芝草
《運斗樞》曰:“瑤光得則陵出芝草。”《瑞應》曰:“芝草者,親近耆老養有道,則生。”《地鏡》曰:“敬事耆老,不失舊故,則芝草生。”
《春秋運斗枢》はいう:「北斗第七星の瑶光が運行してその常度を得れば、丘陵の上に芝草を長出す。」《瑞応図》はいう:「芝草のこの瑞草は、君主が年高の徳ある老人に親近し、道ある士を奉養する時にのみ生長するのである。」《地鏡》(一つの望気・相地の書で、もっぱら地上の物象の顕示する吉凶を講ず)はいう:「恭敬に年老の人に事え、故旧を棄てざれば、芝草はすなわち長出せん。」三条は皆芝草の出現を敬老・尊賢に係り、見るべくしてそれの応ずる所は君主の人に待る德行であって、単純の物産ではない。
禾の連理
《地鏡》曰:“不失民心,則木連理生。”
《地鏡》はいう:「君主が民心を失わざれば、すなわち連理木を生ぜん。」連理木は二株の樹の枝幹が一処に長到りて合して一と為るを謂い、古人はそれを上下同心・遠近の帰一なる祥瑞と看作す。この条の標目は「禾連理」と作すも引く所の文は「木連理」を謂い、知るべくして禾と木の連理は占家の見れば同一類の徴応に属す。
木が本を同じくして枝を異にす
京房曰:“有木同本而異枝,是華光,國有吉昌,五穀登,他民歸國。”《京房傳》曰:“樹同本異末,君有度,諸侯朝。”
京房はいう:「ある樹が同じ根本にして各々不相同なる枝條を分かつは、これを『華光』と謂い、国家に吉慶・昌盛の事あり、五穀は豊収し、別国の百姓もまた帰附に来らん。」《京房伝》はいう:「樹木が同じ根本にして末梢が分岐するは、君主の行事に法度あり、諸侯の朝見に来たる徴応である。」本を同じくして枝を異にするは、根本が一に帰し、枝葉が各々その所を得るの象を取るが故に、吉と断ず。
木の卒長
《地鏡》曰:“國治,樹木卒長自大,其君方有嘉。”京房《易傳》曰:“木成,員圍以上,一夜長數丈,當有臣強於君。”
《地鏡》はいう:「国家が治理してよければ、樹木は忽然と自ら高く大きく長ずるは、この君主は方に喜慶の事あらんとす。」京房《易伝》はいう:「樹木がすでに長成し、囲の粗さが一抱以上なるに、一夜の間に数丈を猛長するは、則ち君主よりも勢力強き臣子を出現せんとす。」同じく樹木の暴長なるも、一は吉と断じ、一は凶と断ず。その分別はまさに樹の初長かすでに成材かに在り。初長にして茂盛なるは生機なり、成材して復び暴長するは便ち僭越・過分の象である。
木が君の屋上および朝廷に生ず
《地鏡》曰:“木卒生人屋室上,其地出聖人。”京房《易傳》曰:“木生於君屋上及朝廷,其君有聖子。”
《地鏡》はいう:「樹木が忽然と人家の屋頂の上に長ずるは、この地方は聖人を出さんとす。」京房《易伝》はいう:「樹木が君主の屋頂の上あるいは朝廷の中に長ずるは、この君主は聖明の子を有さん。」屋上・朝廷は本より草木の生長する処にあらず、反常の事にして占家は吉と断ずるは、それが至尊の地に出現すればを以て、応ずる所は人材の瑞である。
木が木に生じおよび木の枝を垂る
《地鏡》曰:“木生木,國益土。”又曰:“木生枝盡向下者,大吉。”
《地鏡》はいう:「一本の樹の上にまた別の一本の樹を長出するは、国家は将に疆土を増広せん。」またいう:「樹の上に生じ出ずる枝條が尽く朝下に低垂するは、大いに吉なり。」樹の上に樹を生ずるは、その増益の象を取るが故に、開疆を主り、枝條が低垂するは、その謙下の象を取るが故に、大いに吉と断ず。
木が偃ねて自ら起ちおよび木の実有るに生ず
京房曰:“有偃木而起,歲有大吉。木生有實,其邑有慶。”
京房はいう:「すでに倒伏した樹がまた自ら新たに立ち起くるは、この年に大吉の事あり。樹木が生長して果実を結ぶは、この城邑は将に喜慶あらん。」倒木が復び起つは、敗れて復び興るの象なり。生じて実有るは、功の成る験あるが故に、両者は皆祥瑞の一類に属す。
竹木の咎徴
竹木の自ら死する・疾疫・時に非ざる枯落
《地鏡》曰:“竹柏枝遍一百里,是謂陰消,陽國必亡。”又曰:“竹柏夏枯,王侯失位。”又曰:“樹木非其時而枯,是謂金克伐,不出一年,暴兵外國來。”又曰:“凡樹忽生死,主易,兵將至。”又曰:“社樹自死,世主國君亡。”京房曰:“有木夏落葉,有兵喪。”京房《易侯》曰:“秋葉落七十步,人民移徙,大飛揚,人民離鄉。”《地鏡》曰:“木葉非時落,去本七十步,國有兵,民棄故鄉。”
《地鏡》はいう:「竹子と柏樹の枝條が連綿として遍く一百里に及ぶは、これを『陰消』と謂い、陽に属するあの国家は必ず滅亡せん。」竹柏は本より陰類にして、陰類が極処まで盛なるは、まさに陽気の消尽されたる象なり。またはいう:「竹子と柏樹が夏天に枯死するは、王侯は爵位を丢せんとす。」またはいう:「樹木がその時に到らずして枯萎するは、これを『金克伐』と謂い、一年を出でずして、外国の凶暴の兵は将に打ち来たらんとす。」またはいう:「およそ樹木が忽然と生長し、忽然と死去するは、主上は更換せんとし、兵禍は将に至らん。」またはいう:「社壇の上の神樹が自ら枯死するは、当世の君主は亡国せんとす。」京房はいう:「樹木が夏天に葉を落とすは、兵禍と丧事あり。」京房《易侯》はいう:「秋の落葉が七十歩の遠きに吹き出されるは、百姓は将に遷徙せん。落葉の飛揚するが又高く遠ければ、百姓はすなわち家乡を離れんとす。」《地鏡》はいう:「樹葉が時に到らずして落ち、樹身を離るること七十歩に達するは、国中に兵事あり、百姓は故郷を抛棄せん。」
木が生じて復び死す
京房《易侯》曰:“枯楊生荑,斷枯復生,天闢當之。”《地鏡》曰:“竹葦樹木,枯死忽復生,輔臣執政,流其令。”又曰:“枯木冬生,《易》謂陰陽易位,不出二年,國有喪,小人近,君子亡。”又曰:“木實當死者反生,世主凶。”京房《易傳》曰:“木枯而生,不及二年,國有大喪,上貪色,以寵人為主。”又曰:“枯楊生花,國後當之。”
京房《易侯》はいう:「枯干した楊樹が新たに嫩芽を抽出し、枯死を斬られた樹がまた活転するは、天子の身に応ず。」(「枯楊生荑」は本より《周易・大過》九二の爻辞にして、占家は爻辞を借りて占を立つ。)《地鏡》はいう:「竹子・芦葦と樹木が枯死した後に忽然とまた活転するは、輔政の大臣が朝政を把持して、自らその号令を擅りに頒行す。」またはいう:「枯木が冬天に萌生するは、《易》の内に陰陽の位置を換えたと称し、二年を出でずして、国中に丧事あり、小人は君主に親近することを得、君子は害を受けて亡ぶ。」またはいう:「樹木が結実した後に本当に枯死すべきが、かえって新たに生長するは、当世の君主に凶禍あり。」京房《易伝》はいう:「樹木が枯死してまた活くるは、二年に及ばずして、国に大喪あり、君上は女色を貪戀し、寵幸する所の人を以て主宰と為す。」またはいう:「枯楊が花を開き出ずるは、国母の皇后の身に応ず。」
木の冬に栄ゆ
《地鏡》曰:“木冬生,有兵,民流。一曰:君失政。又曰:木冬華,當生,反死。”京房曰:“木冬生,王者不平,有卿相出走。”又曰:“有木冬榮,黍不成。”又曰:“木冬生,國後當之。”
《地鏡》はいう:「樹木が冬天に生発するは、兵事あり、百姓は流散す。一説に、君主が政柄を失掉したと。またはいう:樹木が冬天に開花するは、本当に生長すべき時節に到ってかえって枯死す。」京房はいう:「樹木が冬天に生発するは、王者の政令は平ならず、公卿・宰相の出奔するあらんとす。」またはいう:「樹木の冬天に開花するあるは、黍子は成熟するを得ず。」またはいう:「樹木が冬天に生発するは、国母の皇后の身に応ず。」冬天は本より万物の収蔵の時にして、草木はかえって生発・開花するは、時序の倒錯に属するが故に、咎徴に列す。
木の再び栄ゆ
《地鏡》曰:“木一歲再花實,有兵,民流。”又曰:“木再榮,世主墮子,姬女致兵之象。”又曰:“桃再花,夏有霜;杏再花,夏有電;李再花,春有霜;榆再莢,有寬令,當死反生。”又曰:“木春冬再作實,世主凶;秋夏再花實,鄰國逼之。”京房曰:“木歲再花,國後當之。”又曰:“木一歲再實,鄰國來其國。”又曰:“木再榮於夏,後亡,國有喪,若五穀不熟,百姓罷作。”
《地鏡》はいう:「樹木が一年の内に両度に開花・結実するは、兵事あり、百姓は流散す。」またはいう:「樹木が両度に繁栄するは、当世の君主は子嗣を喪失せんとし、これは姬妾・女子を寵幸して兵禍を招来するの象である。」またはいう:「桃樹が二度に開花するは、夏天に霜を下さん。杏樹が二度に開花するは、夏天に閃電を打たん。李樹が二度に開花するは、春天に霜あらん。楡樹が二度に莢を結ぶは、寛赦の詔令ありてあらん、本当に処死すべきがかえって命を活せん。」またはいう:「樹木が春天と冬天に両度に結実するは、当世の君主に凶あり。秋天と夏天に両度に開花・結実するは、隣国が来たりて相逼せん。」京房はいう:「樹木が一年の内に両度に開花するは、国母の皇后の身に応ず。」またはいう:「樹木が一年の内に両度に結実するは、隣国の人は本国に来たるを要せん。」またはいう:「樹木が夏天に再度に繁栄するは、皇后は将に死せんとし、国中に丧事あり。あるいは五穀が熟せざれば、百姓は農事を停止せん。」
桑穀が朝廷に自生しおよび木が土に入らずして生ず
《地鏡》曰:“桑谷俱生於廟廷,世主廢賢,用不肖。”又曰:“木生,不入土而獨立,天下危。”
《地鏡》はいう:「桑樹と構樹が一同に宗廟の庭院の内に長ずるは、当世の君主は賢人を廃棄し、無才・無徳の輩を任用す。」またはいう:「樹木が生長し、根が土の内に扎入らずして孤零と直立するは、天下は危殆なり。」桑穀が朝廷に共生するは、殷代の太戊の時の有名なる灾異の故事にして、占家はその例を沿用し、それを朝政の荒廃の応験と当作す。根が土に入らざるは、則ちその依托すべき根本なきの象を取る。
木が道の中に卒生しおよび木の卒枝
《地鏡》曰:“木卒生道中,君失治,九宮廢。”又曰:“木無故一夜十枝聚生,邑將虛。”
《地鏡》はいう:「樹木が忽然と道路の当中に長ずるは、君主は治道を失掉し、九宫(明堂の九間の正室で、朝廷の号令を発する所在を象徴す)は荒廃す。」またはいう:「樹木が無故に一夜の間に十根の枝條を聚生するは、この城邑は将に空虚・無人と変ぜんとす。」道路は本より人馬の通行する処にして、樹はかえってその中を堵塞するは、まさに政令の壅塞・不通なる象である。
木の葉を傷ふおよび木が自ら鳴く
《地鏡》曰:“木生一枝,偏無葉,歲惡,民飢。”又曰:“木忽自鳴,主死;自鳴,作金聲者,主地方分裂。”
《地鏡》はいう:「樹木が一根の枝條を長出し、偏えにこの一根が葉を生を生ぜざるは、年景は悪劣にして、百姓は飢荒せん。」またはいう:「樹木が忽然と自ら声響を発出するは、主上は死せんとす。自ら声を発して金属の音の如くに聞ゆるは、国土は分裂せんと主る。」木は本より声なし、無故にして鳴くはすでに反常なり。鳴きて金石の声を作すは、さらに金の木を克する来たるなり。故に断語もまた則ち更に重し。
木の哭泣および血を出し併せて歯を生ず
《地鏡》曰:“樹木泣,天下有兵。”《京房飛候》曰:“樹哭,實邑虛,虛邑實。”《地鏡》曰:“木無故血出,及汁流出地,邑敗,有兵。”京房曰:“伐木有血,侯王有憂。”又曰:“林木生齒,有兵起。”
《地鏡》はいう:「樹木が人の如くに哭泣・流涙するは、天下に兵事あり。」《京房飛候》はいう:「樹木が哭声を発出するは、原本の人烟の稠密なる城邑は空虚に変ぜんとし、原本の空虚なる城邑はかえって充実して起こらん。」《地鏡》はいう:「樹木が無故に血を流出し、あるいは樹汁が满地に淌れるは、城邑は敗亡し、兵事あり。」京房はいう:「樹木を砍伐する時に血を流出するは、侯王に憂患あり。」またはいう:「林中の樹木が歯を長出するは、兵事の興起あり。」草木は本来に血なく歯なし、一旦これ有れば、便ち物類の本性を失するなり。占家は一概に兵象と断ず。
楡莢が落ちず
京房曰:“榆莢不落,國受大咎。”
京房はいう:「楡樹の莢果が時に到ってなお脱落を肯ぜざるは、国家は大さなる灾殃を遭受せんとす。」楡莢は春に生じ夏に落つるは各々その時あり。落つべくして落ちざるは、すなわち去るべき者が去らず、謝るべき者が謝ぜざるなり。故に大なる禍殃と占す。
竹の実・枝を反す
《地鏡》曰:“竹實,眾鳥群行,不出二年,大飢。”又曰:“竹忽實而枯,主易,民飢。”又曰:“國中竹皆盡枯,地失。”
《地鏡》はいう:「竹子が子実を結ぶは、衆鳥は群れを成して飛来して啄食し、二年を出でずして、大さなる飢荒あらんとす。」またはいう:「竹子が忽然と結実して随いて枯死するは、主上は更換し、百姓は飢を捱せん。」またはいう:「国中の竹子が皆尽く枯すは、国土は将に喪失せんとす。」竹子は多年を経て始めて一度結実し、結実した後に随いて枯死するは、本よりその常性なり。占家はこの成片なる枯竭を看作して地気の衰敗・年穀の登らざる先兆と為す。
黍穄に疣を生ず
《京房易傳》曰:“黍生疣,大君有憂,相去亡;穄生疣,大君憂,大臣死。”
《京房易伝》はいう:「黍子の上に賚瘤を長出するは、大君に憂患あり、宰相は離職・出走せんとす。穄子(黏らざる黍)の上に賚瘤を長出するは、大君に憂あり、大臣は死亡せん。」穀物が疣を生ずるは、本体の外に無用の賚余の物を多出するなり。占家は便ち用いて朝廷の上に多余にして有害なる人事の出現したるに比附す。
蓬葉が生ず
《京房易傳》曰:“蓬葉繁興,歲不熟。”
《京房易伝》はいう:「蓬蒿の葉子が格外に繁茂に長ずるは、この年に庄稼は熟せず。」蓬は田間の野草にして、野草が地力を奪い去りて独り盛なるは、禾稼は自然と歉収す。占家はこれに由りて年成の好からざるを推知す。
開元占経巻一百一十三
人および神鬼占
人の名体
《春秋說題辭》曰:“人者,仁也。以心合也。(宋均曰:與他相偶合也。)《易》曰:立人之道,曰仁與義。”《春秋繁露》曰:“人有三百六十六節。耳目之明,日月之象;外有四支,副時數也;乍視乍暝,副晝夜也;乍哀乍樂,副陰陽也。。”《白虎通》曰:“人有五藏六府,所應五行六合也。”《大戴禮》曰:“天地人,一二三,三三九,九九八十一,主日,日數十,故人十月而生,人生期晬,然後行,三年,頭然後合焉。”《孝經援神契》曰:“頭圓法天,足方象地,五藏象五行,四支法四時,九竅法九州,兩目法日月,肝仁、肺義、脾信、心禮、膽斷、腎智、旁光,鬚髮象星辰,節象月歲,腸法經緯。”
《春秋説題辞》(漢代の春秋緯の一つで、もっぱら経文の名義を解釈す)はいう:「いわゆる人とは、すなわち仁なり、心をもって人と相合す。」(原書の小注:宋均はいう、他人と両々配合するの義である。)「《易》の内にいう:人道を確立するを、これを仁と義と謂う。」《春秋繁露》(董仲舒の天人の相副を論じた書)はいう:「人の身上に三百六十六箇の骨節あり、一年の日数と相当す。耳の聡く目の明るきは、日月の象なり。身外に四肢あり、四時の数と相副す。しばらく眼を開きしばらく目を閉づるは、昼夜と相副す。しばらく悲哀ししばらく歓楽するは、陰陽と相副す。」《白虎通》はいう:「人に五臓六腑あり、対応する所は五行と六合なり。」《大戴礼》はいう:「天・地・人は分別に一・二・三に配し、三三に九を得、九九に八十一と為り、日を主管す。日の数目は十なり。故に人は十月を懐胎して出生す。人は生まれて一週歳に満ちて、然る後に始めて歩くことを得。三歳に到って、頭頂の囟門は始めて合攏せん。」《孝経援神契》はいう:「頭は円なり、天に取法す。足は方なり、地に取象す。五臓は五行に取象し、四肢は四時に取法し、九竅は九州に取法し、両只の眼睛は日月に取法す。肝は仁に配し、肺は義に配し、脾は信に配し、心は礼に配し、胆は決断を主り、腎は智慧を主り、この外にまた膀胱あり。須髪は星辰に取象し、骨節は月と歳に取象し、腸子は天地の経緯に取法す。」
人の瑞
真人
《禮斗威儀》曰:“君乘土而王,其政太平,黃真人遊於後池。”(宋均注曰:黃,土色;遊於後宮之池,則黃帝問道於玄女素女是也。)孫氏《瑞應圖》曰:“真人者,黃帝時遊於池,王者著德不貪貨利,則金人乘金船,遊王后池。”又曰:“王者德至,則金人遊於池。”
《礼斗威儀》はいう:「君主が土徳を承けて王と称し、政治が太平なれば、黄色の真人は後宮の池上に遨游す。」(原書の小注:宋均の注はいう、黄は土の顔色なり。後宮の池中に遨游するは、すなわち黄帝が玄女・素女に道を問うあの一類の事である。)孫氏《瑞応図》はいう:「いわゆる真人とは、黄帝の時に池上に遨游した神人である。君王がその徳を彰明にして財貨の利を貪図らざれば、すなわち金人ありて金船に乗り、王の後池に游せん。」またはいう:「王者の德行が極処に到れば、すなわち金人ありて池中に游ぶ。」
玉女
《禮含文嘉》曰:“禹卑宮室,盡力溝洫,百穀用成,玉女敬降養。”(宋均注云:玉女,有人如玉色也,天降精,生玉女,使能養人,美女玉色,養以延壽也。)
《礼含文嘉》(漢代の礼緯の一つ)はいう:「大禹は簡陋なる宮室に住み、力を尽くして溝洫を疏通し、百穀はこれに因りて豊成し、玉女は便ち恭敬に降りて彼を奉養す。」(原書の小注:宋均の注はいう、玉女とはすなわち膚色が玉の如き人である。上天が精気を降下し、玉女を生出して、彼女に能く人を奉養せしむ。美女は玉の一般の容色を生得し、君王を奉養してもって寿命を延長す。)
賢聖が進む
《春秋繁露》曰:“君恩及倮蟲,城郭充實,則賢聖皆進。”鄭玄注《論語》云:“周公相成王,致太平時,四乳而生八子,皆有賢行,和氣之所致也。”
《春秋繁露》はいう:「君主の恩沢が倮虫(羽毛・鱗甲なき一類にして、人はすなわち倮虫の長なり)に施及し、城郭の内に戸口が充実すれば、賢人・聖者は便ち皆朝に進用せん。」鄭玄の《論語》注はいう:「周公が成王を輔佐して太平を招致した時、婦人ありて四度分娩して八箇の児子を生下し、個々に皆賢徳の行為あり。これは天地の和気の感召して来たる所である。」《論語》の記する所の「周に八士あり」は、旧説はまさに一母の生ずる四対の孿生の兄弟である。
長人が見ゆ
《魏志》曰:“咸熙二年,晉太子昭封襄武縣,言有大人見,長三丈,餘跡長三尺二寸,白巾,著黃單衣,黃巾,柱杖,或雲今當太平。”
《魏志》はいう:「魏の元帝の咸熙二年、晋の太子(司馬)昭の封じたる襄武県は上報していう:巨人の出現するありと。身の高さは三丈、遺したる足跡の長さは三尺二寸、頭上に白巾を裹み、身に黄色の単衣を著け、また黄巾を係え、拐杖を柱く。ある人はこれを今将に天下は太平せんとすることを預示すと謂う。」これはまさに魏晋の易代の際の事にして、その後に司馬氏は魏禅を受けて晋を建て、当時の人は便ち長人の現身を附会して改朝换代の符瑞と為す。
人の怪
長人が国に入る
京房曰:“君暴亂,疾有道,厥妖長狄入國。”《左傳》:“文公十一年,敗狄於咸。”《谷粱》、《公羊傳》曰:“長狄也,兄弟三人,一者之魯,一者之齊,一者之晉,煞之,身橫九畝,(五丈四尺)斷其首而載之,眉見於軾。何以書?記異也。劉向以為,時周室衰微,三國為大,可責者也。天戒若曰:不行禮義,大為夷狄之行,將致危亡。其後三國皆有篡逆之禍,近下人伐上之痾也。”
京房はいう:「君主が暴虐・昏乱にして、道ある人を忌恨すれば、相応する妖異はすなわち身量の奇高なる長狄の国境に進入するなり。」《左伝》の記はいう:「魯の文公十一年、咸の地に於て狄人を打敗せり。」《谷梁伝》《公羊伝》はいう:「これは長狄なり、兄弟三人あり、一つは魯国に到り、一つは斉国に到り、一つは晋国に到る。それを殺し、尸身は横躺して九畝を占め(原書の小注:折合して五丈四尺)、その頭を斬って車上に装載すれば、眉毛はなお車前の横木より高し。なんの故にこの事を記するや。異常の象を記載するを為すなり。劉向は以為す、当時に周王室は衰微し、魯・斉・晋の三国の勢力は最も大にして、応に責備を受くべき者なり。上天の告誡は髣髴として謂う:礼義を推行せず、一味に夷狄の行径を做せば、将に危亡を招致せんと。後に三国は皆簒弑・叛逆の禍を発生せり。これは在下の者の在上の者を討伐する病象に属す。」
《史記》:“秦始皇帝二十六年,有大人長五丈,足跡六尺,皆夷狄服,凡十二人,見於臨洮。天戒若曰:大為夷狄之行,將受其禍。是歲秦始皇初並六國,反患以為瑞,銷天下兵器,作金人十二像之,自言賢聖,燔《詩》、《書》,坑儒士,奢媱暴虐,務欲廣地,南戍五嶺,北築長城,以備胡越,塹山填谷,西自臨洮,東至大連,東西徑數千里,故大人見於臨洮,明禍亂之起也,後十四年而秦亡。”
《史記》の記はいう:「秦の始皇帝二十六年、身の高さ五丈の巨人あり、脚印の長さは六尺、皆夷狄の衣服を著け、一共に十二人、臨洮に出現せり。上天の告誡は髣髴として謂う:一味に夷狄の行径を做せば、将にその禍患を承受せんと。この年に秦の始皇は剛に六国を併呑し、かえってこの場の禍患を当作して祥瑞と為し、天下の兵器を銷熔し、十二箇の金人を鋳成して彼らに仿照し、自ら賢聖と称し、《詩》《書》を焚焼し、儒生を坑殺し、奢侈・淫佚・残虐・苛虐にして、一心に疆土を開拓せんと欲し、南辺に五嶺を戍守し、北辺に長城を修築し、用いて胡人と越人を防備し、山岡を塹断し、溝谷を填平し、西は臨洮より起り、東は大連に至り、東西は数千里を横貫す。故に巨人が臨洮に現身するは、まさに禍乱のこれに由りて起るを表明す。その後十四年にして秦朝はすなわち滅亡せり。」
人が走りて宮室に入る
《春秋潛潭巴》曰:“有人入宮之禍,極效之驗也。”又曰:“有人走入宮,不知其名,大水為災,國驚,群猾並謀。”《漢書五行志》曰:“成帝建始三年七月丁未,渭上女子陳持弓,年九歲,言大水至,走入城,入未央宮尚方掖門,殿門門內諸衛戶者莫見,至鉤盾省乃見,民驚走上城,此下將篡國,因女寵有宮室之象也。後王氏兄弟父子,五侯秉權,至莽卒篡天下。”
《春秋潜潭巴》(漢代の春秋緯の一つ)はいう:「外人の宮禁に闖入する禍事は、灾異の極処に応験する証験である。」またはいう:「人ありて宮中に跑り入り、誰もその姓名を知らざるは、将に大水ありて灾を為し、举国は驚擾し、一群の奸猾の徒は同時に作乱を図謀せん。」《漢書・五行志》はいう:「漢の成帝の建始三年七月丁未日、渭水辺に名を陳持弓と謂う女子あり、年紀はわずかに九歳、大水は将に来たると謂い、京城に跑り入り、未央宮の尚方掖門に闖入す。殿門以内の門を守る衛士は竟に一人も彼女を見ず、鉤盾署に到って始めて人に発覚せられたり。百姓は驚慌し、紛紛として城墻の上に跑上す。これは在下の者が将に国柄を簒奪し、女寵に凭借して宮室を占拠するの象なり。後に王氏一門の兄弟・父子は五人が侯を封ぜられ権を秉り、王莽に到って終に天下を簒奪せり。」
又曰:“成帝綏和二年八月庚申,鄭通裡男子王褒,衣絳衣小冠,帶鉤,入北司馬殿東門,上前殿,入非常室,解帷組結佩之,曰:天帝令我居此署。長業等收縛考問,褒故公車大誰卒。(應劭曰:在司馬殿門掌權呵也。)病狂易,不自知入宮。後王莽篡之象。”
またはいう:「成帝の綏和二年八月庚申日、鄭県通里の男子・王褒は、絳色衣を著け小冠を戴き、帯鈎を係え、北司馬門の殿東門に闖入し、前殿に登上り、非常室に進入し、帷帳の上の絲帯を解きて結を打ちて身に佩びていう:天帝は我にこの官署に住ましめんと命ず。長業等は彼を捆り挙げて審問せば、原来王褒は从前に公車署の『大誰卒』を当过りき。(原書の小注:応劭はいう、すなわち司馬殿門に盤査・喝問を掌管する差役である。)彼の害する所は癲狂病にして、自らもどうして宮に進入したかを知らず。これは後の王莽の簒位の先象である。」
《續漢書》云:“靈帝光和中,洛陽男子以弓箭射闕北,吏收考問,辭居貧負責,無所聊生,因買弓箭以射闕,近射妖也。其後車騎將軍何苗與兄大將軍進,部曲相疑,對相攻擊,戰於闕下,苗死敗,殺數千人,洛陽宮室因火延燒盡。”《風俗通》曰:“靈帝光和元年,南宮中黃門寺,有一男子長九尺,白衣,中黃門吏呵問:汝何等人?白衣妄入宮曰:我梁伯夏,天使我為天子。吏欲收取,忽不見。董卓之應也。”
《続漢書》はいう:「漢の霊帝の光和中、洛陽に一箇の男子ありて弓箭を用いて宮闕の北面を射し、官吏は彼を捕え去りて審問せば、彼は供称して、家は窮にして債を負い、活き下きることを得ず、これに因りて弓箭を買いて宮闕を射るに至れりと。これは『射妖』の一類に近し。後に車騎将軍・何苗と彼の兄の大将軍・何進の両家の部曲は互相いに猜忌し、彼此に攻撃し、宮闕の下に於て交戦し、何苗は兵を敗れて殺され、数千人が死し、洛陽の宮室もまた大火に延焼して殆ど尽きたり。」《風俗通》はいう:「霊帝の光和元年、南宮の中黄門の官署の内に、一箇の男子ありて身の高さ九尺、一身に白衣なり。中黄門の吏員は喝問していう、汝は何人なれば白衣を著けて擅自に宮に闖入するやと。彼はいう、我は梁伯夏と叫び、上天は我を派して天子を做らしめんとすと。吏員は彼を捕えんと欲せば、彼は忽然としてすなわち見えず。これは董卓の乱政の応験である。」
王陵《晉書惠帝紀》曰:“齊王同為大司馬,十二月,有白頭老公入司馬府,大呼:有大兵起,不出甲子旬。即收都衛考,竟殉於內,外演。”《晉漢春秋》曰:“齊王同輔政大安元年,有一婦詣大司馬門,求寄產,吏乃詰之,婦曰:待我截臍便去。言訖不見,有位者聞而惡焉,至二年而同被誅。”
王陵《晋書・恵帝紀》はいう:「斉王の冏(本書は『同』と作す)が大司馬に出任す。十二月の内に、白頭の老翁ありて大司馬府に闖入し、高声に喊びていう、大兵将に起こらんとし、甲子のこの一旬を出でずと。当に都衛に収捕・拷問せられ、最後に府内に死すれども、消息は外面に伝揚し出でたり。」《晋漢春秋》はいう:「斉王の冏が政を輔する太安元年、一箇の婦人ありて大司馬府の門前に来たり、地方を借りて生産せんことを求む。吏員は彼女を盤問せば、婦人はいう、我を待ちて臍帯を剪断せば便ち去らんと。話す已んで人はすなわち見えず。位ある者は聞きて後に深く悪と為し、第二年に到って司馬の冏は果して誅殺せられたり。」
訛言
《漢書王莽傳》曰:“建國元年,長安狂女子碧,呼道中:高皇帝大怒,趣歸我國,不者九月殺汝。莽收捕殺之。”《幽州錄》曰:“吳郡張茂度在益州時,忽有人道朝廷誅徐羨之、傅亮、謝晦三人,遂傳紛紜,張推問造言之主,問何由言此,答曰:實無所承,恍惚不知言之耳。張鞭之,傳者遂息,後乃驗,日月正與符同。”
《漢書・王莽伝》はいう:「始建国元年、長安に発狂した女子ありて名を碧と謂い、路の上に高喊していう、高皇帝は大いに震怒し、速やかに我が国家を還帰せよ、然らざれば九月の内に汝を殺さんと。王莽は彼女を捕え挙げて殺せり。」《幽州録》はいう:「呉郡の人・張茂度が益州の任上に在る時、忽然と人ありて朝廷が徐羡之・傅亮・謝晦の三人を誅殺したと伝説し、すなわちち流言は紛紛たり。張茂度は謡を造る人を追查し、彼に問うてなんに凭りてかくの如く講ずるやと。あの人は回答して、実に来路ある所なく、恍恍惚惚としてすなわち説き出づるのみと。張茂度は彼を鞭打せり、伝言はこれに始めて平息す。後に事情は竟に応験し、日期・月份すら伝うる所と相合せり。」
沈約《宋書》曰:“大明二年,民築治廣陵城,劉誕出巡行,有人楊聲大罵,曰:大兵尋至,何以辛苦百姓?使執之,問其本末,答曰:夷姓名孫,家在海陵,天公與佛道共議,欲燒此間人民,道佛苦諫,強得至今,大禍將至,何不立六慎門?誕問:六慎雲何?答曰:古言,禍不過六慎門。誕以其言狂悖,殺之。又五軍士忽狂,見鬼驚怖啼哭,曰:外軍圍城,城上張白布帆。執錄二十餘日乃散,築城之日,雲霧晦暝,白虹臨門,連蜀城內。”
沈約《宋書》はいう:「大明二年、百姓は広陵城を修築・整治す。竟陵王・劉誕は出でて巡行せば、人ありて声を揚げて大罵していう、大軍はすぐに至らん、なんの故にまた百姓を苦累するやと。劉誕は人に彼を捕えしめ、彼の来歴・始末を問えば、あの人は回答していう、我は姓を夷、名を孫とし、家は海陵にあり。天公と仏道は一同に商議して、この一帯の百姓を焼死せしめんと欲せり。仏道は苦苦に勧諫して、始めて勉めて今日に拖延す。大禍は将に至らん、なんの故に『六慎門』を立起せざるやと。劉誕は問う、六慎とはなんぞやと。回答していう、古話にいう、禍患は六慎門を過ぎずと。劉誕は彼の言語を狂悖と認め、彼を殺せり。別に五名の軍士ありて忽然と発狂し、鬼を見て驚恐・啼哭していう、外面の軍隊は城を囲めり、城頭の上に白布帆を張れりと。彼らは二十余天を拘押せられて始めて散去せり。城を築くあの日、雲霧は昏暗にして、白色の虹霓は城門の上に圧し、直に城内に連入せり(『蜀城』は当に城中の一処の地名)。」
童謡
《漢書五行志》曰:“言之不從,是謂不義,時則有詩妖,君亢陽而虐,臣畏刑而箝口,則怨謗之氣,發於歌謠,故有詩妖。”《鴻範五行傳》曰:“下既非君上之刑,畏嚴刑而不敢正言,則先發於歌。歌,口事也。氣逆則惡言至,或有怪謠,以此占之,故曰詩妖。古者人君必視人民,聽其歌謠,以省國政。”
《漢書・五行志》はいう:「言語が理に順うこと能わざるは、これを不義と謂い、あの時にすなわち『詩妖』を出現せんとす。君主は剛愎・暴虐にして亢盛の陽の如く、臣下は刑罰を害怕して口を閉じて言わず、ここに於て怨恨・毀謗の気は歌謡の内に発泄す。故に詩妖あり。」《鴻範五行伝》(漢代に《尚書・洪範》に依りて灾異を推説した書)はいう:「下の人は本より君上の刑政を非議するも、厳刑を害怕して直言すること敢えず、すなわち先ず歌唱の内に発泄し出ず。唱歌は口舌の事なり。気機が悖逆すれば、悪言はすなわち随いて来たる。時にまた古怪の歌謡を出現するあり、占家は便ちこれに拠りて推断す。故に詩妖と謂う。古の君主は必ず民情を察看し、百姓の歌謡を傾聴して、用いて国政を省察す。」
《左傳》曰:“僖公五年,晉侯伐虢,八月甲午,圍上陽,問卜偃曰:吾其濟乎?對曰:克之。公曰:何時?對曰:童謠有雲,丙之晨,龍尾伏辰,(龍尾,尾星也。日月之會曰辰,日在尾,故尾星伏而不見也。)均服振振,取虢之旗,(戎事上下同服。振振,盛貌;旗,軍之旌旗也。)鶉之賁賁,天策焞焞,火中成軍,虢公其奔。
《左伝》はいう:「魯の僖公五年、晋の献公は虢国を討伐し、八月甲午日に上陽城を包囲せり。卜偃に問うていう、我はこの回に事を成すことを得るやと。回答していう、能く攻下せんと。献公はいう、いつの時ぞやと。回答していう、童謡の内に唱えていう、丙の日の清晨、竜尾星は日月の交会する処に隠伏す(原書の小注:竜尾とはすなわち尾宿なり。日月の交会を辰と謂い、太陽が尾宿に行れば、故に尾星は隠伏して見えず)、将士は一色の戎装を著け、軍容は盛壮にして、虢国の旗幟を奪取せん(原書の小注:兵事の中に上下は同様の服色を著く。振振は盛壮の様子なり。旗は軍中の旌旗なり)、鶉火の星は光彩閃耀し、天策星は暗淡・無光にして、鶉火星が南方の正中に行るを待って、軍事は便ち成功を告げ、虢公はすなわち将に出奔せんとす。」
(鶉,鶉火星也;賁賁,鳥星之體也;天策,傅說星;時近日,星微;焞焞,無光耀也。言丙子平旦,鶉火中,軍事有成功也。此已上皆童謠言也,童子未有念慮之惑,而會成嬉戲之言,似有所憑者,其言或中或否,博覽之士,能懼思之人,兼而志之,以為炯戒,以為將來之驗,有益於世救。)其九月、十月之交?(以星驗之,知九月、十月之交,謂夏之九月、十月也。交,晦朔交會。)丙子旦,日在尾,月在策,(是夜日月合朔於尾,月行疾,故至且過,在策。)鶉火中,必是時也。冬十二月丙子朔,晉滅虢,虢公丑奔京師。”(周之十二月,夏之十月也。)
(原書の小注:鶉は鶉火星を指す。賁賁は鳥星の体貌を形容す。天策はすなわち傅説星にして、当時に太陽に近づき、星光は微弱なり。焞焞は光耀なき様子なり。これは丙子の日の天剛に亮きた時に、鶉火星は正しく南方の中天に当たり、軍事は将に成功有らんとすることを謂う。以上は皆童謡の内の話である。児童の心里には未だ思慮の成見なく、凑合して嬉戯の言を成し、却って所の凭依あるかの如し。この類の話はあるは応験し、あるは験ならず、見聞の広博なる士と能く戒惧の心を存する人はそれらを一併に記下来し、当作して明白の鑑戒、当作して将来の検証と為し、世事を救助するに益あらんとす。)卜偃は続いていう、大抵九月・十月の交あたりか。(原書の小注:星象を用いて検証すれば、知るべくして九月・十月の交にして、夏暦の九月・十月を指す。交は月末・月初の交接の時なり。)丙子の日の清晨、太陽は尾宿にあり、月は天策星にあり(原書の小注:この夜に日月は尾宿に於て合朔し、月の行るは疾きが故に、時に到ってすでに越過し、天策に行れり)、鶉火星は南方の中天に当たり、必ずこの時なり。冬の十二月丙子の朔日、晋国は虢国を滅掉し、虢公の丑は周天子の京師に出奔せり。」(原書の小注:周暦の十二月はすなわち夏暦の十月である。)
《左傳》曰:“文成之世,童謠曰:‘鸜之鵒之,公出辱之。鸜鴒之羽,公在外野,往饋之馬。鸛鵒跦跦,公在乾侯,徵褰與襦。鸜鵒之巢,迄哉搖搖,稠父喪勞,宋父以驕。鸜鵒鸜鵒,往歌來哭。’至昭公時,鸜鵒來巢,公攻李氏,敗,出奔在外野,次乾侯。八年,薨於外,歸葬。魯昭公名稠,公子宋立,是為定公。”
《左伝》はいう:「魯の文公・成公の年代、童謡ありて唱えていう、『鸜鵒や鸜鵒、国君は出奔して屈辱を受く。鸜鵒の羽毛や、国君は野外に流落して、人ありて馬を彼に送る。鸜鵒は跳ね蹦蹦として、国君は乾侯に困りて、また人に衣袴を討要せざるを得ず。鸜鵒は窩を作り起こし、国君は遥かに走りて飘摇・不定にして、稠父は外に労苦して死し、宋父はこれに因りて驕矜せり。鸜鵒や鸜鵒、去る時は歌を唱えて、帰る時はただ哭のみ』と。魯の昭公の時に到って、鸜鵒は果して飛来して巣を築き、昭公は季氏(本書は『李氏』と作す)を進攻し、兵は敗れ、出奔して野外に流落し、乾侯に住せり。八年の後に外地に死し、霊柩は始めて運回して安葬せらる。魯の昭公は名を稠と謂い、後に公子の宋は即位し、これがすなわち魯の定公なり。」歌謡の内の『稠父』『宋父』は、まさにこの两位の国君を指す。
《異苑》曰:“秦世有童謠云:‘秦始皇,奄僵僵,開吾戶,擄吾床,飲吾酒,唾吾漿,食飲以為糧,張弓射東牆,前至沙丘當滅亡。’始皇既坑儒焚典,乃發孔子墓,欲取經傳,壙既啟,悉如謠者之言。又言謠文藏在冢壁,始皇甚惡之,反問之,還沙丘而修別路,見群小兒輦沙為阜,問之,云:‘沙丘也。’從此得疾而殂。”
《異苑》(南朝の劉敬叔の撰した志怪の書)はいう:「秦代に童謡ありて唱えていう、『秦の始皇、直挺挺として、我が門を開き、我が床を掳め、我が酒を飲み、我が漿に唾き、これらの吃喝を口粮と為し、弓を張って東墻を射り、沙丘に走到れば則ち滅亡すべし』と。秦の始皇は儒生を坑殺し・典籍を焚毀した後に、また孔子の墳墓を挖開し、内の経伝を取出さんと欲せり。墓室は一たび打開せられ、情形は竟に歌謡の謂う所と全く同じなり。またはいう、あの段の謡辞はすなわち墓壁の上に写蔵せりと。始皇は非常に悪み、かえってその事を追問せり。回程に特に沙丘を繞開して別路を修めしが、一群の小孩の車に沙を推して小丘を堆みたるを見、彼らに問えば、回答していう『これは沙丘なり』と。これより彼は病を得て死せり。」
《漢書五行志》曰:“元帝時童謠云:‘井水溢,滅灶煙。灌玉堂。流金門。’至成帝建始二年三月戊子,北宮中井泉水溢出南流,象春秋時有鸛鵒之謠,而後有來巢之驗。井水,陰也;灶煙,陽也;玉堂、金門,至尊之居,象陰盛而滅陽,竊有宮室之應也。王莽生於元帝初元,四年成帝封為三公輔政,因以篡位。”
《漢書・五行志》はいう:「元帝の時に童謡ありて唱えていう、『井水は漫溢し、灶烟を滅し、玉堂を淹れ、金門に流る』と。成帝の建始二年三月戊子日に到って、北宮中の井泉は果して湧出して南に流れ去れり。これは春秋の時に先ず鸜鵒の謡ありて、後に鸜鵒の来巢する応験あるの如し。井水は陰に属し、灶烟は陽に属す。玉堂・金門は至尊の居住する処なり。これは陰気の盛にして陽気を撲滅し、人ありて宮室を窃拠するの応験なり。王莽は元帝の初元年間に生まれ、成帝四年に彼を封じて三公として政を輔せしめ、彼は便ちこれに凭りて帝位を簒奪せり。」歌謡の内の井水と灶烟、玉堂と金門と両々対挙するは、まさに陰陽の消長と宮室の主を易うるのこの二重の意象を用いて、外戚の大位を窃拠するを預告す。
又曰:“成帝時童謠曰:‘燕燕尾涎涎,張公子,時相見。木門倉琅根,燕飛來,啄皇孫。皇孫死,燕啄矢。’其後帝為微行出遊,常與富平侯張放俱稱富平侯家人,過河陽公主作樂,見舞者趙飛燕而幸之,故曰:燕燕尾涎涎,美好貌也;張公子,謂富平侯也;木門倉琅根,謂宮門銅鍰,(服虔曰:門銅樞也。應劭曰:門銅鋪首環也。蘇林曰:鍰音環。)言將尊貴也;後遂立為皇后。弟昭儀賊害後宮,皇子卒,皆伏辜,所謂‘燕飛來,啄皇孫,皇孫死,燕啄矢。’者也。”
またはいう:「成帝の時に童謡ありて唱えていう、『燕子や燕子、尾巴は光溜溜、張公子、時時に来たりて相見す。木門の蒼青の門環の根、燕子は飛来して、皇孫を啄傷す。皇孫は死せり、燕子は糞を啄む』と。後に成帝は微服して出游し、つねに富平侯・張放と同行し、皆自ら富平侯家の人と称せり。河陽公主家を路過して宴飲・作楽し、歌舞する趙飛燕を見て便ち彼女を寵幸せり。故にいう、『燕燕尾涎涎』は彼女の姿容の美好なるを形容す。『張公子』は指す所は富平侯・張放なり。『木門倉琅根』は指す所は宮門の上の銅環なり(原書の小注:服虔は門上の銅枢と謂い、応劭は門上の銅鋪首の環と謂い、蘇林はいう、鐶は環と読む)、これは彼女の将に顕貴ならんとすることを謂う。後に果して皇后に立てられたり。彼女の妹の趙昭儀は後宮を残害し、皇子は連続して夭亡し、事の発覚して後に皆法に伏せり。これがすなわち歌謡の内の謂う所の『燕飛来、啄皇孫、皇孫死、燕啄矢』なり。」
又曰:“成帝時,童謠曰:‘邪徑敗良田,讒言亂善人。桂樹花不實,黃爵巢其巔。昔為人所羨,今為人所憐。’桂樹赤色,漢家象;花不實,無繼嗣也。王莽自謂黃象,黃爵巢其巔,象也。”《續漢書》曰:“更始時,南陽有童謠,曰:‘諧不諧,在赤眉;得不得,在河北。’是時更始在長安,世祖為大司馬,平定河北,更始大臣並見煞,是更始之不諧,在赤眉也,世祖由河北興。”
またはいう:「成帝の時に童謡ありて唱えていう、『斜めに挿む小路は良田を毀壊し、讒を進む話は善人を攪乱す。桂樹は花を開くも結果せず、黄雀は樹頂の上に窩を做る。从前は人に羨まれ、如今は人に憐れまる』と。桂樹は赤色にして、漢家の象なり。開花して結実せざるは、後嗣なきなり。王莽は自ら黄色の徳に応ずと謂い、黄雀が樹頂に巣を築くは、まさに彼の漢室を取代するの象なり。」《続漢書》はいう:「更始帝の時、南陽に童謡ありて唱えていう、『成るか成らぬか、赤眉を見よ。得るか得ぬか、河北に在り』と。当時に更始帝は長安にあり、世祖の光武帝は大司馬に任ぜられて河北を平定す。更始の大臣は一斉に殺され、これがすなわち更始の成らざる所以にして、赤眉軍の身に応じ、世祖はまさに河北より興起せり。」
又曰:“世祖建武中,蜀童謠曰:‘黃牛白腹,五銖當復。’是時公孫述僭號於蜀,時人竊言:‘莽稱黃,述欲繼之。故稱白腹;五銖,漢家貨,明當復也。’述遂誅滅。”又曰:“順帝之末,京都童謠曰:‘直如弦,死道邊;曲如鉤,反封侯。‘案順帝即世,孝質短祚,大將軍梁冀貪,樹疏幼李固,以為清河,雅性聰明,敦詩悅禮,加以屬親,立長則順,置善則固,而冀私白太后,策免固,因徵蠡吾侯,遂即至尊,固由是結怨,幽斃於獄,暴尸道路,而太尉胡廣封安樂鄉侯,司徒趙戒廚亭侯,司空袁陽安國亭侯。”
またはいう:「世祖の建武年間、蜀地に童謡ありて唱えていう、『黄牛に白い肚、五銖銭は帰来すべし』と。当時に公孫述は蜀中に於て僭号して帝と称し、時人は私下に議論していう、『王莽は自ら黄徳に応ずと謂い、公孫述は彼に接続せんと欲し、故に白腹と謂う。五銖銭は漢家の銭幣にして、分明に漢室の当に復すべしと謂う』と。後に公孫述は果して誅滅せられたり。」またはいう:「順帝の末年、京城に童謡ありて唱えていう、『正直にして弓弦の如きは、路辺に倒死す。彎曲して鈎子の如きは、かえって侯を封ぜらる』と。按ずるに:順帝は去世し、質帝は位に在ること短促にして、大将軍・梁冀は権を貪り、疏远にして年幼なる宗室を扶植せんと欲せり。李固は以為す、清河王は秉性が聡明にして、《詩》を篤好し礼を喜愛し、加えるにまた近親なり。年長を論ずれば彼を立つるを以て始めて理に順い、賢善を論ずれば彼を立つるを以て始めて穏当なりと。しかるに梁冀は私下に太后に禀白し、策書を用いて李固を罷免し、改めて蠡吾侯を徴召して、彼を帝位に登らしめたり。李固はこれに因りて仇怨を結び、幽禁されて獄中に死し、尸首は路旁に暴露せられ、太尉の胡広はかえって安楽郷侯を封ぜられ、司徒の趙戒は厨亭侯を封ぜられ、司空の袁陽は安国亭侯を封ぜられたり。」歌謡の譏る所は、まさにこの事なり。
又曰:“桓帝之時,京都童謠曰:‘城上烏,尾畢逋。父為吏,子為徒。一徒死,百乘車。車班班,入河間。河間奼女工數錢,以錢為室金為堂,石上慊慊舂黃梁,梁下有懸鼓,我欲擊之丞卿怒。’案此謠皆謂為政貪也。
またはいう:「桓帝の時、京都に童謡ありて唱えていう、『城上の烏、尾は畢逋と翹る。父は吏を為し、子は徒を為す。一徒死して、百乗の車。車は班班と、河間に入る。河間の姹女は数銭に工し、銭を以て室を為し、金を以て堂と為す。石の上に慊慊として黄梁を舂き、梁の下に懸鼓あり、我は之を撃たんと欲するも丞卿は怒る』と。按ずるにこの謡は皆政を為す者の貪なるを謂う。
‘城上烏,尾畢逋’者,處高利獨,食不與下共,謂人主多聚斂也;‘父為吏,子為徒’者,言蠻夷將叛逆,父既為軍吏,其子又為卒徒,往擊之也;‘一徒死,百乘車’者,言前一人往討廣既死矣後,又遣百乘車往也;‘車班班,入河間’者,言桓帝將崩,鑾輿班班,入河間迎靈帝也;‘河間奼女工數錢,以錢為室金為堂’者,言靈帝既立,其母永樂太后,好聚金錢以為堂室也;‘石上慊慊舂黃梁’者,永樂雖積金錢,猶慊慊常若不足,使人舂黃粱而食之也;‘梁下有懸鼓,我欲擊之丞卿怒’者,永樂教靈帝,使賣官受錢,所祿非其人,天下忠篤之士怨望,欲擊懸鼓以求見丞卿;主鼓者亦復諂順,怒而止我也。”
『城上の烏、尾は畢逋と翹る』とは、烏鴉が高処を占めて独りその利を享け、食を得て下と共にすることを肯ぜざるを謂い、人主の多く聚斂するを比喩す。『父は吏を為し、子は徒を為す』とは、蛮夷の将に叛逆せんとすることを言い、父はすでに軍吏を為り、その子はまた卒徒を為し、俱に往きて之を撃たんとす。『一徒死して、百乗の車』とは、先前に遣わして討伐せしめし人はすでに戦死した後、また百乗の兵車を発して再往せしめたりと言う。『車は班班と、河間に入る』とは、桓帝が将に駕崩せんとし、皇帝の車駕が一輌接一輌と河間に開進して霊帝を迎えしを言う。『河間の姹女は数銭に工し、銭を以て室を為し、金を以て堂と為す』とは、霊帝が即位して後、その母の永楽太后が金銭を聚斂して堂屋を営造することを好むを言う。『石の上に慊慊として黄梁を舂く』とは、永楽太后は金銭を積下せりと雖も、心里はなお慊慊として常に足らざるが若くを覚え、また人をして黄粱を舂きて之を食わしめんとするを言う。『梁の下に懸鼓あり、我は之を撃たんと欲するも丞卿は怒る』とは、永楽太后が霊帝を教唆して官を売りて銭を受けしめ、禄位を授くる所は皆その得べき人にあらず、天下の忠厚・篤実の士は怨望を心に懐き、あの懸鼓を撃ちて以て丞卿に見えんことを求めんと欲す。鼓を掌る者もまた一味に阿諛・順従して、怒りて我を拦止せり。」この一段は史家の歌謡に対し逐句に作す所の解説にして、桓帝・霊帝の両朝の聚斂・征伐・迎立と売官の几件の事を、一々に謡辞の上に坐実せしめたり。
又曰:“獻帝踐祚之初,京都童謠曰:‘千里草,何青青;十日卜,不得生。’案千里草,為董;十日卜,為卓;青青,暴強之貌;不得生者,亦旋破亡也。”《魏略》曰:“令狐愚字公冶,太原人。為兗州刺史,愚見吳未平而齊王芳年少,又聞楚王有智勇,初東郡有謠云:‘白馬出河,妖馬夜過,官權矧鳴呼,粟馬皆應。’明日見跡,大如斛,行數里,還入河中。又有謠言:‘白馬素羈西南馳,其誰乘者來虎騎。’愚既聞此謠,又聞大司馬楚王小字來虎,故遂與其舅王陵陰謀立楚王,愚病死後,發覺,刀割愚棺而戮尸焉。”
またはいう:「献帝が祚に践むの初め、京都に童謡ありて唱えていう、『千里の草、何ぞ青青たる。十日の卜、生を得ず』と。按ずるに千里草の三字は合わせて『董』と為り、十日卜の三字は合わせて『卓』と為る。青青は暴烈・強横の様子なり。生を得ずとは、彼もまたすぐに破亡せんとすることを謂う。」《魏略》はいう:「令狐の愚は字を公冶と謂い、太原の人。兗州刺史を為す。愚は呉が未だ平らがず、而も斉王の芳は年少なるを見、また楚王の智勇あるを聞く。初めに東郡に謡ありていう、『白馬は河中より出で、妖馬は夜に過ぎ、官の馬は嘶鳴・呼叫し、粟色の馬は皆来たりて応和す』と。明日に蹄印を見れば、大きさは斛の如くにして、数里を走出して、また河の中に還入せり。また謡言ありていう、『白馬に素色の籠頭を配して西南に奔馳し、之に乗るは誰ぞや、来虎の騎兵なり』と。愚はすでにこの謡を聞き、また大司馬・楚王の小名が来虎と謂うを聞き、故にすなわち彼の舅の王陵と暗中に密謀して楚王を擁立せんとす。令狐の愚は病死して後に事情は敗露し、官府は刀を用いて彼の棺木を劈きて尸を戮せり。」
《吳志》曰:“初興年中,吳中童謠曰:‘黃金車斑斕,昌門出天子。’昌門,吳西郭門也,夫差所作也,其後孫氏興焉。”《異苑》曰:“義熙中,童謠云:‘長作掃帚樞作把,掃除洛中迎琅琊。’及十一年,晉大軍至洛,修復園陵時,封琅邪王也。”《中興徵祥說》曰:“大和中,童謠曰:‘青青御路楊,白馬紫縷韁,汝非皇太子,那得甘露漿。’又曰:‘鳳凰生一雛,天下莫不喜。本言是馬駒,何悟成龍子。’是時海西公寵愛殿中常侍相龍等,因共為亂,生子男三人,海西以為己子,將欲立之,既而被廢,以馬韁殺三子。三子死之明日,南方獻甘露焉。”
《呉志》はいう:「初興の年中、呉中に童謡ありていう、『黄金の車は斑斕多彩、昌門より天子を出さん』と。昌門は呉国の都城の西面の外郭門にして、夫差の作る所なり。その後に孫氏は果してここより興起せり。」《異苑》はいう:「義熙の年中、童謡にいう、『長きは掃帚を做り、枢は把柄を做り、洛中を掃除して琅邪を迎えん』と。十一年に及び、晋の大軍は洛に至り、先帝の園陵を修復す。時に琅邪王を封じたり。」《中興征祥説》はいう:「太和の年中、童謡にいう、『青青たる御路の楊、白馬に紫縷の繮、汝は皇太子に非ず、那れぞ甘露漿を得ん』と。またいう、『鳳凰は一雛を生み、天下に喜ばざる莫し。本言は是れ馬駒なりと、何ぞ悟らん竜子と為るを』と。この時に海西公は殿中の常侍・相竜等を寵愛し、これらの人は便ち共に淫乱し、男子三人を生み、海西は以て己の子と為し、将に立てて継嗣と為さんと欲す。すなわち己は廃黜せられ、あの三箇の孩子は馬の繮繩を用いて勒殺せられたり。三子の死せし明日、南方は甘露を進献せり。」
《中興徵祥說》曰:“隆和中,謠曰:‘昇平不滿斗,隆和那得久。’哀皇聞而惡之,改為興寧。又謠曰:‘雖復改興寧,只自無聊生。’尋哀帝中藥,不識萬幾。”《異苑》曰:“石勒末年,謠曰:‘一杯水,食者吉。石勒死,人不知。不信我語視鹽池,三月忽變而生壘。’七月而勒死,池還如先。”又曰:“符堅城中謠曰:‘河水濁復清。符詔死新城。‘又謠曰:’肩不過項。’及其南侵,其相王猛諫曰:‘童謠有雲肩不過項,此不宜遠行之征也。’不從,果敗於壽春之項城。”
《中興征祥説》はいう:「隆和の年中、謡にいう、『升平は斗に満たず、隆和は那れぞ久しきを得ん』と。哀皇は聞きて之を悪み、改めて興寧と為す。また謡にいう、『復び興寧に改むと雖も、ただ自ら聊生なし』と。尋いで哀帝は薬を服して中し、万几を識る能わず。」《異苑》はいう:「石勒の末年、謡にいう、『一杯の水、食う者は吉。石勒は死す、人は知らず。我が語を信ぜざれば塩池を視よ、三月に忽然と変じて塁を生ぜん』と。七月にして勒は果して死し、池はまた先の如くに還れり。」またはいう:「苻堅の城中の謡にいう、『河水は濁りて復び清まる。苻の詔は新城に死せん』と。また謡にいう、『肩は項を過ぎず』と。彼の南侵に及び、その相の王猛は諫めていう、『童謡に肩は項を過ぎずと云うあり、これは遠行すべからざるの徴なり』と。從わず、果して寿春の項城に敗れたり。」
