Libo

日方暈連環暈

唐 · 瞿昙悉达 · 第9巻 / 119

作盤ガイド: 暦注(黄暦), 万年暦

高宗《日傍氣圖》曰:“日方暈,而上下聚二背,將敗,民散。”又曰:“日暈方,如井干,天下不知。”《荊州占》曰:“日暈,連如環,為兩軍兵起,君爭地。”高宗《日傍氣圖》曰:“日暈,環而聚,君死。”四邊亞出也。

殷の高宗に托名する《日傍氣圖》にいう。日暈が方形を呈して、上下にまた兩道の「背」氣を聚るは、將帥の敗亡を主とし、百姓は離散せん。またいう。日暈が方正なること井上の木欄のごときは、天下の人は茫然として措く所を知らず。《荊州占》にいう。日暈が一環は一環に連なるは、兩軍の兵を興し國君が土地を爭奪して戰うを主とす。《日傍氣圖》はまたいう。日暈が環と成りて聚合して散ぜざるは、國君の死亡なり。所謂方暈とは、すなわち暈の四邊が各々外に向かって稜角を壓出して成るなり。

日暈而珥

京氏曰:“日暈而珥,宮中多事,後宮分爭,七日不雨,番察中。”甘氏曰:“日暈而珥,主有謀;軍在外,外軍有侮。”《荊州占》曰:“日暈而珥,天下有立侯王。”《荊州占》曰:“日暈而珥於暈上,將軍易。”甘氏曰:“日暈而珥如井干者,國亡以亂,有大兵反。”又曰:“日暈而珥合在軍中;一珥一國;二珥二國;三珥三國;同攻是國也。”甘氏曰:“日暈而珥聚在傍,貴人有罷者。”《太公兵法》曰:“日暈而珥,主有謀;十日不雨,兵起。”

京房はいう。日暈して「珥」氣を帶ぶるは、宮中に事多く、后宮は黨を分かちて相爭い、七天雨を下さざるは、輪番に詳細に察看すべし。甘德はいう。日暈して「珥」を帶ぶるは、君上に陰謀あるを主とす。もし軍隊の外に在れば、外面の軍隊は輕侮に遭わん。《荊州占》にいう。日暈して「珥」を帶ぶるは、天下に侯王の冊立せらるるあらん。同書はまたいう。「珥」が日暈の上に出現するは、將帥の將に更換せんを主とす。甘德はいう。日暈して「珥」の形は井欄のごときは、國家は內亂に因って亡び、大軍の反叛あらん。またいう。日暈して「珥」氣が軍中に合聚するは、一道の「珥」は一國に應じ、兩道は兩國に應じ、三道は三國に應じ、この幾國の合力して同じく一國を攻むるなり。甘德はまたいう。日暈して「珥」が一側に聚るは、貴人の罷黜せらるるあるを主とす。《太公兵法》にいう。日暈して「珥」を帶ぶるは、君上に陰謀あるを主とす。十天雨を下さざれば、兵事は興起せん。

石氏曰:“日暈而珥合,國有謀反。”《日暈圖》曰:“日暈左珥者,王候有喜;人君有私,事在後宮。”《洛書》曰:“兩敵相當,日暈兩珥,平等俱起而色同,軍無相奈何,色厚潤者賀喜。”又曰:“日暈兩珥,君有喜;一曰眾在外,有大事。”石氏曰:“春暈有四珥,人主更令。”日暈而負夏氏曰:“日負,負者青赤,如半暈狀,以著暈上,則為負。負者,位也;得地為喜。”京氏曰:“日暈,重有四負,殃大國亂;若三日大雨,不占。”《孝經內記圖》曰:“日暈,負且戴,國有喜。戰從戴所擊者,勝;得地。”

石申はいう。日暈して兩「珥」が相合するは、國中に謀反の人あらん。《日暈圖》にいう。日暈して左邊に「珥」あるは、王侯に喜慶あらん。同時に君主に私情ありて、事は后宮に出づ。《洛書》にいう。兩敵の相持するに、日暈の兩旁に各々一「珥」ありて、高低は相等しく一同に升起して顏色相同なれば、兩軍は誰も誰を奈何し能わず。「珥」の色が濃厚潤澤なるは、則ち慶賀喜事を主とす。またいう。日暈に兩「珥」あるは、君主に喜あらん。別の一説は兵衆が外に在りて將に大事あらんとす。石申はいう。春天の日暈に四道の「珥」を帶ぶるは、君主の將に政令を更改せんを主とす。以下は「日暈而負」の一目に入る。夏氏はいう。所謂「負」とは、青赤色にして形は半個の日暈のごとき氣にして、暈の上方に附着するを便ち「負」と呼ぶ。「負」は「位」の義を取り、地を得て喜と爲すを主とす。京房はいう。日暈が重疊して四道の「負」氣あるは、災殃深重にして大國は動亂す。もし三天の内に大雨を下せば、便ち占るを要せず。《孝經內記圖》にいう。日暈してまた「負」あり「戴」あるは、國中に喜あらん。作戰のとき「戴」氣の指す方向に順って攻擊するの一方は獲勝し、併せて土地を奪取し得。

日暈而冠戴珥抱背璚直提虹蜺雲氣

《孝經內記》曰:“日暈且冠戴,又有反照於日上;有戴赤青,長四五尺,左右上下有氣,各一丈許,不出九十日,有立侯王,不出百日,有大赦;糴貴十倍,大豆尤甚。”石氏曰:“日暈,且冠且戴,天下有立侯王;若自立者,分必益土。”石氏曰:“日暈且冠,王者有拜謁;若立諸侯,德令四方,天下大赦。”《孝經內記圖》曰:“日暈,有克,兩珥;有纓貫珥中,下交日下;天下有名之臣死,不出三十日有赦。”

《孝經內記》にいう。日暈してまた「冠」あり「戴」ありて、なほ反光ありて太陽の上方に映照す。「戴」氣は赤中に青を帶び、長さ四五尺にして、左右上下に別に氣ありて各々長さ一丈上下なり。九十天を出でずして侯王の冊立せらるるあり、一百天を出でずして大赦あらん。米價は十倍に漲到し、大豆は漲ること尤其厲害なり。石申はいう。日暈してまた「冠」ありてまた「戴」あるは、天下に侯王の冊立せらるるあらん。もし自立して王と爲すのなれば、その分野は必定に土地を增廣せん。石申はまたいう。日暈して「冠」氣あるは、君王は將に朝覲拜謁の事あらん。もし諸侯を冊立せば、則ち德政號令は四方に通行して天下は大赦せん。《孝經內記圖》にいう。日暈に「克」氣と兩道の「珥」を帶び、また「纓」氣ありて「珥」の中を貫穿して下に向かって日下に交結するは、天下に著名の大臣の死去あり、三十天を出でずして赦令あらん。

《太公兵法》曰:“日暈,冠,三珥;天子有喜,或為大赦,功拜大將軍。”高宗曰:“日暈、冠、珥、紐,人主有喜慶,且有所立,不出年中。京氏曰:“日暈,戴、抱、珥,其色皆赤內青外,清明即國家有吉、賀、喜。”《洛書》曰:“日暈且戴,而暈兩有氣皆如珥形,中赤外青,是謂琪璧;一名霧成,色皆黃白潤澤,有獻璧玉寶瑤器者,天子有喜。所以然者,日,天子象也。璧玉者,陰之榮也。黃白潤澤,故言天子有喜。”

《太公兵法》にいう。日暈に「冠」氣と三道の「珥」を帶ぶるは、天子に喜慶あり、あるいは大赦を頒下し、あるいは功を論じて大將軍を拜任せん。殷の高宗に托名する説は、日暈して併せて「冠」「珥」「紐」を見るは、君主に喜慶あり、併せて何人かを冊立せんとし、應期はこの年を出でず。京房はいう。日暈に「戴」「抱」「珥」を帶びて、顏色はみな內赤外青にして、氣象は淸朗明淨なれば、國家に便ち吉慶賀喜の事あらん。《洛書》にいう。日暈して「戴」氣ありて、暈の両側にまた各々氣ありて「珥」の形狀を作して、內赤外青なるを、これを「琪璧」と呼び、一名を「霧成」という。顏色がみな黃白にして潤澤なるは、將に璧玉珍寶瑤器を進獻する人あらんとし、天子に喜あらん。これを斷ずる所以は、太陽は天子の象徴にして、璧玉は陰類の中の最も華美の物にして、黃白潤澤はまた吉色なり。ゆえに天子に喜ありと説く。

夏氏曰:“日暈而珥,外有一抱;所圍城者,在外,外人勝。”《孝經內記》曰:“日暈,暈中有珥一抱,所謂圍城者在中,中人勝。”高宗《日傍氣圖》曰:“日暈、珥、兩抱,天子且在慶,一抱喜。至氣黃白赤,皆吉也。”《荊州占》曰:“日暈而珥,背左右,如大車輪,兵起,其國亡城,兵滿野,而城復歸。”京氏曰:“日暈有四珥,各四背、璚,期六十日,君臣有異謀者;有急事閉關,不行使,天下更命;三日雨,不占。四背,白氣干之,其端青赤,是妃與臣下共弒其君。”

夏氏はいう。日暈して「珥」を帶びて、暈の外に別に一道の「抱」氣あるに、まさに城を圍むの際に當りて、利を得るは城外に在りて、攻方は獲勝す。《孝經內記》にいう。日暈して暈の中に「珥」と一道の「抱」氣あるに、まさに城を圍むの際に當りて、利を得るは城內に在りて、守方は獲勝す。殷の高宗に托名する《日傍氣圖》にいう。日暈に「珥」と兩道の「抱」を帶ぶるは、天子は將に慶典あらん。ただ一道の「抱」のみもまた喜事を主とす。氣色の黃・白・赤の三色に到るは、みな吉利に屬す。《荊州占》にいう。日暈して「珥」を帶びて、左右にまた「背」氣ありて形は大きな車輪のごときは、兵事興起を主とし、あの一分野の國家は城池を丟失し、兵馬は郊野に遍布し、その後に城池はまた原來の主に歸還せん。京房はいう。日暈に四道の「珥」を帶びて、各々四道の「背」氣と「璚」氣を配するは、應期は六十天にして、君臣の各々異心を心懷くを主とす。國中に急事ありて關隘を關閉し使節を通ぜず、天下は政令を改易せん。もし三天の内に雨を下せば、便ち占るを要せず。四道の「背」氣もし白氣に干犯せられて、白氣の兩端は青赤色を呈するは、これは妃嬪と臣下の合謀して君主を弑殺するなり。

夏氏曰:“有軍日暈,有一抱,抱為順,貫暈中;在日西,西軍大勝,東軍大敗,中赤外青。若在日東,東軍大勝,西軍大敗,南北亦然。”石氏曰:“日暈有抱,抱為順,在日月之傍,王者有喜,子孫吉昌,政令行。”《洛書》曰:“凡占兩軍相當,必謹審日月之暈氣,知其所起、止、遠、近,應與不應,遲、疾、大、小、厚、薄、長、短、抱、背為多少,有、無、實、虛、久、亟、密、疏、澤、枯、相應,日等無相,奈何?

夏氏はいう。軍隊が外に在るときに日暈を出現して、また一道の「抱」氣ありて暈の中を貫穿す——「抱」は順氣に屬す——もし「抱」が太陽の西邊に在れば、則ち西路軍は大勝し東路軍は大敗す。その氣は內赤外青なり。もし太陽の東邊に在れば、則ち東路軍は大勝し西路軍は大敗す。南北方向の推法もまた一樣なり。石申はいう。日暈して「抱」氣あるに、「抱」は順氣に屬して日月の旁邊に出現するは、君王に喜慶あり、子孫は吉利昌盛にして、政令は通行して阻ずるなし。《洛書》にいう。およそ兩軍對峙の勝負を占斷するに、必ず仔細に日月の暈氣を審察すべし。それがどの處より生起しどの處に至って止歇するか、日を離るること遠きか近きか、軍情と相應するや相應せざるや、成形すること慢きか快きか、形體は大なるか小なるか、氣層は厚きか薄きか、氣身は長きか短きか、「抱」と「背」とは各々多少ありや、有るや無きや、實なるや虛なるや、持續すること久しきか急促なるか、氣質は密なるか疎なるか、色澤は潤なるか枯なるか、両邊は彼此對應するや否やを弄清すべし。もし雙方が處處相等しくして優劣を分かつ能わざれば、あれはまたどのように判斷すべきか。

故曰:近勝遠,疾勝遲,大勝小,厚勝薄,長勝短,抱勝背,多勝少,有勝無,實勝虛,久勝亟,密勝疏,澤勝枯,重抱大勝無抱也。抱為和親,抱多親者益多;背為不和,分離相去,背於中者離於中,背於外者離於外也。凡分離相去之相,親疏赤中外青,以和相去:青中外赤,以惡相去。”《太公兵法》曰:“日暈抱、珥,喜氣;日暈黃者,主人有喜。”《太公陰秘》曰:“日一暈、一抱、一背為不和信者,更逆不信者,順。”

上の《洛書》の文に承く。ゆえに説く。氣の近きは氣の遠きに勝ち、成形の快きは成形の慢きに勝ち、形體の大なるは小なるに勝ち、氣層の厚きは薄きに勝ち、氣身の長きは短きに勝ち、「抱」あるは「背」あるに勝ち、數量の多きは少なきに勝ち、氣あるは氣なきに勝ち、氣實なるは氣虛なるに勝ち、持久するは短促に勝ち、稠密のは稀疏に勝ち、潤澤のは枯槁に勝つ。而して重「抱」あるは、更に全く「抱」氣なきの一方に大勝す。「抱」は和睦親附を主とし、「抱」氣は愈々多ければ親附する者は愈々多し。「背」は不和を主として、雙方は分離して去り、「背」が暈の內に在れば內部より離散し、「背」が暈の外に在れば外部より離散す。およそこの種の分離散去の象は、なほ氣色を看て以て親疎を別つべし。內赤外青なるは、好く聚り好く散ずるなり。內青外赤なるは、惡を交えて去るなり。《太公兵法》にいう。日暈に「抱」を帶び「珥」を帶ぶるは、喜慶の氣なり。日暈が黃色を呈するは、守る方に喜あらん。《太公陰祕》にいう。一重の日暈・一道の「抱」・一道の「背」あるは、彼此の不和不信を主とす。情勢が翻轉過來すれば、原本悖逆不信の一方は反って轉じて歸順と爲る。

夏氏曰:“《日暈圖》云:‘暈有重抱,後有偕戰,順抱者勝,得地。’”高宗曰:“日暈兩抱,天子有喜,天下和平,色赤黃白皆吉,有和親。”高宗《日傍氣圖》曰:“日暈四抱,天子有喜,將相治,端皆向主者,來和親。”甘氏曰:“日暈抱、珥,上將軍易。”京氏曰:“日暈,背氣有暈中,此為不和,分離相去,其色青外中赤,忠臣受命,主有所之兩軍相當;中人軍欲降叛於外也。”董仲舒曰:“日暈兩背,君臣俱危,主失凶。”

夏氏は《日暈圖》を引いていう。日暈に重「抱」氣を帶ぶるは、此の後將に兩軍の會戰あらんとし、「抱」氣の方向に順って進擊するの一方は獲勝し、土地を奪得すべし。殷の高宗に托名する説は、日暈に兩道の「抱」氣を帶ぶるは、天子に喜慶あり、天下は和平なり。氣色の赤・黃・白はみな吉に屬して、和親の事あるを主とす。高宗《日傍氣圖》にいう。日暈に四道の「抱」氣を帶ぶるは、天子に喜慶あり、將相は各々その治を得。諸氣の兩端がみな君位に朝向するは、四方の前來和親するなり。甘德はいう。日暈に「抱」を帶び「珥」を帶ぶるは、上將軍の將に更換せんを主とす。京房はいう。日暈の中に「背」氣あるは、これは不和の象にして、雙方の分離して去るを主とす。氣色の外青內赤なるは、忠臣の命を受けて出使し君上に別に往かんとする所あるなり。もし兩軍對壘せば、則ち城中の軍隊の出でて降り城外に叛歸せんと欲するなり。董仲舒はいう。日暈に兩道の「背」氣を帶ぶるは、君と臣とみな處境危殆にして、君主に位を失うの凶あらん。

《太公陰秘》曰:“日暈有背,大臣有叛者;或曰:左右欲有走。”石氏曰:“日暈而背,兵起,其分失城。”石氏曰:“日暈有背,背為逆,有降叛,有反城。在日東,東有叛;在日西,西有叛;南北亦如之。”高宗《日傍氣圖》曰:“日暈一背,臣弒主。”(按《中興書》曰:“隆安元年十二月壬辰,日暈有背、璚,是後帝不親萬幾會稽世子元顯專、行威,罰義,熙六年五月丙子,日暈有背、璚,是時盧循逼京都,戰於郊也。)

《太公陰祕》にいう。日暈に「背」氣を帶ぶるは、大臣の中に叛變する人あらん。別の一説は君主の左右の近臣の出走せんとするなり。石申はいう。日暈して「背」氣を帶ぶるは、兵事興起し、あの一分野は城池を丟失せん。石申はまたいう。日暈に「背」を帶ぶるに、「背」は逆氣に屬して、人の投降叛變するあるを主とし、城池の倒戈して主を易うるあらん。「背」が太陽の東邊に在れば、東方に叛あり。太陽の西邊に在れば、西方に叛あり。南北方向はこの類に依って推すべし。殷の高宗に托名する《日傍氣圖》にいう。日暈に一道の「背」氣を帶ぶるは、臣下の君主を弑殺するを主とす。原書小注:《中興書》に記載す。晉の安帝隆安元年十二月壬辰日、日暈は「背」氣と「璚」氣を帶び、此の後安帝は萬機を親理せず、會稽世子司馬元顯は大權を獨攬して威罰を擅行せり。義熙六年五月丙子日、また日暈の「背」「璚」を帶ぶるを見、當時盧循は京城に進逼し、雙方は近郊に於て交戰せり。

石氏曰:“有軍日暈,有一背,背為逆,在日西,東軍大勝,西軍大敗。若在日東,西軍大戰,東軍敗。南北亦然。”《孝經內記圖》曰:“日暈,上下有兩背,無兵兵起,有兵兵入。”魏氏曰:“日暈,四背在暈內,名曰不和,有內亂,離於中。”夏氏《日暈圖》曰:“日暈,暈中有兩背,兩璚,又半暈臨日,反臣起,中不成。”《孝經內記圖》曰:“日暈,外四背,璚,所謂離於外者,外臣有離去者。”《孝經內記》曰:“日暈,中有四背,璚,其背端盡出暈者,反役內起。”

石申はいう。軍隊が外に在るときに日暈を出現して、また一道の「背」氣あり——「背」は逆氣に屬す——「背」が太陽の西邊に在れば、則ち東路軍は大勝し西路軍は大敗す。もし太陽の東邊に在れば、則ち西路軍は力戰して東路軍は敗る。南北方向の推法もまた一樣なり。《孝經內記圖》にいう。日暈の上下に各々一道の「背」氣あるは、本來兵事なきは兵を起こし、すでに兵事あるは敵兵は境內に攻入せん。魏氏はいう。日暈に四道の「背」氣を帶びてみな暈の內に在るを、名づけて「不和」といい、內部の動亂・人心の內部より離散するを主とす。夏氏《日暈圖》にいう。日暈の中に兩道の「背」氣・兩道の「璚」氣ありて、また半個の暈ありて日體に逼臨するは、叛臣の事を起こすを主とするも、然るに事は中途に在って成功し能わず。《孝經內記圖》にいう。日暈の外に四道の「背」氣と「璚」氣あるは、これは便ち所謂「離于外」にして、外任の臣の背離して出走するあるを主とす。《孝經內記》にいう。日暈の中に四道の「背」氣と「璚」氣ありて、而して「背」の兩端は全て暈の外に伸出するは、叛亂の內部より發動するを主とす。

京氏曰:“日暈而背四,如大車者,四提沒其國,眾在外,有反臣。”高宗《日傍氣圖》曰:“日暈一背,麗陣貫之,大臣欲犯其主。”《孝經內記圖》曰:“日暈有= ,裂地立王。”石氏曰:“日暈,中有璚氣,璚為不順,與背同;人臣不忠而外其心,君臣乖離,其國兵起,若有逃臣。”京氏曰:“日暈,直氣貫暈中,白其色,將失;順其氣攻,破軍。”高宗曰:“日暈清明,一傍直,有立侯王。其色青外,赤內,潤澤者,上所立也。”

京房はいう。日暈に四道の「背」氣を帶びて形は大車のごときは、「四提」の象はあの國家をして淪亡せしめん。もし兵衆の外に在れば、則ち軍中に反叛の臣あらん。殷の高宗に托名する《日傍氣圖》にいう。日暈に一道の「背」氣を帶びて、また氣ありて軍陣のごとく排列して其間を貫穿するは、大臣の君上を冒犯せんと欲するを主とす。《孝經內記圖》にいう。日暈にある種の氣を帶ぶる(ここ底本は一個の殘缺符號と作り、氣名はすでに脫落す)は、土地を分裂して別に君王を立てるを主とす。石申はいう。日暈の中に「璚」氣あるに、「璚」は不順の氣に屬して「背」氣と同類なり。臣下の不忠にして心は外に向かい、君臣は乖違背離し、あの一分野の國家は兵事を興起し、あるいは臣子の出逃あらん。京房はいう。日暈の中に「直」氣ありて貫穿し、氣色の白を發するは、將帥の失利を主とす。この道の氣の方向に順って進攻せば、敵軍を擊破すべし。殷の高宗に托名する説は、日暈が淸朗明淨にして一側に「直」氣あるは、將に侯王の冊立せらるるあらん。氣色の外青內赤にして潤澤なるは、君上の冊立する所の人なり。

石氏曰:“日暈有直,氣在兩傍,其國有自立者,若立諸候,一曰:王者封賞左右。”《魏氏圖》曰:“日暈有二直,欲自立者,明者立;若黑,不明者死。”《魏氏圖》曰:“日暈,有一直一背,欲自立;二直、二背,欲自立;有三直、三背,欲自立;有四直、四背,皆欲自立也。赤中青外,不成。”夏氏曰:“日暈,有直、珥,為破軍,貫日中,為殺將。”高宗《日傍氣圖》曰:“日暈,兩直一背,有反臣。”石氏曰:“日暈四提,必有大將出亡者。”

石申はいう。日暈に「直」氣を帶びて、氣は日の兩側に分列するは、あの一分野の國家に自立する人あり、あるいは諸侯を冊立す。別の一説は君王の將に左右の近臣を封賞せんとするなり。《魏氏圖》にいう。日暈に兩道の「直」氣を帶ぶるは、自立せんと欲する人あるなり。氣の明亮なるは、その人は立つことを得。氣の黑を發して明亮ならざるは、その人は身を死す。《魏氏圖》はまたいう。日暈に一道の「直」・一道の「背」を帶ぶるは、自立せんと欲する人あり。兩「直」兩「背」も、また自立せんと欲するなり。三「直」三「背」も、なほ自立せんと欲するなり。四「直」四「背」は、則ち四方はみな自立せんと欲す。もし氣が內赤外青なれば、則ち自立の事は辦成せず。夏氏はいう。日暈に「直」氣と「珥」氣を帶ぶるは、敵軍を擊破するを主とす。「直」氣が日體を貫穿するは、敵將を斬殺するを主とす。殷の高宗に托名する《日傍氣圖》にいう。日暈に兩道の「直」・一道の「背」を帶ぶるは、反叛の臣あるを主とす。石申はいう。日暈に四道の「提」氣を帶ぶるは、必定に大將の外に出逃するあらん。

京氏曰:“日暈而且冠三重,日下有虹,行正,長數丈,不出其年,有反者;貴人絕,後有兵飢。(按司馬彪《續漢書》曰:光武建武七年四月丙寅日,而日有暈,虹貫暈,在皆八度,畢邊兵,秋隗囂反,侵安定。)《荊州占》曰:“日暈而珥,赤虹貫直其國分者,受其害。”石氏曰:“日暈有抱、背、珥、直,而有虹貫之者,順虹擊之,大勝,得地。”玄冥曰:“日月暈、背,彗孛虹蜺在箕,兵起後宮。玄冥曰:“日月暈,虹蜺彗孛在尾,兵起於宮,將交走,期百八十日。”

京房はいう。日暈の上にまた三重の「冠」氣ありて、日下に虹あり、虹身は端正にして長さ數丈に達するは、この年を出でずして便ち反叛する人あらん。貴人は嗣を絶ち、その後に兵禍と饑荒あらん。原書小注:司馬彪《續漢書》に記載す。漢の光武帝建武七年四月丙寅日、太陽は暈を生じ、虹は暈體を貫穿し、兩者はみな畢宿の八度の上に在り。畢宿は邊地の兵事を主とし、當年の秋に隗囂は反叛して安定郡を侵擾せり。《荊州占》にいう。日暈して「珥」を帶びて、また赤虹ありて筆直に貫穿するは、虹の對應する所の分野の國家は將に禍害に遭受せん。石申はいう。日暈に「抱」「背」「珥」「直」の諸氣を帶びて、また虹ありて其間を貫穿するは、虹の指す方向に順って攻擊せば、大勝を獲得して土地を奪取し得。玄冥はいう。日月が暈を生じて「背」氣を帶びて、而して彗星・孛星と虹・蜺が箕宿に出現す——箕宿は燕地の分野なり——兵禍の后宮より起るを主とす。玄冥はまたいう。日月が暈を生じ、虹・蜺・彗・孛が尾宿に出現す——尾宿もまた燕分に屬す——兵禍の宮廷より起るを主とし、將帥は交鋒したる後に奔逃し、應期は一百八十天なり。

石氏曰:“日月無精光,青赤暈,蜺、背、璚在心度中,是謂大湯,兵喪並起,王者以赦降外。”京氏曰:“凡日出虹暈,主分地;日入虹暈,諸侯分地;黑者,以兵分地;白者,以喪分地也。”《荊州占》曰:“日暈而白虹奸,而屬域之東,東斥地;域之南,南斥地;域之西,西斥地;域之北,北斥地;西方皆紆,自四方斥地;是謂人主驕溢,期不出五年。”夏氏曰:“日暈,二白虹貫暈,有客戰勝。”《孝經內記》曰:“日暈,有虹貫暈中,順虹擊者勝,殺將。”

石申はいう。日月が精光を失い、ただ青赤色の暈を見、而して蜺・「背」・「璚」の諸氣が心宿の度數の內に出現す——心宿は天王明堂の位・宋地の分なり——これを「大湯」と呼び、兵禍と喪事の一同に發生するを主とし、君王は赦令を頒布するに靠りて境外の敵を招降せんと要す。京房はいう。およそ日出のときに虹暈を出現するは、君王本人の土地を割讓するを主とす。日落のときに虹暈を出現するは、則ち諸侯の土地を割讓するなり。虹暈の色黑きは、兵戰に因って地を分かち、色白きは、喪事に因って地を分かつ。《荊州占》にいう。日暈して白虹の干犯ありて、白虹がある一區域の東邊に連屬すれば、便ち東に向かって地を割り、南邊に在れば、便ち南に向かって地を割り、西邊に在れば、便ち西に向かって地を割り、北邊に在れば、便ち北に向かって地を割る。もし各方とも盤曲纏繞すれば、便ち四面より同時に地を割くなり。これは君主の驕橫盈滿の招來する所にして、應期は五年を出でず。夏氏はいう。日暈して兩道の白虹ありて暈體を貫穿するは、客方(進攻の一方)の作戰獲勝す。《孝經內記》にいう。日暈して虹ありて暈中を貫穿するは、虹の指す方向に順って攻擊するの一方は獲勝し、併せて敵將を斬殺し得。

甘氏曰:“日暈而珥,有雲穿之者,天下名士死。”高宗《日傍氣圖》曰:“日暈兩珥,而下有黃雲,人主有喜,期百二十日,遠年中。”甘氏曰:“日暈而兩珥在外,有聚雲在中與外,不出三日,城圍,出戰。”《春秋感精符》曰:“日一暈兩珥,有立雲貫日,出國多妖孽。”《洛書摘亡闢》曰:“日暈而兩珥,立雲貫之,國有大疾。”《春秋緯》曰:“日暈有兩珥,黃雲貫之,不出三月,貴人有死者。”

甘德はいう。日暈して「珥」を帶びて、また雲ありて其間を穿過するは、天下の有名の士人の將に死せんとするなり。殷の高宗に托名する《日傍氣圖》にいう。日暈に兩道の「珥」を帶びて、下方にまた黃雲あるは、君主に喜慶あり、近ければ應期一百二十天、遠ければ年內に應ず。甘德はいう。日暈して兩道の「珥」がみな暈の外に在りて、また雲團ありて暈の內と暈の外に聚集するは、三天を出でずして城池は圍まれ、城を出でて戰に迎うを須す。《春秋感精符》にいう。一重の日暈に兩道の「珥」を帶びて、また直立の雲ありて日體を貫穿するは、國中に妖異災孽を生ずること多きを主とす。《洛書摘亡辟》にいう。日暈して兩道の「珥」を帶びて、直立の雲が其間を貫穿するは、國中に大疫あらん。《春秋緯》にいう。日暈に兩道の「珥」を帶びて、黃雲が其間を貫穿するは、三個月を出でずして、貴人の中に死亡あらん。

《黃帝兵法》曰:“日月暈,仰視之,須臾忽有雲氣從傍入者,急隨雲以攻之,大勝。”《太公陰秘》曰:“日暈,有五色雲,如杵貫日,從外入,外人歸勝,從內出,內人勝。欲知姓字,白者商,赤者徵,青者角,黑者羽,黃者宮。”《太公陰秘》曰:“日暈,有眾雲在左右,色黃白,吉;青白,兵行;黑白,內亂;青赤,和解;青黑,流血;俱明者,未解兵不歸,明者勝。”甘氏曰:“日暈,有聚雲不去者,兵起。”甘氏曰:“日暈,有聚雲外入,不出三日,國城圍。”

《黃帝兵法》にいう。日月が暈を生ずるとき頭を擡げて觀望し、片刻の間に忽然として雲氣ありて旁より侵入するは、應に立即に雲の來る方向に順って攻擊を發起すべく、大勝を獲得すべし。《太公陰祕》にいう。日暈して五色の雲ありて木杵のごとく太陽を貫穿し、雲が外より內に向かって侵入するは、外來の一方は勝利を得、內より外に向かって衝出するは、內裏の一方は勝利を得。どの人の姓氏に應ずるかを推知せんと欲せば、便ち五音を五色に配して定むべし。白色は商音に屬し、赤色は徵音に屬し、青色は角音に屬し、黑色は羽音に屬し、黃色は宮音に屬す。《太公陰祕》はまたいう。日暈して左右に成片の雲ありて、色黃白のは吉にして、青白は兵を興し出行するを主とし、黑白は內亂を主とし、青赤は講和を主とし、青黑は流血を主とす。兩方の氣がみな明亮なるは、兵事は解けず軍隊は回還し能わざるにして、其中の更に明亮の一方は獲勝す。甘德はいう。日暈して聚雲ありて停住して散ぜざるは、兵事興起を主とす。甘德はまたいう。日暈して聚雲ありて外面より侵入するは、三天を出でずして、國都の城池は圍まれん。

夏氏曰:“日暈,有雲氣從暈外入者,兵得入;雲氣從中出者,兵從中出。”《孝經內記》曰:“日暈,有青雲三,從外貫暈;戰;客勝。”夏氏曰:“貫日以日宿占之。”夏氏曰:“日暈,有青氣從中四出,有圍城,城中勝。有直交三,有欲自立,不成。”夏氏《日暈圖》曰:“日暈,有青雲從外四貫暈,有圍城,外勝中。”高宗《日傍氣圖》曰:“日暈,下有青雲如死虹,屬暈;大將死亡。”

夏氏はいう。日暈して雲氣ありて暈の外より侵入するは、敵兵の城を攻め入り得るを主とす。雲氣が暈の內より外に向かって衝出するは、守軍の城中より殺出せんを主とす。《孝經內記》にいう。日暈して三道の青雲ありて外面より暈體を貫穿するは、兩軍交戰して、客方(進攻の一方)は獲勝す。夏氏はいう。およそ雲氣の日を貫くは、どの地に應ずるかは、みな當日の太陽の居る所の星宿分野に按じて推斷す。夏氏はまたいう。日暈して青氣ありて暈の中より四面に向かって射出するに、もし城を圍む中に在れば、則ち城中の守方は獲勝す。もし別に三道の「直」氣ありて交錯するは、自立せんと欲するも成事し能わざる人あるなり。夏氏《日暈圖》にいう。日暈して青雲ありて外面より四面に暈體に貫入するに、もし城を圍む中に在れば、則ち城外の攻方は城中の守方に勝たん。殷の高宗に托名する《日傍氣圖》にいう。日暈の下方に青雲ありて形は枯死の虹のごとく暈體に連接するは、大將の死亡を主とす。

《五音候》曰:“日暈合,氣如人,在暈中偕日者,臣叛,不脫;日暈不合,叛者得脫。”《孝經內記圖》曰:“日有白氣,從外向內刺,外人勝;圍城城拔。”《孝經內記圖》曰:“日暈,有白氣從內向外刺,中人勝;圍城,城不拔。”石氏曰:“日暈,有白雲如車蓋臨上,城降昨地。”高宗曰:“日暈,有赤氣如戟臨之,其國兵起。”高宗《日傍氣圖》曰:“日暈,傍有赤氣,如節職旗狀在外,名曰螢尤之旗,兵從內起。”

《五音候》にいう。日暈が合攏して環と成りて、また氣ありて形狀は人のごとく暈の中に於て太陽と相伴うは、臣下の叛亂して逃脫し得ざるを主とす。もし日暈が缺口して合せざれば、叛亂の人は便ち身を脫し得ん。《孝經內記圖》にいう。太陽に白氣ありて外より內に向かって芒刺のごとく直刺するは、城外の攻方は獲勝し、圍城は攻拔すべし。同書はまたいう。日暈して白氣ありて內より外に向かって直刺するは、城內の守方は獲勝し、圍城は攻下し得ず。石申はいう。日暈して白雲ありて車蓋のごとくその上に壓臨するは、城池の投降・土地の失陷を主とす。殷の高宗に托名する説は、日暈して赤氣ありて形は戈戟のごとくその上に壓臨するは、あの一分野の國家は兵事を興起せん。高宗《日傍氣圖》にいう。日暈して旁邊に赤氣ありて、形狀は旌節旗幟のごとく暈の外に立つを、名づけて「蚩尤之旗」といい、兵禍の內部より發動するを主とす。

《孝經內記圖》曰:“日暈,赤氣貫中屬白,臣賊主;赤甚者,為用兵;不甚者,為用藥;陰者不發,人莫知之。”高宗《日傍氣圖》曰:“日暈,有黃氣承之,得地,不出年中。”夏氏《日暈圖》曰:“日暈,有虹貫暈,不中日,戰從貫所擊之,勝;得小將。”夏氏《日暈圖》曰:“日暈,有白虹貫,從虹所擊,戰勝,破軍殺將。”《魏氏圖》曰:“日暈,有白虹七貫暈;以圍城,主人勝,城不拔。”《孝經內記》曰:“日暈,有氣如牛,入居暈;不出三日,寇入城。”

《孝經內記圖》にいう。日暈して赤氣ありて其中を貫穿して末端は白氣に連なるは、臣下の君主を謀害するを主とす。赤色の濃重なるは、兵刃を用いて事を行い、赤色の濃ならざるは、毒藥を用いて事を行い、氣色の晦暗にして陰に屬するは、陰謀は潛伏して發せず、察覺する人なし。殷の高宗に托名する《日傍氣圖》にいう。日暈して黃氣ありて下に於て承托するは、地を得るを主とし、應期はこの年を出でず。夏氏《日暈圖》にいう。日暈して虹ありて暈體を貫穿するも卻って日輪を穿過せざるは、作戰のとき虹の貫穿の方向に順って攻擊せば、獲勝して敵方の偏裨小將を俘得し得。同書はまたいう。日暈して白虹ありて貫穿するは、虹の指す所の方向に順って攻擊せば、作戰は勝利を得、敵軍を擊破して敵將を斬殺せん。《魏氏圖》にいう。日暈して七道の白虹ありて暈體を貫穿するは、これを以て圍城を占えば、守方は獲勝して城池は攻下し能わず。《孝經內記》にいう。日暈して氣ありて形狀は牛のごとく、暈中に進入して停留するは、三天を出でずして、寇兵は城內に攻入せん。

京氏曰:“日暈不合,有雲如牛,在暈外來,入暈中;臣不服。”京氏曰:“日暈,有氣如毛羽,臨日不去,國有大兵憂。”高宗曰:“日暈,有四銳氣,如峰四出;國君亡。”高宗曰:“日暈,有錦文氣,潤色從外入者,有文書喜至;從中出者,王使出,喜事也;枯乾不明者,舉事憂。”王朔曰:“日暈,有錦文之氣在暈中,君欲遣使,文書大行;在錦文之氣在暈外,外文書來。”

京房はいう。日暈が缺口して合せず、また雲ありて形は牛のごとく暈の外より過來して暈の中に進入するは、臣下の君命に服せざるを主とす。京房はまたいう。日暈して氣ありて形は羽毛のごとく、太陽に壓臨して久久として去らざるは、國家に大兵禍の憂あらん。殷の高宗に托名する説は、日暈して四道の尖銳の氣ありて、山峰のごとく四面に向かって伸出するは、國君は將に亡びん。高宗はまたいう。日暈して織錦花紋のごとき氣ありて、色澤は潤澤にして自ら外より內に進入するは、文書喜訊の到來あるを主とす。自ら內より外に向かって發出するは、君王の使者を派して出行するにして、また喜事に屬す。氣色の枯干して明らかならざるは、則ち辦する所の事に憂患あらん。王朔はいう。日暈して錦紋の氣ありて暈の內に在るは、君主の使者を遣派せんと欲して文書は大量に頒行す。錦紋の氣が暈の外に在るは、則ち外面の文書の將に送來せんとするなり。

《五音候》曰:“日暈,氣如入,在暈中向日,中人受令;在暈外向日,外人受令;一曰使臣還,得其正色,有喜;不得,王氣有憂。”《五音候》曰:“日暈,氣如臥人,在暈上,其下破敗。”《五音候》曰:“臥人之氣在暈中,君有憂,臣暴死。”又曰:“日暈,臥人氣在暈外,臣有憂,憂主死。”

《五音候》にいう。日暈して氣ありて形狀は人のごとく(「入」は應に「人」と作るべし)、暈の內に於て太陽に朝向するは、城中の人の號令を接受するなり。暈の外に於て太陽に朝向するは、城外の人の號令を接受するなり。別の一説は出使の臣子の將に回還せんとするにして、氣が五行の正色を得るは喜あるを主とし、正色を得ざれば則ち王氣に憂あらん。《五音候》はまたいう。日暈して氣ありて形は躺臥の人のごとく、位は暈の上に在るは、その下の對應する所の地方は破敗せん。同書はまたいう。臥人形の氣が暈の中に在るは、君主に憂患ありて臣下は暴亡せん。またいう。日暈して臥人形の氣が暈の外に在るは、臣下に憂患ありて、憂う所は君主の死なり。

日重暈

魏氏曰:“日重暈,中赤外青,有臣謀,邪不成。”夏氏曰:“日重暈,攻城圍邑不拔;重暈,天下有立侯王,不乃拔城。”京氏曰:“日重暈,有德之君得天下。”石氏曰:“日暈,再重,其分戰有功。”《河圖帝覽嬉》曰:“日暈二重,其外青、中濁,不散。”《孝經內記》曰:“日有青暈二重者,其災在春內,女親用事,甲乙暈者所見之國,雕殺草木五穀,不出六十日中,有兵起。所見之處者用事弱亂,故日暈青,三年乃止。”

魏氏はいう。太陽に兩重の暈ありて、內赤外青なるは、臣下の不軌を圖謀するあるを主とするも、然るに邪謀は得逞し能わず。夏氏はいう。太陽に重暈あるは、城を攻め邑を圍むもみな攻下し能わず。重暈あれば、天下は將に侯王の冊立せらるるあらん。然らざれば便ち城池の攻取せらるるあらん。京房はいう。太陽に重暈あるは、德ある君の天下を取得するの象なり。石申はいう。日暈の兩重なるは、その分野の屬する所の地は作戰して功あらん。《河圖帝覽嬉》にいう。日暈が兩重にして、外層は青く中層は混濁なるは、暈氣の久久として散ぜざるを主とす。《孝經內記》にいう。太陽に兩重の青暈あるは、災禍は春季の內に應じ、女性外戚の權を當て事を用いるを主とす。甲日・乙日に暈を生ずるは、應ずる所の分野の國家は草木五穀は凋零枯死し、六十天を出でずして兵事興起せん。此の象の應ずる所の處の執政者は軟弱昏亂なり。ゆえに日暈は青色を呈して、三年を過ぎてこそ止まらん。

石氏曰:“日有青暈,再重,主後親戚在內為亂,王者有憂。”(案洪範《五行傳》曰:周幽之敗也,日暈再重,中暈赤,外暈青,一黑盡上下通在日中,是歲有幽王之敗。)《孝經內記》曰:“日有黑暈二重,其災在冬月。”

石申はいう。太陽に兩重の青暈あるは、皇后の親族の宮禁の內に於て亂を作すを主とし、君王に憂患あらん。原書小注:洪範《五行傳》にいう、周の幽王の敗亡のあの年、日暈は兩重にして、內暈は赤色、外暈は青色にして、別に一道の黑氣ありて上下に貫通して正に日心に當たり、この年に便ち幽王敗亡の事を發生せり。《孝經內記》にいう。太陽に兩重の黑暈あるは、災禍は冬季の月分に應ず。

開元占經 卷九

日占 五

候日蝕

京房《日蝕占》曰:“日之將蝕也,五龍先見於日傍:青龍見於日左,以春蝕;赤龍見於日上,以夏蝕;黃龍見於日中央,以六月蝕;白龍見於日右,以秋蝕;黑龍見於日下,以冬蝕。欲候此龍見日蝕,法當以五寅日候之:春以甲寅,夏以丙寅,六月下旬以戊寅,秋以庚寅,冬以壬寅:此所謂五寅也。置盆水庭中,平旦至暮視之,則龍見。欲如何月?孟月以孟,仲月以仲,季月以季。欲如何日蝕?

京房《日蝕占》にいう。太陽の將に蝕を發生せんとするのとき、先に五條の龍形の氣ありて日旁に顯現せん。青龍は太陽の左邊に出現すれば、日蝕は將に春季に發生せん。赤龍は太陽の上方に出現すれば、日蝕は夏季に在り。黃龍は日の正中に出現すれば、日蝕は六月に在り。白龍は太陽の右邊に出現すれば、日蝕は秋季に在り。黑龍は太陽の下方に出現すれば、日蝕は冬季に在り。この五龍を觀候して以て日蝕を預知せんと欲すれば、方法は五個の「寅」日に於て觀測するに在り。春は甲寅日を用い、夏は丙寅日を用い、六月下旬は戊寅日を用い、秋は庚寅日を用い、冬は壬寅日を用い、これがすなわち所謂「五寅」なり。庭院の中に一盆の水を放ち、淸晨より傍晚に到るまで看れば、龍形は便ち水面の上に顯現せん。日蝕の一季のどの月に落つるかを推さんとすれば、龍が孟月に出現すれば便ち孟月に應じ、仲月に出現すれば仲月に應じ、季月に出現すれば季月に應ず。日蝕のどの一天・どの時辰に落つるかを推さんとすれば。

龍以上旬見,日以朔蝕:龍以下旬見,日以晦蝕:龍以日出,見以日出蝕:龍以日中見,以日中蝕:龍以晡時見,日經晡時蝕:龍以日入見,日以日入蝕。”《春秋合誠圖》曰:“日之將蝕,陽微陰漸,其城君蔽,臣恣,下壅塞,九引先出,日乃毀息。(陽,日也,君也,陰,月也,淅猶入也。君微弱,故陰氣入日,是主問蔽,臣下壅塞、君恩化使不施行也,九引先出,卒蝕日也。日將蝕破滅,必先氣引出見祥也。)

龍が上旬に出現すれば、日蝕は便ち初一の朔日に發生す。龍が下旬に出現すれば、日蝕は便ち月末の晦日に發生す。龍が日出のときに出現すれば、日蝕は便ち日出の時刻に在り。龍が正午に出現すれば、日蝕は便ち正午に在り。龍が晡時(申時)に出現すれば、日蝕は便ち晡時の前後に在り。龍が日落のときに出現すれば、日蝕は便ち日落の時刻に在り。《春秋合誠圖》にいう。太陽の將に蝕せられんとするは、陽氣の衰微して陰氣の浸侵し、君德は蒙蔽せられ臣下は放縱し下情は壅塞して通ぜざるなり。先に九道の引氣ありて冒出し、然る後に太陽の光明は便ち吞蝕せられて止息せん。原書小注:陽は太陽を指し、また君主を指す。陰は月亮を指す。「淅」は「入」に猶ごとく、すなわち侵入の義なり。君主は微弱なり。ゆえに陰氣は太陽に侵入す。これはすなわち君主の蒙蔽せられ、臣下の下情を壅塞し、君主の恩澤教化の施行し能わざるを説くなり。九道の引氣は先に出でて、隨即日蝕は便ち發生す。太陽の將に蝕せられて明を失わんとするは、必定に先に氣ありて引伸出して、この一の徵兆を顯現出す。

常經以效類,垂萌法至尊、陽精魄。”(常經、垂萌,上十二月所祭者也。故冬至,夏至,入陽氣,陰注布貞以精明魄,權成其尊也。)《春秋感精符》曰:“日將蝕,必先青黃不卒,至漸消也。日光沉掩、皆月所掩毀傷:雌為政,伐其雄。”京氏曰:“日失魄者,將蝕:月失魄者,水:所謂失者,日光精移處若有兩日也。”《尚書璇璣鈐》曰:“北斗第一星,率色數赤不明,七日內日蝕。”《春秋感精符》曰:“日紫色出,二十日以上則蝕既,禍必合。”

「常經」は同類の相感を以て驗證し、「垂萌」は至尊の位に取法して、みな太陽の陽精と光魄に關乎す。原書小注:「常經」と「垂萌」とは、每年十二月に祭祀する所の對象なり。ゆえに冬至・夏至のとき、陽氣は入りて陰氣は之に隨って敷布貞定して、用いて日の精明光魄を保全し、權衡してその尊位を成就す。《春秋感精符》にいう。太陽の將に蝕せられんとするは、必定に先に青黃の色を呈して久久として退かず、隨後に光芒は漸漸に消損す。日光の沈暗にして遮らるるは、みな月亮の遮掩損傷する所致なり。これは雌(陰・后妃臣下)の政を當てて、反ってその雄(陽・君主)を征伐するなり。京房はいう。太陽が光魄を失うは、將に日蝕あらん。月亮が光魄を失うは、水災を主とす。所謂「失」とは、日光の精氣の位置を移すにして、見上げれば兩個の太陽あるがごとし。《尚書璇璣鈐》にいう。北斗の第一星(天樞)の氣色は大抵赤を發して明亮せず、七天の内に日蝕あらん。《春秋感精符》にいう。太陽が紫色を呈して出でて、二十天以上持續せば、便ち日全蝕を發生し、禍患は必定に接踵而至せん。

石氏曰:“日月以二月、八月,出房南:過其度、其沖戶日月以晦蝕;出房北過其度、其沖,日月以朔蝕。”郗萌曰:“辰星受制,不見輿鬼,乃日蝕。”郗萌曰:“歲星、辰星,逆乘張左右角,皆為日蝕,國有大變。”《荊州占》曰:“諸日變皆旬望以上:旬十日、望十五日,其沖月,皆應當蝕。乃災成正月日色變,來七月日蝕是也。”韓楊曰:“熒惑南去列星間,從四舍以上,期百二十日日蝕,”

石申はいう。日月が二月・八月に房宿の南を經行して、もし應有の度數を超出せば、あればそれと相對する衝位の上に於て、日月は便ち晦日に蝕を發生せん。もし房宿の北を經行して度數を超出せば、則ちその衝位の上に於て、日月は朔日に蝕を發生せん。郗萌はいう。辰星(水星)が克制を受けて、また輿鬼宿に見えざれば、便ち日蝕あらん。郗萌はまたいう。歲星(木星)と辰星が逆行して張宿の左右角に凌乘するは、みな日蝕を主とし、國中に大變故あらん。《荊州占》にいう。各種の日變の應期はみな十天・十五天以上に在り。一旬は十天にして、一望は十五天なり。それと相衝するあの月分に到れば、みな應に日蝕を發生すべし。譬えば災象が正月に日色變異を以て表現せば、七月に到れば便ち日蝕を發生す。便ちこの道理なり。韓楊はいう。熒惑(火星)が南に向かって列宿のあいだを離れて、四個の星舍以上を行過せば、應期一百二十天の内に日蝕あらん。

候日夜蝕二

《易萌氣樞》曰:“日夜蝕者,火中無影,言日當夜蝕;建八尺竹,視其下無影,蝕不可見,故以表候之耳。日所以夜蝕者,人君諱其過;臣下強,君不能制;見臣之惡,反以為善;見臣邪僻,反以為正直;故日夜蝕中陰過盛,陽道微,日夜蝕者,謀臣誅。”

《易萌氣樞》にいう。所謂「日夜蝕」とは、燈燭火光の下に於て影子を照出し能わざるを指し、太陽のまさに夜裏に蝕せらるるを説明す。一根の八尺高の竹表を立て、その底下に影子なきを看る——夜間の日蝕は肉眼は從って見るに由なし。ゆえに圭表に靠りて測候せんと要す。太陽の夜間に蝕せらるるあるの所以は、君主の自己の過失を諱飾するに因る。臣下の勢力は強盛にして、君主は控制し住ること能わず。臣下の惡行を見て、反って善行と當て、臣下の邪僻不正を見て、反って正直と當つ。ゆえに「日夜蝕」は陰氣の過盛・陽道の衰微の象なり。日夜蝕を出現するは、不軌を圖謀する大臣の將に誅殺せられんを主とす。

日薄蝕三

《河圖帝覽嬉》曰:“日月赤黃無光.命曰薄;破毀傷,命曰蝕。”孟康子曰:“日月無光曰薄。”京房《易傳》曰:“日月不交而蝕,曰薄。”韋昭曰:“月氣往迫之,為薄。”京房《易傳》曰:“蝕皆於晦朔;有不於晦朔者,名曰薄。此人君誅不以理,賊臣漸舉兵而起,雖非日月同宿,時陰氣盛,猶掩薄日光也。”《釋名》曰:“日月虧;日蝕稍侵,虧如蟲食木也。”(按謝承《後漢書》曰:“江夏黃琬七歲,祖瓊為魏郡太守,梁太后詔問其日蝕之狀未能對。

《河圖帝覽嬉》にいう。日月が赤黃色を呈して光芒なきを、「薄」と呼ぶ。日輪月輪に破損虧傷あるを、「蝕」と呼ぶ。孟康はいう。日月が光芒を失えば便ち「薄」と呼ぶ。京房《易傳》にいう。日月が併せて相交せずして虧損を發生するを、「薄」と呼ぶ。韋昭はいう。月の陰氣が前に往きて日光を逼迫するを、便ち「薄」なり。京房《易傳》はまたいう。日蝕はみな晦日と朔日に發生す。晦朔に在らずして虧損を生ずるを、便ち「薄」と呼ぶ。これは君主の誅戮が情理に合わず、奸臣は漸漸に起兵して亂を作すに因る。このときたとい日月は併せて一宿に同處せずとも、然るに陰氣はまさに盛んにして、また以て日光を遮掩逼迫するに足る。劉熙《釋名》にいう。日月に虧あるに、日蝕は逐漸に侵奪せられて、虧缺することあたかも蟲子の樹木を蛀食するがごとし。原書小注:謝承《後漢書》に記載す。江夏の人黃琬の七歲のあの年、祖父黃瓊は魏郡太守を任じ、梁太后は詔を下して日蝕の形狀を詢問せしむるに、黃瓊は回答する能わざりき。

琬跪而曰:何不言日蝕之餘,如月之初。”)《穀梁傳》曰:“日有蝕之,吐者外壤,蝕者內壤,闕然不見,其壤有食之者也。”《毛詩》曰:“彼月而食,則惟其常此日而食,於何不臧。”《春秋考異郵》曰:“麟龍鬥,則日月蝕。”(按:《淮南鴻烈》曰:“麒麟斗日月蝕也。”)《五經通義》曰:“日蝕者,月往蔽之;君臣反不以道,故蝕。”《春秋漢含孽》曰:“臣子謀,日乃蝕。”(案檀道鸞《晉陽秋》曰:“孝武太元元年,十月辛亥,日有蝕之。

黃琬は一旁に跪いていう。何ぞ回答して日蝕の殘剩する形狀は、あたかも初生の新月の一般なりと爲さざる。《穀梁傳》にいう。太陽が蝕せられたるに、吐露して外に在るは外壤にして、吞食掉せらるるは內壤なり。日輪は一塊を缺きて蹤影を見ず、あの缺處の壤土は何ものかに吃掉せられたるを説明す。《毛詩》にいう。あの月亮の食せらるるは、なほ常事と算すべし。この太陽もまた食せらるるは、何等かの不祥なるか。《春秋考異郵》にいう。麒麟と龍が相鬥すれば、便ち日蝕月蝕を發生せん。原書小注:《淮南鴻烈》にいう、麒麟が相鬥せば、日月は便ち蝕せらる。《五經通義》にいう。日蝕は月亮の過來して太陽を遮蔽せしなり。君臣の關係は顛倒して道に合わず。ゆえに蝕を生ず。《春秋漢含孽》にいう。臣子が圖謀を心懷けば、太陽は便ち蝕せられん。原書小注:檀道鸞《晉陽秋》に記載す。晉の孝武帝太元元年十月辛亥日、日蝕を發生せり。

時有張五虎、路六根等謀反,諸葛偘誘斬之,滅其凶黨。)《春秋運斗樞》曰:“人主自恣不循古,逆天暴物,禍起則日蝕。”《禮斗威儀》曰:“君喜怒無常,輕殺不辜,戮無罪,慢天地,忽鬼神,則日蝕。”《淮南子》曰:“君失其行,日薄蝕無光。”京房《易說》曰:“下侵上,則日蝕。”《河圖帝覽嬉》曰:“日蝕所宿,國主疾,貴人死;用兵者從蝕之面攻城取地。”《河圖》曰:“日三蝕,三雄謀;日四蝕,四夷謀。”《春秋感精符》曰:“再失陽事,則日蝕,謫見。”

當時に張五虎・路六根などの人ありて謀反す。諸葛偘は彼らを誘出して斬殺し、この凶黨を剿滅せり。《春秋運斗樞》にいう。君主が放縱自恣にして古法を遵循せず、天時に違逆し萬物を殘害せば、禍端は一起すれば便ち日蝕を發生す。《禮斗威儀》にいう。君主が喜怒無常にして、輕率に無辜を殺害し罪過なき人を誅戮し、天地を怠慢し鬼神を輕忽せば、便ち日蝕を發生せん。《淮南子》にいう。君主の行事が失當なれば、太陽は便ち迫近して虧蝕して光芒なし。京房《易説》にいう。下に在る者が上に在る者を侵犯せば、便ち日蝕を發生す。《河圖帝覽嬉》にいう。日蝕のとき太陽の居る所の星宿は、その分野の國君は病を患い、貴人は死亡す。兵を用いる人は應に日蝕發生のあの一面より城を攻め地を奪うべし。《河圖》にいう。一年に三次の日蝕は、三個の強雄の各々圖謀を心懷くなり。四次の日蝕は、四方の夷狄の各々圖謀を心懷くなり。《春秋感精符》にいう。人間に再度陽に屬する政事の失當あれば、便ち日蝕を發生す。これは上天の譴責を降下するの顯現なり。

《春秋感精符》曰:“日蝕有三法;一曰妃黨恣,邪臣在側,日黃無澤,則日以晦蝕,其發必於眩惑。二曰偏任權並,大臣擅法,則日青黑,以二日蝕,其發必於酷毒。三曰宗黨犯命,威權害國,則日赤鬱怏無光色,則日以朔蝕,其發必行嫌隙。”班固《天文志》曰:“古人有言曰:天下太平,五星循度,無有逆行者;日不蝕塑,月不蝕望。”洪範《傳》曰:“日蝕必以朔,非朔為薄蝕。陰盛侵陽,其君凶,不出三年;日蝕皆蝕合朔,不理,臣下將起,則日蝕不以朔晦。”

《春秋感精符》にいう。日蝕の成因は三種あり。その一は妃嬪の黨羽の放縱・奸邪の臣の君側に近きにして、このとき太陽は黃を發して光澤なきは、日蝕は便ち晦日に發生し、禍患は必定に君主の迷惑せらるるより發作す。その二は偏りて一人を信じ權柄は一身に集まり、大臣は擅自に法令を玩弄し、このとき太陽は青黑色を呈し、日蝕は便ち初二に發生し、禍患は必定に酷虐毒害の上より發作す。その三は宗室の黨羽の君命に違抗し、威權を憑りて國家を危害し、このとき太陽は赤を發して鬱結沈陰・毫も光色なきは、日蝕は便ち朔日に發生し、禍患は必定に彼此の猜忌嫌隙の上より發作す。班固《漢書・天文志》にいう。古人に言あり、天下太平のとき、五星は常度に循って運行して逆行するなく、朔日に日蝕を發生せず望日に月蝕を發生せず。洪範《傳》にいう。日蝕は必定に朔日に發生して、朔日に在らざるを「薄蝕」と呼ぶ。陰氣は盛んにして陽氣を侵犯するは、あの國君に凶ありて、應期は三年を出でず。日蝕は本來みな日月の合朔のときに發生す。もし政事は理を失い臣下は將に亂を作さんとすれば、日蝕は便ち朔日に在らずまた晦日に在らずして發生せん。

《春秋感精符》曰:“日之蝕,國絕也。”《春秋緯》曰:“君不聰聽,無知德威,今不嚴舒,懦為臣下所侵,則日光青赤,其後久旱,地動搖宮,陰氣盛,下臣太恣橫,陽精挑奪,日行失度,不得,則日月薄於晦,陽為臣所悅,故以晦日蝕之,失後也。”(案洪範《天文日月度占》曰:“春秋魯昭公二十四年夏五月乙未朔,日月有蝕之,周之五日建辰,今之三月也。魯趙分也,魯太師梓曰:將水叔孫昭子曰:旱也,夫日過春分而陽猶不勝陰,能無旱乎;是秋魯大旱。

《春秋感精符》にいう。太陽の蝕せらるるは、國祚の斷絶の象なり。《春秋緯》にいう。君主が明察して聽納し能わず、德を施し威を立てるを懂得せず、政令は旣に嚴明ならずまた寬舒ならずして、懦弱にして臣下に侵奪せらるれば、太陽の光色は便ち轉じて青赤と爲らん。此の後に長久に乾旱して、地震は宮室を搖動せん。陰氣が強盛にして、下面の臣子は過分に放縱橫行し、太陽の陽精は挑動侵奪せられ、日の運行は常度を失いてその正を得ず、日月は便ち晦日に相迫して蝕と爲る。陽は臣下に取説び挾持せられ、ゆえに晦日に蝕を發生す。これは應期の錯後せるなり。原書小注:洪範《天文日月度占》にいう、《春秋》の魯の昭公二十四年夏五月乙未朔に日蝕を發生し、あれは周曆の五月・斗建は辰に在りて、今の三月に相當す。魯國は趙の分野に屬し、魯國の太師梓はこれを將に水災を主とせんといい、叔孫昭子は旱災という——太陽はすでに春分を過ぎても陽氣はなほ陰氣に勝ち得ず、何として乾旱せざるを得ん。あの年の秋に魯國は果然として大旱せり。

凡二至、二分日有蝕之,不為水災,大旱而已也。)《易萌氣樞》曰:“昭明蔽塞,政在臣下,親戚干朝,君不覺悟,即雜氣失以星奔,日蝕為咎。”(案《洪範五行傳》曰:“漢成帝建始三年冬十二月戊申朔日有食之,其夜未央殿地震,日在須女九度,占在皇后貴妾。其後皇后廢趙飛燕,姊妹亂官,皇子死,王氏專權。)《易通卦驗》曰:“日蝕則害命,王道傾側;故日蝕則正人主之過。

およそ冬至・夏至と春分・秋分のこの四個の節氣に日蝕を發生するは、水災を主とせず、ただ大旱を主とするのみ。《易萌氣樞》にいう。光明が遮蔽壅塞せられて、政權は臣下の手裏に落ち、外戚親族は朝政に干與し、而して君主はなほ省悟せず、是の雜亂の氣は序を失い星辰は奔逸して位を失い、日蝕は便ち咎徵と成れり。原書小注:《洪範五行傳》にいう、漢の成帝建始三年冬十二月戊申朔に日蝕を發生し、當夜に未央殿は地震せり。日は須女宿の九度に在り、占辭は皇后と寵妾の身上に應ず。此の後に皇后は廢せられ趙飛燕は寵を得、趙氏姊妹は后宮を淆亂し、皇子は夭亡し、王氏外戚は權を專らにせり。《易通卦驗》にいう。日蝕すれば便ち君主の性命を危害し、王道は之に隨って傾覆偏斜す。ゆえに日蝕は正に用いて君主の過失を匡正する所なり。

《詩推度災》曰:“日蝕君傷。”(按檀道鸞《晉陽秋》曰:孝武大元二十年三月庚辰日有食之,二十一年九月庚申帝崩。)《詩含神霧》曰:“日之蝕,帝消。”(案袁宏《漢紀》曰:“安帝永初五年正月庚辰朔,日有蝕之,本志為正旦,王者聽朝之日也,鄧太后攝政,天子守虛位,不得行其號令,蓋陽不克之象也。《晉中興書》曰:“成帝咸和六年三月壬戌朔,日有食之,是時顯宗已長,幸司徒第,猶出入見王導夫人曹氏如子弟之禮。以人君而敬人臣之妻有虧君德。

《詩推度災》にいう。日蝕を發生するは、君主は傷を受く。原書小注:檀道鸞《晉陽秋》に記載す。晉の孝武帝太元二十年三月庚辰日に日蝕を發生し、太元二十一年九月庚申に孝武帝は駕崩せり。《詩含神霧》にいう。太陽の蝕せらるるは、帝王の消損なり。原書小注:袁宏《漢紀》にいう、漢の安帝永初五年正月庚辰朔に日蝕を發生せり。本志は正月初一を以て君王の朝に臨み政を聽くの日と爲し、當時鄧太后は朝に臨んで政を攝り、天子は空しく虚位を守りて自己の號令を推行し能わず、これは正に陽の陰に勝ち能わざるの象なり。《晉中興書》にいう、晉の成帝咸和六年三月壬戌朔に日蝕を發生し、當時顯宗(成帝)はすでに長大するも、なほ司徒府第に臨幸し、出入して王導の夫人曹氏に拜見して、なほ子弟の禮を行えり。君主の尊を以て人臣の妻を敬事するは、君主の威德に虧あり。

九年十月乙未朔,日有食之,是時顯宗冠,當親萬幾,而委政大臣,君道有虧也。”)《春秋潛潭巴》曰:“凡日蝕之敗,或地嘔血,或天雨蝗鳥旁,蜚龍群鬥,長人入宮,虎哭雉巢,列宿火,皆禍敗顯然之徵也。”《春秋潛潭巴》曰:“日蝕之後,必有亡國弒君,奔走乖離,相誅專政,擁主滅,兵車天下,昏亂,邦多郵。”(按洪範《天文志日月變占》曰:春秋魯昭公十五年夏,六月丁巳朔,日有食之。晉魯分也,後二年晉昭公九年,六卿專晉,三家擅魯,魯昭公奔之應也。

咸和九年十月乙未朔にまた日蝕を發生し、當時成帝はすでに冠禮を行うて、理を以て萬機を親理すべきに、卻って政事を大臣に委託す。これは君道に虧あるなり。《春秋潛潭巴》にいう。およそ日蝕の招致する所の敗亂は、あるいは大地は血を涌し出し、あるいは天上は蝗蟲飛鳥を落下し、飛龍は成群に相鬥い、異常に高大の人は宮廷に闖入し、老虎は哀號し野雞は樹に上りて巢を作り、列宿のあいだに火光を出現す——これらはみな禍敗のすでに顯露せるの徵兆なり。《春秋潛潭巴》はまたいう。日蝕の後、必定に亡國弑君の事あり、人々は奔逃流散して彼此乖離し、互相に誅戮して國政を專擅し、君主を挾持して傾覆に至り、兵車は天下に馳騁して世道は昏亂し、邦國に過失罪愆多し。原書小注:洪範《天文志日月變占》にいう、《春秋》の魯の昭公十五年夏六月丁巳朔に日蝕を發生し、分野は晉と魯に屬す。兩年の後すなわち晉の昭公九年、六卿は晉國の政權を專擅し、三桓は魯國の大權を獨攬し、魯の昭公は出奔せり。正にこの次の日蝕の應驗なり。

洪範《五行傳》曰:“漢高帝三年冬十一月癸卯晦,日有食之。吳齊分也,後二年齊韓信徙封楚王,三年廢為侯而誅之應也。《晉中興書》曰:“太和三年三月丁巳,日有食之,五年七月癸酉日有食之,皆海西被廢之應也。《宋書天文志》曰:“晉元帝太興元年四月丁丑朔,日有食之。明帝大寧三年十一月癸巳朔,日有蝕之,在斗。斗吳分也,其後蘇峻作逆。安帝元興二年四月癸巳朔,日有食之。其冬桓玄篡位。)《春秋合誠圖》曰:“日蝕之,主見賊。”

小注續引:洪範《五行傳》にいう、漢の高帝三年冬十一月癸卯晦日に日蝕を發生し、分野は吳と齊に屬す。兩年後に齊王韓信は楚王に改封せられ、第三年に淮陰侯に貶せられて誅殺に遭い、正にそれの應驗なり。《晉中興書》にいう、晉の廢帝太和三年三月丁巳日に日蝕を發生し、太和五年七月癸酉日にまた日蝕を發生し、みな海西公(廢帝司馬奕)の廢黜せらるるの應驗なり。《宋書・天文志》にいう、晉の元帝太興元年四月丁丑朔に日蝕を發生せり。明帝太寧三年十一月癸巳朔に日蝕を發生し、位置は斗宿に在り、斗宿は吳地の分野にして、その後に蘇峻は亂を作せり。安帝元興二年四月癸巳朔に日蝕を發生し、この年の冬に桓玄は位を篡せり。《春秋合誠圖》にいう。太陽の蝕せらるるは、君主の亂賊に遭遇するを主とす。

《春秋保乾圖》曰:“日蝕,主行蔽明,壅塞;改身修政,乃黜不法。又曰:日蝕治亂。”《春秋公羊傳》曰:“日蝕,皆臣弒君,子弒父,夷狄侵中國之異。”(按洪範《天文志日月變占》曰:‘春秋魯莊公十八年春三月,日有食之,衛齊分也,後狄人減衛,齊桓公救而封之應也。二十六年冬十二月癸亥朔,日有食之,燕分也。其後山戎侵燕,齊桓救燕北至孤竹,平山戎之應也。三十年九月癸亥朔,日有食之,楚之分也;其後楚世子商臣殺其君父之應也。

《春秋保乾圖》にいう。日蝕を發生するは、君主の行事の明德を遮蔽して上下は壅塞して通ぜざるなり。君主は應に身を反して自省し政事を修明し、法度を守らざる人を罷黜すべし。またいう。日蝕は治と亂の分際に關乎す。《春秋公羊傳》にいう。日蝕はみな臣の君を弑し子の父を弑し夷狄の中國を侵擾するのこの一類の變異の先兆なり。原書小注:洪範《天文志日月變占》にいう、《春秋》の魯の莊公十八年春三月に日蝕を發生し、分野は衛と齊に屬す。後來に狄人は衛を滅し、齊の桓公は兵を出して相救い併せて衛國の爲に土を重封せり。正にそれの應驗なり。莊公二十六年冬十二月癸亥朔に日蝕を發生し、分野は燕に屬す。その後に山戎は燕國を侵犯し、齊の桓公は燕を救い、北伐して直に孤竹に抵り、山戎を平定せり。正にそれの應驗なり。莊公三十年九月癸亥朔に日蝕を發生し、分野は楚に屬す。その後に楚國の太子商臣はその君父楚の成王を殺害せり。正にそれの應驗なり。

魯文公元年春二月癸亥朔,日有食之,齊分也;後十一年間狄三侵齊,十四年昭公卒,其弟公子商人殺其君凡子而自立,四年齊人殺之,大亂之應。十五年六月辛丑朔,日有食之,晉分也;此正陽純乾之月,陰氣未起而能侵陽,其災最重;明年晉趙穿殺其君靈公,而周匡王崩之應也。魯襄公二十一年秋九月庚戌朔,日有食之,楚分也;後十二年楚公子圍殺其君兄而自立之應也。韋昭《漢紀》曰:‘光武十七年二月日有食之,二十年五月朔,虜數犯上黨,銅閛右扶風。

魯の文公元年春二月癸亥朔に日蝕を發生し、分野は齊に屬す。此の後十一年の間に狄人は三次齊國に入侵し、文公十四年に齊の昭公は去世し、その弟公子商人は國君を殺して自立し、四年後に齊人はまた彼を殺掉せり。これは便ち大亂の應驗なり。文公十五年六月辛丑朔に日蝕を發生し、分野は晉に屬す。六月は正陽純乾の月にして、陰氣は本來まだ興起せざるに卻って陽氣を侵犯し能わずんばあらず——ゆえにこの次の災異は最も重し。第二年に晉國の趙穿は國君晉の靈公を殺し、周の匡王は駕崩せり。正にそれの應驗なり。魯の襄公二十一年秋九月庚戌朔に日蝕を發生し、分野は楚に屬す。十二年後に楚の公子圍はその兄郟敖を殺して自立して楚の靈王と爲り、正にそれの應驗なり。韋昭《漢紀》にいう。漢の光武建武十七年二月に日蝕を發生し、建武二十年五月朔にまた日蝕を發生せり。此の後に胡虜は屢次上黨を侵犯し、兵鋒は銅閛と右扶風に波及せり。

二十一年匈奴大入上谷郡之應是也。)《洛書》曰:“日蝕復生者,日光復故也,後日蝕生地擊敵破之。”《荊州占》曰:“日蝕之下,有破國大戰,將軍死,有賊兵。”(按洪範《天文日月變占》曰:‘魯成公十六月丙寅朔,日有食之,晉分也;是月魯侯伐鄭,戰於鄢陵,楚師大敗,恭王傷目,將軍子反死之,昔侯時豫而驕,多殺大臣,明年晉大夫樂書中行偃遂殺厲公,大亂之應也。)

建武二十一年に匈奴は大いに上谷郡に侵入せり。便ちこの次の日蝕の應驗なり。《洛書》にいう。日蝕の後に光明は復生するは、日光の原狀を恢復せるなり。此の後に應に日蝕の應ずる所の地に於て兵を起こし、敵人を出擊して併せて其を擊破すべし。《荊州占》にいう。日蝕の籠罩する所の地方は、國を破るの大戰ありて、將軍は戰死し賊兵の亂を作すあり。原書小注:洪範《天文日月變占》にいう、魯の成公十六年(底本は「十六月」と作り、一字を脫す)六月丙寅朔に日蝕を發生し、分野は晉に屬す。當月に魯侯は兵を出して鄭を伐ち、兩軍は鄢陵に戰い、楚軍は大敗して楚の共王は眼睛を傷つけ、主將子反はこれに因って命を喪う。晉侯(底本は「昔侯」と訛作す)は當時安逸にして驕縱し、大臣を殺戮すること過多にして、第二年に晉の大夫欒書・中行偃は便ち厲公を殺せり。正に大亂の應驗なり。

《洛書》曰:“日蝕不祥,善惡各為其國。”(按《左氏傳》曰:昭公七年,夏四月甲辰朔,日有食之。晉侯問於士,文伯曰:誰將當日食?對曰:魯衛惡之,衛大魯小。公曰何故?對曰去衛地如魯地。杜注曰:衛地豕韋也,魯地降婁也,日食自於豕韋之末及降婁之始乃息,故禍在衛大,在魯小也。《傳》曰:於是有災,魯實受之其大咎,其衛君乎?魯將工卿注曰:八月衛候卒;十一月季孫宿卒。

《洛書》にいう。日蝕は不祥の兆にして、其中の吉凶善惡は各々應ずる所のあの國家に歸す。原書小注:《左氏傳》にいう、魯の昭公七年夏四月甲辰朔に日蝕を發生せり。晉侯は士文伯に詢問す。この次の日蝕は該に誰の身上に應ずべきか。士文伯は回答す。魯國と衛國は殃に遭わんとし、衛國の受害は大にして魯國の受害は小なり。晉侯は何の緣故なるかを問う。回答していう。この次の日蝕は衛の分野より魯の分野に移向するを以てなり。杜預は注していう。衛の分野は豕韋にして、魯の分野は降婁なり。この次の日蝕は豕韋の末より開始して、降婁の初に到ってこそ止息す。ゆえに禍患は衛國に於て重く魯國に於て輕し。《左傳》はまたいう。これに因って禍災あらん。魯國は確かに承受せんとするも、然るにあの大きき咎殃は、大概は衛國の國君の身上に落せんか。魯國は則ち卿佐を喪失せん。杜注はいう。この年の八月に衛侯は去世し、十一月に魯國の季孫宿は去世せり。

又洪範《天文日月變占》曰:‘魯僖公五年秋九月戊申朔,日有食之,楚周之分也;其後楚莊王觀兵於周疆,有問鼎之應。’洪範《五行傳》曰:“漢高帝三年冬十月甲戌晦、日有食之,燕吳越分也,後二年燕王滅茶反,誅;復以盧綰為燕王,亦反,誅。南越王趙佗自立稱帝之應也。)《洛書》:“日月蝕當用兵擊之,君安。日月蝕不可出軍;日蝕之歲,不可出軍;月蝕之月,不可出軍。”甘氏曰:“無道之國,日月過之薄蝕。兵之所攻,國家亡;又以有喪。”

また、洪範《天文日月變占》にいう。魯の僖公五年秋九月戊申朔に日蝕を發生し、分野は楚と周に屬す。その後に楚の莊王は周の邊境に兵を陳れて、王孫滿に九鼎の輕重を探問せり。正にそれの應驗なり。洪範《五行傳》にいう、漢の高帝三年冬十月甲戌晦日に日蝕を發生し、分野は燕・吳・越に屬す。兩年後に燕王臧荼(底本は「灭茶」と訛作す)は反叛して誅せられ、盧綰を改めて燕王と立てしに、盧綰もまた反叛して誅せられり。南越王趙佗は自立して帝を稱す。みなそれの應驗なり。《洛書》にいう。日月が蝕せらるるとき應に勢を趁って兵を出して攻擊すべく、君位は平安を保つべし。またいう、日月蝕のときは兵を出すべからず。日蝕を發生のあの年は兵を出すべからず、月蝕を發生のあの月は兵を出すべからず。甘德はいう。道なき國家は、日月がその分野を經過すれば便ち薄蝕せん。兵禍の攻打の處は、國家は覆亡し、此外にまた喪事あらん。

甘氏曰:“日,陽精之明耀,魄寶其氣,佈德而至,生本在地,曰德。德者,生之類也,德傷則亡,故日蝕必有國災,日蝕則失德之國亡。日蝕,修德。”甘氏曰:“日薄,色赤黃,其月旱。”京房《妖占》曰:“日蝕,無道之君當之。”京氏曰:“外交之蝕,蝕旦不虧,虧而地猶明,是外謀也。”京氏曰:“專政之蝕,日明缺至,陽雖侵,光猶明,是司馬舉兵欲起。”京氏曰:“日蝕,諸侯相侵;白、青、明,君弱。”京氏曰:“日蝕,國有兵,大戰從西方來,勝。”

甘德はいう。太陽は陽精の光明照耀にして、光魄はその精氣を涵藏して、恩德を布施して下に人間に臨む。萬物生長の根本は大地に在り。これを便ち「德」と呼ぶ。「德」は生養の一類の事に屬し、德が一たび傷を受ければ、生機は便ち亡失す。ゆえに日蝕は必定に國家の災禍を帶來し、日蝕は便ち德を失うの國家の將に亡びんを意味す。日蝕に遇上れば、君主は德行を修養すべし。甘德はまたいう。太陽が薄蝕して色は赤黃を呈するは、當月は旱を主とす。京房《妖占》にいう。日蝕を發生するは、道なき君の承當せんとするなり。京房はいう。所謂「外交之蝕」とは、淸晨に虧蝕を發生するも日輪に缺損を看出さず、すでに虧せるも地面は依舊として明亮なるは、これは外面に圖謀の人あるを主とす。京房はまたいう。所謂「專政之蝕」とは、日光が正に明なるに缺損は隨即到來し、陽氣は侵犯せらるるも光はなほ明亮なるは、これは兵を掌る司馬の兵を舉げて事を起こさんとするを主とす。京房はまたいう。日蝕は諸侯の相互侵伐を主とす。日色の白・青にして明亮なるは、君主の衰弱を主とす。京房はまたいう。日蝕は國中に兵事あるを主とし、大戰のとき西方より進擊するの一方は獲勝す。

京氏曰:“日蝕,王為君蝕,相為臣蝕,囚為罪人蝕,死為夷狄蝕。休為民,有兵;其兵從陰所來,日蝕後必通水,在陰所來;在於三年之內,又必有火燒屋。”(按韋昭《洞紀》曰:漢和帝永元二年二月日食,三年,左校尉耿夔等征匈奴,戰破之。安帝元初三年日蝕;京師旱,武陵蠻夷燒官寺。桓帝永康元年日食,渤海水溢,殺人。十二月丁丑帝崩。

京房はいう。日蝕のとき、もし令を當つ氣が正に五行の「王」位に處せば、君主の身上に應じ、「相」位に處せば、大臣の身上に應じ、「囚」位に處せば、罪人の身上に應じ、「死」位に處せば、夷狄の身上に應じ、「休」位に處せば、百姓の身上に應じ、併せて兵事あるを主とし、あの兵禍は陰氣の來る所の方位より來らん。日蝕の後に必定に大水あり、また陰氣の來る所の方位に在り。三年の内に、なほ必定に火災ありて屋宅を燒毀せん。原書小注:韋昭《洞紀》に記載す。漢の和帝永元二年二月に日蝕あり、永元三年に左校尉耿夔らは匈奴に出征して其を擊破せり。安帝元初三年に日蝕あり、京城は大旱にして武陵の蠻夷は官府を焚燒せり。桓帝永康元年に日蝕あり、渤海の海水は泛溢して人を淹死せしめ、この年の十二月丁丑に桓帝は駕崩せり。

孫盛《晉陽秋》曰:武帝太康七年正月甲寅朔,日有食之,乙卯又食;詔曰:邦之不滅,實在朕躬;公卿大臣,極言其失,太尉亮、司徒舒、司空馞上言曰:三朔之始,日有食之。蓋陽即過,而墜冰未消;謹按經義曰:君道也;父道也;夫道也;君子道也;陽勝陰,陽氣之常:今丞不消,陰氣盛;陰盛者,臣擅主權也;孝道不修也;後宮過度,小人在位也。後八年正月戊申朔,日又食,太熙元年而武帝崩之應也。)劉向《洪範傳》曰:“日之為異,莫重於蝕;春秋日蝕則書之也。

小注續引孫盛《晉陽秋》:晉の武帝太康七年正月甲寅朔に日蝕を發生し、次日乙卯にまた蝕せり。武帝は詔を下していう。國家の不寧は、責任は其實は我の一人の身上に在り。公卿大臣に盡情に朕の過失を指陳せんことを請う。太尉(司馬)亮・司徒(魏)舒・司空「馞」(人名は底本に訛あり)は上奏していう。正月の朔日は歲・月・日の三者の始にして、卻って日蝕を發生せり。このとき陽氣は本來すでに轉旺するに、而して墜地の冰凌はなほ消融せず。謹んで經義に按ずるに、陽の象徵する所は君道・父道・夫道・君子の道なり。陽の陰に勝つは、陽氣の應有の常態なり。如今に冰凌は消えず、陰氣の強盛を説明す。陰氣強盛なれば、便ち臣下の君權を擅奪し・孝道の修まらず・后宮の法度を逾越し・小人の高位を竊據するなり。その後太康八年正月戊申朔にまた日蝕を發生し、太熙元年に到って武帝は駕崩せり。正にそれの應驗なり。劉向《洪範傳》にいう。日の異象は、日蝕より嚴重のはなし。ゆえに《春秋》は日蝕に一遇せば必定に記載を加う。

日蝕者,下凌上,臣侵君之象也。日蝕數者,其亂眾;稀者,亂亦稀。”《洪範傳》曰:“人君失序,享國不明,臣下務亂,君陰蔽陽,則日月薄蝕,汶暗暗昧;若蝕從中起,背、= 縱橫,則亂交爭,兵革並行。”《史記天官書》曰:“諸侯作亂,日蝕盡時。”夏氏曰:“日蝕出軍,軍折傷,後疾病。”《荊州占》曰:“日蝕當其國,君王死。”(按韋昭《洞紀》曰:‘周平王五十一年日食,三月平王崩。’

日蝕は下に在る者の上に在る者に凌駕し・臣子の君主を侵犯するの象徴なり。日蝕の次數頻繁なれば、禍亂もまた衆多なり。日蝕稀少なれば、禍亂もまた稀少なり。《洪範傳》にいう。君主が綱紀次序を失い、國家を享有するも昭明し能わず、臣下は一意に亂を作し、君主は陰氣に蔽われてその陽德を失えば、日月は便ち薄蝕して昏昏昧昧と爲らん。もし虧蝕が日輪の中央より起こりて、「背」氣と殘缺のあの種の弧氣(底本は此の字は殘缺)が縱橫交錯するは、あれは便ち禍亂の交相爭鬥・兵戈の一倂せに興起するなり。《史記・天官書》にいう。諸侯の起兵して亂を作すは、日全蝕のときに應ず。夏氏はいう。日蝕のとき兵を出すれば、軍隊は折傷して傷亡し、事後は疾病流行せん。《荊州占》にいう。日蝕がまさにある國の分野に當るは、あの國の君王は將に死せん。原書小注:韋昭《洞紀》にいう、周の平王五十一年に日蝕を發生し、三月に平王は駕崩せり。

洪範《天文志日月變占》曰:‘高帝九年六月乙未晦,日,日有食之,周秦分也,是時漢都長安,都東及洛陽為畿內。明年四月高帝崩。’韋昭《洞紀》曰:‘漢文帝二年十一月晦,日食,帝引咎責躬,舉直言,省莕費,闢籍田,除誹謗妖言之罪。文帝后四年四月晦,日食,七年六月已亥帝崩。哀帝元年正月辛丑朔,日有食之,不盡如鉤,明年哀帝崩。’晉《中興書》曰:愍帝建興五年十一月先晦,二日丙子,日有食之,十二月愍帝崩於虜庭。

洪範《天文志日月變占》にいう。漢の高帝九年六月乙未晦日に日蝕を發生し、分野は周と秦に屬す。當時漢朝は長安に都を建て、京都以東は洛陽に連なるもみな畿內の地と算せり。第二年四月に高帝は駕崩せり。韋昭《洞紀》にいう。漢の文帝二年十一月晦日に日蝕を發生し、文帝は咎を引いて自ら責め、直言の路を廣開し、用度を節省し、籍田を開闢して親耕し、誹謗妖言の罪を廢除せり。文帝後元四年四月晦日にまた日蝕を發生し、後元七年六月己亥に文帝は駕崩せり。漢の哀帝元年正月辛丑朔に日蝕を發生し、日輪は虧れて未だ盡きず形狀は鈎のごとく、第二年に哀帝は駕崩せり。晉《中興書》にいう、晉の愍帝建興五年十一月、晦日の前の兩天の丙子日に日蝕を發生し、十二月に愍帝は胡虜の朝廷に於て死せり。

咸康八月正月乙未朔,日有食之,京都大雨,郡國以聞,是謂三朝王者惡之,六月而顯宗崩。昇平四年八月辛丑朔,日有食之,畿既在角,為天門,人主惡之,明年孝宗崩也。’)《洛書》曰:“日蝕,從所蝕利擊敵也。”王朔曰:“日蝕,兩敵相當,即從蝕所擊之,大勝殺將。”

咸康八年(底本は「咸康八月」と作る)正月乙未朔に日蝕を發生し、京城は大雨を下り、各郡國はみな此事を上報せり。正月初一は歲・月・日の三者の朝にして、君王は最もこの一天の日蝕を忌諱し、當年六月に顯宗成帝は駕崩せり。升平四年八月辛丑朔に日蝕を發生し、全蝕の處は角宿に在り、角宿は天門の位にして、君主は尤も忌諱し、第二年に孝宗穆帝は駕崩せり。《洛書》にいう。日蝕のとき、蝕せらるるのあの一面より敵人を出擊するを最も利ありと爲す。王朔はいう。日蝕のとき兩敵の相持すれば、便ち蝕せらるるの方位に順って對方を攻擊せば、大勝を獲得して敵將を斬殺し得。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.