼎淪。”

《墨子》にいう:夏の桀が荒淫無道のとき、九州を象徴する九鼎は沈没して見えなくなった。鼎は国を伝える重器であり、鼎が一たび沈淪すれば、国祚がまさに他人の手に移らんとすることを意味する。

鼎が震う

《洪範五行傳》曰:“周烈王二十三年,鼎震,金失也。金震,木動之也。鼎者,宗廟之器。鼎震,木沴金失之象。”

漢代に灾異を講じた《洪範五行傳》にいう:周の烈王二十三年、鼎に震動が発生し、これは五行のうちの「金」が常性を失ったのである。金が震動する所以は、木気に激盪されたからである。鼎は宗廟の礼器で、五行に金に属す。鼎の震うは、すなわち木気が金気を侵害して金にその本性を失わせた徴象である。

冶鉄が飛ぶ

《漢書五行志》曰:“武帝徵和二年春,涿郡鐵官銷鐵皆飛去。其三月,涿郡太守劉屈氂為丞相。後月,巫蠱事忽興,帝女陽石公主與太僕公孫敬聲下獄死。掘蠱太子宮,太子與母皇后議,恐不能自明,乃殺江充,舉兵與丞相屈氂戰,死者數萬人,太子敗走,至湖自殺。明年,屈氂復坐祝詛,腰斬,妻梟首。

《漢書・五行志》に記す:漢武帝の征和二年の春、涿郡の鉄官が熔練した鉄がことごとく飛散して去った。その年三月、涿郡太守の劉屈氂が丞相に升任した。一箇月を過ぎて、巫蠱の禍が忽然と興り、武帝の娘・陽石公主と太仆の公孫敬声が獄に下され処死された。人ある者が太子の宮中に巫蠱の木偶を掘り出し、太子は母の衛皇后と議し、ただ自ら清白を明らかにし得ぬを恐れ、こうして江充を殺し、起兵して丞相劉屈氂と交戦し、死者数万人。太子は兵敗して出逃し、湖県に至り自殺した。第二年、劉屈氂はまた祝詛の罪を以て腰斬され、妻子は梟首して衆に示された。

成帝河平二年正月,沛郡鐵官鑄鐵不下,隆如雷聲,又如鼓音,工十三人驚走,竟還視地,地陷數尺,爐分十二,爐中銷鐵散如流星。時王鳳為大司馬大將軍秉政,丞相王商與鳳有隙,鳳譖之,免官自殺。”

漢の成帝の河平二年正月、沛郡の鉄官が鉄を鋳るとき鉄水が下りて来ず、隆隆として雷のごとき声を発し、また鼓音のごとくもあり、十三名の工匠が驚駭して奔逃した。振り返って地面を見ると、地はすでに数尺陥れ込み、熔炉は十二塊に裂け、炉中の熔化した鉄は四散飛濺して流星のごとくであった。当時王鳳が大司馬大将軍の身分をもって朝政を執掌し、丞相の王商と王鳳には嫌隙があり、王鳳が讒言を進めて彼を中傷し、王商は免官の後自殺した。

竈と釜が鳴る

《地鏡》曰:“宮中灶及釜甑鳴響者,不出一年,有大喪。”郭璞《洞林》曰:“卷令施安上家,釜九鳴,旬月之中,尋有九喪。”

《地鏡》にいう:宮中の竈および鉄釜・瓦甑が声響を発するは、応験一年を出ず、大喪あり。郭璞《洞林》に記す:卷県の県令・施安上の家で、鉄釜が連続して九度鳴り、一箇月の内に、続けざまに九場の喪事が発生した。

臼の中に水が出る

《京房易傳妖占》曰:“臼水出,大臣咎。”《地鏡》曰:“水忽出臼中,臣為咎,且將大水。”《帝王世紀》曰:“初力牧之後曰摯,其母曰始朵,居伊水之濱,夢神告己曰:‘臼出水而遠走,無顧。’及明,視臼中有水,即告鄰而走,東十里乃顧,其地盡為水矣。”

《京房易傳妖占》にいう:臼の中に水が湧き出るは、大臣に咎殃あるを主る。《地鏡》にいう:水が忽然として臼の裏より冒き出るは、臣下が禍に遭うを主り、しかも大水の灾あらんとす。皇甫謐《帝王世紀》に記す:初め力牧の後代を摯という、その母の名を始朵という、伊水の岸に住み、夢に神明が己に告げていう:「臼の裏に水出れば遠く逃れ去れ、回頭して顧みるな。」天明に至るを待ち、臼の中を見れば果して水あり、すなわち隣里に告げ、足を拔きて走り、東へ十里を出でて始めて回顧すれば、その地はすでにことごとく一片の汪洋と化していた。

《伏侯古今注》曰:“成帝建始二年,太原祁安縣民石臼中水出如流,狀稍益,至滿臼,民夜謠曰:‘水大出,走上城。’後三年,女子陳持弓聞謠言,大水至,走入掖門,至省中,官吏大驚,上城。”

伏无忌《古今注》に記す:漢の成帝の建始二年、太原郡祁安県の百姓の家の石臼の中に水が冒き出ること泉流のごとく、水勢は漸々増大し、石臼に灌ぎ満つるに至った。百姓が夜に謡諺を唱うていう:「大水が湧き出るぞ、速く城墻の上へ逃げろ。」三年の後、女子の陳持弓という者が謡言を聴信し、大水が至ったといい、一路掖門に奔り込み、直ちに禁省の中に闖入し、官吏は大いに驚駭し、紛紛として城墻に登った。

秤と斗が小さく改められる

《天鏡》曰:“人君改小秤、衡、斗、桶,是謂裂德,五穀不入倉,民流亡,大飢。”

《天鏡》にいう:君主が秤・衡・斗・桶という度量衡器を一律に小さく改め、もって百姓より多く取らんとするは、これを「裂徳」と謂い、即ち自らの徳行を割裂し損壊するものである。其の結果は五穀が倉に収まらず、百姓は流亡して所を失い、大飢饉を釀成する。

飲食が自ら亡く

《京房傳》曰:“君飲食無故自亡,君且失位,凶。”

《京房傳》にいう:君主の飲食が故なく自ら消失して見えなくなるは、君主がまさに君位を失わんとするを主り、凶兆である。飲食は養生立命の根本であり、故なく亡するは、立国の凭借とする所が人に奪われたことを象徴する。

床が自ら動く 床が自ら亡く 帳幕が自ら動く

《京房傳》曰:“君床無故自動,君且移居。”《兵書》曰:“將軍坐床無故自動,臣下欲殺之。”又曰:“君床無故自亡去,君且去。”《兵書》曰:“將軍帳幕無故自動,人散走,各歸其鄉。”

《京房傳》にいう:君主の床が故なく自ら晃動するは、君主がまさに居処を遷移せんとするを主る。《兵書》にいう:将軍の坐床が故なく自ら晃動するは、臣下が彼を謀殺せんと欲することを主る。《京房傳》がまたいう:君主の床が故なく自ら消失して去るは、君主がまさに此の地を離れんとするを主る。《兵書》にいう:将軍の帳幕が故なく自ら擺動するは、人馬が潰散奔逃し、各々郷里に回帰することを主る。

羽扇

《晉中興書》曰:“舊為羽扇柄者,剜木以象骨,用十毛,取全數也。中興初,王敦始改用長柄,使下出可提,減其羽,用八。識者以為柄使可執用,是敦執國柄之象也;毛減用八者,是羽翮損少之應也。”

《晋中興書》に記す:旧時、羽扇を作る扇柄は、木を剜削して獣骨の模様と為し、羽毛を十根用い、十を満数と取る義であった。東晋の中興の初め、王敦が始めて長柄に改用し、柄の下端を伸出させて手提と為し得るようにし、また羽毛を減少して、唯だ八根を用いた。有識之士はこれを認めていう:柄を改めて手執し得る様と為すは、正に王敦が国柄を手執して朝政を專擅する象徴である。羽毛を八根に減ずるは、則ち羽翼が折損減少する応験である。

幓頭

《晉中興徵祥說》曰:“太元中,人不復著幓頭,亦服妖也,象人君獨立無親戚也。”《天鏡》曰:“人君及民,無故違國制,服上古之服,是謂悖德,君臣有反政。”又曰:“好作大衣,下臣悅。”又曰:“無故小其衣服,不出三年,邊有急兵,若外國來降服,後大凶。”又曰:“好小衣,臣自用。”

《晋中興征祥説》にいう:太元年間、人々は「幓頭」という束髪の頭巾を戴かなくなった。これも「服妖」に属し、君主が孤立無援で親族の依頼すべきがないことを象徴する。《天鏡》にいう:君主と百姓が故なく国の服制に違背し、上古様式の衣服に改穿するは、これを「悖徳」と謂い、君臣の間に政令反覆の乱象あるを主る。《天鏡》がまたいう:寛大な衣裳を作ることを好むは、下面の臣子が歓悦して帰心するを主る。又いう:故なく衣服を小さく改めるは、応験三年を出ず、辺境に緊急の兵事あり、あるいは外国が来り降服し、此の後大凶あり。又いう:小さな衣服を穿ることを好むは、臣下が自ら主張を作して專擅に行事するを主る。

又曰:“人君好為短小之衣,兵革,不出六年,邊城有相犯,君弱臣強。”又曰:“好著黃者,太平;好著白,兵;好著青,年中熟。”京氏云:“民人皆好素服者,民多喪,期三年。眾人好學諸侯之服,而高其衣服,不出五年,失民。”

《天鏡》がまたいう:君主が短小の衣服を穿ることを好むは、兵革の禍を起こすを主り、六年を出ず、辺城の間に相互侵犯し、君弱臣強の局面を形成す。又いう:世人が黄色を穿ることを好むは、天下太平を主る。白色を穿ることを好むは、兵事あるを主る。青色を穿ることを好むは、年成の中等の収熟を主る。京房がいう:百姓が皆素白の衣服を穿るを愛するは、民間に喪事多きを主り、期限三年。衆人が競い合い諸侯の服制を仿效し、自らの衣着を僭越の地步に抬高するは、五年を出ず、君主はまさに民心を失わんとす。

假髻

《左傳》曰:“鄭子臧好聚鷸冠,(張晏曰:鷸鳥,赤足黃文,以其毛飾冠。韋昭曰:鷸禽,翠鳥也。)鄭文公惡之,使賊殺之。劉向以為近服妖者也。一曰:非獨為子臧之身,亦文公戒也。初,文公不禮晉文,又犯周天子命而伐滑,不尊敬上,其後晉文伐鄭,幾亡國。”

《左傳》に記す:鄭国の子臧は鷸冠を搜集することを好んだ。原書小注:張晏がいう、鷸とは紅脚黄紋の鳥で、人はその羽毛を取りて冠を装飾す。韋昭がいう、鷸という禽鳥は即ち翠鳥である。鄭文公は彼のそうすることを厭悪し、刺客を派して彼を殺した。劉向はこれを「服妖」に近いと認めた。別の一説:この事は子臧一人に応じたのみならず、また鄭文公への警戒でもある。初め文公は晋の文公に無礼を為し、また周天子の命令に違抗して滑国を攻め、上の位ある者を尊敬せず、後に晋文公が兵を発して鄭を伐ち、鄭国はほぼ亡国となった。本条の標目は「假髻」と題するが、引く所は実に鷸冠の事で、同じく首服僭異の服妖の一類に属する。

冠が墜つ

《漢書五行志》曰:“昭帝時,昌邑王賀遣中大夫之長安,多治仄注冠(應劭曰:今法冠是也。李奇曰:一雲高山冠,本齊冠也,謁者服之也。)賜大臣,後又以冠奴。劉向以為近服妖也,時王賀狂悖,聞天子不豫,弋獵馳騁如故,與騶奴、宰人遊居娛戲,驕慢不敬。冠者,尊服;奴者,賤人。賀無故好作非常之冠,暴尊象也,以冠奴者,當自至尊墜至賤也。”

《漢書・五行志》に記す:漢の昭帝のとき、昌邑王の劉賀は中大夫を長安に派し、大量に「仄注冠」を制作させた。原書小注:應劭がいう、仄注冠とは今の法冠である。李奇がいう、別の一説に高山冠と呼び、もとは斉国の冠制で、謁者の戴く所である。劉賀はこれらの冠を大臣に賞賜し、後にまた取りて奴僕に戴らせた。劉向はこれを「服妖」に近いと認めた。当時劉賀は狂妄悖乱で、天子の病重を聞くも、照舊射獵して馬を馳せ、馬を養う奴僕・膳を掌る厨人と厮混して玩乐し、驕慢にして恭ならず。冠は尊貴なる者の服飾、奴は卑賤の人。劉賀が故なく常制に合わぬ冠を作るを愛するは、これは尊貴の物を糟蹋する象徴である。冠を取りて奴僕に戴らしむるは、則ち彼自らが至尊の位より至賤の地に跌落せんことを預示す。

冠衣が改変す

《續漢書》曰:“靈帝光和四年,作列肆於宮,綵女為商販,更盜竊帝著尚服,飲食宴觀以為樂,又於西園與狗著進賢冠,帶綬,又駕四驢車,帝躬自操轡馳騁。此服妖也,後天下亂。”《搜神記》曰:“晉中興,著幘者以帶縛項,下逼上,上無地也。”

司馬彪《續漢書》に記す:漢の霊帝の光和四年、宮中に成排の店舗を開設し、宮女に商販の扮装をさせ、彼此偷窃して楽しみと為した。霊帝も自ら商賈の服色に換え、その中に飲食宴飲・観看して楽しみと為した。彼はまた西園に狗に進賢冠を戴らせ、印綬を繋ぎ、還って四頭の驢の牽く車を駕し、自ら繮繩を握りて馳騁した。これ即ち服妖であり、後に天下大乱した。干宝《搜神記》にいう:東晋の中興の後、頭巾を戴く人は帯をもって脖子に捆縛し、これは下が上を逼迫し、上が容身する所なき象徴である。

《續漢書五行志》曰:“獻帝建安中,男子之衣好為長身而下甚短,女子好為長裙而上甚短,時益州從事黃嗣以為服妖,是陽無下而陰無上,天下未欲平也,後遂大亂。”《搜神記》曰:“吳景帝以後,衣服之制,長上短下,又積領五六而裳居二一,故歸命放情於上,百姓惻於下之象也。晉興後,服上儉下豐,又為長裳以張之,蓋上衰弱,下放縱也。”

《續漢書・五行志》に記す:漢の献帝の建安年間、男子の衣服は上身が甚だ長く下擺が極めて短く流行し、女子は長裙が流行して上衣が極めて短かった。当時益州の従事・黄嗣はこれを服妖と認めた:陽に属する男子には下部なく、陰に属する女子には上部なしとは、天下がまだ太平しようとせぬを説明し、後に果して大乱した。《搜神記》にいう:孫呉の景帝以降、衣服の形制は上長下短に変わり、衣領は層層として五六重に畳ねて下裳は三分之一しか占めず、それゆえ帰命侯・孫皓が上に在りて恣意に放縦し、百姓が下に在りて憂傷悲苦する徴象があった。晋朝が興起して以降、服式はまた上身儉窄・下身寛绰に変わり、還って長裳を作りてこれを撐げ開かしめ、これは上在りて衰弱し、下在りて放縦する象徴である。

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